日本統治時代台湾におけるマラ リア防邉事業と衛生思想

学位 論文
日本 統治 時代 台湾 にお けるマ ラ リア 防過事業 と衛 生思想 の普及
につい て
兵庫教育大学大学 院
学校教育研究科
教育 内容・ 方法 開発専攻
認識形成系教育 コース
M13123J
社会系教育分野
曽根 申
答平
目次
1頁
序章
第一 章
台湾総督府 のマ ラ リア防過事業
第 一節
下水・ 地物整理
第 二節
台湾地方病及 び伝染病調 査委 員会
第 二節
医学的研 究
第 四節
マ ラ リア流行地
(1)
(2)
(3)
(マ
ラ リア防過 の黎 明期 )
(開 発原病地
)へ の防過事業
4頁
4頁
8頁
8頁
11頁
膨湖庁
11頁
「蕃地」
13頁
鐵道・ 水利等 工事現場
14頁
(一 )阿 里 山
14頁
(二 )九 曲堂
15頁
(三 )瑛 石 閣
17頁
内地人移住地
17頁
第 五節
マ ラ リア防過会議
19頁
第 六節
マ ラ リア撲滅計画
第 七節
マ ラ リア防遇規貝Jと マ ラ リア防遇心得
第 人節
マ ラ リア防邊事務講習
23頁
26頁
31頁
37頁
(4)
小結
第二章 地方 のマ ラリア防邊事業 一保健組合・衛生部落建設中心に第一節
39頁
特別会計伝染病予防臨時費資金 とマ ラリア防邊費 の負担区分・ 補助方法決定
第 二節
台南州 のマ ラ リア防過事業
39頁
42頁
第 二節
高雄州 のマ ラ リア防過事業
56頁
マ ラ リア流行 の沿革
56頁
マ ラ リア防邊血液検査服薬方法
57頁
マ ラ リア 防過 血 液検査施行成績
57頁
マ ラ リア死亡率
61頁
薬 品消費
64頁
博染病予防及 び マ ラ リア防過地物整理費補助
64頁
衛 生予 算
645ヨ
排水施設
68頁
69頁
70頁
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)
(8)
(9)
(10)
下水掃 除 の状況
高雄州 の衛 生組合
移民村 の 防邊事業
第 四節
(1)
(2)
75頁
豊 田村
75]ヨ
吉野村
77頁
83頁
第 五節
台湾大地震
第 六節
新竹州 のマ ラ リア防遇事業
92頁
92頁
98頁
(1) 地方病 マ ラ リア防邊 ノ概況
(2) マ ラ リア患者調 ベ
(3) 下水施設
(4)衛 生部落 建設
(5)保 健組合
107頁
台 中州 の マ ラ リア防過事業
109頁
第 七節
(1)保 健組合
(2) マ ラ リア薬品費 の負担
(3) マ ラ リア患者 の治療
(4) マ ラ リア防邊作業
(5)衛 生宣博
(6) 駆轟剤及消毒薬 ノ配付
(7)過 怠処分
108頁
109頁
109頁
111頁
112頁
118頁
120頁
121頁
123頁
小結
第二章
107頁
原住 民に対す る防遇事業
126頁
第一節
理 蕃事業概説
126頁
第 二節
蕃 地衛 生 医療概説
128頁
第 二節
原住 民 に対す る防遇 ―衛 生組合 の成 立
131頁
135頁
小結
第 四章
学校教育 にお ける衛生教育及 び マ ラ リア防過教育
136頁
第 一節
台湾 にお ける初等教育 の歴史
136頁
第 二節
公 学校 国語教科書 につい て
139頁
第 二節
公学校 国語教科書 に見 えるマ ラ リア防過記事・ 衛 生記事
139頁
(1)
(2)
(3)
「カオ フア ライ マス」
139頁
「ネ マス 」
139頁
「アサ ノシ ゴ ト」
140頁
(4)
「ヨル 」
140頁
(5)
(6)
「ペ ス ト病 」
141頁
「蠅 卜蚊 」
142頁
142頁
(8)
「種痘」
「博染病」
(9)
「蚊 とマ ラ リア」
144頁
(7)
第四節 公学校理科教科書について
。
第五節 公学校理科教科書に見えるマ ラリア防過記事 衛生記事
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
第 六節
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
143頁
145頁
145頁
「げん ごらう、や ご、ぼ うふ り、ひる」
「害轟」
145頁
「ねずみ」
147頁
「蚊」
「バ クテ リア」
148頁
「動物 と植物 と鉱物」
151頁
。
部落振興会 の 国語講習用教科 書 に見 えるマ ラ リア 防遇記事 衛 生 記 事
146頁
150頁
152頁
「医者 」
152頁
「デ ンセ ンビャ ウ」
152頁
「 トラホー ム」
153頁
「ソ ウヂ」
153頁
「蚊」
153頁
「便所」
153頁
小結
154頁
終章
155頁
註
157頁
序章
28年 (1895)4月 17日 の 日・清 の下関条約 の締結 に よ り日本 に台湾 。膨湖諸 島が
割譲 された。 これ によ り昭和 20年 (1945)8月 15日 に 日本 が第 二 次世界大戦 に敗れ るま
明治
での約 50年 間、台湾 は 日本 の統治 下に置 かれ た。当時 の台湾 は非常 に劣悪 で 「療病 の巣窟」
と称 され るほ ど不衛 生な場所 であ つた。そ の 中で もペ ス トや マ ラ リア 1と い つた病気 に悩 ま
され ていて 、台湾総督府 は この病気 の 防邊事業 を台湾統治 の根幹 の一つ と して捉 え、防過
「
事業 を開始 してい つた。そ の理 由には、ビゴー の代表的な絵 にも象 徴 され る 日本人 は猿 、
猿 マ ネ」 とい う劣等意識 が あ り、それ を払拭す るた めに衛 生事業 を台湾統治 の根幹 と位 置
づ けて実施 したのではないか と考 え られ る 2。
先行研究 としては飯島渉 の『 マ ラリア と帝国』 3と 本間恵介 の研究 4が ある。飯島や本間
は台湾 のマ ラ リア防過 の実態を明 らかに してい るが、彼 らの研究は上層部 のマ ラ リア防過
であ り、下部である衛生組合や原住民のマ ラリア防過 に関 しては手薄である。顧雅文の 「植
民地期台湾における開発 とマ ラ リアの流行―作 られた 「悪環境」一」 5は 開発原病論 6ゃ 疾
病地理学 の知識や GISを 駆使 して分析 を行 つて、マ ラリアは開発 によつて悪環境 が生み出
されたものであると結論付 けた画期的な研究である。 しか し彼女 の研究はマ ラ リアが開発
にようて生み出 されたもので あるとい う指摘 に留ま り、マ ラ リア流行地における防遇事業
についてあま り触れ られていない。劉士永 の「"GIS Mala五a and Highland Environmentin
Colonial Taiwaゴ 7は 1917年 か ら 1921年 の台湾 におけるマ ラリア罹患者数 のデー ター を
'」
整理 し、マ ラ リアか らの 「避難地」であつた 700メ ー トル以上の高地は、1920年 代か ら台
湾総督府 が推進 した森林開発政策 に伴 う人 の移動 によつて主要な流行地 とな ったことを指
摘 し、GISに よる空間分析 の必要性 を提言 した研究である。 また台湾におけるマ ラリア防
過に関する研究には疱燕秋 の研究 8が ある。疱は台湾総督府 のマ ラ リア研究は植民地時期 の
医学 の出発点 の一つであ り、戦後 の台湾医学発展 の原動力 の一つになった と指摘 している
が、防過 に関す る分析 は概説に留まつてい る。 さらに 「公 讐」の活動業務 を明 らかに し、
公 医が地方行政 に関与 していたことを明 らかに した栗原純 9や 鈴木哲造 10の 研究がある。マ
ラ リア防遇には封蚊封策 と封原轟封策 がある。封蚊封策 とは、水溜、溝渠 の埋立や排水溝
の浚渫 な どの地物整理な どを指 し、主に 1919年 のマ ラ リア防過規則 の改正によつて封蚊封
策 の重要性 が増 し、法的拘束力 を持 つ よ うにな つた。封原轟対策 とは、キニーネ の服薬を
中心 とした血液検査 のことであ り、マ ラ リア防過は、封原贔対策 を主軸 として進められて
きた。
本論 の研究 目的は以下の二つに集約 され る。①台湾 のマ ラ リア防邊や衛 生事業が どのよ
うな実態 であったのかを明 らかにす る こと、② どこの部署 が衛生を掌 つていたのか を明 ら
かにす ること、③ どのよ うな方法 で衛生思想 の普及 を図つていたのかを明 らかにす ること
である。本論 の研究方法 としては 日本植民地時期 に刊行 された文献 か らマ ラ リア防遇 の実
態を明 らかに し、な るべ く日本植民地を経験 した人物 に対 しての間き取 り調査で補完 した
い
。
本論 では、原典史料 に基 づい て 台湾 にお けるマ ラ リア防遇事業 の 内容 を具体 的 に明 らか
に し、衛 生組合や 模範部落 の建 設や大清潔法 に よる定期的 な コ ミュニ テ ィの清潔活動 の 実
施 を材料 として衛 生思想 の習慣化 =近 代化 につ いて検証 していきた い。 そのため第 一 章 で
は台湾総督府 の マ ラ リア防過事業、第 二 章 では地方
(州 庁
)の マ ラ リア防過事業 、第 二 章
では蕃 地医療衛 生 について 、第 四章では学校教育 にお ける衛 生教育及 び マ ラ リア防過教育
について検討す る。
[一 次史料]
『 マ ラリア防過誌』台湾総督府警務局衛生課 1932年
『 昭和十一年高雄州衛生要覧』 高雄州警務部衛生課 1937年
『 衛生概況』新竹州衛生課 1939年
『 昭和十四年版保健組合事業概況書』台中州警務部衛生課 1939年
ドク トル都築甚之助 『 伝染病予防消毒免疫新論』報文社 1903年
『 肉叉蚊第二回報告』台湾地方病及伝染病調査委員会 1905年
『公文類纂』第二十人編 1914年
五種 の公学校国語教科書 1901∼ 1944年
橋本 白水 『 台湾の事業界 と人物』南国出版協会 1928年
橋本 白水 『 台湾統治 卜其功労者』南国出版協会 1930年
国府種武 『 台湾に於ける国語教育の展開』第一教育社 1931年
『 台湾六法』台湾 日日新報社 1934年
『 昭和十年台湾震災誌』台湾総督府 19364
『 改訂台湾人士鑑』台湾新民報社 1937年
『 台湾教育沿革誌』台湾教育会 1939年
『 理蕃誌稿 I∼ Ⅳ』台湾総督府警務局 1918∼ 1938年
『 台湾警察時報』台湾警察協会 1917∼ 1944年
『 台湾警察協会雑誌』
『 衛生組合指導要領』高雄州警務部衛生課 1939年
『 官営移民事業報告書』 台湾総督府 1919年
『 吉野村概況』吉野村居住民會 1936年
四種 の公学校理科教授書 台湾総督府 1915、
1927、
1929、
1930年
『 国語塾読本』鳳山郡民風作興會 1939年
『 台湾五十一年末統計概要』進学書局 1969年
『 高砂族調査書 第六編 薬用草根木皮』台湾総督府警務局 1939年
『 国民読本参照国語科話方教材』墓湾線督府民政部學務課 1900年
[二 次史料]
『 理蕃の友 I∼ Ⅲ』台湾総督府警務局理蕃課 1932年
下村 八五郎 「墓南 州 下 二於 ケル 「マ ラ リア」防 過作業 ノ賞際 卜其成 績 」
『 蔓湾 讐學会雑誌 』
1935年
森 下薫 、下村 八五 郎 、杉 田慶 介
『蔓湾讐學会雑誌』
「新竹 州 下震 災地方 二 勃奎 セル 流 行性 マ ラ リア ニ 就 テ 」
1937年
『眠鰐 自叙回想録』眠鰐 自叙回想録刊行会 1964年
『マラリアの疫学 と予防』菊屋書房 1976年
羽鳥重郎
森下薫
『 図説人体寄生虫学 第 2版 』南山堂 1982年
藤井志津枝 『 理蕃 一 日本治理台湾的計策』 文英堂 1997年
吉田幸雄
『 台湾原住民の社会的教化事業』晃洋書房 2011年
松田吉郎
論 文]
『筑波大學大学院博士論文』1977年
『台湾師範大学台湾史研究所碩士論文』
薬茂 豊
「中国人 に対 す る 日本語 教育 の 史 的研 究」
周 慧茄
「 日治時期 蔓湾公 學校 理 科教 育 之研 究 」
2012年
王秋陽
「日本統治時代台湾 における日本語教育 ―グアン氏言語教授法 に関連 して一」
『 山 口大学大学院東 アジア研究科博士論文』2011年
[新 聞]
『 台湾 日日新報』
[映 像史料]
『 学術映画
マ ラ リア』塩野義商店学術映画部
森下薫・ 小 田俊郎監修 1939年
長崎大学熱帯医学研究所 にフ ィルムが保存 されてお り、閲覧す ることがで きる。筆者 は
既 にこの『 マ ラ リア』 とい う学術映画 を拝借・ 閲覧 し、当時 のマ ラ リアに関す る研究や防
過方法について映像化 されてい る。 また翌年には映画 の内容 について『 マ ラリア学術映画
梗概』 とい う本 に纏められ、塩野義製薬学術映画部 か ら出版 されてい る。因みに上記 の本
は国立国会図書館デ ジタル ライブラリーで閲覧す ることがで きる。
第一 章
第一節
明治
台湾総督府 のマ ラ リア事業
下水 。地物整理 (マ ラ リア防邊 の黎明期 )
30年 (1897)4月 、台湾総督府 がマ ラ リア防遇事業 の初期 の措置 として土石採掘跡
の 取締 に 関す る命令 を出 し、
『 マ ラ リア防邊誌』 (台 湾総督府 警務 局衛 生課 。昭和 七 年 二 月
二 十 日)4・ 5頁 に次 のよ うに記載 され てい る。
一 、 土石採掘跡取締 に関す る件
(明
治 三 〇年 四月民総第 六人人 号民政局長 (水 野遵 )
よ り各知事 へ )
菫 北城 内外 に於 いて は土碑 を製 し又 は家屋 建 築 に際 し地上 げ の為 め土石 を採 掘 しそ の
跡 を埋没せ ざる習慣 あ り執 も其採掘 した る後 に汚水瀦溜 し又 は塵芥汚物堆積 し殊 に人
家桐密 の箇所 に在 りて最 も不潔 を極 め衛 生上 有害 た るは別 に排 を侯 たず候右 は獨 り蔓
北市街 の みな らず他各地 に於 いて も亦 同様 の ことと被存候果 して然 らば将来左 の標 準
に依 り適 宜取締 の方法御設 可有之依命 此段及通達候也
一 、市街 地 に於 て土石 を採掘 した る ときは直 に其 の跡 を埋没す るか又 は汚水排 除 の装
置 を為す な ど汚水 を瀦溜せ しめ ざる様 取締方法 を設 くる こと但 し汚水排 除 の径 路 は所
轄警察官署 の認 可 を請 け しむ るこ と
一 、市街外 と雖 も市街 に連 接 し人家棚密 の場所 には前項 を参酌適用す るこ と
一 、市街 又 は市街 に連接 した る人 家桐密 の場所 に於 て養魚池又 は放生地泉水等 を設 け
ん とす る者 は所轄 警察官署 に届 出認 可 を請 け排水 口を設 け しむ こ と
(1)市 街地 で土石採 掘 を した ときはそ の跡 を埋没す る。若 し くは汚水
除 の装置 を作 る。汚水ツト
水経路 は警察 の認可 が必 要 である。 (2)市 街 の外 で も人 口密集
ツト
地で は同様。 (3)市 街や人 口密集地付近 で養魚地等水 が溜 まるもの を設 置す る場合 も警察
以 上 の史料 か ら
に届 出て認 可 を受 け、ツト
水 口を設 けるな どの対 策 が実施 され た ことが分 か る。
32年 (1899)4月 台湾下水規貝 6月 台湾 下水規則 施行細則 をそれ
ぞれ制定 したが 、
『 マ ラ リア防過誌 』 5頁 には次 のよ うに書 かれ て い る。
台湾総督府 は、明治
一 、蔓漏 下水規則制 定
J、
明治 二 十 二年 四月律令第六琥 を以て墓彎 下水規則制 定同年 五
月 一 日よ り施行せ り。
一 、蔓彎 下水規貝J施 行細則制 定
明治 二十 二年 六月 府令第 四十人 琥 を以て蔓湾 下水規
則施行細則 を制定せ り。
以 上 の 下水規則 は主 として市街 地 に施行せ らる ゝもの な るもマ ラ リア防遇上大 な る効
果 あ りた るもの と認む 。
この史料 か らは台湾 下水規則 。同施行細則 の 内容 は明 らかではな いが 、 主 として市街
地 に施行 され 防過 上大 きな効果 が あつた といわれて い る。
因みに台湾下水規貝Jの 要点を簡単 に触れておきたい。
①公共下水は地方官庁が監督・ 管理者である。
②私設下水 の場合 は
(イ
)下 水 の改築修繕
(口
)下 水 の新設
(ハ )下 水 の廃 止及 び下水の
清掃に関す ることが管理内容 としてあげ られ、 この三つ を行 う際は地方官庁 の指定及 び監
督 が必要である。 また下水溜 の設置に関す る条文も記載 されてい る。
同 じく同下水細則 の要点 としては
3つ ある。①下水構造材料や下水溝 の形に関す る規定、
②私設下水道設置 の際 の許可制 の明記、③私設下水道 の工事竣成 の際の衛 生検査 の実施 に
関する規定が書かれてい る。 H
明治 32年 (1899)9月 、台湾総督府 は鉄道港湾な どの職 工人夫 の衛生管理 に関す る命令
を出 し、
『 マ ラリア防過誌』5,6頁 には次 のよ うに書かれてい る。
一 、鐵道又 は築港等に於ける職 工人夫 の衛 生に開す る件
(明 治 三十 二年 九月内訓第四十
六琥)
鐵道敷設及築港其 の他諸般 工事 の着手 に付ては多数 の職 工人夫等一時に唐集 し平素衛生
上に無頓著 なる彼等を して不潔汚織な る家屋内に群居せ しめ衣服飲食其 の他衛生上必要
の注意を怠 る時は種 々の疾患を醸 し加之一朝博染病 の侵襲を蒙 るに至 らば忽 ち博染 の勢
を遅ふ し彼等個人 の困難は勿論鶯 に工事 の進行 を妨 ぐるの不幸を見るや も計 り知 る可 ら
ず如斯事例は内地に於 いて も往 々賞験す る所なれば多数 の職 工人夫を使役す る場合に於
いては請負人直螢 工事 に係 る時は該 工事は直螢す る官署に於ては別紙事項 も設備及注意
を鶯 し一面には職 二人夫 の健康を保護 し一 面 には工事 の進行 を妨 ぐる等 の憂 なき様措置
すべ し
以上の史料か らは工事現場 で働 く多数 の職 工人夫を不潔 な住居に集団で住まわせている
と、伝染病が蔓延 し工事 の進行にも支障をきたす。 日本内地 では度 々経験 していることな
ので、工事 を担当す る官署 が責任 を以て職 工人夫 の衛 生管理 を行 うよ うに命令 を出 した。
別紙 の職 工人夫 の衛生管理に関す る施策は四点あ り、職 工人夫 の宿泊所につい ては以下の
よ うに記 されてい る。
一 職 工人夫等 の宿泊所は左の各項 に準像 し構造す ること
一 、宿泊所 は卑瀑汚務 の土地に建設せ ざる こと
二、崖下 に宿泊所 を建設せ る場合 に於 いて は其 の崖 を距 ること十二尺以上 とし、崖下
には必ず排水溝を設 くること
二、毎一人要するに居室の面積は一坪以上 となす こと
四、居 室は瀑雨を防ぎ採光通氣 の粘 に注意 し窓は毎一人に封 し一尺平方以上 となす こ
と
五 、寝菫 を用ひ ざる寝所は必ず床 を設 け可成畳敷 とし其床下は二尺以上 となす こと
六 、炊事場及浴場 は人家桐密 の場所 に在 りては相営 の煙突 を設 くる こ と
七 、便所 は井戸及炊事場 を去 る こと三 間以 上場 所 に設 け糞便 の受器 は釉薬 を施 した る
瓶又 は不滲透性 の材料 を用 ゐ る こ と
人 、管 下 の排水及炊事場浴場等 の汚水排 除 の鶯相 営勾配 を有す る下水路 を設 け其 の 断
面 は園形 をなす こと
12
史料 による と宿 泊所 は じめ じめ した汚 い 土地 を避 ける、職 工人夫 一 人 に対 し 1坪 (約 3.3
ピ)以 上の居室面積 を与 える、 窓 は職 工人夫 一 人 に対 し 1尺
30c m)平 方以上 の もの
60c m)以 上 にす る、炊事
(約
を設置す る。寝台 を使用 しない場合 は畳敷 きで床 下は 2尺 (約
水路 を設置す る等細 かな決 ま
場や浴場 には煙 突 を設置、ひ さ しの 下 には水 の流れやす いツト
りを規定 した。 また便器 は釉薬 を施 した ものか 不浸透性 の材料 を使用す るよ うに規 定 され
た。釉薬 を焼 き物 の表面 に掛 けて焼 くと、水 が漏れ な い よ うにな り汚れ も付 きに くい とい
われ てい る。
普通患者及 び伝染病患者 に対す る設備 につい ては以下 の よ うに記 され て い る。
二
普通患者及博染病患者奎 生 に際 し療養 又 は隔離 消毒等差支 ざる鶯豫 め左 の各項 に
準抜 し設 備 を鶯す こと
一
讐師 は常 に雇置 くか又 は奎病者 あるに際 し診療治療 に差支 えぎる様豫 て公 讐若 は
開業讐師 と約束 を鶯 し置 くこ と
二
博染病患者収容 に供す る鶯隔離室 を設 くる こ と
三
隔離 室 は人 口百人 に付 き患者 一 人 を収容す るの割合 を以 て建 設 し患者 毎 一 人 に要
す る病室 の面積 は一 坪以 上 となす こと
四
隔離 室 には炊事場浴場便所 を附属 せ しめ他 の健康者 と匝別す る こと
五
偉染病奎 生 に際 し消毒法施行 に差支 ざる様豫 て消毒 薬 を備置 くこ と
13
史料 による と、患者発 生時 に診療 して くれ る医師 を確保 してお く、伝染病 患者 を収容す
る隔離病室 (患 者 一 人 に対 し一 坪 以 上 の 面積 )を 設 置す る、隔離病室 には炊 事場浴場便所
が備 え付 け られ他 の健康者 と区別す る、伝染病発 生 に備 えて消毒薬 を準備 してお くこ とな
どが定 め られ た。伝染病 患者 が発 生 した時の措置 につい て次 の よ うに記 して い る。
三
博染病 患者嚢生 した る ときは速 に所轄警察官署 に届 出同時 に患者 の 隔離 消毒法施
行等 臨機相営 の虎 置 を鶯 し置 き警察官吏臨検 の上 線 て其 の指揮 に従 ふ こ と
14
伝 染病 患者 が発 生 した時 はす ぐに警察 に届 出 を行 い 、患者 の隔離消毒 な どを警察 主導 で
行 う事 が規 定 され てい る。 また清潔 法 と身体 の摂養 (健 康維持 )に つい て は以 下 の よ うに
記 され て い る。
四
平素左 の各項 に注意 し清潔法 の施行及身證 の掃養 を力 しめるこ と
一 、衣服 は時 々洗濯 し殊 に就寝 の際 は清潔 なるもの を着用す
二 、衣服 臥具其 の他畳等 は時 々 日光 に曝 し乾燥 せ しむ る こと
二 、飲食物 は腐敗 に傾 きた るもの或 は腐敗 し易 きものを用ひ ざる こ と
四、飲料水 は豫 め其 の水質 を検査 し飲料 に適す るもの を用 ゆる こと但 し善 良 の飲 料水
得難 き場所 に於 いては必ず煮 沸 して之 を用 ゐること
五 、宿泊所 の 内外 は不潔 な らぎる様常 に掃 除を怠 らぎる こと
六 、便所 は時 々糞便 を汲取 り毎 日一 同石灰類 を撒布す る こと
七 、下水溝 は常 に疎通 に注意 し塵芥汚物 の停滞 せ ざる様掃除す る こ と
人 、人家棚密 の場所 に在 りて炊事場 にお ける疏菜 肉類 の暦片及 日々掃 除 した る塵 芥 は
覆蓋 を有す る塵芥箱 に入れ 置 き塵捨場 に運搬 し又 は一 定 の場所 に於 いて焼却す る こ と
但 し塵 芥溜 は塵芥汚物 を取除 きた る跡 には其都度 石灰類 を撒布す る こ と
15
史料 に よる と清潔 な衣服 を着用 し寝具 は 日光消毒す る、腐 りやす い食材 を使 用 しない 、
煮沸消毒 した水 を飲む、下水溝 は流れ を良 くす るた め掃 除 をす る、生 ゴ ミは蓋 つ き の ゴ ミ
箱 に捨て焼却 処分す る、 ゴ ミや汚物 をためてお く所 には石灰 を撒 くな どのルール を設 けた。
石灰 を用 い る の は比較的安価 で あ り、微 生物 の分解 を遅 く し殺菌効果 が あるた めに撒布 し
た と考 え られ る。 ゴ ミ箱 を設置 した りす る こ とで規則 に基 づい て ゴ ミや廃棄物 を処理す る
こ とが行 われ 、 ゴ ミは ゴ ミ箱 に捨 て る とい うこ とを習慣化 させ て衛 生観 念 の 近代化 を図 つ
てい る。
以 上 の 内容 か ら職 工人夫 の健康 を保護す るた め、又 工事 の進 行 を妨 げ る心配 がない よ う
にす るため宿 泊所 の設備や職 工 人夫 の生 活 に細 心の注意 を払 い 、 尚且患者発 生 に備 えて予
防対策 してい るこ とが明 白にな つた。
33年 (1900)12月 、台湾総督府 は新設停 車場附近 の衛 生工事 に関す る命令 を出 し、
『 マ ラリア防遇誌』8頁 に次 のよ うに記 されてい る。
明治
一 、新設停車場附近衛生工事に開す る件
(明 治 三十 二年十二月民衛第人九七琥各縣知
事へ通達)
鐵道布設 工事 の進捗す るに従ひ新設停車場附近は漸次市街を形成 し或 は新設停車場 と
在来 の市街 と自然接績す るに至る場所 も可有之に付右等 の場所 に於ては営初衛生及交
通上相営 の設備 を篤すにあ らざれば後 日諸般 の障害 を醸 生すべ きを以て縣下主要なる
場所 に於ける新設停車場附近に新 に市街 を形成 し近傍市街に接績す る如き場所に於て
は豫 め土地 の高低を測 り低地は適営 の地上 げを鶯 し雨水汚水 をして一 定 の地に排 出 し
得べ き勾配 を保た しめ道路 の幅員及下水系統を定 め之を標示 して市街 を形成せ しむる
様施設可相成依命 此段及通達候也
以 上 の史料 よ り新設 され た鉄道 の駅周 辺 の 土地 は、近 隣 の市街 とのバ ラ ンス を考慮 し予
め土地 の高低 を測 り低地 は地上 げ を した こ と、雨水汚 水 を排 出で きるよ うに道 幅や 下水 系
統 を定 め市街 を形成 してい つた こ とな どが明 らか とな つた。
第 二節
台湾地方病及 び博染病調 査委 員会
『 マ ラ リア
明治 32年 (1899)台 湾総督府 は台湾地方病及び伝染病調査委員会 を設置 し、
防遇誌』5頁 に次のよ うに記 されてい る。
一、蔓漏 地方病及博染病調査委員會設置
本島に於ける各種疾病殊 に地方病及博染病並阿片療者治療法等 の調査研究は疾 く其 の
必要 と認むる所 な りしが適 々蔓北、蔓南、蔓中の各讐院長讐学校長 よ り菫湾地方病調
査會設置 に開 し建議す る庭 あ り然れ ども刻下特に之に要する費用 の豫算なきを以て不
得 己先 づ 同年十二月調査會 の規程 を定め漸次其 の調査 に著手す るの方針 を執 り該會 に
開 し費用を要す る場合に於 いては本年度衛生費 より差繰支耕す ること ゝし委員幹事を
命 じた り
以上の史料 より台北 。台南・ 台中の病院長や医学校長 か ら早 く台湾地方病及 び伝染病調
査委員会 を設置す るべ きとい う意見が出され、12月 に調査会 の規程 を定め漸次調査に着手。
費用は衛 生費か ら支弁す る こととし、台湾地方病及び偉染病調査委員会 の委員 と幹事 を任
命 したことが分かる。
第二節
医学的研究
マ ラリア防遇 の医学的研究 は明治 34年 (1901)よ り本格的 に開始 された。明治 34年 の医
学的研究 については、
『 マ ラリア防過誌』8頁 に次 のよ うに明記 されてい る。
一 、羽鳥重郎 氏は本年線督府製薬所 (五 月官制改正によ り専賣局に移 る)附 属衛 生試
験室に於いて 「アノフエ レス」及其 の飼養研究をな し成績を奎表せ り
一 、マ ラ リア調査 「アノフエ レス」 の研究肉叉蚊第一 回報告書菫湾 地方病及博染病調
布せ
査委員會臨時委員木下嘉七郎提出に付 九月之を印刷 に付 し島内及内地各方面へ酉己
り。同氏は三 日熱及び熱帯熱 の爾熱種 「マ ラリア」の流行を認 めた り。
明治 34年 羽鳥重郎氏が総督府製薬所付属衛生試験室でマ ラリアを媒介す る蚊
(ア
ノフェ
レス)の 最初 の研究を行 つた。羽鳥重郎氏は明治 32年 に来台 し、明治 34年 当時は台湾総
督府製薬所嘱託、衛生試験室主務であつた。 その後明治 35年 台北庁検疫委員、同 42年 台
湾総督府防疫医官、翌年総督府 の命 を受 け、台北庁北投 において コッホ流 の対人的防過法
の実験 を行 つた。 内容は約 一六〇〇名 の検血並びに牌腫検診 を行 い、判明 したマ ラ リア患
者 にキニーネ とい う薬 の投与を組織的 に行 うとい うものであつた。大正
長 を歴任する。 日本熱帯医学 の先駆者的存在 であつた。 16
9年 台北州衛 生課
台湾地方病及び伝染病調査委員会臨時委員 の本下嘉 七 郎 が 、明治 34年 にア ノフ ェ レス研
究第 一 回報告書 を提 出 してい る。木 下は マ ラ リア防過 の先駆 け とな るキ ニー ネ予 防内服法
を実施 した人物で ある。 17
明治 35年 (1902)の 医学的研 究 につい て次 の よ うに記 され てい る。
一 、東京帝 國大学助教授今村保 氏 は本年七月本 島に於 ける 「マ ラ リア」研 究 の篤 め末
蔓せ られ た るに付地方病 調 査委 員 を嘱託 せ り同氏 は新竹州南庄 に於 いて 四 日熱 の流行
を證 明せ り。
一 、明治 三 十 五年鳳 山地方 に於 ける 「ア ノフエ レス」研 究調査報告 書 を地方病 調 査 臨
時委員木 下嘉 七郎 よ り提 出せ り。 18
東京 帝国大学助教授 の今村保 が 来台 し、地方病 調 査委 員 を嘱託す る。 四 日熱型 マ ラ リア
を発 見 してい る。今村保 は国家 医学会 に在 籍 し、
『 足尾銅 山の衛生 一般』とい う論文 を著 し、
足尾鉱 山病 院 に依 つて記録 され た死 因統計表 を利用 し結核 とは別 の肺疾 患 に よる死 亡率が
高 い こ とを明 らかに した。 また 1902年 に北豊吉 と共 に『 徹菌学講義』 を著す。 19
明治
36年 (1903)の 医学的研 究 につい てはつ ぎの よ うに記 され てい る。
一 、地方病及博染病調査委員會 臨時委員木 下嘉 七郎 よ り肉叉 蚊研 究第 二 回報告提 出 に
付本年 六 月之 を印刷 に付 し内地及 び 島内各 関係方面へ 配布 せ り。
一 、内務省痘苗製造所技師官 島幹之助氏末菫 に付 本年 七 月地方病 讐務 を嘱託 し、基隆、
深 坑、菫北、新竹及墓 中地方 の 「マ ラ リア」に開す る調査 を鶯 さじめた り。
一 、地方病調 査委 員會 に於 い て 「マ ラ リア」蚊族研 究 の調査 を鶯せ り。 20
内務省痘 苗製造所技師 の官 島幹 之 助 氏 が 来台、地方病調査 讐務 を嘱託 され マ ラ リア の調
査研 究 を行 つた。 宮島幹之助 氏 は 日本 で最 も早 くマ ラ リア原 虫の発 育 とそ の シナ ハマ ダラ
カに よる媒介 を実験証 明 した。明治
36年 痘苗製造所
(後
の伝染病研 究所 )技 師、大 正
3年
北里研 究所創 設 とともに寄生 虫部 長 とな っ た。我 が 国 にお け る最 も古 い 寄 生 虫学 の研 究
者 。指導者 の一 人 で、広 く医学・ 衛 生界 の発展 に貢献 した人物 である。 21
明治
37年 (1904)の 医学的研 究 につい ては以下 の よ うに記 され てい る。
一 、 マ ラ リア豫防法な る印昴J物 に開 し注意方
都 築甚 之助編 著鳳 山に於 け るマ ラ リア豫 防策 なる印刷物曇 に鳳 山麻 に於 て刊行頒布 せ
しが一 般 人民 を して本書記載事項 を以て官麻 の方針 と誤 解 せ しむ る の虞 なきにお あ ら
ざるを以 て人月 十 七 日左 記 の通鳳 山麻長 へ 通達せ られ次 て同 二 十 二 日其 の 旨爾餘 の各
麻長 へ 通牒せ り。 (本 人六人 琥 )民 警第 一五 〇六琥 (人 月 )
本年 五 月貴麻 に於 いて都築甚 之助著 「鳳 山 に於 けるマ ラ リア豫 防策 」 な るもの 出版頒
布 相成候虎右 は畢党個人 の意 見 に過 ぎ ざるが故 に之 を官麻 に於 て出版頒布す る ときは
往 々 之 を官麻 の方針 と誤 解 す るもの 之 あるべ く加 之 書 中記載 の事項 に して営 府 の豫 防
方針 に違 ふ等 の こ とあ りては衛生行政 の統 一 を攪す の虞 なきを保せず候條注意 可相成
依命此段及 通達候也
一 、墓東麻下 に於 ける 「マ ラ リア」調査 (十 一 月 )
蔓東麻 下 に於 ける 「マ ラ リア」病調査 に開す る報告書 、蔓東 讐院馨員蒲 池佐 惣太 よ り
提 出あ り高覧 に供せ り (民 警第 二 〇 二九琥 )22
5月 鳳 山庁 で 出版 され た都築甚 之助著『 鳳 山に於 けるマ ラ リア予防策』に対 し、総督府 は
個人 の意見 に過 ぎない 内容 と判 断 した。都 築甚 之助 氏 のマ ラ リア予 防策 の 内容 はまだ調 べ
られ て い な いが 、総督府 の予防方針 (対 原 虫対策 )と 違 つて お り衛 生行 政 の統 一 を乱す恐
れ が あるので注意す るよ うに と各庁長 へ 指示文書 を送 っていた こ とが分 か る。都築甚 之助
は、明治 ∼ 昭和初期 にか けて の 陸軍軍医 として活躍 し、伝染病予 防 の研 究 を行 い 、脚気 が
23著 書 には『 麻
栄養欠 乏で起 こ り、米糠 で予 防 。治療 が 出来 る ことを発 見 した人物 である。
刺利 亜新説』や 「麻刺利 亜 卜蚊 トノ関係 」
『 中外 医事新報 (519)』 等 が ある。 また都築 は、
北海道 の 開拓地 にお けるマ ラ リア対策 のため、北海道 のア ノフ ェ レス蚊 の研 究 を進 める と
同時 に台湾 で も調査 を進 め 、 マ ラ リア対策 の根幹 は対蚊対策 に求 め られ るべ きだ と持論 を
説 いた。 24
台東庁 にお けるマ ラ リア調査 に関す る報告書 を台東 讐院讐員 の蒲池佐惣太 が 11月 に提 出
した。蒲池佐惣太 は後 に台湾総督府 医院 医員 を歴任 し、狸紅熱 の研 究者 として も有名 で あ
る。25
明治 38年 (1905)の 医学的研 究 は次 の よ うに記 され てい る。
一 、肉叉 蚊調 査報告書 印行
本 島地方病 た る 「マ ラ リア」感染 の原 因 を鶯す 肉叉蚊 に開 し曇 に営府 地方病及俸染病
調 査委 員會 嘱託官 島幹之助及 臨時委員木下嘉 七 郎 を して調査研 究 を鶯 さ しめた りしが
同人等 よ り之 に開す る報告書 の提 出 あ りた るに付本年 四月之 を印刷 に付 し各 官麻 、書
学校 、讐院、讐師並 に内地 に於 ける関係諸官衛 へ 配布 せ り。 26
台湾地方病及 び 伝染病調 査委員会臨時委員 の木 下嘉 七 郎 がア ノフ ェ レス研 究 の 中心 とな
り何度 も報告書 を提 出 してい る こ とが分か る。
明治 38年 に印刷発行 され た報告書 肉叉蚊 (ア ノフ ェ レス)研 究第 二 回報告書 で前 編 を台
湾地方病及 び伝染病 調 査委員会嘱託 の官 島幹 之 助 氏 、後編 を臨時委員 の木 下嘉 七 郎氏 が担
当 した 。研 究 の 結 果 、 台湾 産 のア ノフ ェ レス の種 類 は 七 種類 (A.sinensis,Wiedemann
A.Listoni,Liston
A.annulipes,Walker
A.maculatus,Theobald
A.fuliginosus,Giles
A.Rossi,Theobald
A.Kochi,Donitz) で あ る 。 A,sinensis,Wiedemann
A.Listoni,Liston A.annulipes,Walkerの 三 種 は 台 湾 全 島 に 蔓 延 し 、 特 に 前 二 者
10
は ,sinensis,Wiedemann A.Listoni,Liston)は そ の数 が多 い。A.fuliginosus,Gilesは 数
は 少 な い が 南 北 に 亘 り 分 布 し 、 A.Rossi,Theobaldは 嘉 義 以 南 で 産 す る 、
A.maculatus,Theobald A.Kochi,Donitz)の 二 種 は 稀 に 検 出 す る の み で あ る 。
A.sinensis,Wiedemannは 一年 を通 して発 生 し、A.Listoni,Listonは 4月 か ら ll月
(特 に 6
月 ∼8月 に多 い)に 発 生す る。等 の 内容 を報告 してい る。
第 四節
マ ラ リア流行地
(1)彫
(開 発原病地
)へ の防過事業
湖庁
明治 38年 (1905)か ら同 41年 (1908)頃 にかけて毎年のように膨湖庁でマラリアが大
流行 している。明治 38年 の膨湖庁への対応 について『 マラリア防遇誌』10∼ 11頁 に次の
よ うに記載 されている。
一 、膨湖 島に於 ける 「マ ラ リア」流行
本年人月 中旬 よ り膨湖麻 下各 地 に激烈 な る熱性病流行 し死亡者漸 く増加す るの傾 向あ
りき元来本 島人 は未 だ内地 讐師 に信頼せ ざるが故 に之が診療 を受 くるを厭 ひ 甚 しき患
者 に石灰 水 を服せ しむ る との流言 を放 つ もの あるを以て同麻 に於 て も是等 の謬 見 を匡
す と共 に患者 に説諭 して讐師 の診療 を請 は しめ施療救治 した りしが病勢益 々犯薇 し九
月下旬 に至 る患者 一 千人百 五 十人人 の多 きに至 り死者 亦績 出す るを以 て博染病 に準 じ
べ
相 営豫 防法 を施行 し之が費用 は博染病豫 防費 よ り支 出 したき 旨稟 申あ り事態軽視す
か らざるを以て右稟 申を認 可す る と共 に地方病及博染病調査委員會 よ り委 員 大鳥次郎
を派遣 して之 が調 査 を鶯 さ しめた りしに検診 の結果全 く悪性 「マ ラ リア」症 た るこ と
を確認 した る旨報告 あ り依 て同麻 に封 し之 が豫 防 に努 め蚊族 の撲滅 を計 るべ き 旨厳 達
し既 に罹病せ るもの は速 か に讐師 の治療 を受 け しめ殊 に夜 間は必 らず蚊帳 を使用せ し
む る様 一 般 に訓諭 せ しめた りしが措置幸 に宜 しきを得 て十 一 月 中旬 よ り病勢漸 次衰退
に趣 き十 二月下旬 に至 り全 く終燎 せ り初奎 以来 の患者及死 亡数 左 の如 し
患者
人、九六 二人
死亡
九二六 人
患者 百 中死亡
一 〇 。人人
8月 中旬以降膨湖庁各 地で熱病 がパ ンデ ミックを起 こ し死亡者 が続 出 した。総督府 は伝染
病 に準 じ予防法 を施行 し、 そ の費用 は伝染病予 防費 か ら支 出す る こ とと した。 地方病及び
伝染病調 査委 員会 よ り委員 の 大鳥次郎 27を 派遣 し悪 性 マ ラ リアを確認。蚊族 の撲滅 を計 る
よ うに厳 達 し、患者 には医師 の治療 を受 け させ るよ うに、夜 は必ず蚊帳 を使用す る こ とを
指導 した。 そ してア ノフ ェ レス発 生 に適 した場所 が 多 い に もかかわ らず住 民 は夜 間蚊帳 を
使 用 せ ず 、病気 に罹 つて も治療 を受 けるものが少 なか つた こ とに対 して民政長 官 の後藤新
平 が膨湖庁長 に注意 を与 え、
『 マ ラ リア防過誌』 11∼ 12頁 に以下 の よ うに記 され てい る。
一 、 マ ラ リア防邊 に 開 し膨湖麻長 に封 し通達 (民 警第 一 、 九七八琥十 一 月 四 国民政長
官)
貴麻 下湖西外十 人郷 に於 て熱性 患者嚢生蔓延 の勢猛 烈 な る趣報告之候 に付 賞 地調 査 の
鶯 め大鳥 讐長 を派遣せ しに其 の復命 に依れ ば該病 は全 く悪J性 麻刺里亜 に して 元来流行
地 は海岸平坦 の 地 に して到 る虎瀦水 沼地 の如 き 「ア ノフ ェ レス」蚊族嚢 生 に適営 な る
場所少 なか らざるに住 民は夜 間睡眠時 に蚊帳 を使用せず 又罹病す るも自ら進 んで 書療
を受 くるもの少 なき等本病 の嚢 生 蔓延 に開す る要約 は殆 ん ど具備 せ ぎるなき賞況 に有
之趣 に就 ては相営豫 防法施行相成居 り候義 とは存 じ候 へ ども尚ほ左 の各項 を賞施 し今
回 の如 き惨状 を持末再演せ ざる様措置可相成依命 此段及通達候也
一 、蚊族 の嚢生す べ き池沼瀦水地 は賞 地 の状況 に依 り之 を埋没 しるか又 は相 営排 水 の
方法 を設 くる こ と
二 、邸 内は成 るべ く」卜
水 を能 くし土地 を乾燥 な らしめ雑 草 は之 を刈 除す るこ と
二 、夜 間睡眠時 には蚊帳 を用ふ る習 慣 を養成す ること
四、罹病者 は速 かに讐療 を受 くる こ と
五 、蚊族 と該病 との関係又其 の恐 るべ き こ と
其 の他前各項 の豫防 上必 要 な るこ と等 を住 民に理解 せ しむ る方法 を講ず る こ と
以上
明治 38年 に民政長官 の後藤新平が、悪性マ ラ リア流行 とい う惨事 の再発防止 を命 じ徹底
すべ き事項 として次 の五点を挙げてい る。①不必要な沼地 。水溜 りの埋立て ②排水 に注
意 し雑草は刈 り取る。③蚊帳使用 の習慣化
④罹病 した ら直に医者 に行 くこと ⑤蚊 とマ
ラリアの関係 を理解 させ る (衛 生思想の普及)。 理解 させる方法 としては、衛生講話会 の開
催や幻燈を用いた りしなが ら衛生思想 の普及を行 つた。
明治 41年 (1908)の 膨湖庁への対応 については次 のよ うに記 されてい る。
一、悪性 マ ラリア流行
膨湖麻附属列島に於 ては数年末年 々時を期 して悪性 マ ラリアの流行 あ り本年 も亦大嶼郷 に
昌板 を極 め益 々蔓延 の兆あ
於て人月以来嚢生九月中旬に至 り患者百六十餘名 を出 し其 の勢を
り公 讐 を派 し警察官吏 と共に保 甲を督励 し豫防撲滅 に努 めた りしが十月上旬中に於 ける四
名 の嚢生患者を最終 として終燎を告げた り本年 中の患者死亡左の如 し
患者
二人 二人
死亡
人 四人
治療 中患者
九二人
人 口千 に封す る罹患者
一一九人 28
8月 以降発生 した悪 性 マ ラ リア の流行 に対 し、総督府 は公 医を派遣 し警察官吏 と共 に保 甲
を督励 し撲滅 に努 めた。 明治
38年 も同 41年 も勢 い盛 んなマ ラ リア が総督府 主導 の下迅速
12
に適 切 な措置 が行 われ短期 間 の うち に終息 してい る こ とが分 か る。
(2)
「蕃 地」
40年 (1907)か ら同 42年 (1909)頃 にかけて 「蕃地」開拓事業 が盛 んにな り、 こ
の事業 に従事す る者 が多 くな つた結果 マ ラ リア患者 が 著 しく増加 した。明治 40年 の「蕃 地 」
明治
開拓事業に関わるマ ラリアの流行 と対策については『 マ ラ リア防過誌』 13頁 に以下のよ う
に記載 されてい る。
一、マ ラ リア流行及封策
本島風土病 中最 も注意を要すべ きは 「マ ラ リア」に して各地方共に頻年彩多 の患者 を
出 し豫防亦不良な りしが逐年衛生上の設備漸次歩武 を進むると共に患者 の奎生著 しく
減少す るに至れ り然 るに近時蕃地啓嚢 に開す る幾多 の事業勃奎するに至 り之に従事す
る者頗 る多 く徒て本病患者亦三十九年 中より漸次増加 し末 り四十年 中官 立臀院並公 磐
の治療 に属す るもの賞 に四萬九千百三十九人 の多きを見 るに至 り墓東麻下其 の最 も多
嚢地多 く而 して一般豫防 に開 しては十分之に注意す ると同時に最近 の 「マ ラ リア」学
説 を應用 し豫防の方法を賞施せ しに其 の効果 の是 に著 しきものあ り
目下之が豫防に壷痒中な り
官立讐院及公 讐の取扱つた患者左 の如 し
年別
内地 人
本 島人
合計
M39
M40
二七 、 二三一
七 、一二〇
三四、 二五一
三 〇、 一九六
四九、一三九
-人
、 九七 〇
「蕃 地」啓発事業が盛 んになつた結果 マ ラ リア患者 が著 しく増 加 した。明治 40年 に官立
医院 。公 医 が治療 した人数 は 49,139人 に のば り台東庁が最 も多 か った。「最新 のマ ラ リア
30に よる対原 虫
学説」 に就 い ての詳細 は この史料 か らは明 らかでないが コ ッホ 29や ノホ ト
型 の マ ラ リア理論 だ と考 え られ る。 そ の理 論 を応用 し予 防法 を実施 した 結果著 しい効果 を
上 げた とい う。
明治
42年 の 「蕃 地」開拓事業 に関わ るマ ラ リアの予防につい ては次 の よ うに記 されてい
る。
一 、 マ ラ リア豫 防
衛 生諸般 の設備 漸次進 む に従 ひ極要市街 に在 りては全 く 「マ ラ リ
ア 」 の嚢 生 を見 ざるに至れ りと雖 も近年蕃地開拓 の業盛 な るに伴 ひ之 に従 事す る者頗
る多 く篤 めに患者 著 し く増加 し年 々一 高有餘人 の死者 を出す に至 り状況惨惰 た るもの
あ り然 るに本病豫 防 に開 し先年 末調 査研 究 中の事項 も本年 に至 り略 々完 了せ しを以 て
汎 く全 島に亙 り之 を防過 せむ とし今や 之が企蓋 中 に属せ り而 して最近本病 死者数 を奉
ぐれ ば左 の如 し
13
年別
死者
三 十 九年
一 〇 、五 人 三
四十年
一 一 、 七一五
四十 一 年
一一 、 七 二三 31
衛 生 諸般 の設備 が進 歩 し主 要都 市では マ ラ リア の発 生がな くな つた。 しか し 「蕃 地」 開
拓事業 に従事す る者 が多 くな った結果 マ ラ リア患者 が著 しく増加 した。惨愴 た る状況だが、
調査研 究 中の事項 も終了 し更な るマ ラ リア防遇 を企画 中で ある とい う内容 である。「蕃 地」
マ ラ リア予 防 に 関す る調査研 究事項 の詳細 は不 明で あるが、総督府 が 「蕃 地」開拓事業 に
関わ るマ ラ リア の予防に力 を注 いでいた こ とが 分 か る。
(3)鐵
道・ 水利等 工事現場
(一 )阿 里 山
明治 43年 (1910)3月 高木友枝衛 生課長 が阿里 山官営作業 に関す るマ ラ リア防過方法 に
つい て台湾総 督府 の佐久 間佐馬太 に上 申書 を提 出 し、
『 マ ラ リア防過誌』22∼ 23頁 に以下 の
よ うに記載 されて い る。
一 、阿里 山官螢作業 に開 し 「マ ラ リア」防過方法施行方
明治 四十二年 二 月八 日高木衛生課長 よ り左 の上 申書提 出せ り
上 申書
仄 に聞 き及び候虎 に よれ ば我 が蔓漏 多年 の 問題 た りし阿里 山官螢 の件 は衆議院通過 し
今や貴族院 の議 に上 りつ ゝあ り是又不 日通過せ らるべ き形勢 に有 之趣右 豫算 に して協
賛有 之候 上 は直 ちに事業開始相成 る可 き事 と被存候然 るに森林所在 地 は海 抜 六 千尺以
上 に位 す るが故 に未 だ 「マ ラ リア」病毒 の侵襲 を被 らず粁末 と雖 或 は之が免疫地 た る
を望み得 ざるにあ らず と雖嘉義 よ り阿里 山に至 る海抜 三 千尺以下 の 土地 あ りては恐 ら
く本病 の流行 を末す べ く従 て鐵道 建設等 に従 事す る職員 工夫等 の如 きは必ず本病 の悩
ます所 とな るは明瞭 に有之延 て事業経 螢 上支障 を末 し候様 の こ と有之候 ては遺 憾不砂
次第 に候 依 て之が豫 防治癒 に従 事 せ しめ兼 ねて一般 讐事衛 生 の事 に営 らしむ る鶯 に相
営員数 の讐師 を組織 中 に加 へ 且病 室 等 の如 きは診療 に必要 な る諸設備 も亦豫算相成候
様致度滋 に意 見開陳仕候 也
明治 四十 三年 二 月八 日
内務 局衛 生課長技師
高木友枝
蔓湾総督伯爵佐久間佐馬太
衛 生課長 の高木友枝 が 台湾総督佐久間佐馬太 32に 阿 里 山周辺 は海抜
でマ ラ リア の心配 は少 な いが 、嘉義 か ら阿里 山までの海 抜
1,800m以 上 の高地
900m以 下 の土地では鐵道建設
等 の従事者 にマ ラ リア流行 の危 険性 が あ り、鉄道建設 事業 に支障 を来 して もい けな い ので
14
予防・ 治療 のため多数 の医師や病室等 の衛生設備 の豫算をお願 い した とい う内容 である。
また ここか ら台湾総督府は議会 の承認・ 協賛を経て阿里山官営事業を行 つてい ることが分
か り、台湾総督は内閣の一員 であるとい うことが言 える。
高木友枝氏は明治 35年 (1902)台 湾総督府医院長兼台湾総督府医学校長 とな り、ついで
台北病院長、民生部臨時防疫課長 としてペ ス ト防疫、マ ラリア防過に尽力 した人物 である。
大正 2年 (1913)著 書『 台湾 の衛生状態』により医学博士の学位 を受けた。民生部臨時防
疫課長 のあと内務局衛生課長技師 となった もの と考 えられ、衛生総督 といった異名 をもつ。
33
(二 )九 曲堂
大正
3年 (1914)7月
台南庁 の九 曲堂水源地 でマ ラ リア防遇 を実施す る ことについて総
督府作業所 か ら警察本署 へ 依頼 があ り、
『 マ ラ リア防遇誌 』45∼ 46頁 に次 の よ うに記 され て
い る。
一 、 九 曲堂水源 地 に 「マ ラ リア」防過 の件
大正三年 七 月 二 十 四 日総督府作業所 よ り
九 曲堂水源 地 に封 し 「マ ラ リア」防遇方法施 行方 左 の通照會 阿利 た り (作 業第 一 三二
九 号)
マ ラ リア病 豫 防 に開 し依頼 の件
営所管理 に属す る九 曲堂水源 地方 に 「マ ラ リア」病狙薇職 員 一 同困難 致 し居候 に付貴
署治療暦豫 防暦 に依 り救 治致度候 間罹病者 監査 の鶯 め時 々讐師 の 主張及今 回開始 に営
り原轟保 有者 の調 査方 便 上 阿縁麻 に依頼致度 に付 何分御 手配 可然御 取計相成度 比段及
御依頼候也
尚出張 讐 の旅 費 は営所 に於 て負惰 可致候
大正三年総督府 作業所 が警察本署 に対 し、総督府作業所管理 の九 曲堂水源 地方 で マ ラ リ
アが流行 してい るので警察本署 が指導 してい る治療暦・ 予 防暦 に よ り施薬す るが、医師派
遣 と原 虫保 有者 の調査 は阿 緞庁 に依頼 した方 が都合 がいい ので手配 して ほ しい 、出張署 の
旅費 は作業所 で負担す る とい うこ とを伝 えた。
それ を受 け警察本 署長 は台南庁長 に次 の よ うに伝 えてい る。
一 、 九 曲堂 「マ ラ リア」豫 防 に開 し大正三年 七 月 二 十 五 日警察本署長 よ り墓南麻長宛
左 の通照會せ り (本 衛第 四二六琥 )
マ ラ リア豫防 に開す る件
貴麻 下 九 曲堂水源 地方 は 「マ ラ リア」流行 し同地勤務 の作業所職員 は之 に犯 さる ゝも
の多 く一 同困難 の趣 に有之今般作業所 は之が救済 として豫防服薬 開始 の 由にて援助方
依頼越候虎 交通 の便 を計 り阿緞 麻 防疫害 を して之 に営 らしむ る こ と ゝ致候條承知相成
度 右照會す 34
15
台南麻 下 九 曲堂水源 地方 で マ ラ リア が流行 し多 くの作業所職員 が罹病 し、救済 の依頼 が
あ つた。交 通 の便 がいいので阿線庁防疫讐 を派遣す るが承知 してほ しい とい う内容 で ある。
また同時 に警察本署長 は阿線麻長 に次 の よ うに依頼 した。
一 、 九 曲堂 「マ ラ リア 」豫 防 に開 し大正三年七月 二十 五 日警察本署長 よ り阿縁麻長宛
左 の通照會せ り (本 衛第 四二六琥 )
マ ラ リア豫防 に開す る件
蔓南麻 下 九 曲堂水源 地方 は 「マ ラ リア」流行 し同地勤務 の作業所職員 は之 に犯 さる ゝ
もの多 く一 同困難 の趣 に有之今般作業所 は之が救済 と して左記方法 に依 る豫 防法施行
の 由就 ては原轟保有者及 患者 の検 索其 の他施行 に開 し援助監督 を受 け度 旨同所依 り依
頼越 し候條貴麻 防疫讐 を して之に営 らしむ る様致度
右照會す
左記
一 、営所在勤者 一 同 の血 液 を槍査す
(イ
)原 轟保 有者 は別紙治療暦 に依 り服薬せ しめ全治 の上は別紙 の豫 防暦 に依 り豫 防
服薬 を鶯 さしむ
(口
)原 贔 を保有せ ざる者 には別紙豫 防暦 に依 り豫防服薬 を鶯 さしむ
二 、施行 中豫 防服薬者 「マ ラ リア」類似 の疾病 に罹 りた る ときは血液検査 を鶯 し原轟
の有無 を確 め保 有者 な る ときは別紙治療暦 に依 り服 薬 せ しむ
追て出張旅 費 は作業所 よ り支給 の筈 に付 出張 は其 の都 度水源 地事務所 に打 ち合せ られ
度候 35
台南麻 下 九 曲堂水源 地方 のマ ラ リア流行 に対 し、阿縁麻 防疫讐 を派遣 し援助監督 を して
ほ しい。 そ の方法 は①作業所在 勤者全員 の血 液検 査 、原 虫保有者 は治療暦 に従 い服薬 、全
治 した後 は予 防暦 に従 い 予 防服薬す る。原 虫保 有 していな い もの も予防服薬す る。②予 防
服薬者 が マ ラ リア類似 の病気 に罹 つた時 は血液 検 査 、原 虫保有者 には治療暦 に従 い服薬す
る。 出張旅 費 は作業所 よ り支給。 出張 はそ の都度 水源 地事務所 と打 ち合 わせ を して ほ しい
とい う内容 で ある。 そ して 阿線庁長 は警察本署長 に次 の よ うに回答す る。
一 、 九 曲堂水源 地 「マ ラ リア」豫 防 に開 し大 正三年 七 月 二十 七 日阿縁麻長 よ り本署長
宛 左 の通 同報 あ り (阿 警衛第 二三六三琥 )
七 月 二 十 五 日付本衛 第 四二六 琥 を以 て営麻 防疫讐 を して九曲堂水源 地 「マ ラ リア」豫
防法施行 の鶯 め援助 監督方 の件 左 記 各項 に依 り従 事 せ しむ るこ とに致 し候條右 に御 了
知相成度
右 同答す
左記
一 、毎月 一 回原轟保 有者 を調査す るこ と
一 、毎月 一 回以 上月
反薬 監督 の鶯 め出張す ること36
16
阿縁庁防疫 讐派 遣 の件 を阿緞麻長 は了承 した。阿縁 庁 の派遣 した防疫 讐
37が 毎月 一 回原
虫保有者 を調査す る (血 液検査 )、 防疫讐 は毎月 一 回以 上服薬監督 のために派遣す る とい う
内容 で ある。 以 上 か ら台南庁下 九 曲堂水源 地で マ ラ リア が流行 し、特別 に阿線庁 か ら防疫
害 を派遣 した こ とが分か る。治療暦 。予 防暦 の詳細 は不明だ が 、総督府 が適 切 で迅速 な措
置 を講 じてい る様子 が窺 え知れ る。
(三 )撲 石 閣
大正 4年 (1915)総 督府 は鉄道 工事人夫に対す る措置を決定 し『 マ ラリア防過誌』48頁 に
次 のよ うに記 されてい る。
一、花蓮港麻瑛石閣支麻水尾庄及掃りヽ
地方は鐵道 工事人夫 の約一割 は常に 「マ ラ リア」に
侵 され 工事に支障 を生ず る趣 を以て防過方法施行方希望あ り、水尾庄は住民共同負愴 とし
掃りヽは鹿島組にて薬品等を負惰せ しめ咲石閣防過事務所 に於て毎月一 回採血槍鏡せ しめ原
工場 に於ては一
反薬 を鶯 さしめ尚掃ツヽ
轟携帯者には 「マ ラリア」防遇方法 に準 じて規定の月
般健康者 にも毎週二 日間の豫防服薬 を篤 さしめた り。
地方は鉄道 工事人夫 の約一割 が常 に 「マ ラ
以上 より花蓮港庁撲石閣支庁 の水尾庄 と掃りヽ
リア」に侵 されていたこと、現場か らの希望 に依 り防遇方法を施行 したことが分 かる。費
地方は鹿島組 の負担 としてい る。防過方法は瑛石閣防遇
用は水尾庄は住民共同負担、掃ツヽ
工事場 では健康者 も毎週二 日間予防服
所 で月一回血液検査、原 虫保有者 は服薬す る。掃ツヽ
薬を行 うとい う内容 である
(4)
内地人移住地
明治 43年 (1910)3月 高木友枝衛生課長が花蓮港方面殖民計画 に関す るマ ラリア防過方
法について佐久間総督 に上申書を提出 したが、その内容は『 マ ラリア防過誌』23頁 に以下
のよ うに記 されてい る。
一、花蓮港方面殖民計蓋に開 しマ ラリア防過方法施行方
明治四十二年 二月八 日高木衛生課長 より左の上申書提出せ り
上申書
今般花蓮港方面殖民計豊 の趣聞知致候然 るに同方面は 「マ ラ リア」 の流行劇甚なる地域 に
有之候 に付之に封する豫防の方法は今 よ り十分施設す るの最 も必要なるを認 め居候就ては
別紙蔓縄地方病及博染病調査委員會委員羽鳥重郎 の報告 に係 る方法は適営なるもの と被相
認候 に付御採用相成尚前顧以外 の殖民部落へ も前段同様御施行相成候様致度上申候也
明治四十二年 二月八 日
内務局衛生課長
墓湾総督伯爵佐久間佐馬太
17
高木友枝
以 上か ら花蓮港方面は マ ラ リア流行 が 非常 に激 しい地域 な ので 十分 な予防 が必 要 で羽鳥
重郎 38の 報告書 に書 い て ある予防法 を実施 して ほ しい とい う内容 を上 申 して い る。 この羽
鳥重郎 (地 方病及伝染病調査委員会委員 )の 報告書 には次 の よ うに記 載 され て い る。
墓溝 地方病及 博染病調 査委員 會委員羽鳥重郎報告書 の一節
新設移 民部落 の 「マ ラ リア」豫 防 に 開す る件 新鮮 に して未 だ全 く 「マ ラ リア」 に感染せ
ざる内地移住 民部落 を新 た に建 設す るに際 し 「マ ラ リア」豫 防 上 の第 一 の要義 は之 に 「マ
ラ リア」病 毒 を入れ じめず前 々無毒状態 を保持す るにあ り此 の 目的 を達せ ん には計書 の完
全 と規律 の厳 正 な る とを要 す例 之七 脚川 の如 き隔絶せ る地域 に設 定す るは最 も適営 な るも
の と認 む べ し
(イ
)凡 そ新鮮 移 民 を収容す べ き部落 は土著人部落 を距 る こ と千五 百メー トル近 くも千 メ
ー トル 以 上な るを要 し此 距離以内 に土著人 を居住せ しめ ざる こ と
)土 著人苦力其 の他 の外来者 は 日没前 に移 民匡域外 に退 出せ しむ る こと
(ハ )移 民匡域 内 の在住者 は一切外泊 し又 は 日没後 まで匡域外 にあるべ か らざる こ と
(口
移民 は花蓮港墓東上陸後直 ちに其 の所 定部落 に入 らしむ べ き こ と
(二 )新 鮮移 民 にあ らず して移 民匡域 内 に在 住す るもの及前項 に反 した るもの は注意者 と
して 直 ちに厳密 に 「キ ニ ー ネ」 の豫 防的 内服 を働行す るこ と二 ヶ月 を下 らず且時 々血 液検
査 を行ふ こと
(ホ )外 末者 に して 日没後 尚退 出せ ざる もの若 は宿 泊す るもの已む を得 ざる もの は必ず 一
定 の防蚊室内に限 り滞在又 は宿泊 を しむ る こ と
(へ )蚊 帳 は各戸 に之 を給 し長 く完全 を保 た しむ るこ と39
マ ラ リア に感染 した こ とのな い 内地人 が 台湾 で移住 民部落 を新 た に建設す る場合 、 一 番
重要 な こ とはマ ラ リア病毒 と接触 しない こ とで ある。 そ のた めには完全無欠 な計画 と厳 正
な規律 が必 要不可欠 である。具体的 には次 の
低限
6′ 点で ある。①移 民部落 は本 島人 の村 か ら最
lkm以 上離す。②本 島人及びそ の他 の外来者 は 日没前 に移 民区域外 へ退 出 させ る。③
内地人 は外 泊禁 止 、 日没前 に帰 宅。④ 上 記事項 の違反者 はキ ニー ネ 内服 を二 ヶ月以 上 続 け
血液検査を行 う。⑤やむ を得ず外来者 が移民匡域内に宿泊す る場合、防蚊室内に宿泊 させ
る。⑥各戸に蚊帳を支給 し使用を徹底 させ る等である。
万一 マ ラ リア患者が発生 した場合 の措置及 びその他 の事項について次 のよ うに記載 され
ている。
如上数項に して完全に励行せ らるれば必ず其の 目的を達すべ しと雖萬一不幸に して 「マ ラ
リア」患者奎生 し若 くは績奎を見んか次 の諸項を厳施するを要す
(卜 )「 マ ラ リア」患者は必ず一定 の防蚊病室内に収容治療すること
(チ )「 マ ラ リア」 の後療を完全遂行す ること
(り
)必 要に應 じ 「キニーネ」の豫防的内月長を一般に賞施す ること
18
)患 者は毎同二 日相次 で健者は一 ヶ月に一 回採血検査す ること
(ル )患 者 の血液検査を施行す るに営 リー回にて病原虫を発見せ ざる時は翌 日重ねて其 の
(ヌ
検査 を行ふこと
其 の他凡そ 「キニーネ」を私費を以て購入せ しむべ か らず而 して各人が壇に 「キニーネ」
を携帯 し又は之を服用せ しむべか らざること
無意味なる溝渠小瀦水地を作 さしめざるべ し其給大なる池坂 には必ず魚類を飼養せ しむベ
きこと
病室には完全なる防蚊装置を施す こと
治療及 び診査を完ふす る鶯め讐員を置 くこと及検査に必要なる器具器械等を備付 くること
此 の如 くして無 「マ ラ リア」部落を成 さんかよく其の労働能力を保存 じ一 回奉げて繁榮 の
日を見んことを期すべ きな り他 の移民地 の如 く病毒 の浸潤姦 に久 しきか如 くなるに至 らざ
らんは惟れ一に監督指導宜 しきを得 るや否 にあ りて存す 40
以上の史料 よ リマ ラリア患者が発生 した場合は、①患者 は防蚊病室内で治療する。②最
後 まで完全 に治療す る。③必要に応 じ健康な者 にもキニーネ予防内服を実施す る。④血液
検査 の実施等 の措置を講 じる。其 の他 の事項 として①勝手 にキニーネを購入 。服用 させな
い。②不必要な溝や池を作 らない。池 には魚類 を飼育する。 よく飼 育 されていたのは、マ
ラ リア対策 の一環 として放流 されたタップ ミノー
(タ
ブ ミノ)41で ある。③病室には防蚊
装置を設ける。④治療 のため医師を置き必要な器具を準備 してお く等が挙げられ る。
第五節
マ ラリア防遇会議
台湾総督はマ ラリア対策が急務であるとして明治 42年 (1909)に 最初 のマ ラ リア防邊会
議 を開催 した42。 明治 43年 (1910)12月 については『 マ ラ リア防遇誌』28∼ 29頁 に次 の
よ うに記載 されてい る。
一 、マ ラリア豫防上に開す る協議決定
明治四十三年十二月十六 日讐學校 に於て明四十四年度 「マ ラ リア」豫防に開 し協議 し
左の件決定せ り。
一 、豫防方法施行地
東海岸は花蓮港街、撲石閣街、成廣潟 、移民指導所二箇所
蔓北麻下は北投庄に縫績施行すること
西海岸は鳳 山街、阿線街、竹頭崎街、樟脳寮庄、九曲堂水道 工事現業地
二、豫防薬 として 「キニーネ」を用 ゆる ときは九 日目十 日目に各一 瓦服用せ しむ るこ
と但 し全量二瓦を四十八時間内に四同又は十同に分服せ しむるも差支な し
三、プラスモ ジューム トレー ゲル を見出 して治療する方法を市街地 に施行すること
四、「マ ラリア」豫防方法を施行す る他 の住民 には適宜 の方法に依 り蚊帳を所持せ しむ
ること
以上
19
研究事項
一、キニーネ錠を官製 となす の可否
一、錠剤器械 の研究 稽垣、羽鳥、小島、勝山、春原 の諸氏委員 とな り調査す る
こと
「
其 の他マ ラ リア智識 を周知せ しむ る鶯 三ヾ四〇― 五〇頁位 の マ ラリア」豫防心
得 を刊行すること
明治 43年 12月 総督府 が医学校 で開催 した会議において翌 44年 度 のマ ラリア防過方針 が
決定 された。①マ ラ リア防過法 の施行地 (東 海岸 の花蓮港街、瑛石閣街、成廣湾、移民指
導所 二箇所、蔓北麻下の北投庄 に継続施行。西海岸 の鳳 山街、阿緞街、竹頭崎街、樟脳寮
庄 、九曲堂水道工事現業地)② キニーネ を予防内服す る時期 と薬 の分量 (二 日間でキニー
ネ 2gを 分服、八 日間の間隔をあけて服用す る)③ マ ラ リア原虫プラスモジューム トレー ゲ
ル 43の 発見 に伴い新たに開発 された治療方法を市街地で施行す ること。④予防方法施行地
以外 の住民 には蚊帳 を所持 させ ることの以上四事項を決定 した。 また今後継続すべ き研究
課題 としては① キニーネ錠を官製 とするか どうか、②錠剤 を作る器械 の研究 (稲 垣長次郎
44.羽 鳥重郎・ガヽ
島草二 45o勝 山虎二郎 46・ 春原三壽吉 47の 調査研究)③ マ ラリア予防心
得 の刊行を挙げている。稲垣・ 羽鳥 。小島は以後 のマ ラリア防邊会議 にも参加す る人物で
ある。また勝 山は線督府医院薬局長 であ り、春原は線督府医院調剤 師である。
明治 44年 (1911)2月 の会議については次のよ うに記 されてい る。
一、マ ラ リア」豫防會議 の件
明治四十四年 二月二 日内務局長公室に於 て 「マ ラ リア」豫防上に開 し協議左 の事項 を
決定せ り。
一 、マ ラリア豫防方法施行地は前決定 の箇所 とす
二、賞行方法 の具證的 に起草 し警務課長會議 に附す ること
二、告諭、豫防上の法規等 は衛生課に於て起草す ること
四、衛生講話、幻燈等を催 し住民の衛生思想 を向上せ しむること
五、営局 に於て毎月一回會議 を開 くこと48
明治 44年 (1911)2月 内務局長公室で開かれたマ ラ リア予防会議 において次 の五点が決
定 された。① マ ラ リア予防施行地は前年度 (明 治 43年 )決 定の箇所 とす ること、②具体案
を警務課長会議 に諮 る こと、③告諭 や予防上必要な法規は衛生課 で起草す る こと、④住 民
の衛 生思想 を向上 させ るために衛生講話や幻燈会 を開催す る こと。⑤ 内務局で毎月一 回會
議を開催す ることが決定 された。
明治 44年 4月 の会議 については次 のよ うに記 されてい る。
一 、マ ラ リア防遇に開する會議
20
明治 四十 四年 四月 二 十 日衛 生課棲上 に於 て マ ラ リア豫 防 上 に開 し會議 を開 き國府 防疫
