1998年秋号 - 一般財団法人住総研

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財団法人 住 宅 総合研究財団
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ォリナiズによる住宅設計
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異文化との葛藤 、
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目次
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層構造の住居川和ぷ都宮居藤井明
異文化との葛藤一 、
フオリナlズによる住宅設計 :::4
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異文化との出会いと葛藤i1
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三 沢 浩 (建築家)+内田青蔵 (成比蚊子大
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今、異文化の中で設計を一
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幕張、ヘイタウンの設計から曽根幸 一 2
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ー﹀海外建築 家 と 協 働 三 沢 亮 一 :::却
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で得たものと問題
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私のす3いろん﹀ 異文化同士、異文化に暮りす 松 田 直 則 科
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未来へのハウジング計画論一剛一軒はうな﹀
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早川邦彦・鈴木崇英・間野惇 ・大村芙美雄
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建築環境と地球殿境
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八八五年に建設されている。
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インドネシア・スマトラ品の最北端の都市パンタ・アチャ一の山川辺にアチェ族
は住んでいる。アチェ絞はイスラム教の東進を品も尽く受け入れ、一間佐紀以
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米、敬虚なイスラム投能となっ 、いる。アチェ王国は一六佐紀以降、制限貿易
で降服したが、ぬ九佐紀末から二コ好一紀初一間にかけてのオランダとのアチマ一戦
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・五郎あまりと非常に高い。
争でその名を馳せた。インド、不シア独立後ら分刻独立を求め、現夜は特別州に
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アチェ肢の柱ぽは高床形式で、 床 隔 が
ピロティになり作業開怖や休慰問切になっている。道に沿って親肢の住民が波び、
ピロティを介して床ドに連続する交流の場が形成されている。什民間の問問は、
パパイヤやバナナなどの果樹で閉まれ、 道路側に前庭が、 真子に菜闘がある。
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いくつかの部躍に分かれている。 道 路 に 謝 す る 前 部 は 男 性 の
で間仕切りがない。 これに対し、 床 聞 が ‘ 段 尚 く な っ て い る 中 央
の 内 部 の 平 副 は 縦 五 向 に 一熔に分割されている。前部と後部の納長
切 実 の 械 は 必 ず 東 西 方 向 を 向 く 。 住民は一千入りで前睦に設けられた階段から
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京市アジアのお床住民は川崎根実、
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に達する多一雨な気候にあって、 快適な住空間をつくっている。 議長は
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の子で敷かれている。 そのため通風が桜めてよく、 年間降雨川"が四
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は丹念な透かし彫りが鈍され、 光 と 駄 を 室 内 に 取 り 込 ん で い る 。 床 は 竹 か 紋 の
絞壌のいたる所に幾何学技様が彫り込まれているが、 と り わ け 安 側 の 破 滋 に
段がある。
があり、 制一汚になっている。 ド患の床は、一上原に比して抵く、 勝 手 口 に 小 さ な 階
なっている。 いずれも夜には独身の男次や﹁供のむ室になる。 後 郊 の 輿 に
空間で、 同校一間は間関兼客間になる。 これに汁し後部は女性の空間で、
部は阿附川慨をもち、
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内ブォリナ jズによる
最近、 A ・レ l モンドの住宅を二軒続けて見る機会があった。
ある環境に心地よさとか居心地のよい空間を素材と構法を用いて創出できる
私たちはさまざまな意図やテーマを追いかけて住宅を設計してきでいるが、
設計
一軒は名作といわれたカニングハム邸(一九五二年)、東京青山の一角に昔
かにかかっているという原点を、もう一度思い出してみる必要がありそうだ。
アントニン@レiモンドの時代と現代
111
のまま残っていた。カニングハム女史もお元気で、殆ど出来た当時のまま住
んでおられた。音楽も出来るようにという女史の要望を受けて生まれたこの
価は暖昧なまま残されている。明治以降、米臼して活躍した外国人建築家の
日本近代住宅の歴史を振り返ってみると、 A ・レ l モンドの評
る。ォiプ ン な 階 段 に 腰 掛 け た り 、 二 階 か ら も 演 奏 を 聞 く こ と が で き る 居 間
中でもである。束京帝国大学で教え、三菱関係の仕事を中心に資本家の邸宅
ところで
には、⋮浮い鉄板の暖炉が置かれ、その脇をお捌染みの木造のシザl ズトラス
を 多 く 手 が け た J ・コンドル(一八五二 1 一九二O、イギリス人)や近江兄弟
リカ人)はもちろん、宮本にわずか三年しか滞在しないにもかかわらず、講
社 や 神 戸 女 学 院 の 設 計 で 有 名 なV ・ヴォ l リス(⋮八八0 1 一九六回、アメ
演や著述、仙台や高崎において工芸指導を行ないか日本美再発見。の評価を
もうこ付は高崎の井上一房一郎邸(一九五三年)。この家は、正確には A ・レ
邸 を 模 し 、 左 右 対 象 に ひ っ く り 返 し て 建 て た か 写LH で あ る 。 麻 布 に あ っ た
ドは損な役割を演じているといえそうだ。その一つに、 A ・レ l モンドは何
与えた B ・タウト(一八八0 1 一九三八、ドイツ人)と比較したら、 A ・レl
こ の 二 軒 の 住 宅 が 建 て ら れ て か ら 既 に 問O年 以 上 も 経 つ 。 そ の 間 に 日 本 は
よりも実務派の建築家であり、言葉よりも図雨、思恕よりも空間で考えを示
自邸がない今となっては、か写し々がその魅力を伝えてくれているのだから、
急激な経済成長を経験し、最的にはある程度の水準に達した住環境になって
すタイプであったことが、不利な条件としてあげられるだろう。その上、初
モンドの一品川価は低い。 F - L ・ ラ イ ト と は 較 べ も の に な ら な い 。 極 端 に い え
きている。綬冷房がいきとどいた住宅も多く、住宅に対する関心が古川気密高
期の作風がなかなか一定せずわかりにくいということもある。帝国ホテルの
歴史とはわからないものだ。やはりシザ│ズトラスが斜めに天井を支え、南
断熱であったり、室内環境汚染の問題であったりする。しかし、会一軒の住宅
後に日本に残ってからの作風は、ある時はライト風かと思うと、ある時はラ
ば、外国人建築家とみなされていないようにも息われるし、かといって日本
を見て、住宅の設計空間的な構成を改めて考えさせられたというのが率直
スロバキアの風土性色濃い木造に帰ったりしたからである。
イトから逃れるようにモダンデザインに走り、またある時は彼の故郷チェコ
側の関口部に朕められた障子から柔らかい光が射し込む室内には、当時の木
な感想である。そこには、丸太の木造とラワンベニアの壁と天井、障子があ
人 建 築 家 と 同 じ 枠 内 で は 考 え ら れ て い な い 扱 い を さ れ て い る 。 A- レi モン
っただけなのだが、一日の変化を感じ、ゆったりとくつろげる空院があった。
製家具がそのまま置かれていた。
i モンドの設計とは一一一一口えないかも知れない。寸分違わず A ・レ l モンドの自
が伸び上がって天井を支えている。
家は、印刷間の上部が吹き抜けてそのまま二階を担み込む断面構成に特徴があ
番
母
け れ ど も 、 戦 後 ま も な く ア メ リ カ か ら 再 来 日 し て 以 後 発 表 さ れ た A ・レ l
モンドの⋮連の住宅作品は、日本の空間的特質を捉えた素晴らしいものであ
本的な主照的特質とチェコスロバキアの建築の伝統が、
草されている様が見られる。
一つの空間の中で昇
か ら の ス タi トになる。 A ・レ i モ ン ド の 一 連 の 住 宅 は 、 当 時 の 荒 廃 し た 日
洋式の合理的な生活様式を吸収して終わる。そして戦後、住宅は再び第一歩
えられていく様が描かれている。戦前は吉田五十八が和風を基調にしながら
期の和館と洋館の併置から始まった住宅が、さまざまな試みを経て和洋が捉
宅﹂(内問青蔵著、鹿島出版会刊、一九九二年)に詳しいが、その中で、明治時代初
割を果たしたものとも考えられる。明治以降の近代住宅史は吋日本の近代住
速に時間同と空間を圧殺し始めている。長く一つの嵐土に滞在し、文化を深く
ンド以米のその長い空白の間に、社会は大きく変化し、科学技術の発達が急
う 事 態 は 、 む し ろ よ う や く と い う 感 じ が し な い で も な い 。 そ し て A ・レl モ
香椎や幕張ベイタウンなど、外国人建築家の仕事が数多く見られる。こうい
オリ、関西国際空港の R ・ピアノをはじめ、集合住宅でもネクサスワールド
センチュリi ・タワーの N- フ ォ ス タ ー や 東 京 国 際 フ ォ ー ラ ム の R-ヴィニ
えてきた。経済成長のおかげ、ジャパンマネーの力ということかも知れないが、
戦後はや半昨⋮紀を過ぎて、外国人が日本において建築を設計する機会が増
織観
本 の 社 会 の 中 で は 、 手 が 届 か な い 物 質 的 な 豊 か さ を も ち 、 時 代 の テl マとし
肌で感じるような生活と創造活動はむしろしにくい時代になりつつある。 A
る。日本の近代住宅史の系議の中でも、戦前と戦後をつなぐ接点のような役
て返っていくと把えにくいが、今から振り返ると、一つの確かな歩みがそれ
-レ l モ ン ド を 滞 在 型 と 呼 べ ば 、 通 い 型 に よ る 異 文 化 で の 仕 事 の 時 代 を 迎 え
わざわざ気にかけたり、影響を与えたりするような文化的な個性が既に存在
ら作品に示されていたといえるだろう。戦後の建築設計とくに住宅設計の太
いくつかの住宅の設計図をみてみよう。プランの上からは、ここには和と
しない風土になっているのかも知れない。そして一方では、エネルギー、人
ている。そして風土性や異文化との対応は殆どみられない。むしろつくり子
しての要素は殆ど感じられない。とくに和室は殆どない。けれども組み上っ
口、環境破壊や環境共生といった問題、他方ではインターネットなど情報通
い流れが、 A ・レi モ ン ド の 弟 子 た ち や そ の 作 品 に 刺 激 を 受 け た 建 築 家 に よ
た住宅の内外の空間には和というものが強く感じられる。スケール感、簡素
信の発達は、国や地方という従米の枠組みでは対処できるようなものではな
としての建築家の個性の方が重要であるようにも見える。いや逆に考えれば、
さや率夜な表現、木造の軸組とあたたかさ、陣子による光の構成などは、
く な り つ つ あ る 。 フ ォ リ ナiズではいられない状況も追ってきているのだ。
ってつくられているのだから。
和そのものである。こうしてみてくると、 A- レl モ ン ド は 、 近 代 日 本 の 住
宅史の中で、洋を基本として和のもつ空間的な特一践を取り込み実作の中に示
てくる。そのうえ興味深いのは、一人の建築家が異文化としての日本に影響
た住まいの空間的な構成は、それにもまして貴重なものであることがわかっ
本 の 空 間 的 特 質 を 評 価 し た B ・タウトも重要だが、 A ・レ l モンドが併出し
前 の 吉 田 五 十 八 、 そ の 逆 の A ・レi モ ン ド と 考 え る こ と も で き る だ ろ う 。 日
この事情は、裏返せば日本人が海外に住み、仕事をしていく場合を類推する
後として見てもよいだろう。記事は日本での設計の話が中心となっているが、
象 、 ジ レ ン マ 、 問 題 点 を 明 ら か に し て み た い 。 単 純 に A ・レ i モンド五O年
や文化に関心を抱き、住まいや建築を設計する場合の外国人建築家が抱く印
ながら、時代を現代にスライドさせて、それでも今、異文化の中でその環境
この特集では、 A ・レ l モ ン ド が 果 た し た 巽 文 化 に お け る 仕 事 を 振 り 返 り
を与えただけではないということだ。逆に、異文化がこの建築家に彩響を与
(片山和俊/京京仲一五術大学品川火術学部建築科助教授・建築家)
一端になるのではないかと考えた結果でもある。
の対峠がレ l モ ン ド を 育 て た よ う に 見 え る 。 こ こ に は 、 近 代 建 築 の 思 想 と 日
えている。 A ・レ l モ ン ド の 系 識 を 辿 る と 、 日 本 と い う 風 土 や 環 境 、 社 会 と
した最初の建築家とみなすことができる。和を基本として洋を取り込んだ戦
曾
特集傘フォリナiズ に よ る 住 宅 設 計 呉 文 化 と の 葛 藤
浩
かたやま・かずとし
建築家・東京芸術大学建築科助教授
うちだ・せいぞう
文化女子大学生活造形学科教授
みさわ・ひろし
建築家・三沢建築研究所
八八年の生涯のうちの四四年間を日本で過ごし、
日本の文化・風土を愛し、理解し、日本の建築の原理を学びとりながら、
この地での新しい住まいの形を模索しつ。つけた、
ア ン ト ニ ン ・ レ i モンド(一八八八│││一九七六 ) 0
三沢
車問問
春
闘
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内部
司会計
片
出
軽井沢の「夏の家」の外観(1933王
ド
)
A-レ│モンドは四十数年間日本で仕事を
した。われわれもそうだが、海外へ行くと、
その国の人より一生懸命その国を理解しよう
とするので、いろいろなことがよく見えてく
いう異文化のなかで、日本の伝統文化や技術
るということがある。レi モンドは、日本と
と対峠し、吸収し、発展させた建築家と見え
一方、現在、外国人建築家、その卵の方々、
る。けれど今、その存在が案外忘れられてい
る
。
留学生と会う機会がたくさんある。また、外
国人建築家によっていろいろな作品が巨木の
なかにつくられていることもあり、異文化で
ことではなく、日常化してきている。いま袋一
仕事をするということが、昔のように特別な
文化で仕事をしている建築家の状況とレ│モ
ンドとを対比して考えられないかと考え、こ
レi モンドは臼本に滞在して、暮らしなが
の特集になった次第である。
になった今では、通い型で仕事をする場合も
ら建築の創作活動をしたが、交通機関が便利
っていくのだろうか、ということがその背景
多く、これから底土とか地域性などはどうな
レl モンド自体が長く忘れられており、ま
に感じている問題でもある。
ず、レ!モンド事務所で仕事をされた一一一沢浩
っていただき、レ!モンドの認識をレベルア
さんにレ!モンドの住宅を中心に勉強会をや
ップしてから、日本の住宅の近代化の過程に
ンに進みたい。(片山和俊)
詳しい内閲青蔵さんのお話、ディスカッショ
日本建築の原理と
近代建築の融合を目指す
レj黒沼恒ンドの住宅の系譜
ゴ
一
沢
⋮九一 O 年 の ラ イ ト の ポl ト フ ォ リ オ ( 六0 セ ン チ 角 ぐ ら い の 大 型 版 で 建
築とデザインが一 O O枚 ぐ ら い 入 っ て い る も の 、 ベ ル リ ン で 出 版 ) は ヨ i ロ
ツパにショックを与えました。そしてオランダ派の人たちがアメリカを見に
行ったりしたその結果が、デ・ステイルとなったのです。そのデ・ステイル
がグロピウスあたりに影響を与え、パウハウスのモダニズムになっていきま
す 。 つ ま り 、 ニ0年 代 に 近 代 主 義 が 二 つ に 分 か れ た と 考 え て も い い と 思 い ま
成長していくわけです。
す 。 ラ イ ト か ら 根 を 発 し て 、 次 第 に ル ・ コ ル ビ ュ ジ ヱ の ビ ュ l リズムを加え、
自邸を一五南坂(現在の虎の門のアメリカ大使館の哀)に建てました。それは
レーモンドとモダニズム
私が訳したレ l モ ン ド の 自 伝 の 出 版 ( 一 九 七O年 ) か ら 二 八 年 、 そ し て レ
i モンドが七六年に亡くなってからすでに二・一年が絞っています。
内外ともコンクリート打放しで、まさにデ・ステイル型のモ、タニズムでした。
レl モンドは、関東大一応災で自分が借りていた家をなくし、一九二四年、
レi モンドが日本に米たのは、一九一九年の大略行、関心米大震災(一九二
モ ン ド リ ア ン は 別 で す が 、 デ ・ ス テ イ ル は 、 フ ァ ン ・ ドi スブルフ、 J ・
P- アウトなど、属していた建築家が皆ライトの洗礼を受けていたことで、
一二年)の閲年前。コンドルがまだ元気で、新しい近代建築の脊りがヨーロッ
パから流れてくる前のことです。 F ・L ・ライトの助手として帝国ホテルの
ライトから炊け出そうと、モダニズムのタイプに入っていたのです。そして
レ│モンドの最初の作品が脱ライトの﹁霊南坂の家﹂。これは現存していませ
現場で一年間働き、その後一七年間、一九三七年まで日本で仕事を続けまし
た
。
と 向 時 に 、 モ i スや、ぷ鈎と刀﹄のヴェネディクトなど、向こうからきた人
ということに非常に関心がありました。﹁単純で、機能的にシンプルで、内外
しかし、 レi モ ン ド は 一 方 で 、 日 本 建 築 が ど う し て 近 代 建 築 と 合 一 す る か
んが、藤森照信さんは、あとになって気がつくと、世界でも相当先端の仕事
た ち 誰 も が 感 じ る こ とli!日本人はL
H然 と 人 生 を 融 和 さ せ て い て 、 地 良 や 台
の空間が貫入していて:・:﹂というモダニズムの原理を日本建築のなかに発
レーモンドは、ヨーロッパでは失われた過去の事物が日本で続々発見でき
風を恐れない。また、西洋の家が閉鎖的で、自然に対してきわめて攻撃的で
見したのはライトです。一九世紀の終わりごろ、シカゴ博覧会に出品された
だったのではないかと、岩波新設問寸近代建築﹄のなかで最高の賛辞を示して
あるのに比べて、日本は、どちらかというと和やかに融和していく。しかも、
胤風般にライトが発見したことがそれでした。凶州風践といっても、宇治の平
たし、それが西洋と同じようになくなっていく流動期にあると考えたようで
四 季 の 違 い が あ り 、 自 然 の 和 や か さ が あ る │ ← ﹂ の 大 き な 違 い が レ i モンド
等院とはちょっと違って、正面に書院造りがあり、左右に離れがある、屋根
います。
を捉えたらしい。レーモンドも、大正時代の日本人のなかにグ謙譲の美徳。
が絞っていて柱だけで、山中はすっからかんで何もない畳の部屋。外は縁側で、
す 。 こ れ が レi モ ン ド を 日 本 に 定 者 さ せ る 第 一 の 要 素 に な り ま し た 。
を発見しています。そして、夢中になって日本の良さを建築の原理として考
四郎で離れにつながっていくというものです。
住宅ができていく。ライトの建築が以前の、いわゆるアメリカ型の古いタイ
これがライトに相当影響を与えました。これによってライトのプレイリ!
えました。この時代、ヨーロッパでは、ヴエルクブン卜、ロシア構成主義、
そ し て デ ・ ス テ イ ル 、 レ ス ブ リ ・ ヌl ヴォ!といった具合に、新しい近代、王
義の発祥がありました。
ライトの影響を色i
4
2く伐している。
ブから、﹁ロビl 邸 ﹂ の よ う な 広 が り の あ る も の に な っ て い く 根 底 に は 、 そ の
胤風肢があります。柱だけを残して縁側が外の自然につながっている。左右
いわゆる近代建築といってい
にどこまでも仲びていってしまう縁側が続いて、南に広がっている。離れに
至るまで全部見渡せる。これがもしかすると、
るもの、 そ し て コ ル ピ ュ ジ エ ま で が ビ ュ ー リ ズ ム と し て き た 元 で は な い か 。
そうだとすると、ライトがモダニズムの最初を日本の建築に発見し、それを
自分で定着させ(日本にきて帝国ホテルはそういうぐあいにはつくらなかっ
たがてすっかりオランダに影響を与えていたことになる。
それほどの影響があるわけだから、ライトのレ│モンドに与えた影響も大
きかった。彼はライトの影鍛円から抜け出すのに、オランダのデ・ステイルの
方法を使って、一挙に抜け出しました。その次に、コルビュジエのモダニズ
ム、またはビュ l リ ズ ム を 少 し 真 似 る 。 ベ レ ー の 打 放 し の コ ン ク リ ー ト の 、
素材が主張する方法を取り入れます。
A@レiモンドの住宅 l 戦前
日本の近代住宅に到達するまで
時 代 を 追 っ て レi モ ン ド の 作 品 を 見 て い き ま す 。
一九二O 年に計一間が始まり、 三一二年に完成した﹁東京女子大学﹂。 非 常 に 施
~雲南坂の家の内部(活問)
5
写真一
E ライシャワー簿士邸
写真
3 リード博士邸(19
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,
のjijにパイプチェアーがあることに注,な。
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主 に 忠 実 な レi モンドらしく、 ラ イ ト 風 を 残 し て い ま す ( 写 真11)0
これはコンクリート打放しで、 構造が窓
問、彼はライトの影響を引きずっていたことになります。
最初につくったのが寄宿舎
慌に一九二一年とありびっくりするのですが、 最 初 に コ ン ク リ ー ト を 使 い 始
の 方 立 に な っ て い る 。 現在でも一棟はロのん子型で完全に残っていて、 こ の 基
年
めた。 そのなかに、 ま っ た く ラ イ ト の プ レ イ リl 住宅の方法で、 日 本 風 に 瓦
を載せている教師館の住宅三棟が大変きれいに残っています。 さらに当時の
学長・﹁安井邸﹂が残っていて、 関 東 大 震 災 の 年 に つ く ら れ て い る に も か か わ
ら
ず
ノ
、 こ れ は も う ラ イ ト の 感 じ が あ り ま せ ん 。 後 の 駐 日 大 使 の ﹁ライJンャワ
4 璽南坂の家(1 923~24;' ・)
写真
東
+
写真 -1 東京女子大学の礼拝堂
及び議室(1934~ 3
7iJ
'
)
テ"・スティノレの f- ìJ,でサl見ライトを見:たした 11~1刀の lél 氏1; 。
(1 925~27{ド)
i階
「-4m
l博 士 邸 ﹂ も 残 っ て い ま す 。 お 父 さ ん が 博 士 で 、 当 時 東 京 次 子 大 の 聞 事 だ っ
たのです。ライシャワーはここで育ち、日本の旧制高校に行ったわけですが、
この家は安井邸の五年後でありながら、 少 し ラ イ ト が か っ た 調 子 に 戻 っ て い
ま す ( 写 真1
2)。
﹁霊南坂の自邸﹂は内外がコンクリート打放しで、中庭がある住宅。屋上は
すべて植物で覆うというやり方です。それぞれの空間が一つずつ限われてい
て、それに庇がつき、心配の雨は日本流に掠抑制で落とす方法をとっています(写
真1
4)。
内部はいっさい塗らず打放しで、ただしはつってありました。染は露出し
べきことは、一九二四年に完成したこの家に、ブロイヤーより先にパイプ椅
11 本の住宅のっくりを初めて lr~ リ入れた。
この住宅で、
ていてなぐり仕上げ、居間にはなんとなくキュービズムの暖炉があり、驚く
5)。 プ ラ ン を み る と 、 入 口 は 小 さ く 、 居 間 が ず っ
0
7 浜尾子爵夫人別邸の 2~軒目室
写真
子があることです(一与真
と続いて、食堂、階段を上がって上に寝室があります。この寝室が幾つかの
空間体をつくっていて、円十くいえば、縦に冊目(く階段以外は、キューブを積み
重ねたかつこうで、どういうわけか少しずつズレがある。このズレがデ・ス
テイルのコンポジションのやり方で、﹁ア・ステイルのコンポジションという
のは、モンドリアンも合めて、そういう発明と発見と主張をしていたわけです。
これらのものがライトからきたというのは大変不思議ですが、ライトのコ
ンポジションが見える平揺がずいぶん流用されて、デ・ステイルの人たちの
0
プ ラ ン に な っ て い ま す 。 ラ イ ト の フランは、伊一を外して柱だけにした開放的
な フランですから、そういうキューブの積み重ねに変容することがわかると
当時はライジングサンといった、シェル石油の一 O人 の 速 記 者 の た め の ア
思います。
パートが、フェリス女学院一 O 号 鉛 と し て い ま も 残 っ て い ま す 。 リ ビ ン グ が
一階で二階に寝室がある、これもモダンな、早くいえば、空間を重ねたよう
初めて 1;平 f を lr~ リ込んだが、使い )j はまだこなれていない。
浜尾子爵夫人別邸の王手箇図
図 -1
なデ・ステイル型の建物です。非常に不思議な間取りで、一つずつのベッド
ルi ムが独立しています。
おもしろいことに、一九二六 i二七年ころ、どうしても臼木の家がっくり
写真 -6 浜尾子爵夫人別@外観 0926-nq.)
たくて、 ﹁ 浜 尾 子 爵 夫 人 別 邸 ﹂ を つ く り ま し た 。 角 に 八 寸 角 の 大 き な 通 し 柱 を
ドまでおろします。そして入り側をつけて、さらにその外に濡れ縁をつけて
6、 凶
1)。
い ま す 。 二 階 の 和 室 が 寝 室 で 、 障 子 を つ け て い ま す 。 レi モンドはご初めて
日本の住宅をつくった﹂といっていました(写真
こ の な か に 、 初 め て 暖 炉 の な い 洋 軍 を つ く っ て い ま す 。 レi モ ン ド の キ !
