1 (草稿)「イノベーションの芽を育てるために」

(草稿)
「イノベーションの芽を育てるために」
東京大学大学院経済学研究科
大橋
弘
【生産性新聞 2015 年 3 月 15 日 掲載】
今年に入り日本経済に少しずつ明るさが戻りつつある。石油をはじめとする鉱物資源の
価格が昨年後半から大幅に低下していることのメリットが大きい。新興国の成長に翳りが
見える一方で、米国経済が堅調であり、輸出の採算性も改善している。実質賃金が上昇に向
かえば、今年度に入って低迷を続けている国内消費も息を吹き返すかもしれない。
これを好機に、人口減少や社会保障費の急増などといったわが国が直面する中長期的な
課題に取り組むべきだというのが、多くの識者の一致した見方であろう。そして同様の指摘
は、わが国の産業に対する政策にもあてはまる。本稿では、企業の「稼ぐ力」を将来にわた
って確実なものにするための、わが国の産業構造の方向性や、それに対応した政策のあり方
について若干の考察を試みたい。
産業構造の変化
半導体や液晶テレビ、太陽電池を初めとして日本の世界シェアが大幅に低下している。こ
れをわが国のものづくり凋落として、その要因を探る仮説が提起されている。いくつかを挙
げると、ものづくり(製造)重視・価値づくり(設計)軽視の経営スタイル、長期に亘る過
剰な品質へのこだわり、コモディティ化の認知の遅れ等がある。これら仮説の背景にあるの
は、産業構造の変化への予兆であろう。戦後の産業構造は、就業構造で見たときに、大きな
流れとしてサービス業へと構成割合が推移してきたのは承知の事実だが、その動向は一様
ではない。ウェイトを高める産業分野は、繊維(50 年代後半)から鉄鋼(60 年代)を経て、
電気機械などの機械工業へと時代の状況を映しながら大きく変化してきた。
フリドリッヒ・ハイエクは 1947 年の著作で「経済問題の解決方法は未知への探求しかな
い」と述べたが、産業構造の変化を促す大きな原動力のひとつは起業である。わが国での起
業率は低いと指摘されて久しく、政策的にも規制緩和や官製ファンドを通じた取組みがな
されている。最近の経済学の研究では、ベンチャーキャピタル(VC)は成功する事業を目
利きできているわけではないが、事業撤退の見きわめが早いことに優位性があるとの実証
結果が米国の事例を通じて明らかにされている。官製ファンドによるベンチャーへの直接
投資は主幹省庁の政策意図も絡み、事業撤退の時期を見誤る可能性があることを考えると、
リスクマネー供給の担い手として、民間ファンドの更なる活用は検討に値するだろう。
第 3 次産業革命
インターネットによって新たな産業構造の変化が引き起こされつつあるとの指摘がここ
数年なされている。経済学の分野でもこの点についての見方は分かれる。例えば、ノースウ
ェスタン大学ロバート・ゴードン教授は、電気や蒸気機関の発明に比較すれば第 3 次の革
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命にはなり得ないとするが、他方で MIT ブリニョルフソン教授らは、人工知能が将来世代
の人間の職を奪うことに警鐘を鳴らす。
第 3 次産業革命が到来するかはさておき、インターネット普及による消費者メリットは
(少なくとも短期的には)計り知れないほど大きい。例えば私の職場を例にとっても、検索
機能なくしては大学の研究活動は考えられなくなっている。他方でこうしたインターネッ
トの普及は、わが国の産業構造を考えるときに必ずしも楽観的でばかりはいられない。
例えば、製造過程を丸ごと「見える化」しようとするジェネラル・エレクトリック社の「産
業インターネット」の試みは、わが国における製造業の「匠の技」の再現性を高めることに
繋がる。デジタル化された「匠の技」は限界費用ゼロで世界中にコピーされるからだ。また
インターネットによって影響を受けるのは製造業ばかりではない。「生産と消費の同時性」
をもつサービス業と、オン・ディマンドであるインターネットの機能とはそもそも相性が良
いので、非貿易財と考えられてきたサービス業にもグローバル化の波が押し寄せる。
プラットフォーム競争の時代
インターネットがビジネスのコアに入ってくると、これまでの企業競争のあり方が大き