事務官は東海岸 の視察報告 をな し終 て協議決定せ し左 の如 し
會員 は岡 田、國府 、渡邊 の各 防疫事務官並 に倉 岡、小 島防疫讐官、森防疫讐出席す。
四十 四年度 に於 ては東海岸 に 「マ ラ リア」撲滅 方法 を賞行す る こと左 の如 し
一 、花蓮港街 、市街 地全部
鐵道部員 は同部 に於 て施行 の こ と但 し検 血 は絶督府 出張員 に於 て し又 賞行 し易 か らし
む る鶯警察官吏 を補助せ しむ るは差支 な し。
一 、撲石 閣、成廣鴻
所在 公 讐 を して採血 の上花蓮港街 に送 附せ しめ営方 に於 て検査 し服薬 は警察官 吏 に依
頼 し、施行 に付 ては営方 よ り出張せ ざる こ と但 し監督 巡視 は三 ヶ月 に一 回位 の割似 て
なす
一 、卑南街
敷 ヶ月 の後 には花蓮港街 の従事員 に餘裕 を生ず べ く其 の期 に於 て施行 に着手す る こ と
以 上 49
明治 44年 4月 衛 生課 において 開催 され たマ ラ リア予 防会議 で 、国府 小平防疫事務官 が東
海岸 の視察報告 を行 い 、 そ の後以下 の三 点 が決 定 され た。①花 蓮港街全域 で マ ラ リア撲滅
方法 を実行。鐵道部員 は同部 で施行 し、検 血 は線督府 出張医 と警 察官吏 が協力 して行 う。
②咲 石 閣 と成廣湾 はそ の地 の公 医 が採血 を実施 し、花蓮 港街 に送 り衛 生課 で検 査す る。服
薬 は警察官 吏 が行 う。施行 につい ては衛 生課 か らの 出張は実 施 しないが 、咲 石 閣 と成 廣湾
の監督巡視 は三 ヶ月 に一 回程度 とす る。③卑南街 に対す るマ ラ リア撲滅方法 は、花 蓮港街
の従事員 に余裕 が出来てか ら実施す る。会議 出席者 は岡 田義行 50、 國府小平 51、 渡邊順親
島第 二 防疫 医官、森滋 太郎 防疫 医 54の 六名 であ つた。
防疫事務官 52、 倉 岡彦助 53、 ガ、
明治
44年 (1911)12月 の会議 について以下 の よ うに記 してい る。
一 、 マ ラ リア防遇 に開す る會議
明治 四十 四年十 二 月 五 日午後 二 時 よ り衛 生課長室 に於 て マ ラ リア防遇 上 に開 し協議決
定す る こ と左 の如 し
阿線
小 島防疫讐官提 出
一 、鳳 山支麻管 内マ ラ リア防過 に開す る件
鳳 山街捕 鼠過怠 金 二 千 五 百園位 あ り之 を以てキ ニー ネ を購入 し同支 麻管 内十人 ヶ所 の
派 出所 に配布 し置 き住 民 の需 に應 じ施 興す る こ と ゝして は如何
協定
「キ ニー ネ」 の服用 は必ず讐師 の指定 に依 らしめ之 を濫用 せ しめ ざる こ と
菫南麻 下 に於 ける捕 鼠過怠 金 は捕 鼠 の奨励 に費す べ き方 針 な り麻長 と内議 この方 針 を
愛 ぜ ざれ ば如 何 とも難 し
二 、阿縁麻蕃仔哺 庄及蔓漏 製糖會社 に阿線街 同様特別 「マ ラ リア」防邊法施行 の件
21
同庄に土人六百人會社使用人六百人計千二百人あ り阿緞街防疫組合匠域 内に属 し又會
社及庄民 も防遇法施行 を希望 し居 るを以て賞施 しては如何
協定
讐學校卒業生を月五十 日以 内の手営 にて雇入れ しめ営府監督指導 の下 に會社 に於て施
行せ しむること
尚右讐師には年末等 に於て相営賞典せ しむること
讐師は堀内教授に於て周旋すること
二、阿緞街防疫方法縫績に開する件
同街は給防邊 の 目的を達 したるもの ゝ如 く今 日に於 ては約原轟携帯者 一%患 者 一%計
二%な り故に同街は之を鷹 の手に移す等徒末 の方法を愛更するの必要なきや
協定
従来 の通引績 き施行 し高木技師の婦朝 を待つこ と55
明治 44年 12月 衛生課長室で開催 されたマ ラリア防遇会議 で阿緞庁 の小島第二防疫医官
が提出 した三点の案件 についての協議 が行われ以下の決定がなされた。
① 山街 の捕鼠過怠金でキニーネを買い鳳 山支庁内の派出所 に置 いて は ど うか とい う提案
に対 して、キニーネ の服用 に関 しては医師の指示 が必要でそれに基づいて実行す ること、
及 び台南庁については過怠金 を捕鼠奨励 に使 う方針 なので捕鼠過怠金でキニーネを買
うことはできない とい うことが決まつた。②台湾製糖会社 56も 住民もマ ラリア防遇法 の
実施を希望 しているので阿線庁蕃仔哺庄 と台湾製糖会社 に阿線街同様 の特別 マ ラ リア
防邊法 を実施 しては どうか とい う提案に対 し、医学校卒業者 を雇い総督府指導 の下特別
マ ラ リア防遇法を実施す ること及 びその医師は堀内次雄教授 57が 斡旋す る ことが決ま
つた。③阿縁街 はマ ラ リア防過の 目的をほぼ達成 し原虫保有者 1%患 者 1%の 計 2%に
なつたが、従来 の防過方法を変更す る必要はないか とい う提案に対 し、従来通 り施行 し
高木友枝技師 の帰朝 を待 つて再検討す るとい う事が決定 された。以上の うち② の「阿線
庁蕃仔哺庄 と台湾製糖会社に総督府指導 の下、阿縁街同様 の特別マ ラリア防遇法を実施
す る」とい うことが新たなマ ラ リア防遇政策 として決定 された ことが窺 える。医学校卒
業生もヤ ラリア防邊対策 に関与 してい ることも分かる。
また花蓮港庁 の羽鳥重郎防疫医官提出の案件 については次 のよ うに記載 されてい る。
花蓮港街
羽鳥防疫讐官提出
一、花蓮港街防遇方法縫績に開す る件
花蓮港街は土地 の奎展急遠 に して住民 の移動甚 だ しく防遇困難 な り徒末 の方法に於て
改むべ き所なきや
協定
呉全城、鯉魚尾等病毒輸入地方 (花 蓮港へ)へ は豫防服薬法を施行す ること
22
追 て時期 を見計ひ一 定期 間花蓮港街 に豫防服薬 を兼行す る こ と
出席者
岡 田衛生課長
稽垣讐院長
堀内教授
寛讐長
古 田教授
倉岡防疫 医官
羽鳥防疫 医官
小 島防疫 医官
國府 防疫事務官
渡邊防疫 事務官
森防疫讐官 58
べ
花蓮港街 は発展著 しく住 民 の移住 が 多 く防遇 困難 で あるが従来 の 防過方法 で 改 める き
へ
所 はないか とい う提案 に対 して 、呉 全城 、鯉魚 尾等病毒輸入 地 は予防服薬 を施行 し、 ま
た一定期 間花蓮港街 にも実施す る こ とが決 定 された。 つ ま り、従 来 のマ ラ リア防過政策 の
内容 を改 める ので はな く、 マ ラ リア防遇重点 地域 の追加や変更 を行 い 、試験 的 にマ ラ リア
予防方法実施 の段取 りを変更 した とい うこ とが いえる。
明治
長 59、
44年 (1911)12月
の会議 出席者 は岡 田義行衛 生課長 、稲 垣長次郎 医院長 、寛繁 医
堀内次雄教授 、古 田坦蔵教授 60、 倉 岡彦助防疫 医官、羽鳥 重郎防疫 医官 、小 島第 二
防疫 医官、國府小平防疫事務官、渡邊順親 防疫事務官、森滋太郎防疫 医官 の 11名 で あ つた。
第 六節
明治
マ ラ リア撲滅計画
44年 (1911)3月
、台湾総督府 はマ ラ リア撲滅計画 を各庁警務課長会議 に諮 ったが 、
『 マ ラ リア防過誌』 29∼ 30頁 に次 の よ うに記 されて い る。
一 、各麻警務 課長會議 へ提 出「マ ラ リア」撲滅計豊 (二 月)
撲滅計書 とは「マ ラ リア」流行 地 に封す る一 般撲滅 方法 な り。
(一 )一 般「マ ラ リア」
撲滅計蓋 とは特 に撲滅法 の施行 地 と指 定せ られ た る地域 内 の撲滅
(二 )特 別「マ ラ リア」
方法 な り。
(一 )一 般 マ ラ リア撲滅計董
一 、下水 の築造修 繕掃 除を怠 らざる こ と
二 、溝 渠其 の他水溜 は常 に排水 を計 り且之 を整理 し其 の不必要 なる ものは埋む るの方
法 を講ず る こ と
二 、住家 附近 の竹林 は常に下枝 を伐 り排 い藪及雑草 を刈 除す る こ と
四、汚水溜 は可成築造 せ しめ ざる こ と
五 、 マ ラ リア治療又 は豫防 の 目的 を以 て 「キ ニー ネ」 を濫 に用 ゆるは宜 ろ しか らず必
らず讐師 の指定 に依 るべ き こ と
六 、以 上 の施行 に就 きては保 甲其 の他 の機 関 を督励 し事 務 に営 らしめ 自衛 心 を喚起す
るこ と
七 、時 々幻燈會講演會 を開 き 「マ ラ リア」 と蚊 との 関係 及 「マ ラ リア」豫 防 の心得等
23
を通俗 に講演 し併 せ て個人衛 生思想奎達上有益 な る通俗講演 を鶯す こ と
明治 44年 3月 台湾総督府 が各庁警務課長会議 を諮 つた。「マ ラ リア」撲滅計画 は 「一般
マ ラ リア撲滅計画」 と 「特別 マ ラ リア撲滅計画」 の二 種類 に区別 され る。特別 マ ラ リア計
画 とは、マ ラ リア撲滅方法 の施行地 として台湾総督府 が特別 に指定 した地 域 61に 対 して施
行 され るもので ある。 それ に対 し一 般 マ ラ リア撲滅計画 とは、総督府 か ら指 定 を受 けて い
な い マ ラ リア施行 地 に対 して施行 され るものである。
一 般 マ ラ リア撲滅計画 の具体的内容 は次 の
7つ で ある。① 下水掃除、②不要 な水溜 りの
埋立て処理 、③家 の周 りの 草刈 り、④汚水溜 の 可成築造 の禁 止 、⑤ キニ ー ネ の使 用 は医師
の指示 に依 ること、⑥上記事項 は保 甲 62及 びその他機 関 (衛 生組合 )が 中心 とな つて行 う
こと、⑦住 民 にマ ラ リア と蚊 の 関係 につい て幻 燈会や講演会 を開催 し啓 蒙 し理 解 させ衛生
思想 の 向上 を計 るこ とである。
⑦ につい て総督府 は視覚的 に本 島人や 内地人 を啓蒙す るた めに 「マ ラ リア」 防過宣博 固
給 を刊行す るが、
『 マ ラ リア防遇誌』 52頁 に次 の よ うに記 され てい る。
一 、「マ ラ リア」防遇宣博 固給 印刷頒布
「マ ラ リア」 防遇 に 開す る民智涵養 資料 として蚊 と 「マ ラ リア」 の 関係 を表示せ る国
給 を奎行 し、麻 、支麻 、派 出所 、匡長及 び保 甲其 の他小 公 學校等多衆人 の 出入す る場
所 に掲示す る こ との有益 な るを認 め営府衛 生課 に於 いて 固案 を考案 し蔓 北市 人 甲庄 田
中仙 之 助 を して刊行 せ しめた るに各麻 よ り左記 の通 り所要希望 あ り人月十八 日奎送せ
しめた り但 し一 葉 五 拾銭 とす。
以 上 の史料 よ リマ ラ リア と蚊 の 関係 を表示 させ る民智涵養 資料 (啓 蒙資料 )と して固給
を発行 した。庁や支 庁 、派 出所 、 区長 、保 甲、小学校及 び公 学校 とい つた人 の集 ま る場所
に掲示す る こ とが決 め られ 、国案 は総督府衛生課 が 考案 し、 田中仙 之助 に よつて干J行 され
た こ とがわか る。
特別 マ ラ リア撲滅計画 につい て は次 の よ うに記載 されて い る。
(二 )特 別 マ ラ リア撲滅計蓋
一 、マ ラ リア撲滅計董 は一 定 の地域 を指定 し之 を施行す
二 、撲滅方法 は原轟携帯者 を嚢見 し之 に一 定 の服薬 を命 じ原贔 を殺滅す るにあ り
三 、右方法 の 賞行 に就 ては絶督府 よ り執行官 を派遣 し其 の事 に営 らしむ る よ り所在警
察官吏は其 の指揮 に従 ふ こ と
四、右施行 に要す る「キ ニー ネ」及其 の製剤 並 に検診 の 費用 は官 の支耕 とす るも其 の他
の費用 は保 甲其 の他機 関 よ り支 耕す る こ と63
特別 マ ラ リア撲滅 計画 は総督府 が 特別 に指定 した地 域 に施行す るもので あ り、原 虫保有
24
者発 見 と強 制服薬 に依 るマ ラ リア原 虫除去 に重 点 を置 くもので ある。総督府 よ り執行 官 を
派遣 して計画 を実行 し、特別指定地域 の警察官 は執行官 の指示 に従 うこ とを定 めた。 また
キニ ー ネ の代金や検診費用 は官 費 で支払 い 、地物整 理 等 の 費用 は保 甲や衛 生組合 等 の機 関
の支 出 とした。
さ らに特別 マ ラ リア撲滅計画 を施行 す る地域 が属す る庁 ・ 支庁 の義務 に就 いて 、次 の よ
うに記 されて い る。
(ア )施 行地域た る麻支麻 の義務
一 、公共下水 の築造修 繕掃 除 を怠 らざるこ と
二 、公共溝渠其 の他水溜 は常 に排水 を計 り且之 を整理 し其不必要 な るものは埋 む る方
法 を講ず るこ と
三 、讐師 が「マ ラ リア」患者 を診療 した る ときは警察官吏 に届出で しむ るこ と
四 、貧 困者 に してそ の義務 を履行 し得 ざる者 ある ときは保 甲其 の他 の機 関 よ り補 助 せ
しむ るこ と
五 、以 上 の施行 に就 きては保 甲其 の他 の機 関 を督 励 し事 務 に営 らしめ 自衛 心 を喚起す
るこ と
六 、時 々幻燈會講 演會 を開 き 「マ ラ リア」 と蚊 との 関係 及 「マ ラ リア」豫 防 の心得等
を通俗 に講 演 し併せ て個人衛 生思想 嚢達 上 有益 なる通俗講演 を鶯す こ と64
特別 マ ラ リア撲滅計画 を施行す る地域 が属す る庁・ 支庁 の義務 として
6つ 定 め られ た。
① 公共 下水 の掃 除、②不要 な水溜 りの埋 立て 、③ 医師 が マ ラ リア患者 を診療 した 時 は警察
へ届 け出ること、④貧困者 には保 甲が金銭的援助をす ること、⑤上記事項は保 甲や衛生組
合 を中心 として行 うこと、⑥住民 にマ ラ リア と蚊 の関係 について幻燈会や講演会を開催 し
啓蒙 し理解 させ衛 生思想の向上を計ること。
また特別 マ ラリア撲滅計画を施行す る地域内に居住 。滞在す る者の義務 については、次
の よ うに記載 されている。
(イ )施 行地域内居住者滞在者 の義務
一、定期 または臨時の検査 に要す る採血を拒む ことを得ず
二、原轟携帯者 と認定せ られたるもの及讐治を受けざる「マ ラ リア」患者は指定 の服薬
を拒むことを得ず
二、家長はその家 に「マ ラ リア」患者若 しくは疑わ しき患者に して讐療 を受 けざる者 あ
る時は警察官吏 に届出づべ し
四、寝 臥の際は必ず蚊帳を用ふべ し
五 、 日常汚物 の掃除に注意 し空糧空罐等雨水 の瀦溜す るもの毀却すべ し
六、下水 の築造修繕掃除を怠 るべ か らず
七、毎 日一回芥藪 の伐採及家屋内外 の清潔法を施行すべ し (家 財は取 り出すに及ばず)
人、汚水溜は可成築造すべ か らず
25
九 、溝渠其 の他水溜 は不必要 なるもの埋 没す べ し
受用 は必ず讐師 の指定 に依 り之 を濫用す べ か らず
十 、「キ ニー ネ」 の月
十 一 、其 の他麻支麻 に於 て必要 と認 めた る事項
以 上 は保 甲其 の他規約 に規定 し違背者 には過怠金 を科す る こと
以 上 65
特別 マ ラ リア撲滅計画を施行す る地域内に居住 。滞在す る者 の義務 として①強制採血に
応 じる、②患者 。原 虫保有者は強制服薬 に応 じる、③家族 内に必要な治療 を受けない もの
があれば家長 が警察 に届出る、④蚊帳使用 の励行、⑤不要 な水溜 りの処理 、⑥下水掃除、
⑦毎 日一回の草刈 り、③キニーネ の使用は医師 の指示 による こと、⑨家屋内外 の清潔法 の
実施、⑩上記事項 を保 甲や衛 生組合 の規約 66に 規定 し、その違反者は罰金 を科す こと等 が
定め られてい る。
「一般マ ラリア撲滅計画」 と 「特別 マ ラリア撲滅計画」では行 う対策は類似 している点
が多いが、「特別マ ラリア撲滅計画」 の方 が警察官や執行官 といつた人たちと保 甲が密接に
連携 してマ ラ リア撲滅 に取 り組 んでいる。 また 「特別 マ ラ リア撲滅計画」 の方がより義務
的拘束力 が強い。
第七節
1、
マ ラ リア防邊規貝Jと マ ラ リア防邊心得
マ ラリア防邊規則
『 マ ラ リア防過誌』74,
台湾総督府 は大正 2年 (1913)4月 、マ ラリア防遇規則 を制定 し、
75頁 に次のよ うに記載 されてい る。
「マ ラ リア」防邊規則
第一條
大正三年四月律令第五琥
蔓湾線督府はマ ラ リア防邊 の鶯 にす る槍診、血液検査、治療、服薬、清潔保
持其の他 の方法及費用徴収 に開 し必要なる命令 を嚢す ることを得
本令 に基きて嚢す る命令に依 る義務者 がその義務 を履行す るの資力なき場合
に於ては蔓潟線督 の定むる所 に依 り義務者 の鶯すべ き事項は防疫組合又は保 甲之を施
第二條
行すべ し
第 二條
防疫組合、保 甲又は私人本令 または本令 に基きて嚢す る命令 に依 り施行すべ
き事項を施行せず又は之を施行す るも充分な らず と認 むるときは行政官麻は 自ら之を
施行 しその費用 を義務者 より徴収す ることを得
墓溝租税滞納虎分規則は前項費用 の徴収 に付之を準用す但 し先取特権 のI贋 位 は國税及
地方税に次 ぐもの とす
附則 本令は大正三年五月一 日より之を施行す
67
総督府 は大正 2年 4月 にマ ラリア防過規則 を制定 し、①血液検査 、治療服薬、清潔保持
等 の方法 と費用徴収 に関 し必要な命令 を出す こと、②経済的な理 由でマ ラ リア防遇 の義務
を果たせない ものがい る場合は、防疫組合や保 甲が代行す ること、③防疫組合や保 甲又は
26
個人 のマ ラ リア防過 に対す る取 り組 み が不 充分 であれ ば、行政官庁 が 直接施行 し費用 は義
務者 か ら徴収 でき る (皇 湾租税滞納処分規則 を準用す る)こ とが定 め られ た。 史料 か らは
防疫組合 につい て詳細 は明 らかではな いが 、明治 41年 (1908)2月 に律令第 3号 に よ り「台
湾防疫組合規則」 68が 制定 され て い る。
2、
マ ラ リア防遇規貝1施 行規貝J
台湾総督府 は大正 2年 (1913)4月 、マ ラ リア防遇規則施行規貝Jを 制定 した。全 16条 [た
だ し第 10条 は大正 8年 (1919)の 改定 に依 り削除]か ら成 り、台湾総督や知事 、庁長等 の
職や権 限につい ては『 マ ラ リア防遇誌』 75,76頁 に次 のよ うに記 してい る。
「マ ラ リア」防過規貝J施 行 規貝J 大 正三年 四月府令第 二 十 九琥
改 正大正八 年府令第
一一 人 琥 一一 年第 二 十 三琥
第 一條
「マ ラ リア」防遇規則 に依 り行政官麻 に属す る職権 は知事又 は鷹長 之 を行ふ
第 二條
知事又 は麻長 は必要 あ りと認 む る ときは 「マ ラ リア」防過方法 を施行す るこ
とを得
前項 の場合 に於 ては其地域及期 間 を其都度 墓脅線督 に報告す べ し
第 二條
蔓彎総督 に於 て必要 あ りと認 む る ときは地域及期 間 を定 め 「マ ラ リア」 防遇
方法 の施行 を知事又 は麻長 に命ず
第 四條 知事又 は麻長 は 「マ ラ リア」防過方法施行 の地域及期 間を告示す べ し
第十 一 條
知事又 は麻長 は保 甲を して 「マ ラ リア」防 邊 に開 し規約 を定 め之 を履行せ
しむ るこ とを得
第十 三 條
知事又 は鷹長 は第五條 に依 り治療 を受 けた る者及服薬 した る者 よ り其 の費
用 を徴収す る ことを得
第十 四條
「マ ラ リア」防過方法 施行 地域 内に在 る諸官衛 の 首長 は知事又 は鷹長 と協
議 し其 の麻舎 に封 し本令 に準 じ相 営 の方法 を施行す べ し
第十 五 條
知事又 は麻長 は市ヂ 、街 庄長 、匠長 、保 正 、 甲長 を して 「マ ラ リア」防過
の事 に従 は じむ ることを得
前 頃 の規定 に依 り 「マ ラ リア 」防 過 に従 事す る防疫組合職員又 は匡長 、保 正 、 甲長 は
其 の事務 に開 し営該 吏員 の指示 に従 ふ べ し
総督府 は大正
2年 (1913)4月
、 マ ラ リア 防邊規則施行規則 を制 定 し、① マ ラ リア防過
に 関す る行政官庁 の職務 は知事 。庁長 が行 うこ と、②知事・ 庁長 が必要 あ りと認 めた時 に
マ ラ リア防遇方法 を施行す る こ とがで きる (地 域・ 期 間 を台湾総督 に報告 )、 ③台湾総督 が
必要 あ りと認 めた時 は地域 。期 間 を定 め マ ラ リア防遇方法施行 を知事 。庁長 に命 じる、④
。
知事 。庁長 はマ ラ リア防遇方法施行 の地 域 。方法 。期 間 を告示す るこ と、⑤知事 庁長 は
保 甲 に対 し、 マ ラ リア防遇 に関す る規則 を定 め させ 実行 させ るこ とがで きる、⑥知事 、庁
長 は治療 。服薬等 の費用 を徴収 で きる、⑦ マ ラ リア防遇方法施行 地域 内 の役所 の主張 は知
27
事 と庁長 と協議 しその庁 舎 に対 し防遇方法 を施行す る こと、③ 知事
。庁長 はマ ラ リア防過
に 関 し、市ヂ 、街 庄長 、区長 、保 正 、 甲長 を従 わせ る ことができる等 を定 めた。
マ ラ リア防邊方法施行 地 域 内 の土地 。建物 の所有者 の義務 につい ては次 の よ うに記 され
てい る。
「マ ラ リア」防遇方法施行 地域 内 に在 る土地、建物 の業 主、所有者 又 は 占有
「
者 は営該 吏員 の指示 に従 ひ 其 の土地 、建物 内 の清潔 を保持 し及 ア ノフ ェ レス」蚊族
第 七條
の駆 除を施行す べ し
第 人條 「マ ラ リア」防過方法施行 地域 内 に在 る土地、建物 の業 主 、所有者 又 は 占有
者 は知事又 は麻長 の 定む る所 に依 りそ の 土地、建物 内 の清潔保持及 「ア ノ フェ レス」
蚊族 の駆 除を施行す べ し69
マ ラ リア防過方法施行 地域 内 の土地・ 建物 の所有者 の義務 につい ては 、 マ ラ リア防過 に
。
関す る役人 の支持や知事 。庁長 の決 定 に従 い 、土地 建物 内を清潔 に保 ちア ノフ ェ レス蚊
の駆除 を実行す る ことが 定 め られ た。
マ ラ リア防過方法施行 地 域 内 の居住者 ・ 滞在者等 の義務 につい ては次 の よ うに記 載 され
て い る。
「マ ラ リア」防過方法施行 地域 内 の居住者及滞在者 は 「マ ラ リア」防過 の篤
第 五條
にす る槍診 、 血 液検 査 、治療 、服薬及検 診 、治療 、服薬 の鶯 にす る召集 を拒む こ とを
得ず
「マ ラ リア」防遇法施行 地域 内 の居住者及滞在者 は知事又 は麻長 の 定む る所
第 六條
に依 り寝 臥 に営 り防蚊方法 を施行す べ し
第 九條 「マ ラ リア」防邊方法施行 地域 内 の保 甲 は営該 吏員 の指示 に従 ひ道路 、下水、
「
公 園其 の他公 共物 の清潔 を保持 し前 二條 の義務者 が蒐集 した る汚物 を虎 分 し及 ア ノ
フェ レス」蚊族 の駆 除 を施行す べ し
べ
第 一二條 「マ ラ リア」防過方法施行 地域 内 の戸主又 は之 に代 わ る き もの は其 の家
に 「マ ラ リア」 また は其 の疑 ある患者 あ りた る ときは速 に同地域 内 の 営該 吏員 に届 出
べし
第 一六 條
正 営 の理 由な く して第 五 條 の召集 を拒 みた る者 、第 六條 乃至第人條 に違反
した る者 は科料 に虎す
附則
本令 はマ ラ リア 防過規則施行 の 日よ り之 を施行す
70
マ ラ リア防邊方法施行 地域 内 の居住者 。滞在者等 の義務 につい ては 、①治療 、服薬 を行
うた めの召 集命令 に従 うこ と、② 知事 、庁長 の決定 に従 い 、寝 る ときは防蚊方法 (蚊 帳 を
用 い る)を 実行す るこ と、③保 甲は役 人 の指示 に従 い 、道 路・ 下水 な ど公 共物 を清潔 に保
ち防遇方法施行地域 内 の土地 。建物所有者 が蒐集 した汚物 を処分 し、 ア ノフ ェ レス蚊 の駆
28
除を実行す ること、④マ ラ リア患者や疑 わ しき者 がある時は戸主が速やかに役人に届け出
ること、⑤治療・服薬 71等 を行 うための召集命令 に従わない時や寝るときに防蚊方法 72を
実行 しない時、又 は防遇方法地域内の土地・建物 の所有者 がアノフェレス蚊 の駆除を怠 っ
た時は罰金を科す ことが定められた。
大正 8年 (1919)の マ ラリア防邊規則施行規則 の改正により原虫保有者 の検出、強制服
薬法 の実施 か ら地物整理に重点を置 くマ ラ リア防過の方針転換を図ると共に同年 5月 に訓
令第 65号 の 「マ ラ リア」防過規貝J施 行規程 を改正 し、マ ラリア防過作業 の徹底 を期す るた
めに防疫讐、讐務助手、防過手を配置 した。 また地物整理費や検血服薬な どは国庫伝染病
予防費か ら支弁 されるとマ ラ リア防遇規貝1施 行規程第九条で明記 されてい る73
『 マラ
台湾総督府は大正 2年 (1913)マ ラリア防過心得を作成 し一般 の人々に配布 したが、
リア防過誌』39、 40頁 に次 のよ うに記載 されてい る。
一 、「マ ラリア」防過心得 の配布
マ ラリア防過心得 74
甲 「マ ラリア」病
「マ ラ リア」は俗間にて濾本島にては寒熱症 と呼ふ疾病に して其の病原は 「プラスモ
デ ウム」 と稽する極 めて微細なる動物な り。
蚊族 中 「アノフェレス」 と積す る種属 の蚊あ りて 「マ ラ リア」患者 を刺贅 し患者 の有
す る病原即ち 「プラスモデ ウム」を血液 と共に吸ひ取るときは病原 は此の蚊 の證内に
寄生 して盛に増殖 し人若 し斯 の病原 を有する蚊 の篤 に刺贅 るるときは病原は蚊 の唾液
と共に人 の饉内に移 され弦 に始めて人は 「マ ラリア」に感染す るものな リーたび病原
の人 の血液中に入 るや一定 の嚢育 を遂げて其 の一病は更 に数多 の胚子 に分裂 しその胚
子は亦成熟 して胚子 を生す る等反覆極 りな く其 の数を増加す而 して熱 は此 の胚子分離
す る際起るものなるが故間歌性に奎作す 「マ ラリア」熱是 な り
台湾総督府は大正
2年 マ ラ リア防邊心得を配布 し、①マ ラリアの病原体 「プラスモジュ
ーム」 とい う寄生虫であること、② アノフェレス とい う種類 の蚊 がマ ラ リア患者 を刺 した
時に血液 と共にプラスモジューム を吸い取ること、③病原体 は蚊 の体内で盛んに増殖す る
こと、④ プラスモジュームを吸い取 つたアノフェレスが人を刺す時 に病原体を移す こと、
⑤人 の体内で病原体 は成熟 。分裂 を繰 り返 し胚子が分離す る時に発熱す ること、それ が間
歌性 のマ ラリア熱であること等 の知識 を一般 に広 く啓蒙 した。
マ ラリア予防の具体的方法 については、以下のよ うに記載 されてい る。
乙 「マ ラ リア」防過方法
「マ ラ リア」は前に述べ たるが如 く蚊 の刺督 に依 りて博染す る疾病 に して其害 の甚 だ
しきは世人 の能 く知 る虎 な り故に本病に就 ては特に注意 し之が豫防法 は自か ら進んで
其 の途を講ぜ ざるべ か らず今その概要を奉 ぐれば左の如 し。
豫防法概要
29
一
平常蚊 の刺督 を受 けざる様 注意す るは豫防上第 一 容 義 な るが故 に薄暮 よ り除轟菊
等 の燻姻 をな し蚊 を駆 ふ こ とも宜 し く寝 臥 の際 は必 ず蚊帳 を用ふ る こ とを怠 らざる こ
と
二
邸宅附近 の樹木竹林 は相営 の手入 をな し雑 草 を刈 除 して射 光通風 を佳 良な ら しむ
ること
二
溝渠下水 は常 に掃 除を怠 らず其破損せ るもの は改築若 は修 繕 を加ふ る こ と
四
瀑潤 の地 に して 常 に雨水 の瀦溜す る如 き箇所 は排 水 を計 り或 は埋 土 を鶯 し且水 を
承 くるに容易 な る器 に して 子子 を発 生 しむ る嫌 あるもの (竹 筒糧等 )は 之 を取片付 け
置 く等線 て蚊 の嚢生 を絶 つ の工夫 をなす こ と
五
家屋 の 内外 は常 に清潔 に掃 除 し蚊 は殊 に押入庖厨浴 場便所等冷暗瀑潤 の箇所 を好
む を以て之 に潜伏せ しめ ざる様心懸 くる こ と
六
七
畜舎 は好 んで蚊 の集 ま る所 なれ ば家屋 同様注意す ること
「マ ラ リア」 に犯 され た りと自覺 した ときは速 に讐師 の治療 を受 くる こ と
人
「マ ラ リア 」治療 又 は豫 防 の 目的 を以 て濫 に 「キ ニ ー ネ」 を用ふ るは大 な る害 を
招 くことあ り必ず 讐師 の指定 に従 ふ こと
九
「マ ラ リア」患者 の蚊 に刺贅 さるる ときは蚊 に病 原 を興 (興 )へ 他人 に 「マ ラ リ
ア 」 を俸染せ しむ る もの な るが 故患者 は治療 を怠 らず且晩間早 く蚊帳 内に入 る等病毒
を他人 に博 へ ざるこ とを勉 む るは公 衆 の鶯 な るのみな らず又 自己の鶯 なれ ば留意す べ
き こと
十
家長 は常 に家族 の疾病 に注意す べ きは勿論 な りと雖 そ の一 家 に 「マ ラ リア 」患者
若 は疑 は しき患者 ある ときは速 に讐治 を受 け しめ家族 の幸福 を計 ること75
防過 「麻墟利 亜 」須知 76
台湾総督府 は大正
2年 (1913)マ ラ リア防過心得 を配布 し、マ ラ リア と蚊 との関係 を説
明 して蚊 に刺 され な い こ とが一 番肝要 で ある と指摘 してい る。 マ ラ リア予防 の具体的方法
として蚊帳 の使用 、雑 草 の刈 り取 り、除 虫菊燻姻 、溝 渠下水 の掃 除、排水 の工夫 、家屋や
畜舎 の清潔保持 な どの予防法 が挙 げ られ て い る。 また 罹病 した場合 は医師 の治療 を受 け、
キ ニ ー ネ使用 は 医師 の指示 に従 う、 自分 の ためだけでな く他 人 にマ ラ リアを うつ さな いた
めに も治療 を怠 らな い 、家長 は家庭 内 の 患者 に治療 を受 け させ るな ど、医師 の治療 を受 け
るこ との重要性 が説 かれ てい る。
以 上 の史料 よ り、 マ ラ リア防遇心得 を配布す るこ とに依 リマ ラ リア病 とは どんな病気 な
のか 、 マ ラ リア病 と蚊 との 関係性 につい て一 般 の人 々 に対 して分 か りやす く説 明 し、 マ ラ
リア防過 の効果 を上 げ よ うと尽力 してい る様子 が窺 え し得 る。
最後 にマ ラ リア防遇規貝J、 同施行規貝Jに よって法的 拘束力 が明示 され る と共 にマ ラ リア
防遇 心得 に よって マ ラ リア と蚊 に関す る知識や 対策方法 の共有化 を図 る狙 いが あ つた と考
え られ る。
30
第 人節
マ ラ リア防邊事務講習
蔓溝線督府 は大正
8年 (1919)6月 マ ラ リア防遇従事員
(讐 務助 手)の 養成 を検討 した
が、
『 マラリア防遇誌』57頁 に以下のよ うに記 されている。
一、「マラリア」防過従事員養成に開する件 民警第一五一六琥 (大 正八年六月二十
四 日)
「マ ラ リア」 防邊 に従 事す る讐務 助 手 は警 察本 署 に於 て 養成 し必 要 の 箇所 に配 置 す る
もの と麻 に於 て 直接養成す るもの と二 途 を採 り末 り候虎 近時之等 の技術員排底 し新規
採用 は勿論欠 員補充等著 し く困難 を感 じ延 て事業 の進 捗 を防 ぐる こ と不砂候 に付爾後
右職員 の養成 は左 記 に よ り取扱相成可然哉
右相伺候。
記
一 、講習期間
約 二箇月
一 、講習 中は営府雇傭員 を命 じ月 俸 二 十園以内又 は 日給壼 園以 内を給す
総督府 は大正
8年 6月
、人数 が不足 してい るマ ラ リア防過従事員 の養成 を検討 した。 マ
ラ リア防遇 讐務助 手 は警察本署 で養成す るもの と庁 で 直接養成す るもの と二 通 りの養成方
法 が あるが、新 規採用 も欠員補充 も困難 な状況 な ので 医務助 手 の養成 を行 うべ きだ とい う
内容 である。講習期 間は約 二箇月、講習 中 は総督府雇傭員 を命 じ、月給 30円 以内又 は 日給
1円 以内 を支給す ることも決 め られ た。
総督府 は大正 8年 (1919)8月 13日 に第 1回 目のマ ラ リア防過事務講習 を開催 し、3回
の合計 28人 の修 了者 を各庁 に配 置 した。 77マ ラ リア防遇事務講習 の主催者 。開催月 日・ 講
師等 の詳細 は以下 の表
表
1-(I)
1-(I)、
表
1-(Ⅱ )の 通 りである。
線督府 主催 マ ラ リア防邊事務講習
講習生
開催 月 日
第一回
自大 正八年人月十 三
12
日至同九月 二 十 三 日
講師
)
防疫官
只野陽 二 郎 78
技師
穴澤穎治 79
同
自大正八 年 九月二 十
同
三 日至同十 一 月 四 日
自大 正 八 年 十 二 月 六
同 同
第二 同
羽鳥重郎
技手
■■
第 二同
(名
5
日至 同 九 年 一 月 二 十
一日
第 四同
自昭和 五 年 二 月十 四
37
日至同二 月十八 日
技師
(出 典 :『 マラリア防過誌』170頁 より筆者作成)
森 下薫 80
00
表
1-(Ⅱ )各 州麻 主催 マ ラ リア防過事務講習
州麻
墓北州
講習人員
開催 月 日
講師
(名 )
大正十 一年 二 月
10
衛 生課長
羽鳥重郎
大 正 十 二 年 二月
10
衛生課長
羽鳥重郎
大正十 三年 二 月
10
衛 生課長
羽鳥重郎
大正十 四年二月
10
衛 生課長
羽鳥重郎
衛生技師
桐林茂 81
10
昭和元年 二 月
衛 生技師
桐林茂
鈴木外男衛生技師 82
昭和 二年 二 月
菫北州
10
昭和 三年 二月
36
衛 生技師
桐林茂
衛 生技師
鈴木外男
衛 生課長
穴澤穎治
宮川 富 士 松衛生技師
83
衛 生課長
8
昭和 四年 二月
穴澤顧冶
宮川富 士松衛生技師
衛 生課 長
10
昭和 五 年 二 月
穴澤頴冶
下村 八五郎衛生技師
84
宮川 富 士 松衛生課長
10
昭和 六 年 二 月
下村 八五郎衛生技師
衛生課長吉 田泰 三 85
7
昭和 五 年 十 月
警察馨 田村庄 五 郎 86
警部
新竹州
昭和 六 年 五 月
7
池 田末記 87
衛生技手
佐藤慶 二 郎 88
衛 生課長 重松英太 89
27
大正十 一 年 二 月
警察馨
警部
野 田兵 三 90
西本安衛 91
衛 生 課長
重松英太
宮川 富 士 松衛生技師
菫南州
25
大正十 二 年 二月
警察馨
警部
安達敬智 92
樺 山吹次郎 93
重松英太衛 生 課長
大正十 二 年 二月
3
32
宮川 富 士 松衛生技師
樺 山崚次郎警部
警部佐伯長 -94
嘱託
下村 人五 郎
宮川 富 士松衛生技師
地方技師下村人 五 郎
31
大正十 四年 二月
榊原保 95
警察馨
樺 山吹次郎
警部
野 田兵 三
衛生課長
下村 八五郎
警 察磐
32
大正十 五年 二 月
警部
樺 山吹次郎
嘱託
豊住政次郎 96
警部
堀之内榮蔵 97
野 田兵 三
衛 生課長
下村八 五 郎
警察馨
安倍貞次衛 生技師 98
35
昭和 三 年 一 月
豊住政次郎
嘱託
警部
堀之内榮蔵
野 田兵 三
衛生課長
下村 人五郎
警察讐
墓南州
37
昭和 三 年 二 月
昭和 四年 三月
35
衛生技師
安倍 貞次
嘱託
豊住政次郎
警部
竹村将城 99
技手
清水清 -100
衛 生課 長
野 田兵 三
衛 生技師
安倍 貞次
豊住政次郎
警察讐
竹村将城
警部
技手
33
昭和 六年 二月
清水清 一
衛 生課長
野 田兵 三
衛 生技師
安倍 貞次
豊住政次郎
嘱託
高橋幾 -101
警部
技手
清水清 一
警察馨
102
8
大正十一年五月
警部
高雄州
33
勝木貞次郎
瀧澤豊吉 103
島義雄 104
地方技師
大正十 四年 二 月
14
衛生技師
吉 田泰 三
大正十 五 年 四月
7
地方技師
吉 田泰 三
衛 生技師
大正十 五 年 五 月
3
榊原保
吉 田泰 三
地方技師
衛 生技師
大正十 五 年 七 月
24
榊原保
吉田泰三
地方技師
衛生技師 榊原保
大正十五 年 十 一 月
2
吉 田泰 三
地方技師
衛 生技師
昭和 二 年 四月
13
吉 田泰 三
地方技師
堀之内榮蔵
警部
高雄 州
榊原保
昭和 二 年 五 月
5
衛 生技師
榊原保
昭和 二 年 六月
3
衛 生技師
榊原保
昭和 二 年 七月
2
衛 生技師
榊原保
昭和 三 年 九月
6
衛 生技師
榊原保
昭和 二 年 十 月
3
衛 生技師
榊原保
昭和 三 年 人月
2
衛 生技師
榊原保
昭和 三 年 九月
2
衛 生技師
榊原保
昭和 三 年 十月
2
衛 生技師
榊原保
昭和 三 年 十 二 月
7
衛 生技師
榊原保
昭和 四年 一 月
3
衛 生技師
榊原保
昭和 四年 二 月
3
衛 生 技師
榊原保
昭和 四年 七 月
1
衛 生 技師
榊原保
昭和 六年 二月
22
地方技師
安達敬智
警部補
細川頼市
105
蔓東麻
昭和 五 年 七 月
47
線督府技師
穴澤顆治
頴川 一三 警察讐
警部
花蓮港麻
昭和 二 年 人月
12
106
清水倉 太 107
衛 生技 手 内木 場 豊吉
108
雇
34
本浦籐松 109
警察讐
頴川 一三
清水倉太
警部
昭和 四年 四月
衛 生技手
花蓮港鷹
警察磐
松本留吉 110
警部
昭和 六 年 七 月
衛 生技手
(出 典 :『 マ ラリア防過誌』 170∼
以上の表 1-(I)、
本浦籐松
清水倉太
本浦籐松
173頁 より筆者作成)
1-(Ⅱ )よ り台湾総督府 のマ ラ リア防過事業 の中枢人物 である防疫
官 の羽鳥重郎・ 技師 の穴澤穎治、技師 の森下薫 などがマ ラ リア防遇事務講習 の講師を務 め
ていたことが分かる。また各州麻主催 のマ ラリア防邊事務講習では衛生課長・ 衛 生技師 だ
けでな く警察医や警部 もマ ラ リア防邊事務講習 の講師を務 めていたことが分かる。総督府
主催 の講習終了生は 65名 にのぼる。また州庁主催 の講習終了生は蔓北州で 124名 、新竹州
で 16名 、蔓南州で 285名 、高雄州で 132名 、蔓東麻 で 47名 、花蓮港麻で 34名 である。
台湾総督府は大正 8年 (1919)8月 にマ ラ リア防邊事務講習規程 を制定 したが、発布 理
由としては次 のよ うに記 されてい る。
一 、マ ラ リア防遇事務講習規程奎布
人月二十一 日訓令第百六十四琥 を以て 「マ ラ リ
ア」防遇事務講習規程奎布す理 由は 「マ ラ リア」防邊方法施行 地年 々増加 し既 に七十
餘箇所 に及び尚横
張の計董あ り然 るに書務助手 の補充常 に困難 の結果全然無経験 の者採用す るの賞情 に
あ り防遇作業上遺憾不砂を以て将来 に開 し讐務助手 の豫備員 を養成 し従業員配置 の園
満 を期す るにありHl
マ ラ リア防邊施行地 の増加 に伴 い讐務助 手が不足 し未経験者 の もの を採用 している状態 で
ある、更にマ ラリア防邊施行地を拡張す る計画 もあ り書務助 手予備員 を養成す る必要があ
るとい うのがマ ラ リア防遇事務講習規程発布 の理由である。
マ ラ リア防過事務講習規程 の具体的な内容 については『 マ ラ リア防過誌』57,58頁 に以
下のよ うに記載 されてい る。
一 、「マ ラリア」防遇事務講習規程制定の件
大正八年訓令第百六十四琥を以て左の通
り 「マ ラリア」防過事務講習規程制定 な り
第一條 「マ ラ リア」防邊事務講習は必要に應 じ随時之を開始 し『 マ ラリア』防過讐
務助手 として緊要 なる事項を講習せ しむるもの とす
第二條
講習員 は警務局若 は麻所属雇員及傭員又 は公共衛生費事務員 とす
第二條
講習に開する事務 は警務局 に於て之を取扱ふ
第四條
講習科 目は左の如 し但 し時宜に依 り増減す ることを得
35
一
「マ ラ リア」 に開す る學術
二
「マ ラ リア」 に開す る例規
三
「マ ラ リア」 に開す る統計
第 六條
講師及講師補助 は警務局職員 中 よ り警務局長 之 を命ず
講習 中随時試験 を行ふ こ とあるべ し
第 七條
講習員講習 に開す る心得 は警務局長 之 を定む
第 五條
参照
大 正八 年 人月十三 日よ り第 一 回講習 開始、警務局 に於 て は 「マ ラ リア」防過讐務助 手
た るべ き者 二 十 四名衛 生課 傭員 として採用 、講師 として羽鳥防疫 医官 、沼 田、光 田警
部 、只野技手及講師補助、尾 田、 三浦雇 を任命 せ り
総督府大 正
8年 (1919)8月
にマ ラ リア 防遇事務講習規程 を制定 し、① マ ラ リア防過事務
講習 は必要 に応 じて 随時開催す る こ と、②講習員 は警務局 か庁 所属 の雇員・ 傭員又 は公 共
衛 生 費事務員 とす る こ と、③講習 に 関す る事務 は警務 局 が 取 り扱 うこと、④ マ ラ リアに関
す る学術 、例規 、統計 を講習科 日とす る こ と、⑤講 師
。講師補助 は警務局職員 の 中か ら警
務局長 が任命す る こ と、⑥講習 中 に試験 を実施す る こ と、⑦講習員 心得 は警務 局長 が 制定
H2、 光 田満喜太警部 H3、
す る こ とが定 め られ た。講師 として羽鳥重郎 防疫 医官 、沼 田俊警部
只野陽 二郎技手、尾 田通永雇 H4、 三 浦民司雇 H5が 任命 され た。
8年 (1919)8月 マ
ラリア防過事務講習員 心得 を制定 したが、
『 マ ラ リア防過誌』58,59頁 に以下のよ うに記 さ
マ ラリア防遇事務講習規程第七條 に従 い台湾総督府警務局長は大正
れてい る。
一、
『 マ ラリア』防過事務講習員 心得制定の件
大正八年八月十三 日より「マ ラ リア」防遇
事務講習開始 に付講習員 心得左の通 り定めらる。
マ ラ リア防過事務員講習心得
一、講習員講習中は規律 を守 り熱 心に勉励すべ し
二、講習員講習 に開 して講師及講師補助 の指示 に従ふべ し
二、講習員中 よりIJI長 副班長 を指名す
班長 は講習員 を代表 し講習 に開 して命ぜ られたる事項 を虎理すべ し
副班長 は班長 を補助 し班長事故 あるときは之を代理すべ し
四、講習員 は指定 の授業時間前 の講習所 に集合すべ し
五、講習員 は授業時間中講師の許諾な しに講習場 を離 るべか らず
六、講習員快席遅刻早退せ しむるときは其 の 旨を申出べ し
七、講習員 は講師及講師補助講習場入退 の際は姿勢 を正 して敬祀すべ し
人、講習科 目指営講師及び授業時間は別 に定る所に依 る
右 の通 り相定む
36
警務局長
大正八年人月 十 二 日
警務局長 H6は 大正 8年 8月 マ ラ リア防過事務講習員心得 を制定 し、①講習員 は規律 を守 り
講師 の指示 に従 うこと、②講習員 の 中か ら班長・ 副班長を決 めること、③講習員 は従業前
に集合 し勝手 に講習場 か ら離れないこ と、④無断欠席 しないこと、⑤講師が入退場す る時
は姿勢を正 して敬礼をす ることな どが定められた。
小結
菫溝線督府 はマ ラ リア防邊事業 の初期 の事業 として下水 。地物整理に邁進 し、明治 30年
(1897)土 石採掘跡 の取締に関す る命令 を発令 し汚水排除を義務付けた。明治 32年 (1899)
には関連法案 である台湾下水規貝J。 同施行細則 を制定 した。同年、鉄道港湾 な どの職 工人
夫 の衛生管理に関す る命令 を出 し、工事現場で働 く職 工人夫 の生活環境 に細心の注意 を払
い博染病 の蔓延を予防す るように清潔 の習慣化 を命 じた。また明治 33年 (1900)に は新設
停車場附近 の衛生 工事に関する命令 を出 し、新設 された鉄道 の駅周辺 の土地は雨水汚水を
ツト
出できるよ うに道幅や下水系統を定め市街を形成 していつた。
明治 32年 (1899)蔓 溝線督府は台湾地方病及博染病調査委員会 を設置 し、その後 のマ ラ
リア防過 の医学的な研究が本格的に開始 された。
明治
38年 (1905)か ら同 41年 (1908)頃 にかけて毎年 のよ うに膨湖庁でマ ラ リアが
パ ンデ ミック状態 にな り、蔓湾線督府 の適切な措置 (墓 漏地方病及博染病調査委員や公署
の派遣)に より速やかに終息 した。明治 40年 (1907)か ら同 42年 (1909)頃 にかけて「蕃
地」開拓事業に従事す る者の間でマ ラリア患者が著 しく増加 したが、蔓彎総督府 が予 防方
法を実施 し良い結果を残 した。明治 43年 (1910)か ら大正 4年 (1915)頃 には阿里山 。
咲石閣の鉄道 工事現場・ 九 曲堂の水利 工事現場でも、蔓漏総督府 は適切かつ迅速なマ ラ リ
ア対策を講 じた。また明治 43年 (1910)花 蓮港方面の内地人移住地部落建設に際 し、蔓湾
総督府 は隔離政策 (内 地人移住者 を台湾人か ら分離 。隔離す る政策)と 防蚊法 (蚊 帳 。蚊
取線香 の使用奨励 )。 キニーネ予防内服法 の徹底 を図つたことが明 らかになつた。
皇湾総督府 は最初 のマ ラ リア防遇会議 を明治 42年 (1909)に 開催 した。明治 43年 (1910)
の会議ではマ ラ リア予防方法の施行地やキニーネを予防内服する時期 。薬 の分量 な どが決
定 された。明治 44年 (1911)2月 の会議 で毎月一回会議を開催することが決定 された。同
年 3月 菫湾総督府はマ ラ リア撲滅計画を各庁警務課長会議 に諮 り、マ ラリア撲滅計画を「一
般 マ ラリア撲滅計画」 と 「特別 マ ラリア撲滅計画」 の二種類 に区別 した。一般 マ ラ リア撲
滅計画 とは総督府 か ら指定を受けていないマ ラ リア流行地に施行 されるものであ り、
、特別
マ ラ リア撲滅計画 とは、花蓮港街、墓北廃北投庄、高雄州鳳 山九曲堂な ど特にマ ラ リア患
者 の発生率 が高 く総督府か ら特別指定地域に定められた所 に施行 され るものであつた。特
別 マ ラリア撲滅計画は原虫保有者 の発見 と強制服薬 によるマ ラリア原虫の除去に重点を置
37
くもので 、総督府 よ り執行 官 を派遣 して 計画 を実行 し特別指 定地域 の警察官 は執行官 の指
示 に従 うこ とが定 め られ た。 また特別 指 定地域 のキ ニ ー ネ の代金・ 検診 費用 は官費 で支払
い 、地物整理費な どは保 甲其 の他 の支 出 とした。 明治
44年 (1911)12月
の会議 では阿線
庁蕃仔哺庄 と台 湾製糖会社 に総督府指導 の 下阿線街 同様 の特別 マ ラ リア防過法 を実 質 る と
い うことが新 たなマ ラ リア防過政策 として決定 され た。
童潟線 督府 は大正
2年 (1913)マ ラ リア防過規則
。同施行規則 を制定 し、台湾総督や知
事 (鷹 長 )の 職務 ・ 権 限、 マ ラ リア防過方法施行地 域 内 の 土地建物 の所有者 の義務や居住
者滞在者 の義務 につい て定 めた。 同年蔓漏線督府 はマ ラ リア防過心得 を配布 し、 ア ノフ ェ
レス に関す る知識 を一 般 の人 々 にわか りやす く説 明 して 防過意識 の 向上 を図 ろ うと努力 し
た。
大正 8年 (1919)墓 湾線督府 は人数不足 を補 うためマ ラ リア防遇従事員 の養成 を検討 し、
マ ラ リア防遇事 務講習 を開始 した。 マ ラ リア事務講 習 では蔓 溝線督府 の マ ラ リア防過事業
や地方 のマ ラ リア防過事 業 に大 き く関与 して きた羽鳥重郎や 穴沢顕治、森 下薫 な どが講 師
を務 めた。各州庁 主催 のマ ラ リア防遇事 務講習 では 、衛 生課 長・ 衛 生技 師 だ けでな く警察
讐や警部 も講師 を務 めた。 同時 に台 湾総督府 はマ ラ リア防過事 務講習規程 。マ ラ リア防過
事務講習心 得 を制 定 し、 マ ラ リア防邊施行 地 増加 に伴 う医務助手不足 に対処 した こ とが明
らか になった。 さ らに戦前 の警察行政 は現在 の よ うに治安維 持 のための行政 で はな く、衛
生や 教育な ども掌 る行政機構 であった こ とが明 らかにな った。
38
第 2章
地方 のマ ラリア防過 の実態
大正 9年 (1920)の 台湾地方制度 の改正に伴い、マ ラリア防過の事務管轄が台湾総督府
より地方 自治園膿 に移管 された H7。 『 マ ラ リア防過誌』 においては、マ ラリア防過事業 の
記述は昭和 7年 (1932)の 医療事業 に関す る記述で終わつてお り、台湾全島の地方におけ
るマ ラリア防過事業 の詳細な記述はない。その具体的な内容 を以下で検討す る。
特別会計伝染病予防臨時費資金 とマ ラリア防過費の負担区分・ 補助方法決定
大正 9年 (1920)12月 、州特別会計伝染病予防臨時費資金 の設置について台湾総督府 より
第 1節
各州知事へ通達がされ、
『 マ ラリア防過誌』60頁 に次 のよ うに記載 されてい る。
一 、州特別會計博染病豫防臨時費資金設置 大正九年十 二月 二十三 日総務長官 よ り各
州知事へ通達せ り(線 警第二人三〇
" 自治回罷 の事務に婦属すべ きもの多きを以て本年
公共衛 生費 は其 の事業 の性質上地方
度限 り之を廃止 し次年度 より其 の収入は全部一般會計 に収納せ しむべ きも本島風土の
関係 と今尚各種博染病 の流行燎 まず其 の損害砂 か らざるものあるの賞情 に鑑み地方に
於 ける防過施設 を一層充賞す るの必要を認 むるを以て州 に於 いては経常費 として博染
病豫防費を計上するの外別 に特別會計博染病豫防臨時費資金 を設 け州直接 にまたは間
接 に補助等 の方法に依 り市街庄を して避病院の建設、「マ ラリア」防遇 に開す る地物 の
整理等博染病豫防上必要なる臨時施設 を促進せ しめ度之が資源 としては現有公共衛生
費所属財産中の一部並に年 々の屠蓄手数料 を以て之に充営す ることを相定め候條大正
十年度豫算 は右 の趣 旨に依 り編成可相成。
同年 12月 下村宏総務長官 118ょ り各州知事へ通達が出され、①公共衛生費は今年度限 り
で廃 止 となるが各種病気 がなくな らない状況 なので、地方に於ける防過政策を充実 させ る
ために州において経常費 として伝染病予防費を計上す るほかに、特別会計伝染病予防臨時
費資金 を設けること、②各州麻 が市街庄 に補助 して病院建設や地物整理等を促進す ること、
③州特別会計伝染病予防臨時費資金 は現在公共衛生費 に属 してい る費用や毎年 の屠畜手数
料を充当す ること、
④大正 10年 度 の予算は以上のように編成す ること等が伝 えられてい る。
大正 11年 (1922)2月 台湾総督府 は伝染病予防費・マ ラ リア防過費の負担区分 と補助方
法を決定 したが『 マ ラリア防過誌』60、 61頁 に以下のよ うに記 されてい る。
一 、博染病豫防費負指匠分及補助 に開す る件 大正十一年 二月府議決定
博染病豫防及 び 「マ ラリア」防遇費負指匡分及補助方法左の通 り決定す。
1、
州費支耕に属すべ きもの
39
一 検疫委員設置 に開する諸費但港務所長 に於て検疫委員を設置 したる場合 の諸費は
此の限 りにあらず
二
明治 二十八年勅令第七十一琥 に依 り支給す る手営金
三 船舟自汽車検疫 に開す る諸費
四 蔓湾博染病豫防令第十一條第二琥 に依 る交通遮断隔離 に開す る諸費又は交通遮断
隔離 の鶯 自活 し得 ざる者 の生活費
五 ペ ス ト防遇 の鶯必要なる施設に開する諸費
六 ペ ス ト病毒 に汚染 したる建物其 の他 の物件虎分 に開す る諸費
七 種痘 に開す る諸費
人 博染病豫防又は 「マ ラ リア」防過 の鶯 にする検診、血液検査、治療、服薬、地物
整理に開する諸費
九 博染病豫防又は 「マ ラリア」防邊の鶯直接必要なる下水 の施設に開する諸費
十 其の他州 に於て施行する偉染病豫防 「マ ラリア」防遇に開す る諸費
同年 2月 台湾総督府 は伝染病予防費・ マ ラリア防遇費 の負担区分 を決定 し、州 が支払 う
べ き費用 として、①検疫委員設置 の費用、②明治 28年 勅令第 71号 H9よ り支給 され る手
当金、③船舶や汽車 の検疫 に関する費用、④台湾伝染病予防令第 21条 第 2号 120に 依 る交
通遮断・ 隔離 に関す る費用 と交通遮断 。隔離 のために 自活 できな くなる者 の生活費、⑤ペ
ス ト防過 に必要な費用、⑥ペ ス ト病毒 に汚染 された地物を処分す る費用、⑦種痘に関す る
費用 121、 ⑧博染病 。マ ラリア防過の鶯 の服薬・治療・ 検査・地物整理に関す る費用、⑨伝
染病 。マ ラ リア防遇 のための下水施設 に関す る費用、⑩其 の他州 が施行する伝染病予防・
マ ラ リア防過に関す る費用等をあげている。
市街庄 が支払 うべ き費用については次 のよ うに記 されてい る。
2 市又は街庄費支耕 に属すべ きもの
一 博染病豫防の鶯にする清潔方法及び消毒方法施行に関す る諸費
二 博染病豫防、救治 の鶯雇入 たる讐師其 の他 の人員並豫防上必要なる器具、薬品其
の他 の物件に開する諸費
三 博染病院、隔離病舎、隔離所、消毒所 の建設維持其 の他 に開す る諸費
四 博染病豫防、救治 に従事 したる者 に給す る治療料及其 の他遺族扶助料、弔祭料
五
蔓彎博染病豫防令第人條に依れ る交通遮断、隔離 に関す る諸費及交通遮断隔離 の
鶯 目又は一時螢業を失ひ 自活 し能はざるものの生活費
六 市街庄内に於て嚢見せ る貧民 の博染病患者並死者 に開す る諸費
七 蔓彎博染病豫防令第二十一條第七琥又 は第人琥に依 り市街庄 の全部または一部 に
封 し家用水 の使用を停止 したる場合市街庄に於て家用水 の供給 を鶯 したるとき之に開
する諸費
40
人
第 一 項第 七 琥 の事又 は第人琥 の 地物整理及 び 第 九琥 の事項 に して市街庄 に於 いて
必要 と認 め之 を施行 したる ときの諸 費
九
3
其 の他市又 は街庄 に於 て施行す る博染病豫防及 「マ ラ リア」防過 に開す る諸費
麻管 内にお いて は第 二項 の諸費 は麻地方費 の支耕 とす 122
同年 2月 台湾総督府は伝染病予防費・マ ラリア防過費の負担区分 を決定 し、市街庄が支
払 うべ き費用 (庁 管内においては庁地方費 の支弁)と して①消毒・清潔保持 にかかる費用、
②伝染病予防のために雇 う医師 の人件費や器具薬品の代金、③隔離病棟 や消毒所 の建設・
維持費、④伝染病予防事業従業者 の給料や その家族 に対する保障 123、 ⑤台湾伝染病予防令
。
第 8条 124に 依 る交通遮断 。隔離 に関す る費用 と交通遮断 隔離 のために一時的に営業がで
きな くなる者 の生活費、⑥市街庄内で発見 した貧民の伝染病 患者や死者 に関す る費用、⑦
台湾伝染病予防令第 21条 第 7号 又は第 8号 125に 依 り家用水を使用停止に した場合、水 を
供給す るのに必要な費用、③種痘 に関す る施薬、伝染病 。マ ラリア防過 の鶯 の地物整理・
下水施設 に関す る施策を市街庄 の判断で施行す る時 の費用、⑨ そ の他市街庄 が施行す る伝
染病予防・マ ラリア防邊 に関す る費用等をあげている。
伝染病予防費・マ ラリア防邊費の補助方法 については以下のよ うに記載 されてい る。
4 州は第二項 の市街庄 の腑指に封 し其 の支出額 の三分 の一 を補助すべ し但 し知事必
要 と認むる ときは其の全額迄を補助す ることを得
5
國庫は第一項第 九琥第 二項第 二琥 の経費を除き州 の負指 に封 し三分 の一 を補助す
るものとす 126
同年 2月 台湾総督府 は伝染病予防費・ マ ラ リア防邊費 の補助方法 として州は市街庄 の負
担に対 し三分 の一補助すること (但 し知事が認 めた場合全額補助できる)、 国庫 は一部経費
を除き州 の負担 に封 し三分 のす を補助す ることを決定 した。
41
第 二節
墓南州 のマ ラ リア防邊
蔓南州 のマ ラ リア 防遇 を語 る上 で特筆す べ き人物 が二人 い る。 それ は下村 八五郎 と重松
英太 、野 田兵 三で ある。始 めに彼 らの経歴 を紹介 して い く。
下村 人五郎 は医学博 士で 明治 17年 大分県 に生まれ、同 43年 に長崎医専 を卒業後 、大 正
元年 に渡蔓後、公 書 とな り安平 に駐在。 同 14年 台湾総督府 地方技師、翌年台南州警務部衛
生課 警察讐 に就任 、昭和 4年 に蔓北州衛 生技師、同 7年 新竹州衛 生課長 を歴任 し、マ ラ リ
127。
ア 防遇や ペ ス ト 0コ レラ・ チフス 防邊等 の 防疫衛 生 に尽力す る
重松英太 は医学博 士で 明治 14年 福 岡県 に生まれ、同 36年 長崎 医専 を卒業後、同 37年 陸
軍 二 等軍讐 になる。 同 45年 渡蔓後 、警 察本署 理蕃課嘱託 とな り、蕃地讐務 を掌 る。 大 正 2
年警察本署衛 生課衛生係長 、同 8年 警察 本署衛 生課 防疫 医官、同 10年 中央研 究所菫南薬 品
支所 主任兼技師、翌年 台南州警務部 衛 生課衛 生課長 を歴任 し、台南州 の衛 生事業 に多大 な
功績 を残 した 128。
野 田兵 三 は医学博 士 、明治 18年 熊本 県 に生まれ、同 42年 長崎 医専 を卒業後 、大 正 9年
台南麻警察讐、同 12年新竹州衛 生技師兼警務 部衛 生課衛生課長、同 15年 中央研 究所技師
兼 台南薬品試 験支所 主任 、同年 春 に台南州衛 生課長 に抜櫂 され 内務部教 育課 と兼任 し、台
南州 の衛 生事業 を担 う中心的人物 である。
台南州 のマ ラ リア 防過 は大正
行細貝Jが 制定 され 、大正
129
2年 (1913)に マ ラ リア防遇規則 並 にマ ラ リア防過規貝J施
8年 (1919)の 法改正 によつて強制服薬法 に加 えて地物整理 に重
点 を置 くよ うな改 正 を し、麻長 、防疫組合 、保 甲組合 にもマ ラ リア 防遇 に参画す るよ うに
義務化 され た。 また台南州衛生課 はマ ラ リア防遇作業 を徹底す るた めに防疫讐 や讐務助手、
防過手 が配置 され るよ うにな つた。 法改 正 に よつて地 物整 理 な どの外部作業 に重点 を置 く
よ うにな つ た。州 下 一 国 にマ ラ リア防過作業 が 実施 され る前 の外部作業 として は、重松英
太衛生課長 を中心 に して整理埋 立 を為 し、 埋 立 不可能 な場所 は溝壁 を舗 装 し橘鉢状 の人 工
物 を作 つた。 これ はア ノ フェ レス蚊 が人 工物 に産卵す る こ とを嫌 う習性 を応 用 した もので
ある。 この よ うな整 地は台南市 の み で 50餘 箇所 に及ぶ。外部作業 には常 に監視人 を派遣 し
周 囲 の雑 草、水草 の刈 除 を行 い 、「タ ップ ミノ」 とい う外来魚 を放流 し、 この魚 の習性 であ
130
るボ ウフ ラを捕食 とい う方法 でマ ラ リア防過 を行 つていた。
「
二
台南州衛 生課が州下一 円のマ ラ リア防過作業 に着手す る動機 について 童南州下 於ケ
ル「マ ラ リア」防過作業 ノ賞際 卜其成績」 (以 降下村論 文 131と 略称す)『 蔓湾讐學会雑誌』
59∼ 60頁 に以下のよ うに記 されている。
蔓南州 二於テハ豫 テ州下二十箇所 ニマ ラ リア防邊所 ヲ設ケ、其地方住民 ノ検血及原
轟保有者 二封 シ服薬 ヲ賞施 シ、尚防遇規則 ニ ヨル地物整理 ヲ並行 シ末 リタルモ殆 ド
ニ ヨリ
有名無賞 ニ シテ、其効果 ノ如キモ 見ル ヘ キモ ノナカ リキ。而 シテ検血服薬等
「マ ラ リア防遇ノ如 キハ其地方 二於ケル成績良好ナ リ ト雖、各所人 口線計 5-6高 ニ
シテ、州下百高民衆 ヨリ見ル トキハ恰 モ九牛ノー毛 トモ云 フヘ キー小部分 二過ギズ。
42
ヘ
之等 ノ地域俄令成績佳 良ナ リ ト雖直 チ ニ州下 一 般 マ ラ リア減少 ヲ末 シタ リ ト云 フ
クモ ア ラズ 、依 テ州営局 トシテ ハ 果 シテ 如何 ナル方法 ヲ講 シナ バ 最 良 ノ効果 ヲ納 メ
ニ
二
得 ル カ ハ 常 二 考慮 セル 所 ナ リ。 之 ニハ ー 般 民衆 ノ衛 生思想 ノ普及並 向 上等 シテ
マ ラ リア ニ 開 スル 知識 ノ注入 ニ ア リ ト篤 シ、或 ハ 活動 鳥員 二又 ハパ ンフ レ ッ トニ ヨ
ニ
リ又 ハ 講演等 ニ ヨ リ相営 ノ効果 ヲ収 メ得 タ リ。然 レ トモ 之等 ハ 昔 日一 過性 シテ俗
二 云 フ ロヨ リ鼻 二抜 ケ又 ハ 耳 ヨ リロニ抜 ケル 例 ニ シテ 、直 二忘却サ レ著 シキ効果 ノ
持績 セル ヲ認 メザ リキ。滋 二於テ州営局 ハ 大 正 12年 12月 中旬 マ ラ リア防過事務打
二
合會 ヲ開催 シ州下 マ ラ リア防過手及讐務 嘱託 ヲ召集 シ 、以 テ マ ラ リア 防過 適切ナ
ル 方法 ヲ諮 問 セ リ。余 (下 村 八五郎 )営 時州 下新化郡新化 駐在 マ ラ リア防過馨務嘱
ハマ ラ リ
託ナ リシヲ以 テ本會議 二列席 シ抱負 ヲ建 白セ リ。即 チ マ ラ リア防過 ノ根幹
ア媒蚊説 ニ ヨ リ
(1)人 證 内 ノ原轟 ヲ殺滅 スル カ、 (2)媒 介者 タル「ア ノフェ レス」
ゝ
蚊 ヲ剰滅 スル カ 、 (3)「 ア ノ フエ レス」蚊 ノ刺贅 ヲ全然免 カル 力 、三者 アル ノ ミ。
「
二
要 ハ 此 三者執 レカ完全 二賞 施 セル カ ゝ否 カ ニ在 り。然 ル ニ現 下 ノ マ ラ リア」 封 ス
ル 州下民衆 ノ態度 ハ 全然無知識 卜云 フベ ク、 マ ラ リア ノ媒 蚊説 ス ラ信 ズルモ ノナ リ
キ有様 ニ シテ 、此 ノマ ゝニ シテ進 ム トキハ 如何 二営局 ガ之 二カ ヲ致 ス ト雖百年河清
ヲ侯 ツ ニ等 シク其効果 ハ 少 ナカル ベ ク依 テ衛 生思想 ノ普及 向上 ハ 最 モ 必要ナル モ ノ
ニ属 シ、 之 ニハ従 来 ノ宣博方法 タル活動 鳥員、 パ ンフ レ ッ ト、 ポ ス ター 等多種 多様
ノ方法 アル ベ キモ 多 クハ ー 過性 ナ リ、故 に罷 験 的 二 注入 セ バ何程無智 ノ民衆 モ 必 ズ
ニ
之 ヲ理 解 スベ シ。即 チ外部作業 、 地物整理及 防蚊装置等 ヲ賞 地 二施行 スル 如 ク ト
ナ シ。本 方法 トシテ ハ 各 マ ラ リア 防遇 区域 二 毎月 一 回 マ ラ リア防遇デ ー ヲ設 ケ、営
日ハ 州 ヨ リ技術官及 事務 監督者 (警 察官幹部 )出 張 シ之 等 ノ作業 ヲ賞際 二指導 監督 シ
バ
二
其方法 ヲ授 ケ、以 テ手 ヨ リ、足 ヨ リ、 ロ ヨ リ、耳 ヨ リ、賞際證験 的 注入 セ 不知
不識 ノ間 二「マ ラ リア 」防邊 上 ノ知識 ヲ獲得 シ 、効果 ノ顕著ナ ル 火 ヲ賭ル ヨ リモ 瞭 カ
ナ リ ト主唱 セ リ。 (筆 者 下線 )
ハ
営時菫南州 ニ テ ハ 警務部 長 ハ 少壮叡智 ノ能澤氏 ニ シテ衛 生課長 篤學頴悟 ノ故重松
ハ ニ
英太 氏ナ リシガ 、雨 氏 ハ 意氣相投 ジ肝謄相 照 ス ノ間柄 ナ リシフ以 テ 、余 ノ説 直
二「マ ラ リア防過デ
採用 セ ラ レタ リ。 大 正 13年 度 ヨ リ念 々州下 マ ラ リア防遇所在地
ー 」ヲ制定 シ 、営 日ハ 必 ズ外部作業、 地物整理 、下水溝排 水切1路 等 ノ疎通、蚊帳 ノ督
励 ヲ鶯 ス コ ト (筆 者 下線 )ゝ シ 、 マ ラ リア 防遇デ ー 施行方法 ヲ嚢布 セ リ。 之墓南州
下一 回 マ ラ リア防遇作業 ノ濫傷 ナ リ。
以 上の下村論文 よ り台南州 には 20箇 所 のマ ラ リア 防遇所 があ り、其地方 の住 民 に検血服
薬 を実施 して い た こ とが分 か る。 台南州衛 生課 は一 般 民衆 の衛 生思想 の普及 に活動 鳥 員や
ポ ス ター 、衛 生講話 、 パ ンフ レ ッ トな ど多種 多様 な方法 で普及 してい つ た。 しか し之 等 の
方法 は一 過性 の衛 生思想 普及 に過 ぎな い と下村 八五郎 マ ラ リア 防遇嘱託書 は明言 し、衛 生
思想 の普及 は体験 的活動 を通 して注入す べ きで ある と提言 した。 これ は現在 の学校 教育 に
43
マ
に
お ける体験学習 に も通ず る考 え方 で ある と言 える。 そ のため下村 は各 ラ リア防邊 区域
│1路
の
毎月 一 回マ ラ リア防遇デ ー 132を 制 定 し、外部作業 、地物整 理 、下水溝排 水り 等 疎通 、
の
長
蚊帳 ノ督励 に従事 させ る こ とで衛 生思想 の普及 を図 つた。警務 部長 能澤外茂吉警務部
133と 重松英太衛 生課長 が 下村 八五郎 マ ラ リア防邊嘱託 医 の提言 に賛同 し、マ ラ リア 防邊デ
ー施行方法 が発布 され た。 これ が台南州下 一 回 にお けるマ ラ リア防過作業 の濫傷 である。
マ ラ リア防遇デ ー施行方法 について前掲 下村論 文 60∼ 61頁 に以下 の よ うに記 されて い る。
マ ラ リア防過デ ー施行方法
1、
「マ ラ リア 防遇デ
二
各郡 マ ラ リア防遇施行 地毎 二毎月 一 回 マ ラ リア 防遇施行地 封 シ
ー 」ヲ定 ム
2、
マ ラ リア防過デ ー ニ際 シテ ハマ ラ リア防邊規貝J同 施行規則及 同施行方法 二則 り左
記事項 ヲ施行 スルモ ノ トス
ハ
(1)防 過方法第 4二 依 り施行地域 内 ノ居住者滞在者 及 土地建物 ノ業主所有者又 占
有者 ハ左 ノ事項 ヲ確賞 二賞施 スル コ ト
