1 学校メッセージ ~県北陸上大会で大活躍!!粟屋小・保育所運動会開催

http://www.awaya-e.hiroshima-c.ed.jp/
発行日 平成27年6月1日(月)
1 学校メッセージ~県北陸上大会で大活躍!!粟屋小・保育所運動会開催~
○県北陸上競技大会で粟屋小学校が大活躍!!6人が県大会出場権を獲得~5月10日(日)9:00
5月11日(日)9:00~みよし運動公園陸上競技場で行われた県北陸上競技大会(兼全国小学生陸上
競技大会三次市予選会)で,本校の児童が大活躍しました。入賞者及び県大会出場資格者は以下の通りです。
○小男6年100m
第1位 14秒13
6年 平田航大 君
○小男5・6年800m 第1位 2分42秒52
6年 平田航大 君
○小男5年100m
第1位 15秒30
5年 西野楓生 君
○小男ソフトボール投
第1位 54m31
5年 西野楓生 君
○小男5・6年走巾跳
第2位 3m85
6年 中村翔太 君
○小女5年100m
第1位 15秒65
5年 枝 美咲さん
○小5・6年800m
第1位 2分47秒02
5年 枝 美咲さん
(大会新記録)
○小女3・4年800m 第2位 3分38秒77
4年 平田千紗さん
県大会出場資格は,5年生以上の入賞者です。女子5・6年走巾跳で第5位
に入賞した6年 黒河 遥さん,第6位に入賞した5年 上西初葵さんも県大
会出場資格を獲得しました。おめでとう!!よく頑張りました。
○第34回サングリーン 母の日児童画コンクールで4年平田千紗さんが佳
作に入賞!!おめでとう!!
本校の3年生2名,4年生4名が「第34回サングリーン 母の日児童画コンクール」に出品していました
が,4年生の平田千紗さんが佳作に輝きました。おめでとう!!これからも様々なコンクール,大会に挑戦し
てください。
○学校評議員会・学校関係者評価委員会を開催:5月11日(月)14:00
5月11日(月)に学校評議員会・学校関係者評価委員会を合同で開催し,本年度の学校経営についてお
聞きいただき,ご意見やご助言をいただきました。今回は,最初に運動会の練習の様子を参観いただき,後
半に協議をしていただきました。小規模化が進む中,本年度から完全複式となり,もっと本校の宣伝をすべ
しとのご意見をいただいて,本年度から粟屋コミュニティーセンター,JA 北部支店,コーポ三次,粟屋郵便
局に学校通信を置かせていただいておりますが,更に粟屋保育所や市内の保育所におかせていただくようお
願いをする予定です。以下は学校経営の本年度の目標の重点です。
【知】基礎的・基本的な技能の確実な習得
○単元末テストの達成状況を低学年 90%,中学年 82%,高学年 80%以上とし,各種学力調査の結果を全
学年・全教科全国・県・市平均以上を目指します。そのために,学校では特に問題データベース等の長文
読解や書く力の育成に取り組みます。また,パワーアップ週間を最低年5回実施し,家庭での学習習慣を
確立し,学習意欲の向上を図ってまいります。
【徳】触れ合い・体験活動の推進,挑戦体験・成功体験の積み上げ,酒河小との集合学習
○地域の人材の招聘や地域学習・体験活動,お礼・感謝の表現・伝達活動を通して,粟屋を愛し,誇りに思
う,豊かな心を育成に努めます。更にコンクールや大会などに意欲的に参加し,挑戦・成功体験を積み上
げ,
「やり切る」心と自信を培います。とりわけ,本年度は科学研究と発明工夫に重点的に取組みます。
【体】食育と生活づくり,体力つくりの推進
○各学年 1 回食育教室を実施します。また,生活実態調査を各学期 1 回以上実施し,望ましい生活習慣の
確立を目指します。体力つくりでは,本校の課題である「握力」の向上を目指して,ハンドグリップや綱
