〈2015 共済合宿によせて〉 大学生協共済連会長 濱田康行 2015 年 7 月 先日、公益法人研究会(学会)の会長さんとお話しをする機会がありました。 経済学者としての私の関心のひとつは、営利を目指す組織(典型は株式会社)が中心で、 圧倒的な存在感を持つ資本主義社会において、なぜ非営利の組織が存在するのか、という ことです。ただ存在するだけでなく、それはおよそ世界のどの国にも多様な存在形態をも って多数あるのです。 当たり前とも思える現象ですが、これは考えてみるべき課題です。私達の業界でいえば、 保険会社という営利組織があり、私達が属する共済組織があり、これは非営利です。 このような情景はあちこちで見ることができます。たとえば金融業。この業界は、資本 主義の近代史の経過の中で最も発展した。その証拠に利益率は高く、役職員の平均給与も 高いのです。儲かっているから賃金も高い。これは文句のつけようのない因果です。 つまり金融は資本主義の最先端なのですが、ここにもよくみると非営利組織があります。 公的金融機関と協同組織金融機関です。前者の代表格はゆうちょ銀行です。もうすぐ株式 の売り出しがあるのですが、まだ政府の完全所有です。日本政策投資銀行などは民営化が 決まったのに、政府はそれを取り消してしまいました。 民業・営利が当たり前の世界に非営利がある。これはどうしたことでしょう。人々は時 折、この“なぜ”に気が付く。そして、情緒的にしか物をみることをしない人々は“そん なものいらない”、 “民業ですべてやればよい”と主張します。後に示すようにこの主張は 合理的ではないし、歴史を無視しているのですが“筋”は単純なので大衆受けします。こ れを利用したのが小泉政権下での郵政民営化でした。まさにポピュリズムの所産であり、 それはほとんど良い結果をもたらしませんでした。大衆迎合でよいなら、考える政治家は いらないのです。 隣国が何か悪さをする。国民にはその国への悪感情がめばえる。マスコミの報道がそれ を煽る。相手の国でも同じことが生じている。A国民の一番嫌いなのはB国で(B国民で はない!)逆は逆、となると、最後はどうなるのでしょう。 話はそれました。むやみな民営化論と隣国敵視は同根ということで、先に進みましょう。 非営利の組織というのは実はたくさんあります。種類も多い。それを次の三つの類型に 分けたい。この分類は、私的な経験に基づく部分もあり、客観性に欠けるかもしれません。 しかし経験から理論を導くことも許されないことではありません。 三つの類型を示す前に資本主義の構造を象徴的に示しましょう。それは様々な組織、つ まり営利であれ非営利であれ、それが寄って立つ舞台、相撲で言えば土俵のようなもので 1 す。 資本主義は二重の額縁のようになっている。図の1です。 (Ⅱ) (Ⅰ) 営利領域 公 的 領 域 「」 図1 内側の額の中は営利の領域(Ⅰ)です。それを外側から公的な世界が包み込んでいる。 これが公的領域。資本主義は営利中心ですが、中心であってすべてではない。このⅠの領 域にも非営利組織があります(図の(Ⅰ)にある )。その典型は協同組合です。共済は協 同組合が実施する保険であり、まさにⅠの中にあります。ここで見渡せば、周辺には同じ ような事業を生業としている営利企業がたくさんあります。 Ⅰの領域になぜ非営利組織が存在するか。これについてはいくつかの説明が可能です。 ひとつは、資本主義が完全には社会を覆い尽くせないという説です。資本主義は歴史上に 出現した経済体制の一類型です。もう少し言えば、生産・分配・消費が資本主義的に行わ れる体制・システムです。特に決定的のは生産です。生産が営利を目的とする企業の手に 委ねられている、そういう経済体制です。 さて、すべての経済体制は社会を土台に、そこを舞台として展開します。社会は人々の 集まりです。つまり、資本主義が社会を、上から覆いかぶさるようにつかんでいく。だか ら、儲からない組織は存在意義を失い、人々のレベルでも“仕事ができるかできないか” が優劣の判断基準になる。競争的なモーレツ型の人間が典型になる。そうだと人々が思う ようになる。 ところが、こうした資本主義の倫理は社会を覆い尽くせないのです。これを限界説と呼 んでおきましょう。それは人というものが、資本主義の倫理とはズレているからです。競 争が好きな人は多い。また競争に勝ち抜く能力が人の能力として第一に認められる。しか し、人はまったく無償で困っている人を助けようとする。 9.11 のとき、多くの人がボランティアとして被災地にかけつけた。