ワードとしては、﹁洋風の住まいには綬炉があること﹂があります。実はこれ
も 、 ラ イ ト が 一 九O O年 の 初 め に 、 ﹁ こ れ か ら 暖 炉 を 回 復 し な け れ は い け な
い 。 暖 炉 が 中 心 に あ っ て は じ め て 人 間 の 家 が で き る ﹂ と ﹃ レ デ ィ ス ・ ホl ム
・
ジ ャ ー ナ ル ﹄ に 書 い て い る こ と に 発 し て い ま す 。 レl モ ン ド は 、 和 室 に 暖 炉
があるのはおかしいというので、二階の和室は完全に日本風。といっても、
B 赤星邸(l9
3
2iF
)
写真
大壁があったり丸太の柱があったり、和洋の混在する不思議な家です(写真
7)。 そ れ ま で は 耐 震 的 な も の は 壁 構 造 を 考 え ま し た が 、 和 室 は 入 り 側 で 囲
む柔構造であることを発見しました。通し柱を一本通す構法で、これは五重
培の芯を考えてみればわかることです。
その一方、三二年、彼は﹁赤星邸﹂で実験をやりました。コンクリートを
F
絞 っ て 、 約 三 セ ン チ の モ ル タ ル を 塗 り 、 そ の 上 に 日のペンキを塗つでありま
す。コルビュジエだったらピロティにするのですが、ピロティはなく、中に
柱 を 抜 か し て し ま っ て い ま す 。 レi モ ン ド は 日 本 の 家 だ か ら 、 こ こ か ら 庭 に
r
mをつくる。
IJ~ 古1>は折りたたみ式の 1: 1) 1
1:切りで I
'
J!
I
Jな笠
降りるということを意識していたようです。庭闘を使、っ。そして横長の窓。
ところが附を開いて大森海岸のほうをみるというやり方は、コルビュジエも
やらなかった方法だと思います。ここでは木製の建呉を柱にぶつけない﹁芯
外し﹂の方法を用い、全部開けば、開放できます。
その問年後、三七年に熱海に﹁福井別邸﹂をつくりました。熱海の丘の上にあ
り、とうとうコンクリートの家に全出的に大きな木製のサッシュを引き遠い
でつけるようになりました。しかも山中は折りたたみ式の間仕切りで、ダイニ
9、 日 ) 。 コ ン ク リ ー ト に ず い ぶ ん 苦 労 し て 木 製 の 上 枠 、 下 枠 を
ング、居間を日本風にしながら、境のない広い空間、自由な空間をつくりま
した(写真
納め、金物をつけて風止めをしてすきま風を防ぎ、スチールサッシュより水
1
0 福井菊三郎別邸の内部(居間)
写真
福井菊三郎別邸外観(l 934~36{ド)
写真-9
コンクリートに全 l
lII木製サッシュを災攻。
述窓の|将を 1m し、て Hlf の I~t裂を楽しめるようにしている。
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u
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一」
図-2 「衰の家」の平面図
裂の効果を上げた。日本的に開放する心不をつくったのだなと感じています。
上地の材料、 u也の技術を lr~ リ入れてつくった。
吸収、ベイネ美術館として伐っている。 0
933
三三年に初めて白分の別荘コ及の家﹂をもちました。形はバタフライを使
った大変バタ臭いものですが、全両的に南に開放して、内側で芯外しをした
クリの木の柱を使っています。しかも、これに飽き足らず簾をおろし、屋根
に問辺にあるカラマツの枯枝を載せる。こういった日本風でパタ'臭い家にし
ているわけです(写真!日)。二階に仕事部屋をつくって、別棟に所口氏を泊ま
ら せ て 夏 の ス タ ジ オ に し て い ま し た 。 池 を 前 に し て ブl ルもあって、そこか
ら水が流れていくようにつくっていますが、入口と本体が一メートル半ほど
おさが違うので、ビロティにして:::という平聞をつくりました(凶!2)。
実 は 、 こ の 建 物 は コ ル ビ ュ ジ エ の チ リ の 山 荘 計 画iiiチリの海岸に建つエ
ラズリス邸からそっくりもってきたバタフライだったのです。これを真似た
ことによって、両者でいろいろあったのですが、コルビュジエは全八巻の作
品集の中にレ l モンドのこの家の写真を入れて、なじるのではなくて、﹁これ
は私の案を使って成功したいい例である﹂と書いています。そしてそれはお
世辞でもなんでもないと、あとからきた予紙で述べています。
コルビュジエのプランは、大きな居間があって、小寝室があり、二階にス
ロープで上がっていく方法も同じ。しかも、もっと大事なことがあり、コル
ビュジエはこのエラズリス邸によって、それまでのサヴォイ邸などのような
四角い家から離れて、初めて地域の技術と地域の材料、そして景観を取り入
れ る こ と に 専 念 し た の で す 。 つ ま り 、 近 代 建 築 の ピ ュ l リズムは一九一一一0年
代に死んで、コルビュジエはこのヱラズリス邸から変わっていって、次は石
の壁、ヴォ i ルトの屋担、上に土を載せるという荒っぽいことをやります、
そ の き っ か け を レi モ ン ド に 先 取 り さ れ て し ま っ た の で す 。
コルピュジエはまさかその案が使われるとは忠わなかったんですね。レー
モンドがその案を盗んで、しかも、コルビュジエが大事に考えていた景観の
取り入れ、その土地の材料、土地の技術(大工)を取り入れて先につくって
しまったから、一本やられたという意味の子紙だったのですが、なかなかし
ぶとくて、 やられたとは書いてありません。
康を下した外線
経井沢の「菱の家」
写真一日
さて、 その後レ l モ ン ド は 再 び 近 代 建 築 に 挑 戦 し て 、 黒 い 横 板 張 り ・ 南 京
下見(南京というからには、外国なのですが)を使って芯外しで丸太の柱を
使うようになります。つまり、柱のある通り芯から障子、ガラス戸、網戸を
外していく方法です。したがって、その分だけ支えなければならない。上は
金物で止める。これはレ l モンド事務所がいまも住宅でやっている方法だと
思います。和風の内側をつくり、外は横板張り、平らな屋根に近いもので、
0
洋風にしていく。しかもその フランは、あれほど伸び伸びしていたいいプラ
ンが、いつの間にか非常にコンパクトになり、中はほとんど間仕切り壁がな
く、折りたたみ一戸で仕切る。二階も子どもの部屋は襖で仕切られている状態
ほかの人たちが白い直角の家をつくって﹁モダニズム﹂としたのに対して、
です。
レl モ ン ド は 、 ス テ イ ン か ペ ン キ を 塗 っ て 、 す っ か り 開 放 で き る 黒 い 横 板 張
りの木造日本住宅をつくっていた。これが彼が到達した日本の近代建築でし
た。一二七年というと、虚溝橋事件が起こって、日本が中国侵略を始めた年で
す。この年、日本を去ることになります。
A@レiモンドの住宅 l 戦 後
レiモンドスタイルの完成
戦後、再ぴ日本にやってきたのは、戦争が終わってコ一年自の四八年。四九
年には﹁スタン、タl ド 石 油 社 宅 ﹂ が っ く り 始 め ら れ て い て 、 横 浜 の 山 子 、 フ
ェリス女学院の隣りに一片付ポツンとできました。いまでも残っています。外
観 は ま っ た く の 洋 風 で す 。 二 暗 に コ ン ク リiト 打 放 し の 柱 が 外 に 見 え 、 下 の
柱は内側に入っていて見えません。とにかく眺めのいいところで、元町一帯、
関内まで眺められます。(写真ロ)。中は、これこそ大きな芯外しといえる
内容で、仕切りは襖を使っています。均等スパンでもっていくから、女中部
屋には柱が出るという強引な。フランです。以後、こういうことはやっていま
3)。
せん(図1
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社宅の平面図
横浜・本牧のスタン
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j止上~).L)、を品Ilん fニシザース'・トラスによる tNihi 。
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4 麻布鉾町の「自邸J の薦側外観 0
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ド)
横浜本牧の八聖殿の協にも﹁スタンダード石油社宅﹂をつくりました。こ
れは打放しコンクリート、木製サッシユ(写真日)。これも現在かろうじて
残っています。戦前は横板張りでしたが、戦後は縦板張りに変えました。縦
板張りにするということは和風にみえるもとだなということを発見しました。
この平岡から、アメリカの文化が入ってきたと、当時われわれは歓迎したの
ですが、 LDKに な っ て い て 、 居 間 と キ ッ チ ン が つ な が る 。 外 側 は コ ン ク リ
ートであるが、日本風で、開放されていることを感じます。確かに、このや
り 方 で い く と 、 庭 先 は つ な が り ま す ( 図14)。 入 口 が 不 思 議 な と こ ろ に つ
いています。レ l モンドの フ ラ ン は 入 口 が わ か り に く い こ と で 有 名 で 、 吉 村
願一一一さんの住宅もその点で似ています。入口は小さく、南は広くというのは、
実はライトがやっている手法と同じです。
さて、戦後の最初の木造の﹁自邸﹂です。麻布西の奔町に長さ一一ニ開で二
棟、レi モンド事務所と並んで自分の家をつくりました(写真!日、日)。この
家は、玄関を入って、昔の屋敷の基礎を使った池なんかがあったりして、こ
ぐーコラのあるテラスを J
先んで子 l
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告で1北の fJ~ しなど、レーモンドスタイルと呼{まれる 11' ぷのさきがけとなった。
写真
15 麻布鉾町の「自邸」の内部(居間)
写衰 -
の丹波石の廊下を渡って居間に入っていく。間にパ l ゴ ラ の あ る パ テ ィ オ を
組んだ小屋組みです。南側の戸を開けていきなり外に出ていくような仕掛け
挟んで、居間と寝室があります。居間はやっぱり芯外し、木製の足場丸太で
です。居間の一部を執務主として、レ l モンドは手紙を書いたりしていたわ
け で 、 こ れ と そ っ く り な も の が 代 々 木 に 移 っ た 現 在 の レ i モンド事務所の五
階にメモリアルとして残されています。
真 ん 中 に フ ァ イ アiプレ i ス を 二 重 の 鉄 板 で つ く り ま し た が 、 木 造 の 家 で
は非常に火災の危険があり、できるだけ壁から離して空間の中央に置きまし
た 。 大 事 に 至 ら な く て 済 ん だ の で す が 、 レi モ ン ド の こ の 暖 炉 も 一 度 な ら ず
火を出しています(図 [5)。 こ の 住 宅 は 、 そ っ く り 左 右 逆 に し て 高 崎 の 旧 井
上房⋮郎邸になって残っています。事務所は、北側にトップライトをとり、
これに足場丸太でシザ!ズ・トラス(欽状トラス)の構造をつくって、全部
みせていました。
これと同じようなやり方で住宅を何軒かつくりました。﹁ブロワ i邸﹂はじ
隆一 5 麻布鉾町の「自邸」の街頭歯
め、縦板張り、和風仕込みの、いわゆる﹁レ!モンド・スタイル﹂と呼ばれ
るもので、芯外しとシザ│ズ・トラスと襖、これを繰り返しています。
られていた
そういう建築家でした。
の で す が 、 現 在 の 米 国 大 使 館 ア パ ー ト の と こ ろ に あ っ た ﹁ ペ リl ハウス﹂と
い生命でした。あまり話題にならなくて、一一0年 間 ぐ ら い で 消 え て し ま っ た
考 え 、 明 治 以 降 の 出 発 点 で あ る ﹁ 和 洋 館 並 列 型 住 宅 ﹂ ill和 と 洋 が 対 立 し た
く変化の過程を追ったものです。日本の近代建築の原風景として、﹁洋館﹂を
私の著作﹃日本の近代住宅﹄は、明治から戦前までの住宅の近代化してい
日本の近代住宅の発生和洋館並列から和洋混在住宅へ
﹁ハリスハウス﹂。これは完全な壁構造で、六階建てですが、一一一本のコアが北
形で建てられたものが、こういう対擬された姿がお互いに葛藤し合いながら
戦後のメルクマール﹁リーダーズ・ダイジェスト東京支社﹂は二一一年の短
側で大きく支えて、南側は完全に開放された面になっていた。とても日本の
いかに一つの住宅としてまとめられてきたのか、というプロセスを追うこと
に興味がありました。
常識ではできなかったものをつくっています。
いまも狸穴に残っている﹁アルパン教会﹂。この構造はシザl ズ・トラスで
16、7)、﹁和洋舘並列型﹂
これが大スパンになっているいちばん大切なところです。次の札幌の﹁セン
半部りの非常に軽いヒノキの丸太を使って、欽状の構造をつくったわけです。
ず、一点で交じわらせて、鉄の平板で締めたものを、今度はボルトでとめて、
しかも、洋室は大壁で、窓も上げ下げ窓的なスタイル、和の部分は真壁で、
ているけれど、内部は、部屋の機能に応じて和室と洋室が混在した住宅です。
に行きついたと考えています。外観は伝統的なものではなく、洋風の姿をし
変化をして、戦前期に、﹁和室・洋室混在型住宅﹂という一つの完成された姿
という和と洋を並列したタイプが上流層にあり、それがいろいろなかたちで
ごく簡単に私の考えの概要をお話しすれば(図
ト・マイケル教会﹂では、積雪荷重に対して、やや太いエゾマツを使って同
長押が回っていて、建呉も障子や襖というものです。
す が 、 戦 前 の 軽 井 沢 の ﹁ セ ン ト ・ ポi ル 教 会 ﹂ で は こ う い う 組 み 構 造 が で き
じ構造でやることになって、結局、軽井沢のセント・ポール教会でやった構
この﹃日本の近代住宅﹄の中に﹁レ!モンドのレの字もない﹂と三沢さん
到達点だろうと考えています。
田五十八の大壁造りの和室が、和と洋の拾抗のなかでできた戦前期の一つの
は和か洋かどう判断したらいいのかわからないものがでさることになる。古
かたちで、住宅が、和と洋の対立したものから徐々に混在していき、ついに
結論をい、えば、利の部分にどんどん洋が入り、洋の部分に和が入るという
らをもとに臼本の住宅がどういうふうに変化したかをみたのです。
座、そして和と洋のイメージの変化として大壁と真壁に注目しました。これ
ージの変化から追えないかということで、生活のスタイルとして床座と梼子
ど、このような住宅が成立する過程を、生活の変化と住まいの和と洋のイメ
デザインとか空間性を把握する尺度というものはなかなかっかめないけれ
造が戦後の教会に入り、木造の住宅にも入っていったわけです。
住宅を中心に、大切なことはだいたい述べたと思いますが、あとで補足さ
せていただきます。
コンドんの時代と
レiモンドの時代
S D選 書 ﹁ 私 と 日 本 建 築 ﹄ は な ん と か 手 に 入 り ま す
││和の理解と住宅設計
内田青蔵
レーモンドに関して、
に言われました。まったくそのとおりで、このような分析方法では、
モ
が、レーモンドの自伝は、古本屋で探してもなかなかないし、あっても高く
て 予 に 入 り ま せ ん 。 私 が 勉 強 し た こ ろ も 、 レi モ ン ド は 基 本 的 に は 忘 れ か け
レ
ンドの作風は追えないのです。一つは、作風があるようでない、はたまたな
いようである、大変多彩です。しかも、海外との関係が非常に強いというこ
とも、その存在を難しくさせています。私としては、レーモンドの位置づけ
は非常にむずかしいということです。
同一日本の近代住宅﹄は、戦前までの話を書いたわけですが、私があえてレ
│モンドのレの字も入れなかったことの釈明はあとに回して、日本の住宅の
近代化と凶洋建築家の奥文化との葛藤に、簡単にふれたいと思います。
日本の住宅の近代也と西洋建築家の異文也との葛藤
日本には、コンドルとかヴォ i リズのような、非常にたくさんの住宅をつ
にかつ簡単に述べれば、おそらくコンドルとかヴォ!リズの時代│[明治、
一回
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-大忽老町でゐるが
。裳?字が畏霞ミ見 zるもの
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くり、また、多くの影響を与えた外田人がいました。けれど、非常に目視的
出
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~友弐(是教}
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璽謹霊
1!盟国閣忠
一一一一翼竪途
大正の初期ぐらい│!iで一棋を引かなければいけないだろうと思っています。
ライト、レーモンド、タウトという人たちが日本に来たうえでの活動や﹁日
本的なるもの﹂に対する認識のしかたは、コンドルやヴォ iリズなどが活躍
した時代と、かなり違っていたと考えています。
コンドルは﹁税英﹂という画号をもつほど、日本の伝統絵画の勉強をして、
第二回内国絵画共進会などに出品して賞までもらうぐらいの腕前をもった人
ですし、さまざまな日本の文化を海外に紹介しています。さらに、奥さんも
日本人で、亡くなるまで日本にいるというかたちで、日本のなかに非常に溶
け込んだように思います。けれど、彼のつくった住宅から、日本の文化をど
う考えていたのかをみていくと、和と洋という問題は、あくまでも様式の問
題としてしかとらえていなかった。つまり、自分が知っている完結した洋と
いう一つの様式の欧界と、異文化である和の様式を一組合させようというよう
な忠考は基本的にはなかった。融合させるのではなく、一つの建物のなかに
はっきりとわかるかたちで取り入れることはありました。つまり、折衷主義
7 床主主一橋子座、大量章一真壁の観点からみた住まいの近代化
図
という考え方のなかで、あくまでもある様式をべ l スにして、味つけ的なか
たちで別の様式を加えていくということを、一つの予法としていたのです。
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図 -6 わが国の住まいの近代化の系諮
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ラ イ ト の 住 宅 論 に お け る 自 分 の 住 宅 の 紹 介 の 内 容 は 、 モi スの日本の様式、
住宅に対する理解のしかたと非常に共通した部分がみられる、というのが根
コンドルは自邸として、自分が住む生活の場は洋館を建てています。けれ
ど、奥さんは日本人でしたから、その後ろに和館を建てて、基本的には住む
拠となっています。
日 本 の 建 築 の 原 理 を 探 っ て い こ う と し た こ と に な り ま す 。 ラ イ ト や レ I モン
こ の 説 を 信 じ れ ば 、 彼 は 、 モ l スをモデルにしながら、形態だけではなく、
形式を変えるということをしています。ここに端的にみられるように、伝統
的な和を空間として積概的にとらえて、一つの生活の様式として自分がその
なかに溶け込んでいくというかたちはみられません。
に取り入れていこうというより、やはり自分が知っている洋の様式を展開す
すが、彼がつくっていた住まいや生活のスタイルは、伝統的なものを積極的
るのだろうと思います。このような否定的な意識はコンドルにはなかったと
してすこぶる否定的な見方をもっていたということが背景にあった、といえ
目的意識があったのです。ということは、彼らの身の回りにあった建築に対
自分たちがこれから新しい建築をつくっていくための原理を採るという強い
ドは、西洋と巽なる建築に対する興味が非常に強くありました。そこには、
ることでした。また、彼の場合には、アメリカ人スタッフがちょくちょく事
思います。
ヴォ l リ ズ に お い て も 同 じ よ う な こ と が い え ま す 。 彼 も 奥 さ ん は 日 本 人 で
ていました。そのため彼の作風は、アメリカ住宅の様式の変化とよく対応し
らも、日本的なものを、へ i ス に し て 新 し い も の に 転 化 さ せ て い こ う と い う 志
いた文章が四遍ほど残されています。一九一二五年に書かれた﹁日本住宅につ
レl モ ン ド の ﹃ 私 と 日 本 建 築 ﹄ の な か に 、 戦 前 期 に 日 本 の 建 築 に つ い て 書
レーモンド、か日本に見たもの
務所に入ってきていて、そういう人たちを通していろいろな情報を取り入れ
ています。
向は、作風のなかでは確認されません。そういう意味で、彼らが使命として
いて﹂がいちばん古い文章ですから、来日してからかなりたっており、当然、
率先して日本に住んで、自分の生活の基盤、活躍の基盤を日本に置きなが
もっていた考え方が、ライトやレl モンドとは明らかに違うという気がする
臼本的なものをかなり但唱したうえでの話で、これをもって初期からそうい
その中で、﹁日本で仕事をする外国人建築家の特権というのがある。それは
う考え方をもっていたとはいえませんが。
わけです。
では、大正以降に日本にきたライト、レl モンド、タウトはどうだつたの
日本の建築の開放性とか構造の単純さ、正直さが、近代建築の原理と非常に
現代建築の目的として再発見された基本的原理が、日本建築や文化のなかで
か。ライトは、いち早く日本の建築の原理を見出して、それを自分の目指す
彼 の 初 期 の プ レ イ リl スタイルは、水平線を強調し、軒の出が深いなど、
共通するわけですが、そういうものが再び白木のなかでどう再構成されて、
新しい建築の原理としてとらえていく。それや二つの具体的なかたちとして
形態的にも日本の伝統建築と非常に似ていますが、求めたものは、むしろ精
新しい建築ができるのかをじかにみることができる、ということです。さら
具体的にどうなっていくのかを直按自にすることができる﹂と述べています。
神性、空間性。つまり、様式としてとらえるのではなく、様式を支えた背景
に、戦後(五三年)の文章﹁建築の根本原理﹂のなかで、﹁日本の富豪の住宅
再構成するということをしたのだと思います。
としての精神性をとらえました。それゆえにそれが自分たちの新しいかたち
建築の根本原理を理解しているはずの日本でつくられていたのが不思議であ
の多くは、ビクトリア時代の模倣で、建築史上いちばん悪い時代の建築が、
最 近 の ケ ヴ ィ ン ・ ニ ュ lト の ﹃ フ ラ ン ク ・ ロ イ ド ・ ラ イ ト と 日 本 文 化 ﹄ と
る﹂と述べている。これはまさしく、コンドルなどがつくった住宅を自にし
に応用できる。そういうことができた人たちだろうと思います。
い う 本 を み ま す と 、 ラ イ ト は モ i スの影響を非常に強く受けているそうです。
一九位紀に至って最悪の段階に達してしまった﹂と述べています。彼は、今
景にゴシック様式で最高点に達した。しかし、その後、退廃の一路をたどり、
ヨーロッパ建築について、彼は同じ五三年の文章で、﹁キリスト教的思考を背
しい時代の建築としてそういう建築をつくっていた﹂と述べているのです。
がとった分析のしかたは、白木というローカルなものを対象としたものです
ていました。いわば世界レベルの住宅をつくっていた、ということです。私
は早くも精神性のレベルで日本の住宅の精神を吸収し新しい住宅づくりをし
て 理 解 さ れ て い ま し た 。 そ う い う 一 般 的 な 流 れ の な か に あ っ て 、 レ l モンド
逆にいうと、明治から戦前期にかけて、建築は、まだ一般的な形態を通し
洋館というかたちで把揮できないものとなっていったと考えられます。
ふうにいうと、中世主義者であったという言い方ができるのだろうと思いま
て、﹁自分としてはそういうものを否定するつもりできた。しかし、日本は新
す
。
築のなかで、とるべき方向性はかなり明確になっていたのでしょう。コルビ
がかなりあったように思います。そのころヨーロッパで起こっていた近代建
そのためにはさまざまな異文化の建築をみなければいけない、という気持ち
すし、ここで初めて、﹁障子を住宅に導入した﹂と述べています。さらに、折
とれた住宅ができた﹂といっています。これは外線がモルタル塗りの住宅で
さらに二七年﹁浜尾子爵夫人別邸﹂で、ようやく﹁和洋の生活様式の調和の
四年、自邸﹁霊南坂の家﹂の打放しのデ・ステイル的な要素をもった住宅、
三沢さんのお話にもあったように、ライト風の住宅から始まって、一九二
から、レ l モンドを外してしまったということになるわけです。
ユジエの近代建築の五原則は一九二六年ですから、もう少しあとになります
りたたみ戸とか、引き違いのアルミサッシュなどがその後どんどん出てきま
レi モンドは、日本にくる段階で、自分たちの建築をどう采り越えるのか、
が、ドミノシステムは既に知られていましたし、煉瓦造、石造の閉鎖的な空
す
。
きていて、洋結のほうに生活が移ってきます。さらには、畳敷きの部屋、床
8)。この時代になると、一般的には和洋鉛並列型の形式はどんどん変わって
三 四 年 に ﹁ 川 崎 邸 ﹂ と い うR C造 の 大 き な 住 宅 を つ ぐ っ て い ま す ( 図 │
たのかもしれません。
対応するかたちとして、強い個性をもった障子を使おうとは思っていなかっ
ています。住み子に合わせて用いたものということで、開放性という原理に
ただし障子に関しては、彼は、﹁外巨人用の住宅では使わなかった﹂と書い
間から、いかにして開放的な空間をつくるのか、ということが建築の大きな
テl マであったことは、一九世紀の後半からこO世 紀 に か か る 段 階 で は っ き
りみえていたと思います。
コンドルやヴォ!リスとは明らかに日本に対する認識が遠っていた。この
点は、偶人の差というよりも時代的な差とい、えるかもしれません。
日本の近代建築とレiモンド
私の﹃日本の近代住宅﹄ の考え方に立って、 少し無理やり、 レi モンドの
の間、違い棚、付け玄関院などがついた書院風の座敷が建物の内部に取り込ま
れるのが当時としては一般的な姿になっていました。川崎邸は続き棟として、
作品を見てみましょう。
レl モンド、 タウトなど、 はじめから日本の建築の原理を新しい
ライト、
﹁日本間﹂の平屋がつけられているタイプです。ですから、私の掠式的分類で
レi モ ン ド は 、 日 本 の 座 敷 、 さ ら に 建 築 と 庭 と の 関 連 性 を か な り 強 調 し て
建築の一つの可能性であるという前提に立ってものをみている人たちの住宅
一見日本の伝統的なものに非常に近い考、ぇ方でつくられている彼らの建築
述べています。そういう意味で、住宅の中に和室を取り込んでしまう形式と
は少し古いタイプに属します。
も、実は明らかに質としては違う。精神性なり原理性のなかで日本文化を継
比べると、日本的なものの良さを理解していて、そういうものを伝えたい、
は、和と洋の対立の構図上ではうまく整理できません。
示しようということでつくられた建物であるがゆえに、イメージとしては、
生かすためにはこういう伝統的なやり方しかない、ということを述べている
形 式 な の か な と 私 は 解 釈 し て い ま す 。 た だ 、 レi モ ン ド の 戦 前 の 住 宅 の 詳 細
引J
H
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iとして純 1本風の ;
[
;
1
1室をもつのはこの作品のみ。
がよくわかりません。国買が敷かれていながら、部屋が大壁なのか、真壁なの
かわからないので、分析がむずかしいのです。
その後一九三四年ころになると、丸太が出てきます。軽井沢の﹁夏の家﹂
﹁小寺邸﹂﹁セント・ポl ル 教 会 ﹂ な ど が 続 々 と 建 て ら れ 、 一 様 に 丸 太 、 下 見
板張りによる建築です。それは一見すると、民家風で、先ほど地域性という
お話がありましたが、まさにそういう感じがします。作品集をみる限りは、
こ れ は 突 然 出 て き ま す 。 こ う い う か た ち で 戦 後 の ﹁ レ l モンド・スタイル﹂
の要素は戦前期にいろいろな形で出てきております。
一一一七年に帰出しますが、その後に﹃アントニン・レ│モンド詳脳図集﹄を
出版していて、そこで、引き戸等の有効性を、日本だけではなく、海外にも
紹介しました。それによって、ガラス窓の内側に障子をはめ込む形式とか、
壁の中に建具を引き込んでしまう形式が、日本でかなり普及したのだろうと
いう気がします。そういう意味でも、レーモンドの与えた影響はかなり大き
かった。
しかし、障子にしても、彼が使う場合には、いわゆる日本の障子ではなく
て、合板を使った襖立ての引き戸みたいなものをつくっていたりして、一見
日本的にみえるのですが、使っている素材はかなり違います。
精神性を取り入れ、そのなかで有効な素材をそこにもう一度取り入れて、
自分として眠時し、再構成して出していくという形式がその段階で少しずつ
出てきていると思います。逆に、一見日本的にみえるけれど、どうも伝統的
なものをそっくり使ったかたちにはみえない部分は、質の高さといったほう
足場丸太と
がいいのだろうと思いますが、そういうところが起因しているのではないで
しょうか。
レーモンド・スタイルというかたちができて
レーモンド・スタイルの再評価
戦後の住宅は
4
;
j
'
.