引きにより鍛えていきます。
「握力検査」を年 8 回実施し,成長の記録をグラフ化し,
「自分の体力は自
分で鍛えていく」自覚を育てます。また,陸上競技大会や水泳大会などに積極的に参加します。
○運動会前の環境整備,空き缶回収作業ありがとうございました:5 月9日(土)18:00~
5月9日(土)18:00~PTA 会員の皆様で空き缶回収作
業や運動場・校舎周辺の環境整備をしてくださいました。とり
わけ本年度は校舎南側のビオトープの整理をしていただきま
した。おかげで見違えるようにきれいになりました。ありがと
うございました。
中国新聞:こども俳句 5月1日(金)
レンゲがね春のじゅうたんきれいだな
5年 上西 初葵
○粟屋小・粟屋保育所春季大運動会開催:5 月 17日(日)
天候を心配していましたが,すばらしい天気となり,多数のご来賓の皆様方,保護者・地域の皆様方のご
参加をいただき,とても楽しい運動会となりました。心より感謝申し上げます。また PTA 役員・保護者会役
員のみなさま,会員の皆様方には事前の企画,準備から当日の運営に係りましてご協力をいただきましたこ
と心よりお礼申し上げます。児童・園児たちも持てる力を出し切り頑張っていました。良き思い出となりま
した。
かわいい園児が
たくましくおも
えました。
大平田楽のみ
なさま:児童も
参加しました。
本年度は赤組が優勝
しました
運動会直前に白玉が破裂して
しまい,粟屋町づくり協議会
よりご寄贈いただきました。
未就学児のかけ
っこ:ご来賓の
皆様方ありがと
うございまし
た。粟屋郵便局
にはシャボン玉
をご寄贈いただ
きました。粟屋
小学校にたく
さん入学して
ください。!!
親子の新競技:住田さんと細川さ
んが製作してくださいました。
2 学校生活の様子
~ 5月 ~
○新入生歓迎高谷山登山遠足:5月1日(金)
児童会によるゲーム
5月1日(金)本校の伝統である新入生歓迎高
谷山登山遠足を行いました。1年生も頑張って往
復を歩きぬきました。高谷山では,児童会が新入
生歓迎のゲームを企画し,そしておいしいお弁当
をいただき,仲間がいることの喜びを分かち合い
ました。
○粟屋交通少年団戴帽式:5月7日(木)14:40~
おいしい!!
交通ルールを遵守し,交通事故から身の安全を守るため粟屋交通少年団戴
帽式を行いました。三次警察署,三次交通安全協会,粟屋駐在所,粟屋交通
安全推進隊,粟屋町づくり協議会,社会福祉協議会から多数ご来賓の皆様方
に来ていただきました。粟屋小学校の交通少年団は昭和62年9月21日(月)
発足し,以来「5つの誓い」を率先して守り,市民の皆様方のお手本となるよ
う努力しています。PTA からも通学路の整備を要望していきます。
○3・4年生が卯山善章先生を招聘し,野鳥観察教室を開催~5月19日(火)
3・4年生が「理科」
「総合的な時間の学習」として,地元の卯山善章先生を招聘し学校周辺の野鳥観察を
行いました。教室で野鳥観察の方法を教えていただき,実際に運動場や学校下の河川敷に出て,野鳥を観察
しました。野鳥の見つけ方は,
「耳で探す→
目で探す→双眼鏡で見る」のだそうです。野
鳥は「一年を通じて見られる留鳥,渡り鳥の
夏鳥(春から夏)
,冬鳥(秋から冬)
」に分類
できるそうです。児童たちは,身近なところ
にたくさんの野鳥がいることに気付いてい
ました。次回もよろしくお願いします。
○体力テスト開始:5月21日(木)~3・4校時
児童たちは,今年度の体
力テストに全員が挑戦しま
した。初日の5月21日
(木)は,全体で統一して
行う 50m走のタイムを測定
し,ソフトボール投げや長座体前屈等に挑戦しました。天候にも恵まれ,運動場でのびのびと持てる力を発
揮していました。十日市中学校区の児童・生徒たちは共通して,