この、人が持つ性質・ 特質を資本主義の倫理は包み込めない。不完全とはそういう意味です。ですから、Ⅰの領 域でさえ、そこが人々で構成されている、つまり社会である限り、資本主義的倫理では動 かない組織が必要なのです。 以上が限界説ですが、少し味方を変えたものにスキマ説があります。資本主義は社会を 覆うが効率(利潤率)を追求しすぎてしまうため、資本主義が非効率と認定してしまう分 野に興味を示さない。要は儲かる事業しかやらない。もしそうなると、人が生きていくの 2 に必要な物財がいつも生産されるとは限らない。こういう心配の中心にあるのは食糧で、 それを生産するのは農業です。 いまでこそ、日本の政府は農協を敵視し、ついには農協中央会を解散同様に追い込むよ うなことをしていますが、少し前までは“農業” (第一次産業)を特別な領域とみていたの です。農業は、そもそも生産の段階で人々の共働作業を必要とします。ある時期に集中的 に労働力の投下が必要ですし、農作物の病虫害駆除などは一人だけでやっても意味があり ません。農業の世界では協同は最初からあってしかるべきものでした。大量生産による安 価の追及より安全・安心が優先されたのです。 領域(Ⅰ)をながめれば、すぐには利益を見込めない分野はあちこちに少しずつ存在し ます。そういうところに非営利組織が成立する、というのがスキマ説です。 このあたりには、まだまだ論ずべき事があるのですが、先を急ぎましょう。資本主義は 人々の集まりという社会の土台の上に展開します。人々が生きていくには、営利ではやり にくい分野が必要です。たとえば治安、消防などを考えてみてください。お役所のやって いる多くの仕事はそうでしょう。額縁の外側の領域(Ⅱ)がそれです。 Ⅰの中にある非営利組織、これを第一類型とし、事業を行っている協同組合はその典型 です。Ⅰの領域は競争の強風が常に吹いており、存在するすべての組織はそれから逃れる ことはできません。消費生活協同組合はスーパーと競争するし、共済は保険会社と競争す るのです。 第二類型は図2に示すように外側と内側の中間に重なるように位置どりをします。 Ⅰ Ⅱ 図2 わかり易い例として、私立病院とか私立学校を考えてみてください。どちらも、儲け第 一ですとは言いません。かといって剰余がなくては発展できません。領域Ⅱには純粋な公 立病院も旧国立大学のようなものもあります。それらとは競争もあり協調もあります。 第二類型に属する組織はⅠの領域にもはみ出していますから、純粋に営利を目的とした 事業もできます。私立大学が余っている土地を駐車場にして貸すとか、体育館をイベント に貸すとか、有名大学ならブランド名のグッズを売るとかです。もちろん、そういう場合 は、営利と非営利で会計を分離し、前者については納税するわけです。 第二類型は少々わかりにくい。病院とか教育機関などはすべて公営にすればよい。そう 3 考えることもできます。しかし近代国家では結社の自由があります。同じ志を持った人が 団体をつくる。志が“病気の人を助ける”なら病院ができるでしょう。世界各地にある赤 十字病院をみてください。志が“教育にある”なら私立学校が成立します。教育には理念 が必要ですが、それが一つである訳ではありません。また国まかせにしておけば、国の方 向を批判するようなことはやりにくい。教育の理念は政府の時々の方針などよりはるかに 尊い。民間の有志に理念と資産があれば、イギリスやヨーロッパのように私立大学が当然 になるのです。逆はアメリカでしょう。もちろんハーバード大学は私立ですが、この国で 数が多いのは州立大学です。 第二類型でも、不完全論とスキマ論が成立しそうです。国には確とした理念はないと考 えれば前者。国がやろうにも、手が届かないし、予算もない、となれば後者でしょうか。 日本の私立大学が高度成長期に進学率が急増し、その需要をまかなうために拡大した、と いうのは典型的なスキマでしょう。 第三類型は領域Ⅱに成立します。公益社団とか公益財団などがここに位置します。届け 出て許可されれば公益諸団体も営利事業が限定的ですが可能です。しかし、それは“おま け”のようなものですので、ここは無視してよいでしょう。 公益法人(社団、財団を含めて)の存在については、いかなる意義があるのでしょうか。 公益法人は公益目的を揚げています。所轄の官庁が目的リストを示しています。環境保護 とか地域社会発展とかの目的が書いてあります。しかし、そういう目的なら国や地方政府 が実施すればよい。なぜ、別の組織が必要なのでしょう。