イ
池沼渓流埠り1等 ノ水路両岸 ノ雑草 ヲ刈 除 スル
コト
ロ 竹、林投其他蚊族 ノ棲 止 シ易 キ藪 、林 ノ下枝 ヲ少 ク トモ六尺以上切排 フ
ハ 宅地附近 ノ凹地 ヲ埋立テ雨水瀦溜 ノ餘 地ナカ ラシムル コ ト
ニ
空罐 、破瓶 、 土瓶 、茶碗 、竹筒 等荀 モ 水 ノ瀦溜 シ得
コト
ベ キ物件 ハ ー 切 宅地及部落 内
ヨ リツト
除 スル コ ト
ホ
二
シテ 日光消
住 宅 内 ノ諸道具 、被服 、寝 具 ヲ全部屋外 二搬 出セ シ メ直接 日光 曝露
毒 ヲ行 フ コ ト
ヘ
門戸 ヲ開放 シテ住 宅内 二 陰暗 ナル箇所 ナカ ラ シメ 日光 ヲ導入
シ換氣及乾燥 ヲ計ル
コト
(2)マ ラ リア防邊匡域 内 ノ市街庄及保 甲ハ 防邊規則第 九條 、第十 五 條 ニ ヨ リ前項 ノ
義務者 ナ キ地 二封 シ前項各琥 ニ ヨ リ施行 スル ノ外前項義務者 ノ蒐集
ベ
下水及溝 渠 ノ浚渫 、蚊族 ノ駆 除 ヲ特 二厳重 二施行 ス シ
シタル汚物 ノ虎 分 、
(3)営 該吏員 ハ 営 日左記 ニ ヨ リ監督又ハ 指導 二営ル ベ シ
警察官吏 ハ ー 般 ノ「マ ラ リア 防過 デ ー 」ノ施行 ヲ監督 指導
検 査 ヲ施行 スベ シ
イ
スル ノ外各戸 二付蚊帳 ノ
ベ
ロ 技術員 ハ 特 二営 日蚊族 奎 生箇所 二就 キ之ガ庭置 二付 キ監督指導 ス シ
ベ
ハ 営 日州派遣員又 ハ 嘱託讐其他 ノ者 ヲシテ マ ラ リア防遇 ノ講話 ヲ施行 ス シ
ハ
之 ヨ リ先州下 マ ラ リア濃厚 ナル 主要部落 (嘉 義 、新化 、佳 里 )ニ テ 低瀑 地 ノ排 水方
マ
法 、水溜 ノ埋 立排水等 二 向 ッテ漸進 中ナ リシハ 言 ヲ侯 タ ズ。 蔓南州 ラ リア防過 区域
二於 ケル「マ ラ リア 防遇 デ ー 」ハ 毎月施行 スル ニ 至 レ リ。余 営時蔓南州 マ ラ リア 防邊地
二 り、
物整理讐務嘱託 ナ リシ関係 上 、州 下各 防遇所 二於 ケル 防邊作業 ノ指導監督 ノ任 営
余 ノ證 験的 主義 二則 り自ラ第 一 線 二 立チテ 作業 二従 事 シ 、 且機會 アル毎
44
二 防遇方法 ニ
付講演 シ、特 二保 甲會議 、家長會 、家婦會 及學校 生徒 二封 シ其機會 ヲ捉 ヘ タ リ。 而 シ
テ州 下各防遇匡域 中衛 生状況最 モ 不 良 ニ シテ領 墓以来 出生超過 ヲ末 タシタル コ トナ キ
北 門郡佳 里及新化郡新市 二最 モ カ ヲ注 ギテ 防過作業 ヲ実施 セ リ。大正 14年 州下 一 園 ヲ
防過匠域 二編入 シ、各技術員 ノ受持 匝制定 ヲ賞施 マ デ縫績 シ以 テ其地方 二於 ケル 基礎
作業 ノ大略 ヲ完成 シ昔 日ノ観 ナ キ迄 二作業 ヲ進捗 セ シムル コ トヲ得 タ リ。
以 上 の 下村論 文 か らマ ラ リア防遇デ ー施行方法 はマ ラ リア防遇規貝1に 則 り制 定 され
た もので竹藪 (下 枝 が 6尺 以 上 (180cm))の 伐採 や池沼な どの雑 草 の刈除な どの外部
作業や マ ラ リア防過デ ーの 際 には住居 内 の諸道具、被服 、寝具 を全部屋外 に搬 出 して
直接 日光消毒 を行 つた りして い る。 又下村 は防遇所 にお ける防遇作業 の指導監督 の任
に有 り、罷験 的主義 に則 り率先 して地物整理 に関与 し、 一 方 で 防遇方法 を保 甲会議 、
134、
家長会、家婦会 、公学校 な どで講演 して衛 生思想 の普及 に努 めてい る。北 門郡佳 里
新化郡新市 135の 防遇作業 に最 も力 を注 ぎ、技術員 の受持 ち区域制 を導入 し基礎 作業 の
大略 を完成 させ た こ とが分 か る。
マ ラ リア防過作業匡域受持 に関 して前掲 下村論文 62頁 に以下 の よ うに記 され てい る。
州 下各派 出所管 内 ヲー 匡劃 トシマ ラ リア防遇作業 ヲ定 メ毎月 一 回防遇作業 ヲ賓 施
ス。防 邊作業 ハ 大正 14年 5月 1日 ヨ リ開始 シ定 日ハ 群 守警察署長之 ヲ定 メ報告 スベ シ
1、
各郡 ニマ ラ リア防邊事務 二従 事 セ シ ムベ キ専務巡査 ヲ配 置 シ、 マ ラ リア防遇施行
区域及其他郡管 内 ノ防邊作業 二 営 ラ シムル ノ外各派 出所受持警察官 吏 ハマ ラ リア事務
2、
嘱託及保 甲役員督励 シテ 防過作業 ノ徹底 ヲ期 スル コ ト、郡 二配置 ス
置箇所及 定員 ハ 左 ノ通 り 警察署
郡
3、
嘉義郡
3、
斗 六郡
1、
1、
虎 尾郡
1、
新豊郡
北港郡
2、
1、
新化郡
東石郡
ベ キ専務巡 査 ノ配
北門郡
3、
曾文郡
2、
計 21(配 置箇所略 )
1、
2、
新螢
郡駐在 マ ラ リア讐務嘱託 公 讐及 州在 勤技師、警 察書 、嘱託 ハ 随時受持 匡域 内 ヲ巡視
シ常 二 防過作業 ノ賞況 ヲ視 察 シ作業従 事員 ヲ指導 ス。 其分謄者駐在 地及受持 匡域 ヲ定
3、
ル コ ト左 ノ如 シ
下村嘱託 讐 (衛 生課駐在 )蔓 南市、新 豊郡 下、安倍 公 讐 (新 螢駐在 )新 螢、東 石郡 下
頴川 公 讐 (虎 尾駐在 )虎 尾 、北港郡 下
榊原警察 医 (衛 生課駐在 )新 化郡下
宮川衛 生技師 (衛 生課駐在 )曾 文、北 門郡 下、
嘉義斗 六郡 下未定
郡 下重ナ ル 部落 二於テ マ ラ リア診療 ヲ行 フ。 賞費 診療 ハ 専務受持警察官吏、 マ ラ
リア事務嘱託 、保 甲役員 ヲ補助 トシテ前項 ノ職員及街 庄 吏員 之 ヲ施行 ス。但 シ之 二要
4、
スル 経費 ハ街庄 ノ負指 トス。
5、
マ ラ リア防邊讐務嘱託 公 讐、専務受 持警 察官 吏、 マ ラ リア防過事務嘱託 、街庄 吏
員 、保 甲役員等 ハ 郡守 ノ指揮 監督 ヲ受 ケ部 民 ヲ指揮 シ地 物整理、外部作業 ヲ賞施 ス
6、 前項 ノ職員 ハ 防過作業 施行 地域 内在住者 ヲシテ睡 眠 ノ際 ハ 必 ズ蚊帳 ヲ使用 セ シム
ル ノ慣習 ヲ養 フベ シ
45
「
保 甲會議 、家長會議 其他 多衆集合 ノ機 ヲ利用 シ讐師 又ハ 警 察官 吏 ヨ リ マ ラ リア」
二 開 スル 講話 ヲ鶯 シ 「マ ラ リア」 二 封 スル 知識 ヲ注入 スル ト共 二 防過 二 開 スル 注意 ヲ
7、
喚起 スル ニ努 ムベ シ
8、
州 下各公 學校 二於 テハ 毎月 マ ラ リア ニ 開 スル 賞 地講話 ヲ鶯 シマ ラ リア 防過施行 ノ
主 旨 ヲ児 童 ヨ リ家庭 二普及 セ シム
9、
大正 14年 3月 墓南州告示第
62琥 二依 ル マ ラ リア防過方法施行 地域 二於 ケル 防過
方法ハ徒 末 ノ通 リ トス。
マ
以 上の 下村論文 よ り州 下各派 出所管 内 を一 区画 としてマ ラ リア防過作業 を実施 し、 ラ
137、 街庄
リア防過馨務 嘱託公讐、専務受 持警察官 吏 (巡 査 )136、 マ ラ リア防過事務嘱託
吏員、保 甲役員等 は郡守 の指揮監督 を受 け、部 民 を指揮 し地物整理 、外部作業 を賞施 した。
また彼等 は マ ラ リア防遇施行 地域 内居住 民 に対 して睡眠 の 際 に蚊帳 の習慣化 を図 つた。郡
駐在 のマ ラ リア防邊讐務嘱託 公 讐及 び警 察 医や 嘱託 は随時受持 区域 内を巡視 し、防過作業
の実況 を視察 し指導す る。下村八 五 郎嘱託 讐 は蔓南市、新豊郡 を、安倍貞次公讐 は新螢郡 、
東石郡 を、榊原保警察医 は新化郡 を、頴 川 一三公讐 は虎尾郡 、北港郡 を、宮川 富 士 松衛 生
技師 は曾文郡 、北 門郡 を担 当 した。保 甲会議 、家長会 、家 婦会等 の機會 を利用 して医師や
警察官吏 か らマ ラ リアに関す る衛 生講話 を受 け、マ ラ リア に対す る知識 を注入 し、防 遇 に
マ
関す る注意 を喚起 した。州 公学校 で は毎月 マ ラ リア に関す る実地講話 を行 い 、 生徒 に ラ
リア防過 の必 要性や趣 旨 を説 き、児童 か ら家庭 へ衛 生思想 の普及 を促 した こ とが読 み取れ
る。 また台南州 で受持 区域 を担 当 した メ ンバ ー は各州主催 の マ ラ リア防邊事務講習 の 際 に
講師 として講演 を して くれ るマ ラ リア防過担 当 の 医師 で実践 の ある専 門家 た ちである こ と
がわか る。 138
模範部落 ノ構成 について前掲 下村論文 の 63∼ 64頁 に以下 の よ うに記 され てい る。
マ ラ リア防遇匡域受持制定 ニ ヨ リ余 (下 村 )ハ 蔓南市及新 豊郡 ノ指任 タル コ トヲ任命
セ ラ レタ リ。依 テ余 ハ 其賞務 二 営 り市部 ヨ リ比較的 マ ラ リア濃厚部落 ナル郡部 二 カ ヲ
注 ギ 、先 ヅ郡 ニマ ラ リア防遇作業模 範 部落 ノ設 定 ヲ決意 シ、新 豊郡警察課長 上 出警部
卜相計 り蔓南市 ヲ距 ル 東南約 二 里半 ノ嬌祖廟派 出所管 内 ヲ選 ビタ リ。営派 出所 主任 徳
二
永巡査及保 正 線代楊 丁旺並 ニマ ラ リア防過専務 大川巡査等 卜協カ シ 、本管 内 於 ケル
外部作業 二着 手 セ リ。始 メ本作業 ハ 毎月 一 回 ノ防邊デ ー ニ施行 スル ナ リシモ 、蔓南州
下 ノ如 キ熱 帯地 二於 ケル 住家 附 近 ノ竹林 ノ根部 ヨ リ枝 ヲ生 ジ 、枝 ハ 年 々生長 スル 性質
ヲ有 シ其繁茂名状 スベ カ ラザ ル モ ノア リ。 且竹 ニハ 荊棘 ヲ有 シ尋常 一 様 ノ手段及 勢力
ニ テ ハ 敷箇年 ノ 日子 ヲ経過 スル モ 恐 ラク豫 定 ノ作業完成 ノ見込ナ キ ヲ思 ヒ、農 閑 ノ時
期 ヲ撰 ビ全部 落民 ヲー 齋 二従 事 セ シ メタ リ。之等官 民 一 致 ノ努カ ニ ヨ リ、サ シモ ノ難
事業 タル 外部作業 モ 忽 ニ シテ 完 全 ノ域 二 達 シ 、竹林 ハ ニ 丈 マ デ ノ下枝 ヲ、雑木 、雑 草
ハ 悉 ク之 ヲ刈 り且 ツ燒 キ排 ヒ、住 家 附近 ハ 雑 草、竹藪等 ノ認 ムル モ ノナ ク、如何 ナル
46
遠 距 ノ地 ヨ リモ 赤瓦、 自壁 ヲ透 視 シ得 ル ニ 至 レ リ。 尚果樹 ノ如 キモ 樹幹 ニ アル小 枝等
ヲ伐採 シ、通風 ヲ佳 良ナ ラ シメタル ハ 言 ヲ侯 タズ。従来住家 附近 ハ 殊 更竹林雑 草木等
ニ テ 園 マ レ 日光 ノ射入及通風 ヲ妨 ゲ ラ レシ ガ 、本作業 ヨ リ明朗清楚 タル 部落 トー 愛 セ
リ。 尚排水 ヲ良好ナ ラ シムル 鶯 メ排水路 ヲ開撃 シ (本 事業 中或箇所 ノ如 キハ 甚 ダ大事
ヘ
業 ナ リシ ヲ以テ特 二州警務部長 ノ認 ムル 所 トナ リ約 250間 二 封 シ補助 ヲ典 タ リ)、 又
り1路 ノ雑 草等 ヲ除 キ流水 ヲ ヨクシ以テ蚊族 ノ産卵所及 子子 ノ成長嶺育所 ヲナカ ラ シメ、
又成蚊 二棲 息所 ヲ興 ヘ ズ、一 面蚊帳 ノ奨励 ヲ鶯 シ、1寝 蔓必 ズ完全 ナル 蚊帳 一 張 ヲ有 ス
ル コ トヲ ロ的 二奨励 セ リ。 尚水溜 ニハ 石油 ヲ撒布 シ子子 ノ死滅 ヲ計 レ リ。 以 上 ノ如 キ
大作業 モ 指導監督者 ノ熱誠 トー 般 民衆 ノ理 解 アル 努カ ニ ヨ リ僅 々月餘 ニ シテ 完成 セ リ
(本 作業 二従 事 セル 延人員 巡査 87、 一 般 民衆
13,558人 ニ シテ此外余 ノ徒 事 日敷及 警部、
警部補等 ノ監督 日敷 モ相営敷 ヲ示 セ リ。)本 作業 ノ完成 マデ 隣接派 出所部落 ハマ ラ リア
防過作業 ノ果 シテ如何 ナ スベ キヤ ヲ知 ラズ シテ 着手サ ヘ セ ザ リシ部 落 モ 此風 ヲ望 ンデ
着手 シ 、其完成 卜其作業 ノ美化 ヲ競争 スル ニ 至 レ リ。 之 ヨ リ先 キ、嬌祖廟受 持巡視 匠
監督清水巡査部長 ハ 其受持 匡域 内 ノ巡査及保 甲役員 二嬌祖廟 派 出所 管 内 ヲ視 察 セ シメ
直チ ニ各 自ノ部落 ヲシテ同一 作業 ヲ鶯 サ シメタ リ。 尚巡視 匝 ノ外部作業 、 地物整理等
歩 一 歩進展 スル ニ徒 ヒ、隣接派 出所 ヨ リモ 視察 シ着 々外部作業 、地物整 理及蚊帳奨励
等 ヲ鶯 シ忽 チ ニ シテ全 新豊郡 下 ハ 着手後約 半歳 ニ シテ徒 末不潔極 マ リナ キ鬱蒼部落 モ
ー 愛 シー 大公 園化 セ リ。
以 上 の 下村論 文 よ リマ ラ リア防遇 区域受持制 定 に よつて下村 八五郎氏 は台南市 、新 豊郡
のマ ラ リア防遇事務担 当者 で あ つた こ とが分 か る。彼 はまず マ ラ リア防遇作業模範部落 の
設定 を行 い 、上 出英 一 新豊郡警察 課長 139と 台南市東南約
10km圏 内 の嬌祖廟派 出所管 内 を
マ ラ リア防遇作業模範部落 に選 定 した。派 出所 主任 の徳永 巡査 、保 正 線代 の楊 丁旺 、 マ ラ
リア防過専務 大川巡査 らと協力 し外部作業 に着 手 した。始 めはマ ラ リア防遇デ ー に則 り竹
木 の伐採等 の外部 作業 を実施 しよ うとしたが数年 かか り予 定 の作業完成 に支 障 を来す と考
え、農 閑期 を選 び全部落 民 一 斉 に外部作業 を行 わせ た。 これ ら官 民 一 致 の努力 によ つて難
事業 であつた外部作業 も完全 の域 に達 し、竹林 は地上
6m迄 の下枝 を伐採 し、焼払 つたので
ヘ
住家附近 は赤瓦や 白壁 まで見 えるよ うにな つた。本作業 に よ つて 明朗清楚 な部落 ー 変 し
た。 また排水路 を開難 し、り│1路 の雑 草 を刈 り取 り、流水 を よ く し蚊 の産卵所や 子子 の成長
嚢育所 、蚊 の棲 息所 をな く し、蚊帳 を奨励 し、水溜 には石 油 を撒布 して 子子 の死 滅 を図 つ
一 般民衆 が 13,558
た。このマ ラ リア防遇作業 に参加 した延 人数 は 13,645人 で巡査 が 87人 、
人 で あ つた。 隣接 派 出所部落 で もマ ラ リア防過作業 に着手 し、其作業 の完成 と其作業 の美
化 とい う点 で競争す るまで に至 つた こ とが分 か つた。嬌祖廟受 持巡視 匡監督清水 巡査部長
は其受持 区域 内 の巡査及 び保 甲役員 に嬌祖廟派 出所 管 内 を視 察 させ 、直 ちに各 自部落 の外
部作業、地物 整理 を実施 させ た。外部作業 、 地物整 理 な どの マ ラ リア防遇作業 に従事 して
半年 で不潔極 ま りない鬱蒼部落 か ら一 変 し一大公 園化 (模 範部落 )し た ことが分 かつた。
47
鹿 草庄 の防邊作業 ノ状況報告 について 下村論文 65∼ 66頁 に以下 の よ うに記 され てい る。
爾来各郡 二於 ケル マ ラ リア防邊作業 ハ 著 々進行 シ、大正 15年 中ニハ 殆 ド全州 下 二及 ビ
其成績見ル ベ キモ ノア リ。依 テ昭和
2年 4月 各郡下二於 ケル マ ラ リア防遇施行 開始以
来 ノ状況 ヲ報告 セ シメタ リ。各郡 トモ 着手営 時 ノ民情 、事業 ノ困難 、施行後 ノ効果等
各其報告 アル モ 、姦 ニハ軍 二東石郡 ノー節 ヲ記サ シ。
防邊作業賞 施 ノ方法、(前 略 )大 正 14年 2月 18日 南讐衛第 725琥 ヲ以テ更 二賞行
セ ラ レタル ト同時 二 「マ ラ リア防遇デ ー 」 ノ効果 ヲ有効 二 賞 施 スル 様
方法 ヲー 部追カロ
1、
通牒 ア リ。之ガ賞施 二 開 シテ ハ ー 般警察職員 ヲシテ保 甲會議、家長會議 ヲ開催 セ シメ、
「
其賞施方法 二 亙 り詳細 ナル説 明 ヲ鶯 シ、只管其作業 ノ完成 ヲ促 シ マ ラ リア防過デ ー 」
営 日二於 テ ハ 勿論平 日 卜雖 一 般地物 ノ所有者 、 占有者 、管 理者等 ヲ促 シ作業 ヲ賞施 シ
末 リシ結果 、従 来 二 比 シ多少 ノ部落 ノ整頓 ヲ見ル ニ 至 レ リ、殊 二郡 下 二於テ ハ 鹿 草ハ
有名 ナル不健康地 ニ シテ マ ラ リア患者 多 ク、僅 力 10名 足 ラザ ル 派 出所員 二於テ ス ラ
交 々該病 二苦 シメル ゝ賞況 ナ リシガ 、同駐在警部 補 ハマ ラ リア 防過作業 二 開 シ最 モ 熱
心 二郡 下職員 ヲ督励 シ、従 来竹藪繁茂 シ董 尚暗 キ鹿 草 ノ竹藪 ノ整理 、雑木 、雑 草 ノ切
排 ヒ、刈取 り等 ヲ敢行 シ、郡 下部落 二率先 シテ整 頓 ヲ遂 ゲタ リ (中 略 )防 遇事務所 打
合會 ヲ開催 シマ ラ リア防邊事務 二 開 スル 観念 ノ普及 卜賞施 ノ徹底 ヲ期 シ、郡 下 ノ警察
官 、嘱託 公 讐及専務 巡査等協カ シテ 専 ラ其賞績 ノ奎揚 二努 メタ リ。
2、 作業 ノ成績 、 マ ラ リア防過 二 開 スル機 関 ノ充賞 卜共 ニー 般警察職員 ノマ ラ リア防
過 二封 スル 勤務 上 ノ観念 ハ 作業 開始 営時 二比 シ非常 ナル 向上 ヲ示 シ 、又 一 般 宣博 ノ結
果 ハ 郡 下民衆 二於 テ モマ ラ リア防過作業 ノ賞行 ハ 如何 ナル ロ賞 ヲ以 テ スルモ 到底 之 ヲ
免 ル ベ カ ラザ ル ヲ悟 ル ニ至 レ リ。即チ大正 15年 1月 17日 州下警察課長 、専務 巡査及
嘱託讐 ヲ召集 シマ ラ リア防過事務 上 二 開 スル 打合會 ヲ開催 サ レ、翌 18日 州下 二於 ケル
防遇作業 中最 モ 徹底 セ リ ト相 セ ラルル 新豊郡 下開帝廟 方 面 (余 ノ受持 匡域 )ノ 各部 ヲ
ニ
賞 地見學 ヲナサ シメ ラル 。喜 多知事 、増 田警務部長 ハ 指導刺戟 ノ意 ヲ寓 セ ラ レ特 ー
行 ヲ引率 シ其視察 ヲ了 セ リ。 同郡 二於 ケル施 行 ノ状況 ハ 概ネ徹底的 ナル ヲ見 、大 二参
考 二供 シタル ト同時 二 、斯 ル 壮學 フ企テ 自ラ紅塵 ヲ冒シテ警察課長始 メ営該徒 事員 ニ
此機會 ヲ興 ヘ タル コ トニ感激 シ、新 豊郡以上 ノ成績 ヲ得 ン ト肛 ヲ確 メ、郡 下 二於 テ 袷
ハ
袷徹底 セ リ ト認 ムル 鹿 草 ヲシテ ー 層 之 ヲ完 全 ニ シ、 而 シテ他 ヲシテ之 ヲ準 シメン ト
企董 シタ リ。 同地 ハ 白井警部補 ノ努 カ ニ依 り、指示 二徒 ヒ竹藪 ノ伐採 、離根 取排 、雑
草切 除、池畔 ノ整理 、水草 (菱 草 )ノ 引揚 、宅地附近 ノ排水整理等 卜共 二蚊帳使 用状
況 ノ調 査等各方面 二 亙 り防遇事務 ノ徹底 ヲ期 シタ リ。 此間思想 上要注意人物等 ニ シテ
警察 ノ行動 二 封 シ虎視 眈 々 タル ノ徒輩 ハ 動 モ ス レバ 作業 ノ不必要 ヲ説 キ 、部 落 民 ヲ煽
動 セ ム トスル ノ傾 向 ア リシモ 、同地保 甲聯合會長 張 丞 ハ 能 ク我警察 ノ方針 ヲ了解 シ 、
部落民 ヲ善導 シテ 作業 ヲ励行 シ約
1箇 月間 ノ 日子 ヲ費 シテ全 ク不潔 ニ シテ 陰鬱 ナ リシ
同庄 ハ 昔 日ノ状態 ヲ存 セ ズ。 巨大 ナル 立木 二 富 メル 同地 公學校 、警察官吏派 出所 、庄
48
役場及 公 書館 ノ構 内ハ 園続 セル 周 園 ノ婢り
││、
水溜 二 臨 ミ、宛然 一 大公 園 タル ノ美観 ヲ
呈 スル ニ 至 り。奮態 ヲ知ル モ ノー 度 同地 ヲ見 レバ 其愛化 ノ著 シキニ喫驚 セ ザ ルモ ノナ
ク、其 マ ラ リア防遇作業 ノ徹底 セル 状態 ハ 周 園 二 宣博 セ ラ レ、彙 二 作業 ヲ難 ジタル 鹿
草部落 民モ 其 ノ整然 タル我部落 二洸惚 タルモ ノ ゝ如 ク 、他 二 之 ヲ誇ル ノ傾 向 ヲ生 ジ 隣
友 互 二相戒 メテ常 二其 ノ整頓 ノ維持 二努カ スル ニ至 レ リ。
以 上 の下村論文 よ り東石郡鹿 草 庄 の マ ラ リア防過作業 は、 マ ラ リア 防過規貝1に 則 リマ ラ
リア防過デ ー を制 定 し、 一 般警察職員 に家長會 、保 甲会議 を開催 させ 、 マ ラ リア防過作業
の趣 旨を説諭 し、 マ ラ リア防遇作業 の重要性 を説 いた ことが 分 か る。 また台南州 下 にお い
て徹底 され たマ ラ リア防過作業 を行 つてい る新 豊郡下開帝廟 140附 近 を実地見学 させ 、姦 を
手本 として、 自井房 吉警部補 141を 中心 に竹 藪 の伐採 、離根 取排、雑草切 除、池畔 の整理 、
水 草 (菱 草 )の 引揚 、 宅地附近 の排水整 理等 と共 に蚊帳使用状況調 査等各方面 にわた つ て
防過事務 の徹底 を図 つた。 しか し警 察 の行動 をよ く思 わな い 輩 た ちは作業 の 不必要 を説 い
て部落民 を煽動す る動 き もあ つ たが、鹿 草庄 の保 甲連合会長 の張 盃 は警 察 の 方針 で あ るマ
ラ リア防過作業 の趣 旨や重要性 を理 解 し、部落 民 を先導 して 作業 を励行 し約 一 ヶ月 で鬱蒼
部落 か ら清潔 な部落 へ と変化 した こ とが分 か る。 隣友 互い に戒 めあい なが ら常 にマ ラ リア
防遇作業 の維持 に努力す るよ うにな った こ とか らマ ラ リア防遇思想 が ある程度浸透 した こ
とが読み取れ るだ ろ う。
外部作業 の賞篤 につい て下村論 文 67頁 に以下 の よ うに記 され て い る。
衛 生活動 特 ニマ ラ リア防過活動 ノ効果相営 大ナル ハ 言 ヲ侯 タ ズ。然 ル ニ普通衛 生活動
ニ テ ハ 民衆 二感動 ヲ興 フル コ トヲ比較的淡 キ ヲ以テ州 ニ テハ マ ラ リア防遇外部作業 中
即 チ警 察官指導監督 ノ下 二部落 民外部作業従 事 中 ノ賞鳥 、又増 田部長巡視 中 ノ民衆 ノ
作業振 り等 ヲ賞篤 シ之 ヲ各部落 二 映篤公 開 シ外部作業 ノ賞際 ヲ民衆 二注入 セ リ。 蓋 シ
従来 ノ衛 生宣博映豊等 二比 シ著 シク効果 ア リシ ヲ思 ハ シメタ リ。
以 上 の 下村論 文 よ り外部作業 を実際 に行 つてい る実写や増 田秀吉警務部長 が視察 に来
た際 の作業振 りを実写 し各部落 に映鳥公 開す る こ とで 、 マ ラ リア防遇作業 の 重要性 を證
験 的 に実感す る こ とができ、従来 の衛 生宣博 映画 142ょ りもよ り具体的か つ 実利 的 に普及
され てい ることが分 かつた。
次 に実 際 に佳里 と新市 のマ ラ リア防遇 につい てみてい く。
北 門郡佳里 のマ ラ リア 防遇作業 につい て下村論文 68∼ 69に 以下 の よ うに記 され てい る。
佳里 ハ 徒末 死 亡超過 ノ部落 ニ シテ年 々人 口減少 スル 不健 康地 ナ リ。然 ル ニ保健調査 ノ
結果 マ ラ リア及 マ ラ リア ニ基 因 スル 疾病 ノ強度 二浸潤 セル ヲ知 り、大正 12年 6月 以降
マ ラ リア防邊施行 地 二編入 セ リ。 而 シテ マ ラ リア防邊規貝Jニ ヨル 検 血 及原轟保 有者 ニ
封 シ強制的服薬 ヲ篤 サ シメタ リ。 同地 ハ ー 般 二低瀑 地 ニ シテ 夏季 雨期 ノ季節 ハ 雨水部
49
落 内 二瀦溜 シ、数多 ノ溝渠及 凹地 ハ ー 面 ノ水 溜 トナ リ、之等 二産 出 スル 蚊族 ハ 密 生 セ
ル 竹林及藪 中二棲 息 シ四六 時 中人罷 ヲ侵 シ、原轟 ヲ感染 セ シムル 状態 ナ リシヲ以 テ 、
衛 生課 二於 テ ハ 部落 ノ水 分υF渫 ノ鶯排水幹線 ヲ計書 シ部 落 ヲ瀑潤 ヨ リ免 レシ メ、以テ
マ ラ リア ヨ リ救 ハ ム ト固 レ リ (大 正 13年 )。 而 シテ大正 13年 4月 マ ラ リア防過デ ー ノ
制 定 ニ ヨ リ余 ハ 営地 二 出張 シ視察 スル ニ 、廣大 ナル営部 落 ヲ軍 ニー 幹線排水路 ノ ミニ
テ 其 目的 ヲ達 シ得 ベ クモ ア ラズ 、部落 内延 々 タル 多数 ノ溝渠 ノ整理 コ ソ急 務 中 ノ急務
ニ シテ 、幹線排水路 卜相侯 ツテ コ ノ整理 二着手 スベ キモ ノナル ヲ観 取 セ リ。然 ル ニ 之
等溝 渠 ハ 固 ヨ リ部落 内 二密 生 シ天 二沖 スル 竹林 ノ根幹 ノ耕作 地 二侵 入 スル ヲ防 グ鶯 ニ
設 ケ ラ レタル モ ノニ シテ 、断面 ノ形 状 凹 ノ如 クニ シテ 中央凸所 ハ 竹 ノ生 育 セル 所 ニ シ
テ其根部 ノ畑 地 内 ノ侵入 ヲ防 グ鶯雨側 二掘 リテ深 キ溝 掘 卜篤 シタル モ ノヲ以 テ 、先 ヅ
竹林 ノ伐採 ヲ鶯 シ之 ヲ根絶 セ シムル ニ於テ ハ 雨側 ノ深 キ溝 渠 ハ 自然 不必要ナ ルモ ノナ
ル ヲ観取 シ、郡営局 二 此竹林 ノ伐採 ヲ提唱 セ リ。之大正 13年 8月 ニ シテ州 下一 園 マ ラ
リア防過 区域 二編入前約
8箇 月ナ リキ。然ル ニ営地 二於 ケル竹林 ハ 防風 ノ ロ的 ニ シテ
且 家 屋建築 ノ主要材料ナル ヲ以 テ頑迷無智 ナル 民衆 ハ 此説 二應 ゼ ザ ル ノ ミナ ラ ズ 、 甲
論 乙駁 一 致 スル 所 ヲ知 ラザ ル 状態 ナ リシガ 、西本警察課長 ハ 断然決意 スル 所 ア リー 部
有識者 ヲ説 キ 、其所有 地 二 率先決行 セ シメタ リ。然 ル ニ 中央 ノ竹林伐採 二依 り雨側 ノ
溝 ハ 不必要ナ ル ハ 自明 ノ事 賞 ニ シテ 、利 二敏 ナル彼等 ハ 直チ ニ 中央 ノ凸部 卜周 曰 ノ畑
地 ヨ リ トリタル 土壌 ヲ以 テ 僅 二 陥凹 スル トハ 云へ 新 開墾 地 ヲ作 り直 二 作付 セ リ。然 ル
ニ 其作付 タル ヤ普通 田畑 ヨ リモ上 作 ナ リシ ト且竹林 ニ ヨ リ木垂 レ トナ リ畑周 園 ノ不作
場所 ヲ無 クシタル ヲ以 テ 、 全畑 地 ノ収穫 ハ 耕 地面積 ノ増加 卜日営 リノ良好 トナ リシ鶯
徒 末 ノ不作地 モ忽 チ ニ シテ 良畑 卜化 シ、頑迷無智 ノ羨望 ノ的 トナ レ リ。此好機 ヲ利 用
シ郡警 察課 ニ テハ 部落 内ノ竹藪 ヲ調査 シ直 二伐採 スベ ク ヲ命 ジ 、以 テ 初期 ノ ロ的 ヲ達
25萬 餘本 、面積 3萬 餘坪 、埋 立整理地 1萬 94餘 坪。大
正 15年 竹伐採 13萬 餘本、面積 1萬 5千餘坪、埋立整理地面積 1萬 8千 3百 餘坪 ニ シ
成 セ リ。即チ大 正 14年 竹伐採
テ全 部落 ノ住家附 近 ハ 全部整理 セ ラ レ、従 来陰鬱極 リナ キ不 衛 生部落佳 里 モー 朝 ニ シ
テ 明朗爽快 ナル衛 生郷 土 卜化 セ リ。 之 レヨ リ住民ハ 天 日二 直接 スル コ トヲ得 、徒 末死
亡超過 ノ地 モ 死亡者数 ヲ減 ジ 、却 ヲ出生者 ヲ増加 シ忽 ニ シテ優 良部落 卜韓化 セ リ。其
間 ノ消息 ハ 第
第 8表
(表
8、
9表 二示 スガ如 シ。
佳 里 年別 出生死表 (△ は死 亡超過 )佳 里派 出所 出生及 死亡 による統 計
2-2(I))
50
生死超過数
年別
総人 口
出生敷
死亡数
大正 8年
4,520
153
252
Zゝ
99
同 9年
4,419
150
232
Zゝ
82
同 10年
4,630
182
202
Zゝ
20
同 11年
4,538
157
149
8
同 12年
4,542
194
157
37
同 13年
4,606
192
同 14年
4,477
128
214
同 15年
4,647
205
160
昭和 2年
4,809
220
109
3年
5,031
218
116
102
同 4年
5,293
262
128
133
同 5年
5,478
271
112
112
同 6年
5,763
308
146
146
同 7年
5,938
282
141
141
同
16
Zゝ
86
45
佳里年別 出生死表 (△ は死亡超過 )佳 里派 出所出生及死 亡による統計
第 9表
線 死亡百 二付 マ ラ リア死 亡
表
2-2(Ⅱ
(派 出所管内死亡診断書 二依ル統計)
)
年別
総死 亡
マラリア死亡
%
大 正 7年
352
34
9.65
同 8年
209
28
13.39
9年
232
19
8.19
同 10年
186
27
14.51
不明
不明
不明
同 13年
178
15
8.42
同 14年
212
14
6.60
同 15年
158
16
10.12
昭和 2年
110
5
4.54
同 3年
127
5
3.93
同 4年
126
4
3.18
同
同 11年
同 12年
以上ノ表 ニ ヨル トキハ大正 12年 マ ラリア防邊施行後引績 キマ ラリア防過デー制定以来
死亡超過ハ大正 14年 1年 ノミニシテ、従来 ノ死亡超過 ノ不衛生部落モ 出生超過部落 ト
51
愛 ジ、其 超過 ノ差 ハ 益 々大 ヲ加 へ 、即 チ出生 ハ 年 々増加 ノ傾 向 ヲ示 シ、 死亡 ハ 逓減 ノ
状態 トナ レ リ。 尚マ ラ リア死 亡 ノ如 キハ 防邊前 二 比 シ著 シク減少 セル ノ ミナ ラズ 、一
般 死亡モ 著 シク減少 セ リ。
以 上 の 下村論 文 よ り佳 里 は従 来死 亡超過 を来 してい た不衛 生 部 落 で あ り、大 正
12年
(1923)に マ ラ リア防邊施行地 に編入 し、マ ラ リア防過施行規貝1に 則 り強制服薬 を実施 し
た。佳 里 は一 般 に低湿地 で夏 にな る と溝 渠や 凹地 に水溜 が 出来、蚊族 の活動場所 と化 し、
マ ラ リア原 虫に感染 した患 者 が続 出す る状態で あ つた。 そ のため衛 生課 は水 分排渫 の篤 の
水路建設 の一環 であつた と推測 され る。
幹線排水路 の建 設 を計画 した。 これ は嘉南大洲 のツト
大正 13年 (1924)4月 のマ ラ リア防過デ ー 制定 によ つて 下村 八五郎氏 は佳里 を視察 し、部
落 内 に多数 ある溝 渠 の整理 こそが急 務課題 である と提 唱 し着 手 した。彼 は郡 当局 に対 し溝
渠 の周 りに繁 茂 してい る竹林 の伐採 を提 唱 した。 しか し 「頑迷無智 な る民衆」 は竹林 は防
風 のた めや 家 屋建築 の主要材料 として必要 である と主 張 して竹林 の伐採 を拒 んだが 、西本
安衛警察課長 143が 一部有識者 に竹林伐採 の必 要性 を説 き率先 して 実施 し、竹林伐採 によっ
て新 開墾 地 を作 り直 に作付 を行 つた。畑周 囲 の不作場所 をな く し、全畑 地 の収穫 は耕地面
積 の増加 と 日射環境 の整備 に よつて従来 の不作地 が良畑 と化 した こ とが明 らか にな った。
大正 14年 (1925)の 竹林伐採 は 250,000本 で 、面積 は 30,000坪 (約 99000ピ )、 埋立整
理地 は 10,094坪 (約 33310ピ )で あ り、同 15年 の竹林伐採 は 130,000本 で 、面積 は 15,000
坪 (約 49500ピ )、 埋立整理地 は 18,300坪 (60390ピ )を 実施 し、住家附近 の整理 は終了
し、鬱蒼 と した 不衛生部落 か ら明朗爽快 な る衛 生郷 土 と生 まれ変 わ つた。 さ らに従来 の死
亡超過 部落 か ら出生超過部落 と変 じ、優 良部落 とな つ た ことが明 らか とな つた。表
2-2(I)
よ り大正 14年 (1925)に 著 しい人 口減少 があつたがおそ らく流行性脳炎 が蔓延 した こ とが
考 え られ る。 144
も う一つ 鬱 蒼部落 か ら優 良部落 とな つた新化郡新市 の マ ラ リア防邊作業 につい ては下 村
論文 69∼ 71頁 に以下 の よ うに記 され てい る。
営庄 ハ 新化郡 ノ西部 二位置 シ童南市 ヲ距ル 約
12kmノ
所 ニ ア リ。管 内平坦 ニ シテ住 民
ノ大部分 ハ福建種族 ナ リ。住家 ハ概 ネ竹造土塊 建 草葺 屋根多 ク、季節風強烈 ナル 篤竹 、
木 、林投等 ヲ以 テ 住家及 田畑 ノ周 園 ヲ回続 シ防風用 トナ セ リ。且徒 末産業増進 ノ鶯宅
地利用 ヲ奨 励 シ依 テ芭蕉 ハ 戸毎 ノ軒 マ デ繁茂 シ屋 内ハ 光線 ノ射入全 クナ シ。徒 テ営 管
内 ニー 歩足 ヲ踏 ミ入 ル トキハ ー 種 ノ陰鬱 ヲ感 ゼ ザ ル モ ノナ シ。 日光射入 全 クナ ク、空
氣 ハ瀑潤 シテ 流通不 良ナ リ。本部落 ハ 他 地方 二比 シマ ラ リア ノ浸潤 特 二濃厚 ニ シテ之
ガ鶯死 亡ハ 出生 ヲ超過 シ産業教育 ノ進歩 ヲ阻害 シタル コ ト蓋 シ甚大 ナル モ ノア リキ。
姦 二於テ大 正 13年 4月 マ ラ リア防遇施行地域 卜鶯 シ、マ ラ リア防遇作業 ヲ施行 シ、大
正 14年 4月 全州下一 齋 マ ラ リア防遇施行 卜共 二 営庄 モ 編入専 心 防過作業 ヲ施行 シマ ラ
リア撲滅 二努 メタル結果逐年 患者 ノ減少 ヲ末 シ、衛 生状態 ノ好韓 ヲ招致 スル ニ 至 レ リ。
52
尚営地方 ハ 芭蕉産地 ニ シテ 住家附 近 二密生 スル 鶯 、蚊族 ノ奎 生棲 息 二好適地 タル ノ観
ア リ。竹林藪等 ノ刈排 ヒ ト同時 二講究 セ ザ ル ベ カ ラザ ル 問題 ナ リシナ リ。然 ル ニ頑 迷
無智 ニ シテ 匝習 ヲ墨守 シ地 方 開奎 向 上 等 ノ念 鋏如 セル 民衆 ハ 、営局 ノ理 義 ヲき シタル
勧告 モ 之 ヲ肯 セ ズ動 モ ス レバ 反抗的 態度 ス ラ示 ス地方ナ キ ニ ア ラザ ル ニ ヨ リ只管部 民
ノ諒 解 二侯 ツ外途ナ ク極力 之 ガ啓蒙 二努 メタ リ。 尚営管 内ハ ー 般 二 凹地 ニ シテ 雨水 ノ
瀦溜多 ク且 ツ竹林密 生 ノ鶯溝 渠 ノ顆 多 ナル ハ 佳里 卜同一 状態 ニ ア リ、州営局 二於テ ハ
大 正 13年 4月 防過事務所設置以来 之等 ノ整理 ヲ考究 シ直チ ニ排水溝 ノ新設 二着手 セ リ。
即 チ部落 二貼在 スル 幾多 ノ溝 渠 ヲ或 ハ 結合 シ、又 ハ 埋 立テ大 排水溝 ニ ヨ リ全水溜 ヲ河
川 二落 ス カ又 ハ 瀦溜水 ヲ無 カ ラ シ ムル ノ方法 ヲ講 ジタ リ。依 之部落 ハ 外部作業 ノ進捗
卜排水 工事 ノ施設及蚊帳使 用奨励等 二依 り面 目一 新 シマ ラ リア減少 卜共 二部 民 ノ健康
状態著 シク好韓 シ、領 菫後嘗テ死 亡超過 ノ ミナ リシ営部落 モ 大 正 15年 (着 手後
ニハ 已 二 出生超過 88ヲ 示 ス ニ 至 レ リ。前表 ノ如 ク大正
着手
15年 以後
3年 目)
(マ ラ リア防過作業
3年 目)ハ 総死 亡 二於 テ 著 シク減少 セル ノ ミナ ラズ、マ ラ リア死 亡 二於テ モ殆 ド
半減乃 至六分 ノー 以下 二減少 セ リ。
第 10表
新市 出生死 亡比 較表 (新 市派 出所 出生死 亡 統計表 ニ ヨル )(表
年次
年末人 口
出生敷
死亡数
生死 超 過
大正 6年
5,044
184
392
,E208
同 7年
5,044
396
死 201
同 8年
4,979
227
同 9年
4,908
同 10年
4,787
同 11年
4,910
同 12年
4,873
同 13年
4,549
同 14年
4.445
同 15年
4,569
昭和 2年
4,630
同 3年
4,633
生 21
同 4年
4,569
死 8
同 5年
4,754
同 6年
4,763
同 7年
4,882
同 8年
死
52
死 36
143
死 37
死 66
170
208
209
死 26
208
0
222
死 47
生 88
生 88
220
255
生 145
110
生 119
生 40
149
」
L142
280
53
2-2(Ⅲ ))
次 二新市 二於 ケル 病死 亡線敷 トマ ラ リア死 亡敷 トヲ年別比較 スル ニ第 11表 ノ如 シ
第 11表 新市年別病 死線数 トマ ラ リア死亡 トノ比較 (派 出所管内死亡診断書 ニ ヨル )
(表
年別
2-2(Ⅳ ))
病死数
マラリア死
大正 8年
%
10.74
同 9年
147
同 10年
192
14
9.65
14.58
同 11年
18.02
同 12年
202
28
13.79
同 13年
204
26
12.74
同 14年
202
24
10.81
同 15年
昭和 2年
昭和
3年
3.67
10
2.27
以 上 の下村論文 よ り新市 のマ ラ リア防遇作業 は大 正 13年 (1924)4月 にマ ラ リア防遇施
行地 に指定 し、 マ ラ リア防遇作業 を施行 した。新市 は芭蕉 の生産地 で蚊族 の発 生棲 息 の好
適地 で あ つ た。 そ のため竹林藪 の切排 い を行 つたが 、頑 迷無智で隔習 を固持 し地方 開発 向
上 の念 が欠如 してい る民衆 の 中 には反抗 的態度 を取 る者 も現れ る始末で あ つた。 そ のた め
水溝 の新設 に着手 した。
に州 当局 は啓蒙活動 を行 う一 方 で 防遇所設置以 来外部作業 としてリト
この部 落 は外部作業 の進捗 と排水 工事 の施設及 び 蚊帳使用 の奨励 145に よつて 面 目を一 新
しマ ラ リア減少 と共 に部民 の健康状態 を著 しく好転 させ た ことが読 み取れ る。
最後 に台南州 のマ ラ リア 防過 のま とめをみ てい く。
台南州 のマ ラ リア防邊 のま とめ として下村論文 75∼ 76に 以下 の よ うに記 して い る。
蔓南州 下 ノ衛 生 状態 ノ好韓 ハ 大正 13年 営時 ノ衛 生課長 重松英太氏 卜能澤警務部長等余
ノ説 ヲ採用 シ、「マ ラ リア防過デ ー 」 ヲ制定シ、州下各 防過所 ノ防遇作業 二着手 シ、大
正 14年 増 田警務部長就任 シ州 下一 園 ヲ蔓湾 マ ラ リア防遇規則 ニ ヨル 匡域 二編入 シ、増
田部長 以下州及郡営局 ノ熱誠 トー 般 民衆 ノ理解 アル 努 カ ニ ヨ リ完成 シタル モ ノニ シテ 、
特 二余 ノ模 範部落 ノ作成 二 営 り上 出新 豊郡警察課長 、大川 専務 巡査 、徳永嬌祖廟派 出
所駐在 巡査並 二 同保 正 楊丁 旺諸氏 ノ努 カ ハ 嘆賞 スル ニ餘 リア リ。即 チ州 下防遇作業 ノ
二
完成 ハ 新 豊郡 二則 り、新豊郡各 匝 ハ 皆 妬祖廟 派 出所管 内 ヲ模範 トシテ ロ的達成 努 メ
タル モ ノナ レバ ナ リ。今 ヤ重松氏 ハ 物故 シ 、其他 関係者 モ 四散 シ 、着 手 ノ営初 ヨ リ墓
南州 二在留 スルモ ノナ シ。唯野 田兵 三氏大正 15年 春衛 生課長 二就任 以来萬難 ヲ排 シ本
ベ
防過作業 ヲ縫承 シ、以 テ今 日ノ成果 ヲ見ル ニ 至 レ リ、氏 ノ功績 亦偉 大ナ リ ト謂 ヒツ
シ。 産業道路 ノ四通奎達 卜共 二清楚 明朗 ナル部落 ハ 見 ル ダ ニ 氣持 ヨキー大公 園化 セル
54
ノ感ア リ。隣接高雄州 二於テモ本 マ ラリア防邊案ガ衛生上著効アル ヲ見、昭和
5年 頃
ヨ リ着手セ リ。又近時ハ新竹州・ 蔓中州 ニテモ盛 二本作業 ヲ賞施 シツ ゝアルハ余 ノ欣
快 二堪ヘ ザル所ナ リ。
今ヤ蔓南州ハ人 口自然増加年 々2‐ 3萬 二及ベ リ。大正
人 口千二付
4‐
10年 7箇 年間 ノ平均生死較差
99卜 昭和 3‐ 6年 ノ 4年 間平均比較差 24.82(昭 和 5年 28.12、 昭和 6年
26.99)ト フ比較 スル トキハ 、将 二隔世ノ感ア リ。即チ 10年 前 ノ自然増加 二比シ年 々2
5。
萬餘 ヲ ヨ リ多 ク増加 シツ ゝア リ。軍 二 自然増加 ノミナ ラズ 「マ ラ リア」 ノ減少 二因 リ
衛 生状況好韓 シ年 々流行セル流行性脳脊髄膜炎モ全ク其跡 ヲ断チ、州下産業及教育 ノ
進歩奎展 二不知不識 ノ内二効果 ヲ末シツ ゝアルハ明カナ リト信 ズ。 (中 略)無 理解ナル
民衆 二封 シテ衛生諸般 ノ事業遂行ハ膿験的教養最モ有効 ニシテ、要ハ直接其局二営ル
者 ノ終始一貫熱 卜カ ヲ以テ臨ムベ キ コ トヲー層痛感 スルモ ノナ リ
以上の下村論文 よ り台南州下の衛生の好転は重松英太 と能澤外茂吉が下村 八五郎氏 の説
を採用 し、マ ラリア防遇デー を制定 して州下防過所 がマ ラ リア防遇に着手 した。大正 14年
(1925)に は増 田秀吉 146が 警務部長 に就任 し、州下一 回 をマ ラ リア防過区域に編入 し、
マ ラ リア防過を実施 した。下村 は同年 か らまず模範部落 の作成にあた り、上出英一新豊郡
警察課長、大川専務巡査、徳永婦祖廟派出所巡査、保正楊丁旺の尽力によつてマ ラ リア防
遇作業は大い に進展 した。 これ により新豊郡嬌祖廟派出所管内を模範的部落 の嗜矢 と看倣
す ことが出来る。また大正 15年 (1926)春 に衛 生課長 に就任 した野 田兵三が重松 らの防遇
作業 を継承 し、産業道路 の四通発達 と共に清楚明朗な衛生模範部落へ と変容 させた ことが
分かる。 また本マ ラリア防過案が衛生上著 しい効果 があると看倣 され、昭和 5年 (1930)
頃か ら高雄州 でも衛生模範部落 の建設 147が 実施 された ことが分か り、台南州 のマ ラ リア防
遇は衛生模範部落建設 の濫腸 であると言 えると思 う。 また 「無理解なる民衆」 には衛生諸
事業 の遂行 には證験的注入 が最 も効果的であ り、終始一貫 してマ ラ リア防邊 の専門家 たち
は熱 と力を以てマ ラ リア防過作業に臨むことが肝要であると説いている。
この台南州 のマ ラリア防過作業で特筆すべ き点は
4つ ある。①衛生思想 の普及 とい う観
点か らマ ラ リア防遇デー を施行 し、證験的 に衛生思想 を注入 した点である。②台南州一 回
を一つの防遇施行 区域に指定 してマ ラ リア防邊 の徹底及び外部作業 を行 つた点である。③
マ ラ リア防過 の中枢的人物 を中心にして官民一致 でマ ラ リア防遇事業に従事 している点で
ある。④衛生模範部落建設 の濫腸 であることが指摘 できる。
55
第 二節
高雄州 のマ ラ リア防遇事業
高雄 州 の衛 生事 業 を語 る上で重要 な人物 がい る。 それ が安倍 貞次 で ある。安倍 貞次 は明
治 17年 に大 分県宇佐郡西馬城村 出身 で 、同
38年 4月 に熊本書學校 を卒 業後天津病院 に奉
職 、大 正 10年 に渡蔓 し、同時 に墓潟公 讐 に任命 され、蔓南州新螢郡新螢 の公 讐 とな り、マ
ラ リア防遇 に従事 した。 昭和
2年 6月
に蔓漏衛 生技師 に任官 し、菫南州警務部衛 生課勤務
とな り、昭和 7年 に墓北州 に栄転 、同 12年 に高雄州警務部衛 生課衛生課長 に就任 し、マ ラ
リア防遇 の専 門家 として高雄州 の保健衛 生事 業 に尽力 した人物 である。 148
(1)マ ラ リア流行 の沿革
高雄州 にお けるマ ラ リア流行 の沿革 につい ては『 昭和十 一 年高雄州衛 生要 覧』 (高 雄州警
務部衛 生課 。昭和十 二年十 一 月十 五 日)14974,75頁 に以下 の よ うに記載 され てい る。
マ ラ リアは州 下 に於 ける風 土病 中 の 随 一 な り其 の分布 は普汎的 に して而 も病原 轟 は久
しき以前 よ り存在 し居 た りと謂 う
明治 七 年征 墓営時我 が軍隊 を惜 ま した る疾病 、領 墓営時暴威 を壇 に し移住 の 内地人 間
に惨 害 を蒙 りた る所謂墓溝熱 と称 えた る疾病亦本病 な りと謂 う明治 二 十 九年旗 山郡 甲
仙 に創 立せ られ た る甲仙哺採脳拓殖 会社 の如 き も採 1螢 者 間 に猛烈 な るマ ラ リアの流行
を末 し患死者 績 出 して遂 に事業経螢 に障 害 を末す に至 りた るこ とあ り線督府 は明治三
十 二年十 一 月地方病及俸染病調査委員会 を創設 し各委員 を して本病 の研 究 に専念せ し
めた る結果 防遇規則 の嚢布 を見 るに至 り州 下 も各濃疫部落 を施行地域 に指定 して之が
撲滅 に努力 し更 に昭和五年 よ り防遇規則 の一 部 を全州下 に施行 して竹木 の下枝伐採 、
埋 立 、雑 草刈払 、リト
水建設 、清潔保持豚舎 、堆肥舎及便所 の建設 を為 さしむ る と共 に
防邊思想 の啓発 に努 めて之が 目的達成 を期 し其 の作業状況 を審 査表 彰 して州 下 を挙 げ
て優 良部落 の建設 に努力 中な り
昭和十 一 年 七 月屏東郡 下里港 、 九 塊 両庄 に内地 よ り招致せ られ た る煙 草耕作移 民間
に蔓延流行 し應急 封策 を講せ ざれ ば移 民政策 上 憂慮す べ き結果 を招末す る虞れ あ り
た るを以て千歳村 、常盤村 に防遇所 を急設 して之が 防過 に努 めつつ あ り昭和十 一 年
中 の血 液検査服薬治療施行 地 は二 市 四街 十庄 の 内二 十部落人 口人万七 千余人 に及 ベ
り
マ ラ リアは高雄州 に とつ て最 も厄介 な風 土病 であ つた。明治
7年 (1874)の 「征 台 の役」
で 日本軍 を悩 ませ た病気 も、台湾領有 当初 に移住 して きた内地人 を悲惨 な 目にあわせ た 「台
湾熱 」 も実 はマ ラ リアであ つた。明治
39年 (1906)に は旗 山郡 甲仙 にお いて 甲仙哺採脳拓
殖会社 150の 採脳者 の 間に も猛 烈 なマ ラ リア流行 が あ り大惨事 とな った。台湾総督府 は明治
32年 (1899)11月 に台湾地方病及伝染病調査委員会 151を 設置 しマ ラ リア研 究 に力 を入れ、
大正 2年 (1913)に はマ ラ リア防過法施行規貝Jが 制定 され るまでに至 った。 高雄州 にお い
て もマ ラ リア濃疫部落 を防遇施行地域 に指定 してマ ラ リア防遇 に努 め昭和 5年 (1930)ヨ
水 の工夫 ・
リ防遇規則 の一 部 を全州 下 に施行 して竹木 の伐採 ・ 埋立・ 雑 草 の刈 り取 り 。ツト
56
清潔 な豚舎や便所 の建設・ 防過思想 の啓発普及等を行 い、 目的達成 のために作業状況 を審
査表彰 して州 下を挙げて優良部落 の建設に尽力 した とい う。昭和 11年 (1936)に は屏東郡
下里港・ 九塊両庄 において内地か らや つて きた煙草耕作移民の間 にマ ラ リアが蔓延 し、急
速千歳村 152.常 盤村 153に 防過所を設置 しマ ラリア防遇に努 めた。高雄州 における昭和 11
年 の血液検査服薬治療施行地は 2市 4街 10庄 の内 30部 落 で人 口 87000人 以上に及んだ と
い う。
(2)、
マ ラリア防遇血液検査服薬方法
昭和 11年 (1936)の 高雄州におけるマ ラリア防過血液検査服薬方法は『 高雄州衛生要覧』
75頁 に以下のよ うに書いてい る。
施行地域内の居住者滞在者 に して年齢 六箇月以上四十才迄の者に対 し毎月一 回定期 に
血液検査を施行す
血液検査 の結果原轟保有者 を奎見 したる者 の家族及滞在者 に封 し年齢 に制限な く臨時
血液検査を施行す
六箇月以上引績き原轟保有者又 は患者 を出 さざる戸内の居住者滞在者 に封 しては定期
検査を三箇月 に一回 とす
マ ラリア患者及 マ ラ リア原轟保有者は二十 四 日間警察官吏又はマ ラ リア防遇事務所員
の指示 に従ひ服薬せ しむ
マ ラ リア防邊血液検査月
反薬方法 は四つ に分類 され、①施行地内の生後六カ月∼四〇才まで
の居住者 。滞在者 に毎月定期血液検査を行 う、②定期血液検査の結果原轟保有者 の家族及
び滞在者 に対 して臨時血液検査 を行 う、③ 六箇月以上患者 。原 虫保有者 を出 していない戸
内は定期血液検査 を三カ月に一 回 とす る。④マ ラ リア患者及び原 虫保有者は警察官吏及 び
マ ラ リア防過事務員 の指示 に従い服薬 を行 うことが定められた。
(3)マ ラリア防遇血液検査施行成績
昭和 11年 (1936)の 高雄州におけるマ ラリア防邊血液検査 154は『 昭和十一年高雄州衛
生要覧』75,76頁 に以下のよ うに記 されてい る。
昭和十一年 中に於 けるマ ラ リア防邊血液検査施行成績 は左表 の如 くに して昭和十一年
155中 の成績 より平均〇.六 一%低 下せ り而 して之を月別に比較 して見るときは十 二月
の四.五 二%最 高率に して前年 の最高率六月 の四.五 一 %よ り〇.〇 一 %高 く最低率は五
月 の一 .人 六%に して前年 四月の二.九 四%よ リー .〇 人%低 下 し一箇年 中の平均率
は二.二 人%な り
尚其 の成績を施行地別 に見るときは甲仙 の九。一七%を 第一位 とし千歳村 の七.五 四%
之に次き常盤村 の六 .七 二%156潮 州 の六.六 七%四 重渓 の六.六 三%等 高率に して最
低率は三塊層 の○。四〇%な り
57
史料 中の 「左 表」 の詳細 につい ては以下 の表 2‐
表
2‐
(I)の 通 りである。
3(I)最 近 五カ年 間 の防邊成績 比較
防過事務所別
年別
検 査人員
原 虫保有者敷
検 査人員 百に
付原 虫保 有者
敷
昭和 7年
24,968
307
1.22157
8年
25,501
232
0.91
同 9年
26,086
150
0.58
同 10年
18,663
107
0.57
同 11年
16,890
68
0.40
7年
35,449
1677
4.73
同
三塊盾
昭和
屏東
同
8年
28,116
1151
4.08
同
9年
114,497
4315
3.77
同
10年
144,206
3411
2.37
同 11年
159,662
2051
1.29158
7年
17,095
431
2.52
同 8年
15,453
799
5.17
9年
15,520
1186
7.64
同 10年
16,596
760
4.58
同 11年
17,313
357
2.06
昭和 7年
25,497
621
2.43
昭和
崇蘭
岡山
同
同
8年
28,408
628
2.21
同
9年
29,866
284
0.95
同 10年
22,861
110
0.48
同 11年
22,366
115
0.53159
7年
15,229
785
5.13160
8年
17,539
1143
6.52
同 9年
18,951
1116
5.89
同 10年
20,870
1122
5.38
同 11年
17,680
567
3.21
昭和 7年
59,883
2429
4.06
同 8年
67,563
2592
3.84
同 9年
66,776
3349
5.02
同 10年
71,584
4703
6.57
同 11年
68,424
2545
3.72
昭和
同
楠梓
鳳 山
58
昭和 7年
大樹
甲仙
14,053
386
2.68162
同
9年
15,264
451
2.95
同 10年
16,197
241
1.49
同 11年
16,555
309
1.87
7年
33,038
1495
4.40163
同 8年
47,988
1041
2.17
同 9年
54,542
1175
2.15
同 10年
44,343
923
2.08
同 11年
44,642
1207
2.70
昭和 7年
3995
349
8.73164
同 8年
5295
378
7.14
同 9年
6527
394
6.04
同 10年
6156
422
6.86
同 11年
5301
486
9.17
14,347
484
3.37
同 8年
14,023
566
4.04
9年
14,696
403
2.74
同 10年
14,930
474
3.17
同 11年
13,995
888
6.35
昭和 7年
26,850
969
3.61
8年
29,075
999
3.44
同 9年
30,655
1112
3.63
同 10年
28,454
1411
4.96
同 11年
27,156
1799
6.67165
25,066
791
3.15166
同 8年
27,458
624
2.27
同 9年
29,119
684
2.35
同 10年
24,069
697
2.90
同 11年
21,085
648
3.07
昭和 7年
26,818
843
3.27167
同 8年
27,358
1092
3.99
9年
28,911
1201
4.15
同 10年
29,227
1543
5.28
同 11年
33,138
1653
4.99
同
同
潮州
昭和
紡寮
萬丹
5.35161
8年
昭和
六追
641
同
昭和
旗山
11,970
同
7年
7年
59
7年
19,000
712
3.74168
同 8年
25,208
632
2.51
9年
24,787
827
3.34
同 10年
20,526
515
2.51
同 11年
19,808
419
2.12
昭和 7年
5659
259
4.58
同 8年
5462
498
9.12
同 9年
5553
229
4.12
同 10年
5569
185
3.32
同 11年
4885
324
6.63
千歳村
昭和 11年
5387
406
7.54
常盤村
昭和 11年
2161
145
6.71
391,390
14,215
3.63
同 8年
390,139
13,163
3.37
同 9年
481,750
16,876
3.50
同 10年
484,260
16,624
3.43
同 11年
496,448
13,987
2.82
昭和
渓
ナ
│ヽ │
四重渓
同
昭和
合計
7年
(出 典 :『 昭和十一年高雄州衛 生要覧』76∼ 80頁 より筆者作成)
以上の史料及び表
2‐
(I)よ り、防遇事務所別に見た昭和 11年 (1986)の 原虫保有者 の
千歳村 7.54%、 常盤村 6.71%、
割合験 査人員 100に 対する)は 、甲仙 が 9.17%で 最 も高 く、
潮州 6.67%、 四重渓 6.63%と 続 いて ることが分 かる。 これ らの地域 の共通性は採脳や
集団移民な どによる未開地開拓 による開発原病 としてのマ ラ リアの流行 によるものだ
と推測できよ う。逆に昭和 11年 の原 虫保有者 の割合 が最 も低 いのは三塊店 の O.40%で 、
岡山 0.53%、 屏東 1.29%、 大樹 1.87%、 祟蘭 2.06%と 続 く。マ ラ リア防過施行地全体
で見ると、昭和 11年 の原虫保有者 の割合 (2.82%)は 昭和 7年 (3.63%)よ り 0.81%、 昭
和 10年 (3.43%)よ り 0.61%低 下 していることが分かる。史料 の中では月別に見た原虫
保有者 の割合 も述べ られてい るが表 の所在 が明 らかでないため詳細 は不詳である。
60
(4)マ ラ リア死 亡 率
高雄州 にお け る昭和
て は表
表
2‐
2‐
(Ⅱ
7年 (1932)か
ら同 11年 (1936)の マ ラ リア死 亡 率 変遷 の詳 細 に つ い
)の 通 りで あ る。
3(■ )最 近 五 箇年 間 のマ ラ リア死 亡率
区 別
年 次
死
岡山
鳳山
旗山
屏東
潮州
東港
恒春
合計
1057
2977
202
1421
1779
1879
1907
490
13,511
20
144
89
100
139
213
107
19
828169
1.89
4.73
4.45
7.04
7.81
11.26
5.61
3.88
6.13
高雄
屏東
署
署
亡
者
数
昭
マ ラ
和
リ
七
ア
年
死
亡
敷
I
フ リ
ア
死
亡
%
765
3153
2094
1548
1162
1793
1880
574
14,274
15
56
114
56
99
127
194
101
27
789
数
ノヽ
死 亡 者
同
1305
年
I
フ リ
ア 死 亡 敷
61
マ
1.15
7.32
3.62
2.64
6.40
10.93
10.26
5.37
4.70
5.53
1480
775
2897
2154
1709
1295
1997
2107
489
14,903
12
69
62
66
130
103
125
93
17
677
0.81
8.90
2.14
3.06
7.61
7.95
6.25
4.41
3.48
4.54
1492
856
2823
2441
1473
1039
1969
2088
569
14,750
24
58
65
97
121
63
92
97
26
643
フ
リ
ア
死
亡
死 亡 者
%
数
マ ラ
リ
ア
同 九 年
死
亡
数
マ
フ
リ
ア
死
亡
%
死 亡 者
数
フ リ
10
I
同
年
ア 死 亡 敷
62
00
′υ
I
2.30
3.97
8.21
6.06
4.67
4.65
4.57
4.36
1599
918
2627
2222
1622
1169
2110
1984
630
14,881
13
52
66
132
82
140
69
43
708
0.81
5.66
2.51
5.00
8.14
7.01
6.61
3.48
6.83
4.76
6933
3314
14,477
9113
7773
6444
9748
9966
2752
72,319170
84
235
448
419
582
514
764
467
132
3645
フ リ
6.78
ア
死
亡
%
死
亡
者
数
I
フ リ
同
11
ア 死 亡 敷
年
I
フ リ
ア
死
亡
%
死 亡 者
数
I
フ リ
︿口 計
ア 死 亡 数
63
マ
1.21
7.09
3.09
4.60
7.49
7.98
7.84
4.69
4.80
5.04
フ
リ
ア
死
亡
%
(出 典 :『 昭和十一年高雄州衛 生要 覧』81頁
よ り筆者作成)
以上の表 2‐ (Ⅱ )よ り昭和 7年 と同 11年 を比較 した場合、マ ラリア死亡率は 6.13%か
ら 4.76%へ 1.37%低 くな り、マ ラリア死亡者数 も 828人 か ら 708人 にな り 120人 減少
していることが分かる。また昭和 11年 のマ ラリア死亡率が最も高かつた地域 は旗山の
8。 14%で 、
次が屏東 7.01%で ある。逆にマ ラリア死亡率が最 も低い地域は高雄署管内の
0.81%で 、次が岡山 2.51%で ある。昭和 11年 のマ ラリア死亡率を地域別 に同 7年 と比
較する と大きく低下 している順 に潮州 4.65%、 岡山 2.22%、 東港 2.12%と なっている。
また五カ年 の死亡率が最 も高かつたのが屏東 7.98%、 潮州 7.84%、 旗 山 7.49%で ある。
逆に五カ年 のマ ラリア死亡率が最 も低 かつたのが高雄署管 内 1.21%、 岡山 3.09%で あ
る。
(5)薬 品消費
昭和 11年 の薬 品消費について『 昭和十一年高雄州衛 生要覧』81,82頁 に以下のように記
載 されてい る。
マ ラリア患者並に原轟保有者 に封 して大人一人に付「キニーネ」は〇.六 瓦「オイ ヒニ ン」
は〇.九 瓦を一 日に服薬分量 として二十 四 日間服用せ しめ小児 は年齢又は身膿 の螢養状
態を考慮 して適宜に服薬量を決定 し服用せ しめ再奎再感染等 には「プラスモ ヒン」、「ア
服用量 は七,三
テプ リン」なる新薬併用 し、治療完了に至る迄 の一人の平均「キニーネ」
二五瓦餘新薬 の併用一,六 人三瓦餘 な り。
史料 より① マ ラ リア患者 の服薬 には「キニーネ」と「オイ ヒニ ン」を二十 四 日間服薬 させ る
こと、②小児 には年齢や身体 の営養状態 を鑑みなが ら服薬量を決定 し服薬す ること、③再
発、再感染 の場合 は 「キニーネ」 と 「プラスモ ヒン」や 「アテプ リン」 と謂 う新薬を併用
して服薬す ることがきめられた。
(6)俸 染病予防及 び マ ラ リア防過地物整 理 費補助
高雄州 にお ける昭和 11年 (1936)の 博染病 予防及び ァ ラ リア防過地物整理費補助 の詳細
につい ては以 下 の表
表
2-(Ⅲ )の 通 りである。
2-3(Ⅲ )博 染病予防及 び マ ラ リア防邊地物整 理 費補助
64
埋 立
施行 の場所
田 町
高雄市
黒 金 町
屏東市
(円
排水溝 (米 )
)
楠
徳 脇
潮
萬 轡
水 底 寮
工事総額
州費補助
市街庄費
7,040.00
6,536.20
3,268.10
3,268.10
230.1
6,118.00
6,049.54
3,024.77
3,024.77
223.5
4,804.00
4,805.00
2,403.00
2,403.00
671.1
1,420.00
1,416.15
708.07
708.08
211.0
4,600.00
4,602.15
2,300.00
2,302.15
908.0
4,800.00
4,789.80
2,394.90
2,394.90
639.0
2,333.00
2,183.78
1,091.89
1,091.89
135.0
6,100.00
6,101.97
3,050.00
3,051.97
1,366.1
37,215.00
36,484.59
18,239.73
18,244.86
4,383.8
梓
岡 山
紡 寮 庄
州
五 魁 寮
同
高 轡 庄
同
潮 州 街
潮州郡
長 興 庄
屏東郡
楠 梓 庄
同
岡 山 街
岡 山郡
大 字
街 庄
郡市
工事費
予 算 (円 )
計
91頁 より筆者作成)
(出 典 :『 昭和十一年高雄州衛生要覧』
65
以上の 2-(Ⅲ )よ り昭和 11年 に高雄州全体で 36,484.59円 の工事費を使 い、4,383.8m
に及ぶ排水溝 を建設 したことが分 かる。36,484.59円 の工事費用 は州費補助 と市街庄費がほ
ぼ三分 の一ずつで州費補助 18,239.73円 、市街庄費 18,244.86円 となつている。工事費用 の
最 も高 い地域 は高雄市 6,536.20円 (排 水溝 は 230.lm)で 次 は潮州郡紡寮庄水底寮 の
6,101.97円
(排 水溝
1,366.lm)と なつている。
(7)衛 生豫算
高雄州 における昭和 11年 度 の衛 生豫算 の詳細は以下の 2-(Ⅳ )の 通 りである。
表 2-3(Ⅳ )昭 和 11年 度衛生費予算決算
科目
豫算額
%
(円 )
決算額 (円 )
%
経常部
第 六款
202,447.00
100.00
100,999.21
100.00
公 署費
11,990.00
5.92
10,751.04
10.64
第 一 日 公 署費
11,990.00
衛 生及病院費
第一項
10,751.04
第 二項
5.80
11,660.02
博染病予防費
11,749.00
第 一 日 事務費
1,301.00
1,237.48
第 二 日 検疫費
3,205.00
3,993.60
3,787.00
2,375,50
ペ ス ト防過費
2,343.00
1,941.80
第 五 日 諸費
1,113100
1,111.64
11.54
第二 日
細菌試験費
第四目
第 二項
マ ラ リア防過費
27.18
55,029.00
55,020.65
54.48
第一 日
マ ラ リア防遇費
55,020.65
55,029.00
第 四項
2.19
4,342.68
婦人病院費
4,441.00
第 一 日 諸給
2,367.00
2,283.60
第 二 目 事務 費
1,113.00
1,104.56
第 二 日 治療費
961.00
954.52
4.30
第 五項
衛 生諸 費
9.50
19,238.00
66
19.224.82
19.03
第一 目
屠 畜検査費
9,717.00
9,714.14
5,353.00
5,352.95
270.00
269.70
455.00
452.62
3,247.00
3,239.76
196.00
195.65
第二 日
衛 生試験費
第二 日
衛 生宣伝 費
第四目
衛 生講習費
第五 日
衛生不 良部落改
善費
第六 日
狂犬病予防費
第十 五款
19,621.00
100.00
19,556.36
100.00
管理費
18,272.00
93.12
17,953.94
91.81
第 一 日 事務費
2,713.00
2,706.42
第 二 日 雑給
12,324.00
12,046.25
第二 日 旅 費
513.00
512.91
第 四 目 修繕費
2,722.00
2,688.36
第 二項
交付金
1,349.00
第 一 日 交付金
1,349.00
屠場管理費
第 一項
6.88
1,602.42
8.19
1,602:42
臨時部
第 一款
螢繕土木費
第一項
管繕費
5,00.00
100.00
4,991.81
100.00
4,600.00
92.00
4,591.81
91.99
第九 日
屠場改築費
4,591.81
4,600.00
第 二項
災害復 旧費
400.00
8.00
400.00
8.01
第一 日
螢繕復 旧費
第 二款
衛生費
400.00
400.00
12,307.00
100.00
67
12,140.61
100.00
第 一項
マ ラ リア防過施
4,932.00
40.07
4,846.43
39.92
設費
第 一 日 事務費
2,514.00
2,441,30
第 二 日 奨励費
2,418.00
2,405.13
第 二項
207.05
2.32
286.00
瀬予防費
1.71
第一 日
207.05
286.00
瀬 予防費
第 二項
1,220.53
9.93
1,222.00
結核調査
10.05
第一 日
1,220.53
1,222.00
結核調査費
第 四項
マ ラ リア調査費
47.67
5,867.00
5,866.60
48.32
第一 日
マ ラ リア調査費
5,867.00
5,866.60
41,052.00
42,796.67
第 六款
補助及寄附
第 一項
補助及 寄附
第二 日
衛 生補 助
(『
以上のように表
昭和十一年高雄州衛 生要覧』91∼ 93頁 を基に筆者作成)
2-(Ⅳ )よ
り昭和 11年 度高雄州衛生費 の内嘉永上部第六款衛生及び病
院費 の決算額を 100と した場合、第三項マ ラリア防遇費の決算額 が 54.48%を 占め、第二項
伝染病予防費 (11.54%)や 第五項衛生諸費 (19.03%)を 大きく上回 つてい ることが分かる。
また臨時部第二款衛生費 の決算額を 100と した場合、第一項マ ラ リア防邊施設費 (39.92%)