)
8 川崎邸の平面図 (1933-3
図
1
6J
lU
I
跨邸外観 (
1933-34il
二
)
写真
か、いろいろな形式が出てきます。このころから、彼の五原則(自然とのつ
ながり、正証さ、十仮設さ、単純さ、経済性)が出てきます。コルビュジエの
五原則を意識したのかもしれませんが、コルビュジエの場合は、かなり形態
と結びついた五原則なのに対して、レl モンドのものは形態にあまり結びつ
か な い 五 原 則 に な っ て い ま彼
すと。
して
日、
本の建築をどう読み換えていく
のかという意味では、形態ではなくて、精神性、原理そのものとして読んで
いくということをかなり強く述べていたのだろうという気がします。
戦後のレ l モ ン ド ・ ス タ イ ル の 住 宅 は 、 日 本 の 建 築 を 読 み 換 え た か た ち で
できた新しいタイプの住宅だったのだろうと思います。非常に新しい住宅を
つくり続けたと考えていますが、施主の多くが外国人だったということで、
日本のなかで日本人のための建築というニュアンスは、戦前に比べ欠けてい
たという気がします。戦後のロ l コスト・ハウスをみていくと、実は五原則
からは少しずれていき、形態的にはかなり画一化された形態が多かったとい
う気がします。終戦直後のロ l コスト・ハウスという、あまりよくないイメ
i ジのなかに埋もれてしまった。そういうものが日本の戦後の住宅のなかに
あまり普及しなかったのは、そこに理由があったのではないでしょうか。
モl スに代表されるように、日本のん伝統的な建築、日本の文化を評価する
建 築 家 は 多 く い ま し た し 、 現 在 で も 多 く い る で し ょ う 。 し か し 、 レ i モンド
のように、これほどわかりやすく伝統性の継示、どう註き換えて実際の住ま
いに応用したらいいのかということを兵現化した建築家はまずほとんどいな
かった。そういう意味で、彼の役割は非常に大きかったと考えています。し
かし、われわれの側があまり彼の行なってきたことを理解しようとする機逆
に 至 ら な か っ た 。 こ れ は レi モ ン ド ・ ス タ イ ル の 実 践 さ れ た 時 代 の 不 幸 が あ
ったのだと忠います。彼の作風はもう一度評価していいのではないかと思っ
ています。
ベーシック・ハウスの平面図
図 ~g
図一 1
0 ベーシック・ハウスの断面図
1
7 ベーシック・ハウスの外観 0954司令)
写真
お二人からお話をうかがいました。内田さんのお話に対して、
ディスカッション
片山
ん一言。
レiモンド・スタイルの創出
ベーシックハウス 1li
さ
内田さんのお話の最後に﹁ロ i コスト・ハウス﹂ のことがありました。
i
尺
務 所 で あ り 、 自 邸 で あ り 、 シ ザl ズ ・ ト ラ ス で 組 ん だ 構 造 が 見 え て 、 国 定 式
ではないのだけれど鉄板の独立式の媛炉がある居間があって、しっかりと南
に向かって開けている家を、自分の論理に基づいた、そして精神構造から押
し 出 さ れ た 家 と 考 え て い た の で す 。 わ れ わ れ は そ れ を ﹁ レ i モンド・スタイ
ル﹂と呼んでいるわけです。
片山内田さんは、研究者として一二沢さんに質問はありますか。
内 国 レ i モンドの書いた文章を読んでいますと、これからの新しい近代建
築をつくるう、えで、日本はたぶん何か自分を啓蒙するところがあると思って
いたのだろう、という話をしました。﹁一九一一二年にボストン美術館の東洋部
副主任、ハ i ヴィl ・ ウ エ ッ ツ ェ ル か ら 日 本 の 文 化 の 教 え を 受 け て 、 こ の 段
坪の外国人の家で、そのフラットル│フの家が五一年の﹃新建築﹄に載りま
一五年にライトのタリアセンにいった時、たくさん日本のものがあって、な
リエントとはおもしろいところであるといろいろ聞いたのでしょう。そして、
一ニ沢僕もそういう話を開いたことがありますが、ウヱッツェルに会ってオ
階で日本に行ってみたいと思っていた﹂と書いています。
し た 。 軍 用 に 二 十 何 軒 か つ く っ た ﹁ ベ ー シ ッ ク ・ ハ ウ ス ﹂ は す べ て が 二O坪
ぜ だ ろ う か 非 常 に 疑 問 に 思 っ て い た 。 プ レ イ リi ・ハウスをやっていたライ
日本に関係があることは自伝にも出ていますが、そのウエッツェルが、ウ
トからいろいろ開いたと思うんですね。
たような家で、襖までそうやって開けます。ベーシック・ハウスという以上、
ノエミ・レ!モンドの果たした役割
までです。
の美徳々が出てくるわけですが、非常に不思議だとは思っていた。まずそこ
悲しみを隠してわれわれに応対してくれた﹂ということを書いていて、グ謙譲
木将軍は非常に謙譲の美徳をもっていて、記者が行っても、戦死した子への
オ ッ シ ュ パ ン の ﹃NOG-﹄ と い う 本 ( 邦 訳 一 講 談 社 学 芸 文 庫 ) に あ る ﹁ 乃
9、 山 、 写 真 口 ) 。
この二種のロ l コ ス ト ハ ウ ス は 、 当 時 、 設 備 な ど は 何 も な か っ た 日 本 に あ
って、最低コストではあっても必要な機能と設備を備えていた点で、注目に
値 す る 住 宅 の 原 形 だ っ た と 思 い ま す 。 そ れ を レ i モンドが度抜手がけたとい
うことは重要です。
わかりました。レ i モ ン ド が 書 い た も の を み て い る と 、 奥 さ ん が か な
あるのですが、なかなか読みが深くて、さっきの川崎邸も含め、戦前の大き
三沢ケネス・フランプトンの﹃近代建築の批判的歴史﹄(未訳)という本に
り出てきます。奥さんがどのぐらい作品に予を出していたかですが。
閣
どうしてこういう家が普及しなかったのだろうかという点ですが、 レlモ
ンドとしては、﹁べ i シック﹂だとか﹁フラットル l フ﹂といわれながら、発
表はしたけれど、最低の設備が整っただけの戦後の家ということで、ファイ
L
アiプレイスもない。レ l モ ン ド と し て は 、 そ う い っ た 家 は 本 物 の 米だとは
考えていなかったのです。本物の家は、 せ め て 足 場 丸 太 で つ く っ た 自 分 の 事
内
りません。図面だけ残っています(図
競時の家としてつくったもの。成増にあったはずですが、私は見たことがあ
で、柱にひばたをつけてドアを開閉するという、われわれの下宿時代にあっ
のです。これも単純な家で、芯外しどころか、日本の普通の木賃長屋と同じ
前 後 。 こ れ で もLDKで 、 日 本 の バ ラ ッ ク よ り 少 し は い い か な と 思 わ れ る も
そのロ l コスト・ハウスは、﹁ミニマム・ハウス﹂といって一五坪から一一O
ならなくて伝播しなかったということ。
ローコスト・ハウスが戦後につくられていたのに、それが一つのスタイルに
沢
円/
LM
n
u
だいたい五年ぐらいで変わっています。
ルピスには黒ん坊がストローで限っている絵があって、それが商標になって
は紛れもない事実です。日本にくる前も、極貧の時代がありました。昔、カ
ての時期の三年を除き、奥さんがインテリアデザインを全部やっていたこと
インテリアとしては高級なものをつくっていて:::﹂と書いています。子育
一つ夏の家をほしくなった。葉山にちょっと傾斜した柱のある小さな家をつ
りながらなんとか自分の忍うようにもできた。
邸 へ そ の 一 O年 後 の ﹁ 夏 の 家 ﹂ 。 こ れ が き っ か け に な っ て 、 初 め て 洋 風 で あ
三沢きっかけは全部自分の家です。震災後の一九二三年の﹁霊南坂の自
片山
な住宅は﹁そのどれもがレl モンド夫人の子になるものであって、きわめて
い ま し た 。 あ の 絵 の も と はNIPと い う サ イ ン の あ る ポ ス タ ー で す が 、 そ の
NIPがレ i モンドのん奥さんのノエミ・ペルネサン。いわゆるデザイナーで、
くりました。これも画期的な家です。切妻の真ん中に柱も染もないんです。
それはどういうきっかけなのですか。
そ れ で 稼 い で い た の で 、 一 五 年 に 結 揖 し て か ら 、 レ l モンド夫妻は一二年間食
唐傘そのままで、二階をつくった家です。
を考、えるのは所員です。レi モンドはそのとき、﹁面倒だからそうしよう﹂と
張ったほ、つがいいとか、坊主襖のほうがいいとか、それに車をつけようとか
のは奥さんでした。レi モ ン ド 事 務 所 の あ ら ゆ る 住 宅 が そ う で す 。 ベ ニ ヤ を
りたたみ戸にしようと言って、その材料を考えるのは所員。その柄を考える
=一沢それはレ l モ ン ド で す 。 レ i モ ン ド が 引 き 遠 い に し よ う 、 あ る い は 折
内間引き遠いの襖とか障子などはどちらが担当されたのですか。
んなどiilの仕事をとってきて、レ l モンドがみて、あの家ができました。
型 を つ く っ た の も 彼 女 で す 。 戦 後 は 、 自 分 で 友 だ ち の 家iiiカ ニ ン グ ハ ム さ
いる新スタジオです。
の周りに製関根のあるところ、居間、厨一房まである家で、これはいま残って
自白プランをつくりたかったんです。早くいえば、中心に暖炉があって、そ
寝室とか所員の部屋は外に出して、ようやく家ができました。これは円形で
柱が一二辺形をつくり、山中心に力になるファイアlプ レ ー ス を 置 き 、 自 分 の
辺形にしたら、ちょうど六尺ぐらいになってはまったものだから、一二本の
にできない。一一一六辺形にしちゃえと、三六にしたら障子がはまらない。一二
スタジオをつくりました。石造りでつくりたかったけれど、それだと開放的
それから、もう一つどうしても桜井沢に建てたくなって一九六二年に丸い
プをつくっていったというのが彼の歴史です。
こういうふうに自分の住宅、または自分の勝手にできるもので新しいタイ
といえます。特に'細部、つまりショップドローイングという施工闘は完全に
洋式と和式の並列である﹂といいました。﹁川崎邸﹂には並列に近い和室があ
内田さんが先ほどの分類で、﹁コンドルやヴォ l リ ズ は 、 型 に は ま っ た
レーモンドの和と洋の葛藤
l ソニアンから現代までいろいろな要素が全部ある、そういう家です。
ライトのタリアセンに行くと、非川市に大きな家だけれど、プレイリーからユ
三沢どうしてもやりたかったことを自分の家でやるのは、ライトも同じ。
片山それが時代性をとらえているということになった。
というのはすごく速いんですが:::。
設計して、戦後の﹁カニングハム邸﹂などに収赦していきます。その迫り方
子爵夫人別邸﹂で実験をしていますよね。非常に早い時期にそういうものを
う 話 が あ り ま し た 。 し か し 、 レ i モンドの作品の初期には和があって、﹁浜尾
片 山 内 閉 さ ん か ら ﹁ 和 と 洋 の 観 点 か ら は レ i モンドはとらえにくい﹂とい
つくり方の変侶と自邸
Bを 通 し て 、 ボ ル ト の 太 さ ま で 自 分 で 決 め ま す か ら 。
レl モ ン ド が 全 部 み て い ま す 。 奥 さ ん の も み て い ま す か ら 、 自 が 通 っ て い る
か、﹁引き予のほ、つがいい﹂とか、一言いますが、分担がありました。しかし、
戦後、五一年から麻布斧町の新しい家に住み、五七年にはどうしてももう
えたということです。日本にきてから帝国ホテルの﹁孔雀の間﹂の孔雀の原
沢
沢
外にないんです。
のです。それにお気づきだったわけですね。たった一つだけの例で、これ以
が使、つために和室が欲しいという希望があり、ああいう形で和室部分がある
り、古いタイプに属するという話が出ました。﹁川崎邸﹂では、オーナー自ら
所も、はずれのほうの庭番の部屋には北日の汽車使がついていて、私たちもそ
側 と は 完 全 に 違 う ス タ イ ル で 、 や っ て い ま し た 。 麻 布 奔 町 の レ l モンド事務
女 中 肝 の 便 所 が つ い て い ま す 。 こ れ は 和 風 で す 。 苦 か ら の や り 方 で オi ナi
つくれなかったようで、 四 畳 半 で す 。 女 中 部 屋 に は 患 を 敷 い て あ る 。 そ し て
戦後初めてつくった﹁スタンダード石油社宅﹂で、誤解を解かなければな
れを使っていました。そのようにオーナーの部分と使用人の部分は区別して
和館をつくるときのタイプとして、コンドルにしても、洋館が従で、もと
ら な い の は 、 女 中 部 屋 に コ ン ク リi トの柱が山山てきて驚くのですが、これは
内田彼が和室をどういうかたちで取り込むのかを調べたくて、平両岡山を追
も と 伝 統 的 な 生 活 の ほ う に べ l スがあって和館をつくるタイプから始まって、
戦 後 五 年 目 、 五O年 に で き あ が っ た 。 そ の 時 代 を お 考 え い た だ け れ ば わ か る
いたんですね。
徐々に洋館のほうに生活が移っていきます。そして最終的には、洋館の中に
のですが、実はあの家は、レl モンドがアメリカに行ったり米たりしていた
っていったんです。ないんです。出てきたのは川崎邸しかない。
取り込まれた和室というかたちで生きてくるプロセスがあるわけです。その
び機能的な部屋は横に付き出すわけで、そういうところに搬寄せがいったと
間八年を超えてすぐにできた家で、どう考えても日本の所員が考えた平面図
レl モ ン ド の 場 合 、 戦 前 期 に そ う い う あ た り を ど う 追 っ て い け る か を み た
考えられます。日本にしっかりしたモデユ│ルがありながら、この時期の建
過程で、和館が非常にいい廃敷空間として、離れとしてつくられる場合と、
のです。レi モ ン ド は ﹁ 二 重 生 活 と い う も の を ど う し て も 日 本 人 に は 認 め な
物だけはモデュ l ル に 従 っ て い な い 。 つ ま り 、 向 こ う の フ ィ ー ト で や っ た ら
で は あ り ま せ ん 。 ニ ュ ー ヨ ー ク の レi モ ン ド ・ ア ン ド ・ ラ ド 事 務 所 の 所 員 で
ければいけない﹂という文章を残しています。
少しあぶれて、それを平両国に合わせて建てちゃったという家なんです。モ
使用人の生活空間、つまり、王人とは明らかに違う生活ということで、つくら
三沢内田さんが、洋館、和館にこだわって長いこと調べておられることが
デュ i ルに従うと、日本の家のことですから、一二尺、六尺、九尺という寸法
あ っ た デi ビ ッ ド ・ レ ビ ッ ト が 、 非 常 に 才 の あ る 男 で 、 向 こ う で 関 商 を つ く
非 常 に よ く わ か る の で す が 、 私 は 凶 而 の う え で 、 不 思 議 な こ と を レ i モンド
が出てきて、それに合わせて柱が載る。﹁麻布努町の自邸﹂はそのコンクリi
れる場合があります。同じ﹁和風﹂といいながら、数寄屋の質の高い材料で
はやっているな、ぐらいの認識しかなくて、内田さんの本を読ませていただ
トの家の二年後にできているのですが、これはきちんとそデユ│ルにのって
っていたと思われます。日本の畳の使い方とか、そこに柱を立てるとかとい
いて、あらためて昔の図面をひっくり返してわかった部分が大変あります。
六尺ごとに柱が立っています。
つくった和風と、粗末な和風とがある。私の分類のしかたは非常に乱暴で、
そ れ は 、 レi モ ン ド が 初 期 に 洋 館 、 つ ま リ ラ イ ト の 家 み た い な の を つ く っ て
片 山 こ れ で 誤 解 が 解 け た わ け で す ね 。 レi モンドのか異文化との出会いと
うことは知らなくてつくった住宅で、芯外し││日本で戦前やっていたやり
いて、ああいうものには外側洋風、はめ板張り、小に古一(畦の同日敷きの女中部
葛 藤f
li-- ﹁葛藤﹂というところに期待してお話を聞いていたのですが、生
真壁・畳敷きかどうかという話にしてしまうと、結果としては、そういうも
屋がそっとくっついている。それから、中期に、初めて和風をつくってみた。
活スタイルはほとんど洋ですね。だから、それに和をデザイン的に、工法的
方を、レ l モ ン ド に い わ れ て 取 っ て 付 け た 。 そ の と き に 、 使 用 人 の 部 屋 お よ
しかし、門番の家は別にしたかった。メイドの部屋は小には入れたけれど、
に取り入れて、一つの空間に消化してきたというふうにとらえると、葛藤が
のが悶じレベルで出てきてしまうということがあります。
とりあえず置いた。このメイドの部屋というのが、大きな家でも六回阻までは
たみ一戸。二階はサッシュの折りたたみ戸。それは全部引き込むという不思議
いうけれど、その前に杉山さんが﹁浜尾邸﹂で障子を使っていたんですね。
な窓を輪入して使っているんですね。だから、大変無現をした家だというこ
べ!シックなレベルではなくて、わりとデザイン上の問題だなとだんだん思
戦後、外国人が日本にきて、どんな部屋でも美しい金兵のついた日本の箪
そこでは、レーモンドはやり方を知らないから、欄間も障子、下も障子、そ
笥を洋風に置いたり、おひつを宝石入れにしたりしました。それをわれわれ
とがわかります。しかし、レーモンドとしては、﹁初めて日本住宅をつくった﹂
えてきたのですが。
は 笑 っ た の で す が 、 レi モ ン ド は そ れ は や ら な か っ た 。 そ う い う 区 別 は つ い
と誇らかにいっているわけで、これは陣子だけではなくて、川区の部屋で暖炉
の外にガラス戸、そのまた縁側の向こうにガラス戸。しかも、洋間は折りた
ていて、しいていえば、ライトが自分の部屋に大変いい降風を、立てるので
がない洋風をつくった、これがれ本人の普通の住まいなんだ、そこに到達し
=一沢本人はずいぶん精神的な葛藤をしているつもりです(笑)。
は な く て 壁 に 張 っ て い ま し た が 、 そ れ は レ l モンドもやりました。それから、
古村さんは一九二八年の森から人っています。古村さんが実際に障子を入
たんだということ、それが一九二七年です。
ス な ん か よ り も 相 当 4ヂ が 入 っ て い た の だ ろ う と い う 気 は し ま す 。 自 分 で
れたのは﹁夏の家﹂の前後、一二二年ぐらいで、黒い近代住宅という横羽目板
床の間は自分で勝手につくっていました。そういう意味で、精神的にはモ│
は和風は生み出せないけれど、和風の気持ちに到達しようと努力した、これ
の家です。その前につくった日光の別荘では障子が入っていません。
書いていますし、そのへんはかなりカが入っている気がします。彼としては、
﹁建築として、一貨を最終的に変えるのは設備である﹂ということを吉村さんは
やはりレ l モ ン ド の 京 陶 の 結 果 だ ろ う と 思 う の で す 。 暖 炉 の 話 が あ り ま す が 、
内田古村さんは設備等に関して大変ご努力されていますね。ああいう両は、
は間違いないです。
レーモンドから育った弟子たち
(MIDI綜 合 設 計 研 究 所 ) 建 築 家 と し て の レl モ ン ド に は も う 一 つ
大 事 な 面 が あ っ た の で は な い か と 思 い ま す 。 そ れ は 教 育 者 と し て の レi モン
われわれは日本の住宅は開放的であるということで、開くとか閉じるとい
単なるデザインの問題ではなく、住まい方の問題としての設備面という意味
そこまで到達したことは、ご自身で日本建築を非常に研究されたということ
う話だけで終わってしまうのですが、それだけではないかたちでしっかり押
ド で す 。 レ i モンド事務所には、前川国男さん、吉村額三さん、一一一沢さんを
と、レ l モ ン ド 事 務 所 で 合 理 性 の 洗 礼 を 受 け た こ と が 非 常 に 大 き か っ た の で
さえていたということが、吉村さんが質の高い住まいへ到達した一つの理由
で、日にみえない合理性をかなりしつこく教、えられたのだろうと思います。
はないかと思います。その評価を内田さんがどういうふうにされるかという
稲葉(東京芸大大学院)日本に長く住みついた建築家として、
レl モンドが日本に住みついた理由
だろうと思っています。
所に障子を持ち込んだのは僕だよ﹂と。しかし﹁浜尾邸﹂が二七年ですから、
はあったことはあったのだけれども、ある程度完成した使い方をしたのは吉
は特異だと思うのですが、何にそんなに惹かれて日本に住みついたのか。仕
吉村さんが入る以前ですね。あの隙子の使い方は非常に稚拙ですから、障子
村さんだという意味に受けとめているのですが、その点は三沢さんにお聞き
きて仕事を精力的にこなすわけで、日本の哲学、文化、スタイルになぜそこ
事があったということは第一にあると思うのですが、戦後また日本に戻って
私ははっきりそう思っています。士川村さんが﹁自分が持ち込んだ﹂と
したい。
レl モンド
こ と 。 そ し て 古 村 さ ん が わ れ わ れ に よ く お っ し ゃ っ た の は 、 ﹁ レl モ ン ド 事 務
はじめ、たくさんの優秀な建築家が集まっていました。吉村さんの作品があ
上
沢
のモニュメンタルな耐震建築であるとすれば、それを手伝ったエンジニアは
した星尚業学校も、東京女子大学も残った。つまり、帝国ホテルかライト
仕事が始められて、二年日の関東大震災で帝国ホテルは残った。自分が設計
非 常 に 速 の い い 人 で 、 帝 国 ホ テ ル に き て す ぐ ヴ ォl リズの人と一緒になって
一一一沢答えは非常に簡単です。おっしゃるように、 仕事があったからです。
まで惹かれたのか。
けれど内山探一二という優秀な人がいた。杉山雅則さんは一から一 O ま で 全 部
ツクでいい人が入っている。﹁震南坂の家﹂のときには、若くして亡くなった
はないが、教青山本のような立場をもっていました。だから、流れ流れのエポ
三沢先ほどの一二上さんの話に一民りますが、レ│モンドは教鞭をとったこと
片山答えにオチがつきました。
命に遭ってみたいと撲は忠うんです(笑)。
すか。そう一一員ってしまっては自分の師匠に申しわけないのですが、あんな運
コ ル ビ ュ ジ エ の と こ ろ か ら ま た 一 人 や っ て き た 。 ベ レ l のところからもやっ
手伝っている。吉村さん、コルビュジエのところから帰った前川さんがきた。
レ!モンドですから、やっぱり最新の耐震建築技術者ですよ。そこで仕事が
レi モ ン ド の い た 三 菱 仲 二 百 万 館 に は 日 本 貿 易 会 社 が あ っ て 、 ナ
て き た 。 こ う い う 人 を チl フ に 使 っ て 、 う ま く 育 て な が ら 、 自 分 が ペ レi を
