あっという間の42年 ―高負荷処理とともにー

ASEE レポート(No,26)
あっという間の42年
―高負荷処理とともにー
一般社団法人 シニア・環境技術支援協会
会員 松本 久克
1.優秀な先輩に恵まれて
大学では工学部資源工学科の開発機械学講座の所属で、本講座出身の先輩 4 人は何れ
も機械関係の部署に配属されており、私に会社の内定通知が来た後、先輩から入社前に
「この程度の本は読んでおけ」と手紙を頂いたのは 5 冊とも機械関係の本であった。恥
ずかしながら一冊も読まないうちに届いた入社式の通知には、配属先は水処理設計部と
書かれてあった。
昭和 47 年 4 月最初に取り組んだのは、ごみ焼却灰の冷却水の凝集沈殿処理である。
ところが翌昭和 48 年、当時の東京都美濃部知事から、この排水中には排水基準値を大
幅に上回るカドミウム、鉛等の有害重金属が含まれているとの発表があり、大至急重金
属除去のためのpH二段凝集沈殿処理施設を建設することになった。この時から、都区
内の 3 ヶ所の施設の重金属対策を立て続けに担当した。
その後、大学の実験廃水処理や特殊な所では、発電所無機排水中の窒素の生物学的硝
化脱窒処理の設計・試運転引渡業務を体験した。
昭和 53 年にアタカ工業㈱(現日立造船㈱)に移籍し、いきなりし尿の高負荷処理の設
計を担当することになり、顧問となった現在に至るまで、今で言う汚泥再生処理センタ
ーに関わっていられることを有難く思っている。
今から思えば、右も左もわからぬ私を当時導いて頂いたのは、優れた諸先輩のお陰と
大変感謝している。
2.高負荷脱窒素処理にどっぷりつかって
2-1 初期の高負荷処理
昭和 53 年当時のし尿処理は、嫌気性消化処理や好気性消化処理等標準希釈方式と呼
ばれる 20 倍希釈方式が中心となっている世の中で、無希釈し尿処理システムを手掛け
ることとなった。当時は弊社1社だけのオリジナルシステムということもあり、当然な
がら受注に至るまでには様々なハードルがあった。それだけに、それを乗り越えて受注
に至った時の喜びは一入だった。
技術面では、まだまだ改善が必要な状態であり、一施設が完成して試運転時に発生す
る様々なトラブルの解決が次の施設のためのまさに肥やしとなるような時代で、今でも
目をつぶれば、十指に余るトラブルがまざまざと思い起こされる。その後 10 社に及ぶ
高負荷処理メーカーの乱立の時代を迎えることになるが、昭和 53 年当時は高負荷処理
のまさに黎明期であったと言えようか。
ちなみにトラブルの一つを思い出してみると、最初に経験した施設では、昔の施設で
あり当然のように計量槽を使用し、計量槽を反応槽の液面レベルより上部に設置し、ヘ
ッドを利用して生し尿と返送汚泥を混合して反応槽下部に流入させる方式としていた。
しかし馴養運転で反応槽が徐々に立ち上がり、BOD分解が進み、反応槽水温が 40℃
近くになるにつれ、流下配管が目詰まりで全く流れなくなってしまった。この配管を切
断したところ、100Aの全面にわたり薄茶色で半透明の綺麗な針状結晶、リン酸アンモ
ニウムマグネシウムと言われるもので完全に閉塞していた。これは今日では園芸店にお
いてマグアンプ等の名前で販売されている肥料そのものであった。
当時から 30 年以上を経た現在になって、汚泥再生処理センターの資源化メニューの
一方式としてリン回収(HAP方式とMAP方式の2方式があり上記結晶はMAP方式
での生成物と同一である)が採用されていることを思うにつけ、あの時ここまで見通す
ことができていればと思ったものである。
2-2 高負荷脱窒素処理の時代へ
処理システムはその後、高度な窒素の除去が必要な高負荷脱窒素処理の時代を迎え、
更に固液分離のための沈殿槽や砂ろ過設備に替わるものとして、限外ろ過膜を用いた膜
型高負荷脱窒素処理方式が考えられ、この時も各社が膜型方式の認定取得を競ったもの
である。
膜型方式は、固液分離装置の代替としての限外ろ過膜の採用であったため主処理設備
における反応槽は従来の型式でよかった。
しかし簡易水洗の拡大によるし尿濃度の希薄化とともに、水洗化の普及による浄化槽
汚泥の増加に伴い、施設に搬入される原水の基質濃度の低下で、これらの原水に見合っ
たより経済的なシステムの開発が時代の求める所となり、今日で言う浄化槽汚泥対応型
