No. 68 2015 <解説> 溶液のX線及び中性子回折実験から何がどこまで分かるか 山形大学 理学部 物質生命化学科 亀田恭男 溶液内における分子間、イオン間相互作用の解明は、溶液化学の中心的な課題である。分子間、イ オン間相互作用の様子は溶液中の原子分布に直接反映されるので、溶液内の原子レベルの構造情報 は分子間相互作用に関する重要な手がかりを与える。本稿では、溶液内の原子分布を明らかにする 実験手段として用いられるX線回折および中性子回折について解説するとともに、近年我が国に整 備された高性能大型実験施設の利用についても紹介する。 1.はじめに X線回折および中性子回折実験から得られる 情報は、1言で言えば「原子間距離のスペクトル」 である。溶液試料中の原子により散乱されたX線 良く測定するかが、溶液のX線、中性子回折実験 を行う上での重要なポイントとなる。 2.溶液の回折実験のはじまり 液体、特に水に対するX線回折実験はX線発見 あるいは中性子の二次波は互いに干渉を起こし、 からあまり間が無い 1930 年代初めから既に試み 干渉の具合は原子間距離により異なる。溶液中に られており[1]、初期の水の構造研究として有名な は様々な原子間距離が存在するから、観測される Morgan & Warren の論文が発表されたのも 散乱データは、溶液中に含まれる全ての原子間距 1938 年の事である[2]。長らく決定版とされてき 離に関する情報を含んでいる。溶液中では分子は た Narten のX線回折実験は 1960 年代に行われ 様々な方向を向いているので、散乱データの中の、 たものである[3,4]。これ等の実験結果から得られ 原子間構造の情報は、分子の配向に関してあらゆ た水分子間分布関数により、水分子は液体中で短 る方向にわたる平均値の形で含まれる。このよう 距離的には氷と同様な正四面体型構造を取って な理由で、溶液の散乱データには結晶の回折実験 いる事が明らかになった。 に良く見られる Bragg ピークは見られず、散乱強 溶液に対するX線回折実験も古くから試みら 度の緩い極大と緩い極小を伴った散乱曲線が生 れており、水溶液中におけるアルカリ金属イオン じる。溶液に対して観測される散乱強度は、結晶 の水和構造に関する研究が 19 50 年代には既に 試料に対して観測される散乱強度に比較して非 発表されている[5]。X線回折では、原子に含まれ 常に弱い。このため、弱い散乱強度をいかに精度 る電子の数にほぼ比例した散乱強度が得られる 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 ので、水分子に含まれる酸素原子よりも比較的原 る“部分分布関数”を求める必要がある。試料を 子番号の大きなイオンを含む水溶液の構造解析 構成する原子により散乱されたX線や中性子に には大変好都合である。水溶液中のイオンの水和 は、どの種類の原子から散乱されたものかという 構造に関してはX線回折を使った研究が多数報 履歴情報までは含まれないから、実験から求めら 告されており、1990 年代初頭までにおける成果 れる動径分布関数はいわばモノクロの影絵のよ は故 大瀧先生と Radnai 氏のレビューにまとめ うなものである。観測される動径分布関数は、試 られている[6]。 料を構成する全ての原子間構造の平均値にすぎ 3.良い実験データを得るには ない。 溶液のX線回折実験を行う上で最も重要な点 5.同位体を用いた中性子回折実験 は、 「優れた統計精度」および「広い範囲の散乱 多種類の原子から成る溶液試料の構造研究を ベクトル Q (= 4πsinθ/λ, θ:散乱角, λ:X線 行うには、各原子種毎の構造を表す部分構造因子 の波長)の領域でデータを得る事」である。統計精 あるいは部分分布関数を求める必要がある。同じ 度に関しては、測定データ 1 点当たり少なくとも 種類の元素でも同位体により中性子の散乱能が 10 万カウント(統計誤差 0.3 %)程度の積算を行う 異なるという性質を利用した同位体置換試料を 事が必要である。X線源は強力な方が望ましい。 溶液の構造解析に用いようとする研究は 1970 年 実験室規模の回折装置でも、検出器の進歩により 代初めから試みられるようになり[9]、1970 年代 最近では数時間で測定を完了する事が可能にな 後半には Ni2+ および Cl- に水和する水分子の酸 った。広い範囲の Q 領域でデータを得るには、で 素原子と水素原子の構造情報(水分子の配向)を得 きるだけ短い波長のX線を用いるのが良い。測定 る事に成功した[10]。イギリスのパルス中性子実 可能な Q の範囲が広がるのに比例して、分布関数 験施設 ISIS で Soper 等が 1990 年代初めに建設 の分解能は良くなり、詳細な構造知見を得る事が した SANDALS 分光器が稼働を始めてから、非 できる。実験室規模の装置では、X線波長とX線 常に多くの H/D 置換試料を用いた実験が行われ 出力の兼ね合いで Mo (特性X線の波長は 0.7107 てきた[11,12]。研究しようとする試料の中の、興 Å)をX線ターゲットの金属として使う事が多い。 味ある原子の同位体分率のみが異なり、濃度その 高性能な検出器システムの開発も我が国で近年 他の条件は全く同一とした2つの試料を用意し 盛んに行われており、X線イメージングプレート て中性子回折実験を行う。得られた散乱データの を使用した測定システムが福岡大学で[7]、CCD 差分を取ると、同位体置換を施した原子周囲の構 を用いた検出器が立命館大学で[8]実用化されて 造情報のみを抽出する事ができる。同位体置換中 いる。さらに強力なX線を利用可能な、シンクロ 性子回折実験を行う上での重要なポイントは、中 トロン放射光をX線源とした回折実験も近年行 性子干渉性散乱長の値が十分に異なる同位体試 われるようになってきた。 料を入手する事である。これまでに筆者が行った 4.部分構造を分離するには 実験で用いた同位体の組み合わせは以下のとお 多種類の原子を含む溶液系の構造を完全に解 りである。 明するためには、全ての種類の原子対に関する H/D (D 置換化合物は NMR 用として市販され “部分構造因子”あるいはそのフーリエ変換であ ており、入手可能。ただし、H は非弾性散乱によ 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 るバックグラウンドが極端に大きいため、データ 計を得る事ができる[18]。BL04B2 で測定された 解析上特殊な配慮が必要[13])、6Li/7Li (6Li は中性 高精度な回折データと分子動力学(MD)シミュレ 子の吸収が大きいが、データ解析の際に吸収補正 ーションを組み合わせる事によりイオン液体の をきちんと行えば良い結果が得られる[14])、 詳細な構造特性を明らかにする研究が最近行わ 12C/13C (いくつかの論文を発表したが[15]、その れるようになった[19,20]。