ア メ リ カ 陸 軍 、 海 軍 、 空 軍 に 一 生 懸 命 尽 く し て 、 一 0年 間 や っ て 、 戦 後 、 沖
気がしますね。そのへんはぜひ一二沢先生にやっていただければ・:・。
弟 子 さ ん の ルi ツ を も う 少 し 整 理 す る と 、 多 少 き れ い に 区 分 け で き る よ う な
レi モ ン ド は い ろ い ろ な 作 風 が あ り す ぎ て わ か ら な い と い う の は 、 お
エポックをつくった人です。
そのあとに、岡本附とか、増沢均という人がいました。増沢さんは非常に
ショナル・キャッシュレジスターの社長がいたのです。その人が束京ゴルフ
アメリカではアメリカ人になったのです。アメリカで軍隊の仕事をやってい
縄の仕事、韓国の仕事をもって日本にやってきたんです。当時の波弊した状
三沢それは私の仕事じゃない(笑)。私はありのままに書き立てて、資料を
た。もう日本には帰ってこられないと考えれば、アメリカで食べていく以上、
態では、日本はアメリカに物資を頼まなければならなかったし、アメリカの
O年とんで四四年間日本にいたわけで、その長い日本滞在では、われわれ
一
うになって、ミッション系の学校から南山大学につながったんです。戦争中
です。昔のミッションの学校が残っているから、いい教会が続けてできるよ
モ ン ド に 頼 む よ う に な り ま し た 。 そ れ が な く な っ た 六O 年 以 降 は ミ ッ シ ョ ン
ころがそのころになると、ヤマハ、八幡をはじめ、日本の大企業が次々レi
もそうです。五五年になるとアメリカ資本は。はったりだめになっている。と
っ た ア メ リ カ 資 本 の た め に 尽 く し た の が 五O 年 。 リi ダi ズ・、ダイジェスト
後に修正して、第三の無装飾というのは、ライトが出てきて装飾を加えたか
これは一九三二年ですから、まさに﹁夏の家﹂のころです。ところが二五年
ルが国際様式には必要である。三番目には、無装飾﹂といっていたんです。
れが新しい⋮つのボリューム。第二は、規則川性があるということ。モデュ l
ボリュームがあるということ。これはいままでの量感、石の塊とは違う。こ
スタイル)は一二つの原理がある。ガラスで仕切ろうが何であろうが、空間の
ん 。 と こ ろ が 、 へ ン リl ・ヒッチコックが﹁国際様式(インターナショナル・
た﹂というのは、日ではサラリといえますが、なかなか具体的にわかりませ
一言、一三一口い足りなかったことがあります。﹁日本にモダニズムの原理があっ
が非常に苦しんでいた波のなかで、いちばんいいところにいたのではないで
同時に、石油会社がいちばん儲け、次に映画会社、それから銀行、こうい
研究者にあげるほうですから。
田
占領軍のために、教会とか、司令官の家、座間の総司令部をつくりました。
内
それで、三七年に支那事変が始まったときにアメリカに帰ってしまって、
吸収し、コルビュジエを股収し、近代建築を前川さんから吸収しちゃったの
も
クラブ、東京テニスクラフなどを紹介して、そこにいる日本のトップクラス
か
がレ l モンドでした。
き
の子前、男爵たちが印刷介されたのです。そういうことが仕事のもとです。
した
そのころ日本は何をやっていたかというと、白い箱を洋風にして、臼い近
しかし、いま日本で仕事をしている海外の建築家たちをみると、得るものが
る。しかも、日本という呉文化からさまざまな情報を股収できる毘であった。
ある意味で﹁神秘の悶﹂だった。それなりに仕事も得られるし、大事にされ
そのへんについてお話しいただければと思います。
代 建 築 を つ く っ て い た 。 そ れ に 対 し て レ l モンドは、﹁違う。日本には昔から
ら、構造によって一つのデザインが表現できるような、構造の分節化を加、え
近代の原攻があった。似ているから原理になるわけではなくて:・:﹂といっ
あるというのは、仕事があるという意味のことで、はたして日本にどういう
内包確かに、かつては、レーモンドに代表されるようなかたちで、日本は、
ている。先ほど内閉さんがおっしゃった、構造が出ていることや、リビング・
魅力をもっているのか。自分の母国ではできないことが日本ではできちゃう、
たわけです。その一二つになったわけですね。
ダイニングだったり、日本の康敷みたいに突き抜ける内外空間の自由、内部
レl モンドは、 日 本 の 文 化 を す ご く 大 事 に し て 、 日 本 の 建 築 の 精 神 性 を ど
日本のなかではなんでもオーケーというような価倣観をもっているような気
早くいえば、ダグウッドの漫画にあったように、アメリカの文化の象徴でも
ういうかたちで民閉したらいいかという一つの方法を提訴してくれていると
空間の臼由。モデュ l ル ・ シ ス テ ム と か 、 方 位 と か 、 あ る い は 非 常 に 融 通 の
あった。どこから入っても構わない、庭にもすぐ出られる、入るとリビング・
がするのです。
、ダイニングで、そこが客聞になったりする。寝室はドアをつけておけばいい。
逆にいうと、日本がいろいろなかたちの実験場になってしまって、ひょっ
思います。そういう処築家が、はたしてこれから本当に出てくるのかどうか。
ある部屋の使い方(戦後になると、﹁食寝分離﹂がいわれましたがてこれは、
そういう融通のある使い方が魅力だったわけで、ご﹂ういうことは近代建築と
先ほど三沢さんのお話で、レ l モンドは施主がいろいろなことをいったと
としたらわれわれは粗大ゴミをいっぱい抱えるような:::。こんなことをい
レ!モンドは、それに対して、﹁そういう表現のことではない﹂と。精神性
きには、臼分の好きなことができなかったと、そういう見識を当時の施、支は
同じじゃないか﹂といわれて、レ l モンド・スタイルをつくってきた私たち
であって、日本の建築の原理がそういうものをもっている。﹁人生と自然との
もっていた。いまどこまでそれが施主にあるか。﹁葛藤﹂ということはもうな
うと、怒られちゃいますね(笑)。そういう危険性があるのかもしれない。
融和であるとか、自然を抱き込んだような庭であるとか、地震や台風に対し
くなってきているという気がしますね。
がいるわけです。
ても物おじしない、西洋式に閉ざさないような生活、季節感、こういったも
れて、物理的な相互貫入とか、そんなことをいっても困る﹂ということはは
考えですか。
片山三沢さんは、これから呉文化との出会いはどういうふうになると、お
いうなかで、建築家が葛藤できる国にしたいと思っています。
建築というのはやはり地域性に根ざすものだと、私は思っています。そう
っきり何度も何度も戦後繰り返して言っていました。われわれはつくる立場
のが底辺にあって、哲学になっているんだ﹂と、こういうのです。﹁それを忘
にいたものですから、そうやればなんとかなるだろうと思っていました。
三沢これから考えていかなければならないことになりますね。もう粗大ゴ
片山いまでも外国人の建築家がおおぜい日本に来て仕事をしています。一
しれない。だから、フランプトンが一一一一口い始めた批判的地域主義ということが
る。わが同胞も海外にいって、ひょっとすると粗大ゴミをつくっているかも
ミができ始めていますからね。富山あたりにいくと、粗大ゴミが十幾つかあ
方、インターネットなどにより情報が一元化して、多様に広がっています。
も う 少 し 理 解 さ れ な け れ ば い け な い し 、 も と も と レi モ ン ド は そ れ を 言 っ て
異文化と仕事、これから
そういう時代を迎えて、これから建築家はどういう仕事の仕方をしていくか、
す。レ l モ ン ド は 近 代 建 築 と い っ て い る け れ ど も 、 違 う こ と を し ゃ べ っ て い
いるのですが、私がそれに気がついたのは、群馬音楽センターのころなんで
た。内側からみた建、王に対するサ!ビスはすごかった。私がそれに気がつい
に住むべきだ﹂という観念ですね。これは吾川南坂の家﹂からもっていまし
ってきたのですが、﹁夏の家﹂でわかったことは、﹁建て主は眺めのいいほう
音 楽 堂 の 娃 設 費 は 、 市 民 が 三 億 円 の う ち の 一 能 五000万 円 を 町 内 会 費 を 倍
といういわくまでつきました。全体は一二枚の完全な折れ版構造です。この
習ができなくなって、最近レ i モンド事務所が哀のほうに練習所をつくった
ます。群馬交響楽団の根拠地ですが、市民がたくさん使うために、普段の練
り、一冗のデザインのまま修復したということで現在はそれで有名になってい
った時の三億円を超える八億円をかけて修理して、しかも、市民の言うとお
スリッパ履きですからね。そういうふうに僕は考えています。
ね。まだ日本人の住まい方はそんなに岡洋流になっていないですよ。靴脱ぎ、
一一一沢そうでなくてもいいですが、日本人の住まい方を研究してほしいです
ら な い た め に は 、 逆 に レi モ ン ド を 勉 強 せ い 、 と い う こ と で す ね 。
片山そうすると、半分冗談ですけれども、外国人が日本で粗大ゴミをつく
つまりそれが日本にあったということです。
人であったということと、外国人がどうしてこんなことを考えていたのか、
たたなければそれがわからなかったわけです。こういうことを考えるような
た の は 、 や っ ぱ り 群 馬 音 楽 セ ン タ ー で す 。 レ l モンド事務所に勤めて一 O 年
るなと。
に し て 寄 付 し ま し た 。 レ i モンドは大変感激して、﹁この建物は冷財、つまり
片山
群 馬 音 楽 セ ン タ ー は 高 崎 に あ っ て 、 竣 工 三O年自にあたる八年前に、
寄付金で建てる建物だから、絶対によけいなことをやっちゃだめだ﹂と。私
ます。 どうもありがとうございました。
h
及び
三沢さんの本音が山山たところで、今日の結論にして終わりたいと思い
たちは賀沢な材料だとか、非経済的なことをしないことだと思ったのですが、
印頁の写真及び図版は、
6頁 lm
アン卜ニン・レ│モンド作品集
もアントニン・レi モ ン ド 自 伝 じ よ り 転 載 。
写真一 1
8 群馬音楽センター(1 958~61 年)
二 セ ン チ の 厚 み の 上 に 防 水 剤 を か け た だ け 。 い き な り ホi ルになるわけで、
外のな悶も間こえたりして、欠点はあります。しかし、とにかく無駄は一つも
ない。﹁絶対に二階をつくってはいけない。舞台と客席は一体で、どっちにい
ても一体感のあるものにするのが民主主義である﹂といってわれわれに設計
させたのです(写真i 認
)
。
舞台上部を普通のホールのように高くしていくと、この環境に対して申し
訳ないとレi モンドは考えた。ここは城跡ですから、﹁松の本より高くするな﹂
といってフライタワーをやめさせた。そのおかげをこうむって、金目き剖りは
全部横に入っていくようになりました。つまり、いままでの機能一本やりの
近代建築に加えて、いろいろ環境に対する配慮をするということがレ│モン
ドの考え方の基礎にありました。これが近代建築の考え方とはまったく違う
ことです。
それから、戦後、住宅をやりながら非常に考えさせられたことは、山中から
みて﹁いい景色﹂がみえること。これを彼はずっと﹁庭とのつながり﹂とい
i
UlI':のためにつくること、環境への配慮を一若干に与一えていた。
彼は﹁長もちをさせて、市民が末永く使えること﹂と思っていたのです。一
コ
ー
で設計をもめる
特集@フォリナiズ に よ る 住 宅 設 計 ; 異 文 化 と の 葛 藤
今も異文化の
う化
もを
の
持
ω っ
めお
にり
たて
設‘
計す
~又
そ玄
2遂
九O 年 に 米 日 し て 以 米 、 不 適 当 に 外 国 人 を 受 け 入 れ な い 職 業 も 日 に し て き た
ツコ、ウi ア に つ い て よ く 知 っ て い る が 、 他 の 人 ( た ち ) は こ の 言 葉 が 何 を 意
米 日 す る 前 、 私 は ロ ン ド ン で 、 ぽ 問 介 で 最 長 の 探 史 を 持 つ 建 築 学 校 の A Aス
味するかわからないだろう。
ク ー ル で 一 四 年 間 ユ ニ ッ ト マ ス タiを務めていた。 A Aスクi ルの教授、生
徒は此界中のほとんどの国から集まっていた。授業は英語で行なわれプロジ
ェクトの敷地はたいてい英国内に設定されたが、しかしこれは、英国の文化
環境内のみで通用するデザイン教育を意味する訳ではない。この学校の教育
目的は、学生に、彼らの設計する建築を通して考えることを促し、どう表現
できるか教えることだった。設計課題は世界的な視野の問題を提起したので、
ののために設計しているということも事実である。国籍はその人の知党や性
々介入出有の文化を持っており、すべての建築家は常に自身の文化とは違うも
M分 と 違 う 文 化 の 国 の た め に 設 計 し た が 、 人 間 は
ているともい、える。彼らはL
力を及ぼしている。
本においても、教育者として、 A Aス ク ー ル 卒 業 生 は ま す ま す 重 要 か つ 影 響
は、例、えばシンガポールやマレーシアについては特にそう言える。また、日
り、また彼の地の建築の進展に意義のある貢献をしている。アジアにおいて
国 に 帰 っ て か ら も 多 く のA Aス ク ー ル 卒 業 生 は 故 国 の 建 築 界 の リ ー ダ ! と な
絡を定義するただつの物差しではなく、またいかに日本が一つの人種で成
く 、 磯 崎 新 や 中 国 生 ま れ の I ・M- ペ イ の 作 品 が ア メ リ カ の 建 築 界 を 刺 激 し
山な思想の流入が日本の建築界を刺激したことには騒いがない。これと同じ
アルド・ロッシなどによるものは同列に扱えないかもしれないが、依田介の白
果 と し て こ の 地 に 生 み 出 し た と い え る 。 近 年 の 、 ピl タi ・アイゼンマンや
ク ・ ロ イ ド ・ ラ イ ト や ル ・ コ ル ビ ュ ジ エ 、 フ ルl ノ ・ タ ウ ト な ど の 建 築 を 結
ある怠昧で、この日本建築界の開欣性が、幾人かの偉大な建築家、フラン
活動できる。これは、日本が世界の建築界の完八上な一員だということだろう。
は、日本人建築家が海外で仕事をするのと同じく、日本国内において自由に
が、建築分野は今のところ退行する法律の枠から免れている。外国人建築家
や 態 度 を 持 つ 。 例 え ば 、 こ の 文 章 を 読 ん で い る 何 人 か は ボ ニ l ・ピンク、コ
は違うライフスタイルを、形作るかもしれない。年配者は若者とは違う文化
数の文化が日本の中にあるといえる。学厩の差は違う文化背景を、貧富の差
り立っていようとも、多分彼らは﹁レプリカント﹂ではないだろうから、無
施主や地域の夢を汲み取り、 時や場所を理解すること lil
建築家の国籍がどこであろうと、 それがよい建築の基礎である。
トム@ヘネガン
違文
これまでに多くの人により日本の閉鎖社会について述べられ、また、
の築
だ家
)L
は人
常は
に誰
自で
身も
の各
文人
化屈
と有
はの
のひとりとして認められている。小沢征爾はドイツ音楽を演奏するアメリカ
を担当し、 カ ズ オ ・ イ シ グ ロ は 長 崎 で 生 ま れ 現 在 は 英 語 圏 の す ば ら し い 作 家
は中国とチュニジアを舞台にした映耐の音楽
各国の芸術は世界的に収赦しつつあり、 そ の 源 泉 を た ど る こ と が 容 易 で は
つくりだしたのである。
彼はこのこつの空間を、彼自身の文化からかなり違うクライアントのために
空間であるが、彼自身に言わせると、個人的には無宗教だということである。
つの明らかな例が挙げられる。これは安藤忠雄によるすばらしい豊かな宗教
おいては、茨城の﹁光の教会﹂と淡路島にある﹁真言宗本福寺水御堂﹂のご
なくなってきている。坂本能
のオーケストラを指揮し、ローリングストーンズはアメリカ黒人音楽に影響
築においては建物は特定の場所に関係するし、するべきである。ライフスタ
これらの芸術が建築と呉なる点は、特定の場所に依存しないところだ。建
ファッションや絵画彫刻、音楽文学、ダンスの国籍は実際関係ないといえる。
灰から建物と牛を保護する目的をもっていた。同時に、建築家の一ニ上祐三が
たからだろう。ここは日本であり、日本の暑さと活火山である阿蘇山の火山
応は、建物のデザインが特徴ある敷地から宜に影響を、つけて決められていっ
人はこの建物をヨーロッパの建築だと感じるところだ。私が思うに、この反
人が見るとき、彼らはこの建物が日本建築の特徴を持っていると感じ、日本
私が面白いと思うのは、私が設計した熊本の草地表産研究所をヨーロッパ
イル、気候の点からも各地域の建築は違ってしかるべきである。アジアにお
指 摘 し て い る よ う に 、 こ の 敷 地 が 、 ス コ ッ ト ラ ン ド の ヒ l スが茂る不毛な荒
を 受 け た 白 人 英 国 人 だ が 東 京 ドi ムでのコンサートを満席にする。これら、
いて北欧や北米風の建築を建てるのはまったく不合理だと思うが、多くの建
た結果、建物はそのような国籍のはっきりしない印象を持つようになった。
地によく似ていることも事実なのだ。気候と、敷地の性格に沿って計画され
築家しかもアジアで生まれた彼らが、そうしているのである。
敷地のもつ ﹁独自の文化﹂ を読む
(QEg一月柱。円高}25)
なのは、森の環境と傾斜する丘に整合性をもって建てられた方法であり、施
だたら﹂についても、建築の国籍を話題にするのは適さない。おいても重要
ま た 、 七 月 に 完 成 し た 福 島 県 の オlトキャンプ場﹁フォレストパ l ク・あ
の中で述べているが、一九二O年、三0年 代 の ヨ ー ロ ッ パ の 近 代 建 築 は 、 文
設を利用する人が豊かな自然環境を経験できる仕立てだと思う。私は、敷地
ケネス・フランプトンが評論﹁地域主義建築﹂
字どおり﹁国際様式﹂として輸出された訳ではなかった。名前は便利なレー
これは建築デザインの成否を決めることなのではないかと私は確信している。
いかえれば、特定の場所の﹁文化﹂に調和させようとしたといえる。そして
例えば公共住宅や病説、劇場などを設計するとき、建築家はたいてい最終的
の性格を解釈しようと努め、その環境と調和する建物をつくろうとした。言
このプロジェクトをデザインする過程で、コルビュジヱは、新しい独立国家
た。このことは、コルビュジエのインドにおける一連の仕事で理解できる。
な使い手を知る由がないが、敷地について知り、新しい建物を周囲にどう関
ベルであっただけだ。それは、﹁国際的な手法﹂となるべきもので、建物の
の夢を理解し、分析し、シャンディガールにおいて実現する必要があった。
係づけるべきかを理解できる。建築家は、最終的な住まい手の﹁独自の文化﹂
性格はその地の気候や文化、地元建設業者の技術などに適応すべきものだっ
同様に、フランスに帰ってもサボワ家の夢や、ロンシャンの神父の祈りを埋
にデザインを関連、つけることはできなくても、敷地の﹁独自の文化﹂を常に
念頭に置くべきである。
解しなければならなかった。
クライアントの夢を理解し、地収し、時には誘導することが、建築家にとっ
て必要な能力である。これは多分、役者が、脚本の上につくり出されたまっ
たく実在しない人物の役栴を理解し、描写するのに似ているだろう。日本に
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外縦
外観
'í,;;rlnf~(アクソノメトリック
@フォレストパーク・あだたら
外観
@熊本県草地畜産研究所
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万:t[.1}t l1~ :村井目、 iû( 悩五!iHtfj-:: 約五~ï .trl 郊)
けではあり得ないだろう。建築は、何十年間も、より物理的に長持ちし、様
式として古びないものになる必要がでてくるだろう。これが結果としてコン
の 建 築 家 と コ ラ ボ レl 卜 す る よ う 促 し な が ら 町 や 村 に 顔 と な る 建 築 物 を 設 計
において、﹁まちのかおプロジェクト﹂を予掛け、海外建築家を招き、地元
る﹂ことがたやすいのではないかと指摘したことがある。これは、彼が富山県
磯崎新は、地一冗の人に比べ他所からきた者のほうが、時に、場所を﹁感じ
中に設置するすばらしい成功を収めた。また、安藤忠雄がイタリアで手掛け
地が持つ性格(ゲニウス・ロキ)に対し、完全な整合性をもって建物を町の
はスペインのラ・コルl ニャ人間科学館で、岩盤の上にあり大洋に聞ける敷
をはらう。これは﹁まれぴと﹂の眼を彼が持っているからか、磯崎新は例え
確かに、海外で仕事をする時、日本人建築家はコンテクストに非常に注意
﹁まれ、びと﹂の場所を捉える眼
していった中での言葉だ。隣崎は、このアイデアを日本の﹁まれぴと﹂から
た ベ ネ ト ン ・ アlト ス ク ー ル も 同 じ く 、 一 七 世 紀 の 貴 族 邸 宅 の 増 改 築 に お い
テクストを考える態度を変えていくだろう。
得たという。﹁むら﹂に外からやってくる別種の人聞が急激に影響を与え、
て成功している。
﹁建築家﹂の役割りの日英の違いについて
村を活性化する。時に日本を流れ歩く芸能集団などが﹁まれぴと﹂の役割を
果たし、村人は他者の新鮮な目を通して自己を理解することを学んだ。この
富山の試みと、七人の淘外建築家による十四の建築物の成功は、このプロジ
ェクトとクライアントである中沖富山県知事が一九九五年に日本建築学会賞
うと思う。私はこの八年問、日本に住みいくつかの公共建築、市博物館、県
てこの文章を綴ってきたが、現場ではどうなのか日本の建築家として触れよ
ここまで私は、故国の文化と違う環境で仕事をしている外国人建築家とし
全体的に、この富山のプロジェクトの建築は、個々の土地に対する思慮深
の保養施設、子どものためのバンガローなどを設計してきた。仕事の進め方
特別立を受合一したことに見てとれる。
くかっ注意深い解釈により生まれたものだといえる。そしてこれは、西洋の
英国の建築事務所はよりコンピューターを導入して設計を進めているとこ
建築教育の基礎となる部分で、建築の環境を捉えることに重きをおいている
ろが多いようだが、設計書はより簡潔だと思う。例えば、トイレの図面⋮っ
は日本もイギリスも似ているが、実際のところ、⋮番の大きな違いは、日本
パの都市のように一貫した歴史的・社会的環境をもたないことにも一悶があ
とっても、英国では位置とサイズが一不されるだけだが、日本ではトイレの紙
結果ではないだろうか。日本の大学では、デザインのコンテクストについ
るだろう。しかし、京都のような長い歴史を持つ町や、日本のいたるところ
ホルダーの釘位置まで注意深く描かれる。もちろん、コンピューターによっ
での建築家へ支払われる設計料がかなり低いというところだ!
