只木 慧 - 國學院高等学校

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論
文
書
評
國學院高等学校「外苑春秋」第2号 2012 年
実 践
世界と辞書
行事報告
紀行文
論
只木 慧
Kei TADAKI
評
昔々あるところに、一人の塾講師がいた。彼はある時、小学生に読書感想文を書かせること
になった。しかし、どうしても読む本が決まらない子供達がいた。塾講師は彼らを本棚の数歩
前に立たせ、
「目をつぶってまっすぐ歩いて本を取れ。それで感想文を書きなさい」と言った。
子供達が手に取った本を席に持ち帰ろうとする中、一人の男の子がこれでは書けないと言い張
った。よく見もせずに、それでも書けと塾講師は指示したが、数日後、その男の子だけが全く
本を読み進められていないという。怒った塾講師がその子の本を確認すると、それは一冊の国
語辞典であった。なお、幸いこの塾講師は私ではない。
今も昔も、一家に一冊くらいは辞書がある。最近は電子辞書もあり、持ち運びも楽だ。しか
し、そうまで身近にありながら、辞書を通して読んだことはない。上の話のように、辞書は基
本的には読めない、読めても読まない物なのだ。せいぜいな例外が、ビアスの「悪魔の事典」
などである。
だがそれを、しかも OED(The Oxford English Dictionary)を読んでしまった男がいる。彼
の記録が「そして、僕は OEDを読んだ」
(アモン・シェイ 三省堂 2010 )である。この本で
は彼の挑戦の体験談と、そして OEDに載っている彼が気になった単語の紹介で構成されてい
る。私は英語を母語としないが、それに関係なく、こういう概念のために作られた単語がある
のかと、素直に驚く。たとえば図書室に勤めながら、Lectory(読書のための場所)という名詞
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を私は知らなかった。あるいは Silentiany(
「黙れ」と命令することを職とする役人)。こんな単
語が、実はあるのだ。彼の挑戦は絶対にマネをしたくないが、その行為へのあこがれが浮かぶ。
自分の世界がどんどん広がることだろう。
ではその逆に、広い世界の中から言葉を選び、辞書を作るとはどういう作業なのだろうか。
それを垣間見せる小説が、
「舟を編む」
(三浦しをん 光文社 2011 )である。
舞台は大手総合出版社、玄武書房。馬締光也をはじめとする人々が、一から辞書を作り出す
物語である。その歳月は 13 年。派手な仕事ではない。気の遠くなる作業、さらには辞書や言葉
にかける思いの真剣なぶつかり合いさえ、きっと世間の目には触れる事がない 13 年である。し
かし、その先において辞書は完成する。そして変人・馬締を中心とする人々に訪れる、人生の
転機も面白い。辞書を引くのが楽しくなりそうな一冊である。
そしてこの本を読み終わったら、想像してみてほしい。もしも自分が辞書を作るとしたら、
一番初めにどんな言葉を選ぶのか。そしてその言葉の意味を、どのように説明するのか。もち
ろんそんな機会はそうないが、そう思うと楽しい。もっといろいろな言葉を知りたくなり、そ
のために、また辞書を取る。
さらにもしも、アモン・シェイのように言葉にどっぷりとつかりたくなったら、日本版
「OED を読んだ」を書ける人間に是非なっていただきたい。幸い「OED を読んだ」の出版は三
省堂である。きっと、新明解国語辞典あたりに挑戦してくれる人間を求めている。