SPing-8 の別のビーム 後、13C の中性子散乱長の値が従来使われてきた ライン例えば産業用ビームライン BL16XU に設 値と異なるという論文が 2008 年に発表されて 置してある回折計も溶液の回折実験に使えるこ [16]以来、一時休業中)、14N/15N(15N 濃縮化合物 とが分かっている[21]。実験課題の公募は年に2 は硝酸塩、アミノ酸等として各種市販されている)、 回行われる。課題採択の通知が届いたら、装置責 35Cl/37Cl(37Cl 濃縮試料は大変高価、35Cl 濃縮試料 は数年前から品薄状態で現在は入手困難)。入手可 任者と具体的な実験日程を相談する。 7.国内の共同利用実験施設(中性子回折) 能な同位体濃縮化合物を目的の化合物に変換す 茨城県東海村の日本原子力研究開発機構の敷 るところは研究者の化学合成の技量とセンスの 地内、太平洋に面する砂地に大強度陽子加速器実 見せどころかも知れない。実験室規模の中性子回 験施設 J-PARC のシンクロトロンがある。加速エ 折装置は無いので、国内外の実験施設に実験申請 ネルギー50GeV シンクロトロンの内側に中性子 書を提出してマシンタイムを割り振られた後に 散乱実験施設がある。MLF 施設(物質生命科学研 実施できる。2つの試料から得られた散乱強度の 究施設)と呼ばれる中性子散乱施設では 3GeV シ 差に注目した解析を行うためには、測定データに ンクロトロンで加速した陽子ビームを循環する は可能な限り高い統計精度が要求される。 液体水銀ターゲットに打ち込み、核破砕反応によ 6.国内の共同利用実験施設(X線回折) って生じたパルス中性子を実験に使用する。波長 溶液化学を研究する我々にとって幸いなこと 0.1~8Åの範囲の白色中性子を試料に当てて、検 にX線回折、中性子回折実験ともに国内に世界最 出器に届くまでの時間を測定してエネルギー分 高性能の実験装置が揃っており、いずれも共同利 解を行う。溶液の構造解析で我々の研究グループ 用実験として利用が可能である。 が使用実績のある分光器は BL21 NOVA [22]およ 兵庫県山中にある SPring-8 の BL04B2 ビーム び BL20 iMATERIA[23] であるが、粉末結晶解 ポートに設置されている 2 軸回折計が溶液の実験 析用の他の分光器や高圧実験用の分光器でも溶 には使いやすい[17]。試料溶液は 2mm 厚程度の 液構造の解析が可能であると思われる。データ解 カプトンフィルム透過窓付きの平板セル(自作し 析上、多少の困難さはあるが、0.1≦Q≦50Å-1 に ている)あるいは直径 3mm 程のパイレックスガ わたる広い範囲の散乱データが1度に入手でき ラスセルに入れて測定する。ガラスセルを用いる る。室温の測定の場合は、試料は内径 6mm 厚さ と、温度可変の実験も可能である。入射X線波長 0.1mm のバナジウムセルにインジウムシールを は通常 0.2Åであり、散乱角 2θ=48°まで測定で 使って封入される。試料位置での中性子のビーム きれば、Q の上限値として 25Å-1 までデータを得 高さは 20mm なので、試料の量は最低 0.6ml 程 る事ができる。標準的な液体試料の場合 4~5 時 度あれば測定可能である。室温測定では 10 連の 間の測定で、データ点当たり数十万カウントの統 サンプルチェンジャーが用意されており、実験の 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 初めに試料をセットすれば、試料交換は自動で行 9.実験が終わったら える。標準的な試料の場合、3~4 時間の測定時間 実験が終了したら、決められた期間内に実験報 が必要である。ただし、これは昨年度(2014 年度) 告書を各施設に提出する。成果をまとめた論文公 陽子シンクロトロンの出力 200kW 運転時の値で 表はできれば 1 年以内、遅くても数年以内には行 あり、今後シンクロトロン出力の上昇とともに うと良い。あまり論文発表が無いと、次回の実験 (2015 年度は 400kW、数年後にフル出力の 1MW 申請書審査の際に“考慮”される。 になる予定)必要な測定時間は短縮される。実験課 測定データを解析するためには解析プログラ 題の公募は年に2回行われ、課題採択後は各装置 ムが必要である。X線、中性子回折ともに、各種 責任者と実験日程の相談を行う。 補正、強度の規格化等の計算はそれほど難解なも 同位体置換試料を用いた実験では、2つの試料 のではないので、自分でじっくり時間をかけて作 から観測された散乱強度の差分に注目して解析 成する事が可能である。しかし、実験の途中で測 を行うため、通常の測定よりもさらに高い統計精 定済のデータをチェックするために、実験装置毎 度が必要となる。NOVA 分光器で筆者が試したと にデータ解析プログラムが使えるようになって ころでは、1 mol% LiNO3 重 水 溶 液 、 いる。SPring-8 BL04B2 回折計では、比較的簡 (*LiNO3)0.01(D2O)0.99 に対する 6Li/7Li 同位体置換 単な操作で散乱強度から動径分布関数まで求め 実験を行い、1試料あたり約 4 時間の測定時間で る事が出来る解析プログラムが使用できる。 良好な差分関数ΔLi(Q)を得る事が出来た[22]。 J-PARC NOVA 分光器では、利用者が自分のパソ 8.共同利用実験中の生活 コン上でデータ解析ができるようなプログラム SPring-8 へ行くには、山陽新幹線相生駅で降車 システムを装置グループが中心となり開発中で 後駅前のバス停から SPring-8 行きのバスに乗り ある。このプログラムはまもなく公開される予定 40 分程で到着する。 施設周辺には民家は見当たら である。 ないが、SPring-8 の宿泊施設は良く整備されてお 10.国内大型施設利用の勧め り、快適に滞在する事ができる。もちろん大学院 現在、わが国には溶液の構造研究に使えるシン 生や学部学生も利用できる。食事は食堂で行うが、 クロトロン放射光を線源とするX線回折装置や 開店時刻に注意が必要。 世界最強強度を誇るパルス中性子を線源とする J-PARC で実験を行う際は、JR 常磐線東海駅 中性子回折装置が稼働しており、共同利用実験と から原研(日本原子力研究開発機構)を目指す。原 して誰でも使う事ができる状態にある。溶液の回 研正門の外に快適な宿泊施設が用意されている。 折データの優劣はほとんど統計精度で決まる。こ こちらも、大学院生や学部4年生も利用可能であ れ等の施設で実験を行い、測定さえできれば直ち る。宿泊施設に食堂は無いが、近くにコンビニや に世界最高のデータが得られると考えてよい。た 飲食店がある。宿泊施設から J-PARC の MLF 施 とえ自分の研究室に立派な測定装置が無かった 設まではかなり距離がある。