にある古い村は、一貫した環境と他とは違う性格を確かに持っているのだ。
てあまり時間を無駄にしないでやれるが、私は、建設業者がそのようなピク
て 、 頻 繁 に 議 論 さ れ て い な い よ う に 感 じ る 。 こ れ は 日 本 の 都 市 が 、 ヨi ロツ
近年の日本都市の混沌とした様は、コンテクストを重要なものだと捉える訓
監埋の商では、日本と英国では一長一短で、どちらが良いとは言い切れな
チャレスクな図面が必要なのか、今だ完全に理解してはいない。
現在の完全な景気後退は今後数年は続くだろう。このため、建築は、バブ
い。たとえば、イギリスの建設業者は、建築家が仕掠書に明記した通りに建
と思われる。
ル期のようには﹁使い捨て﹂ではなくなるだろうし、これは好転している新
てるのに疑問をはさまない。これは将来問題が起こった場合に責任を持つの
練を受けなかった一部の建築家やプランナーによってつくり出されたものだ
しい態度だといえる。たぶんもう建築は、一時的な形の流行を追い求めるだ
巧
ペ
n
ud
するので、建築家のほとんどは保険を払っていないだろう。しかし建設業者
保険金を支払っているからだ。日本の建設業者はよく無償で問題簡所を修理
は建築家であり、それゆえ建築家は、法的解決になった場合に備えて多額の
げることはまだ
るためにヨーロッパ政府は市い断熱性を要求するが、 日 本 で は 断 熱 性 能 を あ
で使えない。 例えば安怖の一向断熱 一重サッシなどだ。 エネルギー消費を抑え
銅の質感は英国が良いと思う。 また、 私 が 使 い た い 幾 つ か の 素 材 は 日 本 国 内
要があるのだ。これは時に、以前に経験があるという理由だけで施工方法を
建築法規の複雑さに煩わされているのではと、友人たちは同情してくれるが、
これらは実際的な相違点だが、山間難な問題ではない。そして、私が臼本の
放的な問題になっていないようだ。
が施工の支任をもっ故に、彼等にとってはディテールや素材の管理をする必
変えることが起きる。保守的な建設業者の安易な変更によって、どれだけ設
こ れ も 実 の と こ ろ 大 き な 問 題 で は な い 。 法 規 は 従 う べ き ﹁ ゲl ムのルール﹂
建築費概算のコンサルタント、パース尚家などに建築家が支払っており、彼
額的には日本の方が多く見える。しかし日本では、構造設計家、設備設計家、
計料の割合はほぼ同じだが、日本の建設費は英国よりもずっと高いので、金
そして私を合め日本の建築家は、純、hや 地 域 の 夢 を 汲 み 取 り 、 時 や 場 所 を 埋
だ。彼等と間じ時代に同じ場所で仕事を続けていることは刺激あることだ。
芸術の歴史を持ち、また現此代の日本建築家の多くは世界でも有数な芸術家
そしてなにより、私は日本で働くことに刺激を受けている。この間は長い
英閣の法規の中にも、とても複雑で非論現的なものもある。
のようなものだ。もっとも、誌をかしげる法規もあることは認める。同様に、
計意図が曲げられるか理解するのは簡単だろう。
日本の建築家にとってより重大なのは、仕事が終わった時に手元に残る利
自身への実際の設計料は少ない。英国では、これらのコンサルタントとは施
解することに今後も努力していくだろう。そしてこれは、いつどこでもまた
益が少ないということではないだろうか。日本も英国も、建設費における設
主が直接契約をかわすので、建築家は設計料すべてを使って、より多くの時
・ファクトリi、ド下)
建築家の国籍にかかわらず、よい建築の基礎となることだろう。(文中敬称略)
A
。
1
1こ
プ
一
一
h
トム・ヘネガン
九五,年、ロンドン生まれ。AAスクール(ロンドン)学業後、建
築山川治ぷ川事務所オ!ブ・アラソフ、及びアリッソン+ヒ!タ iスミソソン建築計務所に効務、一九八五年、ロンドンで事務所設立。
この問、会九じ ハ1八九午、AAスクール枚目以を務めたほか、多く
の大山戸に議耐として桁かれる O 会九九三年、アーキテクチャ l ・フ
ァクトヮーを氷点に設な、山叫伐にでる。仁学院大山子役築学科川村別ぃ山中
。
任教 MM
主な作品は、本 EJ小
A 川向伎のもの以外に、治川市はまなす公川附日出叫しム口、
JA以川川町川崎湖畔のゑ!バンガロー、治川市ほたるいかミュ i ジアム
2
J
C
ヨロ 2話相川}gHM/往 築 家 、 アi キ テ ク チ ャ l
間をデザインそのものを考えることに費やせる。
そのほか著しい違いは、コストコンサルタントの役割である。先に述べた
ように英国では施主に直接一履われ、また、彼の仕事は常に建築家にアドバイ
スを与え、デザインや図面の進展を監視することなので、最終的に建設費は
予算内におさまる。建設中には、建設業者が質の良い仕事をしているか、ま
た彼が買った素材が適所に正しい量で使われているかなどを監理する。これ
は訓練を受け経験をもった者にだけやりとげられる複雑な職穂である。一方、
日本ではこの仕事を建築家が行なう。建築家はある程度予算を治められるが、
しかし、この複雑な仕事に毎日専念できるコストコンサルタントにはなり得
ない。日本のコストコンサルタントが図面を初めて見るのは、たいてい、設
計が出来上がって施、王に認められた後だ。したがって建築家が最後に広訴す
るのは、建設費の大きな問題だということが頗繁におこる。
現場での仕事は似ているが建設日程はこちらのほうが短い。日本の現場の
ほうが友好的だ。コンクリートの買は日本が優れ、デザイン材料としての欽
特 集 ⑧ フ ォ リ ナiズ に よ る 住 宅 設 計 異 文 化 と の 葛 藤
m
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111
島本人の発想より日本的だったスティーブン@ホールの構想
幕張ベイタウンの設計から
﹁奥の締道﹂
幸四
したものでなく大規模な住居集合体とすべきこと。そしてその形式は中庭を
囲む形で住棟を配置する閉鎖型配置の集合住宅であること。これがその基本
アムステルダムは、幕張の住宅地を計闘するにあたって、われわれ計画や設
的な日一同格であった。
ない。情報ビットの加速や資本の渦がそうさせているのであって、磯崎新
ていくのだから、いまさら街区だ景観だと言ってみたところでどうしょうも
変わることもなく、あちこちに異形異様な物体がところ狭しと場所を占拠し
都市建築などと言ってみたところで、わが国では震災が起きてもたいして
もさることながら、焦点となる場にモニュメンタルな建築を配するなど、当
呼 ば れ るM- 一プ・クラi ク の 建 築 だ が 、 そ こ に は 、 巨 大 な も の の 分 節 の 技 術
節し、精鍛なディテールを付加しているのが、後に﹁アムステル、ダム派﹂と
な広場を囲む形式が特徴になっている。巨大なスケールを巧みな手捌きで分
係が新世紀で変わったわけではなく、街豆自体が不定形にくねりながら大き
一九世紀と今世紀初頭の集合住宅が併存している地症では、街区と建築の関
計に関連した人たちが改めて確認させられることになった街である。この構
さん流に言えば、都市はますます消えていく存在になりつつあるのかもしれ
時カミロ・ジッテが提唱していた閉鎖性の美学が色濃く投影されているのも、
幕張で試みている都市建築の配置論から触れさせていただきたい。彼とは、
ない。そんななかで集合住宅をつくる機会は、マンションという消費文化に
関心を呼ぶ一因となっている。幕張での住棟の分節方法や、均質になりがち
想を最初に実施したのはアムステルダム中央駅の北開港湾地置にある。この
巻き込まれていくか、出口のなさそうなコーポラティブハウスの気の速くな
な街を救済する景観先導施設といった概念は、このあたりから得られたもの
藍の地としての役割を果たすことになる。
ではなかったか。この街はその後、高層住宅を生み出すまで、近代建築の遥
るようなつき合いにしか見出されそうにないのだが、それはそれで、環境と
都市という織物を形成する中心的要素として住宅を据えること。住宅は独立
H ・P-ベルラi への唱えた都市住宅の原像にひどく似ている。まず第一に、
考えてみれば、幕張の住宅地で画いた描像は、今世紀の初頭、オランダで
呼べそうな広がりのある住宅地の事業化を企画してみるならまた別だ。
日本の都市建築や沿道性などについて、冒頭話題にした記憶があるからだ。
うのが﹁異文化との葛藤﹂という編集の、王旨らしいのだが、それに関連して、
私が幕張新都心住宅で一緒したスティーブン・ホールとのやりとりを、とい
幕張住宅地の目論み
曽
根
らの住宅の個々が財産であり、ならば沿道あるいは抜道は、その権利に通ず
の住一戸は階段室を介してブロックごとに積層するタイプだが、なかには一一一、
係 に 対 す る こ だ わ り の 経 緯 が 見 て 取 れ る 。 ベ ル ラi へによる南部地誌の多く
ところで、 アムステルダムの集合住宅地をみて歩くと、住一戸と道路との関
P二 部 の 建 て 啓 え で は 済 ま な く な る 。 オi ル・オワ・ナッシングの果てしな
で は な い 。 し か し こ れ を 建 て 替 え る と い う 場 面 で は ど う な る か 、 通 り に 面L
家にたどり着くのが当たり前である。それでも私権に不都令が生じている訳
に道路から離れ、宅地内道路をたどり、さらに空中歩廊を棋滑りしてわが
るものだという観点があるからだ。今日、多くの団地は、官公共性の名のもと
四階から細い階段で直接玄関に降りてくる家がかなりある。ちょうど胎児の
い議論の末の同意で、果たしてサステイナブルな配置形式といえるのかどう
沿道性という概念
腕の緒のように道路に接しているから六軒、八軒といった住戸の玄関が地上
カ
が国特有のものであることだけは確かである。さらにわが国に街区という概
ともかく空中高くに庖があったり、高層の飲み屋ビルなどがあるのは、わ
に集中する。伝統的な街路の重みを尊重し、道路に接することが都市建築に
とっては命に近いものだという観念が、長い際史のなかで育まれてきたのだ
ろう。接、道に対する価値観が、わが国とはまるで異なっている。
この遠因は、わが国の都市の大半が街毘型ではなく、開辺に大きくマ i ジ
念が希薄であることは、近代建築の唱導とも合致し、何でもありでこの上な
ナルな空間をもっ農村の宅地ユニット、いわゆる屋敷型から出発したことに
ここから、近代建築が提唱する自由な艶涯に主る経緯をみてみると面臼い。
みるみる進行し、平行配置や高層では、住一戸と道路との関係は宅地内の細道
も由来している。アジア特有の空間ともいうべきか。この落差の認識が、当
い好都合であるが、反面、今日の都市景観の混乱は、街区と建築に対する作
を介して結びつく、いわゆる団地形式がとられるようになる。さらに道路と
時、関東大震災後の復興事業が大々的に展開していたのとは裏腹に、わが国
中庭を公共化し、空中歩廊でこの碇を最初に破ったのが、ブリックマンによ
は点でしか接していないという自由な形式が登場するのは二六、七年頃にな
の建築家を非都市的なるものに向かわせたのではあるまいか。数少ない都市
法の欠如をそのまま投影していると言っていい。
るのだが、これには二六年のマルト・スタムによる次のような﹁開放型都
型建築といえる同潤会アパートが宮の力で竣工するのもこの頃である。
るロッテル、ダムのスパンゲン集合住宅で、公共空間化の波は一 0年間ほどで
市﹂の構想がある。﹁交通量の以前にもまして激しい場加は、交通網の組織
あって、消費者の好みの動向は卒業者によってこと細かに分析されている。
ン卒業である。ご承知のようにマンション事業はマーケットあつての建築で
事業グループ各社ともこれに対応することになるのだが、対象はマンショ
という話が出た。
た頃、外国人建築家を要請し、質だけでなく、話題性を呼び込むべきである
さて、 肝 心 の ﹁ 異 文 化 と の 葛 藤 ﹂ で あ る が 、 幕 張 の 計 画 が 軌 道 に 乗 り 始 め
まれびとの起用
化を建築的な都市計一期の決定陸子とみなす。建築上の思考はかつての世代の
残浮たる審美的な態度から自白にならねばならない。間われた空間としての
(GAド キ ュ メ ン ト ﹃ 位 界 の 建 築 ﹄ ) と 。 指 区 か ら 全 く 自 由 な 、 風 車
都市の構想はそのひとつに他ならず、それを開いた都市に置き換えねばなら
ない﹂
型と呼ばれるパウハウスの校舎が竣工したのはそれからまもなくである。
以来、近代建築は街ほと建築を別ものにできる形式として進行した。コル
ビュジエの前後のプロジェクトを比較してみるとよく解る。この近代建築の
配置形式の経緯について、私はマルト・スタム論を書いた矢代真己さんを近
江栄光生に紹介項いて誠べているが、未だに釈然としない節がある。
幕張の住宅地はマンション建築である。私が沿道性にこだわるのは、
れ
無理だという理由から、設計施工方式が一般化している。仮に建築家に依頼
またこの種の一卒業は、販売後のメンテナンスの責任を建築家に負わせるのは
のケ!スとの違いについても触れ、ともかく配霞計幽という根本からの依頼
るのである。厄介な﹁ガイドライン﹂も諸外国ではよくある話で、ネクサス
したことを話してみた。 と こ ろ が 、 意 外 に も 、 彼 も そ れ な り の 部 分 で 同 意 す
以 米 、 配 置 が 定 着 す る ま で の 二 j三 か 月 、 わ れ わ れ も 一 緒 に な っ て 、 日 影
するという場面でも、平い時期に施工業者が併走しながらの設計になる。そ
そこで外国人建築家といっても、外国の大手設計事務所がいいとか、建築家
日間山の条件やら何やらで、相当数の配置案が、地球の裏表で同甘工夜の間断なく
になった。
に依頼するにしてもファサードだけではどうか、などという話になる。オラ
検討されてきた。しかし、彼の関心がそこにあったのではないことは言うま
んな場面に、言葉もあやしげな会話をしていたのでは機動力がままならない。
ンダの集合住宅にもそんな話が残っているというから、これも一つの方法か
でもない。のちに、敷地を祝察して帰りの飛行機のなかで構想は出来ていた
J
のだということを開いたが、巧妙な戦略が組み立てられていたのだ。
もしれない。しかしこれでは建築にならない。
すったもんだの末、私たちのグループは、幕張ベイタウン﹃パティオス三
番街﹄の設計に、事業者の明解によって堂々と外国人建築家を要前すること
に な っ た 。 私 が ス テ ィ ー ブ ン ・ ホi ル を 推 薦 で き た の は 、 ネ ク サ ス の 集 合 住
宅を打見してのことだ。彼の建築は近代建築の特質を最もよく休明し、かっ
デリケートに発展させているという直感からである。と同時に、私の側にも
ひとつのH論 み が あ っ た 。 同 じ こ と を 言 っ て も 、 外 国 人 建 築 家 な ら 通 り 易 い
のではなかろうか、われわれにはできないことが、外国人建築家なら可能で
は な い か 、 と い う 点 で あ る 。 つ ま り ﹁ ま れ 人 効 果 ﹂ と で も 一 一同うべきか、わが
同の合議集同は、トリックスターの出現によって、それまでの日常的な勝者
状態がにわかに動き出すのだ。
そんな効果を期待して、私はわが意を吹き込んでおくべく、ニューヨーク
に飛んだ。ひとつは、わが国の集合住宅には堅牢観がまるでなく、容積の緩
和という理山もあってべらべらのテラスが景観を支配していることに対する
憤慨を解消したいこと。したがって、線ではなく壁でつくられた建築であり
たいこと。この能には﹁ガイドライン﹂があり、これを担保に事業者が参画
していること。建築は沿道に沿って建てられるべく、したがって陪鎖形式で
あること。街全体には﹁景観先導施設﹂という概念があって、街角やら住棟
の随所に、ランドマ l ク と い う よ り も 均 質 な 景 観 を 異 化 し て い く 装 宣 の よ う
なものが要請されていること、などなど。
考えてみれば、軽く薄くひらひらとした今の建築の流行とはずいぶん逆行
キテコタツ
イング提{共.スティーブン・ホ…jレ・ア
ドロ
スティーブン@ホlルの日本
ハドソンストリート沿いにある天井の高いロフト風の彼の事務所は、実に
国際色豊かである。大学の教師ということもあって、選りすぐりの若者が集
スティーブン・ホール
一九州七年、ワシントン(アメリカ)生まれ。
ステf iブン・ホi ル・アlキテクツ(ニユ
ヨーク)主宰、コロンビア大中教佼。
"払川町ベイタウン﹁パテ fオス一一品計街﹂は、
スティiブン・ホi ル・アiキテクツ、円以
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T一-環境設計研究所、 K A - - M A D E
SIGNの共河川叫討により、会九九六年に唆
まってくる。開くところによると、海外のプロジェクトは母国のスタッフと
必ず⋮緒にやるという。もちろん幕張の設計でも数人の俊英にお位話になっ
しては、これだけんおな情報を交換出米たかどうか。そんなわけだから、一一一一口葉
の不自由もなく、﹁異文化との葛藤﹂と言ったところで、どこまでがといった
憶測も拭えない。
共通の美観があるのに気がついた。彼は幼少の頃の戦後間もなく、父親の仕
画に近い絵をかく。アトリエを案内してもらったときの筆洗を見て、ひどく
一つは彼が水彩画に巧みなことだ。それも淡彩でかすれや濠みのある水場
面から反射する光のモアレなど、無表構な住棟が一挙に楽しげなものになる。
たのはよく解る。フォ iリ ! と し て の 家 の 点 在 に よ っ て 壁 に 描 か れ る 影 、 水
﹁釣り人の家﹂とか﹁生花の家﹂だったりした。お茶も生花もと関口を広げ
日本人の発想よりずっと日本的なのだ。最初それらは﹁哲学者の家﹂とか
﹁旅﹂の景色を封じ込めようしこする仕掛けを﹁国﹂Hアクションハウスとし
加えてプロジェクトのモチーフが﹁奥の細道﹂であったことなどについて
事で家族ともども東北地方を訪れたことがあり、その時同行した日本人が、
西側には街づりの家があったが、これだけはと事業者に見送られてしまった。
はすでに豆沼地行きの建築﹄(建築文化九六年六月号)で書いたので、触れるとす
たいへん日本の文化に明るい人であったことや、日本でのおもちゃが雛人形
の詞﹁反坊﹂﹁幻彩﹂﹁水映﹂﹁青山狩﹂﹁落柿﹂﹁鉱山ごなどに変わっている。
設計が収束に向かうころ、これらは回避式底闘の見立てや八景のように六つ
て対比したのだ。発句と調書のような関係がこの中庭を支配することになる。
であったり、草木染の和服や日和下駄というのも記憶に残る風物であること
この辺りも彼の現象論的とでもいえそうな姿勢が冴えている。
も該博な知識を必要とする。それをどれだけ理解していたかはともかく、こ
る。それがまた和漢の故事典籍をもつわけだから、われわれ日本人が読むに
﹁奥の細道﹂は発句に詞舎を添えて論説を導入部風におく構成でできてい
情動を抑制したような構成は、マーケットと呼ばれる消費者と、われわれ建
をしてきた。しかしこれはわれわれの代弁に近い。住ぴて澄みたる素材観や
も泌伴して壁の﹁目地﹂や﹁テクスチュア﹂や﹁打放し﹂でずいぶん永い論争
の間仕切りなど興味を引く納まりも見てほしいが、事業者との折衝では、私
アクションハウスのなかには、フレキシブルな空間を獲得するための鍵型
こで彼は﹁奥の細道﹂を下敷きにして、﹁東北地方を体験している﹂ことと
ある。(そね・こういち/処築家、芝浦仁業大山下環境システム学科款問日)
築家の国を問わない共通の好みとの落差のほうが、はるかに離れているので
まずは住棟は住棟で一二・一 mピッチのモデュ i ル に き っ ち り と 関 口 部 を 穿
景観先導施設といった﹁臭化形成の予法﹂を掛けあわせているのである。
ことばがき
の仕掛けが込められていたのだ。
ンテーションは鮮やかであった。なんと﹁奥の制道﹂を下敷きにした﹁旅﹂
などなど、そのときは外交辞令のように聞いて帰ったが、絞か丹後のプレゼ
ればエピソiドになる。
ち連続させたものを日サイレントハウスとし、この住棟を巡って
。
。
「
ている。とりわけイエ l ル 大 学 で の 留 学 を 終 え た ば か り の 問 中 友 章 さ ん な く
地
異文化人とのコラボレj ンョン
1 1ーロンドンそして自本での建築設計
牛田 英 作
ン・フインドレイは、主に日本をべi スに仕事をしてきたが、今年に入って
八0年 代 の 後 半 か ら の か れ こ れ 一 C 年 以 上 、 私 た ち 、 牛 問 英 作 十 キ ャ サ リ
のである。私たちは、自然・環境・エコロジーという、日本でもイギリスで
もので、建物が自然を最大限取り込んで、人工の地形として建ち引われるも
ら、グラスゴ l ・ グ リ ー ン と い う 大 き な 公 閣 を 見 下 ろ す 最 上 階 ま で 連 続 す る
この建物のデザインは、背後の中庭の緑がステップ状のテラスを上りなが
から、ロンドンに事務所を構えた。それは来年グラスゴi で開かれるご出。B2
も共有しうるテーマを中心に据えることで、国有の文化のコ iドだけで容易
近況
向。円匹ぬ明ロZZコ と い う 建 築 展 の た め に 実 際 に 建 て ら れ る 集 合 住 宅 や 、 ロ ン
に解釈されるデザイン・ボキャブラリーを避けたつもりである。
ロンドンの和風インテリアの仕事は、日本で育ったことのあるクロアチア
ドンのアパートメントの内装の設計を始めるためである。日本国内の仕事も
ルする体制に切り替えた。
あるため、牛田が東京事務所、フインドレイがロンドン事務所をコントロー
抜いて日本風の千ンテリアを施し、自分のロンドンの拠点としたい、と R I B
人のビジネスマン(スイス在住)が、建築中のアパートメントの三一戸分をぶち
イギリス国内、海外から
A(英関王立建築家協会)に照会して私たちにコンタクトしてきたものである。
スコットランド
一社ずつ計三社のチi ム が 三 チl ム 、 ノ ミ ネ ー ト さ れ て 行 な っ た コ ン ペ で 入
この仕事では故意に正統的でまじめな和風を避け、むしろ異文化によって誤
グラスゴ!のプロジェクトは、
B口
2nFq=の 著 者 ) 率 い る 展
賞したもので、﹁アイアン・ス│ジック(﹂S
現することで、むしろこの場と空慌には適切なデザインが出米ると考えた。
解された和風を実現しようとしている。奨文化関の認識のずれを意図的に表
して行なう半官半民のプロジェクトである。これは一九九九年の Q 叶
オ ー ス ト ラ リ ア の ア デ レ lド ・ フ ェ ス テ ィ バ ル で 私 た ち が 行 な っ た イ ン ス
および確認申請にあたるビルディング・ウォラントをクリアして、八月から
を表わす文字をそのままスケールアップして現実の公開の地面に出現させる
タレi ション、
53 司
。
oq丘 町 で も 、 こ の よ う な 考 え 方 か ら 、 地 図 上 の 地 名
基礎工事に着手した。
て行なう事業である。日本の開発許可にあたるプランニング・コントロール、
。見出向。Z に 選 ば れ た グ ラ ス ゴ ー が 、 都 市 再 生 へ の さ ま ざ ま な 企 隔 の 一 環 と し
J 1 0旬
覧会実行委員会が、グラスゴ l開発局と共に、ディベロッパ l に補助金を出
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e、グラスゴー。
ことで
オーストラリアに入植したヨーロッパ人と土着のアボリジニーズと
これらは
を意識化させるものだと思っている。
人びとが無意識のうちに文化のフィルターを通して、 事物をど
の土地に対する観念の対比を表現した。
れほど現実からかけ離れて認識するか
私 た ち の 事 務 所 に と っ て 比 較 的 大 き な 仕 事 で あ る グ ラ ス ゴ i の集合住宅は、
東京で図面を書き、ロンドンとスコットランドで打ち合わせするという体制
をとっている。またロンドンのインテリアやイギリスでショートリストに入
ったコンペのプレゼンテーションは両方で図説を書き、ロンドンでまとめる
ことにしている。 C A D図 面 や C Gを 電 子 メl ル に 添 付 し て 送 信 し た り 、 数
カ月に一度どちらかが出張することで、物理的な距離・時間のギャップはあ
まり感じないものの、私たち自身の中にあるか文化的な常識。というものに
関わる違いが、仕事のいろいろな段階で顔を出し、いらい﹀りしたり、明然と
したり、感心したりの毎日である。
建築はその存在する未来の時間に対してつくられる
幾度か文章にも書いてきたが、私たちは日本人とイギリス入、男と女とい
う相異なる背景を持ち、いままでの日本での仕事は両者の対話によって進め
て き た 。 そ う す る こ と に よ っ て 互 い の 文 化 的 、 ジ ェ ン ダl的 な 無 意 識 の 偏 見
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種類のものではないか、というのが最近私が思うことである。
かに人びとの思考を規制するかを、多くの実例を、主にイスラム・スラブ世
エドワi ド ・ サ イi ド は 著 書 ﹃ オ リ エ ン タ リ ズ ム ﹄ の 中 で 、 西 歌 人 に と っ
が現われたように思う。それは日本の中で、(経済的以外には)ある程度安定
界のイメージについて挙げて、述べている。私たちが他の文化を理解するこ
を意識化し、共通の基盤を見い出すことを目指していた。ただ単に奨文化の
した環境で進めていた私たちが、違う土俵で仕事を始めたとたんに、動揺を
との難しさは、その文化の実体の持つ埋解不可能性(ある意味では、あらゆる