と第 四項マ ラ リア調査費 (48.32%)の 合計 が
88。
24%を 占めていたことが分かる。以上 の
ことか らマ ラ リア防過が急務課題 であつたことを裏付 ける史料 と言 える。
(8)排 水施設
昭和 11年 (1936)の 高雄州 における下水溝設置状況について『 昭和十一年高雄州衛生要覧』
17,18頁 に以下のよ うに記 されてい る。
州下排水施設 は左表 の通 りに して線括的に見るに市街地に在 りては殆ん ど完備 の域 に
68
達 しつ ゝあるも全般 としては尚相営施設 を要す るもの あ り
州 に於 ては年 々二 萬 園乃 至三 高園程度 の補助 を興 へ 市街庄 公 共下水 の新設 を国 り逐年
五 千米乃 至一 高米 の延長 を見 る現況 にあ り
昭和 11年 当時市街地では排水施設 が完備 しつつあつたが 高雄州全体 ではまだ相 当下水溝
の設 置 を必要 として い た。 高雄州 では毎年 二 万 ∼三 万程度 を補助 し市街庄 に公 共 下水 の新
設 を図 り、毎年 5000m∼ 10000mず つ延長 している状況 で ある。史料 中の 「左 表」 の詳細
につい ては表 2-(V)の 通 りである。
表 2-3(V)排 水施設
郡市別
公 設 下水 (米 )
私設 下水 (米 )
合 計 (米 )
高雄市
56,016
77,363
133,379
屏東市
20,955
22,078
43,033
岡 山郡
14,459
1,838
16,297
鳳 山郡
15,387
15,100
30,487
旗 山郡
17,686
9,270
26,956
屏東郡
10,348
30,806
41,155
潮州郡
19,448
21,961
41,409
東港郡
12,385
12,936
25,321
恒春郡
6,452
5,600
12,052
合計
173,136
196,952
370,088
摘要
(出 典 :『 昭和十一年高雄州衛 生要覧』 18頁
より筆者作成)
以上の表 2-(Ⅲ )よ り高雄市内では公設下水 と私設下水をあわせて 133,379mに 及ぶ下
水溝 が設置 されていたことが分 かる。逆 に恒春郡 では 12,052m、 岡山郡では 16,297mに 止
まっていた。昭和 11年 の高雄州全体 の下水溝設置状況 は公設下水 と私設下水 を合わせて
370,088五 であつた。
(9)下 水掃除の状況
昭和 11年 (1936)の 高雄州における下水掃除の状況 について『 昭和十一年高雄州衛 生要覧』
19頁 に以下のよ うに記 されてい る。
下水掃除の状況
(1)高 雄市 内に於ては下水掃除人夫二一名手引車十 九童を以て五 日乃至十 二 日に一
周する如 く浚渫 し之に依 る汚泥は搬出 し附近 の埋立てに利用 しつ ゝあ り
(2)屏 東市内に於 ては下水掃除人夫一〇名 を以て一 日乃至二 日に一周す る如 く浚渫
し汚泥は凹地 の埋立に りよ うしつ ゝあ り
69
史料 よ り高雄市 内では掃 除人夫 21人 が手 引き車 19台 で 5日 か ら 12日 か けて市 内を一 周
す るよ うに下水掃 除 を して回 り、たま つた泥 は附近 の埋 め立てに利用 していた。屏東市 内
で も掃 除人夫 10人 が 1日 ∼2日 か けて市内を一 周す るよ うに下水掃 除 を して 回 り、たま つ
た泥 は凹地 の埋 め立てに利用 して い た ことが分 か る。
昭和
での高雄州 のマ ラ リア防過事業 の 実態 が明 ら
のマ ラ リア防邊事業 として血液検査 。服薬治療 。地物整理 。排水溝
7年 (1932)か ら同 11年 (1936)ま
か とな った。 この時期
設置等 が行 われた。 昭和 11年 まで に高雄州 全体で
370kmに 及 ぶツト水溝 が設置 され た。 ま
た昭和 11年 度 の臨時予算 の 内衛生費 の大半が マ ラ リア 防過 に 関す るものであつた。高雄州
では原 虫保有者 の割合 が五年間で 0.81%減 少 し、昭和 11年 の原 虫保有者 の割合 は 2.82%に
な った。マ ラ リア死 亡率 も五年 間 で 1.37%低 くな り、昭和 11年 のマ ラ リア死 亡 率は 4.76%
にな つ た。 また高雄州 で も台南州 と同様 に部落振興会や マ ラ リア 防過衛 生組合 が組織 され
るよ うにな った。 そ の一つがマ ラ リア防邊衛生組合 の創設 である。
(10)高 雄州 の衛 生組合
高雄州 の衛 生組合設 立 の沿革 につい て『 衛 生組合指導要領 』 (高 雄州警務部衛 生課 、 1939
年 )1∼ 3頁 に以下 の よ うに記 され て い る。
偶 々今 次事憂 ガ奎生 シ其戦 闘規模 ノ拡大デ アル コ トゝ近代戦 ノ特色 トシテ国家線力戦
デ アル コ トヤ事愛 ノ長 期化 ノー 方 二建設 工 作 ヲ遂行 シナ ケ レバ ナ ラナイ コ ト等 二依 リ
銃後 二於 ケル 国民誰位 ノ向上 卜人的資源 ノ涵養 卜謂 フ コ トガ聖戦 ノ遂行 卜戦果確保 ニ
欠 ク コ トノデ キナイ要素デ アル コ トニ着 ロセ ラ レー 面又 自治衛 生 ノ徹底化 ガ強 ク叫バ
レル ニ 至 り昭和十 二 年 中全 島各州麻 二或 ハ 保健組合 卜稀 シ又 ハ トラホ ー ム治療組合 、
マ ラ リア防過組合等 ノ名橋 ノ下 二組合組織 ノ機運 ガ彰済 トシテ起 ッテ末 タノデ アル 。
昭和十 三年 六月全 島警察會議 ノ席 上デ 線務長官 カ ラ 「各種衛 生諸 国證 ノ結成 二就 テ 」
トノ項 ロノ下 二衛 生組合 ノ組織 二努カ スル 様 ニ ト訓 示 ガ ア ッタノデ アル 。高雄州 デ ハ
数年前 カ ラ先 覚者 二依 ッテ衛 生組合 ノ設置 ヲ夫 々営局 二進言 サ レタ コ トガア ッタ ノデ
アル ガ遂 二 上述 ノ様 ナ ー般情勢 ノモ トニ其機運 ガ熟 シ上 司 ノ御英断 二依 り組合設 置 ノ
件 ハ 急速 二進展 シ 島内ハ 勿論 内地朝鮮等 カ ラ之等 ノ資料 ヲ蒐集 シ衛 生組合設 置大綱及
組合規約標 準案 ヲ制 定 シ、昭和十 三 年 二 月各郡守、市芳 、警 察署長 ノ意見 ヲ徴 シ成案
ヲ得 、同年 四月六 日告示第 五 十 一 琥 ヲ以テ 「昭和十 二 年 州令 第 一 琥博 染病豫 防法施行
細貝J附 則第 一 項但書 ノ規定 二依 ル 衛 生組合 規定 ノ施行 匝域 ヲ州 下一 園 トス」 卜告示サ
レ姦 二博染病豫 防法第 二 十 三 條 二根抜 ヲ有 スル 衛 生組合 ガ州 下 一 園 二組織 サ レル コ ト
ニ ナ ッタ ノデ アル 。
以 上の史 料 よ り高雄州衛 生組合 の設 置背景 として 日中戦争 の拡 大 に よ つて 国民證位 の 向
上並び に人 的資源 の涵養 が必要 と考 え られ 、 自治衛 生 の徹底化 が強 く推進 され るよ うにな
った。 そ のため昭和 13年 中に保健組合 、 トラホーム治療組合 、マ ラ リア防遇組合 な どの組
70
織 が建設 され始 めた。其建設 に拍 車 をかけた のが 昭和 13年 6月 に 開 かれ た全 島警察會議 の
際 に総務長官 の衛 生組合結成 に関す る訓示 であ つた。 高雄州 では 、数年前 か ら先覚者 た ち
が衛 生組合 の必要性 を提言 していた こ ともあ り、内地 。朝鮮 の衛 生組合設置 に就 ての 資料
を基 に して衛 生組合設置大綱及衛 生 組合 規約標 準案 を制定 した。 そ して成案 を作 り、同年
四月六 日に伝染病予防法第 23條 を根拠 として衛生組合規定 の施行 区域 を州 下一 園 に組織す
る法案 が告示 され た ことが分 か つた。
衛 生組合 の事業 目的 について『 衛 生組合指導要領』 3∼ 5頁 に以下 の よ うに記 され てい る。
第 五 條 前條 ノ ロ的 ヲ達成 スル タメ本組合 二於テ賞行 スベ キ事業概 ネ左 ノ如 シ
ー 、博染病豫 防制遇 二 開 スル 事項
イ、種痘 、豫 防注射 ノ賞施若 ハ奨励 又 ハ 之ガ賞施 二封 スル 援助
口、博染病 ノ早期嚢見及隠薇 ノ矯正
ハ 、鼠族 、蠅 、油轟其 ノ他 有害 ナル昆轟類 ノ駆除
二 、消毒法及清潔 方法
ホ 、其 ノ他博染病豫防救治 二必要ナル 事項
二 、 マ ラ リア防過 二 開 スル 事項
イ、検血及服薬
口、蚊帳 ノ普及
ハ 、蚊族駆 除 二 開 スル 事項
三 、一般保健衛 生 二 開 スル 事項
イ、家屋 内外及道路 ノ掃除及撤水
口、溝渠便所其 ノ他不潔ナ ル 場所 ノ掃 除
ハ 、河海及 下水溝 二塵芥又 ハ 汚物 ノ投棄防止
二 、清潔 方法施行 ノ援助
ホ 、塵芥容器 ノ整備 (堆 肥舎 、芥溜 ノ整備 )
へ 、空地 ノ掃 除及整頓 (所 有者標識樹 立)
卜、不良飲料水 ノ改善
チ 、 地方病 ノ駆 除及慢性博染病 ノ豫 防
り、住宅及便所 ノ設 置改善
ヌ 、凹地低地 ノ埋立排水、竹木伐採及住 宅周 園 ノ雑 草刈 除
ル 、煤煙及悪臭 ノ防止
ヲ、保健調 査
四、衛 生思想 普及 二 開 スル 事項
71
イ、博染病豫 防及其他 一般衛 生思想 ノ普及
口、衛 生上必要ナル 法令及通牒 ノ周知
ハ 、健康相談所 開設
二 、迷信 打破及悪習矯 正
ホ 、衛 生功 劣者表彰
ノ如 ク多種多様 ノ事項 ヲ網羅 シテヰル ガ各組合 二於 テ ハ 衛 生委 員會 又 ハ 組合會 二於テ
此 ノ内 ヨ リ其組合 ノ事業 トシテ 賞行 スベ キ コ トヲ軽重緩急 二應 ジ取捨 シテ 決議 シ質行
二移 ス コ トヲ要 スルモ ノデアノ
L
以 上 の史料 よ り、衛生組合 の事業 目的 は多岐 に亘 り衛生事業全般 を扱 つてい る。 また マ
ラ リア防遇 を軸 に防過 を行 う場合 、 一 般保健衛 生 に関す る業務 と併用連携 して い く こ とが
重要 である。
マ ラ リア の豫防撲滅法 の三 要素 について『 衛 生組合指導要領』 95∼ 99に 以下 の よ うに記
され てい る。
マ ラ リア豫防、撲滅 ノ要点 ハ (一 )蚊 ヲ全然無 クスル カ 、 (二 )蚊 二刺 サ レナイ様 ニス
ル カ 、 (三 )人 證 ノ 「マ ラ リア」原轟 ヲ無 クスル カ ノ三途 アル ノ ミデ アル 。然 シ賞際間
題 トシテ以上 ノ三要件 ノー ツデ モ 完全 二徹底 セ シ ムル コ トハ 困難デ アル ノデ時 卜場所
ニ ヨ リ各種 ノ事情 ヲ総合的 二研 究 シ或 ル モ ノニ注 ギ、或 ハ 三 要件 二 出来 ル丈全 カ ヲ蓋
ス様 二心懸ネ バ ナ ラヌ。
一 、蚊 ヲ無 ク スル 方法 (蚊 族剰滅法 )
蚊 ハ 幼轟 卜成 轟 トニ ヨ リテ棲 ム虎 ガ違 フヲ以 テ本法 モ 又 自ラ方法 ヲ異 ニ スル 。即 チ成
轟 ハ 空気 中二 生活 スルモ幼轟 時代 ハ 産卵 カ ラ子子 トナ リ蛹 ヲ経過 シテ 成轟 トナル迄 ハ
瀑潤ナ低 地、水流又 ハ 水溝 ヲ必要 トスル ヲ以 テ夫 々別個 ノ方法 二依 ラネ バ ナ ラヌ。
甲、幼轟撲滅 法
(一 )土 地整 理
此 ノ方法 ハ 蚊族 ノ産卵及奎育 ノ場所 ヲ整理 シテ 蚊 ノ奎 生 、生長 ヲ失 ハ ス方法デ アル 。
故 二不必要 ナ水溝 、瀑低 地 ノ埋立 ヲ篤 シ、或 ハ 養魚 地 、用水 地又ハ 其他 ノ関係 デ埋 立
ノ出来ナイ虎 ハ 共 二周 園水際 ヲ煉 瓦又 ハ「コンク リー ト」等デ処置 スル コ トヲ要 スル 。
元来 「ア ノフ ェ レス 」蚊族 ハ 人 エ ヲ加 ヘ ル 水 中特 二雑 草 ノ奎 生 シナイ 虎 ニハ 産卵嚢育
ヲ嫌 フ習性 ヲ持 ッテ居ル カ ラデ アル 。 土地状況 ニ ヨ リ埋 立 、排水、下 水溝 ノ設 置 、開
拓 工事 ヲ為 シ得 ナイ虎 デハ 左 ノ方法 ヲ適 宜賞施 セ ネ バ ナ ラヌ。
(二 )重 油撒布
「ア ノフ ェ レス」族産卵 ノ場 所 ヲ整理 シ産卵 ノ箇 所 ヲ無 クスル コ トハ 「マ ラ リア」防
遇上デ ハ 必要ナ コ トデ ハ アル ガ 多 大ナ経費 ヲ要 シ賞行 不可能 ナ場合 ガ少 ナ クナイ。特
二住家附近 ノ水 田ノ如 キハ 畑 作 卜鶯 ス コ トガ理想デ アル ガ産 業 上 賞現 ガ 困難 デ アル 。
故 二 子子 ガ水 中二居 ルモ 時 々 呼吸 ヲスル 習性 ヲ利用 シテ 水面 二重油 ヲ撒布 シ 子子 ヲシ
72
テ呼吸 困難 ニ ナ ラ シメ窒息死 ヲ末 タラ シムル方 法デ アル 。 而 シテ 重油 ノ表面 張カ ハ ー
滴デ ー 尺平方 二拡ガ リ且 一 ヶ月 モ 有効デ ア リ経費 モ 砂 ナ クテ好 都合 デ アル ガ 降雨又 ハ
流水 ニ ヨ リ其効カ ヲ妨 グ ラ レル 欠点 ガアル 。重油撒 布 ハ ーニ週 間 ニー 回位 ヲ理想 的 ト
スル 。飲料水 ニハ 重油 ヲ應用 スル コ トハ 困難デ アル カ ラ 「ユ ー カ リブ リー ス 油」若 ク
ハ 杜松油 ヲ用 ヒレバ 人畜 二無害デ効カ ハ 重油 卜愛 ラナイ。
乙、成蚊剰滅法
成蚊 ヲ駆 除又 ハ 剰 滅 スル ニハ 除轟菊 (製 品ハ 蚊取線香 )檜 葉 、杉葉 、鋸暦又 ハ 蜜柑 ノ
皮等 ヲ燻煙 スル コ トガ必要デ アル 。 其 ノ方法 ハ 豫 メ室 ヲ閉メ切 ッテ 置イ テ燻 ラ シ後適
営 ナル時間 ヲ経 テ部屋 ヲ開ケル ト蚊 ハ 死亡 シ、又 ハ 飛 去 ッテ 仕舞 フ。 其後 ハ 少 量 ヲ燻
ラ シテオケバ ー 晩 中蚊 ガ襲来 スル コ トハ ナイ 。最初多 量 二燻 ラス時期 ハ タ方 ノー 番蚊
ノ多 ク出ル 時期 ヲ見計 ラ ッテヤル コ トガ肝要デ アル 。其外 「フマ キ ラー 」「カ トー ル 」
「キクエ キ」等 ノ殺 虫液 ヲ撒布 スル コ トガ良 ヒ。
丙、外部作業
此 ノ方法 ハ ー 般 「マ ラ リア」防過 ノ ロ的 ノ下 二施行 スル モ ノデ竹木 ノ下枝 伐採 、雑 草
ノ刈除 、或 ハ 竹木 ノ枯死 シタモ ノヲ根本 ヨ リ掘除 キ、住 家附 近 ニハ 竹木 、芭蕉 、麻
,
黍類等 ノ如 ク繁茂 シ蚊族 ノ棲 息 二適 スル植 物 ノ植付 ヲ制 限 シ、垣根 ヲ築造 スル ニハ 木、
石 、煉 瓦、 コ ンク リー ト等 ヲ以 テ鶯 サ シメル 様 ニ シ若 シ生垣 ヲ造ル トキハ 幅 二 尺高サ
五 尺以内 トシテ 毎月 一 回剪除 セ シメ家 屋 ノ建 築 二 営 リテ ハ 開窓 ヲ充分用 ヒセ シメ採 光
通風 ノ良好 ヲ期 シ板 張 り床 二 改造 セ シメ蚊帳 ノ普及使用 完璧 ヲ期 シ蚊族襲来 ノ防止 ヲ
固ル 等 ハ 緊要 ナ コ トデ アル 。
丁、天然敵轟利用
以 上述 ベ タル ハ 人 工 的 ノ豫 防法デ アル ガ 自然界 二存 スル 敵 ヲ利用 スル コ トモ 閑却 シ得
ナイ 、 自然界 ノ敵 ハ 絶 ヘ ズ蚊 ノ幼轟及成贔 ヲ捕食 スル ノデ多大ナ効果 ヲ収 メル 。 蚊 ヲ
。
喰 フ動物 中蚊 ノ成轟 ヲ喰 フ動物 ハ 蝙 蝠、鳥類 、ヤ モ リ、蛙 、蜻蛉等 デ ア ッテ幼轟 蛹
ヲ喰 フノハ 「ミズスマ シ」「マ リモ ムシ」蜻蛉等 ノ贔類 、金魚 、「メダカ」「タ ップ ミノ」
ノ如 キ魚 類 ハ 子子 ヲ非常 二好 ンデ食 スル ガ鶯 二 之等 ガ多数繁殖 シテ居 ル
ニ 、防蚊 方法 (蚊 二刺 サ レナイ様 ニスル 方法 )
(一 )防 蚊家 屋
金網 ヲ用 ヒテ窓、戸 口等蚊族 ノ進入 スル 隙間 ヲ遮 断 スル 方法 ニ シテ外 國 二於 テ ハ 試 ミ
ラ レ吾墓漏 二於 テ モ 軍隊 二於 テハ試 ミラ レタ リ
(二 )蚊 帳使用
蚊帳 ノ使用 ハ 比 較的容易 二各家庭 二於テ賞行 シ得 テ且其効果 アル フ以テ努 メテ励 行 シ
ナケ レバ ナ ラヌ。
(三 )薬 液 ノ塗布
身證 ノ露 出部 二薬液 ヲ塗布 シ蚊 ノ刺 ス ノヲ防 グ方法デ アル 。現行用 ヒラ レテ ヲル ノハ
(壱 )樟 脳 油、
73
(弐 )テ ル ペ ンチ ン石鹸並 ニ オイカ リブ ス油、
(参 )ベ ル ガモ ッ ト油 一 分、石油十 六分
三 、人證 二於 ケル 「マ ラ リア」原轟滅却 法
現在州 下各防遇所 二於テ賞施 シテ居 ル 方法 ナ レバ 特 二記述 ヲ避 ケル ガ要 ハ 防過所員 ノ
指示 二徒 ヒ所定期 間中確賞 二服薬治療 スル コ トヲ心懸ネ バ ナ ラヌ
(1)蚊 を無 くす こ と、 (2)蚊 に刺 され ない
よ うにす る こ と、 (3)マ ラ リア原 虫を無 くす こ とである。 (1)蚊 を無 くす方法 は大 き く 5
以 上の史料 よ り、 マ ラ リア防過 の三 要件 は
つ ある。 一つ 日は低湿地や水溜 、水溝 の埋立で ある。埋 立が 出来 な い場合 は周 囲 を煉 瓦や
コ ン ク リー トで覆 うことで ある。 これ は蚊 が人 工物 を嫌 う習性 を利用 した封策 で ある。 二
つ 目は重油 の撒布 である。 重油 の撒布 は安価 で あ り、長期 間効果 が ある封策 で あるが、雨
に弱 い とい う欠点 を持 ってい る。 二 つ 目は除轟菊や檜葉、 杉葉 、鋸屑 、蜜柑 の皮 の燻煙 で
ある。 四つ 日は竹木 の伐採や 垣根 の築 造制 限、蚊帳 の働行等 の外部作業 である。 五つ 日は
人 工物 的防遇 でな く、 自然 的防遇法 で ある。蚊 を捕食 とす る蝙蝠、蛙 、蜻蛉、子子 を捕食
とす る蜻蛉、 メダカ、タ ップ ミノな どの敵 を利用 した封策 で ある。
(2)蚊 に刺 されない ようにす るための工夫 として三つ紹介 されてい る。①防蚊網戸 の設
ンペ ンチン石鹸 171拉 ニォィカ リブス油、ベルガモ ッ
置、②蚊帳使用の励行、③樟脳油、テノ
ト油 172-分 、石油十六分、蚊取香油 173な どの薬液 を塗布することである。 (3)マ ラ リ
ア原 虫を無 くす対策 としては対原虫封策 である血液服薬であ り、 キニーネや オイ ヒニ ン、
プラスモ ヒンなどの薬品の投薬治療 が主な封策である。
以上のよ うに高雄州 のマ ラ リア防遇事業 の特色は州 か ら直接指導で進 められていて、衛
生組合設置に関 しても『 衛 生組合指導要領』 といつた書物 を作成 して州指導で衛生思想 の
普及 を図つたことが読み取れる。 また高雄州は他 の事業 でも同 じよ うに州 が直接指導す る
ような仕組みであつたように考えられ る。
74
第 四節 移民村 の防邊事業
移民村 に関 しての先行研究 には山口政治 の『 東台湾開発史』や張素紛 の『 台溝的 日本農
業移民 一以官螢移民為中心』 がある。 この中にもマ ラリアに関す る記述が見 られ る。 そ し
て彼 らの根拠 になつていた理論が 「開発原病論」 とい う理論であつた。開発原病論 とは、
開発 による自然改変や人的改変 によつてマ ラリアな どの病気が発生す るとい う理論 である。
筆者 はこの理論 に対 し疑間を抱き原典史料 である『 官営移民事業報告書』174を 使 つて移民
村 (豊 田村 ◆吉野村)に 対 しての衛生状態な どを調べ ることに した。
(1)豊 田村
豊 田村 の衛生概況について『 官営移民事業報告書』 (台 湾総督府、1919年 )に 以下のよ
うに記 されてい る。
大正三年 四月移民収容 ノ営初 二於テハ移民 ノ家屋ハ未 夕全部落成セザル ヲ以テー先 ヅ農
夫小屋 二収容 シ五月十 日第 二同 ノ移民渡蔓 卜共 二各 自割営 ノ家屋及土地 ノ決定ヲ篤シ之
二引移ラシメタリ
先 之現今 ノ森本部落 ノ西方一 町餘 ノ所 卜北方五町餘 アル所 二蔓東製糖拓殖株式會社 ノ経
螢 二係ル農村 ア リ其ノ衛生状態 ノ不良ナル コ ト麻下屈指 ノ地 ニ シテ豊 田村測定 ノ営時 ニ
於テハマ ラリア防遇事務所 二依 り検血鏡 二依 り検査サ レタル成績下 ノ如シ
年月
検血人員百二封 スル原虫保有者数 (表
2-4(I))
2月
18.25
3月
5.4
4月
6.25
5月
12.37
6月
2.84
7月
明治
44年
大 正 元年
8月
7.92
9月
12.4
10月
20.00
11月
29.95
12月
13.59
1月
22.63
2月
9.52
3月
7.94
4月
12.00
12.14
平均
75
本表 ハ検 血 総人員 百二十 七名 乃至百○ 七名 ノ成 績 ナ リ
斯如成績 ナル ヲ以 テ移 民収容 前 二於 テ大 二 制疲 ノ必要 ヲ認 メー 箇月 二 同定期槍 血 ヲ施行
シ翌年 二 月 二至 リテー .〇 %乃 至 二 .〇 %二 逓減 セ リ。而 シテ 爾後漸 次移 民 ノ増加 二徒 ヒ「マ
ラ リア」 ノ嚢生 二就 テ ハ 特 二甚深 ノ注意 ヲ排 ヒタル ニモ 拘 ワラ ズ各処 工 事 ノタメ木 工土
工 其他 ノ労役者 ノ出入 頻繁 ニ シテ理 想 的 ノ定 期検 血 ノ施行 困難 ニ シテ遂 二第 一 回移 民 中
ヨ リ渡蔓後 四十八 日ロニ 人歳 ノ女児 二嚢病 セ リヲ初 メ トシ逐次患者 ノ増加 ヲ呈セ リ。 大
正 三年度 二於 テ ハ 衛生状態給佳 良 ニ シテ死亡 率 ハ 逓減 セ リ此年 七 月 七 日暴風 雨 ア リ官 吏
及村 民 ノ多 クハ 學校 二避難 シ次デ 七 月 二 十 日ヨ リ人月 一 日二渉 り大雨ア リ洪 水 ハ 森本部
落 ノ東十数戸及 大平部落南東 二 十餘 戸浸水 シ或 ハ 倒壊 シテ住居 ノ平安 ヲ害 スル 砂 カ ラザ
ル シテ 多少 マ ラ リア発 生 シタ リ。然 ル ニ 此 ノ地 二未 夕嘗 テ認 メザ リシ恙 姦病 即発疹熱 ノ
存在 ヲ確 カ メタ リ。賞 二大正 三 年 九 月十 六 日大平 ノ移 民渓 ロニ於テ感染 セルモ ノア リ之
ニ ヨ リ営村 ノ山麓 ニモ 亦恙轟 ノ存在 スル ヲ知 り移 民 二周知 セ シメテ 各人 ヲ警 メー 方之ガ
豫 防法及治療法 ヲ講究 スル ニ 至 レ リ
以 上 の史料 か ら大正 2年 か ら移 民地 175で のマ ラ リア防遇 が始 ま り、検 血 服薬事業 を行 つ
てい っ た。 また マ ラ リア の発生 には土木事業 な どによ つて発 生す る 「開発原病 」的発 生 と
台風や大雨 な どの 自然災害 による 自然的環境 改変 に よつて生 じるマ ラ リア発 生 があった こ
とが分 かつた。さらに豊 田村 には恙轟病 176と ぃ う病 が発 生 し、そ の防遇予防法 につい て も
講究 してい る ことも分 かつた。表
2-4(I)は 移 民開始前 に於 けるマ ラ リア患者 の値 を示
す もので あ り、以前 か らマ ラ リア患者 がいた こ とが窺 えるこ とか ら、飯 島渉 らが提 唱 して
い る 「開発原病論」 を覆す よ うな史料 だ と言 える。
豊 田村 のマ ラ リア防遇組合 の設置 につい て『 台湾 日日新報』 (昭 和 10年 8月 18日 )に 以
下 の よ うに記 され てい る。
豊 田村 で は本 月 よ り村 内マ ラ リア防過組合 を設 立 して村 内 の患者 一 掃 の鶯 自奎的 に防過
に全力 を壺す事 になった昨年 中 の患者 敷 六 百 三 十名原轟保 有者 三 百 六 十名 と云ふ 状態 を
鑑 み て民會 では官 のみ に頼 つて居れず との 自嚢 の 下 に設 立 され た ので あるが、斯 か る組
合 は全 島 で も始 めてで麻 では この賞績 を見た上で廣 く奨励 の意 向である。
以 上 の史料 よ り豊 田村 マ ラ リア防過組合 の設置理 由は村 内 のマ ラ リア患者 一 掃 を 目的 と
し、官衛 に頼 らず 自発 的 に設 立 した もので ある。 また この豊 田村 が マ ラ リア防過組合 の濫
傷 であるこ とが史 料 か らい える 177。
76
(2)吉 野村
吉野村 の沿革 につい て『 吉野村概況』 (1936年 、吉野村居住 民會)1∼ 3頁 に以下 の よ うに
記 され て い る。
吉野村 ハ 明治 四十二年 ノ創設 ニ シテ 花蓮港麻 下 二於 ケル 最初 ノ官営移 民村 ナ リ即チ明
治 四十 二年 二 月 二童 蘭移 民指導所 ヲ設置 シ徳 島縣下 ヨ リ九戸 ノ農 民 ヲ招致 シ専 ラ熱 帯
地 農業 ノ試練 二営 ラ シメ以 テ 後末移 民 ノ模 範 タラ シム 同年十月 五 十 二 戸 ノ農 民 ヲ招致
シ前後合 シテ六 十 一 戸 ノ農 民 ヲ宮前部落 二居住 セ シメタ リ之賞 二本村移 民村 ノ濫傷 ナ
リ。営時移 民指導所 ヲ童蘭移 民指導所 卜構 ヘ シガ 明治 四十 四年東部 菫溝 一 般移 民適地
ヲ母 國名稀 二 改 ムル コ トヽナ リ同年 人月営地 ヲ吉野村 卜命名 シ 同時 二移 民指導所 ヲ墓
湾線督府 民政部殖産 局附属 吉野村移 民指導所 卜改橋 セ リ。 同年新移 民収容準備 トシテ
幹支線道路 ノ新設 移 民家屋 ノ建 築 二着手 シ漸時 ソノ竣功 ヲ告 グル ト共 二 明治 四十 四年
百 七 十戸大 正 三・ 四年 九十 六 前後通計 三 百 二 十 七 戸 ヲ収容 シ官前 。清水・ 草分 ノ三大
部落 ヲ形 成 スル ニ至 レ リ。 此 間讐療所 ヲ設 ケ公 書、薬剤 師、産婆 、看護婦 ヲ配 置 シ警
察官 吏派 出所 ヲ特 設 シ小 學校 ヲ設 立 シ神社布教所 ヲ建 立 シ飲料水 道 ノ施設道 路橋 梁野
獣柵 ノ設備 手押軽便軌道 ノ敷設灌漑排水路 ノ開整等諸般 ノ施設 ヲナ シ全 ク農村 ノ面 目
整頓 シ土地 ノ開拓 モ 又着 々進捗 シツ ゝア リシガ不幸 ニ シテ 大正元年 九 月十 六 日未曾有
ノ大暴風 雨 二遭遇 シテ建 物 ハ 殆 ド全滅 シ又諸般 ノ設備 ノ被害甚大 ニ シテ移 民 トシテ ハ
全 ク精神 的 二 物質的 二極度 ノ打撃 ヲ蒙 り前途 ヲ憂慮 スル モ ノ少 ナカ ラザ リシモ 常 二深
甚 ナル 官麻 ノ保 護 ヲ受 ケ大 正三年 ニハ 全部 ノ復 奮 工事完成 ヲ告 ゲテ安堵 シ何 レモ 素志
ヲ楡 ス コ トナ ク各 自生業 二精励 シ末 レ リ。 (中 略 )爾 来移 民 ノ精励 卜職員 ノ努カ トハ 相
侯 ッテ順調 ナル 嚢達 ヲ末 タシ農村 ノ基礎漸 ク確 立 スル ヤ墓溝線督府 ハ 大 正三 年度 限 リ
移 民指導所 ヲ康 シ之 ヲ花蓮港麻 ノ所管 二移 シタル ヲ以テ麻 ハ コ ゝ二麻 出張所 ヲ設 置 シ
移 民指導誘液 二任 スル コ トゝナ レ リー 方村 民 ニハ 居住 民會 ヲ組 織 セ シメ農村 ノ 自治 的
訓練 ヲ施 シツ ゝア リ而 シテ 同居住 民會 ハ 其成績逐年優 良 ニ シテ 大正十 四年線督府 ヨ リ
助成 金 百五 十 園 ヲ下附 セ ラ レタ リ。 大 正九年 地方制度 改 正 二 際 シ営村 二 吉野 匡役場 を
新設 シ之 卜前後 シテ 産業組合煙 草耕 作組合農業組合等 ヲ組織 シー層農 事改 良奎達農村
経済 ノ向上充賓 二努 メツ ゝア リ。
以 上 の史料 よ り吉野村 は明治 43年 に創設 され た花蓮港麻 にお ける最初 の官営移 民村 であ
る。 同年 2月 に童蘭移 民指導所 を設 置 し、徳 島県 か ら 9戸 の農民 を招致 し、熱 帯地農業 を
行 わせ 、爾後
52戸 の農 民 を招致 し、計 61戸 の農 民 を官前部落 に居住 させ た。 これ が本村
移 民村 の濫場 であ る。新移 民収容 準備 として幹支線道 路 の新設 、新移 民家屋 の建 設 に着手
し、宮前、清水、草分 とい う三大 部落 を形成 した。 これ と同時進行 で讐療所 を設 け、公 書、
薬剤 師、産婆 、看護婦 を配置 した。 また警察官 吏派 出所や小学校 、神社 建立、飲料水道 の
施設 、灌漑JF水 路 の 開塗 な どを行 い農村経螢 の 向上 を来 した。 しか し大正 元年 9月 16日 の
台風 に よる甚大 な る被 害 を受 けた。 そ の ため官庁 の保護 を受 け復 旧工事 を行 い 、移 民 の精
77
励 と職 員 の努力 に よつて順調 な発 達 を来 し農村経螢 の基礎 を確 立す るに至 つ た。 大正
5年
に移 民指導所 を廃止 し、麻 出張所 と名称 を変 え、花蓮港麻所 管 の官営移 民地 とな った。村
民 には居住民會 を組織 させ 、農村 の 自治的訓練 を為 してい る。大 正
9年 の地 方制度改 正に
よって吉野 匠役場 を新設す るだ けでな く、産業組合 、煙 草耕 作組合 、農業組合等 を組織 し
て農事改良及 び農村経済 の 向上 充実 に努 めていた こ とが分か つた。
『 官営移 民事業報告書』 (1919年 、台湾総督 府 )の 吉野村―衛 生 ノ部 には以下 の よ うに記
述 され てい る。
飲 用水 ノ清潔 ヲ期 スル 鶯 メ水道及鑽井 ノ設備 ヲナ シ瀑気 ヲ除 キ蚊族 ノ減退 ヲ期 スル 篤
メ排水路 ノ開撃 ヲ完 全 ニナ ラ シメ 尚流刺利 亜防邊 ノ鶯 二移住 民 一 同 ノ検血 ヲ行 ヒ移住
後 三 箇年流刺利 亜豫 防及治療薬 ヲ無料給典 シ其他 ノ諸病 二就 テ モ 手術料 、虎 置料 、入
院料等 ヲ賞費 ノ半額 トシ衛 生状態 ノ保持 二努カ セ リ6(中 略)明 治 四十 四年 五 月 ヨ リ症
状癒刺利 亜 二類 スル 熱性患者 多数 出 シ指導所職員及其家族 ヲ初 メ移 民 中 ニモ 多数 ノ患
者 ヲ嚢 生 シ以来赫刺利 亜 ノ襲来 止 ム コ トナ ク其敷 ヲ増 加 セ リ然 レ ドモ 近時 二及 ビ防過
法漸 ク其 効 ヲ奏 シ病勢著 シク減退 シ 良好 ノ結果 ヲ呈 スル ニ至 レ リ今本村 累年 ノ罹病者
ヲ表示 ス レバ 下表 ノ如 シ
表
2-4(Ⅱ )本 村 累年 の罹病者
年別
死亡
患者
病別
風土病
1
偉 染病
嚢育及榮養 的病
皮膚及筋病
骨及開節病
血行器 系
1
神経 系及 五官
明治 43年
呼吸器病
消化器病
泌尿及生殖器病
外傷及外科 的病
中毒症
病症不詳
不明
合計
在住 人 口
同 44年
不明
風 土病
578
博 染病
2
嚢育及榮養 的病
7
78
皮膚及筋病
骨及開節病
血 行器 系
神経系及五官
90
呼吸器病
1
消化器病
4
泌尿及生殖器病
1
外傷 及外科 的病
中毒症
病症不詳
260
合計
1,645
1
在住 人 口
風 土病
1,210
7
博 染病
326
4
嚢育及榮養 的病
6
皮膚及筋病
204
骨及開節病
22
血行器 系
大正元年
1
神経 系及 五 官
446
1
呼吸器病
498
7
34
消化器 病
泌尿及生殖器病
84
外傷 及外科 的病
471
中毒症
2
病症不詳
合計
4,203
70
1,473
1
在住 人 口
風 土病
博 染病
3
嚢育及榮養 的病
同 2年
皮膚及筋病
232
骨及開節病
26
血行器 系
1
367
神経 系及五官
呼吸器病
79
1,025
消化器 病
泌尿及生殖器病
1
外傷 及外科 的病
1
中毒症
病症 不詳
32
合計
2,869
1
在住 人 口
風土病
惇 染病
1
壺育及榮養 的病
1
229
皮膚及筋病
骨及開節病
血行器 系
183
神経 系及 五官
同 3年
呼吸器病
2
消化器病
泌尿及生殖器病
32
外傷 及外科 的病
108
1
中毒症
病症不詳
1
3,062
合計
在住 人 口
2,805
風 土病
惇 染病
同
4年
4
1
嚢育及榮養 的病
124
皮膚及筋病
198
骨及開節病
3
血行器 系
1
1
神経 系及 五 官
呼吸器病
306
消化器 病
451
泌尿及生殖器病
10
外傷及外科 的病
3
1
中毒症
3
病症 不詳
80
4,181
合計
在住 人 口
1,472
風 土病
3.086
偉 染病
4
壼育及榮養 的病
皮膚及筋病
骨及開節 病
同 5年
10
血行器 系
1
神経 系及 五 官
2
559
呼吸器病
10
消化器 病
泌尿及生殖器病
外傷及外科 的病
170
中毒症
1
病症不詳
30
5,203
合計
在住 人 口
1,627
風 土病
10,673
惇 染病
395
嚢育及榮養 的病
203
皮膚及筋病
1,233
31
骨及開節病
合計
血 行器 系
47
神経 系及 五 官
1,504
呼吸器病
2,202
消化器 病
4,045
泌尿及生殖器病
10
外傷及外科 的病
1,216
中毒症
1
病症不詳
22,163
合計
194
在住 人 口
上 ノ表 二依 レバ 患者 ノ数 ハ 累年其敷 ヲ増 シ風 土病 二於 テ モ 其比率増大 ノ傾 ア リテ本村
ノ衛 生 状態 ハ 年毎 二不 良 二 向 フカ如 シ然 レ トモ 賞際 二就 テ之 ヲ見 レバ 移 民数 ノ増 加 著
シキ ト諸 工事 ノ施行 二依 ッテ外業労働者 ノ病菌 ヲ移入 スル 者 多 キ等容易 二衛 生 ノ基礎
81
ヲ固 ムル 能 ハ サ ル 事情 ア リ剰 へ 移 民 ノ各 自衛 生思想 ノ登 達 卜共 二讐薬 二親 シム ノ風習
多 ク且 指導所 二於 テ モ務 メテ服 薬 ヲ奨励 セル 結果軽症 卜雖 モ 直 二診 察又 ハ 施薬 ヲ乞 ヒ
讐療所 へ 走 ル ノ風 習 ヲ剛1致 セル ニ依 レルモ ノニ シテ衛 生上大 二 良好 ノ進 歩 ヲ鶯 シツ ゝ
アル ハ 争 フ可カ ラサ ル 事賞ナ リ トス 178
以 上 の史料 よ り、飲料水 の清潔 を期 す るた めに水道 及 び 鑽井 を設 け、蚊族 の減退 を期す
るた めにツト
水溝 の 開盤 を行 い完 全 な る地物整理 を行 つ た。 また対 原 虫対策 と して一 般住 民
に対 し血 液検査 を行 い 、移住後 三 箇年 マ ラ リア予防及 び治療薬 を無料給与 していた こ とが
分 か つた。 また表 に よれ ば 、患者 の数 は年 々増加 してい るが 、 これ は移 民者数 の増 加 と諸
工事 の施 工 に よって外業労働者 の病菌移入 に依 るもので あ っ た。衛 生思想 が乏 しか つたの
で衛 生思想 の 向上 を図 るために検 血 月
受薬 の奨励及 び 怪我や病気 に罹 つた場合 讐療所 へ 行 つ
て診 察、施薬 を受 けるよ うに習慣付 けて い った こ とが分 か つ た。 さらに表 の 中 で一 番 患者
数 が 多 いの は 、 マ ラ リア を代表 とす る風 土病 で あ っ た。次 いで 多 か った のが 、消化器 系 の
病 である。 死者 敷 では消化器系 の病 が最 も多 く、次 い で風土病 が多 い。消化器 系
(胃 腸病 )
の患者 が最 も多 いの は大正元年 で ある。これ は大正 元年 9月 16日 の台風 によつて甚大 なる
被害 を蒙 り、食糧 な どの供 給 が粗悪 で あ り、且不足 していて 胃腸病 に罹 る者 が続 出 した こ
とが原 因 である 179と 言 える。
吉野村 の衛 生概況について『 吉野村概況』5,6頁 に以下のよ うに記 されてい る。
本村新設営時ハ衛 生状態頗ル 不良ニ シテ 「マ ラ リア病」呼吸器病消化器病腸チ フス恙
轟病等 の患者多カ リシガ線督府 二於テハ移民 ノ保健 二付 キ特 二深甚 ノ注意 ヲ排 ヒ村 ニ
讐療所 ヲ設ケ罹病者 ニハ移住後 三年間 「マ ラ リア」豫防薬 ヲ無料給典 シ薬債治療代及
入院料等ハ賞費 ノ半額 ヲ補助 シタ リ、而シテ大正六年 ヨ リ公 讐 ヲ置 キ 「マ ラ リア」防
過 ヲ施行 シ末 リタルガ猶ホ讐療 ノ遺憾ナキヲ期 スル鶯産業組合 二於テ吉野讐院 ヲ設置
シ昭和五年人月一 日ヨリ讐務 ヲ開始 シ経費 ノ許 ス限 り冷廉ナル利用料 ヲ以テ極 メテ簡
素二入院治療 ヲナシ得ル コ トヽシ衛生上着 々ヲ収メツ ヽア リ
以上の史料 より吉野村新設当時 の衛 生状態 はとて も悪 く、マ ラ リアや呼吸器系 の病、胃
腸病、腸チ フス 180ゃ 恙轟など多 くの患者が発生 した。総督府は移民上の保健衛 生に対 して
書療所 を設 置 して患者 には移住後 三年間マ ラ リア予防薬 の無料給与や薬代入院費な どの半
額補助を実施 した。大正
6年 には公讐 を設置 し、マ ラリア防過法を施行 して本格的な防過
事業を開始 した。 また産業組合内に吉野医院を設置 して昭和 5年 8月 1日 か ら讐療 を実施
し、冷廉なる利用料で入院や治療 を受けることができたことが明 らかになった。産業組合
内に吉野 医院を開設 していることか ら、産業組合が経済医療 の中心機関 として の機能 を有
していたことが明 らかになった。
82
第五節
昭和十年度台湾大地震
台湾大地震については『 昭和十年
台湾震災誌』(台 湾総督府
1936年 )に 詳細 に記載 さ
れてい る。その中でマ ラリア と関連 した部分を取 り上げて紹介 していこ う。
昭和 10年 の台湾大地震は台湾内では最大級 の大地震であ り、新竹州大湖、苗栗、菫中州豊
原、大甲郡 が最大 の激震地であった。台湾大地震 の被害については『 新竹菫中雨州下震災
概況書』3∼ 6頁 に以下のよ うに記 されてい る。
(一 )人 及家屋
地震 ノ鶯死亡セル者 三千三 百七十六人、負傷セル者 一萬二千五十二人、死傷者合計一
高五千三百二十 九人 二上 り、又住家 ノ全壊 セルモ ノー萬七千九百七戸、半壊セルモ ノ
ー萬一 千四百五戸、大破 セルモ ノ九千人百六戸、合計三高九千百十人戸 ニ シテ罹災民
ノ敷ハ 賞二二十六高餘人 二及 ビ、家屋 ノ倒壊 二因ル財類 ノ損害叉多大ナル モ ノア リ。
斯 クノ如ク人命並家屋家財 二封 シ莫大ナル 災害ヲ生ジタル所以ハ本島人家屋 ノ構造ガ
耐震カ ニ乏シキ土碗造 リナル コ ト及 ビ地震 ノ時ガ偶 々住民ノ就寝中或ハ朝食 中ナ リシ
ニ依ルモ ノ ト思料セ ラル。其 ノ被害最モ甚大ナ リシ地方ハ左 ノ街庄ナ リ。
全滅 二近キ庄
死亡敦
皇 中州豊原郡 内哺庄
960
墓 中州豊原郡詳岡庄
507
2,154
被 害激甚ナル街庄
死亡敦
負傷数
負傷数
全壊数
半壊数
1,685
342
155
全壊敷
墓 中州大 甲郡清水街
半壊数
1,406
新竹州苗栗郡銅鋸 庄
327
新竹州苗栗郡公館庄
250
1,104
新竹州竹南郡南庄
125
488
新竹州竹南郡三湾 庄
153
470
被害大ナル街庄
死亡敷
1,332
587
1,306
211
負傷数
全壊敦
半壊敷
239
269
385
皇 中州豊原郡豊原街
墓 中州大 甲郡沙鹿庄
塁 中州大 甲郡梧棲庄
24
481
墓 中州東勢郡東勢 街
164
新竹 州大湖郡大 湖庄
320
新竹州大湖郡卓蘭庄
207
474
123
345
新竹州大湖郡獅渾庄
45
新竹州苗栗郡苗栗街
462
491
301
新竹州苗栗郡三叉庄
880
新竹州苗栗郡頭屋庄
742
83
295
90
新竹 州竹南郡後龍庄
556
44
新竹州竹南郡造橋庄
新竹州竹東郡峨眉庄
(二)農 作物、家畜、家禽
田畑 、 山林及農作物 二封 スル 直接被 害並 二 家屋 ノ倒壊 二 因ル 家畜家禽 ノ被 害 ハ 式拾 人
萬餘 園ナ リ。
(三 )商 、 工 、鍍業
製茶 、製帽、其 ノ他 商 工業 二封 スル エ場 並 機械類 並 鍍 業 二封 スル 損 害 ハ 参 百 六 拾餘 萬
園 ナ リ。
(四
)水 利施設 ノ損害
水利 施設 二在 リテ ハ 新竹州 ノ竹南 、竹東 ノ雨水 利組合 二属 スル 灌排 水施設及蔓 中州后
里水利組 合 二属 スル 灌排水施設破壊 スル ニ 至 レ リ、后里水利組合 ノ如 キハ 其灌漑 面積
参 千餘 甲歩 二及 ブ ノ ミナ ラ ズ 附近住 民 ノ飲 料水 二供 シ居 リタル 篤 メ其 ノ水路直接 損害
ハ 式拾参萬 円二過 ギザル モ 間接 二蒙 リタル 被害 卜影響 ハ 多大 ナル モ ノア リ
(五 )、
(六 )は 省略 ス
(七 )道 路及橋梁
道路及橋梁 二 開 シテ ハ 縦貫道路 二在 リテハ 道路 二 十 五 箇所 ノ路面沈 下又 ハ 亀 裂 ヲ生 ジ
橋梁十 二 箇所 ノ袖石垣又 ハ 土留石垣 二 大小 ノ亀 裂 ヲ生 ジ 、又指定道 路 二在 リテ ハ 六 十
七 箇所 ノ土砂 崩壊 又 ハ 筆裂 ア リテ橋 梁 七 箇所 ノ破 壊 ア リ、尚街庄道 二在 リテ ハ 十 五 箇
庄 二亘 リテ路面沈下及亀 裂 ノ被害 ア リタ リ。
(人
)官 公衛 其 ノ他 ノ被害
街庄役場十 六 箇所 、學校 三 十 二箇所 、警察官派 出所及駐在所 四十三箇所 、郵便局十 四
箇所 ノ全 壊若 クハ 大破 ア リテ其他宿舎 、公 會 堂、集會所 、市場 、水道等 ノ被 害相 営多
大ナルモ ノア リ、其 ノ損害額 ハ 百餘 高園ナ リ。
以 上 の史料 によ り、地震 によって死 傷 した方 は 15329人 であ り、住家 の全 壊 、半壊 、大
破戸数 は 39118戸 であ り、罹災者 は
260000人 にも及 んでい る。農業や 商 工業 に も多大 な
影響 が生 じた こ とが分 か る。特 に水 利施設や道 路及橋梁 の損 害は多大 な もので あ つ た。水
利施設 の 中で も菫 中州 の后里水利組合 は 3000甲 歩 を有す るだ けでな く附近住 民 の飲料 水 も
供給 してい るので 多大な影響 が 出て い る。
次 に復興委員会 の設置 につい て観 て い こ う。
『 昭和十年蔓湾震 災誌』の 497∼ 500頁 に両州 復興委員會 の設置 につい て 以下 の よ うに記 さ
れ てい る。
新竹州
第一條
昭和十年 四月 二 十 一 日新竹州 下震 災 二依 ル 罹災者救護 並 二 復興 ノ事務 ヲ虎 理
スル 鶯州 二新竹州震 災復興委員會 ヲ設置 ス
84
第 二條
本委員會 二委員長 、副委員長並 二委員 ヲ置 キ委員長 ハ 知事、副委員長 ハ 内務、
警務両部長、委員 ハ 委員長 之 ヲ命 ス
第 三條
委員長 ハ 本會 二於 ケル ー 切 ノ事 務 ヲ線理 シ副委員長 之 ヲ補佐 ス 、委員 ハ 委員
長及副委員長 ノ命 ヲ受 ケ本會 ノ事 務 ヲ虎理 ス
第 四條
本會 二委員長 専属及 左 ノ部 ヲ置 キ事務 ヲ分掌 ス
ー 、庶務部
庶務会計 (義 捐金 品 ノ受理及 出納 ヲ含 ム)調 査 二 開 スル 事項
一 、救護部
罹 災 民救助 二 開 スル 事項
一 、衛 生部
罹災民 ノ救療及震 災地 ノ衛生 二開 スル 事項
一 、警備部
罹災地警備 二 開 スル 事項
一 、 土本部
道路橋梁 ノ復奮及市匡改正 二 開 スル 事項
一 、建築部
建 築物取締 、學校官衛建築 二 開 スル 事項
一 、物資及金融部
一 、産業部
第五條
罹災民 二 封 スル 物資 ノ輸送 、配給並 二復興金融 二 開 スル 事項
罹災地産業 ノ復興 二 開 スル 事項
罹災地郡部 二在 リテ ハ 本規程 二準 シ地 方委員部 ヲ設 ケ郡守 、市ヂ ヲ地方委 員
長 トス
本委員会 ノ各部長及係長 ハ 下表 ノ如 シ
役職
名前
委員長
内海忠 司
副委 員長
藤村寛太
同
高原逸人
委員長専属
大開善雄
庶務部長
西村徳 ―
庶務係長
星友太郎
會計係 長
渡邊幸次郎
調査係 長
坂本喜代治
救護部長
矢野謙 三
衛生部長
下村八五郎
警備部長
辻畑泰輔
警備係長
池 田末次
保安係長
友田藤太郎
土木 兼建築係 長
久布 白兼治
物資及金融部長
李讃 生
輸送配給係長
石渡篤
復興金融係長
池邊博
産業部長
李讃生
85
墓 中州
第 一條
蔓 中州 二震 災復奮委員会 ヲ置 キ震 災救護及復奮事業 二 開 スル 事項 ヲ掌理 ス
第 二條
委員會 二左 ノ係 ヲ置 ク
庶務係 、経理係 、救愧係 、衛 生係 、土木係 、営繕係 、建築係 、産業係
第 二條
庶 務係 二於テハ左 ノ事 務 ヲ掌ル
ー 、被害調査 ノ取纏 二 開 スル 事項
二 、震災誌 ノ編纂 二 開 スル 事項
三 、通信連絡 二 開 スル 事項
四 、外部 トノ交渉 二 開 スル 事項
五 、其 ノ他他係 ノ主 管 二属 セ サル 事項
第 四條
経理係 二於 テ ハ左 ノ事務 ヲ掌ル
ー 、復奮事業費 ノ豫算編成 二 開 スル 事項
二 、復奮事業費 ノ経理及決算 二開 スル 事項
第 五條
救血係 二於テ ハ左 ノ事務 ヲ掌ル
ー 、主要食料 品、雑貨 ノ需給 二開 スル 事項
二 、救護 品 ノ輸送配給 二開 スル 事項
二 、義捐金品 ノ受領 二 開 スル 事項
四、罹災者人事相談 二 開 スル 事項
五 、其 ノ他救護 一般 二 開 スル 事項
第 六條
衛生係 二於テ ハ左 ノ事 務 ヲ掌 ル
ー 、疾病者 ノ収容 及療養 二 開 スル 事項
二 、医療器具材料 ノ配給 二 開 スル 事項
三 、博染病豫 防防過 二 開 スル 事項
四 、公衆 衛生 二 開 スル 事項
第 七条
土木係 二於テ ハ左 ノ事 務 ヲ掌 ル
ー 、道路橋梁 ノ補修 二 開 スル 事項
二 、破損物除去 二 開 スル 事項
三 、水利施設 ノ復奮 二 開 スル 事項
四、 上水 下水施設 ノ復 奮 二 開 スル 事項
第 人條
螢繕課 二於 テハ左 ノ事 務 ヲ掌 ル
ー 、建築材料 ノ需給 二 開 スル 事項
二 、避難所讐療所其他救護設備 ノ螢繕 二 開 スル 事項
二 、學校校舎 ノ復奮 二 開 スル 事項
四、麻舎宿舎 ノ復奮 二 開 スル 事項
五 、警察施設 ノ復奮 二 開 スル 事項
86
六 、保 甲事務所 ノ復奮 二 開 スル 事項
七 、市場浴場其 ノ他公共施設 ノ復奮 二 開 スル 事項
第 九條
建設係 二於テ ハ左 ノ事務 ヲ掌 ル
ー 、家屋 改良 ノ調 査 二 開 スル 事項
二 、市匡 ノ計董 二開 スル 事項
第十條
産業係 二於 テハ左 ノ事務 ヲ掌ル
ー 、産業組合其 ノ他 二封 スル 復興資 金 ノ供給 二 開 スル 事項
二 、農耕復奮 二 開 スル 事項
三 、製帽業其 ノ他商 工業復奮 二開 スル 事項
第十 一條
委員長
委員会 ニハ 左 ノ職 員 ヲ置 ク
副委員長
二名
委員
書記
若干名
若干名
本委員会 ノ委 員 ハ 下表 ノ如 シ
委員長
日下辰夫
副 委 員長
平輝雄
同
慶谷隆夫
櫻 田二郎 (庶 務係係長 )
高橋金 四郎
加藤虎太郎
庶務係
鷹取立 一 郎 (書 記 )
花 田信次郎
平 田義雄
中尾荘兵衛 (経 理係係長 )
成 田誠 三
本 多嘉郎
経理係
五藤 勇
山下緑郎
二 宮力 (救 仙係係長 )
入鹿 山茂樹
森忠平
石川 員澄
救血係
土屋一郎
高江富 二 郎
高橋金 四郎 (兼 任 )
87
安達敬智 (衛 生係係長 )
旭重雄
衛 生係
前 島員澄
伊藤芳 ―
阿部貞壽 (土 木係係長 )
小 田省三
土木係
桑 木槽衛
清水直規
三田鎌次郎 (螢 繕係係長)
銭 日長次郎
鈴木金吉
螢繕係
大松林志
黒木文雄
平輝雄 (兼 任 )(建 設係係 長 )
小村 乙五郎
大越隆 三
日下信
山岡文八
宮本能武
安達敬智 (兼 任 )
入鹿 山茂樹 (兼 任 )
建設係
三 田鎌次郎 (兼 任 )
森忠平 (兼 任 )
阿部 貞壽 (兼 任 )
松野孝 一
中尾荘兵衛 (兼 任 )
二 宮力 (兼 任 )
櫻 田三郎 (兼 任 )
松野孝 ― (兼 任)(産 業係係長 )
入鹿 山茂樹 (兼 任 )
産業係
森忠平 (兼 任 )
以 上の史料 よ り新竹州 。台 中州 で も復興委員会 が組織 され 、委員会 には衛 生 部 (衛 生係 )
や 土本部 (土 木係 )な どあ らゆる部署 を設 け、復興 にあた つていた。新竹州 の復興委員会
の メ ンバー の 中で特 筆す べ きな の は、衛 生部長 にな つてい る下村八 五 郎 であ る。彼 は震災
当時 の新竹州 の衛 生課長 で 、台南州警務部衛 生課警察 医時代 に、 マ ラ リア防邊デ ー の制 定
88
や衛 生模範部落 の建 設 に関 して 多大 な功績 の ある人物 が衛 生 部長 にな っていて 、震 災後 の
衛 生事 業 につい て 中心 的役割 を果 た した 人物 で ある。墓 中州 の復興委員会 の特徴 は委員 の
兼任 が 多 い とい う点であ る。 墓 中州 の復興委員会 のメンバ ー の 中 で特 筆す べ きな の は、衛
生係係長 で ある安達敬智 で ある。彼 も震 災時 の蔓 中州 の衛 生課長 で あ り、震 災後 の 台 中で
の衛 生事 業 を牽引 して きた マ ラ リア防遇界 の専 門家 で ある。 安達 は衛生係 だ けでな く建設
係 も兼任 してい る。安達 の兼任 は建設係 の業務 内容 で ある家 屋 改 良 の調 査 が マ ラ リア防過
や流行性感 冒 の豫 防な どに関連 してい るか らだ と推 測 出来 る 181。
『 昭和十年台湾震 災誌』 (台 湾総督府 1936年 3月 )の 187頁 に罹災者 へ の対応 として次
の よ うな こ とが記 されて い る。「被服 に対 しては、新竹州 と共 に、震災後好 天氣 に恵 まれ た
こととて 、殆 どそ の必要 な く、たまたま貧 困者等 でその必要 が生 じた者 があつて も、慰 問
品 を以て充分 に供給す る こ とが出来 、蚊 に封 して も蚊帳 の配布 を受 けた。」 とある。蚊帳 を
それ ぞれ の人 に配付 してい る こ とか ら一 種 のマ ラ リア対策 で あ つた と言 える。更 に上記 の
307,308頁 には震 災後 ノ衛 生施設 二開 スル件 とい う通牒 が 出 され た。以下 の よ うな内容 で
ある。
震 災後 ノ衛 生施 設 二 開 スル 件 (四 月 二 十 五 日)
今般稀有 ノ大震 災 二際會 シ多数 ノ死 傷者数 ヲ出 シ家屋 ノ倒壊其 ノ他被害算ナ ク洵 二 同
情 ヲ禁 スル 能 ハ ザル所 二有 之候 而 シテ之力救護 事業 二付 テハ 夙夜全幅 ノ努カ ヲ致サ レ
幸 ニ シテ極 メテI贋 調 ナル進 歩 ヲ示 シツ ヽアル 次第 二有 之候 虎 災害後 二於 ケル 衛 生施設
ノ重 要ナル ハ 姦 二多言 ヲ要 セ サル 所 ニ シテ 患者 ノ績 出及博染病流行 防止 二 開 シテ ハ 深
甚 ノ考慮 ヲ要 スル 儀 卜存候 二付此 ノ際特 二左 記事項 二御 留意相成 ル ト共 二各現地 ノ賞
状 二即 シタル 適切 ナル方法 ヲ講究 セ ラ レ以 テ 災害善後衛 生施設 上遺憾ナ キヲ期 セ ラ レ
度右及通牒候也
記 一 、一般保健施設 二 、博染病豫防施設
一 、一般保健施設 市街地其 ノ他罹災者 ノ集 園生活 スル カ如 キ地域 ニア リテハ 勿論其
ノ他 一般 左 ノ事項 二留意 スル コ ト
(1)上 水道 、井戸 ノ損壌 其 ノ他 二依 り適営ナル飲料水 ヲ得 ル 能ハ サル地方 二在 リテ
ハ 飲料水供給 ノ方 法 ヲ講 スル コ ト
(2)居 住地域 ノ清潔保持 二努 ムル コ ト
(3)汚 物 ノ搬 出、燒却其 ノ他庭理方法 ヲ講 シ又下水溝 ノ疎通 ヲ善 クシ汚水 ノ停 滞 セ
シメサル 様掃 除 ヲ怠 ラサル コ ト
4 屎尿ハ 停滞 セ シメサル 様汲取搬 出ノ方法 ヲ講 スル コ ト
5 不潔 二 陥 り易 キ箇所 ニハ 時 々消毒薬 ヲ撒布 スル コ ト
6 蠅其 ノ他 有害昆轟類 ノ嚢生防止 、駆 除 二努 ムル コ ト
(7 急造家屋 ノ建 設 二付 テモ特 二便所及排水設備 二留意 スル コ ト
(8 営分 ノ内罹災地域 内二於 ケル保健状態監視 ヲ怠 ラサル コ ト
二 、俸染病豫 防施設
(I)今 回 ノ災害地ハ 流行性脳脊髄膜炎 ノ流行地域ナ リシエ鑑 ミ其 ノ流行 ヲ再 現 セ シ
ムル カ如 キ コ トナ キ様深甚 ノ注 意 ヲ排 ヒ警戒 ヲ鶯 ス コ ト
(Ⅱ )腸「チ フス」
其 ノ他消化器 系偉染病嚢生 スル ア ラハ 爆嚢的流行 ノ虞ナ シ トセ サル
ヲ以テ充分注意 スル コ ト
(Ⅲ )災 害地 の公 書、開業讐等 二封 シテハ 此際特 二博染病早期嚢見 二開 シ司1達 ヲ奎 シ
荀 モ 其 ノ疑 アル 患者 ヲ奎見 シタル 時ハ 速 二届 出 ヲ励行 セ シメー 面州 自ラ之 力注 意監視
二努 ムル コ ト
(Ⅳ )マ ラ リア豫防 二付テ モー 層注意 ヲ沸 ヒ又之力施設 ヲ怠 ラサル コ ト
89
以 上 の史料 か ら震 災後 の衛 生 に 関 して は罹 災地各部落 に便所及 び塵溜 を設 け、便所 の 消
毒、下水汚物 の清掃 に努力 し、清潔 な コ ミュニ テ ィー の維持 を旨 とし、予防注射や保菌調
査 を励行 した ことが読み取れ る。 また この衛 生活動 が マ ラ リア防過活動 に直結 した形 で現
れ る とい える。
さらに震災 マ ラ リア の マ ラ リア防過処置 について は森 下薫 。杉 田慶介・ 下村 八五郎 「新
竹州 下震災地方 二勃奎 セル 流行性 マ ラ リア ニ就 テ 」 182『 蔓湾 讐學會雑 誌』 (第
36巻 第
7
琥、 1987年 )の 219∼ 220頁 に以下 の よ うに記 され てい る。
州衛生営局 ガ本流行勃嚢 二着 眼 シタノハ 昭和 10年 8月 デ、調 査 ヲ縫績 ノ結果狙薇 地域
ノ廣汎 ナル ヲ知 り、防過 ノ必要 ヲ痛感 シ、先 ヅ竹南郡大南哺及 公 司寮 、苗栗郡鶏 隆 ノ
三 箇所 ヲ墓溝 マ ラ リア防遇 法 二 依 ル 防遇施 行 地 トシ、 4700園 ノ豫 算 トキ ニー ネ 丸
(0.lg)100,000粒 ヲ以テ患者 ノ治療 ヲ主罷 トセル 作業 ヲ開始 シタ。 コ レ同年 10月 末
2月 二至 ッテ本 作業 ヲ震災流行地殆 ド全 面 二及 ボ ス コ トゝシタ。 此作業
ノタメ検鏡手 ヲ増員 シ薬 品費 7000園 ヲ支 出 シテ住 民 ノ検血治療 二努カ スル ト共 二 、多
クノ住民ガ無防禦 ノ生活 ヲナ セル ニ鑑 ミ、蚊帳 5,000帳 (14,000園 )ヲ 購入 シテ 無償
デアノ
ス 翌年
配布 シタ。 以 上 二要 シタ経費 ハ 震 災義捐 金 ヨ リ配布 ヲ受 ケタ ノデアル ガ 、 尚薬 品費 ノ
半額 ハ 地元 ニ テ支 耕 セ シメテ 居 ル ノデ アル 。 又流行地域 内住 民 ハ徒 末 マ ラ リア ニ 開 ス
ル 訓練 ヲ訣 イテ居 ル ノデ 、衛 生思想 向上 ノタメ巡 同講演 ヲ行 ヒ、外部作業 ニモ 可及的
カ ヲ致 シテ今 日二 至ル ノデ アル 。
以 上 の史料 よ り州衛生局 は震 災 に よる流行性 マ ラ リアに着眼 したのは昭和 10年 8月 で
防遇 の必要性 を痛感 し、竹南郡大南哺 、公 司寮 、苗栗郡鶏 隆 をマ ラ リア防遇施行地 に指定
し、豫算 4,700園 でキ ニー ネ 100000粒 を用意 して 、マ ラ リア患者 にキ ニー ネ予防内服法 を
183を 増
実施 した。 1936年 2月 か らは震災地す べ て をマ ラ リア防過地域 に設定 し、鏡検 手
員 し薬 品費 7000円 を支 出 し住民 に検血治療 を為 した。さらに蚊帳 5000帳 を無料配布 した。
これ らの経費 は震 災義捐 金 か ら配布 され た もので あるが、薬 品費 の半額 (3,500円 )は 地元
住 民 が支 弁 した。流行 地域 内住 民 は従来 マ ラ リアに関す る衛 生的知識 に乏 しい ので衛 生思
想 向上 のため巡 回公演 184を 為 し、外部作業 に も従事す るよ うに説 いてい る。
また台湾大地震 に対 して 当時 の地震 学者 で あ る今村 明恒 185は 二っ 以下 の よ うな提言 を
して い る。
今 回 の地震 地方 に於 きま して は、 地震 に開す る卑近 な常識 を訣 いて居 るが鶯 に、居住
者 が 災難 に罹 つた と云ふ不幸 を被 っ た ものが相営 あるや うな事情 に鑑 み、墓湾線督府
に於 かれ ま しては 、公 學校 の教科書 に此 の種 の常識 を養成す るが如 き一 篇 を加 へ る と
云ふ よ うな方 法 に依 って地震 の 常識 の養 成 に努 め られ た い と希望す る ので あ ります。
(中
略 )蔓 溝 に於 て は、構 造物 が地 震 に封 して極 めて崩れ易 い 、 さ う云 ふ 状態 にあ り
ます 。殊 に本 島民 の住 宅 は先 づ 大部分 は土角造 りと見 て宜い と思ひ ます が 、 土角造 り
と云 うもの は、大 した地震 でな くとも破壊す るのだ 、もつ と計数的に申 します な らば、
90
人分 と云ふ程度 の震動に最早大部分崩れ るのだ。内地 の木造家屋 であれば三割 と云ふ
程度に達 して、漸 く百軒 の 中、一二軒 か二三軒潰れる家 が出来 るといつた程度、若 し
都市計董法の建築規則 を賞行 して居 る所 であれば、完全に凌ぎ得る所 である。 186
以上の史料 より今村明恒は
2つ のこ とを提言 している。①公学校において地震について
の記述 (常 識 )を 教科書に入れて学習 させて地震に備 えさせ るよ うに教育す ること、②建
築様式を上角造 りか ら木造 の家屋 へ変えて、耐震性のある居住地 を建設することを提言 し
ていることが分 かる。今村 が提言 したよ うに公学校で地震 の学習 が されていたか ど うかに
ついては、調査中である。
91
第 六節
新竹 のマ ラ リア防過事業
昭和 13年 (1938)の 新竹州 にお けるマ ラ リア防過 の概況 につい ては『 衛生概況』 (新 竹
州衛 生課
昭和 14年 発行 )18746,47頁 に以 下 の よ うに記 され て い る。
(1)地 方病 マ ラ リア防遇 ノ概況
州 下 二於 テ地方 病 ノ主 タル モ ノハ 「マ ラ リア」病 トス 而 シテ本病 ノ撲滅 二就 テ ハ 領 墓
以来鋭意努カ スル 所 ニ シテ 流行状況 モ 営時 卜比 較 スル 時 ハ 素 ヨ リ雷壌 モ 菅 ナ ラス然 レ
ドモ 之 ヲ部分 的 二観 察 スル トキハ 尚施設 ノ不 徹底 卜人民 ノ之 二封 スル 観念甚 夕無 開 心
ナルモ ノア リ
今 地方病 二付概況 ヲ示セ ハ 左 記 ノ通 り徒 末 ノ 「マ ラ リア」防遇 ハ 比 較 的流疫 地域 ヲ定
メ検血 服薬治療 ヲ施 行 スル ト共 ニー 面外部作業 トシテ 池 沼凹地 ノ埋 立竹藪 ノ下枝切排
等勘行 シ末 リシモ普遍 的 二及 ハ ザ ル 憾 ア リ殊 二 昭和十年 四月 ノ大震 災 ノ惨 害後 ハ 徒 末
ノ流 疫 地 タル 山脚 地方 ハ 勿論海岸 地方 二 迄 浸潤 シ大流行 ヲ見 ル ニ 至 リタル フ以テ各郡
署共全カ ヲ之 二注 キ衛 生上 ノ附帯事業 ヲモ 遂行 セル 鶯 メ防過作業著 シ ク進捗 セル モ 之
力撲滅 上更 ニ ー 段 ノ活動 ヲ要望セ ラル ヽ所 ニ シテ ロ下着 々 防遇計蓋 ノ萬全 ヲ期 シ居 レ
リ
新竹州 におい て も地方病 の主な もの は マ ラ リアであった。新竹州 当局 は台湾領有
(明
治
28年 )以 来 マ ラ リア撲滅 に最大限努力 して きた結果 、昭和 13年 (1938)に は領台 当初 と
比 べ る と見違 えるほ ど良 くな つた。 しか し細部 を見れ ば施策 の不徹底 な部分 もあ り、昭和
13年 になって も人 民はマ ラ リア撲滅 に未 だ無 関心 とい う有様 だつた。新竹州 において もマ
ラ リア防遇方法 と して 、 マ ラ リア流行 地 域 を指 定 して血 液検査、服薬 、治療 を施 し、池 沼
埋立てや 竹藪伐採 等 を励行 して きたが 、 マ ラ リアの完全撲滅 には至 らな い とい う状況 で あ
つた。特 に昭和 10年 (1935)4月 の大地震 の後 は海岸地方 にまで マ ラ リアが流行 し大 惨事
とな った。 しか し新竹州各郡署共全力 で衛 生事 業 を遂行 した結果 、 マ ラ リア防遇事業 は著
しく進捗 した。 台湾大地震 は昭和 10年 (1935)4月 21日 午前 6時
2分 に台湾 の新竹・ 台
中両州 の境界線 で ある大安 渓 中流域 を震央 として発生 し、死者 3227人 、負傷者 11976人
を出 した。 特 に被 害 の大 きか った激震地 区は、新竹州竹南 郡 、同大湖郡 、 同苗栗郡 、台 中
州豊原郡 、同大 甲郡であ つた。
史料 中の 「今 地方病 二付概況」 188に つい ては以下 の表 2-(I)の 通 りで ある。
92
2-(I)既
往 五 箇年 マ ラ リア防過成績表
マ ラ リア防過施行成績
施 行 地名
年度末人 口
(昭 和 9年 度
検血
人員
原 虫保 有
百分
者
比%
)
マ ラ リア患
人 口百
者
三付患
服藁人員
者%
馬武督
29,886
22,662
151
0.67
17
0.06
168
角板 山ハ
6,340
3,946
19
0.48
15
0.24
34
ラハ ウ
1,559
1,071
8
0.75
8
0.51
16
水流東
7,438
5,127
13
0.25
8
0.11
21
阿母 坪
6,063
4,959
7
0.14
1
0.02
8
竹頭角
530
487
1
0.21
0.57
4
南河
9,093
8,332
86
1.03
77
0.38
163
カラパ イ
5,815
5,706
41
0.72
22
0.38
63
獅頭騨
12,786
11,146
104
0.95
162
1.27
266
大湖
23,716
20,645
170
0.82
199
0.84
369
桂竹 林
22,266
15,397
238
1.55
和興
21,124
20,675
171
0.83
8
0.04
179
新店
19,541
18,977
186
0.98
52
0.27
238
紙湖
8,402
8,055
94
1.17
10
0.12
104
合計
174,559
147,195
1,289
0.88
582
0.33
1,871
ブン
Oυ
93
238
マ ラ リア防遇施行 成績
施行 地名
年度末
人口
(昭 和 10年 度
検血
人員
原 虫保 有
百分
者
比%
)
マ ラ リア患
人 口百
者
二付患
服薬人員
者%
馬武督
29,260
24,611
290
1.18
46
0.16
386 (13)
角板 山ハ ブ
6,072
4,269
12
0.28
27
0.44
39 (2)
ラハ ウ
1,291
1,067
15
1.41
0.85
26(― )
水流東
7,098
3,057
30
0.98
5
0.07
35
阿母坪
5,998
2,487
2
0.08
7
0.12
9
(―
)
竹頭角
607
555
1
0.18
5
0.82
5
(―
)
南河
9,140
7,647
344
4.50
162
1.78
506 (12)
カ ラパ イ
4,987
4,919
54
1.10
68
1.36
122 (3)
獅頭膠 綸 南
13,330
8,727
240
2.75
365
2.74
大湖
55,746
28,507
864
3.03
602
1.08
桂竹林
21,508
13,122
691
5.27
和興
21,165
10,819
957
8.85
新店
19,372
12,319
694
紙湖
7,916
4,115
合計
203,490
126,221
ン
(―
)
605(22)
湖)
1,449(16)(イ
0.04
692(19
55
0.26
1010(17)(口
5.63
465
2.40
1,159(2'
314
7.63
38
0.48
352 (9)
4,508
3.57
1,857
0.91
6,345(129)0ヽ
備 考 :服 薬人員欄 中 ()中 に記 シアル ハ 前年度 ヨ リ繰趣服薬人員 ナ リ
(イ )は
)
1466の 誤 り、(口 )は 1012の 誤 り、(ハ )は 6365の 誤 り
94
)
)
検血
年度末人
施 行 地名
口
人員
原 虫保 有
百分
マラ リ
人 口百に
ア患者
付患者 %
服薬人員
比%
者
Oυ
14.25
151
1,030
10.72
788
4,486
853
19.01
853
16,051
10,961
1,229
11.21
934
合計
36,490
26,383
3,303
12.52
2,726
総合計
239,980
152,604
7,811
5.12
田尾
1,916
1,340
大南哺
11,520
9,596
公 司寮
7,003
鶏隆
9,072(129(二 )
0.77
1,857
備考 :田 尾 。大南哺、公司寮、鶏隆ハ十年十 二月 ヨ リ
(二 )9668の 誤
り
マ ラ リア防過施行成績
施行 地名
年度末人 口
(昭 和 11年 度
)
検血
人員
原 虫保 有
者
百分
}ヒ
マ ラ リア患
人 口百
者
二付患
服薬人員
者%
゜
/。
馬武督
30,144
26,174
328
1.25
267
0.89
595
角板 山ハ
6,305
4,674
16
0.34
27
0.43
43
ラハ ウ
1,416
1,171
12
1.02
4
0.28
16
水流東
6,968
5,222
103
1.97
26
0.37
129
阿母 坪
5,844
2,413
5
0.21
8
0.14
竹頭 角
1,825
1,685
2
0.12
2
0.11
4
カ ラパ イ
4,504
4,456
80
1.79
94
2.09
174
南湖
40,725
10,203
315
3.09
117
0.29
432
獅頭騨
11,007
7,673
187
2.44
49
0.45
ブン
●0
6
●0
●乙
95
大湖
26,729
23,335
206
0.88
294
2.00
500
桂竹林
20,046
15,498
490
3.16
55
0.27
545
和興
21,160
18,842
792
4.20
43
0.20
835
新店
19,476
18,023
647
3.59
142
0.73
789
紙湖
7,061
6,191
258
4.17
25
0.35
283
合計
203,210
145,561
3,441
2.37
1,153
0.56
4,594
鶴隆
47,587
36,363
1,621
4.46
151
0.32
1,772
大南哺
34,758
25,988
1,454
5.60
321
0.92
1,775
四湾
5,641
3,876
304
5.25
公 司寮
19,435
16,191