宿泊施設では自転車 としても、最高の研究成果が出せる。このチャン を貸してもらえる。自動車で来た場合は、原研敷 スを有効に生かして、多くの研究者が SPring-8 地内に乗り入れるための許可証をあらかじめ発 や J-PARC の装置を使った挑戦的な研究に参入 行してもらう必要がある。 されることが望まれる。 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 実験申請書作成やデータ解析等で何か困った [15] Y. Kameda, M. Sasaki, M. Yaegashi, K. ことが有りましたら遠慮なくお尋ねください。で Tsuji, S. Ooori, S. Hino, T, Usuki, J. Solution きる限りご協力いたします。 Chem., 33, 733 (2004). 参考文献 [16] H. E. Fischer, J. Neufeind, J. M. Simonson, [1] G. W. Stewart, Phys. Rev., 37, 9 (1931). R. Loidl, H. Rauch, J. Phys.: Condens. Matter, [2] J. Morgan and B. E. Warren, J. Chem. Phys., 20, 045221 (2008). 6, 666 (1938). [17] S. Kohara, M. Itou, K. Suzuya, Y. Inamura, [3] A. H. Narten, M. D. Danford, H. A. Levy, Y. Sakurai, Y. Ohishi, M. Takata, J. Phys.: Discuss. Faraday, Soc., 43, 97 (1967). Condens. Matter, 19, 506101 (2007). [4] A. H. Narten, H. A. Levy, J. Chem. Phys., 55, [18] Y. Kameda, A. Okuyama, Y. Amo, T. Usuki, 2263 (1971). S. Kohara, Bull. Chem. Soc. Jpn., 80, 2329 [5]G. W. Brady, J. T. Krause, J. Chem. Phys., 27, (2007) 3041 (1957). [19] Y. Umebayashi, H. Hamano, S. Tsuzuki, J. [6] H. Ohtaki, T. Radnai, Chem. Rev., 93, 1157 N. Canongia Lopes, A. A. H. Pádua, Y. Kameda, (1993). S. Kohara, T. Yamaguchi, K. Fujii, S. Ishiguro, [7] K. Yamanaka, T. Yamaguchi, H. Wakita, J. J. Phys. Chem. B, 114, 11715 (2010). Chem. Phys., 101, 9830 (1994). [20] K. Fujii, R. Kanzaki, T. Takamuku, Y. [8] M. Katayama, S. Ashiki, K. Ozutsumi, Anal. Kameda, Sci., 23, 929 (2007). Shibayama, S. Ishiguro, Y. Umebayashi, J. [9] J. E. Enderby, W. S. Howells, R. A. Howe, Chem. Phys., 135, 244502 (2011). Chem. Phys. Lett., 21, 109 (1973). [21] H. Deguchi, Y. Kubota, Y. Yagi, I. Mitani, Y. [10] A. K. Soper, G. W. Neilson, J. E. Enderby, R. Imai, M. Tatsumi, N. Watari, T. Hirata, Y. A. Howe, J. Phys. C: Solid State Phys., 10, 1793 Kameda, Ind. Emg. Chem. Res., 49, 6 (2010). (1977). [22] Y. Kameda, T. Miyazaki, T. Otomo, Y. Amo, [11] P. Postorino, M. A. Ricci, A. K. Soper, J. T. Usuki, J. Solution Chem., 43, 1588 (2014). Chem. Phys., 101, 41231 (1994). [23] Y. Kameda, H. Deguchi, H. Furukawa, Y. [12] A. K. Soper, Chem. Phys., 258, 121 (2000). Kubota, Y. Yagi, Y. Imai, N. Yamazaki, N. [13] Y. Kameda, M. Sasaki, T. Usuki, T. Otomo, Watari, T. Hirata, N. Matubayasi, J. Phys. K. Itoh, K. Suzuya, T. Fukunaga, J. Neutron Chem. B, 118, 1403 (2014). S. Kohara, M. Kanakubo, M. Res., 11, 153 (2003). [14] Y. Kameda, M. Sasaki, Y. Amo, T. Usuki, Bull. Chem. Soc. Jpn., 79, 228 (2006). 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 <トピックス> 塩を含む混合溶液の不思議な臨界挙動:静的測定が示す 2 次元 Ising 的振る舞 いと動的測定が示す 3 次元 Ising 的振る舞い 同志社大学生命医科学部 貞包浩一朗 水と有機溶媒からなる 2 成分混合溶液の多くは、温度の変化に伴い 1 相状態から 2 相状態へと相分 離する。我々はこれまでに小角散乱法による実験から、下部臨界点を持つ D2O/3-メチルピリジンに 「拮抗的な」塩を加えることで、臨界挙動が 3 次元 Ising から 2 次元 Ising に変化することを明らか にした。ところが最近、動的光散乱法を用いた他のグループの実験により、溶液が塩を含んでいて も臨界挙動は 3 次元 Ising から変化しないことが指摘された。すなわち、同じ溶液の相分離であっ ても、静的測定の場合と動的測定の場合とで全く異なる臨界挙動が見えている。今後溶液化学や物 性物理学の分野の多くの研究者と共に、この不一致の問題の解決に臨みたい。 1.