く変わることになる。インターネット以前の時代には、競争する企業は、多少の差こそあれ
同じビジネスモデルをもって消費者に対して訴求性の高さを競っていたといえる。それが
インターネット後の世界にあると、グローバルな市場を見据えて競争の土俵(プラットフォ
ーム)をデザインする者が勝者になる時代となっている。携帯電話でいえば、アンドロイド
というプラットフォームの登場があり、半導体でいえば(成蹊大学中馬宏之教授の研究成果
から明らかにされた)インテル製 IBIS の登場であった。個々の企業としては、プラットフ
ォームを外注(アウトソース)した方が研究開発費を省くことができ、経営的にも楽になる
が、一度プラットフォームを外注すれば、その競争の土俵で「コモディティ化」の路を辿る
ことになる。自社仕様のプロダクト・イノベーションを目指すのか、他社仕様によるプロセ
ス・イノベーションを目指すのか。取るべきイノベーションによって企業経営の将来像が大
きく変わる事態になっている。消費者によっては価格の安いコモディティ化された商品が
望ましいかもしれないが、そうしたプロセス・イノベーションに偏った戦略は、企業の目指
すイノベーションや国の目指す雇用促進、経済成長と必ずしも整合しない。わが国のものづ
くりの凋落とはまさに他社仕様によるプロセス・イノベーションを選択した結果として生
じたとの仮説も説得力を持つ。
ここでの問題は、社会にとって望ましい競争の土俵が市場メカニズムによって自律的に
確立するとは限らないという点である。これは、プリンストン高等研究所ダニエル・ロドリ
ック教授による「政治経済学のトリレンマ」――民主主義、国家主権、グローバル化の3つ
は両立し得ない――として説明される。企業がグローバル競争の中で自らの経営判断とし
て選択した結果が、必ずしも雇用促進や経済成長といった国益に資さないケースが出てく
る。こうしたプラットフォーム競争の時代に必要とされるのは、規制緩和というよりは、社
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会システムの再設計(再規制)である。勝つための競争の土台をいかに作るのか、ルール・
メイキングの構想力が問われているのである。
政策のあるべき姿
わが国の競争政策は、同種のビジネスモデルを持つ企業間の競争を暗黙の前提としてい
る。反競争行為を価格の動きで判断するような政策思想は、インターネット以前の時代では
有効だったであろう。しかしインターネットの登場で異業種融合が重要な時代において、異
なるビジネスモデルをもつ(海外)事業者とのプラットフォーム競争をどう評価するのかと
言う視点は、未だに問題意識として見えてこない。
他方で、プラットフォーム競争の時代に適合した競争政策を望む声は高まっている。例え
ば、昨年の規制改革会議では「流通・取引慣行ガイドライン」に対して、近年のインターネ
ット販売などによる環境変化に応じて、メーカーの流通戦略の自由度を認めて、再販売価格
維持行為を可能とすることがイノベーションを活性化する上で重要との議論がなされた。
まさに再販という再規制を通じた社会システムの再設計によって「稼ぐ力」に繋げようとす
る好例である。経済のソフト化が進んだ今、市場の概念もこれまでの「財・サービス市場」
に加えて、
「イノベーション(知的)市場」も無視できない。前者の市場と同様に、後者の
市場がうまく機能しないのであれば、政策的な対応が必要とされてしかるべきだ。プラット
フォーム競争の時代に適合した競争政策のあるべき姿を描くときだろう。
「政治経済学のトリレンマ」を乗り越えるために、国内に「イノベーションの芽」を残す
ための取組みが徐々に進み始めている。例えば、自動運転技術を産学協同で共通化する動き
や、国内の書店・出版社が電子書籍の共同販売に乗り出す動きは、安易に海外の競争の土俵
に乗ることなく、プラットフォーム競争に互していく試みとして高く評価できる。産学官を
あげてこうした動きを盛り上げていくことが、わが国の産業構造を「稼げる」体質へと繋げ
ていく第一歩になる。
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