1,416
8.75
94
0.49
1,510
合計
107,421
82,417
4,795
5.82
566
0.53
5,361
総合計
310,631
227,978
8,236
3.61
1,791
0.55
9,955
マ ラ リア患
人 口百
服薬人員
者
二付 患
304
マ ラ リア防過施行 成績 (昭 和 12年 度)
施行地名
年度末人 口
検血
人員
原 虫保 有
百分
者
比%
馬武督
7,704
角板 山ハ
6,216
865
ラハ ウ
1,376
413
水流東
18,362
14,118
竹頭 角
2,252
カラパ イ
4,772
4,700
43
南湖
34,179
11,094
獅頭罪
11,969
9,057
者%
44
22
0.35
23
20
0.15
19
60
0.33
122
5
0.21
5
0.92
80
1.69
108
131
1.18
33
0.10
157
88
0.99
65
0.54
141
0.12
ブン
66
0.47
96
04
00
25,751
23,951
125
0.52
208
0.81
桂竹林
18,441
15,467
151
0.98
5
0.03
152
和興
21,675
19,458
262
1.35
9
0.04
256
新店
18,704
17,424
251
1.44
45
0.24
279
紙湖
6,687
5,099
0.01
68
合計
178,088
121,646
1,191
0.98
553
0.31
1,695
鶏隆
46,646
38,028
605
1.59
382
0.82
955
大南哺
30,099
25,741
748
2.81
269
0.89
1,015
四湾
5,193
3,664
97
2.67
公 司寮
22,520
21,131
1,754
8.30
89
0.40
1,833
合計
104,458
88,564
3,204
3.62
740
0.71
3,900
総合計
282,546
210,210
4,395
2.09
1,293
0.46
5,595
●0
″′
大湖
1.43
97
備考 :馬 武督 ハ 四月 ヨ リ六月 マデ施行 ス
マ ラ リア防過施行成績 (昭 和 13年 度)
施行 地名
口
マ ラ リア患
人 口百 に
百分比 %
者
付患者 %
検血
年度末人
人員
原 虫保有
服薬人員
者
竹園
8,993
6,893
149
2.16
218
2.46
367
水流東
18,771
16,907
77
0.63
25
0.13
132
カ ラパ イ
5,181
5,086
58
1.14
58
1.12
239
香山
49,704
35,762
1,486
4.15
三清
50,121
18,966
223
1.17
211
0.42
434
大湖
74,285
8,436
25
0.30
409
0.55
434
南湖
44,827
12,467
98
0.79
188
0.42
276
97
1,486
桂竹林
18,576
13,605
154
1.18
14
0.08
167
新店
19,637
17,241
313
1.82
68
0.35
381
和興
22,231
19,070
289
1.52
25
0.11
314
合計
312,326
154,433
2,872
1.08
1,216
0.39
4,230
大南哺
34,844
26,278
356
0.29
474
1.36
830
四潜
9,800
3,874
138
3.56
53
0.54
191
公 司寮
20,987
18,747
407
2.17
50
0.24
457
鶏隆
48,406
38,099
337
0.88
205
4.20
520
合計
113,987
86,998
1,238
1.42
782
0.68
1,998
総合計
426,313
241,431
4,110
1.70
1,998
0.46
6,228
(出 典
:『 衛 生概況』 47∼ 53頁 )
以上の表 2-(I)よ り、昭和 9年 (193の のマ ラリア患者 の割合は 0.33%で あるが同 10年
(193め には 0.77%と な り 0。 44%増 えてい ることが分 かる。これは前述 の通 り昭和 10年 の台
湾大震災の影響 と考えられ る。その後昭和 13年 (1930に はマ ラリア患者 の割合は 0.46%と
な り、同 10年 (0.77%)と 比較す ると 0.31%減 少 してお り、大震災 とい う惨事 を乗 り越え回
復 してきた様子が窺 え得 る史料だ と言える。また昭和 10年 度末のマ ラリア防遇施行地人 口
ラリア防過事業が施行 された地域 の人 口 239,980人 )を 同 13年 度末(426,313人 )と
比べ ると二年間に 186,333人 とい う著 しい増加 (約 1,8倍 )が 見 られる。昭和 13年 のマ ラ
(マ
リア患者数(1,216人 )(大 南哺、四彎、公司寮、鶏隆を除 く)は 同 9年 (582人 )よ り 634人
増 えてお り、昭和 13年 の服薬人員数に,230人 )(大 南哺、四湾、公司寮、鶏隆を除 く)は
同 9年 (1,871メ 0よ り 2,359人 増 えてい るが、その原因は昭和 10年 の大震災 とマ ラ リア防
過施行地人 口の著 しい増加 に在 る 189と 考 える。
(2)マ ラ リア患者調 べ
昭和 11年 (1936)か ら同 13年 (1938)ま での新竹州 にお けるマ ラ リア患者調 べ につ
いて は以下 の表
表
2-(I)の
2-(I)州
通 りである。
下 「マ ラ リア」患者調 べ
98
州 下 「マ ラ リア」患者 調 (昭 和 11年 )
市郡
マラリア患者
人 口封患者百分比
街庄
人口
新竹市
55,015
合計
55,015
562
香 山庄
7,842
282
六 家庄
7,398
20
奮港庄
16,327
509
紅 毛庄
11,669
湖 口庄
15,127
60
0.4
新靖庄
23,849
160
0.67
開西庄
23,627
420
合計
105,839
1,514
1.43
中蛭街
28,387
258
0.91
平鎮庄
13,087
72
0.55
観音庄
15,547
416
新屋庄
21,723
0.58
楊梅庄
26,514
1.01
合計
108,258
桃園街
26,888
亀 山庄
15,656
105
董竹庄
16,745
185
八塊庄
10,639
大園庄
19,330
129
合計
89,258
564
063
大渓街
24,449
1,162
3.94
龍渾庄
18,826
1.03
新竹市
0.27
0.54
新竹郡
中垣 lll
1,138
1.05
048
0.67
桃園郡
0.15
大渓郡
0.62
99
竹 東郡
竹南郡
苗栗郡
合計
48,275
竹東街
17,933
横 山庄
11,699
考林庄
10,982
北哺庄
9,448
330
峨眉庄
6.666
604
賓山庄
10,095
44
合計
66,793
1,785
竹南庄
18,700
506
2.71
造橋庄
8,057
659
8.18
頭分庄
20,869
2,720
13.03
三湾庄
7,434
後龍庄
25,539
3,276
12.83
南庄
10,435
3,870
37.09
合計
91,034
11,042
12.13
苗栗街
22,301
1,887
8.46
頭屋庄
7,416
2,197
29.63
公館 庄
19,305
2,251
11.66
四湖 庄
8,506
1,983
23.31
銅鋸庄
13.135
846
6.44
二 叉庄
7.455
通呑庄
22,874
1,991
苑裡庄
25.234
284
合計
126,226
12,255
9.77
大湖庄
12,301
1,146
9.32
640
11.35
1.279
2.65
2.95
1.07
3.49
0.44
0.15
10,95
大湖 郡
獅渾庄
100
卓蘭庄
7,897
444
合計
25,835
2,230
716,533
32,369
4.52
総合計
5.26
州 下 「マ ラ リア」患者 調 (昭 和 12年 度 )
市郡
街庄
人口
マラリア患者
人 口当 患者百分比
新竹市
56,401
846
1.50
合計
56,401
846
1.50
香 山庄
7,891
1.420
18.00
六家庄
8,039
132
164
書港庄
16,847
1.82
紅 毛庄
11,576
2.55
湖 口庄
15,649
44
0.28
新哺庄
24,003
259
1.08
開西庄
24,014
543
2.26
合計
108019
3,008
新竹市
新竹郡
101
中堀街
29.633
259
0.87
平鎮庄
13.594
105
0.77
観音庄
19,239
584
3.04
新屋庄
22,017
楊梅庄
27278
190
合計
111,761
1,370
桃園街
27,830
0.04
亀山庄
16,034
0.54
産竹庄
17,008
0.96
八塊庄
10,829
44
0.41
大園庄
20,187
624
3.09
合計
91,888
930
1.01
大渓街
30.509
552
中歴郡
1.54
0.70
桃 園郡
大渓郡
102
竹東郡
244
龍渾庄
19,166
合計
49,675
竹東街
19,198
横 山庄
11,626
吉林庄
10,940
北哺庄
9,492
495
峨 眉庄
6,861
654
責山庄
10,035
合計
68,152
竹南庄
18,882
造橋庄
8,272
頭分庄
21,579
三湾庄
7,407
1.60
553
2.68
5.22
3.17
2,502
1.00
竹南郡
4.58
226
103
3.19
後龍庄
26,100
440
南庄
10,192
856
合計
92,432
2.874
苗栗街
23,109
1.900
8.22
768
10.11
6.20
頭屋庄
苗栗郡
大湖郡
8.40
公館 庄
19,305
1,086
四湖 庄
8.553
1,008
銅錐庄
13,673
1,044
7.64
三 叉庄
7,551
801
10.61
通春庄
23,636
1,071
4.53
苑裡庄
25,919
240
0.93
合計
129,342
7,918
大湖庄
12,664
4.35
104
5.755
卓蘭庄
8,245
合計
26,664
790
734,334
21,034
総合計
州下 「マ ラ リア」患者調
市郡
123
獅渾庄
(昭 和 13年 度
1.46
)
人口
マラリア患者
新竹市
57,641
974
合計
57,641
974
香 山庄
16,705
1.327
六家庄
7,888
101
奮港庄
16,903
432
2.56
紅 毛庄
13,076
305
2.33
湖 口庄
16,257
新哺庄
24,122
開西庄
24,073
合計
119,024
3,063
中蛭街
31,491
292
平鎮庄
13,749
観音庄
20,151
新屋庄
22,623
楊梅庄
28,050
244
合計
116,064
1,574
桃園街
28,772
亀 山庄
15,797
234
董竹庄
17,235
305
八塊庄
10,828
大園庄
20,903
1,756
8.40
合計
93.535
2,387
2.55
新竹市
新竹郡
人 口封 患者百分比
街庄
7.94
0.37
211
2.57
0.81
593
中垣郡
2.94
1.48
0.87
0.11
桃 園郡
1.42
0.56
105
大渓郡
竹 東郡
竹南郡
苗栗郡
大渓街
30,126
龍渾庄
19,364
421
合計
49,490
1,188
竹東街
19,849
横 山庄
11,712
442
言林庄
11,117
201
北哺庄
9,652
475
峨眉庄
6,945
賓 山庄
9,874
合計
69,149
2.478
竹南庄
19,165
258
造橋庄
8,474
頭 分庄
21,962
三湾庄
7,410
200
2.75
後龍庄
26,142
1,418
5.42
南庄
10,528
663
2.69
合計
93,681
3,197
3.41
苗栗街
23,733
1,389
頭屋庄
7,693
286
公館 庄
20,044
1,025
四湖 庄
8,640
610
7.06
銅錐庄
14,057
959
6.82
三 叉庄
7,890
651
8.25
通春庄
24,079
1,518
6.30
苑裡庄
26.332
合計
132,468
6,725
5.08
大湖庄
12,881
439
3.41
獅渾庄
5,832
257
4.40
卓蘭庄
8,408
190
2.26
合計
27,117
2.54
2.40
4.10
3.77
4.92
5.45
1.34
2.44
3.72
1.09
大湖郡
総合計
3.21
758,165
22,472
(出 典 :『 衛 生概況』53∼ 64頁 より筆者作成 )
以上の表 2-(I)よ り昭和 13年 の新竹州全体のマ ラリア患者 の割合 (2.96%)は 同 11
年 (4.52%)よ り 1.56%減 少 していることが分 かる。また昭和 13年 の新竹州全体 の人 口
(785,165人 )は 同 11年 (716,533人 )よ り41,632人 増加 しているが、昭和 13年 のマ ラ
106
リア患者 数 (22,472人 )は 同 11年 (32,369人 )よ り 9,897人 (約
とが分 か る。 昭和
11年 のマ ラ リア患者 の割合 が竹 南郡南庄 で
29.63%、 苗栗郡 四湖庄 で 23.31%と 以 上 に高 いが前年 (昭 和
31%)減 少 してい る こ
37.09%、
苗栗 郡頭屋庄 で
10年 )の 大震 災 の影響 ではな
いか と考 え られ る 190。
(3)下 水施設
昭和 13年 (1938)の 新竹州 にお ける下水溝設置 につい て『 衛 生概況』26頁 に以下 の よ うに記
載 され てい る。
下水 ノ施 設 ハ 偉染病及 マ ラ リア ノ豫 防制遇 上極 メテ 緊要ナル ヲ以 テ之力施設 二 開 シテ
ハ 州費 ヲ以テ補助 シツ ゝア リ尚私設 下水 ハ 衛 生 部落 ノ建設事 業 ノー 項極力指導奨勘 シ
タル結 果延長 一五一 ,四 二五 間 二及 ビ州 下一 園 二 亘 り之ガ完成 ノ域 二達 シ ソ ゝア リ
以下 の史料 よ り下水溝設置 は伝染病や マ ラ リア を予 防す る上では非常 に重要 な施策 であ
り、州費 か ら補助 を して 下水施設 の完備 を 目指 していた。私設 下水 について は新竹州 が衛
生模範部落審査事項 の一 項 目として取 り上 げ私設下水設置 を奨励 した結果、昭和 13年 には
新竹州全体で 151,425間 的 275,2900と い う長 さに及 んだ。新竹州 の 下水溝設置 について
は完成 の域 に達 しつつ ある とい う状況 であつた。
(4)衛 生部落建設
新竹州では昭和 11年 (1936)よ り衛 生模範部落 の建 設 に着手 し、『 衛 生概況 』 84,85頁
に次 の よ うに記 され てい る。
衛 生部落建設
州 下 二於 ケル マ ラ リア防遇並 二保健 防疫 上 ノ衛 生 諸作業 ノ統一及封照民衆 ノ衛 生思想
向上 ノ徹底 ヲ期 スル 鶯 メ、郡署 卜派 出所 ノ管轄 匡域 ヲ単位 トセル 衛 生模範部落 ヲ昭和
十 一年 ヨ リ建設 二着手 シ、之 ガ審 査事項 トシテ概 ネ左 ノ如 ク定 メ
ー 、衛 生思想 ノ向上普及 徹底 ノ状況
二 、地物整理 ノ適 否
三 、部落道路 ノ開撃 状態
四 、下水溝 ノ新設 改善 ノ状態
五 、個人井戸共同井戸 ノ新設 改修 ノ状態
六 、窓 ノ開設 、浴場 ノ設備 、牛豚舎 ノ改 善状態
七 、個人便所 、共同便所普及 ノ状態
人 、其 ノ他
以 上 ノ通 リナル ガ郡署 二於 テハ 之ガ建設 ニー 意邁進 シタル 篤博染病 、 マ ラ リア等 ノ豫
防撲滅 逐次其 ノ数現 ハ レ生活 環境刷新 セ ラ レ死 亡敷減少 シテ 出生数 多 クナ リツ ゝア リ
テ健 康状態 良クナ リ文字通 り明朗部落 ヲ現 出 シツ ゝア リ
以 上 の史料 よ リマ ラ リア防邊 と健康維持 のた めの施 策 を統 一 す るた めに、又 民衆 の衛 生
観念 を向上 させ るために、昭和 11年 よ り郡署 と派 出所 の管轄 区域 を単位 とす る衛 生模範部
107
落 の建 設 に着手 した。衛 生模 範部落 の審 査事項 として①衛 生 観念 の 向上 を徹底 させ る、②
地物整理 が正 しく行 われ てい るか、③道路建設 の状態 、④ 下水溝 の新設 ・ 改善 の状態 、⑤
井戸 の新設・ 改修 の状態 、⑥ 窓 の 開設 、浴場 の設備 、牛豚舎 の改造 の状態 、⑦便所 の普及
状態等 を挙 げて い る。 そ して衛 生模範部 落 の建 設 に向けて努力 した結果 、 生活環境 が刷 新
され健康状態 も良 くな り、死 亡数 の減少 と出生率 の増加 を もた らした とい える 191。
(5)保 健組合
昭和 13年 (1938)4月 、新竹州 にお いて保健組合 が組織 され、
『 衛 生概況』83,84頁 に
以下 の よ うに記 され る。
保健組合
地方病及博染病 ノ豫 防救治 ヲ鶯 シ併 セテ衛 生 二 開 スル 事業 ヲ助成 シ、衛 生思想 ノ普及
及嚢達延 テ ハ 衛 生 自治 ノ観念 ヲ涵養 スル ロ的 ヲ以 テ昭和十 二 年 四月派 出所 ヲ単位 トス
ル 保健組合 テ組 織 セ シメ、更 二 昭和十 四年 ニハ 郡署 ノ聯合會 ヲ統 合 シテ州聯合會 ヲ設
立 シ州 、郡 、派 出所 打 ツテー 丸 トナ リ良ク聯繋 ヲ保持 シツ ゝ本格的活動 二移行 シ着 々
賞績 ヲ奉 ツ ゝア リ
以 上 の史料 よ り民衆 の衛生意識 を向上 させ地方病 。伝染病 の予 防効果 を高 めるために、
又衛 生 に 関す る事業 を助成す るた めに新竹州 にお いて 昭和 13年 4月 派 出所 を単位 とす る保
健組合 が組織 され た。 さらに同年 14年 4月 郡署 の連合会 を統合 し州連 合会 を設 立 し、州・
郡 。派 出所 が一 九 となって連 繁 を保持 しなが ら本格 的 な活動 に移行 してい つた。保健組合
の事業 として
(イ
)地 方病豫 防撲滅 、 (口 )伝 染病予 防制遇、 (ハ )生 活環境 の衛 生的 改善、
(二 )其 の他公衆衛 生 に 関す る事項 が挙 げ られ てい る
192。
昭和 10年 (1935)の 台湾大地震 の被 災地 であつた新竹州 では昭和 11年 (1986)か ら同
13年 (1938)に か けて州下郡下 の市街庄 ごとにマ ラ リア患者調 べ が実施 され た。昭和 9年
(1934)か ら同 13年 までマ ラ リア防過施行成績表 によれ ば震 災後 にはマ ラ リア患者 の割合
が三倍以 上 に増加 したが 、昭和 13年 には約 40%の 減少 が 見 られ た 193。 この こ とは昭和
11年 か ら着手 され た衛生模 範部落 の建 設 、昭和 13年 に組織 され た保健組合 の活動等 、新竹
州 に よつて実施 された マ ラ リア防過事業 の成果 であ つた と考 え られ る。
108
第七節
台 中州 のマ ラ リア防過事業
(1)保 健組合
昭和 11年 (1986)10月 、蔓中州において保健組合が設立 され、
『 昭和十四年版保健組合事
業概況書』 (蔓 中州警務部衛生課 194o昭 和十四年人月二十四 日)1951,2頁 に以下のよ う
に記 されてい る。
衛生 二開スル諸施設ハ従来官麻又ハ公共同證 二於テ鋭意之ガ改善二努カ シ来 リタルモ
此種事業ハー般民衆 ノ自覺 卜協カ ニ候 (侯 )ツ ニアラザ レバ到底其ノロ的ヲ達 スル コ
ト困難ナル ニ鑑 ミ昭和十一年十月州下全般 二亘 り警察官派出所管匡 ヲ軍位 トスル保健
組合 ヲ設 立シ徒末 ノ如キ官麻依存 ノ弊 ヲ是正シ保健組合 自罷 ヲシテ 自奎的二之二開典
セシムル様指導誘抜 二努 メタル結果設 立後 日尚ホ浅キニモ不拘其ノ成績大イニ見ルベ
キモ ノア リ殊 二組合営面ノ事業 トシテ最モ重要視セル 「マ ラ リア」防過事業 ノ如キモ
指導官麻 ノ方針 二則 り藪叢 ノ伐採並 二池沼瀦溜地 ノ整理等外部作業ハ勿論採血服薬等
ノ各般 二亘 り益 々防過ノ強化 ヲ固 り鋭意之 ガ撲滅 二邁進 シツ ゝア リ其 ノ住家並便所 ノ
改良私設下水溝 ノ新設等着 々其 ノ賞績 ヲ収メツ ゝア リ更 二持末 二於テハ保健衛 生各般
二亘 り積極的二活動セシムル様指導 二努 メツ ゝアル ヲ以テ本組合今後 二於ケル活動ハ
州民保健 ノ向上嚢達二寄興 スベ キ所極 メテ大ナルモ ノア リト信 ズルモ ノナ リ
衛 生に関す る事業ハ従来官庁 。公共団体 が主体 となつて行われていたが、一般民衆 の 自
覚 と協力がな ければ目標達成 が困難であるとい うことから、昭和 11年 10月 、蔓中州 にお
いて警察官吏派出所管区を一単位 として保健組合が結成 された。官麻へ の依存 とい う弊害
が是正 され、保健組合 自体が自発的に衛生事業 に関与するよ うになっていつた。保健組合
の事業 の中で最重要視 されたのがマ ラ リア防遇事業で、官庁 の方針通 りに竹藪 の伐採 。池
沼 の整理や採血服薬等 が行われた。住家・便所 の改良や私設下水溝 の新設 も着 々 と進み、
保健組合 の活動は州民の保健保持に大きく寄与するものであるといわれた。
(2)マ ラ リア薬品費の負担
昭和 13年 度 の墓中州におけるマ ラリア薬品費 の負担状況 について『 昭和十四年版保健組合
事業概況書』5,6頁 に次 のよ うに記 されてい る。
「マ ラリア」薬品費ノ負謄
昭和十 二年度 ヨ リ「マ ラリア」防遇方法施行地域 二封 スル従 来 ノ治療方法 ヲ改正シ新
薬併用 二依ル新治療方法ヲ賞施 シタル結果之二伴 フ薬品費 ノ膨張ヲ補鎮 スル鶯叉一面
治療費 ノー部 ヲ直接民衆二負措セシムル事 二依 り民衆 ヲシテ 「マ ラ リア」二封 スル観
心 ヲ持 タシメ自奎的豫防警戒 二努 メシムル鶯薬品ノ三分 ノー ヲ組合 二負指セシメ居 レ
ルガ昭和十三年度 二於ケル負謄費額ハ五千七百餘園ニシテ組合別負指左表 ノ如シ
109
表 2-(I)組 合別 「マ ラ リア」治療薬 品費負措額調 (昭 和十 三年版 )
一 ヶ月
組合名
施行地名
検 血人
―ヶ年原虫保
原 虫保
所要薬
品費
有者
有者
員
(円
組合負据薬
品費 (円 )
)
648
680.40
226.66
2,189
924
970.20
323.40
東勢
2,153
480
504.00
168.00
社ロ
社 ロ
2,667
2.25
720
756.00
252.00
鼻子頭
鼻子頭
1,774
4
840
早渓
早渓
1,908
略哩
略哩
東勢
2.84
864
西畔
1,234.80
411.60
948
995.40
331.80
5
1,356
1,423.80
474.60
4.66
984
1,033.20
344.40
579.60
193.20
804
844.20
281.40
2,544
2,671.20
890.40
564
592.20
197.40
660
693.00
231.00
468
491.40
16380
1,650.60
550.20
289.80
96.60
下覇
馴寮
1,037
2.5
312
新街
新街
1,750
4.5
名間
名間
2,264
郷親寮
郷親寮
1,765
龍眼林
龍眼林
集々
集々
5.65
3,400
水裡坑第 一 E第
3,029
水裡坑
294.00
7
二匠
門牌渾
521
門牌渾
外車坦
亀子頭
亀子頭
北山坑
北山坑
竹山
竹山
4,761
社寮
社寮
808
2.87
鹿谷
鹿谷
1,879
4.01
900
945.00
31500
イ)
16,416
17,236.80
5,745.46
1,565
3.53
ア)
合計
36.845
(出 典 :『 昭和十四年版保健組合事業概況書』 5,6頁 )
註 :ア 36,645の 誤 りか、イ の数字 の記載な し】
【
以上の史料及び表 2-(I)よ り、墓中州では昭和 12年 度 よリマ ラリア防過方法施行地
に対 し新薬 196併 用による新治療法を実施 したこと、その結果新治療法 に伴 う薬品費 の負担
が増 したので薬 品費全体 の三分 の一 を保健組合 の負担 とした ことが分 かる。 三分 の一 を組
合負担 とした理 由としても う一つ挙げ られてい るのが、治療費 の一部を自己負担す る こと
でマ ラ リアに対す る関心を高め自発的な予防努力に取 り組ませたい とい うことである。昭
和 13年 度 に墓 中州 の保健組合 が負担 した薬品費 は 5,745.46円 で組合別 にみると水裡坑 が
一番多 く (890.40円
)続 いて竹山
(550。 20円
)名 間 (474.60円 )、 下覇 (411.60円 )と な
110
つて い る。
(3)マ ラ リア患者 の治療
昭和 12年 10月 か ら同 13年 10月 までのマ ラリア患者 への治療について『 昭和十四年版保
健組合事業概況書」3,4頁 に以下のよ うに記 されている。
営州 二於ケル 「マ ラ リア」防過封原轟方法ハ徒末本病濃厚ナル地方 二之ヲ施行 シ強制
治療 ヲ賞施 シ来 り殊 二昭和十二年度 ヨ リ新薬併用 二依ル新治療法 ヲ制定 シ治療 ノ完璧
ヲ期 ス事 卜為 シタ リ ト雖モ其ノ人 口僅 カニ 四萬人餘 二過 ギザル状態 ニシテ封原轟方法
ハ未ダ以テ之ガ普及 ヲ見タル ニ至ラズ 「マ ラ リア」防過上遺憾 トスル庭 ナル ヲ以テ右
地域外 二於ケル 「マ ラリア」 ノ浸潤濃厚 ナル地方 二封 シテハ患者 ノ救済並 二 「マ ラリ
ア」二封 スル 完全ナル治療 ノ観念 ヲ養成 シ之ガ蔓延防止 ニモ効果 アラシムル鶯組合 ヲ
シテ患者 二封 スル治療方法 ヲ賞施 セシムル コ トゝシ関係組合書記二採血技術 ヲ講習 シ
患者 ノ採血 ヲ行ハ シメ之ヲ最寄防過事務所又ハ州衛生課 二送付 シテ検鏡 シ組合 二薬品
ヲ常備 シ服薬セシムル コ トゝシ昭和十 二年十月 ヨ リ之ガ治療 ヲ開始シタルガ本年十月
末迄二於ケル治療患者ハ六千五十一名 ニシテ本防過上相営ノ効果 ヲ収 メツ ゝア リ
「マ ラリア」患者治療成績表 (自 昭和十二年十月至同十三年十月)ハ 左表 ノ如 シ
表 2-(Ⅱ )「 マ ラ リア」患者治療成績
郡署別
組合数
(自
昭和十 二年十月 至同十 二年十月 )
治療フ実施 スル 組合数
治療 人員
所要薬 品費 (円 )
2
9
10.80
皇 中警察署
彰化警察署
大 屯郡
14
豊原郡
212.00
204
4
東勢郡
1,321.92
大 甲郡
23
彰化郡
21
員林郡
北斗郡
1
260
417.52
2
124
285.28
1,064
941.61
18
南投郡
新高郡
10
能高郡
竹 山郡
159.07
10
341.00
8
12
合計
400
713.97
1,748
1,047.66
6,051
5,449.83
(出 典 :『 昭和十四年版保健組合事業概況書』3,4頁 )
史料及び表
2-(Ⅱ )よ
り従来はマ ラ リア防邊 の封原轟封策 として強制治療服薬 を実施。
昭和 12年 か ら新薬治療 を実施 した。マ ラ リアの濃厚な地域では患者 の救済並びにマ ラリア
111
に対す る完全 な る治療観 念 を養成す るた めに保健組合 が マ ラ リア患者 に対 し治療方法 を実
施 し、組合 の書記 が採血技術 の講習 を受 け、患者 の採 血 を行 い 、最寄 りのマ ラ リア防遇事
務所 並び に州衛生課 に送 附 し検鏡 して薬 品 を患者 に服薬 させ る こ とが読 み取れ る。表 か ら
は治療人員 を郡署別 にみ る と竹 山郡 (1,748人 )、 東勢郡 (1,183人 )、 南投郡 (1,064人 )
とい う順番 である。 また薬 品費 を郡署別 にみ る と東勢郡
円)南 投郡 (941.61円
(1,321。
92円 )竹 山郡
(1,047.66
)と い う順番 で あ り、 この地域 はマ ラ リアがた くさん発 生 してい る
地域 だ とい うことが分 か る。
(4)マ ラ リア防邊作業
昭和 13年 (1938)の 蔓 中州 にお けるマ ラ リア防過作業状況 につい ては『 昭和十 四年版保健
組合事業概況書』 7頁 に次 の よ うに記 され てい る。
「マ ラ リア」防過作業
「マ ラ リア」 防過作業 ハ 患者並原 虫保 有者 ノ治療 卜相侯 ツテ 「マ ラ リア」防過上必須
ノ要件 ナル ヲ以テ之 ガ完璧 ヲ期 スベ ク蚊族奎 生 ヲ容易 ナ ラ シムベ キ河川 、埠り
││、
池沼
瀑 地 ノ整理 、 埋立 、下水溝 、排水溝 ノ開難並蚊族 ノ棲 息場所 タル 住 宅周国 ノ竹 藪 、草
澤 ノ伐採 、住 宅 、畜舎 内外 ノ清潔 、整頓等各種作業 ノ徹底 二努 メシツ ゝアル ガ之等作
業 ハ 組合員 ノ 自主的共 同作業 二依 り着 々其 ノ賓績 ヲ収 メ 「マ ラ リア」防過 ハ 勿論部落
改善 ノ鶯多大 ノ効果 ヲ収 メツ ゝア リ
蔓 中州 にお いて も地物整理 をマ ラ リア 防遇事業 の必 須要件 と捉 え、蚊 の発 生 し易 い河り
。
水溝 の設置 、蚊 の棲 息場所 で ある竹藪・ 叢 の伐採 、住家 畜舎 ノ
や湿 地 の整理 。埋 立 、ツト
││
清潔保持等各種作業 の徹底 に努 めて きた。 これ らの作業 は保健組合員 の 自主的共 同作業 に
よ り着 々 と進 め られ 、マ ラ リア防過は勿論部落改善 に多 大 な効果 を もた らした。
伐採及 び美化作業 の郡署別実施状況 は以下表
2-(Ⅲ )の 通 りである。
表 2-(Ⅲ )伐 採及美化作業
支 出経費 (円 )
義務 出役延 人員
郡署 別
昭和十 二 年
昭和 十 三 年
合計
昭和十 二 年
皇 中署
28,902
5,465
34,367
11.70
彰化署
4,617
4,927
9,544
364.38
458.24
822.62
大屯郡
32,070
71,633
133.35
119.68
253.03
豊原郡
41,086
42,642
83,728
1,576.15
2,460.89
4,037.04
東勢郡
12,976
12,396
25,372
865.91
513.25
1,379.16
大 甲郡
54,724
56,685
111,409
56.04
彰化郡
69,946
37,794
107,695
93.70
318.22
411.92
員林郡
94,030
107.550
201,580
223.30
182.80
406.10
北斗郡
47,594
63,223
110,817
73.32
506.47
579.79
南投郡
99,503
81,009
180,512
301.9
252.20
554.10
新高 all
25,090
27,464
52,554
9.60
112
昭和 十 三 年
合計
11.70
56.04
9.60
能高郡
25,750
26,750
52,500
竹 山郡
43,968
46,007
89,975
47220
203.20
675.40
合計
580,256
551,430
1,131,686
4,181.55
5,014.95
9,196.50
本表 以下各表 中昭和十 二年 トアル ハ 昭和十 一 年十月 ヨ リ同十 二年十月迄 、昭和十 三 年 トア
ル ハ 昭和十 二年十 一 月 ヨ リ同十 三年十月迄 トス
(出 典 :『 昭和十四年版保健組合事業概 況書』8頁 )
以上表 の 2-(Ⅲ )よ り昭和 11年 (1936)10月 に保健組合 を設置 して以降、約 二年間に蔓
中州 で伐採及美化作業 ノ義務出役に従事 した保健組合員 の延べ人員は、1,131,686人 で支出
経費 の合計が 9,196.50円 であつたことが分かる。郡署別 に見て支出経費が多か つたのは豊
原郡 (4,073.04円 )、 東勢郡 (1,379.16円 )、 彰化署 (822.62円 )の 順 である。
水溝 の新設・補修 の郡署別実施状況 については以下の表 2-(Ⅳ )の 通 りであ
下水溝・ツト
る。
表 2-(Ⅳ )下 水溝・排水溝 ノ開撃及補修
年
年
378
740
396
1,249
485
688
351
2,103
2.454
223
216
2,352
2.730
162
38
18,493
4,006
22,499
5,145
4,275
9,420
12,870
4.034
16,904
2,588
4,900
7,458
3,769
4,144
イ)7,923
7,008
2,012
9,020
240
780
口)853
90
1,090
1,180
446
4,380
6,952
750
370
1.120
開 撃
400
合計
補 修
740
1938年
開 撃
1987年
補 修
合計
開 撃
242
50
1,200
1,250
530
544
1,074
補 修
東勢郡
1938
378
補 修
豊原郡
1937
合計
開 撃
大 屯郡
1938年
補 修
彰化署
1937年
開 撃
三 中署
種 別
郡署別
支出経 費 (円 )
義務 出役延人員
延 長 (間 )
1,130
3,063
113
439
400
144
205
349
394
3,343
3,737
637
104
243
1,278
52
70
1,559
1,802
10,313
ハ )10,721
45
286
3.438
2,264
2,264
1,479
3,512
4,991
1.318
1,232
2,550
2,644
2,644
1,004
969
1,973
962
2,295
3,257
1,488
3,067
4,555
194
2,021
2,215
5,100
3,010
8,110
2,402
2,931
5,333
7,069
14,726
21,831
8,228
9,879
18,107
829
9,372
10,201
14,085
37,082
51,167
7,116
2,986
10,102
1,381
1,282
2,663
3,087
3,372
320
10,387
14,196
3.028
3,387
開 撃
608
補 修
2,113
745
開 撃
1,325
13,301
補 修
9,760
10,793
開 撃
8,407
2,508
補 修
北 斗郡
1,353
開 撃
員林郡
4,691
補 修
彰化郡
開 撃
大 甲郡
1,000
12,767
19,047
2,414
2,630
5,044
補 修
4,098
603
4.701
4,817
483
5,300
開 撃
1,652
2.617
4,430
2,350
6,780
補 修
能高郡
6,280
開 撃
新高郡
補 修
南投郡
1,778
415
857
340
543
395
326
442
開 撃
2,598
2,680
5,278
開 撃
35,488
35,767
71,255
補 修
合計
補 修
竹 山郡
44,892
78,030
122,922
3,809
326
486
14
4
14
35
164
1,541
2,338
7,200
7,200
900
1,617
23,872
41,249
65,121
25,921
26.531
52,452
25,505
36,981
62,486
10,761
5,416
15,592
114
25
(出 典 :『 昭和十四年版保健組合事業概況書』9頁 )
註 :イ )7,913の 誤 りか、 口)1,020の 誤 りか、ハ)10,921の 誤 りか】
【
以上の表 2-(Ⅳ )よ り昭和 11年 (1936)10月 に保健組合を設置 して以降約 二年間に菫
中州 で新設 された下水溝・排水溝は 71,255間 (約 130km)補 修 された下水溝 。排水溝は
122,922間
(約
223km)に 及び下水溝 。排水溝 の新設・補修に従事 した保健組合員 の延ベ
人員は 127,607人 、支出経費は 68,044円 であることが分かる。郡署別 でみて支出経費が多
かつたのは大屯郡 (25,924円
)北 斗郡
(12,864円
)竹 山郡
(7,322円 )の 順 である。
道路 の新設・補修 の郡署別実施状況は表 2-(V)の 通 りである。
表 2-(V)道 路 の 開撃及補修
種 別
郡署別
1937年
1938年
支出経費 (円 )
義務 出役延人員
延 長 (間 )
合計
1937年
1938年
1937
1938
年
年
合計
合計
開 撃
26,310
開 撃
8,308
補 修
63,600
開 撃
2,100
補 修
豊原郡
548
補 修
大 屯郡
1,595
開 撃
彰化署
補 修
墓 中署
92,310
開 撃
補 修
東勢郡
20,840
2,361
3,950197
948
19,451
20,399
1,443
710
2,153
359
296
307
272
376
13.360
39,670
3,005
2,500
5,505
104
5,258
13,566
2,625
7,645
10,270
200
59,665
123,265
13,064
35.230
48,294
8,033
10,133
2,210
6,800
9,010
90
102
3,663
95,973
16,855
14,798
31,653
252
219
471
378
378
500
500
12.586
33.426
6,758
i5,385
40
40
8,627
115
203
62,427
32,698
126.834
159,532
11,084
31,302
42,386
2.310
2,620
4,930
3,260
2,486
5,746
200
200
28,190
50,180
78,370
9,068
12,494
21.562
464
660
540
7,160
7,700
150
14,270
14,420
補 修
8,650
141,060
149,710
17,284
46,688
63,972
開 撃
5,542
10,644
16,186
19,094
24,666
143
143
補 修
71,699
133,556
205,255
19,135
50,754
69,889
207
207
開 撃
24,588
6,550
31,108
64,374
9,013
73,387
50
50
補 修
49,302
96,693
145,995
20,590
35,931
56,521
2,858
3,067
1.100
1,100
2,585
2,585
補 修
405
11,110
11,515
3,124
3,734
5,858198
開 撃
6,610
4,040
10,650
7,444
20,078
27,522
100
100
補 修
165,810
172,564
338,374
17,724
27,537
45,261
4,025
4,025
開 撃
3,360
3,738
3,738
5,619
8,317
13,926199
補 修
355
23.188
23,188
3,139
16,595
18,734200
開 撃
54,036
63.771
63,771
93,007
153,611
補 修
561,764
846,820
1,408,584
161,510
303,722
開 撃
62,117
開 撃
南投郡
310
補 修
北斗郡
13,580
開 撃
員林郡
13,420
補 修
彰化郡
開 撃
大 甲郡
160
新高郡
能高郡
竹 山郡
合計
90
48
246,622
201
1,280
491
794
5,200
4,108
445,419
116
203
48
202
9,208
204
(出 典 :『 昭和十 四年 版保健組合事業概況書』 10頁
よ り筆者 作成 )
以 上表 2-(V)よ り昭和 11年 (1936)10月 に保健組合 を設 置 して以降約 二年 間に蔓 中
州 で新設 され た道路 は 117,807間 (約
214km)補 修 され た道 路 は 1,408,584間
(約
2,561km)
に及び道路の新設補修 に従事 した保健組合員延 べ 人員 は 711,900人 、支出経費 は 10,593円
であった ことが分 か る。郡署別 に見て支 出 が多 かったのは能高郡 (4,125円 )南 投郡 (3,117
円)彰 化郡 (860円 )の 順 で ある。
埋立その他 の地物整理 の郡署別実施状況 につい ては表
2-(Ⅵ )の 通 りである。
表 2-(Ⅵ )埋 立 其 ノ他地物整理
義務 出役延人員
行程 (坪 )
郡署別
1937年
1938年
皇 中署
300
彰化署
349
大屯郡
2,441
豊原郡
2,544
150
東勢郡
210
大 甲郡
彰化郡
合計
1937年
452
320
合計
1937年
479
84
401
806
1,207
532
3.077
2.945
6,022
4,808
2.694
53,785
50
53,835
700
910
110
1,755
10,042
11,797
608
8,407
8,015205
1,438
524
1,962
2,065
2,585
4,650
3,470
5,251
5,393
5,542
10,935
員林郡
970
1938年
支 出経費(円 )
1938年
合計
84
4,808
34
106
45
4
49
242
210
452
843
北斗郡
21538
6,866
9,404
2,887
3,243
6,130
南投郡
1,440
1,130
2,570
1,560
2,558
4,118
新高郡
44,065
1,426
45,491
6.592
3,613
10,205
能高郡
250
13,948
14,198
444
19,800
20,244
竹 山郡
351
587
939206
1,147
1,013
2,160
合計
59,463
40,863
100.326
78,389
51.454
128,843207
495
495
666
50
50
6,328
43
43
2,331
8,659
(出 典 :『 昭和十四年版保健組合事業概況書』11頁 より筆者作成)
以 上表
2-(Ⅵ )よ り昭和 11年 (1936)10月 に保健組合 を組織 して以降約 二年 間 に蔓 中
州 で行 われ た埋立其 の他地物整理 は 100,326坪 (約 331,036ピ )埋 立 其 の他 地物整理 に従
事 した保健組合員 の延 べ 人員 は 129,843人
208、
支 出経費 は 8,659円 であ つ た。郡署別 に見
て支 出経費 が 多 かったのは大屯郡 (4,808円 )彰 化郡 (1,867円 )南 投郡 (666円 )の 順 で
ある。
117
以上昭和 11年 10月 に保健組合が組織 されて以降約 二年間で行われ たマ ラリア防遇作業
は、殆 ど保健組合員 の義務出役 によ り行われていた ものであ り、マ ラリア防遇作業に従事
した延 べ人員 の総数は 2,101,036人 に及ぶ。一方支出経費の総合計は僅 かに 96,492.5円 で
ある。 この経費 は材料費 な どであ り、人件費 は含まれてい ない。人件費 についてはマ ラ リ
ア防遇作業に従事 した延べ人員数 (2,101,036人 )の 一 日の賃金を 0.7円 として計算 209す
る と、 1,470,725.2円 とな り支 出経費 の総合 計 96,492.5円 と合 わせ る と工 費 は実 に
1,567,217.7円 もの多額な支出 となってい る。 それだけ緊急 を要す る課題だ つたことを裏付
ける史料だ と言 える。
(5)衛 生宣偉
昭和 13年 (1930の 菫中州における衛生宣博 の状況について、
『 昭和 14年 版保健組合事業概
況書』25頁 に次のよ うに記 されてい る。
衛 生宣博
衛生ノ向上奎達ハー ニー般住民 ノ衛 生思想 ノ奎達如何 二依ルモ ノナル ヲ以テ組合 二於
テハ講演會 ノ開催、活動鳥員 ノ映篤 、宣博印刷物等 二依 り衛生思想 ノ普及啓嚢 二努 メ
ツ ゝア リ其ノ賞績左 ノ如シ
史料 中の「左表」の詳細は以下の表 2-O① の通 りである。
表 2-60衛 生宣博
活動嘉 員210
講話會
郡署 別
度敦
墓 中署
来場者
経費 (円 )
度数
経費(円 )
1,285
彰 化署
3,565
大屯郡
28
13,730
豊原郡
1
720
東勢郡
2,407
大 甲郡
68.471
彰化郡
来場者
20
8,700
1
9,666
員林郡
3,274
北斗郡
2,985
1,007
45
1,740
10
16,510
南投郡
9
6,547
1
147
新高郡
4
1,074
1
750
10
能高郡
2
560
竹 山郡
20
5,848
合計
230
116.567
49
ア)31,419
1,503
118
立看板
宣博 ビラ
張幕
郡署別
経費(円 )
数量
数量
経費(円 )
経費(円 )
数量
三 中署
彰化署
大屯郡
3,920
46
27
105
19,820
8.800
豊原郡
42
東勢郡
47
大 甲郡
彰化郡
1,700
員林郡
53,850
3,144
北 斗郡
102
南投郡
27
143
12,950
144
9.870
10
新高郡
1,200
22
能高郡
竹 山郡
5
1,500
5
501
合計
592
113,610
ポスター
パ ンフレット
郡署別
数量
経費(円 )
数量
経 費(円 )
皇 中署
彰化署
大 屯郡
645
6
豊原郡
東勢郡
38,587
大 甲郡
彰 化郡
72
1,400
員林郡
北 斗郡
572
40
10
南投郡
新高郡
能高郡
20
竹 山郡
合計
2,644
701
143
イ)39,966
(出 典 :『 昭和十四年版保健組合事業概況書』25∼ 26頁
腑ト ア)32,419の 誤 りか、イ)39,967の 誤 りか]
119
より筆者作成)
以上の史料及び表 2-KVI)よ り蔓中州において も一般住民の健康保持 のためには衛生に対
する意識 の変容 。向上が重要であると捉 え、保健組合 が主体的 に講演会 の開催 。活動鳥員(映
画)の 映鳥・衛生宣博印刷物 の配布などを行 つて衛生思想の普及に努めていたことが分かる。
昭和 13年 (1938)に 蔓中州で開催 された講演会 の回数 230回 、来場者 116,567人 、経費 71
円、映鳥会 の回数 49回 、来場者 32,419人 211、 経費 1,503円 となつてい る。 また作製 し
た立看板 737枚 、経費 501円 、張幕 3,216張 、経費 615円 、宣伝 ビラ 113,610枚 、経費は
592円 、ポスター2,644枚 、経費 143円 、パ ンフレッ ト39,967枚 212、 経費 791円 となつ
ている。昭和 13年 童中州で衛生宣博に費や した経費 の合計 は 4,216円 であつた。郡署別 に
みると支出が多かった上位 三つは彰化署(1,014円 )、 大甲郡(701円 )、 員林郡(644円 )の 順 で
ある。
蔓中署においての衛生宣博 の方法は衛生講話會中心の衛 生思想普及活動である。大甲郡
においては二段階での衛 生思想 の向上を目指す普及活動 が行われパ ンフレッ トと衛生講話
會をセ ッ トにした感 じでの普及活動だつたのか と考えられ る。
(6)駆 轟■ll及 消毒薬 ノ配付
昭和 13年 (1930の 蔓中州における駆轟剤及び消毒薬 の配付状況 について、
『 昭和十四年
版保健組合事業概況書』27頁 に以下のよ うに記 されている。
駆轟剤及消毒薬 ノ配付
「アノフェレス」蚊族及蠅、油虫駆除並 二便所其 ノ他 ノ消毒ヲ奨励 スル鶯駆轟剤及消毒
薬 ヲ組合費 ヲ以テ無料配布或ハ代債 ノー部 ヲ補助 シテ之ガ使用 ヲ奨励 シ「マ ラ リア」防
遇並博染病豫防二努 メ居 レル ガ昭和十三年 中二於ケル 無料配布 二要 シタル金額 六千九
十七園購入費 ノー部補助 二支出シタル金額四千三百五十回ニ シテ「マ ラリア」防過並博
染病豫防ノ鶯相営効果 ヲ収メタルモ ノ ト認 ム 郡署別成績左表 ノ如シ
史料中の「左表」の詳細については以下の表は 2-6Ⅲ )の 通 りである。
表
2-m)駆 轟剤及 消毒薬 ノ配付 (昭 和十 二年 中)
郡署別
蔓 中警察
駆酬
円)
無料配布
一 部補助
104.800
15.00
消毒薬(円 )
無料配布
一部補助
合計 (円 )
無料配布
一 部補助
104.80
15.00
署
彰化警察
186.61
135.95
322.56
38.00
92.70
340.75
389.75
署
大 屯郡
54.70
豊 原郡
49.00
東勢郡
389.00
大 甲郡
1,388.00
彰化郡
386.90
5.00
389.00
517.80
306.82
60.10
1,448.10
57.00
443.90
120
5.00
517.80
306.82
員林郡
46.00
309.50
5.00
北 斗郡
355.50
172.12
南投郡
320.85
1,780.10
新高郡
70.00
225.00
i,029.70
5.00
242.12
545.85
2,809.80
5.7.00
5.70
133.80
1,820.50
178.83
348.46
6,097.19
4,250.00
能高郡
1,686.70
竹 山郡
82.25
348.46
96.58
合計
4,694.81
3,150.30
1,402.38
1,099.70
(出 典 :『 昭和十四年版保健組合事業概況書』27∼ 28頁
より筆者作ω
史料及び表 2-6Ⅲ )よ り昭和 13年 の蔓中州ではアノフェレス及び蠅、油虫の駆除並びに
便所その他 の消毒 を奨励す るため駆除剤及び消毒薬 を無料配布 (又 は代金 の一部 を補助)し
て駆轟剤・消毒薬 の使用を奨励 しマ ラ リア防邊・伝染病予防に従事 していたことがわかる。
駆轟剤及び消毒薬 の無料配布 に要 した金額 は 6,097.19円 、代金 の一部補助 に要 した金額 は
4,250.00円 、合計 10,347.19円 となっている。郡署別に見て支出金額が多かつたのは南投
郡(3,555.65円
)、
能高郡(1,820.50円 )、 大甲郡(1,448。 10円 )の 1贋 である。駆轟剤及び消毒薬
の無料配布 (又 は代金 の一部補助)は マ ラ リア防過 と伝染病予防に多大な効果 をもた らした
といえる。
(7)過 怠処分
昭和 13年 (1930の 蔓中州における過怠処分 の状況 について『 昭和十四年版保健組合事業
概況書』29頁 に次のよ うに記 されてい る。
過怠虎分
組合員 ノ業務不履行其 ノ他組合規約違反者 二封スル制裁 トシテ過怠虎分 ノ制 ヲ設ケ組
合員 ノ自主的共同園結 ヲ促 シ組合 ノ健全ナル奎達 二努 メツ ゝアルガ組合設置以来 ノ虎
分状況左表 ノ通 リニ シテ初年度 ノ虎分件数一二四二封 シ次年度 二於テハ僅 カニニ六件
二減少 シタルハ組合員 ノ公共的精神 ノ向上ヲ立證スルモ ノ ト謂 フベ シ
史料 中の 「左 表」 は 2-(Ⅸ )の 通 りである。
1937
1938
年
年
人員
1937
1938
年
年
︿ロ
ユ副
郡署別
△ロ
ユ
副
件数
金額 (円 )
1937年
1938年
合計
蔓 中署
彰化署
大屯郡
5
豊原郡
14
2
5
5
16
14
2
5
5.00
16
36.00
東勢郡
121
5.00
16.00
52.00
大 甲郡
35
24
59
35
24
59
111.50
49.00
160.50
彰化郡
員林郡
北 斗郡
南投郡
6
新高郡
1
1
1
能高郡
62
62
竹山郡
1
合計
124
30.00
30.00
1
2.00
2.00
62
62
212.00
イ 一
1
1
1
5.00
口 )―
150
124
150
401.50
6
26
26
)‐
65.00
466.50
(出 典 :『 昭和十四年版保健組合事業概況書』29,30頁 より筆者作成 )
註 :イ )212.00C)誤 りか、 口)5.00の 誤 りか
以上の史料 と表 2-(Ⅸ )よ り昭和 13年 (1938)の 墓中州では、組合員 の業務不履行そ
の他組合規約 213の 違反者に対す る制裁 として過怠処分 の制度 を設 け、組合員 の 自主的共同
団結 と組合 の健全な発展に努めていたこ とが分かる。昭和 11年 (1936)10月 に保健組合
を設置 して以降約 二年間に墓中州で処分対処 となったのが 150件 、処分対象 となつた人員
も 150人 で過怠金 214の 合計は 466.50円 となってい る。郡署別に見て過怠金が多かつたの
は能高郡 (212.00円 )大 甲郡 (160.50円 )豊 原郡 (52.00円 )の 順 である。昭和 12年 (1937)
の処分件数 124件 に対 し同 13年 は僅 かに 26件 、過怠金 も昭和 12年 の 401.50円 に対 し同
13年 は 65.00と 大きく減少 しているが、 このことは衛生思想 の普及 に伴 い組合員 の公共的
精神 の向上がなされたことを示す史料 だ と言 える。
蔓中州におけるマ ラリア防邊事業 の特徴 として新竹州同様派出所 の管理 の下に組織 され
活動 した保健組合 の存在を挙げることができる。菫中州では昭和 11年 (1936)10月 に保
健組合が組織 されて以降マ ラ リア防遇作業、衛生宣博、駆轟■ll及 び消毒薬 の配付、過怠処
分等 に従事 し墓 中州マ ラ リア防邊事業 の実施 に大き く関与 してきた。
『 昭和十年台湾震災
誌』 (台 湾総督府
昭和十一年 二月)に よれば昭和 10年 (1935)の 台湾大震災の被災地は
新竹州・ 蔓中州であるが、①両州 とも震災後 (蔓 中州 では昭和 11年 、新竹州 では昭和 13
年)に 保健組合 が設 立 されてい る。②保健組合は新竹州 。
蔓中州以外 の州ではみ られない 215
画期的なもので ある。③蔓中州 のマ ラ リア防過作業 の各項 目で支出経費 が最 も多い地名 の
中に激震地であった豊原郡 と大甲郡 の名前 が度 々見 られ る。墓中州 のマ ラリア防邊作業 の
項 目別に支出経費が多い地名 を挙げてい くと次 の表 2-(X)の 通 りである。
122
表 2-(X)マ ラ リア防遇作業各種別
各作業項 目 I∼ Ⅷ
(『
―位
二位
三位
I伐 採及美化作業
豊原 郡
東勢郡
彰化署
Ⅱ下水溝排水溝の開撃補修
大屯 郡
北 斗郡
竹 山郡
Ⅲ道路の開撃及補修
能高郡
南投郡
彰化郡
Ⅳ埋立其ノ他地物整理
大 屯郡
彰化署
南投郡
V衛 生宣偉
彰化署
大 甲郡
員林郡
Ⅵ駆轟剤及消毒薬 ノ配付
南投郡
能高郡
大 甲郡
Ⅷ過怠虎分
能高郡
大 甲郡
豊 原郡
昭和十 四年版保健組合事業概況書』 をもとに筆者作成 )
以 上 の①②③ か らこの保健組合 は震 災後 マ ラ リア患者 が 多発 した新竹 。台 中両州 に特設
され た もの と考 え られ る。被 災地 の 中で も最 も激震地 匡 では保健組合事業 が重点的 に実施
され たのではないか と考 える:
台 中 。新竹州 のマ ラ リア防遇事業 の特徴 は 、台湾総督府 が推進 して きた マ ラ リア予防法
で あるキ ニ ー ネ予 防内服法や地物整理 、外部作業 な どの防過事業 を重点的 に行 い 、衛 生模
範部落 の建設や衛 生宣博 の ビラの配布 。講演会・ 活動 為員 を通 じて一 般住 民 へ の衛 生思想
の普及 を行 つてい た こ とだ けでな く、台湾大地震 を契機 として州 の指導 の 下派 出所管 理 の
保健組合 を設置 し、被災地 の保健衛 生事 業 を重点的 に実施 した′
点が挙 げ られ る。
小結
大正
9年 (1920)台 湾地方制度 の改正 に伴 い 、台湾総督府 の直営 であつたマ ラ リア防遇
事業 が地 方 自治体 へ 移管 され た。 台湾総督府 は 、地方 にお けるマ ラ リア防過政策 の充実 を
図 るために、各州 の予算 に特別会計 として伝染病予防臨時費資金 を特設 させ た。大 正 11年
(1922)台 湾総督府 はマ ラ リア防過費 の負担 区分 を決 定 し、 マ ラ リア防遇 のた めの治療・
服薬 ・ 検 査 ・ 地物整理 費や マ ラ リア防邊 のた めの下水施 設 に 関す る費用等 は州 が支払 うベ
き費用 とし、伝染病予 防 の た めに雇 う医師 の人件費や器具薬 品 の代金 、隔離病棟 。消毒所
の建 設 。維 持費 は市街庄 が支払 うべ き費用 とした。 同時 に台 湾総督府 は マ ラ リア防過費 の
補助方法 と して 、州 は市街庄 の負担 に対 し三 分 の一 を補助す る こ と、国 は州 の負担 に対 し
三分 の一 を補 助す ることを決定 した。
地方 にお ける台南州 。高雄州 。移 民地 。新竹州 。台 中州 の
4つ の州及び移 民地 につい て
検討す るこ とが出来た。
台南州下 の衛 生 の好転 は重松 英太 と能 澤外茂 吉 が 下村 八五 郎 氏 の説 を採用 し、 マ ラ リア
防過デ ー を制定 して州下防遇所 が マ ラ リア防過 に着手 した。大 正 14年 (1925)に は増 田秀
吉が警務部長 に就任 し、州 下一 回 をマ ラ リア防過 区域 に編入 し、マ ラ リア防過 を実施 した。
下村 は大正 14年 か らまず槙 範部落 の作成 にあた り、上出英 一 新豊郡警察課長 、大川 専務巡
123
査 、徳永嬌祖廟派 出所巡査 、保 正楊 丁旺 の尽 力 によ つてマ ラ リア防邊作業 は大 い に進展 し
た。 これ に よ り新 豊郡婦祖廟派 出所管内 を模範 的部落 の哨矢 と看倣す こ とが出来 る。 また
大正 15年 (1926)春 に衛生課長 に就任 した野 田兵 三が重松 らの防遇作業 を継承 し、産業道
路 の 四通発達 と共 に清楚 明朗な衛 生模範部落 へ と変容 させ た ことが 分 か る。 また本 マ ラ リ
ア 防過案 が衛 生上 著 しい効果 がある と看倣 され 、昭和
5年 (1930)頃 か ら高雄州 で も衛 生
模範部落 の建設 が 実施 され た こ とが分 か り、台南州 の マ ラ リア防過 は衛 生模範部落 建設 の
濫場 で ある と言 える と思 う。 また無理解 な る民衆 に対 して衛 生諸事業 の遂行 は膿験的注入
が最 も効果 的で あ り、終始 一 貫 して マ ラ リア防遇 の 専門家 た ちは熱 と力 を以て マ ラ リア防
過作業 に臨む こ とが肝要 である と説 き、苦労 を重ね なが ら衛 生意識 の改変 を行 い なが らマ
ラ リア防遇事業 を行 つてい る。
高雄州 では明治 39年 (1906)旗 山郡 甲仙 にお いて 、甲仙哺 採脳拓殖会社 の採脳者 の 間 に
猛烈 なマ ラ リア流行 が あ り大惨事 とな つた。 大正
2年 (1913)マ ラ リア防遇規則制 定後 、
高雄 州 はマ ラ リア流行地域 を防遇施行地 に指定 し服薬検 査
。地物整理 。防遇思想 の啓発 を
行 つた。 また台南州 と同様 に作業状況 を審査表彰 して優 良部落 の建設や州主導型 の衛 生組
。
合 の設 立 に尽力 した。昭和 11年 (1936)に は屏東郡 下里港 九塊 両庄 にお いて 内地 か らの
移 民 (煙 草耕 作移 民 )の 間 にマ ラ リア が 蔓延 したが、急速 千歳村・ 常盤 村 に防遇所 を設 置
しマ ラ リア の防遇 に努 めた。 また昭和 14年 (1939)に『 衛 生組合指導要領』を当時 の衛 生
課長 である安 倍貞次 が編纂 し、州 の直接指導 で 防過事業 が実施 され た。
移 民村 は大正
2年 (1913)か らマ ラ リア防過 を行 い 、総督府 は移 民上 の保健衛 生 に対 し
て書療所 を設置 し、患者 には移住後 三年 間 マ ラ リア予 防薬 の無料 給 与や薬代入院費 な どの
半額補助 を実施 した。大 正
6年 (1917)に は公 害 を設置 し、マ ラ リア防過法 を施行 して本
格 的 な防過事業 を開始 した。 また産業組合 内に吉野 医院 を開設す る こと もあ り、産業組合
が経済 医療 の 中心機 関 として の機能 を有 していた こ とが明 らかにな つた。
新竹州 にお いて もマ ラ リア流行 地域 を指定 して献 血 服薬治療 を施 し、 地物整理 を励行 し
た。昭和 10年 (1935)4月 の台湾大地震 の後 は、海岸 地方 まで マ ラ リアが流行 し大 惨事 と
な った。 マ ラ リア防邊 の施策 を統 一 し民衆 の衛 生意識 を向上 させ るために、新竹州 は昭和
11年 (1936)よ り衛生模範部落 の建 設 に着手 し、そ の結果 生活環境 が改善 され死 亡数減少
と出 生数 増 加 が 見 られ るよ うにな っ た。 また衛 生映画 な どを使 つて衛 生思想 の普及 も試 み
た。 この ことは昭和 11年 (1936)か ら着手 され た衛 生模 範部 落 の建 設 、昭和 13年 (1938)
に組 織 され た保健組合 の活動 な どに よつて新竹 州 に よ つて マ ラ リア防遇事業 の成果 で あ つ
た。
台 中州 にお いて も台南州 。高雄州 。新竹州 と同様 な マ ラ リア防遇事業 が 実施 され たが 、
そ の特徴 として新竹州 同様派 出所 の管 理 の下 に組織 され活動 した保健組合 の存在 を挙 げ る
こ とがで き る。 台 中州 の史料 が保健組合事業概 況書 で あるた め、新竹州 に比 べ 保健組合 の
活動 内容 が詳細 に記載 され てい る。台 中州 では昭和 11年 に保健組合 が組織 され 、台 中州 の
マ ラ リア防遇事業 に大 き く関わ つた。
124
台南州 。高雄州 。新竹州 。台 中州 に見 られ る共通点 は台湾総督府 が推進 して きた マ ラ リ
ア予 防法 (キ ニー ネ予防内服法や地物整 理 な ど)に 重点 が 置 かれ ていた こ とで ある。 も う
一 点 は衛 生模範部落 の建 設 。マ ラ リア防邊デ ー の制 定、衛 生宣伝 ビラの配布 、衛 生映画 の
上 映 、講演会 の開催 な どを通 じて 一 般住 民 へ衛 生思想 を普及 した こ とで ある。相違 点 とし
ては 、台南州や高雄 州 で はマ ラ リア防過事業 が州か らの直接 指導 で推進 され て きた の に対
し、新竹州・ 台 中州 は州指導 の 下派 出所 管理 の保健組合 が 特設 され 、 この保健組合 が マ ラ
リア防過事業 を実質的 に推進 していった こ とが挙 げ られ る。 したがつて昭和 10年 の 台湾大
地震 を契機 として マ ラ リア患者 が 多発 した新竹州・ 台 中州 で この保健組合 が 特設 され 、被
災地 で重点的 に保健組合事業が実施 され た ものだ と類推 で きる。
台南州・ 高雄州 。新竹州・ 台 中州以外 の州 につい て史 料 は収集 してはい るものの 、原 典
史料 の分析 までは時間 の都合 上行 えなか つた。
125
第 二章
原住民 に対す る防遇事 業
従来 の研 究では原住 民に対す る防過 に関 して纏 めた研 究 は少 な く、代表的 な研 究 とし
ては近 藤綾 の研究 216が ぁる。彼女 は台湾総 督府 が実施 した集 団移住政策や授産政策 による
理 蕃 事業 に よつて マ ラ リアや ア メー バ 赤痢 が流行す る要因 を引き起 こ し、 それ に対 して 防
邊 を実施す る とい つたマ ッチ 。ポ ンプ的 な防過で あ った と位 置 づ けた。 第 一 節 では理 蕃事
業 の概 要及 び集 団移住政策 を述 べ 、第 二 節 では蕃 地 医療衛 生 の概 要 を述 べ 、第 二節 で蕃 地
マ ラ リア防遇が どの よ うな形態 でや られ ていたのか につい て概観 してい こ う。
第 一節
理 蕃政策概説
原住 民 に対す る所謂 「理 蕃政策」 に つい ては従来反抗 防 止 、鎮圧政策 の側 面 を中心 に
研 究 が され てきた 217。 しか し松 田吉郎 はそれ以外 に教育、衛 生 、授 産政策 とい う人的、物
的資源 開発 ・ 統治政策が行 われ ていた と指摘 してい る 218。
理蕃事業 は明治 36年 (1903)か ら殖産局 の管轄 にあ つ た 「蕃務」関連事項 が全 て警察
本署 に委譲 され 、台湾原住 民に対す る警察統治 が本格 的に始 ま つ た年 である 219。 明治 39
年 (1906)か らは佐久間左馬太 総督 による武 断統治 の 下、原住民 に対 して大 規模 な武力制
圧政策 が採 られた 220。 この時期 にお い ては降勇線 221を 未 帰順地 区 に前進 させ る際 に降勇
線 の外 にあ つた蕃社 を除勇線 内に移 住 させ 、 それ を もつて 「制圧 」効果 をあげ る方法 が 取
られ た 222。 また武力 峰起 を主 導 。講助 した蕃社 に対 しては、そ の制裁処置 として鎮圧後 に
行政 区域 内な どに移住 させ た例 も多か った 223
大正 3年 (1914)頃 か ら理蕃政策 の中に授産政策 の側面である 「定地農耕民化政策」が
本格的に建議 され 、同年 に提 出 された当時 の蕃務総長 であつた大津麟平 の『 理蕃策原義』
においてである。 224