はじめに 臨界点近傍で観測される感受率や濃度揺らぎ の発散のしかたは、一般に物質や系を支配する相 互作用の詳細には左右されず、普遍的な理論体系 で説明することができる。例えば低分子溶媒から なる混合液体の相分離では、通常 3 次元 Ising(短 距離相互作用のバランスに起因する相分離現象 で観測される臨界挙動)に従う。一方、一部の高 分子溶液やマイクロエマルジョン等の系は、臨界 点から離れた組成や温度では平均場的な振る舞 図1:D2O/3-メチルピリジン混合溶液のSANSプ いを示し、 臨界点に近づくにつれて 3 次元 Ising に ロファイルの温度依存性。破線は式(1)によるフ なる、という「臨界現象のクロスオーバー」を示 ィッティング結果。Insetはフィッティングで得 すことが知られている。これは、溶液の相分離に られたI0とξの温度依存性。 関係する相互作用が遠距離力であることに起因 する。このように、臨界挙動の変化の様子を調べ あるナトリウムテトラフェニルホウ素 (NaBPh4) ることで、相分離に伴う相互作用の本質を理解す を加えることで、 臨界挙動が 3 次元 Ising から 2 次 ることができる。 元 Ising(短距離力に起因する相互作用により相分 2.塩を含む有機溶媒水溶液の臨界現象:SANS に 離する 2 次元流体が示す臨界挙動)へと変化する よる静的測定 ことを明らかにしている [2]。 我々はこれまでに、下部臨界点を持つ D2O/3-メ 図 1 は塩を含まない D2O/3-メチルピリジン混合 チルピリジン混合溶液 [1] に「拮抗的な塩」 (親水 系の濃度揺らぎを小角中性子散乱 (SANS) で測 性のイオンと疎水性のイオンを合わせ持つ塩で 定した結果である。散乱プロファイルは通常の濃 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 度揺らぎからの散乱に対して適用できるモデル D2O/3-メチルピリジンの濃度揺らぎの形状が変化 関数 (Ornstein-Zernike の式 [3]) することが分かる。 ( ) = 1+ (1) この現象は既に Onuki らの理論計算によって予 想されていた [4]。これによると、混合溶媒の濃度 で良く説明できる [2]。ここで、I0 は前方散乱、ξ 揺らぎと塩の「拮抗的な」溶媒和効果がカップル は濃度揺らぎの相関長、Q (= 4π sinθ /λ、θ:散乱角、 することで、濃度揺らぎが長距離の秩序を伴う構 λ:ビームの波長) は散乱ベクトルの絶対値である。 造 (charge-density-wave 構造) に変化すると示唆 温度上昇に伴い散乱強度が大きくなっているの される。charge-density-wave 構造の散乱モデルは は、臨界温度 Tc に向かって I0 と ξ が Onuki-Kitamura の式 ∝ ∝ − − (2) (3) ( )= 1+ 1− /(1 + (4) で与えられる [4,5]。ここで、λDはイオンのデバイ 長であり、NaBPh4 の濃度が6mmol/LのときλD = (T: 温度、γ、ν:それぞれI0とξに対する臨界指数) 39.25 Åである。また、γDは 陽イオンと陰イオンの に従い発散するためである。式(2)、(3)による解析 親水性の違いに依存する無次元パラメータであ から、3次元Ising(3次元の混合溶液が、短距離力に り、塩の種類によりγD = 0~2程度の値を持つ。特に 起因する相互作用により相分離する際に観測さ γD = 0の場合、式(4)は式(1)と一致する。 れる臨界挙動)の指数であるγ = 1.24とν = 0.63がそ れぞれ得られる(図1 Inset参照) 。 図2の実線に示すように、D2O/3-メチルピリジン /NaBPh4混合系の散乱プロファイルは式(4)で良く 一方、D2O/3-メチルピリジン混合溶液に NaBPh4 説明できる。すなわち、D2O/3-メチルピリジン混 を加えた系の臨界散乱は式(1)では説明できない 合系では、NaBPh4の添加により通常の濃度揺らぎ (図 2 参照) 。すなわち、NaBPh4 の添加に伴い がcharge-density-wave 構造へと変化することが分 かる。 更に、式(2)、(3)から求められるI0とξの臨界指数 は、2次元Ising(2次元の混合溶液が、短距離力に起 因する相互作用により相分離する際に観測され る臨界挙動)の値であるγ = 1.75とν = 1.00となる (図2 Inset、及び図3参照) 。この結果から、chargedensity-wave相においては、D2Oと3-メチルピリジ ンの濃度揺らぎは局所的に見ると膜状(つまり2 図2:D2O/3-メチルピリジン混合溶液に6 mmol/Lの NaBPh4を加えた系でのSANSの結果。破線と実線 はそれぞれ式(1)と(2)によるフィッティング結果。 Insetはフィッティングで得られたI0とξの温度依 次元状)に広がっていることが示唆される [6]。 3.塩を含む有機溶媒水溶液の臨界現象:DLS に よる動的測定 以上のように、D2O/3-メチルピリジン混合溶液 存性。 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 図3: (Tc-T)/Tcとξ-1の線形グラフ。原点を通る直線 で良く説明できることから、臨界挙動は2次元流 体的であることが分かる。 に拮抗的な塩を加えることで、charge-density-wave 構造が形成され、このとき臨界挙動は 2 次元流体 的になることが SANS の結果から明らかになった。 図 4:(a) D2O/3-メチルピリジン、及びこれに ところが最近 Anisimov らのグループは、動的光 5mmol/L の NaBPh4 を加えた系の動的挙動を我々 散乱(DLS)を用いた実験結果から、D2O/3-メチル が DLS で測定した結果。実験条件は T = 298K、θ ピリジン混合溶液に塩を加えても 2 次元 Ising に = 45°である。実線は式(5)によるフィッティング はならないと指摘している [7]。 結果を示す。 (b) 式(5)により得られた Γ の Q 依 2 成分混合溶液の濃度揺らぎを DLS で測定する 存性。実線は式(6)によるフィッティング結果。 と、単分散微粒子のブラウン運動の場合と同様に ( ) ( ) = exp(− = ) (5) (6) (Γ: 緩和係数、D: 拡散係数) に従う緩和挙動が 得られる。図 4 は D2O/3-メチルピリジン、及びこ れに 5mmol/L の NaBPh4 を加えた系の動的挙動を / 1.05 = 6 ( )≡ ( )= ( ) 1+ 3 4 1+ +( − 4 (9) (10) ) arctan 我々が DLS で測定した結果である。濃度揺らぎ (ηB:バックグランド粘度、qc:定数、η:粘度、Z: の緩和挙動は、NaBPh4 を加えても大きく変化し 定数、K(x):Kawasaki function) で与えられる [7]。 