て 呉 文 化 の イ メi ジ が 、 い か に そ の 異 文 化 の 実 体 に 叩 し て で は な く 、 西 欧 社
きたしたといえる。ある種マンネリ化していた私たちの方法が、異なった文
ものは論理的には理解可能であるとい、える)よりも、 個 々 人 の 心 の 中 に あ る
会のいわば政治的な意図に基づいて控造されるか、そしてそのイメージがい
化状況のなかで更なる対話を余儀なくされている、といえるかもしれない。
﹁規制﹂を克服する難しさにあるといえる。 そ の 規 制 と は 、 生 ま れ 落 ち た
る文化をつくろうとしてきた。しかし、ここに来て多少勝手が異なる状況
異文化との対話はそれほど簡単なものではなく、おそらく永遠に続くような
ものを移入するのではなく、(たとえ微小なものであっても)新しい共有しう
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i、オーストラリア。
本的にはこの規制を原因とするように思われる。日本の(著名な方々を含め
のであるかもしれない。私の視点からすれば、現在の日本の閉塞状況は、根
化の屋台骨を支え、それがなくなればその国の社会が困難をきたすほどのも
制のことである。それはその文化の成員に共有された﹁常識﹂としてその文
文化の中で幼い頃から植え付けられ、大人になる頃には無意識化している規
かれた状況を単純化して理解しようとする、思考停止を促すものに他ならな
かしそこにある種の危険が潜んでいる。国家的アイデンティティは自己の置
を理解しようとする。それはある程度反射神経的な無意識の過程である。し
は見知らぬ事物に庇面したときに、自らのアイデンテ千ティに招﹀りしてそれ
ィはネガティブな感情にほかならない。見知らぬものは人を不安にする。人
することがある。モノリシックな社会に育った日本人(私もその一人)の常
ダニズムを同一祝し、モダニズムの行き詰まりを指摘することで、日本的な
よくみられることだが、西欧に対する日本人の認識として、西欧文化とモ
て)建築家たちが、外国の仕事は大変だ、と口にするのを聞いたり読んだり
として、語学的なハンディキャップよりもむしろ文化的規制のバリア!のほ
るもの、和風へ回帰しようとする議論がある。あるいは、モダニズムと和風
すれば、あまりにも単純で、基本から外れた、非生産的な議論と浩一口わざるを
を中途半端に融合しようとする人たちがいる。これは、このような認識か泊わ
うが大きいように思われる。
私が文化的規制と呼んでいるものは、個々人の置かれた立場から見れば、
荷ない。
イ ギ リ ス の ハ イ テ ッ ク 建 築 で 使 わ れ る 鉄 骨 構 造 の デ ィ テ ー ル に は 、 日本の
アイデンティティと呼ばれるものである。
私 た ち の 子 供 は 現 在 二 重 国 籍 を 持 っ て お り 、 二O歳 に な っ た 時 点 で 自 分 の
ャスト・アイアンの伝統にしっかり根付いたものである。技術というものは、
実は深くその凶有文化・経済・社会に根付いてきたものである。したがって
鉄骨捕造にはないディテールが使われている。それは産業革命当時からのキ
るのではないか、という悩みiliアイデンティティ・クライシスilーを経験する
和魂洋才的な技術の一面的摂取・応用には限界があった。しかしこれからは、
国籍を選ぶことになっている。二重国籍をもっ子供は思春期になって、自分
という人たちがいる。しかしエジンパラの寄宿制の学校に学ぶ長女は、友達
高度資本主義に一設い尽くされた地球のグローバル化によって、西欧において
がどの文化に属するか、自分は何回人か、自分はどちらの固からも排除され
からそのことを一一一一口われて、﹁わたしはタブルだよ﹂と言い返したという。実
もその国有性は変化せざるを得ない。
らかの知識を獲得するだけではなく、自分の中にあるものを削り取っていく
これからすべての人に必要になってくるように思う。異文化との対話は、何
デンティティを強化する方向ではなく、拡張/拡散する方向を採る努力が、
内と外、自己と他者といった二項対立的な考、ぇ方を捨てること。自らのアイ
自分の中にあるものを含めて、あらゆるものを自分から等距離に置いて、
存は博物館的価組以上に、クリエイティブな価値を持ちうるのだろうか。
あるのだろうか?産業化された現在の都市においては、伝統的な文化の保
新しく建てられる建物が、伝統国有の文化を表象することに絶対的な意味が
建築が、その存在する未来の時間に対してつくられるものであるとすれば、
際、彼女の生活を見ていると、自分が二つの異なる文化を受け継いでいるこ
とをむしろ楽しんでいるようにみえる。それは彼女のものの見方を広げる役
割をしている。
彼女を見ていると、国民国家的アイデンティティは本当に必要なのだろう
か、という錠向が湧いてくる。私たちのクライアントのクロアチア人のよう
に、自らの人生がいくつもの国にわたって展開し、それぞれの文化を愛する
ことができればそれにこしたことはない。
ワ ー ル ド カ ッ プ で 日 本 の チi ムが試合をすれば、私だって応援して一喜一
憂するのだが、それはあくまでゲ!ムの上の話である。
上 述 の サ イi ド に よ れ ば 、 異 文 化 を 理 解 す る 上 で 、 国 家 的 ア イ デ ン テ ィ テ
作業を含むものである。 アイテンティティの内容も新陳代謝するのである。
私たちは新しい多様性を創造する方向に向かう
方向ではなく、むしろ新しい多掠性を創造する方向に働くだろう。
例えば、広い意味での環境問題は、地球規模の視点があって初めて認識さ
れた問題である。エネルギー利用を叶一界的な視点に立って考えなければ、エ
集積するだけでは、複雑系としての環境や社会の問題に対して有効な解決策
コロジー建築は意味がない。屋上縁化や太陽電池といった単発の技術をただ
ロンドンの社会は完全に多国籍社会で、私たちの友人を見出し
とはなり得ない。私たちの住宅に使われる合板の選択は、熱帯雨林の保存と
イギリス、
ても、 生 粋 の イ ン グ ラ ン ド 入 の 方 が 珍 し い く ら い で あ る 。 こ の こ と は そ の 社
密接な関係を持っている。そしてその世界的なスケールの視点の適用には、
各々の﹁場﹂固有の条件を見定め、回有の解答を出していく必要がある。
会に独特の厚みを与えている。
八0年 代 後 半 の イ ギ リ ス は 、 経 済 的 に は 、 今 の 日 本 よ り 恐 い 情 勢 に あ り 、
私たちは八三年から八六年までイギリスに住んでいたが、人びとの経済的に
に潤っていた中近東や東アジアに出稼ぎに出ることを余様なくされていた。
ンシプルが通底しているようなアプローチが必要といえる。国有性の殻を破
の解答を与えてゆく姿勢、そしてそれら罰有の解答の基盤には、共通のプリ
遍的でありながら、各々国有の﹁場﹂における固有の問題に対しては、固有
すべての文化・事物から等距離を保ち、その視点は完全にグローバルで普
国難な状況に対する態度は意外に明るく、その後の更なる困難の時期にも、
ることによって、従米の固有性という多捺性以外に、私たちは新しい多様性
建築設計者の四七%が失業しているような状況で、多くの設計者が、経済的
私たちの友人たちはむしろ人生に対して楽観的な見方をしていたように思う。
を創造する方向に向かうだろう。
(山内川市)など。
ωO司、吋除問﹀門出
ズ
ナ
ト
出
日
ヘ
J 出
C
C
ω 開(つくば市)、、吋河口ωω 者﹀ FHI--{c
ω
。
九五一二年、スコットランド生まれo A Aスクール(ロンドン)卒業
後、文部省給山口印山学生として米日、京京大学建築中科修土諜松修了。
般的祈アトリエ勤務を総て、一九八六年、午川フインドレイ伎楽デ
ザイン事務所設'札、以ド治に同じ。。九九八年より東京大学助教授。
、しな作品は、日νCF
,ペ沼山OZJ
へ(大阪)、保護所懐山印刷(和秋山県)、
キャサリン・フインドレイ
一九五問年、京京総生まれ。京京大川 'j
仁川J郎作叫築乃 3利 卒 業 後 、 機 的
新アトリエ、リ千ヤード・ロジャース・パートナーシソブ勤務を総
て 、 九 八 六 午 、 小 川 フ f ンドレイ処築デザイン事務所設注。一九
八八年、側ウシダ・フインドレイ・パートナーシップに改紛、羽小仕
に一半る。
牛伺英作
(うしだ・えいさく/ウシダ・フインドレイ・パートナーシソブ主宰)
仕事がなく、金がなくとも、それぞれのゆったりとしたライフスタイルを堅
持しているように見えた。私はそれを﹁地獄を見た後の楽観主義﹂と呼んで
いたが、それは建築に対する考え方にも反映されてくる。ロンドン人たち(ロ
ンドンはその他のイギリスの地域とは明確に性格を異にする)は、多文化社
会のなかでそのような態度を'身に付けたように思う。さまざまな文化や考え
方が共存するところでは、深刻そうに悲嘆に暮れている暇はない。対話と交
渉によって、共有しうるポイントを探すこと。異文化の無意識の中深くに入
っていくこと。その場合悲観主義よりは、楽観主義の方が有利である。かれ
らは植民地主義の時代から、異文化との核触を続けることで、このような態
度を身につけたのかもしれない(これはイギリス人についてではなく、ロン
ドンに住んでいるあらゆる国籍の人ぴとについて言っている)。
その時に必要になる視点は、間有の文化に基づいた思考やテイストと、共
ことによって自分の態度の決定が容易になるのだ。このような姿勢を持った
有された文化に基づいた思考やテイストを見分ける日である。それを分ける
人びとによる対話がつくり出すのは、世界の伝統的な文化的多様性をなくす
特築②フォリナiズによる伎宅設計!間関文化との葛藤
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i全;;((~Jn/Timothy H叩 s
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いっそう快速な生活空間の
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:j'jの集合住宅
すまいのテクノロジー
三沢
や健康指向が望まれ、
集合住宅で生まれ育った世代が形成された今、
創造に期待が高まりつつある。
心安
2言
な;毎
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ろ設
う計
か者
くミg.
はぺ
今国海外の設計者との協働について私の経験を
てば学いである。
述べることで、そのような機会に少しでも役に立
住吉の集合住宅計臨
さて、私はこの十年余りのあいだ、複数の外国
人建築家とさまざまな形で共同設計をする機会に
恵まれたが、多くのプロジェクトは民間ディベロ
ツパーによる比較的グレi ド の 高 い 集 合 住 宅 で あ
った。そのなかで特に基本・実施設計から監理ま
でを経験した住吉のプロジェクトを選んで、その
内容に触れてみたい。
計 画 地 は 神 戸 のJ R住 吉 駅 近 接 の 約 一 万 坪 の な
だ ら か な 斜 面 地 。 計 画 総 戸 数 約 二 九O 一戸の共同住
宅プロジェクトである。
外 国 側 の 設 計 者 はM-R-Y(米国)であった。
同事務所は米国内外を合め幅広く活躍中で、チャ
ールズ・ムi ア 氏 と 、 パ ー ト ナ ー で あ り こ の プ ロ
ジェクトの賞候者であったパズ・ユ l デル氏、ジ
ョン・ルーブル氏を中心とする設計事務所である。
学校建築や教会、住宅などに数々の実績があり、
本 プ ロ ジ ェ ク ト の 共 同 設 計 の 形 態 は 、 主 にM ・
の形態になっている。
カリフォルニアの香りのするクラシックなデザイ
集合住宅の生活に隆史的な積み重ねのある海外の
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を痛感させられた。と問時に、戦後の新たな居住
会長
ン が 特 徴 で あ る 。 な お ムi ア 氏 は 閏 年 ほ ど 前 に 亡
(
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視点を、改めて参考にしてもよい時期になったの
信集
メ入
工
内
文化にいかに我々が対応していったかに、たいへ
加か
すら
くなって、現在ユ i デ ル 氏 と ル ー ブ ル 氏 の 共 同 経
か、こ
ではないだろうかと思う。そのような意味からも、
ゑ国
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境の観点から住まいの形態がますます集合住宅に
移行すると思われるが、一方で、居住面積の拡大
参れ
ん興味をおぼえた。近年、人口の高密化や地球環
で問有の居住文化が失ったものは大きかったこと
る 言 葉 ︾ を 読 ん で 、 戦 後 五O 年 、 社 会 の 流 れ の 中
前口すの特集である︽二O 世紀から一二社一紀へ贈
発
斗
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ハ
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R - Y側が基本コン
セプトおよびエレベ
i ションとランドス
ケi。フを担当し、
本側が、平面計画全
ヨンを行なった。当
般とコ l ディネl シ
時私は建設会社の設
計部に属していたが、
このプロジェクトに
はディベロッパ i 側
の設計室の一口氏として参加した。
彼らの集合住宅の設計に対する姿勢について特
徴をあげるとすれば、
街並みへの配慮
地勢についての理解
ランドスケiプ デ ザ イ ン の 重 視
街並みへの配議
の関わりのなかで語りたかったのだと思う。
優先することはたいへん難しい。都市計両面から
見られるが、住一戸の性能を犠牲にしてまで景観を
の土地での生活の楽しさを、さらに豊かに演出で
の意味合い、気候に対する具体的な表現等が、そ
で暮らすであろう一人ひとりの視点や小さな自然
また少し復活させなければならないと思う。そこ
我々が本来持っていた土地に対する優しさを、
のわが国における住宅の街放み景観は、歴史的な
日本では、建築側からの配慮はスポット的には
低層街区には見られるが、中高層住宅の街並み景
きるのではないかと思った。
ランドスケiブ デ ザ イ ン の 重 視
観はごく最近までほとんど存在していないといえ
る。また中高層住宅と抵層住宅の接する部分にも、
調和のとれた美しい移り変わりの表現は極めてま
な目を持つ傾向のあった我々に対し、彼らの真撃
どちらかというと街並みに対して少しシニカル
いるのでは無いことを、七つの建物に対し七つの
提案した。一方、住空間は娃築だけで成り立って
同等に、コンセプトはもちろん新鮮なアイデアを
ランドスケiブ デ ザ イ ナi が 、 ア ー キ テ ク ト と
に計画地やその周辺を見る目に桜し、初心に帰ら
ガi デ ン と 、 さ ら に こ れ ら に 四 季 の 彩 り の 変 化 を
れである。
なければいけないことを、再認識した。
かが目的であり、建築空間と外部空間といった境
住宅だからいかに生活を豊かにエンジョイする
加えて表現していた。
例えば山あいに建つ建物の構、えや川べりに建つ
界は無く、特にパ l ゴ ラ や テ ラ ス な ど の ど ち ら に
地勢についての理解
構えが必要に応じて変化するように、その土地の
も属する空間を大事にしていると忠われた。
ぴ
〉
戸山口(同印(リ州同門 Vゆ
の四つのポイントからの説明を行なった。その土
地がどのような意味を持つのか、それが、建築に
どのような必然を生み出すのか、都市軸と自然軸
だまだ経験が浅い。このため我々は、建物におけ
集合住宅の歴史がある欧米に比べ、わが国はま
豊富なヱレべ i シ ョ ン の ボ キ ャ ブ ラ リ ー
に力を入れることはないということかもしれない。
精神的にも物質的にも豊かで新鮮ならば、何も一隠
ることこそが大切だという考、えもあるが、日常が
り、研ぎ澄まされた建築空間仰や非日常性を構築す
日本では住宅建築に、やすらぎや、くつろぎよ
持つ特性に応じて建物の形が変化することが必然
門 的
ωumn巾印
、
〆
豊富なエレベ l シ ヨ ン の ボ キ ャ ブ ラ リ ー
だと語る。彼らは建築のプレゼンテーションを行
(
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J
地域性の表現へのこだわり
8.
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なう前に、地勢について
巴rt-
叶可円)ぬ由。同
l' (J
本物にこだわる材料の選択
向
。
ロロ
Q
.
.
などがあげられる。
彼らが住宅に対して持っている理念は、住宅と
は人が生活を思かにエンジョイするための場であ
るということであろう。そのため設計の方針は、
住宅はあくまでも住宅らしく、これをどこに求め、
いかに表現するかということであり、集合住宅で
A
B
B
.ユーテ“ル氏、 C・ムーア氏
、
在から J・ルーブル氏、
(写真/RobLang)。
日
あっても、会く同じ考え方をとっている。
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F E D C B A
エントランスまわり(写真 /TimothyH
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)。
iti守の集合 ít~七
るさまざまな部位の
E
地域性の表現へのこだわり
他のプロジェクトで協働したブランチェスコ・
性を去すデザインの特徴については先ほど触れた
表現が、意味のある
が、これは歴史の違いや多民族の集まったアメリ
ベネチア氏(イタリア)、パノス・クレモス氏
住まい手が集まる共
カにおける表現の方法なのだろうか。共通なのは
ディテールという範
用部分の盟かさや天
白己のアイデンティティを表現するために相手の
(ギリシャ)の場合は、そのデザインのなかで民
井のおい吹抜けのあ
それを尊重することである。そんな彼らを見ると、
族性を感じさせる建築的表現が巧みである。多民
るタワl状の住宅、
我々は果たして同じアジアの建築的文化を現解し
聞にとどまらず、さ
桃 望 性 に 優 れ た ドl
ているのだろうかと考えてしまう。ようやくアジ
族の集まるヨーロッパでは、アイデンティティを
マ!、夫、ぃ日の太陽
アを偏見なしで受け入れられるようになった我々
ま ざ ま な 生 活 シl ン
の日差しを受けるウ
の具体的表現である
イ ン タ ー ガi デン等、
は、今、近隣の国々からの白を通して日本の居住
ということを、明解
そこでの暮らしの楽
文化をとらえることが必要かもしれない。和の表
れない。一方、ム i ア 氏 の ア メ リ カ 閥 海 岸 の 地 域
しさを表現しなくて
現とともに、個性・地域性といったものをどう表
表現することは生きてゆくための知恵なのかもし
はならない。集合住
現するかが今後の課題であると感じた。
してもよいと忠う。
宅は一戸建てと比べマ
イナス阪を強調され
本物にニだわる材料の選択
るが、そのような内
あれほど本物の質感にこだわっていた日本だが、
つある。本プロジェクトの内装に木がふんだんに
今や住宅のインテリアに木の香りすら無くなりつ
部空間の楽しさをさ
らに外に向かってい
なし
の一つなのかもしれ
集合住宅設計の本質
建物を見るにつけ、私の先入観とは違い、彼らが
を見て、また、打ち合わせの機会に多くの米国の
使われることを、
M-R-Y側 が 高 く 評 価 す る 姿
かに表現するかが、
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本物を愛する文化をもっていると感じた。
F
文化の厚みとは背景に 自然の厚みを持たなくて
はいけないことを率直に感じた。
共間作業の問題点
次に、 実 際 に 共 同 の 設 計 の 過 程 を 振 り 返 っ て 作
業上の問題点について述べたい。
ング情報を把寵することは易しいことではなく、
らは必ずや正解を提案してくれるであろう。
か明確に評価を表現すべきであり、ブロである彼
の意味はどの部分にあるのだろうか。一冗来、我々
共同住宅の設計で海外の建築家が参加すること
まとめ
ましてデザインが全てに優先すると考える外国人
建築家に、他の情報も合め理解してもらうことは
谷 易 で は な い 。 デ ィ ベ ロ ッ パ l側 も 集 合 住 宅 の 特
殊性をよく四併し、依頼する側のマーケティング
コンセプトを脱力明快にし、何を依頼すべきかを
決定したい。
の住空間の考え方のひとつとして、象徴性や犠式
かくルi ル を 決 め る こ と 。 そ し て 未 推 定 な 部 分 が
なかうまくいかない、まして外同人である。とに
かにすることが一書大切である。出内でも、なか
共同設計では、だれが何を受け持つのかを明ら
トでも多くの場両でこれはたいへん苦労されてい
として最も力を注ぐ部分である。他のブロジェク
要な部分であり、一方、エレベ│ションは設計者
ろ う 。 住 戸 の プ ラ ン は デ ィ ベ ロ ッ パ l側 の 最 も 重
ス は 内 部 プ ラ ン と エ レ ベ l シヨンの怒合性であ
今回のような協働で最も問題になりそうなケー
生活の楽しさの前山に巧みな部分や、長い集合
と思うのは私だけだろうか。
まして共同住宅の価値基準が規範を失いつつある
活そのものを泣核的に楽しむ方向に変化している。
方さまざまな理由によりライフスタイルはより生
したものはこのあたりにあるのかもしれない。⋮
戦 後 五O年 、 家 族 の 構 成 を は じ め 生 活 文 化 で 変 化
も背景にこのような思想があったのではないか。
小笠間をよしとし、国内の建築家の設計する住空間
あることや、これから起きるであろう変更を理由
るようであるが、一番の解決は、解決のための徹
住宅の生活経験があることに、彼らの参加の意味
。内と外
に決定を後延ばしにすることは、避けなければな
底的な検討と最終判断者の明快性であろう。特に
の一つがあるかもしれない。
。だれが何を受け持つのか
らない。
明解さにつながる。
プ レ ゼ ン テi シ ョ ン の た め に は る ば る 米 日 し た
当者も顔を見せ、お互いに同じ会社の人間より頻
モニカに集い、親睦会を出いた。入れ替わった担
昨年、関係者が家族同伴で久しぶりにサンタ・
建築家の、ドローイングの京晴らしさに感動しな
繁に顔を合わせ議論した時期もあったことがなつ
(みさわ・りょういち/筏築家、ミサワアソシェイツ代表)
がら、一方で、これでは施主側の意向に沿えずこ
そのデザインを推し
かしく思えた。
J
るのである。 こ れ に は 何 が 要 求 に 沿 っ て い な い の
たい気持ちと、 こ れ は ま ず い と い う 収 性 が 交 釦 す
A
清l
二動
i
l八
l七
i山1間
iと し て、
れは民った、というケースはよくある。
O 評価
問題なのは日本人特有の遠慮で、これが建物の不
。何を期待するか
民 間 の 集 合 住 宅 に お け る デ ィ ベ ロ ッ パ i側 の 価
値観は明快である。それは販売上のメリットに繋
がることであり、このあたりが通常の建築と大き
く異なる点である。
この側航観か﹀りすれば、明快なマーケティング
からのコンセプトを伝えることが大切で、テザイ
マi ケティ
ンコンセプトとどのように共作できるかがポイン
トである。
建築家がこれだけ惚維な状況ドで
私のすまいろん
特集@フォリナ lズ に よ る 住 宅 設 計 異 文 化 と の 葛 藤
らす
されたせいでもある。そうこうしているうちに一
﹄ J
A
﹄
五年が過ぎた。だが今も私は仮住まいをしている。
いずれは他所へ、という思いが常にあって、香港
にあと例年という計幽もないまま、だけれどもあ
まりの居心地の良さについ長居をしてしまった。
しかし香港は仮住まい。
香港は仮住まい
私の香港の住まいは借りものだが、 これがたと
を す る た め に 、 設 計 チl ム の 一 員 と し て 、 つ ま り
まっていた香港上海銀行本社ビル建設の設計監理
所から香港の建設現場へ、数年前に動き出してし
動きに逆行するかのように、ロンドンの設計事務
海外移住を考え出していた時であった。そうした
落をはじめた。多くの香港衣住の中宙人も真剣に
離れる外国籍事務所が急増し、不動産の倒格は急
し、香港は大騒ぎをしている最中だった。香港を
平が九七年以降の香港問題をめぐって正函衝突を
当時の英国の首相サッチャ!と、中国の、主席部小
香港には九八三年の正月に米た。前年の九月、
つて海外に安住の地を求めて香港に仮住まいをし、
とは限らない。今日の中産階級の主人たちは、か
ちたいという願望があっても、それが香港である
れない。いつかは自分の好き勝手にできる家を持
を付けず、大事に使用する気持ちになるのかも知
む家に商品価値が付くのだから、できるだけキズ
いところに住まいを買い換、えるそうだ。自分が住
の不動産市場の具合をみて、⋮一 i三 年 で 条 件 の ょ
われる。香港の新興中産階級の人たちは、その時
とよりもむしろ、投機性を求めているからだとい
たちがフラットを買うのは、自宅とし所有するこ
い性は変わらないのではないかと思う。香港の人
え買ったフラットであったとしても、この仮住ま
本国から派遣されたエクスパトリエイトとして、
そのうちに初心の夢を子供に託さなくてはならな
了されたせいである。この植民地の自由さと予見