「50m走」や「握力」などに課題があり,重
点的に取り組んでいます。昨年度からハンドグリップや綱引きなどで鍛え,年8回握力を計測しています。
走力は,運動会や校内マラソン大会前後に集中的に鍛えていきます。
○中学年が保育所とちゃぐりん農園でサツマイモ・大豆・カボチャの栽培開始~5月26日(火)3・4校時
粟屋コミュニティーセンターの隣にある「粟屋小ちゃぐりん農園」で,中学年児童と粟屋保育所園児が JA
北部支店,女性部,粟屋コミュニティーセンター
の協力をいただき,サツマイモとカボチャの苗を
植えるとともに,大豆の種まきをしました。園
児・児童たちは,豊作の願いを込めて一生懸命植
えました。収穫時には,JA 北部支店,女性部の皆
さんの指導でヘルシーな料理教室を開催して収
穫祭とします。今後は水やりと草取りに精を出し
ていきます。
3 主な行事予定(6月) ~ プール開始・保護者祖父母学級 ~
※あくまでも予定であり,一部事情により変更することもあります。
日
1
4
8
9
15
19
25
30
曜
月
木
月
火
月
金
木
火
主 な 行 事
PTA 交通指導,プール掃除
2
火 保・幼・小連絡会(授業参観)
戴帽
8
月 プール開き
プール開き
10 水 職員交通指導
基礎・基本定着状況調査(5年) 12 金 クラブ
PTA 交通指導
18 木 歯科検診,体罰・ハラスメント相談日
市教研のため 14:30 一斉下校
22 月 職員交通指導,給食費納入
PTA 役員会
保護者祖父母学級・授業参観・ボランティアロード活動
○
粟屋あれこれ 27 :中村達爾翁頌徳碑
学校から西へ主要地方道三次・美土里線を進み旭
地区に行くと「為長池」と「新為長池」というため
池があります。その傍に「中村達爾翁頌徳碑」が粟
屋町民と粟屋町外有志の方々によって建立されてい
ます。碑には自治大臣 永山忠則書と刻まれていま
粟屋にあった芸備線の駅
す。永山忠則大臣は庄原市の板橋地区出身です。
碑文には,
「翁は歴代庄屋の名門旧粟屋村戸長中村序吉氏の長男として明治14年出
生 同40年早稲田大学を卒業 大正7年厳父の後を継いで村長に就任爾来村内の要
職に挺身 昭和29年4 月新制三次市市長職務執行者を最後に公職を退く 実に40有
中村達爾翁頌徳碑
余年 自由精神と和を重んじ名刺を求めず 一意専心郷土の発展と住民の福祉増進に尊き生涯を捧げられた その功
績を讃え深甚な敬意と感謝を以てここに碑を建立し翁の道徳を後世に伝える
昭和44年7月吉日
粟屋町民一同
粟屋町外有志一同 」
『ふるさと史考 - 三次市粟屋町 -』を調べてみますと,父の中村序吉さんは,明治11年 4 月より戸長に就
任され,明治22年4月には初代村長に就任されています。
長男の中村達爾さんが後を継いで,2代目村長に大正7年10月に,3代目村長に大正13年3月に就任されてい
ます。この間歴代議長にも同時期の記録が残っていますから,村長と議長は兼務だったのでしょうか。その後間をお
いて,8代目村長に昭和26年4月に就任されています。
昭和29年3月三次市合併に伴って三次市長職務執行者に就任されています。
また,
「大正15年6月現在 青年団 正団員 103名 団長 中村達爾」
,
「処女会 正会員数 80名 会長
中村達爾」と記録されていますから,若いころから人望が厚く,精力的に活動しておられた方で,この碑の建立につ
ながったのでしょう。
左の写真は芸備線の旭の踏切から撮影したものですが,鉄道脇に台形上に盛り上がった土地があり,こんもりと草
が茂ったところがあります。地元の方によれば,これは粟屋に最初にできた鉄道の駅の跡地だそうです。中村達爾さ
んが自ら土地を提供され,駅を誘致されたのだそうです。