ないことが分かる。 (Γ の若干の違いは臨界温度の 図 5 に、Anisimov らの DLS 実験で得られた ξ の 違いによる。 ) 温度依存性を示す。比較のため、我々の SANS 実 濃度揺らぎの拡散係数 D と相関長 ξ の関係は = = + 1+ 16 (7) (8) 験で得られた結果も合わせて示す。DLS の結果で は、NaBPh4 を加えた場合でも、ξ の値はほとんど 変化しておらず、臨界挙動は 2 次元 Ising ではな く 3 次元 Ising に従っていることが分かる。 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 すべき重要な問題も残されていると言える。今後、 溶液化学や物性物理学の分野の多くの研究者と 共に、本研究を更に発展させていきたい。 参考文献 [1] D2O / 3-メチルピリジン混合系は closed-loop 型 の相図を持つのに対し、H2O / 3-メチルピリジン混 合系では相分離が起こらない。例えば、 T. Narayanan and A. Kumar, Physics Reports, 249, 136 (1994). に詳しくまとめられている。 図 5:D2O/3-メチルピリジン混合溶液、及びこれ [2] K. Sadakane, N. Iguchi, M. Nagao, H. Endo, Y.B. に 6 mmol/L の NaBPh4 を加えた系の ξ の温度依存 Melnichenko and H. Seto, Soft Matter, 7, 1334 (2011). 性。SANS による結果は我々の実験値、DLS によ [3] H.E. Stanley, Introduction to Phase Transitions and る結果は Anisimov らによる実験値であり、論文 Critical Phenomena, Oxford Univ. Press (1971). [7]より抜粋した。実線と破線は式(3)によるフィッ [4] A. Onuki and H. Kitamura, J. Chem. Phys., 121, ティング結果である。 3143 (2004). [5] M. Bier and L. Harnau, Z. Phys. Chem., 226, 807 4.最後に このように、D2O/3-メチルピリジン/NaBPh4 (6 (2012). この論文では、Onuki-Kiramura とは異なる 観点から式(4)の導出がなされている。 mmol/L)の混合溶液を SANS で測定すると、通常 [6] 実際、NaBPh4の濃度が60 mmol/L以上の条件 の濃度揺らぎとは異なる構造 (charge-density- では、3-メチルピリジンが安定した2次元状の膜 wave 構造)が観測され、2 次元 Ising 的な臨界挙動 として振舞う: が確認できる。一方、濃度揺らぎの動的特性は塩 K. Sadakane, M. Nagao, H. Endo and H. Seto, J. の影響をほとんど受けておらず、臨界挙動も 3 次 Chem. Phys., 139, 234905 (2013). 元 Ising 的に見える。Anisimov らは、DLS で得ら このことからも、charge-density-wave 相 れるξが真の値であり、SANS による値は charge- (NaBPh4: 6 mmol/Lの条件)において、3-メチルピ density-wave 構造の形成により濃度揺らぎの見か リジンのドメインは2次元状に広がっていると推 けが変化した“effective value”であると解釈して 測できる。 いる [7]が、実際のところはまだ良く分からない。 [7] J. Leys, D. Subramanian, E. Rodezno, B. 相転移・臨界現象は統計物理学の主要なテーマ Hammouda and M.A. Anisimov, Soft Matter, 9, 9326 であり、古くから多くの研究がなされているが、 (2013). 塩を含むソフトマターの系に関しては、まだ解明 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 <研究室めぐり東西南北> て、新しい研究室として再出発することになりま した。従いまして、新体制での歴史はまだまだ浅 同志社大学理工学部 機能分子・生命化学科 物理化学研究室 く、今年ようやく修士 2 年生から学部 4 年生まで が揃ったところで、研究活動の実績はこれからと 木村佳文 いう状況です。これまでの研究室めぐりの記事で は、すでにその研究室で挙げられた実績を中心に、 同志社大学は、主に京都市の御所の北側にある がっしりとした内容が書かれていましたが、ここ 今出川キャンパスと京田辺市にある京田辺キャ では現在の研究室の体制やその中ですすめてい ンパスからなります。理工学部が京田辺市に移転 る研究テーマについて簡単な紹介させていただ してから 20 年以上が経過しました。京田辺キャ こうと思います。 ンパスは文化・学術・研究の一大集積地、関西文 現在、研究室には M2 が 4 名、M1 が 6 名、B4 化学術研究都市の一角にあり、なだらかな丘陵地 が 15 名おり、スタッフとしては私と八坂助教の に広がる 790,000 m2 もの広大なキャンパスです。 ほかに、上野先生が非常勤講師としてほぼ毎日大 以前は、文系学部も 1,2 年生の間は、京田辺キ 学に来られており、研究室での研究活動も支援し ャンパスにて学習していたのですが、一昨年度よ ていただいています。また博士研究員として岡田 り、文系学部の多くが今出川キャンパスでの 4 年 君が、分子シミュレーションをほぼ一手に引き受 間教育となり、現在は理工学部や生命医科学部な けてくれています。主要な実験装置としては、再 どの主に理系学部が京田辺キャンパスに配置さ 生増幅器付フェムト秒チタンサファイアレーザ れています。私が同志社大学に赴任してきたとき、 ーが 1 台と、ナノ秒の Nd:YAG レーザーが 2 台、 ちょうど文系学部が今出川キャンパスに移転し 自家製のラマン測定システムが 2 式、各種高温高 た後で、ほかの先生方がずいぶんと人が少なくな 圧分光装置があり、また共同利用の 300MHz の ったとおっしゃられていました。 NMR が利用できる環境になっています。当研究 2014 年に理工学部は、前身の工業専門学校から かぞえて 70 周年を迎えました。現在私の所属す 室の伝統的な実験装置である、高温高圧下で測定 可能な電気伝導度測定装置も活動しています。 る物理化学研究室は 1950 年に開設された研究室 現在の研究テーマを一言でいうなら「デザイナ に由来する、古い伝統をもつ研究室です。