高負荷脱窒素処理システムが登場することとなる。小職はこのシステムの開発にも携わ
ることができ、社内的にはこのシステムのネーミングもさせて頂き、これからもこのシ
ステムの名前は残っていくと思うと何やらうれしいものがある。
3.次世代への期待
振り返ると入社以来42年間、やり残したこと、やりたかったことは多々あるものの、
水処理一筋に過ごせたことは感慨深い。
中でも高負荷処理の黎明期から成熟期を経て、浄化槽汚泥対応型まで高負荷処理全て
を体験したが、昨今では前脱水による下水放流型の処理方式が増加しており、時代の進
2
化によって高負荷処理方式が過去の物になりつつあるのは一抹の寂しさを禁じ得ない。
しかしながら昨年より環境省が、アジア太平洋を中心に我が国の優れた環境技術で世
界に貢献する方針とし、その中にはし尿処理システム国際普及推進事業等も取り入れら
れている。次代を担う方々には是非とも、日本の優れた技術を海外の現地事情に応じた
形で、低コストをキーワードに応用・展開へと引き継いでもらいたいと願っている。
以上
<筆者プロフィール>
・昭和 47 年 3 月 東北大学工学部資源工学科卒業
・昭和 47 年 4 月 日立造船㈱入社
・ ~ 53 年 1 月
ごみ焼却炉廃水の重金属除去設備、大学実験廃水処理設備、火力発電所無機窒素含有廃水
処理設備等の設計・試運転業務に従事。
・昭和 53 年 2 月~平成 19 年 5 月アタカ工業㈱(現日立造船㈱)に移籍
し尿処理施設の設計・試運転、システム開発業務、ストック型ビジネスの掘り起こしから、設計・試
運転引き渡しまでの業務等に従事。
・平成 19 年 6 月~平成 22 年 5 月 浅野環境ソリューション㈱代表取締役社長
・平成 22 年 6 月~平成 25 年 5 月 アタカメンテナンス㈱(AMC)代表取締役社長
・平成 19 年 6 月~平成 25 年 6 月(一社)環境衛生施設維持管理業協会の監事・理事ならびに総
括管理士資格審査委員会の委員長として厳格な審査を実施(内 4 年間)。
・平成 26 年 6 月~ AMC顧問。(一社)シニア・環境技術支援協会会員
ASEE レポート
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43 号 1.加固 康二「運転維持管理は「清めること」から始まる」
44 号 2.大久保 隆史「大は小を兼ねないのか?」
45 号 3.新井 唯也「震災がれきに思う」
46 号 4.松田 修「ごみ焼却用流動床炉と私」
47 号 5.中島 宏「私の建設した し尿処理施設小史」
48 号 6.眞瀬 克巳「ダイオキシンと出会って 30 年」
49 号 7.西澤 正俊「脱硝触媒のトラブル事例」
50 号 8.川原 隆「廃棄物発電に思う」
51 号 9.岩崎 臣良「過去の仕事(下水道施設工事)の思い出」
52 号 10.石崎 勝俊「海外の産業廃棄物処理施設建設・運転のこと」
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53 号 11.佐々木 勉「廃棄物処理施設建設反対訴訟に携わって」
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55 号 13.加固 康二「
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56 号 14.和田 勉「ガス化溶融炉の運転」
57 号 15.大久保 隆史「中辺路からの熊野本宮大社参拝の記」
58 号 16.板橋 郁夫「お世話になった上司の思いで」
59 号 17.松田 修「ASEE と仲間たち」
60 号 18.新井 唯也「原発のごみは?」
61 号 19.岡田 実「ごみ焼却施設建設とのかかわり」
62 号 20.川俣 深「私の仕事の思い出」
63 号 21.西澤 正俊「OB から見た環境施設技術者の育成と技術の継続」
64 号 22.鈴木 政治「清掃工場建設の思い出」
65 号 23.眞瀬 克巳「温暖化雑感」
66 号 24.川原 隆「ごみ焼却処理に思うこと」
67 号 25.加固 康二「私の環境原点-公害は外部不経済である」
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