4 校長室の窓 ~ 六十億の子に六十億の母あれど,わが母に勝る母なし ~
ある本に高森顕徹さんという方が,次のように母に対する思いを語られています。今月はその思いを紹介さ
せていただきます。子どもたちに志を育てる,温めることの大切さの前に,親のしっかりした子育ての意志が
大切なのだと感ずる点があったからです。
「私には七歳上の兄と,七つ下の妹がいる。年少の頃,なんとも腑におちないことがあった。兄とケンカして
も,母は決まって私を激しく叱るだけである。明らかに兄が悪いのに,いつも叱られ叩かれるのは私だった。
『な
ぜ私だけなのか』
『本当にこれが,私の母なのか』
。どれだけ疑ったことだろう。
後で知ったことだが父には先妻がいて,兄を出産した翌年に病死した。父が母と再婚して六年目に生まれた
のが私であった。戦前の封建社会で,後妻の母を見る目は厳しかったようだ。先妻の子と実の子を,どのよう
に扱うか。母の神経は当然,それらの非難を避けるのに集中する。それが私に辛く当たることに徹底させたの
だ。
それだけではなかった。中学(今の高校)を兄は,首席を争って卒業した。
“わが子も劣らじ”の女の意地も
あったにちがいない。おむつを替える時も,私の足を伸ばしながら『柱になれ』
『柱になれ』と呪文のように言
っていたと後日,叔母から聞かされた。その意味は物心つくまでは,よく分からなかったが,母の期待は並々
ならぬものがあったようである。
当然しつけは厳しくなる。小学生の頃,学校で友達がよく歌っていた流行歌が自然に耳の底に残った。それ
が何かの拍子に知らず知らずのうちに,家で口ずさんでいたのだ。子供に分かるべくもないが,酒場で流れる
ような甘ったるいメロディーと歌詞だった。たぶん『支那の夜』だったと記憶する。
『そんな淫らな歌,どこで
覚えた』と,こっぴどく叱られた。つねにわが子が少しでも悪に近づくことを,深く用心していたからに違い
ない。当時の通信簿は,国語も算数も,すべて十段階の評価で,九ならば九を維持するか十になるか,後退は
許されなかった。上がればなんでも買って貰えたが,下がると大目玉で信賞必罰は際だっていた。しかし,
『親
の心 子知らず』で納戸の母の着物を,ハサミで片っ端から切ったことがある。
反面,私を守る母の愛は正真正銘,捨て身であった。小学生のこと。学校の帰り道,着ていたマントをラン
ドセルの上から,連れの友達がナイフで二十センチほど切り裂いたのだ。帰宅して知った母は直ぐに私の腕を
つかんで,マントを切った友の家に連れて行き『お宅の子供に聞きたいことがある』と談判した。その子の両
親は,村でも評判のならず者夫婦で通っていたが,母の剣幕にさすがの親も罪を認めて土下座して謝った。私
に石を投げて怪我させた者がいた時も,母はその家へ行き謝罪するまで動かなかった。中学時代の,アクシデ
ントも忘れられない。薬の反応で私が一時卒倒したことがある。それを見た母がショックで気絶した。気がつ
いた私は驚いて,母の手当てをしたことがある。命をかけた慈愛に,どれだけ打たれ奮い立たされたことか。
そんな母の謎が氷解したのは,ふとしたことから戸籍謄本を見る機会があったからである。十六歳の時だっ
た。号泣した。どんなに母に罪を造らせたことか。よくぞ十六年も隠し通した母の忍耐と愛情に,私は声をあ
げて泣いた。打たれる私よりも打つ母は,どんなに辛かったことだろう。私を打つことで母の苦しみが軽減さ
れたのなら,いくら打たれてもよかったのにと,そのとき後悔したものである。亡き母を思うと今でも,あふ
れる涙に当惑する。普段の母は側にいるだけで,私は温かく満たされていた。六十億の子に六十億の母あれど,
わが母に勝る母なしの自負は変わらないが,心配かけ通しの不孝は今も絶えることがない。
」