大澤慶子先生を偲んで

大阪市立大学『大学教育』 第13巻 第 1 号 2015年10月
■ 特別寄稿 追悼
大澤慶子先生を偲んで
To the Memory of Professor emerita Keiko Osawa
三 上 雅 子
大阪市立大学文学研究科表現文化学専修
MIKAMI Masako
Osaka City University Graduate School of Literature and Human Sciences
Graduate Course for Culture as Representation
に現れるゲルマン圏の神話・伝承モティーフの研究で
あった。外国語で書かれた詩を読むということは、散
文などに比してその理解に非常に多くの困難を伴うも
のである。中高ドイツ語(中世のドイツ語)の読解を
も含む高度な語学力に支えられた先生の緻密な論文は
説得力に富み、学界においてもハイネ研究者として、
また学会誌編集委員などとして重要な地位を占めてお
られた。
表現文化コースの立ち上げにおいては、当時英文
教室に在籍されていた芝原宏治先生らとともにその
中心となって、体制の整備、カリキュラムの構成や予
大澤慶子大阪市立大学名誉教授
(1945年~ 2015年)
算獲得など様々な方面で尽力された。先生なくして表
大澤慶子名誉教授が 6 月 1 日に亡くなられた。 3 月
現文化コースが軌道に乗ることはなかっただろう。研
末から 4 月にかけてのドイツ滞在ですこし体調を崩さ
究においては、現代日本文学におけるドイツ由来のモ
れたと伺ってはいたが、いずれにしてもあまりに突然
ティーフなどに関心の範囲を拡げられ、先生の働きか
のことであり、いまだにその死を現実のものとして受
けによって児童文学作家斉藤洋氏の集中講義も実現し
け容れることが難しい。私は1980年に文学部独文教室
た。研究者以外の実作者による授業など今では珍しく
に助手として着任した。当時16名ほどの教員がいた教
ないが、当時の市大では斬新な試みであった。また先
室で、女性であり、また大阪外国語大学から大阪大学
生は学外の研究者を交えた研究会も多く企画・主催さ
大学院という私と同じコースを辿られた先輩でもある
れていた。阪神ドイツ文学会は共同研究が盛んである
大澤先生は、新米教員にとって見習うべき存在であり、
ところにその伝統を誇っているが、先生が携わった研
一種のロールモデルでもあった。その後1998年の文学
究会・シンポジウムが多くの成果をあげることが出来
部改革によって誕生した表現文化コースへの移籍にお
たのは、その包容力に富んだ温かいお人柄と、細部に
いても、私は大澤先生とご一緒であった。思えば私の
至るまで目配りを忘れない卓越した事務管理能力に負
市大生活はそのかなりの部分において、先生の背中を
うところが大きかった。
見ながらの日々であったと言えるのかもしれない。
先生は、「研究と教育」の両面において課された職
先生の研究の中心をなすのは19世紀ドイツの詩人ハ
務を誠実に遂行することが大学教員の務めであると、
インリッヒ・ハイネにおけるモティーフ、特に彼の詩
常日頃から口にされていた。能力の不足に対しては寛
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【追悼文】大澤慶子先生を偲んで
大であったが、怠慢に対してはときに厳しく叱責され
た。生来怠け者の私などよく叱られたものである。自
分が置かれた場所において日々怠らず真摯に努力を積
み重ねること、これこそが大学人として研究者として、
そして人間として求められる姿勢なのだというのが先
生の信念であり、またそれを生涯にわたって自ら実践
された。
2003年に先生は大学教育研究センターに移籍され
た。先生の大阪市立大学における歩みは、学部のそし
て大学の改革の動きと重なるところが大きかった。先
生は重大な局面では、「自分が必要とされるところに
行こう」と決断されたのであろう。そして行かれたと
ころで常に組織のために尽くされるのみならず、周囲
の人々と生産的な関係を結ばれ、新たな仕事の領域に
積極的に進出していかれた。大学退職後も財団法人大
学基準協会特別大学評価員として、日本中を精力的に
飛び回っておられた。私も数年前、「いまから出張や
ねん」とニコニコ挨拶される先生に東京駅のコンコー
スで偶然お会いして、ビックリした想い出がある。
昨年、表現文化教室の同僚の学位請求論文の学外審
査委員を先生にお願いし、ともに論文審査に携わった
ことが最後の共同作業となってしまった。「一度ゆっ
くりご飯を食べましょう」と言いつつ、双方の多忙の
ゆえもあって結局それは果たされなかった。「とり年
生まれやから、バタバタ貧乏やねん」とよく冗談交
じりに仰っていた姿が今でも目に浮かぶ。お好きだっ
た推理小説を心おきなく読みふけることができる日々
は、まだまだ先のことだと思われていたのだろう。ど
うか先生には、いまおられるところでは少しは怠けら
れて、市大の行く末をゆっくりと見守ってほしいと願
う。
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