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人体シミュレータによるロボット介護機器の安全性の設計と検証
移乗支援機器の概念モデル「ディペンダブルリフト」を例題として
○尾暮拓也,藤原清司(産業技術総合研究所)
1. はじめに
介護機器は人に危害を及ぼす可能性があるため,
そのリスクは設計段階からコントロールしなけれ
ばならない.工業製品の安全性の評価に計算モデル
による人体シミュレータ(以下,人体シミュレータ)
を用いる方法があるが,安全設計論の中での位置づ
けをあらかじめ把握できていなければならず,新規
の開発者にはなかなかに難しいと思われる.ここで
は産総研で開発している移乗支援機器の概念モデ
ル「ディペンダブルリフト」を例題とし,人体シミ
ュレータ「THUMS」を用いた評価の事例を紹介する.
この研究の目的は具体的には以下である.
・人体シミュレータを適用できる範囲を考察する
・人体シミュレータの使用方法を確認する
安全設計の全体像を次章で俯瞰する.V 字モデル
で理解するのが容易である.
ment)」と呼ばれる.顧客は普通これを詳細に指定
する知見を持ち合わせないので,技術的に常識的な
仕様として何らかの安全規格(Safety Standard)に従
うことに合意するのが一般的である.あるいは従う
べき安全規格があらかじめ法令で指定されているこ
ともある.多くの安全規格は開発者に製品のリスク
アセスメント,つまりリスクの分析と対策の策定を
することを指示しており,安全規格に直接的に書か
れている要件と,リスクアセスメントで決められる
安全方策の両方がその製品の安全要件となる.要件
は達成の可否を明瞭に判定できるように,曖昧さの
ないように書かなければならない.安全性に関して,
特に人が怪我をしない力学的条件を明示する場合は
傷害耐性基準(injury tolerance criteria)を用いること
がある.
要件
分析
2. 安全設計と検証の V 字モデル
大まかにいって V 字モデルは,V 字の左上が顧客
のニーズ,V 字の底が実装品であり,V 字の右上が
顧客への納品物である(図 1).V 字の左側のライン
で顧客のニーズを満足する可能性のある設計解を求
めている.V 字の右側のラインで設計解が顧客のニ
ーズを本当に満たしているかどうか確認している.
左側の設計解の導出では,顧客のニーズを満足する
ための必要十分条件を明らかにする要件分析
(requirement analysis)と,この必要十分条件を満足
する設計解を導出する工学設計(engineering design)
を行う.右側のニーズ満足の確認では,設計解であ
る実装品が必要十分条件を満足していることを理屈
の上で確認する検証(verification)と,本当に顧客の
ニーズを満足しているかどうかを実証で確かめる妥
当性確認(validation)を行う.検証と妥当性確認の
二つを合わせて V&V という.
開発プロセスの途中で要件(requirement)という
回りくどいものを経ているが,これは「製品は○○
しなくてはならない」という製品が満たすべき必要
十分条件の命題集合である.一般に顧客は不満さえ
解決すればなんでもよいが,エンジニアにはできる
こととできないことがあり,ある程度以上規模の大
きい開発では設計解の導出に取り組む前にエンジニ
アと顧客の間ですりあわせをして解くべき問題その
ものを明らかにしておく必要がある.
安全に関する要件は「安全要件(safety require-
要件定義
総合テスト
機能設計
組合せテスト
詳細設計
単体テスト
工学
設計
妥当
性確
認
検証
製作
図1
一般的な V 字モデルの意味
3. 人体シミュレータを適用できる範囲の考察
人体シミュレータを適用できる範囲について,安
全のために計算シミュレータで人体モデルを解くこ
とは自動車安全の分野で盛んに行われており,車の
乗員や歩行者の体の事故時の挙動を推測するために
用いられている.筆者の調査では以下の 3 つがよく
知られている.
・THUMS:豊田中央研究所が開発する人体の有限要
素(FEM)モデルの製品
・MADYMO:オランダ TASS 社が開発する複数のモ
デルからなる製品
・HUMOS 2:欧州研究プログラム FP5 で開発された
シミュレータ
V 字モデル上で人体シミュレータを適用できる範
囲を考えた場合,原則的に工学設計とその検証に限
られると考えられる.