2012 年 ー流体をもちいた新規反応探索と反応・分子ダイ に上野正勝教授が定年でご退職されたのち、伊吹 和泰教授と着任されたばかりの八坂能郎助教と の新しい体制で研究室が発足したばかりの時に、 伊吹教授が急逝されてしまうという悲しい出来 事がありました。溶液化学研究会ニュースに上野 先生による追悼文が掲載されたのが、つい先日の ことのように思えます。その後ほぼ一年間、八坂 助教の奮闘と退職された上野先生のサポートで 図1 研究室の集合写真(2015 年 4 月) 研究室を切り盛りされ、2013 年度より私が赴任し 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 ナミクスの評価」ということになるかと思います。 蛍光特性を観測されています。この件に関連して、 デザイナー流体とは、その物性を様々に調整でき そのダイナミクスについて最近共同研究を始め る(designable)流体という意味合いで使われ、我々 たところです。今後学会を通してその成果を発表 の研究グループではもっぱら超臨界流体やイオ していきたいと考えています。 ン液体を総称する言葉として用いています。 イオン液体をテーマとする研究では、私が時間 私はもともと超臨界流体を研究の出発点とし 分解レーザー分光法をもちいた反応ダイナミク ておりますが、研究室の移動などあって、装置の スと分子ダイナミクスの研究を進めており、八坂 立ち上げなどが遅れており、現在超臨界流体をテ 助教が新規イオン液体の開発と新規反応の開拓 ーマにしている学生は 3 名ほどです。超臨界流体 を中心に研究を進めています。フェムト秒のレー を用いた実験では、超臨界水あるいは超臨界アル ザーをもちいた研究では、イオン液体の反応ダイ コール中での溶媒分子の水素結合供与性、受容性 ナミクス、特にプロトン移動反応に関連したテー の評価と、反応ダイナミクスの解明を目指して研 マで研究を進めています。京大在籍中の最後の研 究を進めています。私が京大在籍中には、ラマン 究テーマでは、イオン液体中での N,N‐ジエチル 分光法をもちいて p‐ニトロアニリンの NO2 伸縮 アミノ‐3‐ヒドロキシフラボンの光励起状態に 振動や NH2 伸縮振動、p‐アミノベンゾニトリル おける分子内プロトン移動反応のダイナミクス の CN 伸縮振動の溶媒密度依存性を評価し、溶 について取り組んでいました。この分子は基底状 質・溶媒分子間の水素結合の変化と関連して、こ 態ではノーマル体で存在しますが、電子励起状態 れらのバンドがどのように変化するのか議論し ではノーマル体からトートマー体へとプロトン てきました[1-5]。一方で、5‐シアノ‐2‐ナフト 移動反応が起こります。我々はこの反応の収率が ールの水素移動反応速度の超臨界水中における 励起波長に依存して変化することを発見し、様々 密度変化を時間分解蛍光測定により行い、特徴的 なイオン液体中で時間分解蛍光測定により、その な密度依存性をあきらかにしてきました[6]。しか ダイナミクスを評価しました[7-11]。また京大工 しながら、溶媒の水素結合性とプロトン移動反応 学部の佐藤啓文先生のグループに理論計算を行 速度との関連は必ずしも十分には解明されてお っていただき、反応のエネルギー面とダイナミク りません。現在、プローブ分子を増やしてラマン スの関係について考察を深めていただきました 測定を行うとともに、岡田君の協力の下分子シミ [12]。これらの結果から、反応の初期過程におけ ュレーションも活用して、溶媒の水素結合供与能、 る溶媒和およびそのダイナミクスの違いがプロ 受容能の評価を進めています。この研究プロジェ トン移動反応速度に大きな影響を与えているこ クトは科研費に採択されており、成果の一部は とを明らかにしました。同志社に移ってからプロ 近々学会で発表する予定です。 トン移動しない類似の系を用いて、アルキル鎖長 上記の系は、これまでの私の研究の発展となる の異なる様々なカチオンからなるイオン液体中 べきものですが、今後超臨界流体をテーマとする で溶媒和ダイナミクスの詳細を時間分解蛍光の 研究を多方面に広げていこうと考えています。た 手法により評価しました。その結果、励起直後の とえば、金沢大学の比江嶋祐介先生が超臨界流体 初期状態は励起波長に依存するものの、顕著な溶 をもちいてカーボンドットを作成され、興味深い 媒効果は観測されず、初期の緩和ダイナミクスの 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 共同で行ってきました。京大を出てからは、新た に作成した高圧セルを用いて、種々の条件下での イオン液体中での分子拡散をターゲットとし研 究をおこなっています。特に、ジフェニルシクロ プロペノン(DPCP)の光解離反応を利用して、一酸 化炭素(CO)とジフェニルアントラセン (DPA), DPCP の拡散係数のイオン液体中における温度、 圧力変化の測定を進めてきました。この研究は金 図2 溶媒和ダイナミクスの励起波長依存性の 沢大学の高橋憲司先生の研究室と共同で行い、高 測定。論文[13]から一部改変して掲載。 橋研ではイオン液体と通常液体との混合系での 拡散を評価しました。これらの結果をあわせると 溶媒による違いが非常に大きいということが明 粘度のスケールとして 3 ケタ以上の幅広い範囲で らかになりました。この結果は最新の日本化学会 同一分子の拡散係数を評価することに成功しま 誌に採択され、高い評価をうけて BCSJ 賞を受賞 した。そして、個々の分子の拡散係数が温度/粘度 することになりました[13]。現在はこのような溶 の単一のべき乗関数として非常によく再現でき 媒和の不均一性を、基底状態の緩和過程を観測す ることを発見しました。またべき乗の係数が拡散 ることで解明する試みを進めています。またプロ する分子の大きさが小さくなると小さくなるこ トン移動反応としては分子間のプロトン移動に ともわかりました[14]。これらは 30 年以上も昔、 着目し、ヒドロキシキノリンやシアノナフトール 昨年度まで溶液研究会の会長を務められていた などをプローブとしてプロトン性イオン液体を 冨永敏弘先生が海外におられたころに、球状分子 対象に研究を進めています。さらに研究の対象を の拡散係数のサイズ、溶媒依存性を測定された結 イオン性柔粘性結晶などに広げ、そこでの蛍光ダ イナミクスから分子の回転や並進運動にアプロ ーチを進めています。この研究プロジェクトは東 京応化財団の助成に採択され、近々学会でもその 成果の一部が発表できるのではないかと思いま す。 ナノ秒レーザーをもちいた研究では、過渡回折 格子レーザー分光法の活用を進めています。過渡 回折格子レーザー分光法を化学へ本格的に応用 されたのは、現在の溶液化学研究会の運営委員長 でいらっしゃる寺嶋正秀先生で、私は廣田研、寺 嶋研とながらく在籍していたこともあり、過渡回 折格子レーザー分光法を用いて、分子のエネルギ ー緩和や拡散など様々なダイナミクスの評価を 図3 様々な溶液中でのCOの拡散係数の粘度温 度依存性。