62 論 文 書 評 國學院高等学校「外苑春秋」第2号 2012 年 実 践 世界と辞書 行事報告 紀行文 論 只木 慧 Kei TADAKI 評 昔々あるところに、一人の塾講師がいた。彼はある時、小学生に読書感想文を書かせること になった。しかし、どうしても読む本が決まらない子供達がいた。塾講師は彼らを本棚の数歩 前に立たせ、 「目をつぶってまっすぐ歩いて本を取れ。それで感想文を書きなさい」と言った。 子供達が手に取った本を席に持ち帰ろうとする中、一人の男の子がこれでは書けないと言い張 った。よく見もせずに、それでも書けと塾講師は指示したが、数日後、その男の子だけが全く 本を読み進められていないという。怒った塾講師がその子の本を確認すると、それは一冊の国 語辞典であった。なお、幸いこの塾講師は私ではない。 今も昔も、一家に一冊くらいは辞書がある。最近は電子辞書もあり、持ち運びも楽だ。しか し、そうまで身近にありながら、辞書を通して読んだことはない。上の話のように、辞書は基 本的には読めない、読めても読まない物なのだ。せいぜいな例外が、ビアスの「悪魔の事典」 などである。 だがそれを、しかも OED(The Oxford English Dictionary)を読んでしまった男がいる。彼 の記録が「そして、僕は OEDを読んだ」 (アモン・シェイ 三省堂 2010 )である。この本で は彼の挑戦の体験談と、そして OEDに載っている彼が気になった単語の紹介で構成されてい る。私は英語を母語としないが、それに関係なく、こういう概念のために作られた単語がある のかと、素直に驚く。たとえば図書室に勤めながら、Lectory(読書のための場所)という名詞 世界と辞書 63 を私は知らなかった。あるいは Silentiany( 「黙れ」と命令することを職とする役人)。こんな単 語が、実はあるのだ。彼の挑戦は絶対にマネをしたくないが、その行為へのあこがれが浮かぶ。 自分の世界がどんどん広がることだろう。 ではその逆に、広い世界の中から言葉を選び、辞書を作るとはどういう作業なのだろうか。 それを垣間見せる小説が、 「舟を編む」 (三浦しをん 光文社 2011 )である。 舞台は大手総合出版社、玄武書房。馬締光也をはじめとする人々が、一から辞書を作り出す 物語である。その歳月は 13 年。派手な仕事ではない。気の遠くなる作業、さらには辞書や言葉 にかける思いの真剣なぶつかり合いさえ、きっと世間の目には触れる事がない 13 年である。し かし、その先において辞書は完成する。そして変人・馬締を中心とする人々に訪れる、人生の 転機も面白い。辞書を引くのが楽しくなりそうな一冊である。 そしてこの本を読み終わったら、想像してみてほしい。もしも自分が辞書を作るとしたら、 一番初めにどんな言葉を選ぶのか。そしてその言葉の意味を、どのように説明するのか。もち ろんそんな機会はそうないが、そう思うと楽しい。もっといろいろな言葉を知りたくなり、そ のために、また辞書を取る。 さらにもしも、アモン・シェイのように言葉にどっぷりとつかりたくなったら、日本版 「OED を読んだ」を書ける人間に是非なっていただきたい。幸い「OED を読んだ」の出版は三 省堂である。きっと、新明解国語辞典あたりに挑戦してくれる人間を求めている。
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