ちに大きく変わり出した都市のダイナミズムに魅
場を変、えて香港に居続けたのは、僅か⋮一年半のう
だが異郷に長くいれば、自国の文化への見方にズ
﹁異郷﹂が﹁故郷﹂に変わることはないだろう。
また香港の暮らしがどんなに長くなったとしても、
たとえ香港の住まいが持ち家であったとしても、
かった世代を引き継ぐ人たちであるからだ。
できないさまざまな可能性に満ちた投機性に惑わ
一九八五年七月、本社ビルが竣工した後も、職
植民地香港での仮住まいを始めた。
私のこと
HH
仮住まい、ヴァ!チャルスペース、グローバル経済の中で
異文化同士、異文化に
香港
松盟
異
母
一九六0年代の初めころの香港。手前左端の建物は中国銀行問
本館、そのすぐ後に旧香港上海銀行本社屋の頂部がわずかに見
える。中央手前が、植民地政府を象徴する建物、出最高裁判所。
その右上の建物がマンタリンホテル。欧米入社会はここを中心
にし、中国人たちの商住区は写真のよ方、低層建物が密集して
いるところに彼られていた。
産
らしのなかで遭遇する異質な文化の日常体験記で
である。編集者が抱いていた期待は、異郷での暮
私が考えたのではなく、初めから与えられた命題
﹁異文化同士、 呉文化に暮らす﹂という題は、
いの生活者は感じるものだ。
は違った、日常性の中での異質な文化を、仮住ま
も共通の感覚だと思うが、旅の演劇性や祝祭性と
であり、新鮮であったりもする。これは旅行者に
の習慣や産物に対する異郷の人ぴとの反応が意外
ともある。慣れ親しんでよく知っているはずの白田
思いがけない形に切り取られた場而に遭遇するこ
なのかも知れない。異郷にあっては故郷の文化が
郷の文化との差異を縮めようとする無意識の願望
レが生じるものだ。それは仮住まいをしている異
点として香港が世界の注目を集めるようになった
業を香港に呼び寄せ、グローバルな経済活動の拠
義の政府といった好条件が、多国籍の企業と金融
数 も 増 え た 。 フ リiボl ト と 安 い 税 金 、 不 緩 衝 主
背景にコロニアル政府を動かせる中国人の財閥の
知的労働力の層は厚くなった。強力な華矯資本を
育を受けた中産階級が成熟を始め、香港中国人の
と も 符 合 し て い る 。 七0 年 代 の 後 半 か ら 香 港 の 教
的な経済活動をグローバル化してきだタイミング
消失しつつある。この変化は、香港がコロニアル
の建設ブl ム に よ っ て 、 そ の 領 域 性 は 今 日 急 速 に
変 わ る こ と が な か っ た 。 し か し 八0年 代 後 半 か ら
の区別は明確に現われ、それはほぼ一世紀の問、
入り込むのを許さなかったから、都市空間にもそ
々の人ぴと及びアメリカ人の生活圏に中国文化が
は大変な問題だった。しかし反面、こうした経験
なかったと思う人たちが多いと思うが、その当時
だった。今にしてみれば、そんなに慌てることも
りを続けるという中産階級のサラリーマンが殆ど
滞まり住宅ロ i ン の 返 済 と 妻 と 子 供 た ち へ の 仕 送
まわせて市長権を獲得させ、しかし自分は香港に
いはオーストラリアに住宅を買い、自分の妻を住
中国人の誰もが懸命の努力をした。カナダに、ある
いつでも離れられるよう、金策の立てられる香港
ショックは深刻で、海外へ居住権を求め、香港を
関係だった。一九八九年六月の天安門事件による
ことになっていたが、これと英国の市民権とは無
には、英国の保証する植民地政府の旅券を持てる
は国籍がなかった。当時彼らが海外へ旅行する時
りには香港中国人人口の六O%を超えた。彼らに
民だ。 香港で生まれ育った新世代も↓八0年 代 の 終
﹀
切
トζ
あったと思う。だがこの題はまた、香港という都
のは、一九八0年代の中葉からである。
が今日多くの香港人のグロi パル意識を促進した
あわ
市の生い立ちを考えるのにも非常に適切な題名で
もある。香港に住む大多数の中国移住民と、一撮
を倒別に伝承しつつ変質させてきた歴史は、まさ
香港中国人のグロi パ ル 的 な 案 要 は コ ロ ニ ア ル と
でいる九八%の中国人の生活意識にも及んでいる。
経済活動におけるグローバル化は、香港に住ん
港の仮の住人となって、呉国の小さな文化闘を形
っている。多国籍のビジネスマンとその家族が香
を持つビジネスマンを受け入れるのに好条件とな
香港が国でないことはまた、さまざまな外国籍
のではないだろうか。
しく呉文化同士の札際と共謀の軌跡であるのだか
いう風土の中で、常識を越えた高密度な住環境の
成している。英語はもちろんインド語、フランス
無国籍ということ
ら。表題の拡大解釈をするお許しを請うて、香港
中で、小さな島と半島の先端という畑山られた都市
語、ドイツ語、日本語の小中学校があり、呉国人
りの英国のコロナイザーたちが各々の自国の文化
についての生活意識について、私の思うことを書
空間の中で培養されてきたと、私は考えている。
あつれき
いてみたい。
間と中国移住民のそれとを明雄に区分してきた
o
香港のコロナイザーたちは、自分たちの生活空
古い世代は、殆どが国を捨てて移住してきた避難
国人の国籍が大問題になったことがある。彼らの
国の特別行政区となるにあたって、香港在住のや
香港は国ではない。一九九七年七月に香港が中
自由に活動できるという風土、また、 た く さ ん の
籍の人間が、圧縮された都市空間の中で共存し、
心地区に散在している。文化と習慣の呉なる多国
用の食料品や日用雑貨を売る庖舗が、香港島の中
グローバル化ヘ
附一紀の初めまで、英国人を山中心とする凶欧の国
AI
は、大 HMの 香 港 在 住 の 中 国 人 が 国 絡 を も た ず 、 自
川共同人たちを抵抗なく受け入れられるという文化
飛び込んだ呉郷の生活は、自分自身で切り拓かな
川阿賀の者が向売の成功者になれる。自ら選んで
たバルコニーには鉢植の木でジャングルをつくり、
鼠を継ぎ足して貸し部屋をつくる。鉄格子で回っ
スを僅かでも拡大する。陸屋根の層上があれば部
路上の空間に迫り出して、プライベートなスペー
しょうもない狭さに外壁の⋮部を打ち破り根床を
に目を向け、しばらくの定住の準備をする。どう
仮住まいが長びけば、明日よりは今日の暮らし
くてはならない。
ざまな用途に使われる。鉄製のブラケットや格子は銃成口開化さ
れていて、住民の好みと罰的に合ったものを選ぶことができる。
俗 名 イ リ ー ガ ル フ ァ サl ド 。 住 民 が 増 築 し た バ ル コ ニ ー は さ ま
分たちも呉国人として同化しているせいであろう。
こ の よ う な 視 点 か ら も 香 港 人 の グ ロ i パル立識は
育てられているのだと思う。
とまどう香港人
北京人とか上海人という呼ばれ方と同じ感覚で
J
香港人という一 一口い方が一般的になった。だが本米
は﹁一同二政府﹂という中国統治形態が昭われた
いる。そしてその主な理由が、自由に海外へ出ら
なることへの担否反応を示したのだとも言われて
考えなかった香港人が、九七年以昨中国の国籍に
ては毘絡を持たないことに対してそれほど深刻に
出策を打ち出したから、香港人は混惑した。かつ
中両国はそれぞれ独自の見解を主張し、倒別の対
中国との対話断絶を露呈した。この問題に対し英
論 が 熱 く な っ て い た 八0年 代 の 終 わ り に 、 英 国 と
香港の特別行政区としての﹁基本法﹂をめぐる議
﹁香港人﹂というアイデンティティに関する混乱は、
住中国人のことを指してね一日っているのだが、この
であり、正時には永久居住権をもっている香港在
住環境がどのように悲惨で、人間性を探聞したも
節度都市が出現した。こうしてできた起高密度な
後まで続けられ、その結果、昨界に類を見ない高
する移住民の流入に対しても、同じ政策は大戦前
らへの都市生活の規制をしなかった。際限なく川明大
中国人の居住地区内での統治は中国人に任せ、彼
させ境界を定めて小さな地区に押し込めた。だが、
てきた。当初の植民地政府は彼らの居住地を集中
住まいを自らの子で定着できる都市につくり変え
あるいは自由を求めて、大陸からの移住民は仮の
と九龍平島の先端に押し寄せてきた。山口問を求めて、
入境者は繰り返し襲いかかる津波のように香港島
植民地時代の一世紀半の問に、中回大陸からの
く過程においても、それは精神的な支えであるに
移住民特有な仮住まい意識があり、定住化してい
ことができたのかも知れない。しかしそこには、
出窓皮の究極ともいえる香港での住環境に耐える
う文化も、故郷の中国人が慨にもっていたから、
ている託しであろう。高密度に集まって住むとい
という。中国人の故郷の文化が形を変えて伝永し
華僑が往む東南アジアの都市の多くにも見られる
似たような現象が中国の本土にもあるらしい。
さえずり、い口川んゆ山度住空間独特の環境を創造した。
章改⋮健闘は、強い防光を柔らげ、おかごの小鳥が
た。このすばらしい住民の自主管理による都市の
って、そこに緑の垂直庭闘が出現することになっ
十数蹄建てのコンクリートの建物が穴だらけにな
目と品の先の隣人の視線をそらす目隠しにする。
れなくなるからだという。これは香港人の殆どが、
のかという文化的な規範は育つことなく、いずれ
違いない。加えて他力本願ではなくて、自力によ
究極の高密度
一五O 年 の 歴 史 を も っ 都 市 に も か か わ ら ず 、 ﹁ 定
は別のところへという仮住まい性が、今日を精一
る摺人の生活力が自分の環境を自分の子で変えて
お初のスローガンで﹁港人治港﹂といった時の﹁港人﹂
住﹂するという怠識を持たないことの表われであ
杯に生きて、明日へ希望を託す楽天性を支えてい
じゅ3りん
り、香港が仮住まいの都市であることを物語って
いくエネルギーになるのであろう。
﹀。
る。この社会ではちょっとしたきっかけや好運で、
、a
?
しy
鉄格子で囲って、三段に重ねたユニットが僅かな
たちの住まいが集まっている。ベッド分の広さを
ているが、ここには、﹁刊誌毘ぽ民﹂と呼ばれる人
渉という地区は、依田介で最も密度が高い所とされ
極端な場合、ベッド空間だけになる。香港の深水
圧縮され日以小限になったプライベートな空間は、
上での自分のイヱだったのだろう。全く状況は異
空間であるが、彼らにとっては街区全体が意識の
られないほど小さな箆の中が物理的な彼らの居住
屋居民たちの大きな﹁イエ﹂になっていた。信じ
ぜいたくな居間である。こうして街区の一角が龍
ノの映画館は、巨大なテレビのある冷房の効いた
の便所と浴室も街路の脇にある。街角にあるポル
の露応で、街路の紘石は彼らのイスになる。公共
いての情報に敏感に反応する。これがポケベルや
換レ lト の 変 動 や 、 各 国 の 通 貨 の 利 息 の 上 下 に つ
香港の住民は銀行を日常的に利用する。通貨交
旅行をさせてくれる。
港 の シ ョ ッ ピ ン グ セ ン タ ! は ヴ ァi チ ャ ル な 海 外
りにしつらえられた応舗で売られているから、香
れている。殆ど世界中のブランド口叩が本応そっく
旅行したことのある都市の応と同じように陳列さ
手に入れようと思っているブランド口聞が、かつて
街区はイエ
共用空賠を残して十数階の建物に詰め込まれたも
携帯電話を流行らせた原悶になったのかも知れな
に働きに米た苦力たちが自分の所有するベッドス
込める酷であったものが、ずっと後になってここ
向日山として扱われていた時代に、その商品を閉じ
ョッピングセンターで時間をつぶし、映画館で時
慢をして生活をしている。彼らは冷房の効いたシ
るようになった今日でも、ある程度の狭さには我
多数の香港人たちが、経済的には大分楽に暮らせ
狭い都市空間の中でひしめき合って生活する大
﹁私のすまいろん﹂は、仮住まい論からヴアー
ーバル意識を高めているのだと思う。
旺蟻さと同義語である。このことも香港人のグロ
させる。香港人の富への執着は、彼らの生活力の
の価格変動への関心は、国際情報をも身近に感じ
移すことも、株の売買の指示もできる。通貨や株
い。電話を通じて預金してある通貨を他の通賃へ
ペースを舵保するための捕に転じたものなのかも
院を楽しみ、大空間のレストランで食事をする。
チ ャ ル ス ペ ー ス へ 、 さ ら に は グ ロi パル経済へと、
ハイパー@スペース
なるが、日本の茶室のことを私は連想した。
のだ。これは私の想像だが、かつて一九世紀後半
クi リi
しれない。版川上がなくして、これほどまでに人間
週末には近くの烏々で遊び、年に二度は海外旅行
とりとめのないものになってしまった。それは私
に時んであった苦力貿易という、中国人労働力が
ひとりの生活空間を圧縮できるものだろうか、こ
もする。物理的な生活空間の狭さを意識の上で拡
必然的にこの能尾印刷民の生活空間は廊下へ、階
クーヮー
れほどまでにたくさんの人間をひとつの建物に詰
大する術を、香港人の多くは体得してきたのでは
が、香港という異国に暮らし、英国と中国という
いていても、レストランに食事に行っても、よく
狭さと密度の高さとも関係がありそうだ。衝を歩
し、親密な場所となっているのは、街の限られた
街全体が香港人ひとりひとりの生活空間と連続
明するために、多少時間をかけても研究をすすめ
い。とにかく私はここで考えた幾つかの仮説を証
言えば、こんな大それた命題をくれた編集者が悪
まったからだ。自分で仕掛けた良だが、もとはと
呉国文化の接触を考えさせられるはめになってし
*
め込めるものだろうかと思うからだ。
ないだろうか。
段室へとはみ出し、街路へと拡張する。食事は街路
知人や友人に出会う。しばらくその場で立ち話を
(まつだ・なおのり/安治大半建築学科論師、泊引禾 H浴)
ることにする。片山先生、ありがとう。
すわ
いつか
し た り 、 一 緒 に 同 じ テi ブルに庫ることもある。
ショッピングセンターのウインドウには
」
AJ
i マ趣旨﹀
︿
一
ア
これからの住まいづくりには、社会と時代の状況を受けてさまぢ
第二部 パネんディスカッション
建築設計、都市設計、まちづくり、計問主体、それぞれの立場から四先生に講演いただき、
引き続き、第一部・基調講演の三者を加えて討論を行ないました。本記事はその概要を収
く
つ
まな期待がかけられている。その一つに羅針擦を失ってしまった
ら住
録したものです。文虫民社編集部
まの
の立崎明から、デザイン文化の立場からなど、さまギ円、まな立場が考
彦語地
都市住宅の理念という課題がある。生活者の立場から、住宅生産
邦委街
えられるが、ここでは大局的かつ実践的に、住宅市街地という﹁地﹂
ま
いづくりの理念を探りたい。すなわち、これからの時代に、住宅
築宵ヲ
にどのような﹁図﹂を描くかというスタンスで、これからの住ま
の上に、どのようなハウジング計画があったらよいかの﹁図﹂を
市街地という﹁地﹂はどうあったらよいか、そしてそのビジョン
提案して措くという立場である。論点としては、
①社会経済状況の変化、生活の変化、家族関係の変化、ライフス
ハウジンタの計聞は、どのように変化していくのか、いくべきか。
タイルの根本的な変化に対応して、個々の住宅、その全体として
近隣コミュニティの未来をどう考え、住宅・住宅地計画の中で、
②近代化の中で、住宅地の近隣社会が徐々に崩壊しつつあるが、
どう受け止めるか。
③住宅数が世帯数を上回り、むしろ今後の住宅の課題がストック
環境改善に結び付けることができるとしたら、どのような住宅市
改良の問題といわれるが、これを住環境、とくに一般住宅地の住
街地のイメージ(地)にどのような住宅(悶)を描けるのか、描
、
L
F
くべきか。
ι-
..P
④住宅や住宅地の計画は、本来居住者自身の主体約な計画が前提
の か 、 ま た 技 術 者 は ど の よ う な コ ラ ボ レl シヨンを行なうのか。
であると考えられるが、居住者参加はどのような計画をもたらす
J
などが挙げられる。これらは、これからの社会経済状況の捉え方、
住宅市街地のイメージ、住宅のイメージが椙互に関連しており、
総合的に捉えていかなければならない。
シンポジウムは、第一郎﹁基調講淡い、第二部﹁パネルデイスカソション
(講演および討論)﹂の形で行なわれましたが、本記事では第一部の愛国日
と第二郊の概市立を仰向紋しています。第一部﹁基調講演﹂はこのシン。ホジ
ウムへ向けての委託論文を基調にしたものであり、その全文は研究年初
M号(一九九八年三月刊)および本シンポジウム資料弓地﹂にどのよう
な﹁附﹂を捕くか口に附加減しています。ご参照ください。
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ア ト リ ウ ム (1
9
8
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) 図と地
立ろ
宅
診
創 立5
口調年記念
第1
8剖住総研シンポジウム
未来へのハウジング計画論
千葉大学工学部デザイン工学科教授
はっとり・みねき
早稲田大学理工学部建築学科教授
さとう・しげる
横浜国立大学工学部建設学科教授
こばやし・しげのり
第 一 部 基 調 講 震H
小林重敬
佐藤磁
服部寄生
パネルディスカッション
思い描くような人ぴとの交流は発生しにくいと考えました。だから、そこは
ながめるだけの場所でもいいのではないかと。かなり人工的な、都市的な風
J1
景をこのなかでつくりあげてみようという気持ちで設計したものです。
②国立市の住宅地に建つ﹁ステップス﹂。六
八坪と敷地は非常に狭く、 L字 型 に 二 面 道 ﹂ ド ) ﹂ 円 ﹃
﹁
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三/¥﹀ノ¥/仁一
Jhrd/
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二
例
三
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官 接 し て い ま す 。 大 き な サ ク ラ の 木 が 敷V L E Z U
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41土咋一一川 Jー
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地コ lナi に あ り 、 そ の サ ク ラ の 木 を な ん み
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と か う ま く 利 用 で き な い か 、 と い う こ と が 一ELF-:J
一
口
コ
いAE
-;パ⋮一テ
課題でした。ここでは共有領域が垂直に展一一ス
関するものとして、半層ずつずれ合った平行配置されたこ棟の住棟が向き合
はやかわ・くにひこ
側早川邦彦建築研究室代表
尽
ます。
に一般の人も利用できる共有領域としてい
住み子だけの共有領域ではなく、通り抜け
が道銘に面しているパブリック性を生かし、
青梅街道に面している長方形の敷地、両面
③﹁ラビリンス﹂。かなり交通量の激しい新
空中に走るブリッジによってつながって、共有領域になっています。
から各住戸の生活の気配がこの共有領域に伝わってくる。半層ずれる屋上も
っています。ジグザグに上がっていく階段によって、コンクリートの殻の中
支
社
すずき・たかひで
活島の
都住お 環女・
境子ひ
市宅お
再・む 学大ろ
開都ら 科学し
発市・ 教生
部整ふ 授活
科
長備み
学
公お
部
国
東
欄UG都市建築代表取締役社長
生広ま
第二部
博 英彦
大村芙美雄
崇邦
討論 H 右 記 講 師 に よ る
弓会員服部容生
窓先空地、避難通路、出入口通路、いろ
いろ法的な規制があり、杉並区に理解して
いただくのに時間がかかりました。住棟の
間 隔 は 、 広 い と こ ろ で 八 mぐ ら い し か あ り
ません。圧迫感をなるべくなくし、奥行き
感を出すために重層するという構成をとっ
ています。
いままでの公営住宅がもっている単訴さ﹁すべてを平等に扱わなくてはいけ
④熊本アートポリスの一環でわれわれが手掛けた﹁熊本市営新地凶地ALでは、
ラビリンス(1
9
8
9
)
野本
J
I
I引
関鈴早警
基調講演1要旨
都市計画の仕組みと住宅市街地のあり方
ili都 市 計 調 の 構 造 転 換 と 住 宅 市 街 地 の あ り 方 の 変 化
小林重敬
ない﹂という画一性ではなくて、多様性を
なるべく導入してみたいということを心掛
けました。一一一 m角 の 中 庭 を は さ む オ ー ブ
ンスペース、一一一Om角 の オ ー ブ ン ス ペ ー ス 、
さらにより広いオープンスペースと、オー
り、また、敷地の高低差を含めながらオー
プ ン ス ペ ー ス の ス ケi ル も さ ま ざ ま に 異 な
ブ ン ス ペi ス の ネ ッ ト ワ ー ク を 構 成 す る こ
近代都市計薗と住宅市街地
一九枇紀に誕生した近代都市計州の仕組みは、当時の産業化をリードする、次体とし
とによって、多様性をつくりあげていこう
て生まれてきた新しい社会階肘 H新小別府肘に、川次迎な低悩川低硲山住宅市街地を郊外部
に提供する初会的な役訓を折って生まれてきた。しかし二O世紀末になる lて
y 近代都
というふうに考えたものです。
m
いうことで、三階部分にあるユニットを除
関しても提案性のあることをしてみようと
ホi ル が 入 っ て い ま す 。 こ こ で は 、 住 一 戸 に
⑤﹁用賀フラット﹂。これは真ん中の地下に
べく残しています。
構内通路、擁壁、地形の変化などを、なる
と多様性を出していこうとしたものです。
素材としても、水、芝生、硬い而、植栽、
市計的が生まれた耐火仰山である﹁都市化社会﹂の進行が止まり、人口の, 加、市街地の
拡大を前提としない﹁館山川 1相会﹂へと交化した。
わが匿の住宅市街地を秩序づける仕組みと住宅市街地の現状
市街地を秩序つけるわが同の池山叫制の川口川叫んは、欧米の仰山品川品川の任制みのように
住宅市街地像を依立するには十分でなく、郊外部を小心に一定の市街地保を形成しう
る仕組みとしての地区計同や建築協定は、係めて限られた地岐に適用されているにす
ぎない。しかし、日本において﹁郡山化初会﹂から﹁都市裂社会﹂への移行は顕茨で
あり、既成市街地の好的築、なかでも都心ぽ住のあり方が問われている。
わが附の住宅市街地保を議論するとき山される対照的なな M
んは、一つは土地の有効
わが国の今後の住宅市街地形成とその形成主体
いては、全部がメゾネット構成になってい
残していこうということで計回したもので
土地の記憶として既存の三本の構内通路は
人が廃ってくる可能性が非常に高いので、
くると罰時に、建て詳えですから、一冗の住
く住棟と敷地の起伏が一体化したものをつ
ました。われわれは擁壁を廃して、なるべ
地を生かし、敷地との一体化をテーマとし
⑥﹁下関市営白骨一玄口団地﹂は起伏のある敷
ます。
利川をできるだけ退及すべきであるというな兄、仙仙の一つは、市街地の現状をできる
だけ維持すべきであるというな川んである。多様な枕成市街地の状況をもとに利川のあ
り方を与えなければならないが、一ぃ民一裂なのは、地収レベルで市街地保を生み出す主体
である市民・住民の市街地像形成への参加のあり方である。
しかしこの点でも、統住民の参加のみでよいのか、都心部に住むことを希望してい
る市夜的住民の参加を凶る必姿があるのかについてな見が分かれている。両者のな川ん
を述附拐させる可能性を追求することが必姿である。そのような淳一燃のもとに、都心開
辺部高山山住宅市街地では﹁アン﹂と﹁ガワ﹂による住宅市街地形成のあり小々を計倒的
な悦点にたって、また一般住宅山街地では洲放型住宅市街地形成のあり方を街区レベ
ルの視点で倹討すべきである。
熊本市営新地岳地 A (
1
9
9
1
) 低層棟
クソメ
用資 Aフラット
下 関 市 営 白 雲 台 団 地 (1993-96)
基 調 講 演2要旨
す
。
⑦最近作の﹁パ i クコ!ト杉並宮前﹂。いま
までの六例は全部賃貸で、これは唯一分譲
です。緑が穆蒼としたパブリックのグリー
ンに囲まれた敷地。そういう特性を生かし
て、緑のネットワークの一部として設計し
たいという意図で、完全な閤み型の集合住
宅で、内側に小さなミニパ i クをもっ構成
ノてークコート杉並宮前 (
1
9
9
6
)
居住者主体による住宅地の更新
佐藤滋
土地の権利が制分化し両信化が進わしているねんも市街地は、盟ましい形での史新が
巡まず、さまさまな形式の住宅、川川川建築が秩序なく浪花し、防災、住環境、生活基
になっています。建物はフレーム構造で、
撚などの問題がますます深刻になりつつある。州別の住宅の再建だけではこのような
体で進めていくことの必要性は、訟もが認めることであり、その萌芽は近年、少しず
問 題 の 解 決 は 不 可 能 で 、 地 域 の 小 で 共 通 の ルi ルに基づく住宅地の更新を、居住名、正
非常に軽快であると同時にリズミカルな構
ました。いま﹁住宅の量から一世への転換﹂といわれますが、これからのハウ
私は、都市設計の立場で、いろいろな住宅プロジェクトに参加してまいり
鈴木崇英
の立場から
沿道型、高層@超高層集合住宅づくり
講淡2
べく住戸タイプの多い集合住宅を設計することにしています。
住み子にとって唯一の自分たちの住む場への参加になるということで、なる
バリエーションがあるなかで、自分の住む場を選択するという行為、それが
境構成に参加することはできない。住み手ができるのは、いろいろな住戸の
集合住宅を設計しているときには、住み手の顔はみえません。住み手が環
したものです。全一二五戸に対し、二三の住一戸タイプがあります。