説明として有力なのは不完全説、 あるいは不ゆき届き説でしょう。やるべきなのだけど、体制としてできない。役所はどこ かの中心都市にひとつしかない。しかし見渡さねばならないエリアは広く、分野も多岐に わたるので、できない。しかし、これでは怠慢ともいわれるし、言い訳にすぎないとも言 える。行政を、限られた予算で効率的に展開するために、役所と地域の中間組織が必要。 これの方が理屈は立っていそうです。 財政危機による予算の縮小が存在意義だと主張するのも現実的です。行政の縮小には関 係各方面から“困る”という苦情が出る。また、役所も経済、特に地方経済が縮小に向か えば、定年退職者の行き先が無い。こうしたいくつかの理由・背景の中に公益法人は存在 している。 以上の説明をまとめて図にすれば次のようになります。 (Ⅱ) 第二類型 uigata (Ⅰ) 4 第三類型 uigata 図3 第一類型 uigata 〈 補 足 〉 領域ⅡがないとⅠが暴走する恐れが高まる。資本主義は欲望の無限地獄です。2008 年の リーマンショックのような事件が起こる。19 世紀には周期的に恐慌が発生した。Ⅱの領域 に経済的機能を合わせ持った公の分野が安定装置として必要。これが歴史の第一の教訓で す。おそらく(Ⅰ)の領域がどんなに質的に向上しても(Ⅱ)はなくならない。しかし、 グローバリズムで(Ⅰ)の主体の活動範囲が広がると、 (Ⅱ)では包みきれなくなる。これ がグローバリズムと国家という問題です。それはスーザン・ストレンジというイギリスの 政治学者の言う『国家の退場』という新しい現象です。 (Ⅱ)が厚ければ安定するのですが、今度はその維持にお金がかかりすぎ財政危機とな る。第一段階としては大きすぎる(Ⅱ)が(Ⅰ)を圧迫し、図では位置関係が逆ですが、 ⅡがⅠを押し出してしまう、いわゆるクラウディンクアウトという現象が生じ、やがて(Ⅰ) が縮小していく。最近話題のギリシャで生じた事態はこれでしょう。 (Ⅰ)が縮小しはじめ たら、それはもう資本主義ではないのです。かの国に資金援助をする、あるいは債務の免 除をするということは、かの国をパルテノン神殿のある世界の公共と認め、他の国がこの 国を支えるための税金を払うということに他なりません。 もっともギリシャには、対ロシアとの軍事的意味・地勢学的意義、そしてヨーロッパの 哲学と歴史を支える文化の誕生地という位置づけも大いにありますから、経済問題だけで は答えは出ません。 〈 共 済 に つ い て 〉 協同組合の共済事業は領域Ⅰにあります。それは営利企業の領域です。つまり競争相手 として保険会社がいるのです。しかし、保険の世界は資本主義といっても特殊な事情があ ります。それは、そもそも、人々の助け合い活動から発展というか横すべりして成立した のです。保険会社のルーツを辿ると賀川豊彦などの先人にいきあたります。つまり共済は 共済にとどまり、いくつかは保険会社に転身したのです。だからルーツはひとつ。同じ精 神・哲学を持っている。助け合いの精神を原点に持ちながら、事業を拡大するために、資 本の本性としての拡大志向の実現のために株式会社の道を選択したのが保険会社と考える ことができます。 そうであれば保険会社は、競争相手であるとともに協調・協力の可能性のある事業組織 なのです。ついでに言えば、保険会社の多くは大学生の就職先人気ランキングに常に顔を 5 出す優秀な組織が多く、職員もエリートがそろっている。 副業的に共済事業をやっていたのは、むしろ協同組合なのかもしれません。競争するに は私達の方が共済のプロをめざして変身していく必要があります。また、業界の先達とし て保険会社を正当に評価し学ぶべきは学んでいかなければなりません。 一人は万人のため、万人は一人のため、というスローガンは共有されているのです。こ の目標に近づく努力をする道すがら、保険会社との協同という、それこそ意外な展開があ るかもしれません。ひょっとすると私達は同じ峰の頂を別々のルートから目指しているの かもしれません。だから出会うにしてもお互いに頂上に近づいていなければならない。 事故や病気、そして意図せずに加害者になってしまうこと。それらを完全に防ぐことは できませんが、大きな不幸を小さくすること、そこからなら人生を再生させることのでき るレベルでとどめる事、それが私達の目標であります。胸を張って、人々のためになる仕 事をしているという自信を持って前進しましょう。 6
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