授産政策については大正 8年 (1919)11月 22日 に総督府会議 室で行われた全島地方官
会議 における田健 次郎台湾総督 の割1示 に以下のよ うに述べ られてい る。
生蕃 の生業は主 として農業 にあると云ふ ことである。農業 に従事す るものは縦へ現在
極 めて兇悪な り檸猛なるもので も、誠意を以て之を導 くことは、(さ )し も難 しとせぬ。
生蕃 と雖 も之を撫育 して行 くには矢張第一種 の方便 を以て意思 の疎通を計るにある。
或 は教育 し、或は授産を為 し、或 は施療施薬 を為 し、或は進 んで耕地住宅牛畜をも供
給す る位 にして保護奨励 の途を立つ るや うに致 したい と思ふ 225
田台湾総督が主眼 とした原住民統治 は伝統的な狩猟民か ら 「善良な農民」へ と育成す る
ことで あ り、そのために教育、授産、医療 が実施 された。
大正末か ら昭和初期 に原住民教育政策 の立案実施 に尽力 した総督府嘱託 の鈴木質 は授
産に就 いて以下のよ うに述べている。
感化指導啓嚢 と云ひま して も最 も必要であるのは教育 と授産であ ります。比 の教育 と
授産 とは化育 の二台要諦であるのであ ります。授産 としては水 田の開墾 。施肥 の奨励 。
埠り│の 開通 。農具 の改良 。作物種類 の選澤 より天然物 の加工 。手藝・ 機織 。裁縫・養
126
算 ・ 牧畜等 に至 るまで 、線 て彼等 の生 活 の安 定 に資す べ き仕 事 に就 いて は極 力指導 に
努 めて居 るので あ ります 。 226
鈴木質 は教育 と授産が理 蕃事業 の 中で最 も重要 であ り、授産 には水 田耕作や牧畜、養章 、
機織 、裁縫 な どに多岐 にわた つて彼 らの生 活 の安定化 を計 るよ う指導す べ きだ と説 いてい
る。
この授産政策 と結 び つ き の深 いのが 強制移住政策 であつた。 強制移住政策 に就 いて は
宇野英種理蕃課長 が以下 の よ うに述 べ て い る。
即 ちこれ を移住 せ しめて彼等 か ら集 国 の勢力 を去勢す るのだ。・・ 。強制移住 せ しめて
製糖其他 の労働 に従 事せ しめ る とか 、或 は適営 な地面 で も割 り営て ゝ耕 作 をせ しめる
とか …其 の強制移住 な るもの はな るべ く小 さな部落 を各方面 の異 な った 土地 へ 分 けて
大 きな集 園を避 けるのだ。 227
原住 民 の移住政策 とは 、集 団 の勢力 、即 ち抗 日の機運 、意 志 を 「去 勢」す る こ とで あ
つ た。 大 きな集 団 を分離 し、奥地 か ら山麓 に移住 させ 、管 理 を容 易 に させ 、更 に原住 民 の
生活 の安定 を計 るための授産政策 であつた。
また宇野 は授産 につい て以下 の よ うに述 べ てい る。
現在 の主 な る撫育方法 として は蕃 童教 育、授産、医療 、交易 と彼等 の感化 を促進 せ し
む る観 光 とか活動 篤 員 とかで、授産 は第一 に彼等古来 の農耕 に代 へ る水 田作 、牧畜、
養 章 、機 業 、煙 草作 、茶樹 、桐木 、柑橘 、苧麻 、蓮草 の栽培等 で 、何れ も指 導所 と指
導者 があって 、今 では軍獨 で水 田作其 の他 の仕事 を鶯 し得 る者 も寡 くな い
つ ま り、原住 民古来 の農耕 法 で ある輪耕 作 をや め させ 、定 地農耕 を行 うこ と、 さらに
多種 の農牧畜技術 を授 ける こ とに よってその発展 を図 るこ とにあ つた。
総督府技師 の 穴 澤穎 治 は蕃人 の集 団移住 政策 と水 田耕 作 について 以下 の よ うに記 して
い る。
授産 と言 つて も其れ には農作 、交易 、養章 、家畜飼養及 び 副業的奨励 等 を奉 げ得 るが
,
就 中水 田耕 作 は最 も主要な るもの とされ てゐる。右 の授 産、観 光、教 育等 の精神 的方
面 か ら観れ ば、従 来 の如 く蕃社 が散在 して居 つて は化 導啓奎 が 充分 に行 き届 かぬ ばか
りでな く、又警備 上 か ら考 へ て も散在 せ る蕃屋 を移住集 園せ しむ るに若 くはな い。 そ
こで蕃人 に封 し移住集 国 の政策 を採用 したのである。近年 に至 って 此 の散在 せ る蕃人
を一 定 の地域 に集 園せ しむ るよ うにな っ たが 、授産 の方法 として第 一 に着手 した こ と
は、llll路 を開難 し水 田を墾耕す るこ とで ある。蕃人 に水 田作 を指導 したのは 、明治 三
十 六年 頃阿縁麻 下南平社方面 に賞施 せ しを哨矢 とす るが、水 田耕作 の著 しい嚢達 を見
た るは 、蕃社移住集 国 の進 1//1以 後 の こ とであ って 、昭和 五 年 に於 ける蕃地水 田作付 面
積 は千人百 二 十 三 甲 の廣 さに達 し、収穫 高 (玄 米 )は 一 萬 七 千 三 十 六石 に及 んで居 る
と云ふ こ とで ある。 228
授 産政策 の化導啓発 を行 うた めには 、集 団移住政策 が必 要 で あ つた。授 産政策 の 中で も
水 田耕作 は最 も主要 な もので あった。蕃 人 へ の水 田耕作 は明治
127
36年 の阿線麻 下南平社方面
で実施 したのを皮切 りに、集団移住政策後 に蕃地水 田作付面積が 1823甲 。収穫高が 17036
石 といつたくらい著 しい発展を遂げた。
要す るに大正 3年 ∼昭和 5年 までの授産政策を纏めると原住民の集団的反抗 を防 ぐ 「去
勢策」であ り、そ のために奥地 にすむ彼等を山脚地帯に強制移住 させ 、警察管理に便な ら
しめ、また輪耕作 か ら定地農耕 に、狩猟 か ら牧畜に、そ して多様 な農牧業 の技術指導 を行
い、生活の安定化 を図 り「善良な農民」を育成する政策であった。
しか し、集団移住政策をす る際 の問題 として蕃地マ ラリアの発生がある。穴澤技師は 「集
団移住政策 とマ ラ リア問題」 とい う論文 の 中で①移住地は高燥なる地鶏 (立 体的或は平面
的に比較的安全なる地形)を 選 ばねばい けない。②移住前 に健康豫備調査を行 うこと。③
医療防過機関の完備 を期す ること、④駐在所 の位置 につ き考慮すること229、 ⑤蕃人 に時刻
の観念 を注入す ること、⑥定期検血の度数 を増 し且患者 の奎見に努むること、⑦患者 の治
療法及び原虫保有者 の治療は懇切 に且厳重に行 うこと、③豫防 (防 過)思 想 を涵養 にす る
こと、⑨タブ ミノの飼育放流 と以下の 9つ の提言を行 つてい る。 230
第二節 蕃地衛生医療概説
蕃 地における医療衛 生事業 に関 しては、マ ラリア防遇策 を含む大部分 の事項について
はこれまでま とまつた紹介 がな されて こなか った。そのため本稿 においてはまず、蕃地医
療衛生に関する全般的概要を述べ てお くことにする。
『 理蕃誌稿』231に 残 された記録 に拠れば、蕃地における総督府による組織的な医療実施は、
明治 43年 (1910)以 降 「嘱託讐」を駐在所 に設置 したことに始まる。その背景 は、総督府
発行 の『 理蕃誌稿』 に以下のよ うに説明されてい る。
五月十五 日蔓北聴新店支麻 管内 ウライ蕃務官吏駐在所 二嘱託讐岡山敬吾 232ヲ 配置 シ
蕃人 ノ施薬並其 ノ附近 二在ル蕃務官吏 ノ治療 二従事セシム初明治三十八年 中元屈尺院
勇監督所 二薬品及軽易 ナル 書療器械 ヲ備へ讐術 二経験 アル巡査 ヲシテ施療 ノ事 ヲ謄営
セシメタル ニ蕃人 ノ之ヲ信頼 スル頗ル篤 キヲ以テ更ニー歩 ヲ進 メテ嘱託讐 ヲ配置 スル
ニ至 レリ233
このよ うに蕃地においての医療衛 生事業は 「原住民の人 心掌握」 を主な 目的 として始め
られ、駐在所 234(警 察)が 医療衛 生を管轄す る場所であつたことが分かつた。
また明治 43年 (1910)以 降に各地で 「蕃地療養所」及び 「施薬所」が設 けられ、従来 の
禁厭祈祷に よる治療 か ら近代医薬による治療へ と変わ り、近代医療 の信頼性 が 日に 日に増
してぃった。 235さ らに大正 5年 (1916)か らは嘱託讐 より専門性 の高い 「公 讐」 を配置
する 「公 讐診療所」 も設置 され るよ うになった。 この とき民政長 官 か ら各庁に対 して通達
した 「公讐」 の配置理由は以下の通 りである。
本年度 ヨ リ蕃 地公讐 ヲ配置セ ラ レタルハ讐薬 二依ル蕃人撫綾 ノ効果 ヲー層多 カラシメ
ン トスル趣 旨二外ナラサル ヲ以テ獨 り其 ノ所在地二於ケル診断施薬 二従事セシムル ニ
止 ラス時々特設療養所 ヲ巡 同セシメ指任者施設 ノ適否 ヲ調査シ之ヲ指導セシムル ト同
128
時 二蕃 地従事員 ノ健康保持上 ニモ 注意 セ シメ疾病 ニ ヨル 警備 カ ノ減殺 ヲ予 防 セ シムヘ
ク監督 ヲ加 へ 公讐配置 ノロ的 ヲ徹底 セ ム コ トヲ晟 メラ レ度 236
この よ うに 「公 讐」 は嘱託 讐 と同様 に、「蕃人撫育」 の一 手段 と して重 視 され ていた上 、
理 蕃警察官 の健康保持 とい う役割 にも重 きを置 かれていた もので あ つた。
また移住 地 にお いて も 「花蓮港廃花蓮支麻平林 ニハ 多数 ノ 「タ ロ コ」蕃移住 シ鋭意 開拓
中ナ ルモ衛 生状態不 良 ニ シテ原社 二復需 セ ン トスル 傾 向 アル ヲ以 テ之力安定上 二 月 九 日同
所 二蕃 地療養所 ヲ設置 セ リ」とい う経過 で配置 され た場 所 もある。
237こ の こ とか ら医療機
関 の設置 は 、原住 民 の衛 生 状態 に対す る不満 を抑制す るた めの必要 手段 で あ つた こ とが い
える。 こ うした状況 の下、大 正 5年 (1916)末 に蕃 地全体 で公 医診療所 5箇 所 、療養所 35
箇所 。施薬所 21箇 所 だ つた医療施設 は、昭和元年 (1926)末 には公 医診療所 15箇 所 、療
238。 ただ し、 こ
養所 は 91箇 所 、施薬所 86箇 所 と約 3∼ 4倍 に増設 された こ とがわか つた
れ らの施設 にお い て行 われ た具体的作業 とそ の影響 について は、詳細 な記録 が あま り残 つ
てい ない。
次 に『 理 蕃誌稿』 の 中 にみ られ る主な蕃地 医療衛 生 の事業 内容 につい てみて い こ う。
蕃人 に対す る種痘事業 につい て『 理 蕃誌稿』 に以下 のよ うに記 され て い る。
菫東麻 下 ブヌ ン族 中平地 二 交界 セル マ ヌ ワン蕃 ハ 曇 二 、 ア ミ族 ヲシテ種痘 セ シメタル
ヲ知 り亦之 ヲ希望 スル 者 ア リシ ヲ以テ ニ 月讐師 ヲ新 開園 二派遣 シタル ニ 下 山接種 シタ
ル 者男女 三 百 三 十名 二及 ヘ リ阿緞麻 下 二在 リテハ 潮州 、枕寮 、紡 山、恒春 、蚊蜂 、阿
里港、 六 筆里 、 甲仙哺各支麻所轄 内 二於テ、 パ イ ワン族 ノ接種 シタル 者 ハ 千 九 十 九名
ノ多 キ ニ達 シ此内不善感者 ハ 百 二 十 九名 二過 キス桃 園廃 大料以支麻 管 内角板 山蕃務官
吏駐在所 二於 テ接種 シタル 者 ハ 前 山蕃 、馬 武督蕃及 ガオガ ン蕃 ヲ合 セ六 百有余名 ニ シ
テ殆 卜善感 セ サル ハ ナカ リキ惟 フニ種痘 二 由テ天然痘 ノ感染 ヲ免 ル ゝヲ知 ラ シム レハ
239
先 ヲ争 フテ接種 ヲ請 フエ至ル モ 亦教 へ 難 キ ノ民 ニ ア ラサルナ リ
以 上の史料 よ り台東庁 ブヌ ン族 、 ア ミ族 の男女
230名 に種痘接種 を実施 し、阿縁麻 で も
支庁所管 内でパ イ ワン族 1099名 に実施 、桃 園庁 では角 板 山蕃務官吏駐在 所 で天然痘予防 の
種痘接種 を 600名 に実施 した こ とが明 らか とな った。
大正 9年 (1920)1月 に台 中州能高郡 「ピイ ラウ社」及 び 新高郡 「アルサ ン社」「バ ラル
240
へ
社」 で コ レラが発 生 し、予防消毒作業 を実施 した結果 1月 末 には終息状態 戻 つた。
大正 10年 (1921)7月 に絶海 の孤島 で ある紅頭嶼 で赤痢病 が蔓延 したため、上等看護卒
出身 の遠藤巡査 、 並木 、柿 並巡査 と協力 し駐在所 内外 の大 々 的清潔 消毒 を実施 し、患者 に
は療養所備付 け の薬 品 を与 え、一 般蕃人 に対 し生水 の飲用 を禁ず る予防 に努 めた。 しか し
効果 が薄 か っ た ので台東庁 か ら医師 一 名 、警部 一名 、予防注 射液 な どの 医薬 品な どを要請
した。派遣 され た殿 上警部 と村 田医師 は遠藤巡査・ 柿 並巡査 か ら蕃 人患者 の発 生状況 を聴
き、治療及 予 防消毒 の方策 を定 め、石灰 酸 、昇 永 を溶解 して厳重消毒 を実施 し、患者 には
「エ メチ ン」注射や投薬 を実施 した。 さらに頭 目や勢力者 以下全蕃 人 に対 し① 医薬 を信頼
す る こ と、②糞便汚物 を一 定 の場所 に投棄 す る こ と、③生水 ・ 未熟果物等飲食物 に注意す
129
ること、④夜間腹部 を冷却 しない こと、⑤患者 の届出励行 ,⑥ 清潔及消毒方法な どを説諭
してぃった。 241
大正 14年 (1925)に 官原眼科部長 が蕃人 に対 して眼病治療 を行 つたことが『 理蕃誌稿』
に以下のよ うに記 されてい る。
墓南讐院眼科部長宮原武熊外一名 ハ前年十二月二十八 日ヨリ二十一 日迄四 日間高雄州
恒春郡四重渓温泉場 二滞在 シ同郡下患者 二封 シ施療 ヲ鶯 シタル状況左 ノ如 シ
投薬 ノミヲ受ケタル者 二十五名、手術 ヲ受ケタル者四名、義眼ヲ入 レタル者三名ナル
カ蕃人 ニ シテ徒末義眼 ヲ入 レタル者 皆無ナル鶯蕃人等ハ 其 ノ痛 ミヲ怖 レテ之 ヲ拒 ミタ
ルモ痛 ミ無キヲ説明シタル篤加芝末社 三名、牡丹社一名隻眼義眼 ヲ入 レタル ニ外見良
シキ篤本人ハ勿論家族等喜 ヒ居 レリ、手術 ヲ受ケ タル者 ハ、四林格、牡丹、高士佛、
加芝末社各一名宛ナルカ牡丹社及 四林格社 副社長 ノ如キハ殆 ン ト失明 ノ状態 二在 リシ
モ ノカ手術後 自己ノ手指ヲ数 フル コ トフ得ル ニ至 り其 ノ顕著ナル効果 二驚 キ且喜 ヒ掃
社後一般蕃人 二告ヶ只管恩恵 ヲ感謝 シ居 レ リ242
以下のよ うに官原武熊 243は 眼病施療を高雄州恒春郡 の牡丹社 。加芝末社、高士佛社、士
林格 の眼病患者 に施療 を実施 し、蕃人 たちは近代 医療 への信頼性や恩恵 の念 を高めていつ
たことが分かる。
昭和になると蕃地内でも優良蕃社建設が推進 されて くる。その 中の一つが台中州能高郡
川中島である。
共同便所 の設置について『 理蕃 の友』昭和 9年 6月 号 能高郡川 中島
田村時憲 の 「共
同便所を使用する迄」に以下のよ うに記 されてい る。
何事 も創始は易 く縫績は困難である。最近各蕃社に於て共同便所 の新設せ られ つ ゝあ
るは喜ぶべ き事柄であるが、其 の何れ もが一時的で永績するものが誠 に乏 しい。我 が
川 中島社 も然 り、異 に半 コンク リー トの トタン屋根 の共同便所 三箇所 も造 つたが半年
も経たずに物置視 され るといふ有様。勿論新設営時は可成 り人釜敷 く言 つたが元来野
天で放糞 し末 った彼等は未明或は夕暮 を利用 し附近草原 に駆 け込み後始末を大鶏 に託
す るが氣持ちが良い らしい。また便所使用法 に付いても折角彼等 の住家 にも勝 る立派
な便所 を興へ られなが ら相憂 らず竹木片若 しくは石で拭ふ鶯内部は嵩ま り汲取 りが困
難 となる計 りではな く、臭氣甚だ しく次第に使用を嫌ひ遂には再び到 る虎 に黄金 の香
りを撒 くことになる。斯 くては折角多額 の費用を投 じ建設 した黄金堂 も何等意味をな
さぬこ とになる故種種攻究 の結果先 づ社内の青年男女に便所 の使用並 に肥料価値 を説
き同時に水稲作 の一部に肥料試験匡を設け如賞に其 の効果を見聞せ しめ、漸次改善 を
計ると共に駐在所 の古新聞紙、紙暦 を興へ て使用せ しめ、尚不足に封 しては藁又 は若
草を使用せ しめた ところ前記 の弊害は除去せ られ最近 には殆 ど一般 に使用せ られ るに
至 り、人糞 の利用 を増 し、蕃社附近 の悪臭をも一掃 し得 る迄になって末た。此 の機 を
逸せず習慣付 けば個人便所 を欲す る時期 も遠か らざること ゝ思はれ る。又便所 か ら出
る際には手を洗 うべ きな り。之を習慣 とし、汎 く衛生意識 の向上を図るな り。
130
以 上の史料 よ り最近 蕃社 に共 同便所 244が 建設 され てい るが、初期 の頃 は利用方法 が分 か
らな い ことや 旧来 の野糞 の習慣 が あるので共 同便所 が物置状態 にな っていた。 それ を改善
す るために川 中島蕃社 内 の青年男女 に便所 の使 用方法 と人糞 の肥料価値 を説 き、水稲 作 の
一 部 を肥料試 験 区 として設 けて人糞 の肥料価値 を見聞 させ て いつ た。 また紙暦や古新 聞な
どで拭 くこ とを教 え、共 同便所 の使用 を促 して いつた。 また同時 に便 所 の後 の 手洗 い な ど
を習慣化 させ て衛 生意識 を付 け させ てい つた。
概観 してきた通 り蕃 地 では熱 帯性赤痢や流行性 感 冒、蕃地 マ ラ リア、眼病 な どとい つた
病気 が主な主要病 で あ り、派 出所 の巡査や 医者 たちが蕃 地医療衛 生 を担 つていた こ とが明
らか とな った。 さらに昭和初期 にな る と優 良蕃社 建設 が推進 され 、衛 生意識 の 向上 が 目指
され て いつた。
第 二節
原住 民に対す る防過 一衛 生組合 の成 立
第 二節 で蕃 地 医療衛 生 につい て概略的 に見て きた が蕃 地 の なかで も頻繁 に発 生 してい た
のが蕃 地 マ ラ リアで ある。 この節 では この蕃 地 マ ラ リア の 防過 が どの よ うな ものだ つ た の
かについ て概 略的 に見てい こ うと思 う。
台湾全 島を対象 として考案 され た行政的 マ ラ リアは、「防遇施行 地域」 と認定 され た地 区
において施行 され ることにな つていたが 、それ が台 中 の蕃 地 に及 んだのは大正 15年 (1926)
245な お 「抜社
頃 で比較的平地 に近 い 「抜社哺社 」な どの蕃社 が認 定 され る こ とにな つ た。
哺社」 が 防遇施行地域 に認 定 され たのは大正 15年 (1926)6月 で 、そ の 当時 7.10%だ った
246そ の後 の蕃
原 虫保有率 は昭和 7年 (1932)3月 には 4.20%に 減少 した と記 され て い る。
地 にお ける防遇施行地域 の進展経緯 につい ては記録 が乏 しい が 、森 下薫 に よれ ば普通行政
区域 内 と同程度 に定期検 血 と投薬 が行 われ た地域 は、必ず しも蕃 地全域 に及 んだのではな
く、昭和 8年 (1933)∼ 同 13年 (1938)の 間 で言 えば、マ ラ リア多発 地 70箇 所程度 が 防
遇施行地域 とな っていた もの と推定 され て い る。 247
蕃 地 にお ける防遇施行地域 で実 際 どの よ うな作業 が行 われ ていたのか とい うこ とに関 し
ては 、全般 的な状況 を示 した史 料 がない た め、記録 に残 つてい る事例 を参考 にまで挙 げて
お きたお い。 台 中州能高郡干卓 万社 にお いて行 われ た作業 は以下 の 9項 目で あ つた。 248
1)採 血 の励行
2)服 薬 の強制
3)内 台人防遇 の併行
4)地 物整理
5)蚊 帳使用 の励行
6)日 没 か ら就寝 までの一斉燻煙
7)耕 作小屋 の宿 泊禁 止
131
8)公 医が衛 生 に関す る講演 を実施す る
9)警 察職員 が率先 して 自身 の予防 に努 める
この うち 「地物整理」 に関 しては次 の よ うに述 べ られ てい る。
地物整理 ハ 地勢 ノ関係 上 困難 ナル ヲ以 テ 特異性 卜浸潤度 二應 シ対策 ヲ講 シ、毎月十 五
日ヲ清 潔 日 トシ、各戸 ヨ リー 名宛 出役 、受持職員監督 ノ下 二 蚊族 、幼 虫 ノ嚢 生 箇所 ヲ
調 査及駆 除 シ作業計画書 二基 キ適 営賞施 シテヰ ル 249
ここか らは地物整理 に関す る具体的な事 業内容 はあま り読 み取れ ないが 、毎年 15日 を清
潔 日に指定 し、各戸 か ら義務 出役 を命 じ、蚊族幼 虫 の発 生箇 所 の調 査及 び駆 除 を実施す る
よ うに説 いてい る。少 な くとも水 田や埠期│を 埋 め立て る とい つた 大規模 土木事業 は地 勢学
上 実施 できなかった と窺 が えれ る。
また一斉燻煙 と蚊帳使用奨励 につい ては以下 のよ うに記 され てい る。
昨夏 (昭 和
9年 )蔓 北州下 の蕃地 マ ラ リア防遇状況 を観察 した際同州下 の一 部 で此の
燻煙 につい て極 めて統制 の ある方法 で賞施 して居 る虎 をみた。其 の方法 は蕃人 が 毎 日
農耕其他 の用務 で他 出 した婦途 には必 ず若干 の河原蓬 を採取 して婦 宅す る こ とにな っ
て居 て何れ の蕃屋 に入 つて見 て も庭 の片隅 には大な り小 な りの河原蓬 が 晩 の蚊族駆 除
用 として貯 へ られ て居 るの を見受 けた。 同州下 の蕃社 も墓 中州 下 の視 察地 内に於 ける
と同様 集 国蕃社 で あ つ て蕃 屋 を単位 としてではな く蕃社 を単位 として燻煙 をや る。 之
は受持駐在所 で 打 ち鳴 らす鐘 の音 につ れ て蕃社 一 斉 に始 めるのである。 だか ら蚊 は こ
の集 園的燻煙 によって此の蕃社 か ら退却す る。夫れ が夜 の十時頃迄績行す る。 此 の 間
駐在所員 が三 同 も三 同 も巡視 して燻 煙 の賞行状況 、蚊帳 の使用 の適否 を指導す る暑 中
な どは得 て蚊帳 の鬱 陶 しさか ら免 がれ るた め手 、足、頭 を蚊帳外 に出 して寝 て居 るも
のが あるので能 く其 の誤れ る事 を説示 して居 るので近年 は大誰 に於 いて 良好 の成績 を
得 て居 る との こ とである。 250
主 な蕃地 マ ラ リア の 防過封策 として は、統制 的集 団燻煙 の 実施 と蚊帳 の励行 が挙 げ られ
てい る。燻煙 は蕃 屋 単位 で行 うので はな く蕃社 を一 単位 と して実施 し受持駐在 が打 ち鳴 ら
す鐘 で一 斉 に燻煙 を行 う。鐘 を打 ち鳴 らして燻煙 をす る とい うこ とは、間接 的 に時 間 の観
念 を栽培 (植 え付 けて い る)し てい る と言 えるだろ う。燻煙 の実行状況や蚊帳 の励行 を受
持駐在員 が巡 視 を行 い徹底 的防過や厳 全 た る防邊思想 の注入 を為す よ うに努力 してい る と
い える。燻煙 には河 原蓬 251を 用 いて 、農耕や其他 の用事 で外 出 した 際 の帰途 には必 ず河原
蓬 を採 取 しな けれ ばな らな い。
この よ うな防遇対策 が 実施 され、昭和
3年 (1928)に 立案 され た 「蕃人健康 基本調査計
画」 も作業 としては各診療所 にマ ラ リア検 査 の為 の顕微鏡 を配布 した り、医療 関係者 に対
して 「検鏡講習会」を開催す るな どの作業 を行 つた。 252こ れ は森 下薫たち が確 立 した 「血
液厚層法」253と ぃ ぅ検鏡方法 を体得 させ るために開かれ ていたのだ と推測す る こ とができ
る。
蕃 地 医療衛 生事業 で大 きな変化 があるのが 昭和 12年 (1937)7月 の 日中戦争 勃発前後 か
132
ら設 立 され た 「蕃 地衛生組合」 の発 足 で ある。 二つ の蕃 地衛 生組合 の規約 か らどの よ うな
組織 な のかについて簡単 に見てい こ う。
警務局 の 中村 文治 254が 『 理蕃 の友』 で 高砂族衛 生組合規約 を以下 の よ うに紹介 してい る。
花蓮港麻高砂族衛 生組合設置規程
第 一條
支麻長 高砂族 ノ保健衛 生上 ノ改善 向上 ヲ固ル 篤 必要 ア リ ト認 ムル トキハ 高砂
族衛 生組合 ヲ設置 セ シ ムル コ トヲ得
第 二條
ベ
支麻長衛 生組合 ヲ設置 セ シメン トスル トキハ 別記組合 規約標 準 二擦 ラ シム
シ 但 シ必要 二依 り愛更 スルモ 妨 ゲナ シ
ベ
組合 ノ組織 ハ 受持駐在所 匡 内居住高砂族世帯 主全部 ヲ以 テナサ シ ム シ
但 シ土地 ノ状況 二依 り前項 二依 り難 キハ 此 ノ限 ニ ア ラ ズ 此 ノ場合 二於 テ ハ 経 費 ノ負機
第 二條
割合其他 必要事項 ノ協定 ヲナサ シムベ シ
ベ
組合経費 ハ 可成共 同農 園収入 又 は共 同勤労収入等 ヲ以テ充 テ シム シ 、 之 レ
ガ鶯高砂族所要 地 ノー 部 ヲ共 同耕 作 二充 テ シ ムル コ トヲ得
第 四條
第五條
以下略
花蓮港麻 高砂族衛 生組合規約標準
第 二條
本組合 ハ左 記要項 ノ賞践 ヲ期 シ組合 内 ノ保健衛 生 ノ改善向 上 ヲ固ル ヲ以 テ ロ
的 トス
ー 、部落 内 ノ整頓美化 ヲ固 り常 二 之ガ清潔保持 ニカ ムル コ ト
ニ 、住 宅 ノ通風採光 ヲ固 り常 二室 内外 ノ整頓清潔 ヲ怠 ラザル コ ト
三 、便所 ヲ設置 シ汚物 ノ虎 置 ヲ怠 ラザル コ ト
四 、飲料水 ハ 簡易水道 又 ハ 井戸水 ヲ用 ヒ塵芥飛込、汚水滲透 ヲ妨 キ 常 二飲料水 ヲ清 浄
ニ ナ ラシ ムル コ ト
五 、身證衣服 ノ清潔 ヲ保チ飲酒 ヲ慎 ミ常 二健康保持 ニカ ムル コ ト
六 、地物整理及蚊帳 ノ使用 ヲ励行 シ以 テ マ ラ リア 防遇 ノ徹底 ヲ期 スル コ ト
七 、疾病 二封 シテハ 讐療 二信頼 シ祈祷等 ノ弊習 二促 ハ レサル コ ト
第 四條
本組合 ハ 前條 ノロ的 ヲ達 スル 鶯 左 ノ事業 ヲ行 フ
ー 、共 同作業 、共 同貯金
二 、薬 品及 医療器具 ノ共同購入
三 、簡易水道及井戸、共 同浴場等衛 生上 ノ共同施設 255
以 上 の史料 よ り花蓮港麻高砂族衛 生組合 の組織 は受持駐在所 匝 内居住 高砂族世帯 主全部
で構成 され 、組合経費 は共 同農 園 の収入や 共 同勤労収入 を経費 とし、組合 の事業 としては
部落 内 の美化作業 、住 宅改善、地物整理や蚊帳 の励行 、便所 の設置 な どマ ラ リア防邊 を中
心 に実施 し、保健衛 生の向上 を図 るた め の組合 であ り、共 同作業 、共 同貯金 、薬 品及 医療
器具 の共 同購 入、簡易水道及井戸 、共 同浴場等衛 生上 の共 同施設 の設置等 を行 つてい る。
高雄州潮州郡 マ カザヤザヤ監視 区内衛 生組合規約 について は『 理 蕃 の友』 に以下 の よ う
に記 され てい る。
133
高雄州潮州郡 マ カザヤザヤ監視 区内衛 生組合規約
本組合 ハ組合員 ノ健康 ヲ保持 シ福祉 ヲ増進 シ兼 テ獨 立 自螢 ノ精神 ヲ涵養 シ併
セ テ 自給 自足 ノ観念 ヲ育成 シ産業能率 ノ増進 ヲ固ル ヲ以 テ ロ的 トス
第 一條
本組合 ハ 前條 ノロ的 ヲ達 スル 鶯 メ左 ノ事業 ヲ行 フ
組合費 ヲ醸 出 シ組合員 ノ疾病治療 二 際 シ官給薬 品 二不足 ガ生 スル トキハ 組合費 ヲ
第 二條
イ
以 テ補填 ス
ロ 毎月定例 的 二社 内 ノマ ラ リア防邊作業又ハ 社 内 ノ清掃作業 ヲ行 フ
ハ
ニ
持末組合員 ノ沐浴施設 ヲ為 シ身證 ノ清 潔及被服類 ノ洗淡 ヲ奨働 ス
家屋便所 ノ改造 二付組合員協カ ー 致善虎 スル コ ト
其 ノ他組合 主脳部 二於テ保健 上必要 卜認 メタル 事項
第 四條 本組合 二代表者 並 二幹事 ヲ置 ク代表者 ハ 営分 ノ内社長勢力者 之 二 営 り幹事 ハ
ホ
各勢力者 之 二 営ル
第 五條
代表者 並 幹事 ハ療養指任者 卜連絡 ヲ密 ニ シ其指示 二服 スル コ ト
第 七条
會費 ノ徴収 ハ 幹事 之 二 営 り月末現在人員 ヨ リー 人 一 箇月一 銭 トシ翌月 一 日之
ヲ徴収 ス 256
以 上の史料 か ら高雄州潮州郡 マ カザヤザヤ監視 区内衛 生組合 は代表者 と幹事 とい う役職
を設 け、上記 の役職 の人 は療養担 当者 (公 讐 や警察官 )と 連絡 を密 に取 りなが ら指示 に従
い 、 マ ラ リア防遇作業等 に従事す る。 この組合 の 目的 は健 康保持・ 福祉 の増進 を図 り、独
立 自営 の精神 を涵養 させ 、 自給 自足 の観念 を育成 し産 業能 率 の増 進 を図 る こ とであ つた事
が分 かつた。
以 上のよ うに「蕃地衛 生組合 」は官費 な どによる経費節約 の為 に設立 され ただ けでな く、
健康保持 。福祉 の増進 を図 り、独 立 自営 の精神 を涵養 させ 、 自給 自足 の観念 を育成 し産 業
能率 の増 進 を図 る ことで あ り、 マ ラ リア防遇作業 な どに従事す るこ とに よつて衛 生 の習慣
化 を図る こ とが 目的 にあ つた。
さらに戦局 が進 む につ れ て昭和 14年 (1939)頃 か らマ ラ リア の特効薬 で あるキ ニー ネ の
配給 な どが滞 るよ うな こ とが起 こるよ うにな るの を見据 えて理蕃課 はキ ニー ネ よ り安価 な
258と ぃ う書物 を
薬品の導入 257を 検討 した り、
『 高砂族調査書 第六編 薬用草根木皮』
編纂 し、キニーネ の代替薬 としてグアバ の葉 を煎 じて飲 む とい う民間療法 を西洋医学 の中
に取 り入れて、施薬治療を行 う場合 もあつた ことが明 らか となった 259。
134
小結
原住 民 に対す る理 蕃事業 は反抗 防止 とい う側 面だ けでな く、授 産政策 とい う側 面 につい
て検討す る と、多 くの奥地原住 民 を山脚 地帯 に集 団移住 させ 、警察管 理 を強 め 、原住 民 の
反抗 を防止す る こ と、 さらに輪耕 作 を止 め、定 地耕 作 による水 稲等多種類 の作物栽培 、狩
猟 。銃器所有 を制 限 し、牧畜 。養蚕 を推進 し、原住 民 の生 活 安定化策 で あ つた。即 ち 「善
良な農 民」 へ の育成策 で あ った。 しか し、実施 上 において マ ラ リア の流行 が あ り、必ず し
も総督府 に とつて も、原住 民 に とつて も満 足ではないが、農牧業 上 の発展 は実現 され た。
38年 (1905)に 嘱託 医が配 置 され 、医薬 へ の信
頼性 を高 めるために衛 生講話 な どを開催 した。 大正 5年 (1916)に は嘱託 医 よ り高度 な専
さらに蕃 地医療衛生 を概観す る と、明治
門性 を持 っ た 「公 医」 が設置 され た。彼 らは警 察 と協力 して蕃 地 医療衛 生 に携 わ り、種痘
や蕃地 マ ラ リア の 防過等 に尽力 した。 また昭和 にな る と各地 で建 設 ラ ッシュ とな った 「優
良蕃社 」建設 が推進 され 、衛 生意識 の 向上 が 図 られ た。 そ の 事業 と併行 して蕃 地衛 生組合
が建 設 され 、 マ ラ リア防遇 な どの衛 生事業 に 自ら従事す るよ うにな ったが 、時勢 の悪化 な
どに よって 医薬 品な どの供給 が滞 るよ うにな り、民間療法 を西洋 医学 に取 り入れ る形 で蕃
地医療衛生 を実施 して きた。 しか し、蕃地医療衛 生は検 血 結果 (表
3-I)に よる と、昭和
8年 (1933)か ら同 12年 (1937)ま での原 虫率 は 4.26%か ら 6.15%ま での間 を上下 してお
り、最終調査年 にお いて も 4.78%と 高 い数値 を示 したままで あ った。 ここか ら少 な くとも
この 時期 にお ける蕃地防遇施行地域 のマ ラ リア感染状況 は大幅 には改善 され なか ったが 、
原住 民 へ の衛 生の習慣化 はある程度体得 され つつ あ つた と推測 できる。
表
3‐
I
理 蕃 地区 二於 ケル 検 査成 績
年卵
l
1988娑
栓 血 総 数 原虫 賜 性 者
297.815
14.618
原 虫率
防掲 縮 行個 所 数
4.91
68
72
62
349,375
14,892
4.26
292308
443296
448047
451997
17966
615
432
489
478
19151
21921
21584
71
7′
1933年
1934年
19354=
1986`=
1987年
72
=
マ
アの
森下薫『 ラ リ
疫学 と予防― 菫溝 に於ける日本統治時代 の記録 と研究』
菊屋書房
1976年 31頁 より筆者作成
135
第 四章
学校教育 にお ける衛 生教育及 び マ ラ リア防遇教育
本 章 にお いて は、台湾初等教 育 にお けるマ ラ リア防過教育並 衛 生教 育 について 明 らか に
したい。第 一 節 では台湾 にお ける初等教育 の歴 史 の概 要 を述 べ 、第 二節 では台湾人子弟 が
通 つ た公学校 の 国語教科書 で現在復刻 され てい るものの概要 につい て述 べ 、第 二節 で は公
。
学校 国語教科書や『 国語科話 方教材』 に記載 され て い るマ ラ リア防過 衛 生 記事 の 内容 に
つい て考察 したい。 第 四節 では公学校理科教科書 の概要 を述 べ 、第 五節 では理 科教科書 に
掲載 され てい る衛 生 に 関す る内容 を取 り上 げ考察す る。第 六 節 で は部落振興会 の 中で結 成
され た 国語塾 の概 要 を述 べ 、
『 国語塾読本』 に掲 載 され てい る衛生記事 の 内容 を明 らかに し
て 、台湾初等教育 にお ける衛 生教育 を明 らか にす る。従来 の研究 で は 日本統治期 台湾 の衛
生教育 につい て論 じた論文 がな く、 この論文 は 日本統治期 台湾 での衛 生教育 を論 じた画 期
的 な論文で ある。 また この章 を設 けた理 由 としては、衛生思想 の近代化 をあ らゆる手段 を
用 いて衛生習慣 を習得 させ 、近代化 され た民衆 へ誘 お うと奮 闘 した。 そ の一つ の手段 が学
校教育 の 中 の衛 生 教育 で あ り、優 良部落 建設 の 中で も衛生的習慣 を身 に つ ける こ とが重要
な案件 であ つたか らである。
第 一節
明治
台湾 にお ける初等教育 の歴史
28年 (1895)台 湾領有後、同年 5月 直 ちに蔓湾線督府 は民政部 に学務部 を設置 し部
260や 国府種武 の『 蔓潟
長 に伊澤修 二 を任命 した。伊澤修 二の研究 としては、揚村剛 の研 究
に於 ける国語教育 の展 開』第 一 教育社 1931年 がある。 この二 つ の論文 に よる と同年 7月
伊澤修 二 は芝 山巌 に学務部学 堂 を開設 し台湾人 に対す る 日本語教育 を開始 したが 、 これ が
日本統治下 の台湾 にお ける学校教育 の濫場 である。明治 29年 (1896)に は蔓湾線督府直轄
の 国語 学校 と国語伝 習場 が 開設 され た。 国語 学校 は師 範部 と語学部 に分 かれ てお り、国語
。
伝習所 は甲科 と乙科 に分 かれ ていた。 甲科 では 15歳 以 上 30歳 以下 の者 に国語 読書・ 作
。
文 の初歩 を半年 間教 え、 乙科 では 8歳 以 上 15歳 以下 の台湾人 の子弟 に主 に国語 読書・ 作
文 。習字・ 算術 を 4年 間教 えた 261。 国語伝 習所 の乙科 を台湾初等教育 の始 ま りと捉 えるこ
31年 (1898)に は公学校令 。公学校規則 が施行 され公 学校 が設 立 され た。
。
。
公学校 は 8歳 以 上 14歳 以下 の台湾人 の子弟 を対象 に 6年 間 の修業年 限 で修身 国語 読書・
とができる。明治
日本 の小学校 に相 当す る。公 学校令 。
(1907)に は 8年 制 。4年 制 の公学校 も設 立 され
作文 。習字・ 算術・ 唱歌 。体操 を教 えるもので 262、
公学校規則 は何度 か 改 正 され、明治
たが 、大 正 元年 (1912)に
40年
8年 制 の公 学校 は廃 止 され た 263。
大正
8年 (1919)1月
に台
湾教育令 が公布 され 、学校 の 目的や入 学資格 が確 定 された。 この 台湾教 育令 は台湾人教育
を 日本 内地並 み に行 うとい う規定 であ つたが 、大 正 11年 (1922)2月 に公布 され た新 台湾
教育令 では、台湾人 と内地人 の 区別 をな くす 内台共学 とい う制度 が確 立 され た。 これ に よ
り日本語 を解す る台湾人 は内地人子弟 の為 に設 け られ た小学校 に入学 で き るよ うにな つた。
136
264そ の後昭和 16年 (1941)に 小学校 と公学校 は国民学校 とい う名称 に統一 され 、昭和
18年 (1943)に は義務 教育 とな つた 265。
公 学校 の就学率 につい ては以下 の表
4-I(明 治 31年 ∼ 昭和 7年
)、
表
4-Ⅱ
(昭 和
∼ 同 18年 )の 通 りである。
表 4-I
年度別公学校一覧
年度
学校敦
教 員数 (人 )
公学校 令実施 当時
就学率 (%)
2,396
明治 31年 末
明治 32年
児童数 (人 )
247
94
204
237
明治 33年
453
明治 34年
12,363
16,315
明治 35年
553
18,845
652
21,406
明治 37年
620
23,178
3.82
明治 38年
677
27,464
4.66
明治 36年
146
3.21
明治 39年
180
31.823
明治 40年
190
34,382
4.50
明治 41年
203
35,898
4.93
明治 42年
214
966
38,974
5.54
明治 43年
223
1,017
41.400
5。
1,146
44,670
6.06
明治 44年
76
大正元年
248
1,282
49,554
大 正 2年
260
1,345
54,712
8.32
大正 3年
270
1,472
60,404
9.09
大正 4年
284
大正 5年
305
1,805
75,545
11.06
大正 6年
327
2,224
88,099
13.14
大 正 7年
394
2,710
107,659
15.71
大正 8年
438
3,375
125,135
20.69
大 正 9年
495
4,013
151,093
25.11
4,673
173,795
27.22
大 正 10年
66,078
137
9年
4,942
195,783
28.82
大正 12年
5,064
209,946
28.60
大正 13年
5,095
214,737
大 正 11年
大正 14年
592
728
昭和元年
213,948
29.00
210,047
28.42
昭和 2年
744
5,109
211,679
29.18
昭和 3年
754
5,248
231,998
30.68
昭和 4年
758
5,358
248,693
32.64
5,492
265,788
33.76
昭和 5年
昭和 6年
762
5,544
283,976
35.44
昭和 7年
769
5,764
309,768
37.02
出典)『 台湾教育沿革史』台湾教育会
表 4-Ⅱ
1939年 408∼ 410頁
公学校教育を受けた本島人児童数
年度
児童数
266(人
)
就学率 (%)
昭和 9年 度
317,735+(3,484)
39.33
昭和 10年 度
346,402+(3,619)
41.47
昭和 11年 度
379,196キ (3,630)
43.79
昭和 12年 度
424,573+(3,680)
46.69
昭和 13年 度
489,241キ (4,931)
49.82
昭和 14年 度
539,082キ (5,496)
53.15
昭和 15年 度
605,748キ (6,375)
57.57
昭和 16年 度
627,049■ (5,807)
61.60
昭和 17年 度
ア)
65.82
昭和 18年 度
760,912キ (6,422)
イ)
昭和 19年 度
ウ)
工)
昭和 20年 度
オ)
72.00
出典 )奈 茂豊『 中国人 に対す る 日本語教育 の史的研 究』筑波 大学博 士論文 1977年 135頁
鵬ヒ アイ ウエ オは全て数字 の記載 な し]
以 上の表
4-I,表 4-Ⅱ よ り明治 32年 (1899)の 就学率 が 2.04%で あつたが 、大正 8年
(1919)で 約 10倍 の 20.69%、 昭和 7年 (1932)に は 37.02%と な った こ とが分 か る。 よ
うや く昭和 14年 (1939)に 就学率 が 50%を 超 え、昭和 17年 (1942)に は 65.82%と な っ
た。 昭和 18年 以降は義務教育化 した ことに よ り、 100%入 学可能 にな ったが 、昭和 20年
(1945)の 就学率 は 72.00%に とどま つてい る。 昭和 20年 の就学率 が 72.00%に とどま っ
てい た とはい え、明治 31年 (1898)に 公 学校 が設立 され てか ら昭和 20年 に至 るまで、台
湾人 に対す る教育 は着実 に普及 してい つ た と言 える。尚大 正 11年 (1922)以 降内台共学 と
138
な つたため、小学校 で学 んだ台湾人児 童 の数 も加 えれ ば大正 11年 以降 の就学率 は も う少 し
高 くなるもの と考 える。
公学校 国語教科書 について
第 二節
。
南天局有限公 司 が平成 15年 (2003)に 日本統治時代 の五 種 の台湾公 学校 国民学校 国語
教科書 を復刻 した。 五 種 のす べ ては蔓湾線督府 よ り発刊 され た もので あ る。 五 種 とも全 十
二巻 で あ り、6年 制 公 学校 にお いて は各学年 で 二巻ず つ 教授 され た。例 えば第 一 種 は明治
か けて第 一版 が発行 され た もので あるが、一 。二巻
34年
ら同 36年
(1903)に
は 1年 生が使用 し、 三・ 四巻 は 2年 生、五・ 六巻 は 3年 生 、 七 ◆人巻 は 4年 生 、 九・ 十巻
(1901)か
5年 生、十 一 。十 二巻 は 6年 生が使用 した。第 二種 か ら第五種 も同 じ教授方法 で ある。
第 二種 は大正 2年 (1913)か ら同 3年 (1914)に かけて第 一版 が発行 され、第二種 は大正
は
12年 (1923)か ら同 15年 (1926)に か けて、第 四種 は昭和 12年 (1937)か ら同 17年 (1942)
にか けて第 一版 が発行 され た。第 五 種 は昭和 17年 (1942)か ら同 19年 (1944)に か けて
第 一 版 が発行 され た もので 、コク ゴ 。こ くご 267全 四巻 と初等科 国語 全人巻 、合計全十 二巻
か ら成 つてい る。 また明治 29年 (1896)∼ 同 33年 (1900)に は『 国語讀本初歩』や『 国
語話方教材』 がある。 これ らの公 学校国語教科書 に関する研究に磯 田一雄 の『 皇国の姿 を
追 って一教科書 にみる植民地文化史』268ゃ 薬錦堂の『 日本像台初期『 國語』教科書之分析』
269等 がある。
第二節 公学校国語教科書に見えるマ ラリア防邊記事・衛 生記事
(1)『 国語科話方教材巻-270』 第一学年第 11課 「カオオアライマス」は以下のよ うに
記 されてい る。
カオオアライマス
タライオダシマス ユオク ミマス
ミズオサシマス
テヌグイオハズシマス
ソレオシボ リマス カオオフキマス テオフキマス
テヌグイオユニツケマス ソ レオシボ リマス ソレオカケマス ユオステマス
ソレオユニツケマス
タライオシマイマス
以上の史料 より明治 33年 (1900)に は第一学年 に、顔や手を洗 うことの大切 さと清潔文
化 。衛 生思想 を教育 とい う手段 を使 つて習慣化 させ根付 かせ よ うとしてい ることが読み取
Ъる。
オ
(2)『 国語科話方教材巻一』第一学年第 17課 「ネマス」は以下のよ うに記 されてい る。
ネマス
チチハハニ レイオ シマス ネマニハイ リマス
フ トンオシキマス
クツオヌギマス ネダイ ニアガ リマス キモ ノオヌギマス
ソレオカケマス ネマ キオキマス ハ タキデハ ライマス カヤオオ ロシマス
マ クラオナオシマス
139
ヨコニナ リマス フ トンオキマス ネ ム リマス
以上の史料 より明治 33年 に第一学年 に、蚊 に刺 されないための 日常習慣 として寝 るとき
には蚊帳を吊るして寝るよ うにと説 いてい る。 ここか らマ ラリア予防 としての蚊帳奨励政
策 が読み取れ る。 この二つの『 国語科話方教材』 では動作 を交えて教えてい る。 この教授
法をグアン式教授法 271と ぃぃ、行動を伴 うことでより習慣化 させやすい効果 があつた と言
える。
(3)『 台湾教科用書 国民読本』 (明 治 34年 (1901)∼ 明治 36年 (1903))同 教科書、
三巻、第二課、「アサノシ ゴ ト」 には次 のよ うに記 している。
コノコ ドモワ、キョオダイデア リマス。アニ ワ、マ ドノ トフアケマ シタ。オ トオ トワ、
ホオキオモ ッテキマ シタ。 コ レカラ、ヘヤノソオジオスル ノデア リマス。
出典 )『 台湾教科用書
国民読本』 (明 治 34年 (1901)∼ 明治 36年 (1903))同 教科書 、
三巻 、第 二課 、アサ ノシ ゴ ト 台湾総督府学務部
南天書局有 限公 司
2003年 H月
に
復刻
以 上 の史料 か ら公学校 2年 生 に対 し、清掃 をす るこ との大切 さを教 えてお り、清潔文化・
衛生思想 を教育 とい う手段 を使 つて根付 かせ よ うと台湾総督府 が してい る こ とが読み取れ
る。
(4)『 台湾教科用書 国民読本』 (明 治 34年 (1901)∼ 明治 36年 (1903))同 教科書、三
巻、第十七課、「ヨル」には次のよ うに記 されている。
コレハ、 コ ドモガ、イマ、ネ ヨオ トスル トコロデア リマス。アニハ、ランプニ、 ヒオ
ツケテ、オ トオ トハ、カヤ リオタイテイマス。 コレカラ、キョオダイイ ッショニ、ネ
140
ルノデア リマショオ。
出典 )同 掲書
ヨル
(明 治
34年 (1901)∼ 明治 36年 (1903))同 教科書、三巻 、第十 七課 、
台湾総督府学務部
南天書局有限公 司
2003年 H月 に復刻
以 上の史料 か ら子 どもが寝 る ときに 「カヤ リ」 (蚊 取線香 )を 燻煙 して蚊 に刺 され ない よ
うに してい る とい う話 が載 つてい る。 さらに文章 には無 いが 、挿絵 の寝 室 には蚊帳 が 吊る
され てお り、 これ も蚊 に刺 され な い ための 日常習慣 と して 台湾総督府 が勧 めていた もので
ある。 これ らか ら公学校
2年 生 に対 し蚊 に刺 され ない よ うに注意 しマ ラ リアに罹 る ことを
防 ご うとい う衛 生思想 が述 べ られ てい る。 これ が所謂衛 生教 育 の一 環 で あ つた とい える。
また挿絵 を使 うこ とによつて視覚的 に教 えるこ とが出来、 日本 の 明治時代 の教育 の 「掛 図」
と同様 の効果 がある と言 える と思 う。
(5)『 台湾教科用書 国民読本』 (明 治 34年 (1901)∼ 明治 36年 (1903))同 教科書 十
一巻 、第十 七課
「ペ ス ト病」 には以下 の よ うに記 されて い る。
ペ ス トワ、博染病 デアルカ ラ、一 人此 ノ病 ニ カ ゝル ト、タチマ チ多 ク ノ病人 ガデ キル 。
此 ノ病 ワ、ハ ジメニ 、鼠 カ ラ人 ニ ウツル ユエ 、墓湾 デ ワ、老鼠病 トモ イ ウ。ペ ス トワ、
最 モ オ ソ ロシイ病デ 、其 ノハ ゲシイ ノニ カ ゝル ト、書者 ノ薬 モ キカナイデ 、 死ヌ モ ノ
ガ 多イ。 ペ ス トノ毒 ワ、バ クテ リア トイ ウ ロニ 見 エ ナイ ホ ド、 コマ カイ モ ノデ アル 。
ソノ毒 ガ 、人 ノロヤ疵 カ ラ膿 中エハ イ ッテ 、病 オ起 ス ノデアル 。 ペ ス トノ毒 オ フセ グ
ニハ 家 ノ中 二 、鼠 ガイナイ ヨオ ニスル ガ 、第 一デアル 。又、 ロカ ラ入 ル 毒 ワ、 タイ ガ
イ食物 ニ ツイテイ ル ノデアル カ ラ、生水オ飲 ン ダ リ、生物オ タベ タ リシナイデ 、 ヨク
煮 夕物オ タベ ル ガ ヨイ 。又疵 カ ラ證 二入 ル 毒 オ フセ グニハ 、平 生 蚊 ナ ドニ 、膚 オサ ゝ
レナイ ヨオ ニ スル ガ ヨイ。 又 ケガオ シテ疵 ノデ キタ トキ ワ、 ス グニ薬 オ ツケテ 、洗 ウ
ガ ヨイ ノデアル 。ペ ス ト病 ノ外 二 、マ ダ種 々 ノオ ソ ロシイ博染病 ガアル ガ 、其 ノ 中デ、
コ レラ病 ワ、最 モ ウツ リヤ ス イ ユエ 、 ユ ダ ンオスル ト、 タチ マ チ 多 クノ、病人 ガデ キ
ル 。 又 マ ラ リア モ 蔓溝 二 多イ病デ アル 。 ケ レ ドモ 、讐者 ノイ ウ トオ リニ シテ 、平 生 、
倦 二氣 オ ツ ケテイ レバ 、ケ ッシテカ ヨオナ博染病 ニ ワ、 力 ゝラナイ ノデ アル 。
141
今 “^
,,
,
■
一
,
34年 (1901)∼ 明治 36年 (1903))同 教科書 十一巻 、第十 七課 、
ペ ス ト病 台湾総督府学務部 南天書局有限公 司 2003年 11月 に復刻
出典 )
同掲書
(明 治
以 上 の史料 か らペ ス ト病 は伝染病 の一 種で あ り、 この病 にかか る と忽 ち多 くの病 人 が発
生 す る。 この病 の病原菌 は鼠が持 つ もの な ので対策 と して家 に鼠がでな い よ うに掃 除 を徹
底 した り、捕 鼠 が大 切 だ と教 えて い る。 又生水や 生物 を食
べ た り飲 んだ りせず に煮 沸 して
食 べ るよ うにす るよ うに と食 品衛 生 につ いて説 いてい る。
ペ ス ト病 の他 に コ レラや マ ラ リ
アが取 り上 げ られ て い た。 この こ とか ら当時流行 していた三大病 が この三 つ で あ つ た とい
える。 マ ラ リアに対 しては蚊 に刺 され な い よ うに注意 しな さい と説 いてい る。
(6)『 公学校用
国民読本』 (大 正 2年 (1913)∼ 同 3年 (1914))「 蠅 卜蚊」同教科書
六
「蠅 卜蚊」 に次 の よ うに記 され てい る。
轟 ノ中デ、蠅 卜蚊 ホ ドイヤナ モ ノハ ア リマセ ン。
巻、第 七課
勉 強 シテヰル時 、タクサ ン タカ ッテ末テ、オ フ トス グニ ゲル ガ 、ニ ゲタカ トオ モ フ ト、
ス グマ タ ヨ ッテ末 マス。蠅 ハマ コ トニ ウルサイ モ ノデ ス。涼 ンデヰ ル時 、ソ ッ ト末 テ 、
トベ ナイホ ド人 ノ血 ヲス ッテ 、 ニ ゲテイ キ マス。蚊 ハ ホ ン トニニ クラ シイ モ ノデ ス。
ソ レバ カ リデ ハ ア リマセ ン。 蠅 ノ トマ ッタ食物 ヲ食 ベ ル ト、腹 ヲイ タメル コ トガア リ
マ ス。蚊 ニササ レル ト、 マ ラ リヤ ニ カカル コ トガア リマ ス。 ヨク氣 ヲツケナ ケ レバ ナ
リマセ ン。
以下 の史料 よ り蠅 と蚊 は害 虫で不衛 生 な ものである とい う話 が載 つてい る。公学校 3年
生 に対 し、蚊 に刺 され る とマ ラ リア に罹 る こ とが あるので十分注意 しな さい と教育 してい
るこ とが分 か る。 また同様 に蠅 が とま つた食 べ 物 は食 べ な い よ うに と教 育 してい る。
(7)『 公学校用
「種
国民読本』[大 正 2年 (1913)∼ 同 3(1914)]同 教科書、六巻、第十人課
痘」について以下のよ うに記 している。
アル家 ノ子供ガ種痘フイヤガッテ、泣イテヰマシタ。スル ト父ハ、「オ トウサ ンノ小サ
『 一度ハ皆 コノ病
イジブンニハ、時時天然痘 ノハヤッタコ トガアッタ。 ソノ頃 ノ人ハ、
』 トキメテヰタ。重イ時ハ死 ンデシマ フシ、タスカッタ人デモ、隣ノ
氣ニカカルモノ。
142
ヲヂサ ンノヤ ウエ顔 ニ ア トガ ツイテイ ツマ デ モ トレナイ 。 トコロガ百年 ア マ リ前 二2
ェンナ ー トイ フ人 ガ色色 苦 心 ヲシテ、種痘 ヲハ ツメイ シタ。 ソ レガ ダ ンダ ン世 ノ中ニ
ヒロマ ッテ、今デハ、種痘サヘ ス レバ、天然痘 ニカカラナイ コ トニナ ッタ。
『 イヤダ』
ナ ドトイ ッテヰル ト、イ ツアノオ ソロシイ病氣 ニナルカモ知 レナイ。早 ク行 ッテ、種
痘 ヲシテモ ライナサイ。」子供ハスグ母 トーショニ讐者 ノ所へ行 ッテ、種痘 ヲシテモ ラ
ヒマシタ。
・ジェンナ ー 272に よる種痘 の発 明に よつて天然
以 上 の史料 か ら父 の話 の 中でエ ドワー ド
痘 にはかか らない よ うにな った こ とを紹介 し、種痘 の大切 さを公学校
3年 生 に教 え、衛 生
教育 を行 つてい る。
(8)同 教科書、第十 一巻 、第十 二課 、「俸染病」 に以下 の よ うに記 され てい る。
病 氣 ノ中デー番 恐 ロ シイ モ ノハ博染病 デ ス。俸染病 ニハ 大抵 人 ノ ロニ 見 エ ナイ 程 小サ
ナ病 菌ヤ原 虫ガア ッテ 、 ソ レガ 甲カ ラ 乙、 乙カ ラ丙 トイ フヤ ウニ 、多 クノ人 二移 ッテ
行 クノデ ス。病氣 ノ種 類 ニ ヨ ッテ ハ 其 ノ本 ガマ ダ ヨク分 ッカテヰナイ ノモア リマス ガ 、
又其 ノ ウッテ行 クス ヂ路 マ デ モー 々ハ ッキ リ分 カ ッテヰ ル ノデ ア リマ ス。例 ヘ バ ペ ス
トガ鼠カ ラ博 ハ リ、マ ラ リヤガ蚊カ ラ ウツル トイ フ コ トハ 、誰 モ 知 ッテヰル通 リデ ス。
又 コ レラ 。赤痢・ 腸 チ フスナ ドハ 病人 ノ使 ッタ物 ヤ汚 レ物 ナ ドニ ツイテヰ ル 病菌 ガ 、
水 ヤ其 ノ他 ノ飲食物 ナ ドニマ ジ ッテ 、外 ノ人 ニ ウツル ノデ ス。天然痘 ニハ 種痘 ノ法 ガ
出来 マ シタシ 、 ジフテ リヤ ニハ 注射 ノ法ガ奎 明サ レマ シ タカ ラ、今デ ハ 昔 ホ ドノ心配
ハ ア リマセ ンガ 、 ソ レデ モ ユ ダ ンフスル ト大 ヘ ンナ ロニ ア ヒマス。 蔓彎デ多イ博染病
ニハマ ラ リヤ ノ外 二肺病ヤ トラホー ムガア リマス。 此 ノ病 氣 ハ ウツ リ易 クナ ホ リニ ク
イ モ ノデ ス カ ラ、一 層氣 ヲツケナケ レバ ナ リマセ ン。 スベ テ博染病 ハ 恐 ロシイ勢デ廣
ル ト、其 ノ人其 ノ家 ダケ ノ不 幸デ ハ ア リ
マセ ン。丁度 自分 ノ家 カ ラ火 事 ヲ出シタ ト同 ジヤ ウニ 、 アタ リ近虎 へ 非常 ナ迷 惑 ヲカ
ケル コ トニナ リマ ス。 ソ レデ ス カ ラ平生衛 生 ノ コ トニ氣 ヲツケテ 、豫 防 。消毒 ノ心得
ガル モ ノデ ス カ ラ、若 シー 人デ モ コ レニ ハ
ヲ厳重 二守 ラナケ レバ ナ リマセ ン。
。
。
以 上 の史料 か ら伝染病 の種類 には、ペ ス ト ◆マ ラ リア・ コ レラ 赤痢 腸 チ フス・ 天然
痘 。ジフテ リア・ 肺病・ トラホー ム等 があ り、ペ ス トは鼠か ら、マ ラ リアは蚊 か ら うつ る、
コ レラ・ 赤痢 。腸 チ フスは病人 が使 つた ものや汚物 か ら うつ る とい う話 が載 ってい る。 ま
た天 然痘 。ジフテ リアは治療法 (種 痘法・ 予防注射 )が 発 明 され たが油断できな い こ と、
肺病や トラホ ーム は うつ り易 く治 りに くいので 要注意 であるこ とが書かれて い る。公 学校 6
年 生 に対 し、伝染病 は勢 い よ く広 が り火 事 を出 した時 の よ うに周 囲 に迷惑 をか ける ので 、
伝染病 を予防す る努力 を怠 って はい けない と教育 してい る こ とが分 かる。
143
(9)『 公学校用
国民読本』 [大 正 12年 (1923)∼ 同 15(1926)]同 教科書 、六巻、第 七 課 、
「蚊 とマ ラ リア」 について 以下 の よ うに記 され て い る。
阿金 は不意 に頬 をた ゝかれ た ので お どろきま した。
「は ゝゝゝ、 び つ くり したかね。 わ るい蚊 が とまつ てゐた ものだか ら。」
「お とうさん、蚊 によいの とわ るいのがあ ります か。」
「よい蚊 といふ の はないがね 。 あた りまへ の蚊 と、 ア ノ フェ レス といつて マ ラ リヤ を
うつ す蚊 と、 二い ろある。今 お前 の頬 に とまつ てゐた の は、ア ノフ ェ レス で あつ た。
これ ご らん、あた りまへ の蚊 とちがつ てゐ る ところが あるだろ う。」
父 は今 た ゝい た蚊 を とり上 げ て 、阿 金 の手 のひ らに のせ ま した。阿 金 は一 `い にみてゐ
ま したが 、「あ、お父 さん、羽 に黒 い まだ らがあ ります ね。」
「さ うだ。それ で この蚊 の こ とを、はまだ ら蚊 ともいつてゐる。あんま り小 さいか ら、
まだ らで見わ ける こ とはち よつ とむ づ か しいが、 とまつ てゐ る ところを見 る と、す ぐ
分 る。」 といつて 、父 はあた りまへ の蚊 とア ノフェ レスの蓋 をかきま した。 さ う してそ
の ちがひ を話 して 聞 かせ ま した。す る と阿金 は心配 らしい顔 を して 、
「ではお とうさん、 この蚊 に さ ゝれ る と、きつ とま らりや にな るのです か。」
「いや 、そ んな こ とはない。 ア ノフ ェ レス は只 マ ラ リヤ の毒 を うつ す だ けで、 自分 に
「それ はか うだ。今 こ ゝ
「どんなに してその毒 を うつす のです か」
は毒 はな いのだか ら。」
にマ ラ リヤ の毒 をもつ てゐ る人が ある とす る。ア ノフ ェ レス が末てそ の人 の血 を吸ふ。
す る と病人 の もつ てゐ る毒 がア ノフ ェ レス に うつ る。 そ のア ノフ ェ レス が とんで行 つ
て 、別 の人 を さす。毒 は さ ゝれ た人 に うつ る。 といふわ けな のだ」
「今私 を さした蚊 は毒 をもつ てゐたでせ うか。」「なに大丈夫 だ。 このあた りはマ ラ リ
ヤ の毒 を もつ てゐる人 はゐな いか ら、 い くらア ノフ ェ レスがゐて も心配 はな い。」
父 がか ういひ ま したので 、阿 金 は急 に元氣 になつ て 、 ア ノフ ェ レス を手 のひ らに のせ
たま ゝ、母 の所 へ 走 つ て行 きま した。
出典) 『公学校用 国民読本』[大 正 12年 (1923)∼ 同 15(1926)]同 教科書、六巻、第七課、
蚊 とマ ラリア 台湾総督府学務部 南天書局有限公司 2003年 11月 に復刻
以 上 の史料 よ り蚊 には、普通 の 蚊 とマ ラ リアを うつ す蚊
144
(ア
ノフ ェ レス)が あ り、 ア ノ
フェ レスの特徴 は羽 の黒 い まだ らである とい う話 が載 ってい る。 またア ノフ ェ レス はマ ラ
リア原 虫を媒介す るがア ノフ ェ レス 自体 には も とも と毒 がない とい うこ と、 マ ラ リア患者
の血 液 を吸 つたア ノフ ェ レス が他 の人 にマ ラ リア原 虫 を うつ す とい うこ とが詳細 に父 と阿
金 の会話 を下 に書 かれ てい る。 公 学校
3年 生 の教科書 にア ノフ ェ レス に関す る詳細 な内容
が記載 され てお り、早 い 段階で蚊 に対 しての 医学的な知識 を教 え、科学的 にマ ラ リア防邊
教育 を行 つた ことがわか る。
これ らの史料 よ り大正
12年 には学校教育 の 中に本格的 に取 り入れ た とい うこ とであ り、
台湾総督府 は学校教育 に よるマ ラ リア防遇 を行 い 、幅 広 い衛 生思想 の普及や衛 生 教育 を行
つた とい うこ とが分 か る。
第 四節
公学校理科教科書 につい て
公 学校理科教科書 に関す る先行研究 としては周慧茄 の研 究 273が ある。そ の論文 に よる と
公 学校理科教科書 は第 一 巻 ∼第 二巻 まで あ り、第 一 巻 は公学校 4年 生用 、第 二巻 は公 学校 5
年生用 、第 二巻 は公 学校
第五節
6年 生用 である。
公 学校理科教科書 に見 えるマ ラ リア防過記事 。衛 生記事
(1)『 公学校用理科教授 書第 2巻 』 (台 湾総督府 1915年 )第 19課 「げん ご ら う、や ご、
ぼ うふ り、ひ る」 には以下 の よ うに記 してい る。
一 、げん ごら う
げん ご ら うは稀大 な る黒色 の 昆轟 な り。池等 に棲 み脚 にて巧 み に水 中を泳 ぎ、小 さき
魚 、お たま じゃ く しな どを捕 へ 食 ふ 。 二 封 の翅 あ りて前翅 は厚 く硬 く、後翅 は薄 くし
て飛 ぶ用 をなす。 常 に一の池 の み止 ま らず 、夜 間飛 び 出で て他 の池 に移 る。 げ ん ご ら
うの幼轟 は袷細長 き轟 に して膿柔 らか く して後端尖れ り。脚 あれ ども翅 な し。親 と同
じ く小 さき魚 、お たま じゃ くしを捕 へ食 ふ 。
二 、や ご
や ごは膿泥 の如 き色 を呈 し、 三 封 の脚 を以 て水底 を旬 ひ 歩 く。頭 の 下面 にある 国の後
ろよ り長 き もの 出づ 。 そ の 中程 にて肘 の如 く屈伸す るす るを得 、先端 は鋏 の如 くなれ
り。之 を用ひ て小 さき轟 を捕 へ て食す。や ごは トンボの幼轟 に して成長す れ ば、草 の
茎 を上 りて水上 に 出 で 、皮 を脱 して 後 トンボ とな る。 トンボはや ごの成轟 に して 、 二
封 の薄 き翅 あ りて空 中を飛翔 し、小轟 を捕 りて食す。小轟 には害轟 多 きを以 て 、 とん
ぼは吾人 に封 して有 盆 なる故 、妄 りに補殺せ ざるのみな らず、之 を保護す べ し。
三 、 ぼ うふ り
ぼ うふ りは水 中に浮済 し、常 に鎧 を屈伸 して運 動 し、水 中の微 細 な る食物 を食す。 ぼ
うふ りは蚊 の幼轟 に して 、成長すれ ば袷 、そ の膿形 を愛 じ、後脱皮 して蚊 とな る。蚊
は水 中に卵 を産み、卵孵化すれ ばぼ うふ りとな る。
145
蚊 は人 を贅す の み な らず 、 これ に よ りて マ ラ リア の 如 き害毒 を も俸 ふ る も の あ るを以
て 、 ぼ うふ り及 び 蚊 を補殺 す べ し。 ぼ うふ りには油 を撒布 す べ し
四、ひ る
ひ るは環節 多 き罷 を動 か して 済 泳 す 。 日に は三 つ の 鋸 歯状 の 歯 を有 し、前 後 両端 に は
吸盤 を具ふ。 ひ るは吸盤 に よ りて動物 に附着 し、鋸 歯状 の歯 に よ りて皮膚 を傷 け、血
液 を吸ふ て食物 となす。ひ るは人 に附 着 して血 液 を吸 ふ て害 をなす も、亦 この性 を利
用 して 医療 に用ふ る こ ともあ り。
以 上の史料 よ り、 1915年 には公学校
5年 生 に対 し水 中生物 の生態 を教 えるだ けでな く、
ぼ うふ りの ところではマ ラ リア と関連 して教 え、 ぼ うふ らの対処方法 として油 を撒布 して
殺滅 させ る方法 を教授 してい るこ とが分 か る。 また ヒル につい ては 、 ヒル の性質 で あ る血
の凝 固を防 ぐ力 が ある こ とか ら古来 よ り潟血療 法 として用 い られ て きた ことまで教授 して
い る。
『 蔓彎博物教科書
て大正
動物篇 』は牧茂市郎 274が 墓北師範学校 一 年 生用 の 「博物教科書」 とし
8年 (1919)に 編纂 した もので 、台湾総督府 台北師範学校 一年生 に台湾動物 の概念
を典ふ ることを 目的 として い る。
(2)『 蔓彎博物館教科書 動物篇』第 6章 第 2項 「害贔」には以下のよ うに記 されている。
蚊 の雌 は私共 の血 を吸ふ害轟 で、 二三 百箇 を一 塊 として水 上 に卵 を産 みます。 之か ら
孵 つた幼轟 を子子 といい蛹 を経 て成轟 とな る。「ア ノフ ェ レス」は麻刺 里亜病原轟 を博
播す る媒介 します。蚊 とア ノ フェ レスの違 い は下記 の通 りである。
静止時
アノフェレス蚊
普通蚊
腹部をあぐ
翅
鯛髪
呼吸
(雌 )
管
斑点
吻と同
あり
長
腹部をあげ 斑点な 吻より短
ず
し
■F
籠リ
幼虫
成虫
し
短し
長し
呼吸時
産著 の状態
水面と平行す
―個 づゝ散在す
水面と或角度とな
多数 、一 列に並
す
あヽ
「
家蠅は 「腸チ フス」な どの恐ろ しい病毒 を博播 し、「ネ ズ ミ、 ノミ」 は ペ ス ト」病毒
を偉播す る虞がある。その為 に捕鼠や毎 日の掃除、消毒 が重要 である。 マ ラ リア病原
虫には 「キニイネ」「オイ ヒニ ン」 とい う特効薬 がある。「人腸 アメーバ」 は人 の腸に
寄生 して蔓彎赤痢 を起 さしむ。此 の病 に罹 つた時は、吐根 草 の根 か らとつた監酸 「エ
メチ ン」を注射す るとよい さうである。
146
以 上 の史料 よ リア ノフ ェ レス蚊 と蚊 の違 い を教 え、 マ ラ リアに対す る防過意識 として特