論文[14]から一部改編して掲載。 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 果導かれた結論と類似しており[15]、非常に感慨 メカニズムに支配されているかを明らかにする 深いものがあります。さらに、アルキル鎖長が長 ため、ラマン分光法によりその構造変化を追跡し いホスホニウムカチオンの系では、アルキル鎖長 たところ、ギ酸アニオンが二酸化炭素、水と会合 の長さに応じて系統的に相関からずれていくこ 体を形成し、二酸化炭素を取り込んでいることが とがわかりました。CO に関しては八坂助教の協 明らかになりました。この研究テーマは ENEOS 力で NMR を用いて回転ダイナミクスの評価も同 財団の助成金の対象となり、現在カチオンの効果、 時に行い、回転ダイナミクスも並進と同様の相関 反応熱力学の解明、効率的な脱着方法の開発など を示すという非常に興味深い結果を得ています。 様々な方面から詳細な研究を展開しているとこ 並進ダイナミクスについては、電導度測定の観点 ろです。 からも評価を試みており、こちらは上野先生の協 また、ギ酸をアニオンとするイオン液体は還元 力を仰ぎながら、イオン液体を溶質とする水溶液 特性にも優れることが明らかになりつつありま の電導度測定や粘度測定を行い、ダイナミクスの す。 PCB を代表とするクロロベンゼン化合物はそ 観点からイオン液体を構成するイオンと水との の難分解性が問題となっているのですが、ギ酸を 相互作用の評価を進めています。 アニオンとするイオン液体がジクロロベンゼン また、新しい試みとして過渡回折格子法をもち を分解することができることを見出しています。 いたイオン液体中での反応熱などの定量測定を 同位体ラベルを用いた NMR 解析によると、ギ酸 すすめる研究も行っています。これまで DPCP の イオンから有機塩素化合物へヒドリドが転移し 光解離などの単純な反応については定量的な評 ていることが明らかになりました。ギ酸からのヒ 価を行うことに成功しており、現在イオン液体中 ドリド転移は、ギ酸の脱水素反応に関する第一原 にとけたたんぱく質に対して、この手法が適用で 理計算ですでに見いだされていた反応機構であ きないかどうか検討を進めているところです。 り[17]、これが異なる反応系でも確認できたこと 一方で、八坂助教は現在イオン液体のアニオン になります。ギ酸イオン自身は二酸化炭素になり の反応性を高めることで、様々な新規反応を開拓 ます。現在、ベンゼン環上の置換基効果等から反 するチャレンジを行っています。まず特筆すべき 応機構を解明することを目指しています。 は、ギ酸イオンをアニオンとする様々なイオン液 我々が注目している、ギ酸系イオン液体のよう 体を合成し、ギ酸のもつ反応ポテンシャルを引き な特殊なイオン液体はほとんど市販されておら 出すことに成功したことです[16]。ホスホニウム ず、自前で合成する必要があります。研究対象と カチオンとギ酸の組み合わせのイオン液体は、非 するイオン液体が変わるごとに合成ルートを設 常に興味深い二酸化炭素吸蔵特性を示すことが 計する作業はかなりの試行錯誤を要し、肝心な反 明らかになりました。水を含まないイオン液体は 応研究を進める上で少なからぬ障害となってき ほとんど二酸化炭素を吸収しないのですが、等モ ました。八坂助教は多様な種類のイオン液体を、 ルの水を添加することで、ほぼモル等量の半分の できるだけ簡便かつ高純度に合成するルートの 二酸化炭素を吸収する特性をしめすことがわか 開発に取り組んできました。再結晶を用いて特定 りました。水をさらに添加すると、再び二酸化炭 のイオン液体を精製する方法は以前から試して 素を吸蔵しなくなります。これが一体どのような いましたが[18]、再結晶の条件を個別のイオン液 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 体で見出すのは時に困難でした。そこで、一見遠 研究室が落ち着くにはまだまだ、時間がかかりそ 回りに見えますが、結晶性のよい特定の陰イオン うですが、今後とも、皆様のご指導、ご鞭撻をあ をもつイオン液体前駆体をはじめに合成し、それ おぎながら、研究を展開できればと考えておりま を再結晶により十分精製した後に、所望の陰イオ す。 ンに交換するルートを検討しました。イオン液体 前駆体に適した陰イオンの選定は、陽イオンごと 参考文献 に行う必要があるものの、一度それを行えば多様 [1] T. Fujisawa, M. Terazima, Y. Kimura, M. な陰イオンをもつイオン液体が高純度で合成可 Maroncelli, Chem. Phys. Lett., 430, 303-308 (2006). 能になりました。純度は前駆体の 3-6 回の再結晶 [2] T. Fujisawa, T. Ito, M. Terazima, Y. Kimura, J.Phys. でフォーナインレベルが達成でき、その後に続く Chem. A, 112, 1914-1921 (2008). イオン交換もフォーナインレベルの交換率を達 [3] T. Fujisawa, M. Terazima, Y. Kimura, J. J.Phys. 成しました。この手法の詳細については近々公開 Chem. A, 112, 5515-5526 (2008). する予定です。純度の高いイオン液体の合成法は [4] K. Osawa, T. Hamamoto, T. Fujisawa, M. Terazima, 私が主として行う分光測定においてもサンプル H. Sato, Y. Kimura, J. Phys. Chem. A, 113, 3143-3154 作成に大いに役立っているとともに、様々な機能 (2009). をもったイオン液体を測定対象とすることで研 [5] D. Yokogawa, H. Sato, S. Sakaki, Y. Kimura, J. 究の新しい展開が開けてきています。 Phys. Chem. B, 114, 910-914 (2010). [6] I. Kobayashi, M. Terazima, Y. Kimura, J. Phys. Chem. B, 116 , 1043-1052 (2011).; I. Kobayashi, M. Terazima, Y. Kimura, J. Phys. Chem. B, 116 ,7604– 7604 (2012) [7] M. Fukuda, M. Terazima, Y. Kimura, Chem. Phys. 図4 イオン液体の合成(左:前駆体粗製品、中: Lett. 463, 364-368 (2008). 