要件分析に関しては,現行の人体シミュレータは
外力が人体部位や体組織にもたらすダイナミクスを
解くことはできるが,生体組織が折れたり穿孔した
りする傷害が起きるプロセスを再現できるほど高い
シミュレーション精度は持っていない.従ってどの
程度の力学的条件ならば安全であるかの安全要件を
人体シミュレータによって得ることは困難であると
考えられる.このような傷害耐性基準は現在,動物
実験や亡くなった方の献体による死体実験で得られ
ている.
工学設計に関しては,事故のプロセスを計算機シ
ミュレーションで再現し,人体モデルのパラメータ
が所与の傷害耐性基準を超えない条件を求めて設計
パラメータを定めることができる.
検証に関しては,使用された設計パラメータで傷
害耐性基準をクリアできるかどうかを人体シミュレ
ーションによって確認することができる.あるいは
工学設計時のシミュレーション結果を書類上で確認
することで検証を行うことができる.
妥当性確認に関しては,そもそもこれが設計時の
計算の間違いや前提とする想定の間違い,さらには
要件とニーズとの不一致を実機の実証で確認するこ
とが目的なので,シミュレーション結果を信用する
ことができない.従って妥当性確認では原則的に人
体シミュレータを利用することは適切ではないと考
えられる.
このように人体シミュレータを使用する局面では,
工学的に適切であるかどうかを検討する必要がある.
護者が転落するリスクが増えないこと
req A の手間に関しては,開発要件としてはさらに
定量化した表現を与える必要があり,例えば機器の
搭乗と離脱に要する時間と介護に必要な要員数とを
掛けた人工コストの制限値で与えられるだろう.仰
向け型床走行リフトは被介護者の下にスリングを挿
抜する手間がかかるため不利となり,作業性の観点
からはうつぶせ型床走行リフトが好まれる.
(a) ディペンダブルリフト搭乗姿勢
4. 例題:概念モデル「ディペンダブルリフト」
以下では研究段階の移乗支援機器「ディペンダブ
ルリフト」(図 2)を例題にして人体シミュレータの
使用方法を確認して,シミュレーション結果から安
全性を主張する方法の一例を示す.
ディペンダブルリフトに関して,現在産総研では
移乗支援機器の転落を防ぐ方法を研究している.移
乗支援機器とは,起立が困難な障害を持つ高齢者等
を対象として,ベッドと車いす,車いすとトイレ,
などの間の移乗を支援する福祉介護機器である.ハ
ンモック状のスリングにより仰臥位や座位の被介護
者を背面から持ち上げるタイプの床走行リフト(以
下,仰向け型床走行リフト)や馬の鞍状の台により
伏臥位の被介護者を前面から持ち上げるタイプの床
走行リフト(以下,うつぶせ型床走行リフト)など
がある.介護の現場では被介護者の持ち上げによる
介護者の慢性的な腰痛が深刻な問題になっており,
移乗は機械化の期待が大きい課題であるが,これら
の機械には使用の煩雑さや転落の危険があることか
ら普及が阻まれている.従って,新しい移乗支援機
器を開発するに当たっては,その要件として既存の
機器の要件に加えて以下があると与えられる.
(req A)移乗支援機器を使うことによって増える手
間が十分に少ないこと
(req B)移乗支援機器を使用することによって被介
(b) 脱力時の上腕の拘束効果
図2
研究中の概念モデル「ディペンダブルリフト」
req B のリスクに関しては,搭乗中に被介護者の身
体を確実に確保するためにあえて仰向け型床走行リ
フトを選ぶか,うつぶせ型床走行リフトについては
ベルトで被介護者を固定する方策がとられている.
しかしベルトの着脱は手間の増加につながるので
req A と req B はトレードオフになっている.
ディペンダブルリフトでは,介護者の作業性の観
点からうつぶせ型床走行リフトのアプローチを採用
し,手間をとらずに被介護者をリフトに固定するた
めに被介護者の腕部の可動域をガイド形状で制限す
る方策をとっている.被介護者がリフトにうつぶせ
で負ぶさる姿勢をとり前方に突き出した両腕が挙上
しないよう抑制されると,被介護者はずり落ち方向
の運動自由度を失う.これにより手間を掛けずに被
介護者が転落するリスクを排除することができる.