効薬 である 「キ ニ ー ネ」や 「オイ ヒニ ン」 な どについ て も教 えてい る。 また腸 チ フスの感
染経路 が家 蠅 であ る ことを教 え、毎 日の掃 除や 消毒 に よつて 予防す る こ と、ペ ス トの感 染
経路 が 「ネ ズ ミや ノ ミ」 で ある こ とを教 え、捕 鼠 の重要性 を説 いてい る。 また蔓湾赤痢 に
罹 つた場合 は、吐根 草 275と ぃ う植物 の根 か ら抽 出 した堕酸 エ メチ ン を注射す る こ とが豫 防
策 で あるこ とを説 いて衛 生教 育 を行 つてい る。
(3)『 公学校用 理科教授書巻 一』 (台 湾総督府 1927年 )の 第 11課
「ねずみ 」 は
以下 のよ うに記 されて い る。
一 、 ねずみ の害
。
ねずみは蔓所 の食物 を盗み、倉 の 中の米変類 を食ひ養章室 にて重 を捕 り、其 の他家具
。
衣服 を噛み破 る等常 に大害 をなす。又野外 の ものは甘藷 甘庶等 を食ひ、苗木 を噛 む。
殊 に恐 るべ きはペ ス ト・ チ フス等 を媒介す る こ とに して 、其 の害賞 に寒心す べ き もの
なれ ば常 にこれ を補殺 し、或 は食物 を得難 か らしめて其 の蕃殖 を防が ざるべ か らず。
二 、形態
ねずみ の前身 は うす くろ く、頭 は給細長 く して前端 尖 り、 こ ゝに二つ の鼻 孔 あ り。 口
は其 の 下側 にあ りて上唇 は中央 にて縦 に裂 け、其 の 隙間 よ り歯現 は る。歯 は上 下 の顎
に人本 づ ゝあ り。前歯 は細長 く上下 三本 あ りて、其外側 は硬 き も内側 は物 を噛 む毎 に
磨 り減 るによ り、先端 は常 に尖れ り。此 の歯 は絶 えず 生長す。頭 の左 右雨側 に眼 あ り。
眼 の前方 に長 き毛 を生ず。 耳は眼 の後方 にあ り。頭 と胴 には毛 を密 生す 。頸 は短 く胴
は大 くして長 く尾 は細長 し。胴 には四本 の脚 あ りて、前脚 は細 く短 く、後脚 は袷太 く
長 し。前脚 には四本 、後脚 には五本 の趾 あ りて、趾 の先 には曲が りて尖れ る爪 あ り。
三 、習性
ねずみ は人 家 又 は溝・ 畑等 の 暗 き所 に棲 み。萱 は 隠 れ夜 出 でて 、穀物・ 野菜・ 果物・
魚等 を食 ひ 、又箱 ・ 柱 ・ 戸・ 衣服等 を噛む。 ねず み は性 質怜悧 に してかす か な る音 を
も能 く聞 き、又遠方 にあるものの臭 を も能 く嗅 ぎ、馳 る こ と甚だ速 な り。 ■ つ 毛色 は
。
黒味 を帯ぶ るによ り、暗 き所 にては見 つ け らる ゝこ と少 し。ねずみ は暗 き物 蔭 に布 片
紙 。綿 ・ 草等 にて巣 を作 りて、子 を産 み育 つ。 ねず み は嚢育速 く生後 四箇月 位 にて親
とな り、 一年 に四五 同一 回 に四疋 よ り七疋づ ゝ子 を産む によ り、繁殖盛 んな り。
四、ペ ス ト病
明治 二 十 九年 よ り大 正六年 に至 る間蔓溝 に流行 した る ものの病症別 患者数 と死 亡 率 と
を示せ ば左 の如 し。
ペ ス ト病菌 が 人證 に感 染す る経路 が二 つ あ り。 一 は病 鼠 の糞尿 に由 りて汚染せ られ た
る ものに接触 す る時 、若 し本人 が 自覚 せ ざる程 の微 毒 にて も存す る時 は 自然 にそ の傷
口よ り入 る。他 は病 鼠 を刺贅吸血 せ る蚤 の 口部 にはペ ス ト菌 を附著す るを普通 とす る
147
を以て此 の蚤 が人 を吸血す る時 は 自ら病菌 を感染せ しむ。
図 I)ペ ス ト276の 種類
病症名
患者
死亡率
腺 ペ スト
2,571
60.56
肺ペスト
50
96
皮膚ペスト
8
62.5
敗 血 症性ペスト
14
50
眼 ペ スト
1
100
腸 ペ スト
2
100
以 上 の史料 よ り公学校 4年 生 にねず み とい う単元 ではネ ズ ミの形態や 生活状態 を観 察 さ
せ て 、其害 並 に駆 除法 を しらせ る こ とを主眼 とし、ペ ス ト防過 につい て も学習 させ てい る
こ とが分か る。またペ ス ト感染 の経路 (病 鼠 の糞尿 に よつて汚染 され た もの との接触感染 、
病 鼠 を刺贅 した蚤 に よる吸血感染 )力 `ある こ とを理 解 させ 、捕 鼠器 の使 い方 につい て も学
習 させ 、ペ ス ト予 防 につい ての教育 を行 つてい るこ とが明 らかにな った。 またネ ズ ミの捕
鼠 につい ては実習 を行 つた方が効果的 で ある と『 公学校
4年 生理科教授 細 目』 には記 され
てい る。 277
(4)『 公 学校用 理科教授 書巻 一 』 (台 湾総督府 1927年 )の 第 14課
「蚊」 は以下 の
よ うに記 され てい る。
一 、習性
蚊 は夏季 に多 く奎生 し、董 は暗 き所 に隠れ 、夕方 よ り出でて人 の血 を吸ふ。人 の血 を
吸 ふ 蚊 は凡て雌 にて 、雄 は植 物質 の汁 を吸ふ のみ にて人 の血 を吸ふ ことな し。
二 、形態
蚊 は頭小 さく胸太 く して腹 は細長 し。頭 には二個 の複 眼 と二 本 の燭角 と一 本 の細長 き
吻 とあ りて、吻 の雨側 には一 本 づ ゝ燭髪 あ り。複 眼 は大 き く して頭 の大部分 を占む。
鯛 角 には多 くの細 き毛 を有 し、雄 の毛 は雌 よ りも長 し。胸 の上側 には二枚 の翅 あ り。
これ前翅 に して後翅 の あるべ き所 には小 さき梶棒状 の ものあ り。 これ を平均梶 といふ 。
胸 の 下側 には三封 の細長 き脚 あ り。
三 、 ア ノ フェ レス蚊 とマ ラ リア病
ア ノフ ェ レス蚊 がマ ラ リア患者 の血 液 を吸ふ時 は、 マ ラ リア病原轟 は血液 と共 に蚊 の
譜 内に入 りて増殖す。次 に此 の蚊 が他 の人 の血 液 を吸ふ時、病原轟 は人 の罷 内に移 さ
148
れ 蕃殖 してマ ラ リア病 を起 さしむ。 ア ノフ ェ レス蚊 が普通蚊 と異 な る馳 は左 の如 し。
四 、蚊 の一 生
普通蚊 は汚 き水溜 の水面に産卵す。卵 は小 さくしてバ ナナ形 をな した るもの 二三 百個
一 列 に相並び 、船形 をな して水 面 に浮 かぶ 。 これ よ りぼ うふ り出づ 。 ぼ うふ りは水 中
に棲 み黒褐色 を帯び證 は園柱状 にて側 面 に毛 を生ぜ るも脚 を有せず 。頭 は小 さく胸 の
幅袷廣 く、腹 は細 く して後端 に長短 二本 の管 あ り。長 き管 にて空 氣 を呼吸 し、短 き管
よ り糞 を出す。常 に水底 にあ りて微 生物 。有機 物等 を食 し、時 々水面近 くに浮 き末 り、
呼吸管 を水面上 に 出 して空 氣 を吸ふ 。 ぼ うふ りは十分成長すれ ば蛹 とな る。 蛹 は胸部
著 しく太 く、腹部 は彎 曲 し、胸 の上 面 に二 本 の管 あ り。 これ にて呼 吸す。 この 蛹 よ り
蚊 出づ。
静止 時
アノフェレス蚊
普通蚊
腹部をあぐ
翅
幼虫
鯛髪
呼吸
(雌 )
管
斑点
吻と同
あり
長
腹部をあげ 斑 点な 吻より短
ず
し
田P
Fリ
成虫
し
短し
長し
呼吸時
産著の状態
水面 と平 行す
―個 づゝ散在す
水面と或角度とな
多数 、一 列に並
す
らヽ
五 、蚊 の駆除法
イ、家屋 内外 の清潔 。消毒・ 通風・ 採光 をよくす るこ と。
口、除轟菊 。蚊取線香 。鋸暦 。青葉 。河原 蓬 。蜜柑 の皮 の干 した もの な どを燻 煙す る
こ と。
ハ 、蚊 は 白い もの を嫌ふ 習性 があるか ら寝童 の垂 幕 、蚊帳等 の色 は 白にす べ きであ り、
寝 る ときは蚊帳 を用 ち得 る こ と
二 、 ボ ウフ リは油 を撒布す る こ と
以 上の史料 よ り公 学校
4年 生 に蚊 の一 生 と蚊 の生態 につい ての知識 を授 け、且 マ ラ リア
とア ノフ ェ レス蚊 の 関係 を理 解 させ 、 マ ラ リア予防 の重要性 を理 解 させ るこ とが此 の 単元
の要 旨で あ つ た とい える。蚊 の駆 除法 としては家屋 内外 の清潔 、消毒法 、通風採光 を佳 良
な らしめた る方法 として汚 い水 は溜 めな い よ うに し、竹藪 の伐採 、下水溝 、排水溝 の整備
な どが挙 げ られ てい る。 も う一つ の方法 はイ タ リア式 である除虫菊や蚊 取線香 な どを燻煙
す るこ とで蚊 の侵入 を防 ぐとい うこ とを挙 げて い る。 さらに 、 ボ ウフ ラには油 を撒布 して
殺滅 させ る こ と、蚊帳 の必 要性 につい て も説 き、 マ ラ リア防過教 育 を行 つてい る こ とが明
らか にな っ た。 またキ ニ ー ネ の服用 につい て も紹介す るよ うに と公 学校 四年用理科 教授細
目とい う現在 の教授指導書 の よ うな ものに記載 され てい る。 278
149
(5)『 公 学校用 理科教授書巻 二』 (台 湾総督府 1929年 )の 第 21課
「バ クテ リア」
は以下 の よ うに記 され てい る。
一 、バ クテ リアの生活
バ クテ リアは空 中 。水 中 。地 中其 の他 至 る虎 に存在す 。證 は極 めて微 小 に して 顕微鏡
を用ひ ざれ ば見 る こ とを得ず。小 な るもの は一耗 の千分 の一 、大 な る もの も一 糎 の 千
分 の五 十 に過 ぎず 。形状 は球状 、稗状 、螺旋状、糸状等 あ り。 中には一 本 乃至敷本 の
細 き毛 を生 じ、 之 を以 て 自由 に水 中を済 ぐもの あ り。 又彊 を屈 曲 して運 動す る もの あ
り。 バ クテ リア の證 は通常 中央 よ り二つ に分裂 して繁殖す。 其繁殖 は適営 な る温度 と
瀑度 と養分 を得れ ば頗 る速や かに して短 時 間 に甚 だ しき数 に達す。
二 、有益 なるバ クテ リア
根瘤 バ クテ リアは豆類 の根 にあ りて空 中 の窒 素 を取 りて豆類 に典 へ 、豆類 よ り水 分・
澱 粉等 の分与 を受 く。酷酸 バ クテ リア はアル コール を酸 化 して酷酸即 ち酢 を作 る。 其
の他 土 中 にあ りて月
巴料 を費化せ しめ、植 物 を してその呼 吸 を容易 な らしむ るもの あ り。
又腐敗 バ クテ リアは生物 の死 證 ・ 排泄物等 に寄 生 し之 を腐敗せ しめて地 球 上 を清潔 な
らしめる。
三 、有害 なるバ クテ リア
コ レラ菌・ チ フス菌 。結核 菌・ 瘤病菌・ ヂ フテ リア菌等 は夫 々特異 の毒素 を分泌 して
特有 の病気 を起 さしむ。又傷 口等 に附 きて化膿せ しむ るバ クテ リアあ り。
四 、博染病
(イ )′ くス
ト
博 染病 中最 も恐れ るべ きものの一 に して此 の病 に罹 る時 は死 亡 す る もの多 し。病原菌
は主 として人 の皮膚 の傷 口よ り侵入す。病原菌 が倦 内に入れ ば此処 に近 き部分 の淋 巴
線
(リ
ンパ 線 )は 腫 張 し、全身高熱 を奎す。 かか る病症 の もの を腺 ペ ス トと称す 。 ペ
ス トには此 の外肺 を冒す肺 ペ ス ト、眼 を冒す 眼ペ ス ト、其 の他腸 ペ ス ト、敗 血症 ペ ス
ト等 あ り
(口
)腸 チ フス
ー ニ 週 間 の潜伏期 を経 て嚢熱 す るや 、午後 は午前 よ り、 翌 日は前 日よ りと漸 次階段 的
に上昇 し四十度位 に至 る。第 二 週 は高熱持続 し、第 二週 。第 四週 は漸次熱 は下降 し、
第 五週 には常温 に復 して食慾 増 加 し末 る。 此 の病原菌 は糞尿 に交 じつて排泄 せ られ 、
蠅 の媒介其 の他 の方法 にて食物 に附着 し燕 下せ られ て博染す。
(ハ )其 の他 コ レラ 。ヂ フテ リア
狸 紅熱 。結核・ 流行性脳脊髄膜炎等 もバ クテ リアに因 りて起 こ る俸染病 な り。
五 、博染病豫 防
博 染病 を豫 防す るには病原 菌 を殺す こ とが大切 で 、そ のた めには消毒 を行 ふ 。 消毒 に
は 日光や蒸気 に当てた り、 ク レ ソール 石鹸液・ 過酸化水 素水 。生石灰・ 晒粉等 の薬 品
を使 って 消毒 を行 う。
150
以 上 の史料 よ り公 学校 五 年 生でバ クテ リア の種類や繁殖 法 (細 胞分裂 )を 理 解 し、伝染
病 の種類や博染病予防 には病原菌 を殺す こ とが肝要 で ある こ とを説 き、消毒 の徹底 を教 え
ていた ことが 明 らかにな つた。
(6)『 公 学校用 理科教授書巻 三』 (台 湾総督府 1930年 )の 第 12課
「動物 と植 物
と鉱物」は以下 の よ うに記 され てい る。
一 、植物 の養分
植 物 が生 育す るには根 を土 中に挿入 しいて水分・ 養分 な どを吸収 し、な ほ葉 は空気 中
よ り炭酸 ガ ス を吸ひ て これ を炭 素 と酸素 とに分解 し、不用 の酸 素は空気 中 に放 出す。
土 中 よ り取 る養分 は窒素 。燐 。石灰・ 加里 。苦土等 の鉱物質 な り。
二 、動物 の食物
。
蝙 蝠・ 鯨 ・ 蜻蛉等 は他 の動物 を捕 りて食 とし、水牛・ 豚 アゲハ 蝶 な どは植 物質 を と
りて食 とし、以 て其生活 に要す る養 分 を得。 而 して蝙 蝠 が食す る昆 虫、鯨 が食す る魚
。
類撓脚類 279等 は大抵植物質 を食す。な ほ動物 の生活 には植物質以外 に水・食塩 鐵等
の如 き鍍物質 をも摂取す る要 あ り。
三 、動物 。植 物・ 鍍物 の関係
植 物 は主 に鍍物質 を養分 とし、動物 は動物 、植 物 を食 とす るも、結局 は植 物 を主 な る
食物 となす とを見 るを得 べ し。 而 して動物 ・ 植 物等 が死す る時 は、其彊 は微 ・ バ クテ
リア の作用 に よ りて腐敗分解 して遂 には鍍物質 とな る。植 物 の生 ず る所 は土地即 ち鍍
物質 に して 、動物 の棲 息す る所 は土地及 び 土地 に生 じた る草木即 ち植 物 な り。動物 の
生存 に一 時 も鋏 くべ か らざる酸素 と動物 に有害 な る炭酸 ガ ス が 、植 物 の 同化 作用 に よ
りて動物・ 植 物相 互 に都合 よき結果 を末す こ とは既 に説 け るが ご とし。斯 くの如 く動
物・ 植 物・ 鍍 物 三者 の 間 には密接不離 の 関係 あ り。今 窒素 につ きて考察せ ん に 、 窒素
は土 中 にては硝酸塩 の状態 にて存 し、植 物 が これ を根 に よ りて吸収すれ ば 、別 に植 物
證 内に生成せ られ た る澱粉 と結合 して蛋 白質 とな る。豚 が この植物 を食 した りすれ ば、
そ の蛋 白質 は豚 の筋 肉を構成す る養分 とな る。 さらに人が豚 肉を食すれ ば其譜 を養 ひ 、
つ ひ には糞便 とな る。 この糞便 を土地 に施せ ば其含窒素物 は腐敗分解 してア ンモ ニ ア
堕 とな り、更 に変 じて硝酸堕 とな り土 中 に婦す。
以 上の史 料 よ り公学校
6年 生 に食物連鎖 の しくみや 光合成 の働 きを教 えるだ けでな く、
280の 重要性 を説
肥料 の重要性 にも気 づかせ るよ うに して い る。教科書 で も施肥や化学肥料
き、農業近代化 へ の道 へ 導 こ うと台湾総督府 が行 つていた こ とが明 らかにな った。
151
第六節 部落振興会 の国語講習用教科書 に見えるマ ラ リア防遇記事 。衛生記事
部落振興会 とは行政組織 の最末端組織 で市街庄の指導 の下 に部落単位 で設立 し、部落民
一体 となって国語教育や匝習 を打破 し、産業、交通、衛 生な どの生活改善を図 り公共 の福
利 の増進を図ることに主眼が置かれた部落建設 のことである。部落振興会指導委員会な ど
を組織 し、官民一体 で優良部落建設を推進 していこ うと尽力 していたことが 1930年 代後半
か ら徐 々に現れ始めた。 281そ の 中で特徴的なのが鳳山郡国語塾である。
鳳 山郡国語塾は、優良部落建設の一環 としての国語教育 の推進 の中で設立 されたもので
ある。鳳山郡国語塾は独 自に『 国語塾読本』 を作成 し、国語教育 の推進を図つていつた。
『 国語塾読本』は国語教材や公民教材 、衛 生教材、修身 (礼 儀作法)な どを含有 した教
材 が主に収録 されてい る282。 『 国語塾読本』 の編纂は、鳳 山郡民風作興會 283が 昭和 13
(1938)に 編纂 したものである。
『 国語塾読本 巻一』の中で衛 生に関する記事だけ紹介 し
よ うと濯tう 。
(1)『 国語塾読本 巻一』 (鳳 山郡民風作興会、1938年 )の 第人課
「医者」 は以下の
よ うに記 されてい る。
オ讐者サ ン。シンサ ツ。病気。クス リ。チ ュ ウシャ。ケガ。ホ ウタイ。「オ讐者サ ン、
子供ガ病気デ ス。 ス ミマセ ンガシンサツヲシテ下サイ。」「大ヘ ン重イカラ大事 ニ シナ
サイ。」 (挿 絵)
以上の史料 か ら部落民に対 して病気 に罹 つた場合は巫女等 の祈祷 で治す のではな く、讐
者 の診察を受けるよ うにすることを説 いてい る。
(2)『 国語塾読本 巻一』 (鳳 山郡民風作興会、1938)の 第二十七課
「デ ンセンビャウ」
は以下のよ うに記 されてい る。
「ハ
「ハヘ ヤアブラムシハ ワルイ ビャウキヲウツシマス。」
チフス。セキ リ。ヂ フテ リア。
ヘ ヤアブラムシヲミンナデ トリマ シャウ。」「停染病 ノ疑 アル者ハ隠匿スル コ トナク至
急派出所又ハ 讐者 二既報 スル ヤウ注意 スベ シ。」
以上の史料 より、伝染病 にはチフス、赤痢、ヂ フテ リアな どがあること、伝染病は蠅や
アブラムシ等 が感染源であること、蠅やアブラムシを駆除す ることの重要性 を説 き、清潔
な部落にす ること、伝染病患者が発生 した ら至急派出所や医師に報告す ることを教 えてい
る。
152
(3)、『 国語塾読本
巻一』(鳳 山郡民風作興会、1938年 )第 四十一課
「トラホーム」284
は以下のよ うに記 されている。
二郎 「ロガワルイヤ ウデ スネ。」
時雄
二郎
時雄
二郎
「キノフカラキフニイタクナ リマ シタ。」
「キ ッ トトラホームデス ヨ。」
「早クオ害者サマニ早 ク見テモ ライマセ ウ。」
「オ讐者 サマニ早ク見セ徹底的二治療セシムベ キダ ヨ。」
以上の史料 か ら当時 トラホーム とい う眼病 が流行 していたことが分 か り、讐者 の診察 を
至急受けて、徹底的な治療 を受けるべ きであることを説いてい る。
(4)『 国語塾読本 巻一』 (鳳 山郡民風作興会、1938年 )第 四十六課
「ソウヂ」は以下
のよ うに記 されてい る。
父 「二郎、ニ ワヲハ キナサイ。」
二郎 「ハイ。」
父
二郎
父
「ゴ ミトリトホ ウキハモ ノオキニア リマセ ウ。」
「マ ダヘヤヲカタヅケテイマセ ン。」
「デハ、 ワタシガカタヅケマセ ウ。」
以上の史料 か ら清掃 をす ることの大切 さを部落民に教え、部落 の清潔文化 の定着化 を図
つてい ることが読み取れる。
(5)『 国語塾読本 巻一』 (鳳 山郡民風作興会、1938年 )第 四十人課
うに記 されてい る。
「蚊」 は以下のよ
ヽ
蚊ハマ ラ リアヲウツシマス。
蚊 ノヨクアツマル藪ヤ水溜 ヲナクスル ヤウニ努 メマセ ウ。
以上の史料 か ら蚊に刺 され るとマ ラ リアに罹ることが あるので十分注意す ることを教 え
ているだけでな く、地物整理 (竹 藪伐採や水溜 の埋立)の 重要性 を教授 し、マ ラ リア防過
を證験的に従事 させ よ うとい う工夫が されてい る。
(6)『 国語塾読本 巻一』 (鳳 山郡民風作興会、1938年 )第 五十七課
のよ うに記 されてい る。
ヨシヒコ「アナタノウチニハベ ンジ ョガア リマスカ」
テツオ
「ア リマス。」
153
「便所」 には以下
ヨシ ヒ コ 「ミチヤ ニ ワニ ダイ ベ ンや セ ウベ ンフスル ノハ キタナイデ スネ。」
テ ツオ
「サ ウデ スネ。 ミンナガ コマ リマス カラ。」
以 上 の史料 か ら当時 の台湾 の部落 では野糞 の習慣 が あ つた ことが分 か り、便 所 の建 設 が
部落 で推進 され 、公衆衛 生観念 の 向上及 び公衆道徳 の習得 を 目指 してい る こ とが読 み取れ
る。衛 生 に関連す る記事 をみてき て分 か った こ とは、部落振興会 の 目指 してい る国語普及
の 中 に公衆衛 生の向上や公共道徳 の 定着化 な どが連携 しなが ら普及推進 され てい つてい る
ことが 明 らか にな つた。
小結
明治 33年 (1900)の『 国語科話 方教材』の 中で ゴア ン式教授 法 によつて動作 を交 えて衛
生観念 の普及 を図 るよ うに工夫 し、寝 る ときには蚊帳 の使用 な どを説 いてい る。明治 34年
(1901)の 公 学校 国語教科書 で も、「蚊遣 り」 と蚊帳 の使用 といつた原初 的なマ ラ リア防過
方法 を推 奨す る程度 の 内容 であ つた。 大 正 2年 (1913)の 教科書 では蚊 が不衛 生 な害 虫 と
して紹介 され てい るだけでであ つ たが、大 正
3年 (1914)の 教科書 ではマ ラ リアが伝染病
の一 種 として捉 え られ、火事 の ご とく勢 い よく伝播す る伝 染病 の恐 ろ しさと予 防 の重要性
が強調 され るよ うにな つた。そ して大正 12年 (1923)の 公学校 国語教科書 ではア ノフ ェ レ
ス とい う語 を用 い られ科学的医学的 な知識 を基 に しマ ラ リア防遇 を行 ってい こ うとす る内
32年 (1899)に 蔓湾地方病及博 染病調査委員会設置以来懸
命 に研鑽 を積 んで きたア ノフ ェ レス研 究 の成果 が 、大 正 12年 (1923)に は学校教育 の 中で
容 に変化 していつてい る。明治
本格 的 に取 り入れ られ た とい うこ とで あ り、蔓湾線督府 が 学校教 育 によるマ ラ リア防遇 に
も尽力 していた こ とが明 らかにな つた。
4年 (1915)の 公 学校 理科教科書 で は蚊 の幼 虫で あるボ ウフ
ラの駆 除方法 な どを教授 し、 マ ラ リア防過 の重要性 を説 いてい る。 昭和 2年 (1927)の 公
また理科 の内容 で も、大正
マ
学校 理科教科書で はネ ズ ミや 蚊 の習性 や形態 な どを教授す るでけ でな く、本格 的 に ラ リ
。
ア 防邊 に参画 させ るよ うに説 いてい る。 また衛 生 農業指導 として施肥 の重要性 を も教授
してい る ことが読 み取れ る。
。
昭和 12年 (1937)か ら昭和 20年 (1945)の 頃、即 ち 日中戦争 太平洋戦争 時期 の公 学
校 国語教科書 には マ ラ リア防遇記事 が 見 られ な い。 しか し同時期 の マ ラ リア防邊や衛 生教
育 が どの よ うな ものだつたかにつ いて示 唆 を与 えて くれ るのが部落振興会作成 の『 国語塾
読本』 である。
『 国語 塾読本』は国語教材 や公 民教材 、衛 生 教材 、修身 (礼 儀 作法 )な どを
含有 した教材 が主 に収録 され てい て皇民化教育 の一 環 として作成 され た もので ある。 この
中の衛 生教 育 は部落生活 の 向上 に主眼 を置 いてい るた め便所 の設 置や蚊 の駆 除、掃 除な ど
とい った 内容 が ある。 これ によつて公 衆衛 生 の 向 上及 び公 共道徳 の定着化 とい つた近代 的
衛生習慣 の習得 が 学校教育 の 中で 実施 され た こ とが明 らか にな った。
154
終章
以 上 四章 にわた つて きて述 べ た内容 を以下にま とめたい。
第一章では、①明治 30年 (1897)か ら同 33年 (1900)頃 にかけては、マ ラ リア防過 (衛
生)事 業 の初期 の措置 として台湾総督府は下水排水施設 の設置 に重点を置いた。②明治 32
年 (1899)に 台湾総督府 により台湾地方病及び伝染病調査委員会 が設置 され、そ の後 のマ
ラリア防遇の医学的研究が飛躍的 に進展 した。③明治 38年 (1905)か ら大正 4年 (1915)
頃にか けて、台湾総督府 は 「蕃地」開拓地域、鉄道水利 工事現場、内地人移住地等 のマ ラ
反法 。防蚊法・ 隔離政策 を実施 し成果 を収めた。④明
リア防遇重点地域 でキニーネ予防内月
治 44年 (1911)の マ ラ リア防遇会議 で台湾総督府は、撲滅計画 を一般マ ラ リア撲滅計画 と
特別 マ ラリア撲滅計画 (特 別 マ ラ リア撲滅計画 では総督府 よ り執行官 を派遣 し原 虫保有者
発見 と共生服薬に重点を置 く)の 二種類 に分類 し、台湾全島でマ ラ リア防遇事業を実施 し
た。⑤大正 2年 (1913)に 台湾総督府 はマ ラリア防遇規則 を制定 し台湾総督や知事 の権限、
布 しマ ラ リア (ア
土地所有者 の義務な どを定めた。同年台湾総督府 はマ ラリア防過心得を酉己
ノフェレス)の 知識 を普及 させ防遇意識 を向上 させ 、マ ラ リア防邊 の効果 を上げた。⑥大
正 8年 (1919)台 湾総督府 はマ ラリア防邊施行地増加 に伴 う医務助手不足に対処す るため、
マ ラ リア防遇事務講習を開催 し、マ ラ リア防遇従事員 を養成 した、等台湾総督府 主導 のマ
ラリア防過事業の内容が明 らか となった。
第二章では、①大正 9年 (1920)台 湾地方制度 の改正に伴 い、台湾総督府直営 のマ ラ リ
ア防遇事業 が、基本的 に地方 自治体 に移管 され、各州予算 に特別会計 として伝染病予防臨
時費資金 が特設 された。②大正 11(1922)に 台湾総督府 はマ ラリア防邊費 の負担区分 と補
助方法 を決定 し、州 は市街庄 の負担 に対 し三分 の一 、国は州に対 し三分 の一補助す る こと
に した。③台南州 。高雄州 。新竹州 。台中州 に見 られ る共通点 として、台湾総督府 が推進
反法や地物整理等)に 重点が置 かれていたこと、
してきたマ ラ リア予防法 (キ ニーネ予防内月
衛生模範部落 の建設や防邊デー を制定 して清潔的作業 を励行すること、警察 が衛 生事業を
管轄 していること、衛生宣伝 ビラの配布、衛 生映画、講演会 の実施な どを通 じて一般住民
へ衛 生思想 を普及 したことが挙げ られ る。④相違点 として、台南州や高雄州 ではマ ラ リア
防過事業 が州か らの直接指導 で進 められてい るし、 より高雄州は衛生以外 の事業 において
も上記 のよ うな傾向が強いのに対 し、新竹州・台中州 は昭和 10年 (1935)に 発 生 した台湾
大震災を契機 として派出所管理 の下に設 けられ た保健組合 を中心 としてマ ラ リア防過事業
が実質的 に進 められた ことが挙げられ る。⑤台湾大地震 の後 マ ラ リア患者 の多発 した新竹
州 0台 中州 でこの保健組合が特設 され、被災地を重 点的に保健組合事業 が実施 された もの
と類推 できる、等 地方州庁 のマ ラリア防過事業 の内容 が明 らかになつた。
第二章では原住民たちに対す る蕃地医療衛 生について概観すれば、理蕃事業 の一環 とし
て医療衛生は 「原住民の人心を掌握す る」目的 があ り、明治 38年 (1905)に 嘱託医が配置
され、医薬へ の信頼性 を高めるために衛 生講話などを開催 した。大正 5年 (1916)に は嘱
155
託 医 よ り高度 な専門性 を持 った 「公 医」 が設置 され た。彼 らは警 察 と協力 して蕃 地 医療衛
生 に携 わ り、種痘や蕃地 マ ラ リア の 防過等 に尽 力 した 。 また昭和 にな る と各地 で建設 ラ ッ
シュ とな つ た 「優 良蕃社」建設 が推進 され 、衛 生 意識 の 向上 が 図 られた。 そ の事業 と併行
して蕃地衛 生組 合 が建 設 され 、 マ ラ リア防過 な どの衛 生事 業 に 自ら従事す るよ うにな った
が 、時勢 の悪化 な どによ って 医薬 品な どの供 給 が滞 るよ うにな り、民間療法 を西洋 医学 に
取 り入れ る形 で蕃 地医療衛 生 を実施 して きた。 しか し、蕃 地 医療衛 生 は理 蕃事業 が推進す
る集 団移住政策 に よる環境 改変 な どに よ つて発 生す る 「蕃 地 マ ラ リア」 に悩 ま され 、 それ
を防過 してい くとい った マ ッチ・ ポ ンプ 的な もので あ つた傾 向が強い よ うに思 われ る、等
蕃地衛 生 医療 の内容 がある程度 明 らか にな った。
第四章では、①明治 34年 (1901)の 公学校 国語教科書 では原初的なマ ラ リア防過方法 (蚊
遣 りや蚊帳などの防蚊対策)を 推奨する程度であつたものが、大正 12年 (1923)に は医学
的科学的な知識 に基づいてマ ラ リアを防遇す ると言 う内容 へ変化 した。② マ ラ リア研究 の
進展に伴 い、台湾総督府は学校教育 によるマ ラ リア防遇にも力を入れた。③また大正
4年
(1915)の 公学校理科教科書 で も国語教科書 と同様 にボ ウフラの習性 を教えるだけでな く、
医学的、科学的な知識に基づ き防過方法を教授 し、昭和 2年 (1927)に は本格的に学校教
育の 中でマ ラリア防遇教育を行 つてい る。④昭和 12年 (1937)か ら昭和 20年 (1945)頃
の公 学校国語教科書にはマ ラ リア防遇記事がないが、 日中戦争や太平洋戦争時期 の 「皇民
化教育」 の影響 で公 学校国語教科書 の中に 「皇民化教育」に関す る教材が増 え、マ ラ リア
防邊記事 (衛 生関係の教材 )が 省略 されていつたので はないか と類推 できる。⑤ しか しこ
の当時 のマ ラ リア防遇に関す る記事 (教 材)は 部落振興会 が作成 した『 国語塾読本』で窺
「皇民化教育」の一環 として作成 され、部落 の向上に主眼を置 いてお り、
え知 ることができ、
便所 の設置や蚊 の駆除な どについて教授 されてお り、公衆衛生の向上及び公共道徳 の定着
化 といつた近代的衛生習慣 の習得 が学校教育や部落振興会 の 中で実施 された ことが明 らか
にな り、マ ラリア防遇教育や衛生教育 の内容が明 らかになった。
従来 の研究では、マ ラ リア防過作業は台湾総督府主導 のマ ラリア防過事業ばか り論 じら
れてきたが、本論 のよ うにマ ラ リア防遇作業は、新竹州や台中州な どのよ うに保健組合 と
い う組織が実質的に実施 した り、蕃地 のよ うに 「公医」や警察 な どが 中心 とな り、防遇作
業を励行 した り、学校教育を利用 して多角的 に実施 し、上層部 だけのマ ラリア防過では無
く、下層部である部落振興会や原住民達や学校 も連携 して多角的防邊作業を実施 し、台湾
人社会において教育や防遇事業 をチャンネル として、 トイ レ後 の手洗いの習慣化や定期的
に家屋 の大掃除をするといつた現代的な医療衛生観念が 日本植民地期 に樹立 された。
また現在 のよ うに 「警察」 とい う機構 は治安維持 だけの組織 ではな く、戦前 の警察 は、
衛生 、教育などあらゆる分野を統轄 してお り、より多角的事業 を運営 していた組織 であ り、
より台湾社会にダイ レク トに介入 した組織 でもあつたことが明 らか となった。
衛 生思想の普及に関 しては、学校教育 における衛生教育 をは じめ、防邊作業 に従事す る
ことによって体験的経験 によって取得 し、衛生講話や衛生映画な どによる一時的な知識注
156
入型 の方法 な どあ らゆる方法 を駆使 して衛 生 の習慣化 を図 り、近代 的な衛生観念 を有す る
「民衆」 へ と誘 つ た。
これ らの行為 は よ リー 層 日本 の 国際的 な地位 を高 め 、先進 国 で ある欧米 か らの侮 辱感 を
払拭す るた めに衛 生の充実化 を図 つた ので はな いか と筆者 は位置 づ けた。
今 後 の課題 としては以下 の三 点が挙 げ られ る。① 台湾総督府 のマ ラ リア防過事業 がその
後 どの よ うに受 け継 がれ てい つ た のか 、②台湾総督府 の衛 生事 業 が戦後 の台湾社会や 台湾
医学会 にどのよ うな影響を及 ぼしたのか、③ 日本統治時代のマラリア防過について当時生
活 していた人たちはどのよ うに考 えていたかについて聞き取 り調査を実施することである。
1マ ラリアが清植 民地時期
(1683∼ 1895)に 打狗 (現 :高 雄市)や 安平 (台 南市内の地名 )
で発生 したことが廟碑や戴文鋒 の 「海関医報」与清末台湾開港地区的疾病『 思与言』第 33
巻第 2期 1995年 に記 されてい る。
22013年 12月 9日 ∼12月 14日 に中華民国政府 (台 湾)教 育部 か ら依頼 を受け、 日本 の
大学院生 10名 と松 田吉郎を団長 として研究交流を行 つた。その際 に中山大学 の台湾人 の先
生か らグローバル な視点か らご指摘を頂いた。
3飯 島渉『 マ ラリアと帝国‐ 植民地医学 と東 アジアの広域秩序』東京大学出版会 2005年
4本 間恵介 「日本統治下の台湾におけるマ ラリア防遇事業 について」兵庫教育大学大学院
修士論文 2004年
5顧 雅文 植民地期台湾 における開発 とマ ラ リアの流行一作 られた 「悪環境」一」
『 社会経
済史学』70-5 2005年 1月
6開 発原病論 とは、1970年 代に提唱 された考え方で、経済開発 が 自然環境 を破壊 し、そ の
副産物 として疾病が異常発 生す るとい う現象 で、出発点 となったのは、アフ リカにおける
疾病研究では、植民地時代、アフ リカで行われた農業開発 が疾病流行 の原因 となつた と指
摘 し、近代化 に対する批判 の一環 として、開発 と疾病 の因果関係に着 目した概念。詳 しく
II北 稔編『 環大西洋革命』 (岩 波講座世界歴史 17)岩 波
は見市雅俊 の 「開発原病 の世界史」り
書店 1997年 を参照す。
7劉 士永 「"GIS Mala五 a and Highland Environmentin Colonial Taiwaゴ 殖民医学国
際工作研討会 (中 央研究院台湾史研究所筆備 処 2001年 10月 25、 26日 )
8疱 燕秋 「讐學興殖民横張 ―以 日治時期蔓彎濾疾研究鶯例 一」『 新史学』第 7巻 第 3号
1996年 9月
9栗 原純「台湾における 日本植民地統治初期 の衛生行政 について :『 台湾総督府公文類纂』
にみる台湾公医制度を中心 として」東京女子大学『 史論』第 57号 2004年
10鈴 木哲造 「台湾総督府 の衛 生政策 と台湾公医」中京大学大学院法学研究科修 士論文
'」
2004年
H白
井征 彰
「 日本 統治 時代 の 台北 の上 下水道 」
『 平成
18年 度社 会教 育 系歴 史分 野修 士 論
文』(2006)
12『 マ ラ リア防過誌』 (台 湾総督府警務局衛生課 。1932年 )6頁 、以降『 マ ラリア防遇誌』
(1932)と 略す。
13同 掲書 6∼ 7頁
14同 掲書 7頁
15同 掲書 7頁
16羽 鳥重郎『 眠鰐 自叙回想録』眠鰐 自叙回想録刊行会 1964年
17『 マ ラ リア防邊誌』 (1932)1∼ 2頁
18同 掲書 8∼ 9頁
19今 村保 「足尾銅 山の衛生一般」
『 国家医学界雑誌』 (187)1902年 539∼ 549頁
157
20『 マ ラ リア防過誌』 (1932)9頁
21官 島幹之助 (1872-1944)寄 生虫学者、医学博士。明治 5年 山形県 に生まれ る。明
治 31年 東京帝大理科大学動物学科卒業。同 33年 京都帝大大学院で寄生虫学を専攻。WIIO
の前身である国際連盟保健機関の 日本代表 を務 めた。 日本人名大事典』平凡社 1979年
22同 掲書 9∼ 10頁
23 ドク トル都築甚之助『 博染病予防消毒免疫新論』報文社 1903年
24飯 島渉 『 マ ラ リア と帝国―植民地医学 と東アジア広域秩序』東京大学出版社 2005
(『
年
)
31頁
25国 立国会図書館デ ジタル ライブラ リー『 長崎医学専門学校研瑶会雑誌』(47)「 狸紅熱に
ついて」 1902∼ 03年 8∼ 11頁
26同 掲書 10頁
27大 鳥次郎 1872∼ 1906 明治 の薬学者、医学博士。大鳥圭介の次男 で、明治 33年 に東
京帝大助手、同 35年 に来台 し台湾総督府医専教授を歴任後、台湾総督府医院 の内科第一部
長になる。 (『 日本人名大事典』平凡社 1979年 )(台 大医院内科部 の HPの 台大内科沿革)
28『 マ ラ リア防過誌』 (台 湾総督府警務局衛 生課 。昭和七年二月二十 日)17頁
29ロ ベル ト・ コッホ 1843-1910 ドイツの細菌学者 炭疸菌 の純粋培養に成功。結核
菌・ コ レラ菌 の発見が有名。他 にツベル ク リンの創製な ど近代細菌学 に画期的業績 を残 し
た。 1905年 ノーベル生理 。医学賞を受賞 した。 また ドイ ツの植民地を中心に感染症研究を
進め、 ドイ ツ領東 アフリカでペ ス ト。マ ラリアの研究 に従事 した後 にイタリアでマ ラリア
研究を行い、後 にヴァタ ビアやパ プアニ ュー ギニアでもマ ラリアの研究を進 めた。 (『 世界
大百科事典』平凡社 1972年 )ガ ヽ
高健 『 伝染病研究所一近代医学開拓 の道 の り』学会出
版センター 1992年
30ベ ルンハル ト・ ノホ ト (Bernhard Nocht)1857-1945 ドイ ツの細菌学者
ドイツのハ ンブル グに 1900年 に熱帯医学研究所 の創設者 で初代所長 を務 めた人物である。
飯島渉 『 マ ラリア と帝国―植民地医学 と東 アジアの広域秩序」東京大学出版会 2005年
31『 マ ラ リア防過誌』 (1932)17頁
32佐 久間佐馬太 1844-1915 日本 の陸軍軍人、第 5代 台湾総督 天保 15年 に長州 (現
在 の 山 口県)に 生まれる。大村益次郎 か ら兵学を学び戊辰戦争 に従軍 し陸軍軍人 となる。
明治 7年佐賀 の乱を平定後、熊本鎮台参謀長 とな り台湾出兵に従軍。 日清戦争 では威海衛
を攻略 し占領地総督をつ とめ、同 39年 第 5代 台湾総督に就任、現地住民の抵抗 を抑 えて交
通 。通信・教育機関等 の整備 を行 つた。 (『 日本人名大事典』平凡社 1979年 )
33高 木友枝 1858-1943 医学者、官僚、医学博士。安政五年福島県 に生まれ る。明治
18年 東京帝国大学医学部を卒業。福井県立病院長、鹿児島病院長 を経て同 26年 北里柴 三郎
博士が創設 した伝染病研究所 に勤務。同 29年 血清薬院長 とな り、万国医事会議 に出席。同
33年 に内務省衛生局防疫課長 に就任。後藤新平 と深 い親交があ り、同 35年 に台湾に招聘 さ
れ台北医院長 。日本赤十字社台湾支部副部長、台湾総督府衛生課長兼台湾総督府医学校長
を歴任。高木 の台湾統治 の考え方は後藤新平の 旧慣温存主義を踏襲 し、様 々な調査 を行 い
ペ ス ト防邊やマ ラ リア防過に従事。引き続き欧州各国の衛生制度 の調査 を行 う。同 38年 台
湾総督府中央研究所を開設。大正 8年 に七代総督明石元二郎 の起用により台湾電力株式会
社社長を歴任 した。 (『 台大讐学院百年史』
『 日本人名大事典』平凡社 1979年 )
34『 マ ラリア防邊誌』 (1932)46頁
35同 掲書 46∼ 47頁
36同 掲書 47頁
37こ の時派遣 された防疫讐は小島第二である。
38羽 鳥重郎 1871-1951 医学博士 群馬県に生まれる。明治 32年 に台北衛生試験室主
任 となる。同 35年 (1902)に 専売局検定課 の嘱託 になる。明治 39年 (1906)に 警察本署衛
生課の防疫書 になる。明治 42年 (1909)11月 より内務局衛生課 の防疫讐官 になる。同 45
158
年英領香港を出張視察。大正 2年 (1913)に 台湾地方病及博染病調査委員会 の委員 となる。
同 7年 (1918)台 北庁検疫委員。同 9年 (1920)台 北州技師兼研究所技師、衛 生課長 とな
る。 マ ラリア防過の中枢的人物 の一人 である。台湾統治 を回顧 した著書『 眠鰐 自叙回想録』
がある。 また同 14年 (1939)に 花蓮港麻麻協議会麻協議員を歴任 し、恙轟研究 の第一人者 と
して知 られる。
(童 湾線督府職員録系統 中央研究院 皇湾史研究所 )
39『 マ ラリア防邊誌』 (1932)23∼ 24頁
40同 掲書 24∼ 25頁
41『 マ ラリア防過誌』(1932)35頁 にハ ワイ産のタブ ミノとい う魚 の輸入 とい う項 目があ
り、そ こには次のよ うに記 されてい る。「タブ ミノ」は好 んでボ ウフラを嗜食す る特性があ
る。 之を本島 (台 湾)に 輸入繁殖 させた ら 「マ ラ リア」防過上効果 があるべ きもの と認 め
「タブ ミノ」 の輸入 が認 められ 、池な どに放流 している。
42『 マ ラリア防過誌』 (台 湾総督府警務局衛 生課 。昭和七年 二月二十 日)3頁 によると、
高木友枝・ 堀内次雄 。羽鳥重郎等がマ ラ リア防過会議 に参加 した。飯島渉 (『 マ ラリア と
帝国 ―植民地医学 と東アジアの広域秩序』 東京大学出版会 38頁 2005年 )
43マ ラリアを引き起 こす血液中の赤血球に寄生す る寄生虫 (『 マ ラリア防遇誌』39頁 )
44稲 垣長次郎 医学博士。愛知県 に生まれる。
明治 40年 (1907)か ら台北医院医長兼台湾総督府医学校教授に、翌年台湾総督府台湾中央
衛 生会の委員 になる。明治 45年 (1912)に 台湾地方病及博染病調査委員会 の委員 となる。
翌年蕃務本署理蕃課 の嘱託になる。大正 7年 (1918)に 臨時防疫委員会 の委員 となる。 大
正 9年 (1920)12月 に台北州台北市協議会 の市協議会員になる。台湾 の保健衛生及び衛 生
教育 に尽力す る。 (蔓 溝線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所)
45小 島第二 医学博士。東京 に生まれる。明治 42年 (1909)台 湾総督府医学校教授 とな
る。同 44年 (1911)内 務局衛 生課 防疫医官 とな り阿縁街及鳳 山街 のマ ラリア防過に従事す
る。翌年台湾地方病及博染病調査委員会 の委員 となる。大正 10年 (1920)に 警務局衛 生課
防疫事務官になる。翌年台湾医学専門学校 の教授 となる。後 に昭和 11年 (1936)台 北帝国
大学附属医学専門部の教授 となる。
(墓 湾線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所 )
46勝 山虎二郎 医学博 士。岡山県 に生まれる。明治 39年 (1906)に 台湾総督医学校 で助
教授兼線督府医院薬局長になる。同 44年 (1911)に 台湾総督府台湾中央衛 生会の委員 にな
る。大正 2年 (1913)に 警察本署衛生課技師 となる。同 5年 (1916)台 湾総督府医学校教
授 になる。 (蔓 漏線督府職員録系統 中央研究院 皇湾史研究所)
47春 原三壽吉 医学博 士。明治 31年 (1898)に 台湾総督府製薬所嘱託 になる。同 34年
(1901)に 製薬所検査課 の技手 となる。翌年 に警察本署衛 生課技手兼専売局検 定課技手 と
なる。同 37年 (1904)に 台北医院調剤師兼台湾総督府医学校嘱託 になる。翌年台湾総督府
医学校助教授 になる。大正 2年 (1913)研 究所化学部技手 となる。
(菫 湾線督府職員録系統 中央研究院 墓湾史研究所 )
48『 マ ラリア防過誌』 (1932)31頁
49同 掲書 32頁
50岡 田義行 内務官僚。明治 30年 (1897)に 民政局衛生課技師 となる。同 37年 (1904)
警察本署臨時防疫課防疫事務官 になる。南新街組合 とい う衛 生組合 (ペ ス ト予防組合)の
副組合長になる。同 43年 (1910)に 台北庁衛生及土木調査委員会顧問兼鐵道部所属未 定嘱
託 になる。翌年内務局衛生課技師 となる。台湾 の保健衛生や マ ラリア・ ペ ス トな どの防遇
に尽力。
(蔓 湾線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所 )
51國 府小平 内務官僚。明治 42年 (1909)5月 に警察本署衛生課警視 になる。同年 11
月内務局衛生課防疫事務官になる。大正 3年 (1914)に 台湾中央衛生会兼台湾地方病博染
159
病調査委員会 の幹事 とな る。 同 9年 (1920)に 基隆郡役所基隆街 の街長 となる。
(蔓 漏線督府職員録系統 中央研 究院 蔓湾史研 究所 )
52渡 邊順親 内務官僚。 明治 30年 (1897)に 台北県警察部衛生課警部 にな る。 同 39年
(1906)台 湾総督府警察官及 司獄 官練習所嘱託講師 となる。 同 44年 (1911)に 内務局衛
生課 防疫事務官兼警部 となる。大 正 6年 (1917)警 察本署衛 生課防疫事務官兼警部 となる。
(蔓 溝線督府職員録系統 中央研 究院 墓漏史研 究所 )
53倉 岡彦助 医学博 士。明治 9年 (1876)福 岡県 に生まれ る。明治 39年 (1906)に 台湾
総督府 防疫 医官兼 専売局技師 とな る。同 43年 (1910)に 内務局衛 生課防疫 医官兼台湾 地方
病及博染病調査委員会委員 、臨時防疫委員 とな り、台湾 の保健衛生 に尽力す る。後 に台北
医院長 となる。昭和 5年 (1930)に 産婆試験委員 にな り、産婆師 の育成 な ど衛生教育に尽
力す る。 (橋 本 自水 『 台湾 の事業界 と人物 』南 国出版会 1928年 )
(童 溝線督府職員録系統
中央研究院
蔓湾史研究所)
54森 滋太郎 福岡県に生まれ る。明治 37年 (1904)斗 六麻公医となる。同 39年
(1906)
に斗六麻警務課警察医となる。同 43年 (1910)に 内務局衛生課防疫書 となる。阿里山竹頭
崎でのマ ラリア防遇に従事する。同 45年 (1912)に 内務局衛生課防疫医官兼研究所衛生学
部技師 となる。大正 2年 (1913)に 宜蘭医院医員 となる。同 9年 (1920)8月 か ら宜蘭医
院医院長 となる。
(墓 彎線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所 )
55『 マ ラ リア防邊誌』 (1932)32∼ 33頁
56台 湾製糖株式会社 とは、台湾総督府第 4代 総督児 玉源太郎及び民政長官後藤新平か らの
要請により 1900年 12月 に三井財閥 (三 井物産主導)の 下台湾に設立 された製糖株式会社
である。初代社長 には鈴木藤 二郎が就任 した。当時、台湾産業 の主要作物は米・ 茶・ 砂糖・
樟脳 だつた。砂糖 は輸入 を防 ぐとい う国家的大局か ら振興 させ ることが必要であ り糖業 の
奨励 は産業政策 の中心をな した。明治 33年 (1900)1月 に新渡戸稲造 に諸外国の糖業 に関
する産業政策や品質などを調査 し『 糖業改良意見書』を草案 し、海外か ら優良なサ トウキ
ビの苗 (ジ ャワ茎苗)を 輸入 し、サ トウキ ビの農業改善 を図 り新式 の機械 の利用 で砂糖 の
増産を期 した。台湾糖業 の前途に対す る方策について種 々の議論 があつた。線督府 内でも
小規模 の製糖法か ら初めて次第に大規模なものに移す とい つた漸進主義 の主張が強 く行 わ
れた。その中で児 玉総督 は当初 か ら新式機械 の導入 による大製糖工場設 立説 を持ち、着 々
と調査準備 を進め、総督府殖産課技手山田熙氏に命 じて、台湾南部糖業地 の実情及び新式
糖業創始 に関する見込などを調査 させ 、本事業 の経営者 について考慮 し三井財閥が主導 で
経営を行 う。設立には井上馨 も発起人 のひ とりとして名を連ねてい る。
『 台湾製糖株式会社史』 (台 湾製糖東京出張所 1939年 )
57堀 内次雄 医学博士。明治 6年 (1873)兵 庫県篠 山市に生まれる。第二高等学校卒業。
陸軍軍医 より台湾総督府讐院へ転 じる。医学校教授等を歴任 し台湾医学専門学校校長 とな
り、医学衛生教育 の発展 に寄与 した。堀内は『 医事創設史』 とい う書物を残 してい る。
(橋 本 白水 『 台湾 の事業界 と人物』 1928年 )
58『 マ ラ リア防過誌』 (1932)33∼ 34頁
59寛 繁 医学博士。福井県 に生まれ る。明治 43年 (1910)に 台北医院医長兼台湾総督府
医学校教授 になる。同 45年 (1912)に 台湾地方病及博染病調査委員会委員兼公立学校職員
恩給審査委員会顧問医となる。 (墓 彎線督府職員録系統 中央研究院 墓湾史研究所)
60古 田坦蔵 明治 8年 (1875)兵 庫県美方郡 に生まれる。第三高等学校医学部卒業。明治
35年 (1902)台 北医院に奉職 し、台湾総督府医学校教授 を兼任す る。明治 40年 (1907)
より三年間 ドイ ツヘ留学 し、帰朝後復職。退官後古田内科医院 を開業す る。 (『 改訂台湾人
士鑑』 台湾新民報社 1987年 腹 刻 『 台湾人名事典』 日本図書センター 1989年 ])
61明 治 44年 (1911)に おいて は、マ ラ リア防邊会議で決定 された東海岸 の花蓮港街 。撲
石閣街 。成廣潟 。移民指導所 二箇所 。台北庁下 の北投庄・ 西海岸 の鳳 山街 。阿緞街・ 竹頭
160
崎街・樟脳寮庄、九 曲堂水道 工事現業地のことである。 (『 マ ラリア防遇誌』 28頁 )
移民指導所二箇所は、童蘭移民指導所 (同 年六月に吉野村移民指導所に改称)【 花蓮港麻童
蘭社】と卑南移民指導所 (同 年 六月に旭村移民指導所に改称)【 墓東麻卑南】である。 当時
の吉野村移民指導所 の所長事務取扱 は花蓮港麻 の石橋亨である。当時の旭村移民指導所 の
所長事務取扱は墓東麻長 の朝倉菊 二郎である。吉野村は徳島県、香川県、広島県等 といつ
た瀬戸内海 か らの移民の人たちの指導所 である。旭村 は墓東麻 における最初 の官営移民村
である。 (『 旧植民地人事総攪 台湾編 2◆ 3』 日本図書センター 1997年 )
旭村移民指導所については孟祥渤 『 台東県史』開拓篇 (台 東市 1997年 )を 参照 した。
また吉野村移民指導所 については荒武達朗 「日本統治時代台湾東部へ の移民 と送出地」
『 徳島大学総合科学部 人間社会文化研究』第 14巻 2007年 91-104頁 を参照 した。
『 台湾 日日新報』「台湾に於ける農業移民物語 (一 ∼七)」 1934年 10月 5日 ∼ 11日
。
62『 台湾六法』、
『 墓湾保 甲皇民化讀本』には保 甲条例 保 甲条例施行規則 について以下の
よ うに記 されてい る。
○保 甲條例 (明 治二十一年人月二十一 日律令第二十一琥)
(改 正)明 治四十 二年律令第五琥
墓溝線督府評議會 ノ議決 ヲ経タル保 甲條例勅栽 ヲ得テ姦二之ヲ嚢布 ス
保 甲條例
第一條 奮慣 ヲ参酌 シ保 甲ノ制 ヲ設ケ安寧 ヲ保持セシム
第二條 保及 甲ノ人民 ヲシテ各連座 ノ責任 ヲ有セシメ其連座者 ヲ罰金若ハ科料 二虎 スル コ
トヲ得
第二條 保及 甲二於テハ各其規約 ヲ定 ムヘ シ其規約中ニハ褒賞及過怠金 ノ法ヲ設 クコ トヲ
得 前項 ノ規約ハ地方長官 ノ認可 ヲ請 フヘ シ
第二條 ノニ 蔓彎線督ハ必要 卜認 ムル トキハ保及甲ノ役員 ヲシテ匡長 ノ職務 ヲ補助執行 セ
シムル コ トヲ得
第 四條 保及 甲ノ役員其職務 二違背 シタル トキハ地方長官之ヲ懲戒 ス
懲罰ハ百園以下ノ罰金剥職及譴責 ノ三種 トス
第五條 保及 甲ニハ匪賊並水火災 ノ警戒防禦 ノ鶯壮丁回ヲ置 クコ トヲ得
第六條 保 甲及泄丁固 ノ編制指揮監督解散経費役員 ノ選任権限等 二開スル規定ハ府令 ヲ以
テ之ヲ定 ム
第七條 此ノ條例ハ地方長官 ノ必要 卜認 ムル地 二限 り蔓湾線督 ノ認可ヲ経テ之ヲ施行 ス
附則 (明 治四十二年律令第五琥)
本令施行 ノ期 日ハ蔓彎線督之ヲ定 ム (明 治四十三年府令第二琥 ヲ以テ同二月一 日ヨ リ施行
ス
)
○保 甲條例施行規則 (明 治 三十 一 年人月 二 十 一 日蔓彎線督府府令第八十 七 琥 )
(改 正 )明 治 四十 二年府令第 六 十 六琥 大 正九年府令第一三六琥
保 甲條例施行規則 左 ノ通 相 定 ム
保 甲條例施行規則
第 一 條 甲ハ 大凡十戸、保 ハ 大凡十 甲 ヲ以 テ編成 スル ヲ例 トス
第 二條 保 二保 正 、 甲二 甲長 ヲ置 ク
甲長 ハ 甲二於テ之 ヲ選 奉 シ保 正 ヲ経テ所轄群守 、支麻長、警察署長又 ハ 警察分署長 ノ認 可
ヲ受 クヘ シ
保 正 ハ保 二於テ選奉 シ所轄群守、支麻 又 ハ 警察官署 ヲ経 テ知事又 ハ 麻長 ノ認 可 ヲ受 クヘ シ
第 二條 保 正 ハ所轄群守 、支麻長 、警察署長又 ハ警察分署長 ノ指揮 監督 ヲ承 ケ保 内 ノ安寧
保持 二任 ス
保 正 及 甲長 ハ 市芳 、街庄長又 ハ 匠長 ノ指揮 ヲ承 ケ保 内又ハ 甲内 二於 テ市ヂ、街庄長又 ハ 匡
長 ノ職務 ヲ補 助執行 ス
第 四條 保及 甲二世丁園 ヲ設置 セ ン トスル トキハ保 正 甲長 ヨ リ所轄郡役所 、支麻又 ハ 警察
161
官署 ヲ経 由シ知 事又 ハ麻長 ノ認可 ヲ受 クヘ シ
第 五 條 甲 ノ世丁園ハ 甲ノ壮丁 ヲ以 テ編成 シ保 ノ壮丁国ハ保 内各 甲 ノ壮丁国 ヲ以テ合成 ス
但土地 ノ状況 二依 り保 正 協議 ノ上数保 ヲ合 シテー 壮丁園 ヲ編成 スル コ トヲ得
国員 ハ 園長 一名副 園長若干名 ヲ互選 シ保 正 ヲ経 由 シ所轄群守、支麻長 、警察署長 又 ハ警察
分署長 ノ認可 ヲ受 クヘ シ
第 六條 園長 ハ所轄群守、支麻長 、警察署長又 ハ 警察分署長 又 ハ 上級 園長 ノ監督 ヲ承 ケ部
下 ヲ指揮 ス
副園長 ハ 園長 ノ職務 ヲ助 ク
第 七 條 壮丁 園ハ 相 互 二應援 スル コ トヲ得
第 人 條 泄丁 園 ニ シテ公 益 二害 ア リ ト認 ムル トキハ 知事又 ハ麻長 ハ 解散 ヲ命 スル コ トヲ得
第 九條 保 甲及壮丁園 二要 スル 費用 ハ 部 内人民 ノ負指 トス
役員 ノ報酬金額 ハ 地方長官之 ヲ定 ム
第十條 経費 ノ収支 豫算 ハ 前年十 二月 中二群守 、支麻長、警察署長 又 ハ 警察分署長 ノ認 可
ヲ受 ケ決算 ハ 翌年 一 月末 日迄 二群守、支麻長 、警察署長又 ハ 警察分署長 二報告 スヘ シ
附則
務署長或 ハ 支署長 卜称 スル ハ 専轄憲兵管 匡 二於テ ハ 憲兵 屯所長
第十 一 條 此規貝」二於テ〃事
トス
(削 除)
第十 二條 此規則 ヲ施行 スル ニ必要ナル 規程 並 此規則 二定 ムルモ ノノ外保 甲條例 ノ施行 ニ
開 スル 規程 ハ 奮慣 ヲ参 酌 シテ知事又ハ 麻長 之 ヲ定 ム
附則 (明 治 四十 二年府令第 六十 六琥 )
本令 ハ 明治 四十 二年十月律令第 五 琥施行 ノ 日ヨ リ之 ヲ施行 ス
緑蔭書房 よ り復刻 )]
[『 台湾 六法』 台湾 日日新報社 1934年 (1999年
。
明治 31年 (1898)保 甲条例 保 甲条例施行規則 が制定 され た。保 甲 とは連座 責任制 の治安
維持組織 の こ とで ある。 甲は 10戸 、保 は 10甲 (合 計 100戸 )か ら成 り、保 には保 正 を、 甲
には 甲長 を置 いた。元 々 は匪賊、水害火 災 に対す る防衛組織 であ つたが 、 マ ラ リア防遇 の
任務 も帯び るよ うになった もので ある。警察 の補助機 関 として の保 甲 とい う位置付 けが で
きる。 また保 甲は追認的性格 を帯びた もの として捉 えれ る。
63『 マ ラリア防遇誌』(1932)30頁
64 同掲書 30頁
65 同掲書 30∼ 31頁
66部 民共同の約束である保 甲規約 は全 14款 で 88条 か らなる規約で、第 1条 ∼第 4条 まで
は保 甲ノ名称及匡域 に関す ること、第 5条 ∼第 13条 までは戸 口調査に関すること、第 14
条∼第 16条 までは戸 口異動届出及整理に関す ること、第 17条 ∼第 22条 までは出入者取締
に関す ること、第 23条 ∼第 26条 までは警戒及捜査に関すること、第 27条 ∼第 38条 まで
衛 生獣疫豫防害虫駆除に関すること、第 39条 ∼第 42条 までは交通に関す ること、第 43条
∼第 48条 まで安寧及風俗 に関すること、第 49条 ∼第 60条 まで世丁園に関すること、第
61条 ∼第 67条 までは規約 上の責任 に関す ること、
第 68・ 69条 で褒賞及救血 に関すること、
第 70条 ∼第 75条 までは保 甲会議 に関すること、第 76条 ∼第 82条 までは経営の収支及賦
課徴収 に関す ること、第 83条 ∼第 88条 までは過怠処分に関することが記 されてい る。
鷲巣敦哉 『 蔓湾保 甲皇民化讀本』台湾総督府 内台湾警察協会 1941年
67大 清潔法 とい う清潔保持 に関する法律 があ り、
『 マ ラリア防過誌』 (1932)12頁 には大清
のよ
いる
して
以下
うに記 されて
。
潔法 に関
一 、大清潔法施行規程 の制定 明治二十八年十一月二十八 日訓令第 二百三十 四琥 を以て大
清潔法施行規程 を嚢布せ り。右規定中 「マ ラリア」防邊に開す る條文抜粋左の如 し
大清潔法施行規程
第一條 麻長 は本規定の定むる庭 に依 り毎年 二同定期大清潔法 を施行す べ し (春 。秋)
第二條 前條 の施行期 日は麻長之を定むべ し
162
第 二條 大清潔法施行 の程度 は土地 の状況 を参酌 し左 の各琥 に準抜 し鷹長 之 を定む べ し
第 三條 一 宅地 の 内外 を掃 除 し雑 草 を刈 除す る こと
第 二條 三 住家 の 内外 に雨水又は汚水 を滲透す る場所 ある ときは之 を改修 し軍 に瀑潤 した
る場所 はには石灰 、木炭末又 は乾燥せ る土砂 を撒布す るこ と
第 二條 六 下水溝 渠 は之 を浚渫 し破損 の箇所 は相営修理 を加 ふ るこ と
第 二條 人 土砂採掘跡 其 の他汚水瀦溜 の場所 は之 を埋没す るか又 は相営排水 の方法 を設 く
るこ と
第 人條 麻長 は大清潔法施行後 三 十 日以 内に其 の顛末 を蔓湾線督 に報告す べ し
大清潔法施行規程 は明治 38年 (1905)11月 28日 に訓令 234号 として発布 された。大清
潔法施行規程 の中でマ ラリア防遇に関係する条文は①年二回 (春 秋)の 清潔法 の実施、②
家屋 の掃除及び草刈 り、③排水装置の設置及び土砂採掘場や汚水瀦溜地 の埋め立て等が規
庁長は大清潔法実施後 30日 以内に清潔法 の実態な どを台湾総督 に報告す る。
定 されてい る。
68同 掲書 13頁 、34頁
一、防疫組合施行規則改正
明治四十四年五月府令第二十六琥 を以て防疫組合施行規則中 「ペ ス ト豫防組合」 を 「防疫
組合」に 「ペ ス ト豫防事項」 を 「博染病及風 土病豫防事項」に改む
明治四十四年五月府令第二十七琥 を以て防疫組合規則第一條第二項に依 る風土病を 「マ ラ
リア」 と定む。
防疫組合 の原型はペ ス ト予防組合 であ り、ペ ス ト予防組合 の職掌が拡充 しマ ラリア防過
などにも従事するよ うになった。
69『 マ ラリア防過誌』 (1932)76頁
70同 掲書 75∼ 77頁
71『 台湾 日日新報』1911年 12月 9日 の小島第二防疫医官談話 ―阿線麻 のマ ラ リア月艮薬 の
ケース 「教師 も施行者 に」 によると「小學校生徒に封する服薬は教師に一任 し賞行せ しむ
長薬 に関 して医師や警察
ることと鶯 し居れ るが成績頗る良好なるが如 し」 と書いている。月
ースが
つ
あ たことが分かつた。
官 だけが施行者でな く教師 も施行者に成 り得 るケ
72こ の防蚊方法は例 えば家屋 の窓に金網 を張 つて蚊 の侵入を防 ぐ、或 は除虫菊其 の他 の科
学的物質の燻蒸によつてこれを駆逐する方法、或は普通行 われてい る蚊帳使用法な どがあ
り、 この防邊方法 をイタ リア流 と呼ぶ。
『 高木友枝追憶誌』41頁 高木友枝追憶誌刊行会 1957年
73『 マ ラリア防過誌』 (1932)3頁 を国語訳 に して引用、また『 蔓彎衛生法規類集』(1918
年)を 参照す
74原 文には話 し言葉 に近 い文章でル ビが付 されてい るが省略する
75『 マ ラ リア防遇誌』 (1932)39∼ 40頁
76中 国語 で書かれた同 じ内容 の文章が続 くが省略す る。
77『 マ ラ リア防過誌 』 (1932)56頁 の本文を現代語訳
「一、
『 マ ラリア』防遇事務講習開始 「マ ラ リア」防過事務講習規程奎布せ られたるに依
り人月十二 日第一 回の事務講習を開始 し引績き第二回第二回の講習を行 ひ計二十人名 の講
習修了者 を出 し各麻 に配置 した り。」
78只 野陽二郎 宮城県に生まれる。明治 41年 警察本署臨時防疫課雇、大正 8年 警察本署
衛 生課技手、同 9年 8月 警務局衛生課技師、同年 12月 蔓北州警務部衛生課技手、昭和 2年
墓北州警務部衛生課衛生技手 となる。 (蔓 溝線督府職員録系統 中央研究院 蔓彎史研
究所)
79穴 澤穎治 医学博士。明治 21年 福島県に生まれる。大正 9年 蔓北州衛生課長、昭和 4
年総督府衛生技師。マ ラ リア病 の研究 に尽力 しマ ラリア博士 と呼ばれた。
『 マ ラ リア防遇誌』
の中に穴澤穎治 の叙述 が 65頁 ∼74頁 にわた つて掲載 されてい る。 (橋 本 白水 『 台湾統治
と其功労者』南国出版協会 1930年 )
163
80森 下薫
1896‐ 1978 寄生 虫学者 、熱 帯病 学者 、理学博 士 、医学博 士。 明治 29年 奈 良
県 に生まれ る。大正 10年 東京帝大理学部動物学科卒業。寄生 虫学 を専攻。北里研 究所助手、
蔓漏総督府 中央研 究所技師 を経て昭和 14年 菫北帝大 医学部教授 (衛 生学 、寄生 虫学 を担 当)
とな る。昭和 22年 大阪大学教授微生物病研 究所 寄生 虫学兼原 虫学部長 とな り、同 35年 退
官後名誉教授 。戦後WHOマ ラ リア専門委員 と して活 躍。 台湾時代 のマ ラ リア及び ハマ ダ
ラ蚊 の研 究 が著名。野 口英世 の研 究家 として も知 られ る。(『 日本人名大事典』平凡社 1979
年)
81桐 林茂 明治 24年 福井県 に生まれ る。大正 5年金沢 医学専門学校 を卒業。 同 6年 大阪
商船株式会社 の船 医、同 11年 総督府港務検疫 医員 、同 12年 蔓北州衛生技師、昭和 11年 地
方技師兼 中央研究所技師、蔓 中州衛 生課 長兼薬 品試験支所 主任 を歴任す る。 (『 改訂 台湾人
士鑑 』 1937年 、 1989年『 台湾人名 事典』 として 日本図書 セ ンター よ り復刻 )
82鈴 木外男 石川 県に生 まれ る。大正 7年 に蔓南 医院 の 医官補 、同 9年 公 立高等普通学校
及び公 立蔓 中高等普通学校 、公 立 高等女学校及 び公 立 蔓 中高等女学校 の嘱託 、同 14年 蔓北
州警務部衛 生課 衛 生技師 、昭和 2年 墓 中州 内務部教育課地方技師、同 4年 中央研 究所台 中
薬 品試験支所 主任兼技師 を歴 任す る。 (蔓 湾線督府職員録系統 中央研 究院 蔓湾史研
究所 )
83宮 川 富士松 福 島県 に生まれ る。大正 4年 蔓南麻 防疫部嘱託、同 8年 蔓南公 署、昭和 3
年蔓北州警務部衛 生課 衛 生技師 、同 6年 墓北州警務部衛生課衛生課長、翌年地方病及停染
病調査委員会臨時委員 を歴 任す る。 (墓 彎線督府職員録系統 中央研 究院 墓潟 史研 究
所)
84下 村八五郎 医学博 士。明治 17年 大分県 に生 まれ る。明治 43年 長崎 医専 を卒業。大正
元年渡蔓。公讐 とな り安平 に駐在 。同 14年 線督府地方技師、翌年墓南警察書、昭和 4年 墓
北州衛生技師、同 7年 新竹州衛 生課長 を歴任す る。 (『 改訂 台湾人 士鑑 』台湾新 民報社 )
85吉 田泰 三 大阪府 に生 まれ る。大正 12年 高雄州警務部衛生課衛 生技師 、同 15年 高雄州
高雄婦人病院院長兼地方技師、昭和 5年 新竹州警務部衛 生課 衛 生課長 を歴任す る。
(蔓 漏線督府職員録 系統 中央研 究院 蔓漏 史研 究所 )
86田 村庄 五郎 福 岡県 に生まれ る。 大正 12年 蔓 中州警務部衛 生課 警部 、翌年 同課 の警察
馨、昭和 5年 新竹州警務部衛 生課 警察讐、同 7年 高雄州警務部衛 生課衛生課長 を歴任す る。
(蔓 湾線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾 史研 究所 )
87池 田末記 熊本 県 に生 まれ る。大正 14年 桃 園郡役所警察課警部補、 昭和 6年 新竹州警
務部衛 生課 警部、同 8年 文官普通懲戒委員会及び巡査懲戒委員会 の新竹州書記 を歴任す る。
(蔓 湾線督府職員録 系統 中央研 究院 蔓漏史研 究所 )
88佐 藤慶 二郎 新潟県 に生まれ る。大 正 8年 新竹馨院弧雇 、昭和 6年 新竹州警務 局衛 生課
衛 生 技手、同 8年 羅東郡役所 三星庄庄 長 を歴任す る。
(蔓 湾線督府職員録 系統 中央研 究院 墓溝史研 究所 )