前駆体再結晶品、右:アニオン交換して得られた [8] Y. Kimura, M. Fukuda, K. Suda, M. Terazima, J. ギ酸系イオン液体) 。 Phys. Chem. B, 114, 11847-11858 (2010). [9] K. Suda, M. Terazima, Y. Kimura, Chem. Phys. 以上、現在研究室で行っていることを中心に Lett. 531, 70-74 (2012).; K. Suda, M. Terazima, Y. まとめさせていただきました。様々な方々のご協 Kimura, Chem. Phys. Lett. 582, 169-169 (2013). 力を得て、少しずつではありますが成果が出始め [10] K. Suda, M. Terazima, Y. Kimura, Chem. ています。この場を借りて、感謝申し上げます。 Commun, 49, 3976-3978 (2013). ただ、残念なことに、現在の体制もあと一年半ほ [11] K. Suda, M. Terazima, H. Sato, Y. Kimura, J. どしか続けることができません。上野先生は間も Phys. Chem. B, 117, 12567-12582 (2013). なく古希を迎えられ、非常勤としても来ていただ [12] S. Hayaki, Y. Kimura, H. Sato, J. Phys. Chem. B, くことはなくなります。八坂助教は任期満了で転 117, 6759-6767 (2013). 出しなければなりません。ここでの成果をもって よい研究を続けてくれることを期待しています。 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 [13] Y. Kimura, K. Suda, M. Shibuya, Y. Yasaka, M. Ueno, Bull. Chem. Soc. Jpn. in press (2015). [14] Y. Kimura, Y. Kida, Y. Matsushita, Y. Yasaka, M. Ueno, K. Takahashi, J. Phys. Chem. B, DOI: 10.1021/acs.jpcb.5b02898 (2015). [15] D. Fennell Evans, T. Tominaga, C. Chan, J. Soln. Chem. 8, 461-478 (1979). [16] Y. Yasaka, M. Ueno, Y. Kimura, Chem. Lett. 43, 626-628 (2014). [17] B. L. Bhargava, Y. Yasaka, M. L. Klein, J. Phys. Chem. B, 115, 14136-14140 (2011). [18] Y. Yasaka, C. Wakai, N. Matubayasi and M. Nakahara, J. Phys. Chem. A, 111, 541-543 (2007). 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 <第 38 回溶液化学シンポジウムのご案内> 会期: 2015 年 10 月 21 日(水)–23 日(金) 会場: カルポート(高知市文化プラザ) 〒780-0832 高知市九反田 2 番 1 号 主催: 溶液化学研究会 共催: 日本化学会, 日本分析化学会, 日本分析化学会中国四国支部, 日本高圧力学会, 電気化学会溶液化学懇談会 後援: 高知大学 討論主題: 「溶液の物性と構造、溶液内の分子間相互作用と分子構造、生体分子と水、イオン液体、溶液反応などの 溶液に関する諸問題」 プレシンポジウム 日時: 2015 年 10 月 20 日(火) 午後 場所: カルポート ・発表申込締切: 8 月 10 日(月)必着 ・予稿原稿締切: 9 月 15 日(火)必着 ・参加登録予約申込締切: 10 月 7 日(水) ・発表形式: 口頭発表(質疑を含めて 20 分)・ポスター発表 ・ポスター賞: 35 歳以下の PD および学生のポスター発表講演者を対象にポスター賞を選考します。 対象者は講演申込時に申し出て下さい。 ・参加登録費: 一般 5,000 円(当日 6,000 円), 学生 3,000 円 ・懇親会: 10 月 22 日(木)18:30~ 高知会館 (〒780-0870 高知市本町 5-6-42) ・懇親会会費: 一般 6,000 円(当日 7,000 円),学生 3,000 円(当日 4,000 円) 詳細はホームページをご覧ください。 http://www.chem.tokushima-u.ac.jp/sscj38kochi/sscj38/Top.html 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015 <溶液化学研究会 2014 年度収支決算書> 1) 収入の部 前年度繰越金 利息 682,486 円 145 円 溶液化学研究会年会費(振込手数料差し引き分) 269,538 円 --------------------------------------------合計 952,169 円 2) 支出の部 通信費(ニュースレター、会員名簿送付料ほか) レンタルサーバー等契約料 16,264 円 9,758 円 WWW 管理費(2013 年 10 月~2014 年 3 月分および 2014 年 4 月~9 月分として) 120,000 円 第 37 回溶液化学シンポジウム経費 41,530 円 事務補佐謝金 50,000 円 振込手数料 2,546 円 「溶液化学研究会」封筒再版料 “3DCMS2014” 寄付金 次年度繰越金 16,200 円 25,000 円 670,871 円 -----------------------------------------------合計 952,169 円 以上 ※年会費 2,000 円のお支払いをお願いいたします。今年度の名簿と共に請求書と振込用紙をお送りさせ ていただきます。 尚、過年度におきまして年会費未納分がおありの会員の方には、請求書にその旨を記載させていただい ておりますので、今年度分と合わせてお振込みくださいますよう、 どうぞよろしくお願い申し上げます。 発行所: 溶液化学研究会 http://www.solnchem.jp/ 〒606-8502 京都市左京区北白川追分町 京都大学大学院理学研究科化学専攻 光物理化学研究室内 溶液化学研究会事務局 Tel: 075-753-4026 Fax: 075-753-4000 e-mail: [email protected] 溶液化学研究会ニュース No.68, 2015
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