しかしリスクアセスメントを行うと,被介護者が
ずり落ちを始めたときに体重が上腕にかかることに
なり,上腕を傷害するリスクが生じることが分かる.
従って次の安全要件が加わることになる.
(req α)被介護者がずり落ち始めたときに被介護
者の上腕に加わる負荷が傷害耐性基準以下であ
ること
ここまでの説明が長くなったが,これがこの例題
で人体シミュレータを使って解く問題である.
5. 傷害耐性基準
傷害耐性基準は物理的な作用を受けた人が怪我を
しないための安全基準である.自動車安全やスポー
ツ工学の分野で研究されており,たとえば以下のよ
うなものがある.
・Head Injury Criteria (HIC/HPC):頭部への衝撃によ
る脳挫傷の可能性を評価する指標
・Thoracic Trauma Index (TTI) :胸部の側方からの衝
撃による傷害の可能性を評価する指標
・Femur Force Criterion (FFC):大腿骨の長軸方向の圧
縮の安全限界を規定する指標
要件は達成の可否が明瞭に判断できるように記述
する必要があり,安全要件も判断方法を指定するか
あるいは満たすべき傷害耐性基準を明示する必要が
ある.
ここでディペンダブルリフトの問題に戻ると,リ
フトが上腕に与える負荷が満足すべき傷害耐性基準
を与えなくてはならない.前記の安全要件 req αを
この例題では以下のように具体化することにする.
(req β)被介護者が搭乗時の最悪条件での上腕表
面の圧迫が対応する障害耐性基準以下であるこ
と
(req γ)被介護者が搭乗時の最悪条件での上腕骨
の負荷が対応する障害耐性基準以下であること
しかし問題があって,文献によれば人の腕の傷害
耐性基準は「定まっていない」とされているのであ
る[1].
傷害耐性基準はメーカ側とユーザあるいは規制当
局側が納得する値である必要があり,高すぎても低
すぎても双方の合意の得られる基準にならない.腕
の傷害耐性基準は自動車のエアバッグの直撃を受け
るために関心が高いものの,信頼できるデータが十
分に蓄積されていないために基準が確立していない.
このように適切な傷害耐性基準が得られない問題は
介護機器の安全設計の場面でも多々起こりえると考
えられる.こういう場合に品質保証の分野では妥当
な仮定と事実とを積み上げて安全であるとする論拠
(argument)を構成することが行われる.
5.1 上腕表面の圧迫の傷害耐性基準について
例題では暫定的な傷害耐性基準として以下の論拠
を採用する.
(仮定 1)上腕部の外皮,皮下組織,筋肉組織の圧迫
に対する傷害耐性基準はこらえられる痛みをも
たらす圧迫の限界である「痛覚耐性基準」より
も値が大きい
(仮定 2)上腕の表面に平板ウレタンフォームを押し
つけた場合に圧力が最大となる点の痛みは,そ
の点の周囲 10mm 四方にかかる合計の力と同じ
力で直径 10mm の金属の球体を押しつけた時の
痛みよりも小さい
(事実 1)過去の研究で報告されている人体の痛覚耐
性基準は,直径 10mm 球体押し当ての場合で
57.7N である[2]
(事実 2)10mm 四方の面にかかる圧力の最大点が
0.577MPa のとき,その面に働く力は 57.7N を超
えない
(結論)上腕表面のウレタンフォームによる圧迫の
暫定的な傷害耐性基準を圧力 0.577MPa とする
5.2 上腕骨の負荷の傷害耐性基準について
例題では暫定的な傷害耐性基準として以下の論拠
を採用する.
(仮定 1)上腕骨の限界強度を安全率で除した値を傷
害耐性基準としてよい
(仮定 2)安全率は”5”としてよい
(事実)過去の研究(死体実験)で報告されている
女性 5%tile の上腕骨の破断曲げモーメントは次
の値である[3]
・134 Nm (スケール値)
・128±19Nm(スケール値)
・131 Nm(上記の平均)
(結論 1)上腕骨の暫定的な傷害耐性基準を曲げモー
メント 26Nm とする
(結論 2)骨密度が平均の 80%以下(骨粗鬆症)に
は適用しない
従って,前記の安全要件は以下のように書き換え
られる.