89重 松英太 福 岡県 に生 まれ る。 明治 45年 蕃務本署理蕃課嘱託、大正 5年 警察本 署衛 生
課 嘱託兼蔓北麻警務課嘱託 、同 8年 警察本署衛 生課 防疫讐官、同 10年 中央研 究所蔓南薬 品
試験支所主任 兼技師、 翌年皇南州警務部衛 生課衛生課長 を歴任す る。
(蔓 湾線督府職員録 系統 中央研 究院 蔓溝史研究所 )
90野 田兵 三 明治 18年 熊本県 に生 まれ る。 明治 42年 長崎 医科大学卒業。大正 9年 蔓南
麻警 察讐、同 12年 新竹州衛 生技 師兼警務部衛 生課長 、同 15年 中央研 究所技師兼蔓南薬 品
試験支所 主任 、昭和 2年 蔓南州衛生課長 に抜櫂 され 内務部教育課 を兼務す る。 (『 改訂 台湾
人 士鑑』台湾新民報社 )
91西 本安衛 岡 山県 に生まれ る。明治 40年 嘉義鷹打猫支麻警部補 、大 正 3年 嘉義麻警務
課警部、同 11年 蔓南州警務部衛 生課警部、昭和 2年 東石郡役所警務課警務課長兼警部 を歴
任す る。
(蔓 湾線督府職員録系統 中央研 究院 蔓湾 史研 究所 )
164
92安 達敬智
医学博 士。明治 24年 長野県 に生 まれ る。大正 4年 金沢医学専 門学校 を卒業 、
同 12年 墓南州衛生課警察讐、同 13年 新竹州衛 生 技師、同 15年 新竹州衛 生課 長 、昭和 4年
高雄州衛生課長兼教育課 、同 7年 墓 中州衛 生課長 、同 8年 中央研 究所技師 を委嘱 され墓 中
薬品試験支所主任、同 11年 皇中州衛生課長を歴任す る。(『 改訂台湾人士鑑』台湾新民報社)
93樺 山味次郎 鹿児島県に生まれる。大正 7年 蔓南麻大 日降支麻警部補、同 12年 蔓南州
警務部衛生課警部、昭和 2年 蔓中讐院書記を歴任する。
(蔓 漏線督府職員録系統 中央研究院 墓湾史研究所 )
94佐 伯長一 広島県に生まれ る。大正 9年 8月 嘉義麻北港支麻警部補、同 13年 墓南州警
務部衛生課警部、同 15年 新豊郡役所警察課警部、昭和 4年 嘉義郡役所警察課警部、同 8年
曾文郡役所警察課課長兼警部を歴任す る。 (皇 彎線督府職員録系統 中央研究院 墓溝
史研究所)
95榊 原保 福岡県に生まれる。大正 14年 蔓南州警務部衛生課警察讐、昭和 2年 高雄州警
務部衛生課衛 生技師、同 5年 高雄州高雄市平安讐院院長 を歴任す る。
(墓 湾線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所 )
96豊 住政次郎 明治 32年 東京都 に生まれる。大正 11年 蔓北医学専門学校を卒業、同時 に
蔓南市衛生技手、昭和 4年 総督府州警察讐、同 8年 台湾衛生技師を拝命、墓南州衛 生技師
として警務部衛生課に勤務す る。 (『 改訂台湾人士鑑』台湾新民報社)
97堀 之内榮蔵 鹿児島県に生まれる。大正 11年 高雄州警察部衛 生課警部補、昭和 2年 菫
南州警務部衛生課警部、同 13年 新竹州新竹警察署署長兼地方警視、同 16年 蔓南州墓南警
察署署長兼地方警視 を歴任す る。 (蔓 湾線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所)
98安 倍貞次 明治 17年 大分県に生まれる。明治 38年 私 立熊本医学校 を卒業。大正 10年
渡蔓、蔓湾公讐 として塩水街に在勤、昭和 2年 蔓湾衛生技師に任官、蔓南州警務部衛 生課
に奉職、同 8年 蔓南警察讐を歴任する。同 12年 に高雄州警務部衛 生課衛生課長 に就任 し、
マ ラ リア防遇 の専門家 として高雄州 の保健衛生事業に尽力 した医学博士。 (『 改訂台湾人士
鑑』台湾新民報社)
99竹 村持城 広島県に生まれ る。大正 10年 曾文郡役所警察課警部補、昭和 3年 蔓南州警
務部衛生課警部、同 5年 殖産局山林課属兼墓南州警部、翌年新化郡役所警察課課長兼警部、
同 9年 虎尾郡役所警察課課長兼警部同 13年 蔓南州警務部保安課課長兼警部を歴任す る。
(蔓 溝総督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所 )
100清 水清一 明治 37年 石川県に生まれる。蔓北医学専門学校を卒業、同時に蔓南州警務
部衛生課に奉職、昭和 8年 蔓南州警察讐を歴任する。 (『 改訂台湾人士鑑』台湾新民報社)
101高 橋幾一 広 島県 に生まれ る。大正 9年 阿線鷹六亀里支麻警部補、翌年蔓南州墓南警
察署警部補、同 14年 新化郡役所警察課警部、昭和 6年 蔓南州警務部衛生課警部、翌年新 豊
郡役所警察課課長兼警部、同 13年 斗六郡役所斗南庄庄長、翌年菫潟都市計画委員会 臨時委
員、同 15年 斗六郡役所斗南街街長 を歴任する。 (蔓 溝線督府職員録系統 中央研究院 墓
溝史研究所)
102勝 木貞次郎 静岡県 に生まれ る。大正 2年 桃園麻料以支麻嘱託、同 4年 嘉義鷹嘉義保
生讐員、同 9年 南投麻公讐、翌年墓中麻公讐、同 11年 高雄州警察部衛生課警察讐、翌年高
雄州警察部衛 生課衛生技師を歴任す る。 (蔓 彎線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史
研究所)
103瀧 澤豊吉 長野県 に生まれ る。明治 36年 蔓中麻警務課警部補、同 42年 蔓北麻警務課
警部、大正 2年 阿縁麻警務課警部、同 11年 高雄州警務部衛 生課警部、昭和 10年 高雄市役
所衛 生課主事兼掃除監督長を歴任す る。 (蔓 湾線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史
研究所)
104島 義雄 明治 24年鹿児島県に生まれ る。大正 11年 京都帝国大学医学部医学科 を卒業、
大正 13年 高雄州衛 生課長 に抜櫂 され巡査懲戒委員を兼任、同 14年 蔓湾線督府警務局衛 生
課に転入、昭和 7年 皇東医院長を歴任する。 (『 改訂台湾人士鑑』台湾新 民報社)
165
105細 川頼市 岡山県に生まれ る。昭和 6年 高雄州警務部衛 生課警部補、同 9年 高雄州警
務部衛生課警部、同 12年 屏東市役所土木水道課吏員及書記 を歴任する。
(菫 湾線督府職員録系統 中央研究院 墓湾史研究所 )
106頴 川一三 官城県に生まれ る。大正 6年 嘉義麻公 署、同 11年 蔓南州公讐、同 14年 蔓
南州警務部衛生課嘱託、昭和 2年 花蓮港麻警務課警察讐、同 6年 蔓南州刑務所讐務係保健
技師を歴任す る。 (蔓 彎線督府職員録系統 中央研究院 墓漏史研究所)
107清 水倉太 明治 18年 福岡県に生まれ る。明治 40年 渡蔓、深坑麻巡査、大正元年花蓮
港麻巡査、同年警部補に昇進、同 8年 警部、同 12年 警務課衛生係長、そ の後玉里支麻長、
花蓮港支麻長 を歴任する。 (『 改訂台湾人士鑑』台湾新民報社 )
108内 木場豊吉 鹿児島県に生まれる。大正 12年 花蓮港麻警務課衛生技手、昭和 3年 膨
湖鷹公署、同 8年 蔓東麻公 讐、同 12年 花蓮港麻警務課警察書、翌年鳳林郡役所警察課嘱託
を歴任する。 (蔓 溝線督府職員録系統 中央研究院 蔓彎史研究所)
109本 浦籐松 長崎県に生まれ る。大正 14年 花蓮港麻研海支麻雇、昭和 3年 花蓮港麻警
務課衛生技手、同 7年 花蓮港麻 □莱医院嘱託 を歴任す る。
(蔓 湾線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所 )
HO松 本留吉 明治 22年福島県に生まれ る。大正 4年 東北帝国大学医学専門部医学科 を
卒業、同 8年 科技庁防疫讐務を嘱託、同 10年 讐官 に昇進、昭和 6年 線督府警察馨 として花
蓮港麻に勤務。 (『 改訂台湾人士鑑 』台湾新民報社)
Hl『 マ ラ リア防邊誌』 (1932)55頁
H2沼 田俊 東京都 に生まれる。明治 45年 嘉義麻北港支麻警部補、大正 3年 警察本署衛
生課警部兼台湾中央衛生会書記、翌年地方病及博染病調査委員会書記を歴任する。
(蔓 湾線督府職員録系統 中央研究院 墓湾史研究所 )
113光 田蒲喜太 岡山県 に生まれ る。明治 42年 5月 斗六麻警務課警部補、翌年嘉義麻斗
六支店警部補、大正 8年 警察本署衛 生課警部、同 9年 警務局衛生課警部兼地方病及博染病
調査委員会書記、同 11年 蔓北州警務部衛生課警部を歴任す る。 (蔓 湾線督府職員録系統
中央研究院 蔓湾史研究所)
114尾 田通永 熊本県に生まれ る。大正 8年 警察本署衛生課雇 、同 11年 蔓北州警務部衛 生
課衛生技手を歴任す る。 (蔓 溝線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所)
H5三 浦民司 福岡県に生まれ る。大正 8年 警察本署衛生課雇、同 11年 基隆郡役所警察課
雇、同 13年 蘇澳郡役所警察課雇、昭和 11年 蔓北州警務部衛生課雇、同 15年 基隆市役所衛
生課雇を歴任する。 (墓 漏線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所)
H6こ の時 の警務局長 は富島元治 とい う人物で、彼 は蔓彎絶督府警察官及師司獄官練習場
署長 で大正 9年 に市区計画委員會や水利委員會、墓溝 中央衛生會、蕃地調査委員會 の委員
を歴任す る。 (『 旧植民地人事総覧 台湾編 4』 日本図書センター 大正 9年 7月 1日 269
頁∼351頁 1997年 )
H7『 マ ラ リア防邊誌』 (1932)4頁
H8下 村宏 官僚、ジャーナ リス ト。 (1875∼ 1957)和 歌山県に生まれ る。東京帝国大学
卒業後、逓信省 に入 り、為替貯金局長等を務める。大正 4年 (1915) 明石元次郎台湾総
督 に招かれ 、台湾総督府民政長官 (後 に総務長官)と な り植民地行政 に携 わる。同 8年 法
学博 士。lo年 に大阪朝 日新聞社入社、昭和 5年 (1930泊 1社長 となる。同 11年 に退職 し、同
12年 貴族院議員 となる。同 18年 日本放送協会会長。同 20年 4月 鈴木貫太郎内閣に国務大
臣兼情報局総裁 として入閣 した。同年戦犯容疑者 として拘留。21年 か ら 26年 にかけて公職
追放。著作に『 新聞に入 りて』(1915)や『 終戦秘史』 (1950)力 `あ り、エ ッセイや歌集 も多
い。有山輝雄 「下村海南」
『 近現代 日本人物資料情報事典』吉川弘文館 2004年
H9明 治 28年 勅令第 71号 については原典史料を収集 できてお らず詳細な内容は分 かつて
お らず今後 の課題 にしたい。
120台 湾伝染病予防令第 21条 第 2号 には以下のよ うに記 されてい る。
166
第 二十 一 條 麻長 ハ博染病豫 防上必要 卜認 ムル トキハ左 ノ事 項 ノ全部又 ハ ー 部 ヲ施行
スル コ トヲ得
二 市街村落 ノ全 部又 ハ ー 部 ノ交通 ヲ遮 断 シ又 ハ 人民 ヲ隔離 スル コ ト
公文類纂』第二十人編 大正三年 (1914)第 十九巻
121種 痘に関しては栗原純氏の 「台湾における日本植民地統治初期 の衛 生行政 について―
)
(『
『 台湾総督府公文類纂』に見る台湾公医制度を中心 として一」東京女子大学『 史論』第五
七号 二〇〇四年が詳 しい。
122『 マ ラ リア防遇誌』 (1932)60、 61頁
123博 染病豫防救治二徒事 スル者 ノ手営金 二開スル法律 (明 治二十二年七月 法律第 30
琥)
第一條 判任以上ノ官吏二非 スシテ博染病 ノ豫防救治 二従事 スル者公務 二因 り病毒 二感染
シ又ハ之二原因シテ死亡シタル トキハ本法 ノ規定二依 り手営金 ヲ給 ス
第二條 手営金は左 ノ 4種 トス。
一 治療料 二 給助料 三 弔祭料 四 遺族扶助料
中略
二
ハ
第六條 手営金 國庫支耕 ノ事務 従事 スル者 二在 リテハ 國庫 ノ負指 トシ府縣費支耕ノ事
務二従事スル者 二在 リテハ府縣 ノ負謄 トス。
第七條 地方長官ハ市匡町村 二指示 シ本法 ノ規定二準 シ其ノ博染病豫防救治 二徒事 スル者
ノ手営金支給 二開スル規定 ヲ設ケシムル コ トフ得。
明治二十二年七月 ヨリ蔓湾 二施行 ス。
墓溝線督府総務局地方課 『 蔓彎地方制度法規輯覧』 蔓湾地方 自治協會刊行 1943年
124台 湾伝染病予防令第 8条 については以下のよ うに記載 されてい る。
第人條 営該吏員必要 卜認 ムル トキハー定 ノ日時間俸染病患者 ア リタル家博染病毒 ニ
汚染 シ若ハ汚染 ノ疑 アル家 ノ交通 ヲ遮断シ又ハ病毒感染 ノ疑 アル者 ヲ隔離所其 ノ他適
営 ノ場所 二隔離 スル コ トフ得 (『 公文類纂』第二十人編 大正三年 (1914)第 19巻 )
125台 湾伝染病予防令第 21条 第 7号 及 び第 8号 については以下のよ うに記 されてい る。
第二十一條 麻長ハ博染病豫防上必要 卜認 ムル トキハ左 ノ事項 ノ全部又ハー部 ヲ施行
スル コ トヲ得
七 清潔方法又ハ消毒方法 ヲ施行シ又ハ之力施行 ヲ命 シ及井戸、上水、下水、溝渠、
芥溜又ハ厠同ノ新設、改築、愛更若ハ康止 ヲ命 シ又ハ其ノ使用 ヲ停止 スル コ ト
人 一定ノ場所 二於ケル漁携、済泳又ハ水 ノ使用 ヲ制限シ又ハ停止 スル コ ト
大正三年 (1914) 第一九巻)
(『 公文類纂』第 二十 人編
126『 マ ラ リア防過誌』 (1932)62頁
127台 湾新民報社 『 改訂台湾人士鑑』 1937年 170頁
128『 台湾総督府職員録系統』 (蔓 溝史研究所 中央研究院)
http:〃 who.ith.sinica.edu.tw/s2g.action、
台湾総督府公文類纂 第 3191冊 第 64件 第 5張
129台 湾新民報社 『 改訂台湾人士鑑』 1937年
130下 村 八五郎 「墓南州下二於ケル「マ ラリア」防過作業 ノ賞際 卜其成績」
『 蔓湾讐學会雑
誌』 (358) 1935年 73∼ 74頁
131下 村論文は『 菫湾線督府衛生部業績』にも収められてい る論文で当時の衛生観念 の普
及やマ ラ リア防遇 の実態などを知 ることが出来き、「史料」 としての価値 も充分にある論文
である。
132嘉 義 におけるマ ラリア防邊デー については『 マ ラリア防遇誌』238頁 に以下のように
記 してある。
州営局 二於テモ之ヲ憂慮 シ防遇定 日ノ制 ヲ設ケ営地域ハ毎月十五 日ヲ之二営テ五月 ヨ
リ賞施 シ、従事員ハ勿論警察官公共園證ハ率先 シテ之ガ指導励行 ノ衝 二営 り或ハ宣博
167
講話 ヲナ シ、住 民 二於テハ 各 自防過的清潔法及防蚊 駆除 ノ方法 ヲ講 ズル 等最 モ 意義 ア
ルー 日タラシメ、従 ッテ成績大イ ニ奉 リツ ゝアル ヲ認 メラ レシガ (中 略 )次 デ大正十
四年五月告示 ヲ以 テ本州管 内一 回 ヲ防過地域 二編入 セ ラ レ同時 二防遇専属 巡査 一名 ノ
配置 ニ ヨ リテ地物整理及蚊帳 ノ使用励行 ヲ措任 セ シメ、一 面従 来 ノ防過定 日ノ制 ヲ再
興 シ之ガ活用 ノ方針 ヲ樹 テ 賞行 二カ ヲ注 ギシニ 、 (中 略 )計 董 ノー 部 ヲ愛更 シ各保 甲費
ノ負指 ヲ以テ事務巡査監督 ノ下 二 常傭人夫十 五名 ヲ使役 スル ノ法 ヲ設 ケ同年 月 ヨ リ賞
行 シ成績 ノ見ル ベ キモ ノア リシガ負指 困難 ノ篤大正十 五 年 二 月限 り之 ヲ廃 止 シ、再 ビ
保 甲民出役 ヲ以テ励行 二努 メシ結果鬱蒼 タル竹 藪雑 草 ノ如 キモ 殆 ド伐採 シきサル ゝニ
至 レリ
以 上 の史料 よ り嘉義では毎月 15日 をマ ラ リア防過デ ー と設定 し、住 民 に対 し警察官や 公
共団体 が講話 を した り、防過的清潔法 を講 じた り、防蚊駆除 の法 を講 じた りした。 また防
過専務巡査 を一名配置 し、 地物整理や蚊帳使用 の励行 を住民 に促 した。 専務巡 査監 督 の 下
に常傭人夫 15名 を使役す る法 を設 けた が 、保 甲費 の負担 が困難 にな り大正 15年 3月 に廃
止 とな り、再び保 甲民 の 出役 を以て地物整理や外部作業 を行 つた こ とがわか る。
133能 澤外茂吉 石川県 出身 の警察官僚 で 1920年 8月 に墓 中地方院法院 の判官、1923年
に警務 局警務課 の事務官、翌年台南州警務部警務部長 を歴任 し、1927年 に河川調査委員会 、
水利委員会 の幹事 になる。 1933年 に台湾 中央衛 生会 の委員 を歴任す る。
「台湾総督府職員録系統」 (墓 湾 史研 究所 中央研 究院 )
134佳 里については『 マ ラリア防邊誌』 (1932)232頁 に詳細に載 ってい る。佳里 の地勢
とマ ラリアの関係 についてい うと 「数年前 は全部落殆 ど竹林を以て覆はれ且各所 に濠 あ り
て蚊族 の発生甚だ しく、従 つて 「マ ラ リア」病猫薇 を極め毎年死亡超過 を見、郡下に於て
最 も不健康地 と目され居た りしが、「マ ラリア」防邊施行地に編入以来住民に対 し、強制服
薬を開始 し叉竹林 の伐採凹地の埋立排水溝 の開設 な ど地物整理に力 を致 したる結果、遂 に
「マ ラリア」防遇作業 の模範部落 とな り、「マ ラリア」患者著 しく減少 し衛生状態良好 とな
れ り。」 とある。
135新 市については『 マ ラリア防遇誌』 (1932)224頁 に詳細に載 つてい る。新市 の地勢
水不良に して瀑地多 く
とマ ラリアの関係 についてい うと、「地域内は土地平坦なるを以てツト
加ふ るに部落一帯芭蕉蓮霧其他樹木繁茂 し鶯 に蚊族 の奎生棲息に適 したるを以 て外部作業
水は良好 とな り地域
に意 を注ぎ排水溝 の掘整及池沼凹地 の埋立を鶯 した り、之に依 りてツト
内の湿潤地を一掃す るを以て衛生状態 も亦良好 となれ り。」 とある。
136専 務巡査はマ ラ リアの疫学的知識 注入 のために講習会を開き、マ ラ リアの歴史、起原、
原轟奎、見蚊媒 の事実、蚊 の種類及び区別並に防蚊法乃至蚊族剰滅 法等 の知識 を会得 し、
マ ラ リア防邊作業 の指導監督者 として選ばれた 20名 余 りの警察官 のこと
『 墓溝讐學会雑誌』
下村八五郎 「蔓南州下二於ケル「マ ラ リア」防遇作業 ノ賞際 卜其成績」
(358)1935`■ 62∼ 63頁
137マ ラ リア防邊事務嘱託 については下村八五郎 の 「墓南州下二於ケル「マ ラ リア」防遇作
業 ノ賞際 卜其成績」
『 蔓湾讐學会雑誌』(358)1935年 63頁 に以下のよ うに記 されてい る。
マ ラ リア防過専務巡査 ヲ配置 シ且技術官 ノ指導監督 ノ下二防邊作業 ノ賞務 ヲ施行セル
モ無理解ナルー般民衆 ニハ 尚マ ラ リア防過 ノ意味徹底セズ、事業 ノ園滑進捗 ヲ期 シ難
キヲ以テ地方有識階級 ヲシテ先覚指導 ノ任 二営ラシムル ニ如クハナシ ト鶯 シ、學校長
保 正其他有力者 ヲマ ラリア防遇委員 二任命 シ、一般民衆 二先立チ外部作業地物整理 ヲ
篤サ シメ、一 面蚊帳 ノ奨励 二活動セシメタ リ。 之等委員 ニハ彼等 ノ地位 二鑑 ミ無手営
トシ、但慰安會 ヲ開キ彼等 ノ平素 ノ努カ ヲ稿 フ コ トゝセ リ。此方法 ニテ地方有力者ハ
率先本事業 ヲ助長 シ、 目的達成 二多大 ノ成果 ヲ収メタ リ。
マラ
以上の史料 よリマ ラ リア防過事務嘱託は地方 の有力者階級 (学 校長、保 正な ど)力 `
の
い
を
って
を行
地物整理
一
、蚊帳
奨励
外部作業や
リア防過委員 に任命 され、 般民衆 に先立
実施す る。彼等は無手当だが慰安會 を開催 し、彼等 の平素 の努力 を稿 うよ うな施策 を採 つ
168
ている。
138こ れに関 しては『 マ ラリア防過誌』 (1932)170∼ 173頁 を参照する。
139上 出英一 石川県に生まれ る。明治 41年 に末蔓 し堕水港麻警務課警部補 とな り、明治
45年 に台南麻鳳山支庁警部補、大正 6年 台南庁警務課警部補、同 13年 新豊郡役所警察課
警務課長兼警部、昭和 3年 虎尾郡役所警察課警務課長兼警部を歴任す る。
(蔓 彎線督府職員録系統 中央研究院 墓湾史研究所 )
140開 帝廟 とは開羽 を祀 つてい る廟で武廟 とも呼ばれる。
141白 井房吉 福島県出身で大正 12年 (1923)に 東石郡役所警察課警部補、昭和 3年 (1928)
に北港郡役所警察課警部補、同 7年 か ら約 10年 間東石郡役所鹿草庄 の庄長を歴任す る。
(蔓 彎線督府職員録系統 台湾史研究所 中央研究院)
142衛 生映画について纏 めた研究 としては川瀬健一が 2013年 6月 29日 (土 )に 天理大学
「
で開催 された天理台湾学会第 23回 研究大会 において 口頭発表 を行 つた際 の資料 である 日
‐
‐
`
本統治時期 に放映 された博染病豫防映画 について 大正年間 を中心に 」 (2013)力 ある。
143西 本安衛 岡山県 に生まれ る。明治 40年 嘉義鷹打猫支麻警部補、大正 3年 嘉義麻警務
課警部、翌年嘉義麻 臨時防疫部部員兼警部、同 11年 蔓南州警務部衛 生課警部、同 13年 北
門郡役所警察課長兼警部、昭和 2年 東石郡役所警務課警察課長兼警部を歴任す る。彼 もま
たマ ラリア防過に関す る専門家でマ ラリア防遇講習 の講師 を務めた人物である。
(蔓 溝線督府職員録系統 中央研究院 蔓脅史研究所 )
144劉 士永によると大正 14年 (1925)に 流行性脳炎 が台南 。嘉義 で大流行 した と 2014
年 10月 24日 の第 10回 嘉義研究大会 と批評 して くれ た。
145蚊 帳 の奨励 について は下村論文 67頁 に以下のよ うに記 されてい る
大正 13年 局部的二、大正 14年 ヨリ州下全般 ニマ ラリア防遇規貝Jヲ 施行 シ其全部 ヲ又
ハー部 ヲ賞施 スル ニ営 り、外部作業、地物整理等蚊族撲滅 二邁進セル外蚊族刺督 ヲ防
グ鶯蚊帳 ノ確 賞使用 ヲ督励 セ リ。州下民衆ハ普通寝蔓適應 ノ蚊帳 ヲ有セザル ノミナラ
ズ、吊方 ノ不完全又ハ破損等 ノ鶯蚊族 ノ自由自在 二出入 リシ人身 ヲ襲 フヲ以テ特二之
等 二注意 ヲ排 ヒ民衆 ノ自覚 ヲ促セ リ。蚊帳調査表第 7表 ノ如シ。本表ハ州下郡部 二於
ケルー般蚊帳 ノ調査 ニ ヨルモ ノニシテ、之 レニ ヨリ不足数又ハ不完全ナルモ ノニ封 シ
テハ購入 セシムル方法 ヲ講 ジタリ。然ル ニ貧困ニシテ 自ラ購入 ノ資カナキ者 ハ全額又
ハー部補助 ヲ興へ、州 ヨリ又ハ街庄 ヨ リ購入給典 スル コ トゝセ リ。尚購入 ノミナラズ
吊方 二於テモ不備 ノ尉多キヲ以テ、之等 二特 二注意 シ且ツ僅 ノ小孔ヲモ修繕セシメ、
又夜間蚊帳外 二就寝 スル ヲ禁ジ特二警察官 ヲ巡視セシメ、以テ蚊帳完全使用 ヲ督励 セ
リ。之等 ノ督励ハ不知不識 ノ間二民衆 二感應 シ、数年 ナラズシテ彼等は自奎的 二使用
スル ノ域 二達セ
以上 の下村論文 よ り蚊帳 の使用励行 を促 し、僅 かな穴も修繕す るように督励 した。 また
蚊帳購入 が困難な貧困者 には全額若 しくは一部補助 し州又は街庄か ら購入給与 とした。夜
間に蚊帳を使用 しているか どうか警察官が巡視 し、蚊帳 の完全使用を督励 した。数年 で部
落民 たちは 自発的 に使用す るよ うにな つた こ とが分 か る。
第 7表 蚊帳普及調 査表 (昭 和元年年 枷
郡別
寝皇敦
現在蚊帳数
購入敦 (大 正 14年 末 )
新豊郡
19,265
17,441
8,740
同 328帳
新化郡
24,100
21,829
10,681
同 367帳
曾 文郡
21,020
19,599
4,885
1,485
同 29帳
29,580
26.920
9,405
2,660
同 969帳
30,375
29,863
1,328
同 58帳
Jヒ F号
署椰
新 螢郡
169
不足敦 並 買換敦
摘要
嘉義郡
61,726
61,297
斗六 郡
33,433
31,279
虎尾郡
34,088
31,968
北港郡
24,136
18,917
東石郡
38,817
27,661
4,090
1.201
同 33帳
同 188帳
10,196
3,435
8,464
2,970
146増 田秀吉 明治 20年 、埼 玉県 に生まれる。大正三年 の帝大出身、秋 田県か ら渡菫 し、
総督府民政局土木課に居た こともある。その後大正 14年 に台南州 の警務部長、、墓北州警
務部長 を歴任後、欧米各国を視察 し、婦府後皇北市ヂ (市 長)と して墓北市電敷設計画を
自紙 に戻 した人物 であ り、昭和 10年 の台湾大地震 の後 の新竹州知事を歴任 した人物 である。
橋本 白水 『 台湾統治 卜其功労者』南國出版協会 1980年
147高 雄州 での衛 生模範部落建設については『 昭和十一年高雄州衛 生要覧』(高 雄州警務部
衛 生課 。昭和十二年十一月十五 日)74頁 に以下のよ うに記 されてい る。
州下も各濃疫部落を施行地域 に指定 して之が撲滅に努力 し、更 に昭和五年 よ り防過規
則 の一部を全州下 に施行 して竹木 の下枝伐採、埋立、雑草刈払、排水建設、清潔保持
豚舎、堆肥舎及便所 の建設 を為 さしむると共に防過思想 の啓発 に努 めて之が 目的達成
を期 し其 の作業状況を審査表彰 して州下を挙げて優良部落 の建設に努力中な り
以上の史料 より高雄州において もマ ラリア濃疫部落 を防過施行地域に指定 してマ ラ リア防
邊に努め昭和 5年 (1930)よ り防過規則 の一部を全州下に施行 して竹木 の伐採 。埋立 。雑
草の刈 り取 り 。排水 の工夫 。清潔な豚舎や便所 の建設・ 防過思想 の啓発普及等を行 い、 目
的達成 のために作業状況を審査表彰 して州下を挙げて優良部落 の建設に尽力 した とい う。
註 138の 表
開催 日
州鷹
講師名
昭和 3年 3月
衛 生技 師
同 4年 3月
墓北州
同
6年 3月
同
5年 3月
役職
宮川富 士 松
衛 生課長
同 6年 3月
下村八五郎
衛生技 師
宮川富 士 松
衛生技師
大 正 12年 3月
同 13年 3月
同 14年 3月
皇南州
同 13年 3月
嘱託
同 14年 3月
地方技 師
同 15年 2月
下村八 五郎
昭和 2年 1月
警察医
同 3年 3月
大 正 14年 3月
柿原保
170
地方技 師
昭和 2年 1月
同
3年 3月
安倍貞次
衛生技師
榊原保
衛 生技師
頴川 一三
警察馨
同 4年 3月
同 6年 3月
大 正 15年 4月
同年 5月
同年 7月
同年 11月
昭和 2年 4月
同年 5月
同年 6月
同年 7月
高雄州
同年 9月
同年 10月
同
3年 8月
同年 9月
同年 10月
同年 12月
同 4年 1月
同年 2月
同年 7月
昭和
花蓮港慮
同
2年 8月
4年 4月
『 マラリア防過誌』170∼ 173頁 より(一 部 引用 )
148太 田肥洲 『 新菫湾 を支配す る人物 と産業史』墓湾評論者 1940年 500頁
149戦 前 。戦中期 アジア研究資料 2『植 民地社会事業関係資料集 [台 湾編]25』 「医療 と衛 生
衛生 2」 近現代資料刊行会 2001年 6月 復刻 所収
150『 マ ラ リア防過誌』 (1932)1∼ 2頁 において 甲仙哺採脳拓殖会社 のマ ラリア防過 につ
いて以下のよ うに記載 されている。
々
明治 三十 九年元阿線鷹下に於て甲仙哺採脳拓殖株式会社 が 甲仙哺 山地 に於 いて大 的
採脳事業 を企董 し内地より多数 の採脳人夫 を招致 した りしに彼等 の多 くは 日な らず し
て本病 の侵襲 を被 り同時に本島人部落方面 に博播 して大流行を末 し患死者相次 ぐの惨
状を呈せ り。鶯同會社 は非常なる悪影響 を被 り事業経螢上一大支障を生 じ居 る趣 を以
て之が善後策 を線督府に依頼す る所 あ り故 に線督府は営時欧米各地を視察研究 して掃
府 したる讐學校教授及地方病及博染病調査委員會臨時委員 たる木下嘉七郎を して同地
豫防方法 を賞施 した り之即ち
に出張せ しめ同教授指導監督 の下 に厳重なる「マ ラリア」
171
本 島に於 ける「マ ラ リア」防過 の濫傷 とせ り。木下教授 は明治 四十年 四月先 つ 同地 に於
ける在来住民 の採 血 検 査 を行ひ「マ ラ リア」の侵疫度 を測定 し而 して検 出せ る原轟保 有
者及び時 々 の嚢生患者 に対 しては悉 く完全 なる服薬 を加 へ 次 で 同年 七 月 よ り同地住 民
艮
二五〇〇 人 に封 し「コ ッホ」氏 のグ ラ ム豫防法 を施行せ り此方法 は住 民に封 し豫 防的月
「
ニ
○瓦 を九,十 の爾 日に服用せ しめ(年
薬 を強要す るもの に して即 ち成人 は キ ー ネ」一。
の
のに
して
て
るも
に
あ
り
を連績す
其
効果頗 る顕著 なるもの あ りき。
)之
齢謹性 従 差
ニ
コ
要す るに木下嘉 七 郎 を中心 に ッホ流 のキ ー ネ予防内服法 を実施 して マ ラ リア防過 を行
った。
151蔓 彎地方病及博染病調査委員會 墓彎地方病及博染病調査委員會規程 (明 治 32年 11月
決 0[抄 ]
一 蔓漏 に於 ける地方病博染病及阿片膝者治療法 の調査研 究 をなす鶯墓溝線督府 に蔓溝 地
方病及博染病調査委員會 を置 く
一 墓湾地方病及停染病調査委員會 は左 の職員 を以て組織す
委員長 一 人 委員 若干人
委員長 は民政長官 を以て之 に充 て委 員 は童湾線督府及所属官衛 高等官 の 内 よ り菫湾線督 之
を命 す
一 蔓湾線督 は必要 と認 む る ときは常任委員 の外 臨時委員又 は委 員補助 を命す る こ とある
ヽし
一 委員會は調査検察 の篤會員を臨時各地方に派遣す るの必要を認むる ときは之を蔓漏線
督 に具申す
一 委員長は會務 を線官 し議事を整理す
一 委員會に幹事一人書記若千人を置 く
幹事は蔓彎線督府高等官 内より墓湾線督之を命 し書記は蔓湾線督府及所属官衛判任官 に就
き委員長之を嘱託す
一 幹事 は委員長 の命 を承け庶務を整理 し書記は幹事 の命 を承け議事 の筆記及庶務に従事
す
委員 研究所技師 高木友枝
委員長 民政長官 下村宏
委員
讐院院長 稽垣長次郎 委員 讐學校教授 堀内次雄
倉岡彦助
幹事 技師
委員
防疫医官 羽鳥重郎
有田茂基
書記 警部
後藤祐明
幹事
警視
沼田俊
書記
警部
『 旧植民地人事総撹(台 湾編)4』 日本図書センター 1997年
152台 湾南部 の移民村 である日の出お よび常磐村 と同 じよ うに千歳村 も「藤草移民村」と呼
ばれた。煙草移民 として昭和 11年 (1936年 )4月 入植、老濃渓新生 地に建設 された。500
│1北 。下平 の 4つ の衆落 があつた。 100戸 ・487人 規模
甲の耕作面積 を持ち、上里 。中国・り
の移民村 であつた。 九州 か らの移民が多 く、鹿児島県出身者 が多かつた。
荒武達郎 「日本統治時代台湾東部へ の移民 と送出地」
『 徳島大学総合科学部 人間社会文化
研究』第 14巻 2007年
153総 督府 は曇に移民収容十ヶ年計画を樹 立 し十ヶ年間に三、五二人戸 の内地人農業移民を
招致す ることとな り其の第一年 目事業 として昭和十一年度 に二九五戸を入 植せ しめる予
定 の処既に本年七八月迄に高雄州屏東郡下、下淡水渓新生地中に千歳村、常盤村 を建設 し
一六五戸 の移民を定着せ しめたるが今回又人○戸を左記要 項に基き台中州北斗郡下、濁水
渓新 生地の一部に入植せ しめることに決定 し台中州 と協力 し目下着 々移民建設 中である而
して残余五〇戸中三〇戸は台南州下、新 虎尾渓新生地ノー部二〇戸は台中州北斗郡下、秋
津村隣接地 に入植せ しめる筈 である
計画要項
172
一 、移住 地域
北斗郡北斗街及渓 州庄 内濁水渓新 生地約 四〇五 甲
二 、移 民募集地域
内地 (九 州 中国及 四国地方 の予 0及 島内
三 、移 民に対す る割 当土地 (一 戸 当)
耕 地 となるべ き土地
三 甲六 (田 六分畑 三 甲)
宅地 となるべ き土地 〇 。一五
共有地 ○・ 五 〇
計 四 。一五
四、移 民に対す る補助金 (一 戸 当)移 民家屋 建築費、飲料水施設費農具及役 畜費 、医療費 に対
す る一 部 の補助 金 として約 六〇〇 円外 に煙 草乾燥 室建築費 に対 し明年度 に於 て 其 の 実費 の
約 三 分 の一 を補助
五 、移 民村 の 土地利用 区分
△田四人 甲△畑 二 四〇 甲△宅地一二 甲△道 路灌漑排水其 の他 の敷地 七三 甲△計 四〇 五 甲
六 、移 民 の農業経営
各移 民は毎年 左 記収穫 を挙 げる様経営 をなす もの とす
△水稲 六分 △小麦 六分 △煙 草 一 甲△甘庶 一 甲△甘藷 一 甲
七 、募集及入植 時期
募集 の時期 は内地 は明年 一 、二 月 中、島 内は明年 一 月 中入 植時期 は内地及 島内共 に明年 二
月中
尚本 島移 民 の将来 に付 ては総督府 は単 に右第 一 次移 民収容十 ヶ年計画 に止 ま らず更 に山地
開発調 査及東部開発事業 の結果 内地人農業移 民適地 を求 め之 に 対 し第 二 次移 民収容計画
を樹 立 し多数 の 内地人移 民 を招致 し其 の実生活 を通 し一層 内台人融和 の実 を挙 げ帝 国国力
の伸展 に資せ ん とす るものの如 し
台湾 日日新報 1936年 12月 15日 「府 の移 民事業計画十 力年 に 3500餘 家族 本年 は 295
戸 を招致 内 80戸 を墓 中州 に」
154マ ラ リアの感染 状況 の主な指標 は原 虫保 有率 (parastte rate)と 牌腫率 (spleen rate)
ウ ロビ リノーゲ ン反應 の三種類 で ある。原 虫率 とは人 口 100人 に対す る原 虫保 有者 の割合
で あ り、 この原 虫保有者 とは、血 液 中か ら原 虫が検 出 され た こ とで感染 を認 定 され た者 を
指す。 一 方牌腫率 とは、膊臓 が一定以上肥大 した こ とを以 て感染者 と認 定 し、 そ の割合 を
卑腫率 は比較的動揺 が少 な く、 ある時点 にお ける感染状態 を把握す るのに
示す値 をい う。月
ヘ モ グ ロビン
有力 なる根拠 とな る。 ウ ロビ リノ ーゲ ン反応 は ビ リル ビン とい う赤 血 球 中 の
が肝臓や牌臓 な どで壊 され た ときにで きる胆汁 色素 が腸 に排泄 され腸 内細菌 に よつて分解
され た もの を ウロビ リノ ーゲ ン といい 、尿検 査 を し、 それ が 陽性反 応 を示 した場合 マ ラ リ
「
アに罹 つてい る と看倣す。また原 虫率 の数値 は、流行浸淫度 を示 し、1%台 は 低 い 」、2∼ 3%
台 は 「やや高 い」、4%台 か らは 「かな り高 い 」 と評 され る。
155 昭和 10`手 の誤 りか
1566.71%の 誤 りか
1571.23%の 誤 りか
1581.28%の 誤 りか
159o。 51°/0の 誤 りか
1605.15%の 誤 りか
161 5。 36%の 誤 りか
1622.75%の 誤 りか
163 4.530/0の 誤 りか
173
164 8.74%の 誤 りか
1656.62%の 誤 りか
1663.16%の 誤 りか
1673.14%の 誤 りか
1683.75%の 誤 りか
169 831の 誤 りか
170 705206D司 呉りか
171松 脂 か ら造 られ た石鹸 の こ と
172ベ ル ガモ ッ トとは ミカ ン科 の常緑高木樹 の柑橘類 で主産 国はイ タ リア、チ ュニ ジア 、
モ ロ ッコ、 ギニ アである。
173レ モ ング ラス (香 亡 )か ら採取 した蚊取線香 の よ うな ものでマ ラ リア防過 に相 当な効
果 が あ つた とのこ と。
『 熱帯衛生並 二熱帯病提要』 (台 湾軍軍讐部編 大正 11年 )192∼ 198頁
国立国会図書館 近代デ ジタルライブラリー閲覧
174『 官営移民事業報告書』は大正 8年 (1919)に 台湾総督府 によつて編纂 された報告書
で吉野村、豊 田村、林 田村 の概要 を七つの項 目[地 誌、戸 日、衛生、土地及農業、教育及宗
教、移民の経済状態]で 書 かれている史料であ り、衛生 の項 目の中に移民地のマ ラリアの状
況 が分かる。
175移 民地 の衛 生状態 な どが分 か り得 る史料に濱 田隼雄 の『 南方移民村』があ り、 この本
はマ ラリア防過に尽力 した神 田全次をモデルにしている小説である。 この小説の中に多 く
マ ラ リアに関する記述 が見受けられ る。
176恙 轟病 の原因はツツガムシ とい うダニが持つ リケッチアで、ツツガムシに草む らな どで
吸着 されると菌が体内に入 つて発症 します。恙轟病 の発見者 はマ ラ リア防遇な どで多大な
功績 のある羽鳥重郎 で、羽鳥 は恙轟病研究 の第一人者 である。
177筆 者 が確認 している段階では一番最初 に設立されたマ ラリア防遇組合 である。台南 で
は昭和 12年 にマ ラ リア防過組合 が組織 されてい る。
『 台南州衛生概況 一昭和十四年版 ―』(台
南州警務部衛 生課 、1939年 )台 中州 では保健組合 といい、昭和 11年 に組織 されてい る。
『 昭和十四年版保健組合事業概況書』 (台 中州警務部衛 生課、1939年 )
178『 官営移民事業報告書』 (1919年 、台湾総督府)133∼ 136頁
179註 178同 掲書 125頁
180吉 野村 の腸チ フスの防遇 に就 いては『 台湾 日日新報』 1934年 1月 13日 付 に以下のよ
うに記 されてい る。
吉野村 では一昨年二十二名 の腸チ フス患者奎生以東大恐慌を末 したので花蓮港麻衛 生
係 ではこれが豫防撲滅 を期す る鶯昨年全戸に封 し三回に亙 り豫防注射 を励行 した効果
著 しく一名 の患者 の嚢 生をも見なかつたので本年 も早 々之を賞施す ることにな り、第
一 回は十 日か ら十三 日まで第二回は十五 日より十八 日まで第二回は二十一 日か ら二十
四 日まで全村民一人○○名 に封 し豫防注射 を行ふ こととなった
以上の史料 より吉野村で 1932年 に腸チフスが大流行 を来 したので花蓮港麻衛 生係が予防
注射 の実施を決定 し、昨年実施 した。 その結果一名 の患者 も出なかつたので、今年 も予防
注射 を行 うことに し、 1月 10日 か ら 3回 に分けて予防注射 を 1800名 に実施 したことが明
らかになった。
181流 行性感冒や流行性1嵩 炎 の予防には 日光消毒 が効果的 である。そのため家屋改良では
通風採光を可良な らしむる為に窓を設置す るな どの対策 が取 られてい る。
182こ の論文 は台湾総督府 中央研究所衛 生部業績第 355号 として収められてい る論文であ
り、震災 と多降雨によつて流行性 マ ラ リアが発 生 したことについて分析 がされてい る貴重
な史料であるといえる。
183鏡 検手について『 マ ラ リア防遇誌』(1932)121、 122頁 に以下のよ うに記 されてい る。
174
ベ
鏡検手ハ所轄郡守又ハ警察署長 ノ指揮監督 ヲ受ケ左記各琥 ノ事務 二従事 ス シ
ー、「マ ラリア」防遇施行地域内居住者 二封 シ毎月一回以上 日時ヲ定メ採血検査 ヲ行 フ
コト
ニ、採血検査 ノ結果原轟保有者 ヲ発見シタ時ハ其ノ家族同居者 二封 シ更二採 血シ検鏡
ヲ鶯 ス コ ト
長薬 セシムル
三、原轟保有者 卜決定 シタル時ハ戸主又ハ本人二通知 シ左記方法 二依 り月
コ ト、服薬ハ キニーネニ在 リテ大人一 日0.8瓦 、オイ ヒニ ンニ在 リテハ 1.2瓦 トシ年齢
及健康状態二依 り適宜減量 スル コ ト
四、「マ ラリア」防過施行地内 ノ住民ニシテ臨時採血検鏡 ヲ願出ル者アル トキハ直二之
ヲ行 ヒ原轟 ヲ嚢見 シタル トキハ前琥 二依 り服薬セシムル コ ト
五、常二 「マ ラリア」患者並 二原轟保有者 ノ状況 二注意 シ其 ノ著 シキ増減 二封 シテハ
其 ノ原因 ヲ調査 シ報告 スベ シ
六、毎月一回蚊族 ノ調査ヲ行 ヒ翌月五 日迄 二第一琥様式 二依 り報告 スベ シ
七、蚊族発生 ノ箇所 ヲ調査 シ整理 ヲ要シ又ハ防過上必要 卜認 ムル事項ハ受持警察官吏
卜協議 ノ上郡守又ハ警察署長 二報告 スベ シ
人、常二開業讐受持警察官吏 卜連絡 ヲ採 り防遇事務 ノ徹底進捗 ヲ固ル コ ト
184『 台湾 日日新報』 (昭 和 11年 5月 12日 )に 巡回講話 についての記事がある。
昨年 の大震災後新竹州下 に悪性 マ ラ リアが蔓延 しこれが豫防注射又は蚊帳 の配布 をな
したことは既報 の如 くであるが、本年は天候不順なのに鑑 み州衛 生課当局はマ ラ リアの
眺梁を極度 に憂慮 してゐるが念 々十二 日よ り約一週間に亙 り震災地苗栗郡下各部落 に
於て家長会を開き下村州衛生課 が防邊に関する巡回講話 を行ふ
この史料 か ら震災後 のマ ラ リア防遇 として予防注射 と蚊帳 の配布 を実施 したこと、家長
会を開催 し下村 八五郎衛生課長 がマ ラ リア防遇 に関す る講話 を行 うことが決定 された こと
が明 らかになつた。
185今 村明恒 (1870∼ 1948年 )鹿 児島県出身の地震学者 で、鹿児島高等中学造士館 を
経 て、第一高等中学校 (現 在 の東京大学教養学部)を 卒業後、1891年 に東京帝国大学理科
大学 (現 在 の東京大学)の 物理学科 に進学 し、大学院 で地震學講座 に入 り大森房吉に師事
した。震災予防調査会がまとめた過去 の資料 か ら関東大震災 を予見 した人物 で 1911年 に今
¨
村式強震計 を発明 した。 山下文男 『 君子未然 に防 ぐ 地震予知 の先駆者今村明恒 の生涯』
東北大学出版会、2002年 を参照
186今 村明恒 「昭和十年蔓湾 ノ烈震二就イテ」
『 昭和十年台湾震災誌』1936年 87∼ 88頁
187戦 前・ 戦中期 アジア研究資料 2『 植民地社会事業関係資料集 25【 台湾編】医療 と衛 生
近現代資料刊行会 2001年 6月 復刻 所収
衛 生 2』
188マ ラリア防遇成績表 の数値 は結構間違 つていることがあるので検討 が必要である。
189マ ラ リア防邊施行地人 日の著 しい増加 について詳細は不明である。
190大 震災による竹南郡 の死亡者 が 328人 、苗栗郡 の死亡者 が 794人 、両郡合 わせて 1,122
人 とな り新竹州全体 の死亡者 (1,369人 )の 約 82%を 占める。また竹南郡 の全壊家屋は 3,637
戸、苗栗郡 の全壊家屋は 5,394戸 、両郡合 わせて 9,031戸 とな り新地区全体 の全壊家屋
(12,391戸 )の 73%を 占める (『 昭和十年台湾震災誌』台湾総督府 1936年 3月 )竹 南郡
と苗栗郡 の被害の大きさが窺 われ る。
191審 査結果については以下のよ うに記 されている。
ヽ
‖下ノ成績左 ノ如 シ
而 シテ昭和十二年度 二於ケルリ
郡別
一等 大渓郡
二等 竹南郡
175
仝
ツヒ
園郡
二等 中歴郡
仝
大湖郡
派 出所別 (二 等以下省 略)
一 等 桃 園郡小檜渓
二等 大渓郡 内柵
仝
竹南郡苦苓脚
仝
大湖郡卓蘭
建設功勢者 ヲ表 彰 セル 者百十 一名
昭和十 二年度 ハ都合 ニ ヨ リ郡審査成績 ヲ以テ知事表彰 ヲ行 ヘ リ
新竹郡香 山
ツヒ
園郡坑子外
竹東郡費 山
竹南郡海 口
苗栗郡社苓
大湖郡卓蘭
建設功劣賞 ヲ表彰 セル 者百 三 十 五名
台湾大震災時 の新竹知事 は内海 忠 司である。 内海 の後任 には増 田秀 吉 が就任 した。 昭
和 13年 の新竹知事 は赤堀鐵 吉 で ある。 (『 衛 生概況 』 85,86頁 )(『 旧植 民地人事総覧
台湾編
6』
192組 合事業 の詳細 につい ては以下 の通 りである。
組合事業項 ロシテ賞施 スベ キ事項 左 ノ如 シ
(一 )地 方病 ノ豫防撲滅
マ ラ リア防遇
1、
2、
トラ ッ トホー ム豫 防治療
3、
寄生 虫ノ駆 除撲滅
(二 )博 染病予防制邊
I、 偉染病奎 生又ハ 其 ノ虞 アル 時 二於 ケル 豫防消毒 二 開 スル 事項
Ⅱ、鼠族 ノ駆 除
Ⅲ 、病原博播 ノ昆 虫 (蠅 、油 虫、蚊等 )ノ 嚢生豫防駆 除
(三 )生 活環境 ノ衛生的改善
井戸 ノ改善、下水溝 、塵箱 、墓所 、 窓、便所、牛豚舎 、養鶏舎 ノ新設改修 、地物整 理
其 ノ他清潔保持等 二 開 スル 事項
(四 )其 ノ他 公衆衛生 二 開 スル 事項
(『 衛 生概況』 84頁 )
193新 竹州 のマ ラ リア防遇事業 のマ ラ リア防邊概況 を参照。
194こ の時代 の菫 中州警務部衛 生課 の衛 生課長 は医学博 士 の桐林茂 である。桐林茂 の経歴
は以下 の よ うである。桐林茂 明治 24年 福井 県 に生 まれ る。大正 5年 金沢 医学専門学校 を
卒業。同 6年 大阪商船株式会社 の船 医、同 11年 総督府港務検疫 医員 、翌年菫北州衛 生 技師、
昭和 11年 地方技師兼 中央研 究所技師、蔓 中州衛 生課長 兼薬 品試験支所 主任 を歴任す る。(『 改
訂 台湾人 士鑑』 1937年 、 1989年『 台湾人名 事典』 として 日本 図書 セ ンター よ り復刻 )
195戦 前 。戦 中期 アジア研究資料 2『 植 民地社会事業 関係 資料集 [台 湾編]24医 療 と衛 生
近現代資料刊行会 2001年 6月 復刻
196プ ラスモ ヒンの可能性 が高 い。
1』
197 3,956の 誤 りか
198 6,858の 誤 りか
199 13,936の 誤 りか
176
200
201
202
203
204
205
206
207
19,734の 誤 りか
246,618の 誤 りか
1,285の 誤 りか
465,282の 誤 りか
9,308の 誤 りか
9,o15の 記異りか
938の 誤 りか
129,843の 誤 りか
208正 しい と思われ る方 の数字 を使用 した。
209『 昭和十四年版保健組合事業概況書』7頁 を参考に した
210活 動写真 とは映画 のことで、衛生映画が台中州衛生課では作成 されていた。以下流行
性脳炎 に対す る予防宣伝映画について『 台湾 日日新報』1923年 1月 22日 に以下のよ うに
記 されてい る。
「台中州衛生課にては、昨年十一月多額 の費用 を投 じて、流行性脳炎予防宣伝 の活動写真
フイル ムを作 り、既 に台中、南投、新高、能高、豊原 の各市郡 に於 いて公 開 して、一般 の
観客 に供 し、何れ も多大の高評を博 し、 日下東勢郡下 にて開催 中だが、該 フイルムは従来
の各種宣伝用衛生フイルム とはその□をことにし、通俗的にて且つ趣味多 く、殊 に写真 中
漫画を以て病毒の伝播を示 し、衛生思想 の幼稚 な本島人 に対 しては最 も理解 し易 く非常に
歓迎 され、 この映写に対 しては開催地の街庄長、郡警察課長等講話或い は宣伝 に努め効果
を収めてい るようだ」
2H正 しい と思われ る方 の数字 を使用 した。
212正 しい と思われ る方 の数字 を使用 した。
213組 合規約 の詳細 については今史料 を探 してい るところである。
214義 務出役 に従事 しなかつた者 に対する過怠金 (遅 延料)の こと。
215収 集 できてい る史料 の範囲内において
216 近藤綾 「日本植民地期 の台湾原住民 に対す る集団移住政策 と 「マ ラ リア流行事件」
一台中州ブヌン族 の事例研究を中心に一」
『 早稲 田大学大学院アジア太平洋研究科修士論文
改訂版』 2004年
217藤 井志津枝 『 理蕃 一 日本治理台湾的計策』 文英堂 1997年 以降、藤井 (1997)
と略す。
218松 田吉郎 『 台湾原住民の社会的教化事業』晃洋書房 2011年 23頁
219陳 秀淳 『 日抜時期台湾山地水 田作的展開』 稲郷出版社 1998年 15頁 以降、
陳 (1998) と略す。
220 藤 井 (1997)237頁
221清 朝期 か ら設置 され始めた蕃地 と 「非蕃地」の境界 に設けた 「防蕃」施設 のこ と。必
『 理蕃誌稿』
点には、高圧電流を流す鉄条網 を設 けた場所 もあつた。
要地′
222胡 暁 「日拠時期理蕃事業下的原住民集団移住之研究」 1996年 200頁
223代 表例 としてはシャカ ロー社 の移住 が挙げ られる。「「シャヵ ロー」蕃 の蕃社併合式」
『 理蕃誌稿』第二巻第四編 213∼ 215頁 1932年
224陳 秀淳 (1998)、 17頁
225『 台湾警察協会時報』第 31号 (大 正 8年 12月 25日 )「 全島地方官会議 二於ケル 田
総督 ノ訓示」
226『 台湾警察協会雑誌』第 107号 (大 正 15年 5月 )鈴 木生 「新竹州蕃童教育所聯合學
藝會及運動會 を見て」
227『 台湾 日日新報』大正 9年 12月 11日 「蕃人 は宜 しく去勢す るんだね 宇野理蕃課長
語 る」
228『 台湾警察時報』第 40号 、41号 昭和 6年 10月 穴澤穎治 「蕃人移住集 団政策 と
177
マ ラ リア問題 」
229註 228に 同 じ 「駐在所 の位 置 に付考慮す ること」 の箇所 で駐在所 に近接 して蕃 童 の寄
宿舎 を設 けて い る ことが 多 く、 これ について穴澤 は (一 )教 育指任者 と蕃 童 との接触 の機
会 を多 くし心の疎通 を図 り、教育及保 健條 の注意 を行 き届 かせ るよ うにす るためだ と指摘
してい る。 しか し穴澤 は、 マ ラ リア罹患者 の極 めて高 い幼年期 の蕃 童 と駐在所 が近 接 して
い る ことに対 しては、衛 生上 の理 由か ら反対 してい る。 なぜ な ら畢党蕃人 の幸福 を増進す
るための授産教育、警備 等 の理蕃事業 は一 に警察官 が健康 であつては じめて遺憾 な く行 わ
れ、蕃社 の 「マ ラ リア」防邊は係員 が健 康 であって初 めて流行 を阻止 し、良き成績 を上 げ
る こ とができるか ら駐在所員 の宿舎 と蕃 童合宿所 を近接す る ことには反対 である と指摘 し
てい る。
230註 228に 同 じ
231『 理蕃誌稿』 は台湾総督府警務局で編纂 され、第一編
1902)第 二編 (1903
二
∼ 1909。 9)[第 一巻、1918年 ]第 二編 (1909。 10∼ 1914)[第 巻、 1921年 ]第 四編 (1915
∼ 1920)[第 二巻、1932年]第 五編 (1921∼ 1926)[第 四巻、1938年 ]が 収 められてい る。青
史社 か ら 1989年 に『 理蕃誌稿』第一巻∼第 四巻 として復刻 されてい る。
232岡 山敬吾は熊本県出身、明治 39年 (1906)に 深坑麻警務課嘱託、翌年深坑聴景尾支聴嘱
託兼 ラハオ在勤公医、同 43年 (1910)に 蔓北麻新店支麻嘱託、大正 3年 (191の に菫北麻新店
支聴警部補を歴任す る。 (蔓 湾線督府職員録系統 中央研究院 蔓湾史研究所)
233「 台北庁 ウライ蕃務官吏駐在所 二嘱託馨 ヲ配置 ス」
『 理蕃誌稿』第二巻 291頁 1921
年
234駐 在所に関 しての研究には林一宏 の「日治時期台湾山地「駐在所」建築之初歩研究」
『国
立台湾博物館 98年 度 自行研究計画書』 民国 98年 (2009)が あ り、駐在所は教育、衛生、
交易をも掌 る機関であ り、蕃地政策上の重要拠点であつた。
235「 南投庁南蕃地二於ケル療養所 ノ新設」
『 理蕃誌稿』第二巻 294頁 1921年
236「 蕃地二公讐配置二開スル件」
『 理蕃誌稿』第二巻 249頁 1932年
237「 平林療養所設置」
『 理蕃誌稿』第四巻 192頁 1938年
238『 理蕃誌稿』第二巻 「蕃地医療機関 大正五年」286∼ 290頁 、
『 理蕃誌稿』第四巻 「蕃地医療機関 昭和元年末」 1143∼ 1147頁 を参照
239「 蕃人 ノ種痘」
『 理蕃誌稿』第二巻 373頁 1921年
240「 ビィラウ社其 ノ他蕃人 ノコ レラ」
『 理蕃誌稿』 第 四巻 191頁 1938年
241「 紅頭嶼二蔓延セシ赤痢患者」
『 理蕃誌稿』第 四巻 193∼ 196頁 1938年
この熱帯赤痢 の発病蔓延 の原因は植物採取 の為に紅頭嶼へや つてきた殖産局の技手山田金
次 の 胃腸病 が原因であ り、紅頭嶼 のヤ ミ族に感染 した。
242「 官原眼科部長 ノ蕃人眼病治療」
『 理蕃誌稿』第四巻 1116頁 1938年
243官 原武熊 1874年 に鹿児島県に生まれる。東京帝国大学医学部を卒業後台湾 に渡 り、
1925年 に台南医院眼科部長 を歴任後、 1927年 に台中に宮原眼科 を開業、1931年 に台中州
州協議会議員、台中州州会議員、台中州州参事会員 を歴任、1933年 に台湾文人 のサ ロンで
ある東亜共栄協会 のメンバー とな り、 1945年 には墓中州私 立蔓 中商業専修學校 の校長 を歴
任 した人物 である。
(1895∼
httpソ zhowikipedia.org/wiki/%E50/OAEO/OAE%E5%8E%9F%E60/OAD%A6%E7%86%8_Aを
参照
244共 同便所な どについて詳 しくま とめた本は董宜秋 の『 帝国興便所一 日治時期墓溝便所
ある。
興建及汚物虎理 一』 (2005年 )力 `
245台 湾総督府警務局衛 生課 『 マ ラリア防遇誌』
246 同 ■ 229,230頁
1932年 217,218頁
1、
247森 下 薫
房
『 マ ラ リア の 疫 学 と予 防 一台 湾 に 於 け る 日本 統 治 時 代 の 記 録 と研 究 』 菊 屋 書
1976年 31頁
178
248桝 屋生 「蕃地マ ラリアの効果」
『 理蕃 の友』 1935年
249同 上 7,8頁
12月 号 7,8頁
250桝 屋生 「蕃地マ ラリア防過に就いて」
『 理蕃 の友』 1935年 5月 号 5∼ 7頁
251河 原蓬 とは、キク科 の植物 で 日本、朝鮮半島、台湾、中国 に分布 していて、河原や海岸
の砂地 に生え、高 さは 30∼ 100 cIII位 になる。茎 の下部 は木質化 し、葉 は 1∼ 2回 羽伏に全裂
し裂片 は糸状である。漢方では 「イ ンチンコウ」 と呼ばれ、消炎作用がある。 マ ラ リア防
遇にも有効的でよく使用 されていた。吉井勇 『 河原蓬』 春陽堂 1920年
252疱 燕秋 「日本帝國奎展下殖 民地台漏的人種衛生 (1895-1945)」 ,『 國立政治大學歴史
學研究所博士論文』 1999年 166頁
253マ ラリア検査 のための血液塗抹標本 には、血液厚層塗抹標本 と血液薄層塗抹標本 があ
る。血液厚層塗抹標本 は、スライ ドグラスに血液を一滴 とリス ライ ドグラスの角 で延ば し
直径約 lcmに したものをい う。血液薄層塗抹標本 は、スライ ドグラスの一端近 くに少量 の
血液 を置き、 これにカバー グラス を接 し鈍角 の方向にすべ らせたものをい う。血液厚層法
は原 虫が少ない時、集団検診 の時に有利 であるが、原虫を確認す る時には熟練 を有す る。
一般的 には、まず血液厚層塗抹標本 を作 つて原虫の有無 を検査 し、次 に血液薄層塗抹標本
を作 つて充分 に原 虫の形態を監察す る。血液薄層法 は形態を知るには有利な方法である。
(吉 田幸雄 『 図説人体寄生虫学 第 2版 』南山堂 1982年 )
また台湾総督府は各州庁 の警務部長 に対 して森下薫が発表 した 「血液厚層法 に依 るマ ラ リ
ア原轟 の鑑別法」を参考 にす るよ うにと訓諭 している。
254中 村文治 福岡県出身 昭和 8年 (1933)か ら警務局理蕃課 の警部 となる。昭和 18年
(1943)に は台湾総督府警務局の理事官 とな り、蕃地マ ラ リアの防過等 に尽力す る。
255中 村生 「蕃地における衛生組合」
『 理蕃 の友』 1937年 3月 号 3頁
256同 上 3頁
257こ の薬 品は 「アテブ リン」か 「プラスモ ヒン」だ と推測 できる。その理 由として昭和
7年 (1932)頃 か らキニーネに代替す る薬 の研究が進められ、昭和 14年 (1939)に 長崎大
学熱帯医学研究所蔵 で塩野義商店学術映画部 と森下薫・小 田俊郎 が監修制作 した映画『 マ
ラリア』 の中でキニーネ・ アテブ リン・ プラスモ ヒンの二つの特効薬 についての説明があ
るため このよ うに推測できる。
258『 高砂族調査書 第 六編 薬用草根木皮』台湾総督府警務局 1939年
259王 紹宗 とい う日本植民地時代を生きた人物に 2013年 8月 にイ ンタ ビュー を行 つた際
に戦火 が悪化す るにつれてキニーネの供給 が少なくなつてい き、民間療法であるグアバ の
葉 を煎 じて飲 んでいた と仰 つていた。 その際 に警察や医者達 も民間療法 の妥当性 を認 め、
西洋医学に取 り入れ て、施薬 として使用 していた との事実があつた ことを語 つて くれた。
260揚 村剛 「伊沢修 二の台湾教育構想 一混和主義 を中心に一」
『 兵庫教育大学大学院修 士
論文』2013年
261『 台湾教育沿革誌』台湾教育会 1939年 (1982年 青史社 より復刻)165∼ 170頁
262国 府種武 『 台湾 に於ける国語教育 の展開』第一教育社 1931年 (1988年 冬至書
房 より復刻)138∼ 140頁
263『 台湾教育沿革誌』278、 290頁
264国 府種武『 台湾 に於 ける国語教育 の展開』 151∼ 153頁
265察 茂豊 「中国人 に対する日本語教育 の史的研究」
『 筑波大學大学院博士論文』 1977
∼ 1945年 』 と改名 して東呉
:1895年
年 (後 に同著 は『 台湾 における日本語教育 の史的研究
大学 日本文化研究所 より 1989年 3月 に出版 された。)
266+(
)は 「蕃人」 の児童数 を指す。
267-o二 巻は コクゴ、三 。四巻は こ くご。
268磯 田一雄『 皇国の姿 を追 って一教科書 に見る植民地文化史』皓星社 1999年
269察 錦堂 「日本抜台初期『 國語』教科書之分析」
『 中國興亜洲関係史學術討會論文集』
179
238-289頁 1993年
270『 国民読本参照国語科話方教材』 は明治 33年 9月 蔓彎線督府民政部學務課 の国語学
校教諭 山 口喜一郎 が編纂 したもので、本書 の教材は動詞 に重きを置いた教材 であ り、「躾」
や 「衛生の習慣化」 を目指 した題材 が多い ように思われる。
271グ ァン式教授法については王秋陽 の 「日本統治時代台湾 における日本語教育 一グアン
氏言語教授法に関連 して一」
『 山 口大学大学院東 アジア研究科博 士論文』2011年 が詳 しい。
・
フランソフ グアンはフランスの言語学者 で、 自身の ドイツ語学習に失敗 した経験 から考
案 した 自然教授法 の一種 である。因み に 「史料」中ではゴアン式 と出て くる。
272ェ ドヮー ド・ ジェンナー(1749∼ 1823)は イギ リスの医学者 であ り、 ジェンナーが医者
になった頃、牛の乳搾 りな どをして牛 と接す ることによって 自然 に牛痘にかかつた人間は、
その後天然痘 にかか らない とい う農民 の言い伝 えがあ り、 ジェンナーはこれを天然痘 の予
防法に使えるのではないか と考え、1778年 か ら 18年 間に亘 り研究を続け、 ワクチン(牛 痘
法)を 開発 した。 この功績 か らE.ジ ェンナー は 「近代免疫学 の父」 と称 される。
加藤四郎 『 ジェンナーの贈 り物 天然痘 か ら人類を守 った人』菜根出版 1997年
273周 慧茄 「日治時期蔓脅公學校理科教育之研究」 『台湾師範大学台湾史研究所碩士論
文』2012年
274牧 茂市郎 愛媛県出身 明治 45年 農事試験所教育部兼昆虫部技手、大正 7年 台湾総
督府国語学校助教授、翌年墓北師範学校助教授、大正 11年 台南師範学校教諭 を歴任。彼 は
蛇 の研究者 としても知 られていて琉球産蛇 の分類法 を考えた人物である。
『 台湾総督府職員
録系統』中央研究所 台湾史研究
高良鉄夫 「琉球産蛇類に関する新知見」
『 琉球大学農家政部学術報告』 1957年
275吐 根草はブラジル原産 の植物 で、学名 は 3ephaθ 力bゎ θ″θZrar力 ′で現地の トゥピ族 の
言葉 で「吐き気を催す草」とい う意味がある。特 にエ メチンはアメーバ赤痢に効果 があ り、
現地でも古 くから根 を乾燥 させたもの を民間薬 として使 つてきた。
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.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3
吐根草
(ア
カネ科)
276ペ ス ト防過 については飯 島渉 の『 ペス トと近代中国―衛生の 「制度化」 と社会変容』
研文 出版 2000年 が詳 しい
277蔓 北市教育會『 公 学校第 四学年 理科教授細 日』新高堂書店 1936年 53頁
278註 271と 同書 70頁
279撓 脚類 (か い あ しるい)と は ミジ ン コのよ うな節足動物 門科 のプ ランク トンの事 を指
す。
大塚攻・ 駒井智幸 「3.甲 殻亜 門」
『 節足動物 の多様性 と系統 』 2008年
280植 民地期 の化学肥料需給 について論 じた論文 に湊照宏 の 「第 5章 植 民地期及び戦後
復興期台湾 における化学肥料受給の構造 と展開」
『 東京大学社会科学研究所研究シ リーズ
No.17 20世 紀の中国化学工業 一永利化学・ 天原電化 とその時代 ―』東京大学社会科学研
究書 2005年 がある。
281『 農事実行小団体 ノ現況 卜指導奨励計画』蔓湾線督府殖産局 1938年 また指導委員
180
会を組織 してい る主な州 は蔓北州 と高雄州であ り、衛 生課長や理蕃課長 が 直接指導す るな
どして い る。
282部 落振興会 の 国語講習所や 國語塾 について纏 めた論文 に陳 虹彪 の「日本統治下台湾 にお
『 東北大学
ける国語講習用国語教科書 の研究 一台湾教育會 の『 新 国語教本』 に着 目して 一」
がある
vol.54/No.2.2006年
。
大学院教育学研究科研究年報』
283鳳 山郡民風作興会会長 は平柳誠であ り、事業内容は部落振興団体の連絡統制 の強化並
指導 の徹底を図る とともに高雄州及び高雄州農会 の施設事業に順応 し、国語普及奨励、鳳
梨増産奨励、堆肥奨励指導、園藝奨励な ど部落 の向上を目指 した組織 である。
『 民風作興会 (昭 和十三年版)』 高雄公論社、1938年
284ト ラホーム とは伝染性慢性結膜炎 のことで、眼病 の一種 である。病原体 はクラジミア
で、結膜 の充血、肥厚、灰 白色 の顆状 の形成を来 し、慢性化す ると角膜 の混濁、視力障害
を引き起 こし、重症 の場合、視力 の低下や失明す る場合がある。 日本 では 1919年 に トラホ
ーム予防法が制定 された。予防法には点眼薬 (目 薬)の 投薬な どがある。
三井登 「1910年 代 の学齢児童 の トラホームの状態 と学校医の治療 をめぐる問題」
『 北海道
大学大学院教育学研究科紀要』第 83琥 2001∼ 2006年
181
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図
1)集 団検 血 作業
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図 2)外 部作業一 竹林下枝 の伐採 と清掃作業
図 3)簡 易な防蚊装置 を有 してい る家屋
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地図 1日 本統治時代 の行政 区分
出典 :森 下薫 (1976)『 マ ラ リアの疫学 と予防 一台湾 に於 ける 日本統治時代 の記録 と研 究』
菊屋 書房
図
1∼
10頁
3は 同掲書 119,128,129頁 よ り転写
謝辞
本論文 を完成す るにあた り、指導教官 の松 田吉郎教授 には 、台湾人研 究者 との 面会 、史
料収集や研 究 の手法 、研 究内容 の構成 に至 るまで 、熱 心かつ懇 切 丁寧 な ご指導 を戴 きま し
た こ とを厚 く御礼 申 し上 げます 。 また歴 史系 の原 田誠 司教授 、森 田猛准教授 には、 中間研
究発表会 を通 して重要 な御示唆 を頂 きま した ほか 、地理系 の南埜猛教授 には、台湾 の水利
事業 につい ての 貴重 な助言 を頂 い たおか げで、本論 文 を完成す るこ とがで きま した こ とを
改 めて御礼 申 し上 げます。
史料収集 にあた っては兵庫教育大学附属 図書館 、国 立 国会 図書館本館 、国 立 国会 図書館
関西分館 、天理大学附属 図書館 、国 立 中央 図書館 台湾分館 、国史館 台湾文献館 、史訪会 の
会員 、台湾史研 究会 の方 々 に数 々 の便 宜 を図 つ て頂 きま した。 さ らに王紹宗 さんか らは 日
本統治期 の台湾 の状況 な どについ てお話 頂 き誠 に御 礼 申 し上 げます。
また 、 この二年 間 の研 究生活 が とて も有意義 か つ 充実 して過 ごせ ま した こ とは、本学 で
知 り合 えた 学友 の皆様 との交流及 び史訪会 のメ ンバ ー たち との交流 、 そ して 両親 の御 支援
の賜物 であることを深 く心 に刻 み込んで い ます 。 あ らためて感謝致 します。
平けを26イ手 (2014) 12ン月 17日 (パ 0
歴 史研 究室 にて
曽根
脩平