(req β’)被介護者が搭乗時の最悪条件での上腕
表面の圧力の最大値が 0.735MPa 以下であるこ
と
(req γ’)被介護者が搭乗時の最悪条件での上腕
骨の曲げモーメントの最大値が 26Nm 以下であ
ること
(req δ)骨密度が平均の 80%以下(骨粗鬆症)は
禁忌とする
なお,論拠の正当性は品質保証の責任者によるレ
ビューによって確認される性質のものである.上記
の論拠は本開発の例でありこれに限らない.
6. 人体シミュレーション評価
った.計算結果を図 5 に示す.これは req γ’の暫
定の傷害耐性基準値 26Nm を下回り,要件を満足し
た.
従って,ディペンダブルリフトの工学設計にお
いてはウレタンフォームの厚さの仕様を 3cm とすれ
ば上腕にかかる負荷に関する安全要件 req αを満足
できると結論づけられる.
ディペンダブルリフトの工学設計の例題として,
人体シミュレータを使い,腕部のクッションの仕様
を 3cm 厚の一般的なウレタンフォームとした場合に
安全要件を満足するかどうかの評価を行う.最悪条
件をサーベイするために 3 つの異なる体型の人体モ
デルと 3 つの異なる搭乗姿勢の 9 つの組み合わせを
評価する.体型は米国女性 5 %tile 値,米国男性
50 %tile 値,米国男性 95 %tile 値,搭乗姿勢は体幹支
持面仰角 30°,45°,60°である(図 1).
また機器と人体の間の摩擦係数にゼロを与え,ず
り落ち方向の全体重を前腕で支える最悪条件とした.
人体シミュレータは THUMS を用いた.
図 5 米国男性 95%tile モデルの仰角 60°の上腕骨の
曲げモーメント
7. まとめ
図3
パラメータサーベイのための 9 つの条件
安全性開発に関する V 字モデルの各フェーズの意
味を確認し,また現在の安全解析用の人体シミュレ
ータの能力を検討して V 字モデルの各フェーズにお
いて人体シミュレータを適用できる範囲を考察した.
また,産総研で開発している移乗支援機器の概念
モデル「ディペンダブルリフト」での例題を示して
人体シミュレータの使用方法を確認した.
ディペンダブルリフトは上腕の拘束により転落を
防いでいるため人体シミュレータにより上腕の安全
性を評価する必要があったが,上腕の傷害耐性基準
が確立されてなかった.そこで過去の研究から得ら
れたデータを元に暫定基準を構成した.一般に人体
シミュレータを使用する場合には人体の傷害耐性基
準と計算結果との比較がなければ安全性を評価でき
ないが,傷害耐性基準が得られない場合にはこれに
代わる基準を,論拠をもって示さなければならない.
参
図4
米国女性 5%tile 仰角 60°の上腕表面圧力分布
上腕表面の圧力の最大値は米国女性 5%tile モデル
の仰角 60°の条件の時が最悪であり,0.18MPa とな
った.計算結果を図 4 に示す.これは req β’の暫
定の傷害耐性基準値 0.577MPa を下回り,要件を満足
した.上腕骨の曲げモーメントは米国男性 95%tile モ
デルの仰角 60°の条件の時が最悪であり 20Nm とな
考 文
献
[1] K. –U. Schmitt, P. Niederer, M. Muser, F. Walz: “Trauma
Biomechanics”, Springer, 2010.
[2] 齋藤 剛, 池田博康: “3.人間協調型ロボットの機械的
刺激に対する人体痛覚耐性限界の測定”, 産業安全研
究所特別研究報告 NIIS-SRR-NO.33, pp. 15-23, 2005.
[3] S. M. Duma, P. H. Schreiber, J. D. McMaster, J. R. Crandall, C. R. Bass, W. D. Pilkey: “Dynamic injury tolerance
for long bones of the female upper extremity”, J. Anat. 194,
pp. 463-471, 1999.