成として、建物を背景に緑があるという、静かなたたずまいを達成しようと
つ刑判れつつある。
MM
イメージの共有(山間一上応山仲川変約地以)
日出住名、五体による住宅地兇新計同には、次の三タイプがある。
①北ルハ川建て日行えの述鎖によるけ
② 川 住 者 に よ る 環 境 保 全 の ル i ル づ く り ( 例 一 千 代mKLハ沢山川町)
ノ)
③まちづくり協議会によるまちづくりイメージの先導(例一神戸山肝川北部地似の似
E
住宅市街地を応住者、五体で市民新するためには、さまざまな居住符がまちづくりの目
標 イ メ ー ジ を 合 意 し 共 有 す る こ と が そ の 出 発 点 で あ る 。 ﹁ ま ち づ く り 体 験 ゲi ム﹂﹁三
次 元 立 体 建 て 待 え ゲl ム ﹂ な ど の シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 手 法 が 効 果 を 発 搬 す る が 、 さ ら に 、
更新のプロセス、まちづくりの。プロセスのイメージの共有、更新計闘が目指す生活の
イメージを明確にすること、さらに、応住者主体の市民新一計的を支える社会的な仕組み
J
を 確 比することである。次のように強制引できる。
①空間的出の共有のための支援技術の開発
-イメージ交換のためのシミュレーション子法
.対話型の住環境シミュレーション子法
-都市居住の一冗川上としての新町家
②更新のイメージの社会的介怠形成
.アーキタイプを生み出す方法論
③都市に住み続けるライフスタイルと住宅政策
次べi ジへ続く↑
-ライフスタイルとしての地域内循環凶住
まちづくり体験ゲームの様子
-地域内術環総伎のための住宅政策
-住宅地史新のための役会的プログラム
h立
④抗進、工体の昨m
媛する専門家のみ行成と社会的な地伎の織す-
- 十VA
.推進のためのパ lトナiシップの確しげ一
-地域社会の述営システムの総立
基調講演3要旨
高容積集合住宅の建築計画の課題
111
これからの都市型集合住宅の要件と期待
服部写生
ジング計同は、住戸、住仙仰の建築的な一世にとどまらず、街の一質、
コミ、ユニ一ア
ィの質、一緒に住んで一つの街をつくっていくことが非慌に重要です。
住む人がどういう生活スタイルを望むのか、どういうことに価値を見出し
てそこに住もうと思うのか、そういうものを実現する場として、どういう街、
どういうコミュニティをいかにつくっていったらいいか。私が手掛けた実際
の例をいくつか見ていただきます。
①﹁幕張ベイタウン﹂は七人からなる計画設計調整者という仕組みがあり、
私 は そ の う ち の 一 人 で す 。 総 裁 み を つ く る こ と 、 中 践 を つ く る こ と が ルl ル
です。街の意識としては、生活の感覚、息吹がわかりながらプライバシーが
あ る こ と 。 最 初 に つ く っ た ﹁ パ テ ィ オ ス 二 番 街 ﹂ は 建 築 設 計 はU G都 市 設 計
の山一ト昌彦と宇野求さん。﹁設計者は二人以上でなければいけない﹂というル
i ルがあります。会部で一一二O 戸 ぐ ら い の 規 模 で す が 、 街 区 の ⋮ 胞 が 七Omぐ
ら い 、 一 八m道 路 を は さ ん で ほ か の 棟 に 而 し て い ま す が 、 中 庭 は 四Omぐ ら
いの広がりがあって、開放感は結構、中庭のほうがよい。
口に真っすぐつながる橋をかけています。昔は工場だった土地を、こういう
②隅川川べりの﹁大川端リバ l シ テ ィ 訂 ﹂ 。 親 水 公 凶 を つ く っ て 、 東 京 八 重 洲
住宅地ができるように環境を改善している。地域の環境が悪化する方向にい
建築計尚のす一場から、都市内工間にどういう往築をつくったらよいか、都市の思想的
空間伎を撚る、というスタンスで、論じたい。今後期待されるお容積集合住宅への課
っていたのですが、それを逆転しようという発想で提案して、だいたいでき
oo
SOROと か 、 な る
mで す が 、 実 際 は 一 五0 1 一六Omに な ろ う か と 思 い ま す 。
べくごちゃごちゃした街をつくりたいという試みです。計画案は高さ一一一
縦に積み重ねたようなものです。下のほうは、応とか、
ご と に 木 が 植 わ っ て い る コ ミ ュ ニ テ ィ 広 場 を つ く る 計 的 で す 。 一 Omm建 て を
があり、一トの街でこ00%、 上 の 街 で 六OO%桜 ぐ と い う 考 え 方 で 、 一 O 階
つ の 試 み で す 。 容 積 率 八OO%。 低 府 部 の ﹁ 下 の 街 ﹂ と 超 高 層 の ﹁ 上 の 街 ﹂
③﹁芝浦アイランドの計同案﹂。超高層で高密度の住宅ができないかという一
上ってきている。
題を小心に以下の諸点について考えねばなるまい。
①建築計画にできること
-判山市論なしの建築計的は難しい:::都市計附と山地築計的の危険な関係、ダイナミズ
ムを前提とする建築・住まいの慨しさ
古川則条件
・建築のミクロ秩序を形成する働き・・:人間の実感から形成される住一戸とその近傍の
-家族・コミュニティとのかかわりのけん通し:-家族・地域社会の変容の巨大な力へ
の無力さと気猿らない対応
-問みの現象:::開放型住環境から閉鎖(限み)現住環境への革新の波
②原環境論と則一念的な空間像の模索
-小山飯山械による三段階憐成・・・住一戸・治的制 統
z領域と街路・公悶・都市往築・公共領
校日二段階構成、凶みの中間領域の導入による三段階椛成への期待
私がやってきたのは、住宅で街並みをつくるということです。
>
1
<
-都市住宅の防御性:・・歴史的な防御条何の重視、都市住宅の必須空間
・都市に住む楽しみ・・・賑やかな通り、眺めの良い窓の発生
・ 口川容積化とリゾi ニング・:・ニ i ズ対応の新規住宅供給(高終結化の効果)、人口分
③高等級化のダイナミックな炎化への刈応
ング)
ふ晶子築市街地の生活環境技術、都市の経済活力の河生(リジ
布またはハウジングキャリアの地域特性の変化、都市の用途構成の変化(リゾ!ニ
エ、不レ l ション)
-リジェ、不レ l ション・
-家族の崩壊と倒人化・・単身者の明加、総姻率の低下、出生率の低ト
④家族・生活のす(山花甘と住戸計同
家族の増加
-家族という人間関係の必要性:・・核家族化の変化率の安定化、 疑似山本放・疑似拡大
コミ、ュニ
-往一戸の分解と同編成・::公室・私案桃山以の住宅論の山崩壊、動的な側室の編成による
什江戸計同への期待
⑤近未来のコミュニティと住隙・住宅地計州
ティの崩壊、 同州什凱単伐の権利の依保、 平 等 性 の 計 同
-コミュニティの崩壊と内編・・:側人化、抑州市の人間関係の希薄化による、
住宅地の必要性
-計州的調作“が吋能な計州住宅地への川口リ・-ソシアルミソクス、 エi ジミックス刊r
a'a
閉鎖型配涜による中部領域のつくり方が課題、
-環境空間としてのすさま:手当てされない長大ボリュームの総判定問、 居住環境
⑥すさまと日本的な空山筏築計尚の支任
の民をな右するすさま
-路地ネソトワl ク の 可 能 性
例の安定しない空間特性
があること、 を強制しておきたい。
今後山てくるさまざまな新しい家族のあり方に対して新しい住空間像を提案する必要
もっと追及すべきであること、 環 境 凶 路 の た め の 群 の 形 を 探 り だ す 必 要 が あ る こ と 、
今後の住宅供給の小でハウジングをどう考、えるべきか。四み刑点集 AH
住宅の可能性を
界限性という日本性の担い手
-一史新の目標空間像とすさま・・・ストック、 住宅市街地の居住性を左右するすきま、
i
坑
幕張ベイタウン街区計廼苦言
大川!端リバーシティ 2
1計画案
f
:
l
一番目のテi マ に 、 住 宅 の な か に 非 住 宅 の も の を 入 れ て 、 に ぎ わ い を つ く
ればいけません。
幕張ベイタウンでは、﹃十私張ベイタウン物語﹄という本をつくりました。た
だ建物ができて人が住めばコミュニティができる芯ろうというのではなく、
っていくことができないだろうかということ。特に、若い人に積極的に住ん
でもらいたい、住宅のニ l ズ を 掘 り 起 こ し た い と い う と き に 、 こ う い う こ と
そのなかの活動、交流を積極的に促進しようということで、企画してつくっ
て管理するのか、誰が経営するのか、﹁而倒くさいから、よそう﹂となりがち
ている問題点は、住宅そのものが低質で、小さく、老朽化していること。相
低賃住宅市街地が都心部周辺に広がっています。そういうところで出てき
住宅市街地の更新によるすまいやつくり
の立場から
関野博
講 演3
大事なことだと忠います。
たものです。コミュニティをどうやってつくっていくかというソフトの而が
が必要だと忠います。
二 番 目 に 、 そ れ ぞ れ の プ ロ ジ ェ ク ト に テl マ 性 が 求 め ら れ る 。 環 境 共 生 と
か 高 齢 者 と い う テ ー マ は よ く あ り ま す が 、 も っ と 姻 性 の 強 い テi マもこれか
ら必要ではないか。それによってコミュニティをつくるという考え方です。
三番目に、﹁コミュニティインフラという概念の導入﹂。コミュニティを支
えるために必要なもの、それがあると生活が楽しくなるもの:::託児所、小
さな広場、風呂屋、パン屋:::、そういうものを積極的につくる必要があり
ます。そしてい胎備だから高い家賃をとるのではなく、安い賃料でそういうも
のを成り立たせる仕組みをつくる必要があるでしょう。
四番自に、﹁コミュニティ形成を促進するプログラムから計酷していく﹂こ
です。神戸の震災復興でも提案したことですが、コミュニティ形成のために
隣環境に関しては、建て詰まりということに代表される問題。基盤施設が整
と。先ほどお話ししたごちゃごちゃした街づくりなどは、いったいどうやっ
はこういう条件、こういう施設が必要だということが先にあって、供給側の
備されていない、狭隆道路が広がっている、しかも、私道であること、など
六番目に、﹁スケルトンとインフィル﹂。借りているけれど、市中の造作など
ったのが、一九七八年、七二万一戸で、それが一五年ぐらいの問に一二O 万 戸 減
う と 、 非 討 に 更 新 が 進 ん で い ま す 。 大 阪 で は 木 賃 住 宅 が い ち ば ん ピl ク に あ
事をしてきました。こういった都心開辺に広がる低賃住宅市街地は、実をい
僕はずっと関西の低質住宅市街地日木賃住宅地区の更新に中心をおいて仕
で
す
ノ
。
面倒くささとか都合が先に立つべきではない、と一一一一口いたいわけです。
五番目に、﹁コミュニティとプライバシー﹂。隣りの人の生活がわかるよう
は自由である。そしてそれを安くつくれるようにする。すると、居住者も多
な感じがいいのではないだろうか。
様な人が入るようになり、コミュニティも形成されてくる。これがこれから
っています。つまり、なんらかの格好で更新されたわけです。
密 集 卒 業 制 度 な ん か 使 っ て や っ て い る 更 新 は 、 微 々 た る も の で 、 一 二O 万戸
重要になってくる。
七番呂は、かたちの問題ではなく、﹁金融ビッグパンなどに対応したっくり
けです。そういうエネルギーを誘導する仕組みをつくらないと、とうてい太
を . 更 新 し て い る と い う こ と は 、 そ れ だ け の 民 間 エ ネ ル ギi が 費 さ れ て い る わ
最後に、所有から利用へと時代が移ってくるときに、﹁税制、補助金の考え
刀打ちできません。民間誘導で住宅市街地をつくり変えていけないだろうか、
方﹂がこれから必要となるということ。
方を変える必要﹂があります。そういったこともこれから改善していかなけ
みんな個別更新です。木賃アパートは、手っ取り早く経営が成り立つワン
と い う の が 僕 が ず っ と 追 求 し て き た テi マです。
ルi ム マ ン シ ョ ン に な る か 、 家 主 が 経 営 を 放 棄 す る と 、 建 て 売 り 業 者 の 子 に
渡って、狭小建て売り住宅が建つ。
道路は狭脇道路、二項道路にも指定されていないようなものがたくさんあ
ことですが、そのへんのことにかかわっていかないと、集合住宅化はできま
資産とか、そういう而で新しいシステムを取り入れる。これは非常に難しい
せん。
もう一つ、更新は個別に起こります。それでは集合住宅化はできない。敷
地の統合が必要になってきます。これまた大変な問題で、いろいろな試みが
僕は、とりあえず三つの方向を提示したいと思います。
されつつ、なかなかうまくいっていません。
い わ け で 、 敷 地 境 界 線 が そ こ に あ る と み な せ ば い い 、 実 態 と し て は 四mに広
一つは、権利者協同ハウジングということで、民間誘導がベースなのです
ります。せいぜい中心後退一一 m。 法 律 上 は ﹁ 道 路 を つ く れ ﹂ と は 書 い て い な
がっていません。更新された市街地がいいまちになったのかというと、どう
単純にいうと、二戸当り二五凶の文化住宅を七五討にしようとすると、そ
部の木賃アパート地域は、都市計同道路は計同附されていても、できていない
ころはなかなか入れない。ガワがある市街地はまだいいわけで、大阪の外縁
が、街区のガワのところはディベロッパーが入れるわけですが、アンコのと
れだけで床面積を三倍にしなければいけません。ということは、容積率も三
もそうではない。どんどんそういう方向で更新が進んでいっています。
倍 。 従 前 の 容 積 率 が 一 五O %ぐ ら い で す か ら 、 四 五O %要 る と い う 話 に な り
ンコばっかり。どうしても権利者が協同でやるしかありません。
道路のほうが圧倒的に多い。そうすると、どこまでいってもガワがない、ア
それがなぜできないのか。一つは、多様な選択メニューが必要だというこ
われている更新よりもレベルアップすることができるはずなんです。
その投資がうまく結合できたり、あるいはプラスアルファすれば、いま行な
とは、みんな白力で建て替えているわけです。それだけの投資もしている。
実 際 、 放 っ て お い て も 自 然 に 三O 万 戸 ぐ ら い は 建 て 替 わ っ て い る と い う こ
ま す 。 そ う い う 状 況 の な か で 考 え る と 、 民 間 デ ィ ベ ロ ッ パ l が入ってきて、
﹁等価交換でやりましょう﹂という話は通りません。どうしても、そこに住ん
でいて、そこに土地をもっている権利者に焦点を当でなければいけません。
現状の過密状態からいうと、本来は集合住宅になっていかないといけない
市街地だと考、えられる。集合住宅化のために何が必要なのか。根本的にニつ
問題があります。
と。借家人、借地入、大家、持ち家が集まっているわけですから、希望は全
持ち家向けのメニュー:::、権利タイプが一緒でも、事情はずいぶん違うわ
部述、っ。希望が違うものをくっつけるためには、当然借家向けのメニュー、
その一つは、集合住宅自身の問題。﹁一戸建てを超える集合住宅﹂といえるほ
どの集合住宅はなかなかできていません。一方で、﹁都心に一戸建ては無理なの
けですから、その事情に応じたメニューが必要です。
か﹂という話があるように、どうしても﹁戸連てがいい﹂とみんな思ってい
る。それを突き崩せるような集合住宅を提示できないと、その先に進めませ
に向くかというと、もう一つ問題があります。住宅というのは、資産なんで
質的に戸建てを凌駕する集合住宅ができるからといって、みんな集合住宅
です。そのうえで、呉越同舟が必要。考え方は全然違うのだけれども、その
ずっときている。必要なのは、むしろメニューをもっとたくさんつくること
ニュ i は一つです。メニュ i に 合 わ な い 人 は お 金 で 解 決 し ま す ﹂ と い う の で
昔からの日本の制度は、みんなお金、つまり補償で解決するわけです。﹁メ
すね。この側面は非常に大きくて、この点にメスを入れないことには、どう
ということになるようなメニューを用意できることが必要です。
卒業にはそれぞれの立場での合理性がある。この卒業に協力してもいいな、
最近、﹁テニュア﹂というのがよくテl マになっていますが、所有権とか、
しても集合住宅化の方向に向いていきません。
ん
僕が一つの答えとして試みてきているのが、資産としては独立性がある、
刺繍臼
しかし建物としては一体性をもっていて街並みをつくる、という方法でプロ
大 阪 府j
ジェクトをつくることです。
一一つ白の方向で、﹁ハウジングと基盤整備の一体化﹂。私の手掛けた門真の
朝日地区、東大利地区、両方とも基盤整舗を伴っています。ディベロッパー
にやらせているわけではなく、建て替えているのは地権者です。道路、公開
は公共事業として公共がつくっている。援助するという関係ではなく、協同
でやるということなんですね。コラボレ l シヨンが必要であるということ。
かっ、そのためには、制度的な問題として、ハウジング関連公共施設整備
事業という制度をぜひつくってもらいたい。ハウジングを進めていくために
は、基盤整備が必要だ。その基盤整備をするための、街路一卒業とは違う論理
三つ目は、﹁長期対応・柔軟プログラム﹂。民間誘導でやるというのは、そ
の公共施設整備システムが必要です。
う簡単にはいきません。途中で頓挫することなんてざら。強制力がありませ
んから、合意形成に時間がかかります。そこでだめにならないように、無理
やりごり押しをすることになってしまいます。最終的には、公共団体が全部
引き受けなくてはいけなくなるなんてことがときどきあります。そういうや
り方ではなくて、何カ所も同時並行的に進めるというやり方が必要。
つまり﹁﹃囲碁﹄型戦法でいくべし﹂。囲碁は、自ができてもできなくても
ある程度攻防をやると、そこでストップして、次のところにいく。お瓦いが
なんとなく、相子の出方をみょうかというので、ちょっとおいておく。次の
違うところで攻防戦をやる。で、うまくいけば、目ができる。うまくいかな
くても、次にいく。すると、だんだんつながってくる。ああ、こっちがこう
きたのだったら、こっちはこうすればうまくいくじゃないかと、全体的な戦
いが進んでいく。非常に広大な低層密集住宅市街地をどうアタックしていく
かというと、そういう囲碁と同じような考え方をとらなければいけません。
そのためには、いろいろな体制とかシステムが当然必要になってくるのです
が、その話をすると時聞がなくなってしまいますので、 こ こ で 終 わ り た い と
氷室霊アパート容器言葉地区の金濁蒋閣発
木後アパート密室整地区の段露若手専問苦言
思います。
講演4
公共住宅@都市住宅地の計画主体
の立場から
大村芙美雄
げられるかというと、必ずしもそうではない。 い ろ い ろ な 変 化 が 起 き て い ま
す
。
③﹁高齢化﹂。民営借家で入居を断られるのは、一番E が 外 国 人 、 二 番 目 が お
年寄り、特に単身のお年寄り(男子の単身者は比較的動くが、女子の単身者
はあまり動かない)。都心間性を考えるときに、出齢化の問題は避けて通れま
せん。
2都 心 居 住 推 進 の 塩 路
地怖が高いことと、適地がないというこ点。それをどうやって克服するか。
①高地価対策つまり地価を顕在化させないで事業ができるかどうか。要する
1状況
目いっぱいやるにはどうしたらいいかということです。
②土地の高度利用。超高層がいいか悪いかという議論はありますが、複合化、
ただくて﹁附置義務住宅制度﹂を活用して地怖を顕在化させない。
化させないで、市場の価終で折り合うところまでで土地の値段を我慢してい
に、簿価の状態で運営をしていただく、借地でやるか等価交換(地価を顕在
①﹁価格・規模・経常のトリレンマ﹂。家賃水準は平均年収入O O万の二割、
高密度で、土地持ち分を軽減することによって、より安い住宅をつくる。そ
私ども住宅・都市整備公団の仕事は、いまある制度仕組みの制約のなかで
年間一六O万 円 で 払 え る の を 標 準 に 考 え て 、 規 模 は 誘 導 水 準 以 上 が 半 分 と い
てもらうことで、コストを下げる。
れから、再開発とか要綱事業、さまざまな制度手法を使って、補助金を入れ
東京、南青山の﹁コラム南青山﹂は、借地方式で島根県の事務所と宿泊所
ことをやっていますが、実例を幾っか見ていただきましょう。
③﹁適地の創出﹂も以上のこととまったくリンクしていまして、 いろいろな
う言い方で、結構大きいものを要求されています。それを借金しながら経営
っています。大変厳しい状況のなかで仕事をさせていただいております。
していきなさいということですから、これをわれわれは﹁トリレンマ﹂とい
最近は量的にも足りて、選択の時代に入ってきました。高くて不便なもの
は借りていただけない。よりよいものを供給するということで、一生懸命試
へのスプロ i ル と い う 状 況 か ら 、 現 在 は 、 商 業 ・ 業 務 が 住 宅 地 の ほ う に ス ブ
②﹁六0年代の商業・業務のスプロ l ル﹂。都市への人口集中、そして周辺部
従来の方がもっておられて、相互賃借権を
O人 を 起 し て い ま し た が 、 土 地 は そ の ま ま
神田小川町のある共同ビル。権利者は一
と公団住宅をつくった例です。
ロl ル し て い る 。 し た が っ て 、 都 心 の 住 宅 地 が 混 乱 し て 、 い ま そ れ を 取 り 戻
かけて、上に住宅を幾つかの制度をだぶら
行錯誤している状態です。
そうとしている時期なのかもしれません。
住宅と商業と業務をミックスで供給しようとするときに、場所によっては、
やっていますが、一 O人 ぐ ら い で す と 、 任
は、組合施行も、個人施行も、公開施行も
せてつくっています。再開発という意味で
住宅がいちばん値段が高く出せる。商業はほとんど値段が出ないなんでいう
意の共同化のほうが早いし、現実的。これ
片方で、都心そのものもずいぶん意味が変わってきています。共同化して、
時代にまで変わってきて、商業を入れて容積を上げれば、住宅の貸し値を下
コラム南青山
は優良再開発の制度をかませた例です。
住友倉庫と⋮絡にやったもの。公民が土地
を取得して建てているのですが、事務所棟
の附置義務部分と、一部都営住宅があり、
六本木の林野庁の跡地を森ビル以下六社
が払い下げを受けました。区が住宅のあり
全体⋮体でやることによって、住宅のみの
スをつくっています。そういうスペースは、
フロア、間O Uほ ど の コ ミ ュ ニ テ ィ ス ペ ー
者で開発しています。ここではこの中に六
ム口場の海浜公開。公社、公団、都常と一二
大変むずかしい課題だと忠っています。
なかで今後どういうことをやっていくかは、
かなか出てこなくなりますから、そういう
済になったときには、増進ということがな
右蔚上がりではなく、うつむきかげんの経
いうことを合めて一一一ぬっているわけですが、
盤整備を行なうことで地価を上げていくと
域を買って、そこを色塗りを変更して、法
況がなかなかできません。たとえば調整区
この﹁化けさせる﹂というようないい状
したという例です。
てきた。いわば、土地の裕を上げて開発を
れるようになって、こっちの池絡が上がっ
よって、どん詰まりだったところが抜けら
言い方をしていますが、橋をかけることに
地一肢は、われわれは﹁化けさせる﹂という
琉境改許したという訴がありました。新川
鈴木さんから、大川端に橋を架けることで
土地買を安く済ませることができた例です。
容 積 が 一 二 瓦O %つくれる。したがって、
方に注文をつけて、では、公団が半分子伝
いましょうと。住宅棟の右側半分が公開校
宅で、左側が森ビル以下六社の住宅です。
こ れ は 借 り 受 け 制 度 を 使 っ て 、 二0年 間 公
団が借り受け、上物を建てて、建設費をも
らいながら、借り受け料を払っていくとい
うものです。
恵比寿ガーデンプレイスは、もともと容
積率二OO%の 工 場 跡 地 を 四OO%に塗り
替えて、オフィス二棟と住宅ニ棟が建って
い ま す 。 北 側 が 公 毘 住 宅 で 、 問OO%のと
ころで八OO%使 わ せ て い た だ い て 、 土 地
費を下げてコストダウンを悶っています。
住宅の開発に合わせて公共施設も整備して
いくような特枠の制度によっています。
﹁トリニティ芝浦﹂。東京都の総合設計制
度のなかでは、住宅については容積の割増
の制度がありますから、隣接の二地主と協
力して、オフィス開発をなさる方が住宅の
容積をいただく。その容積を公団が建てる
分の業務床と交換して、住宅のきわめて高
い容績を実現しました。したがって、土地
費を下げたという事例です。
新川二了目は、先ほど鈴木さんのお話に
出た﹁リパ i シティ乱﹂の対岸のところで、
トリニティ芝浦
1より見る
新川!二丁呂をリハーシティ 2
シーリアお台場三番街
神田小 J
I
II
lJ
ハイツ
六本木ビュータワ
林野庁の跡地の再開発
恵比寿ガーデンプレイス
公団は何十年間もつくり続けて、失敗をし続けています。やはりソフトのほ
うが大事ですから、ここでは、使い方について公開の人間も一緒に入ってや
らせていただいています。うまく根づいてくれるかどうか。単純に物をつく
っただけでは、そういうものが生きてこないというのが数十年の聞の失敗と
たいどういう課題があるだろうか、 という点について議論したいと思います。
新しい住宅地のあb方
最後に、今後の﹁課題﹂ですが、きょうの中心的テーマである﹁都心居住
ています。これからは都心部に幹線道銘をつくる仕組みをとっていく必要が
てきました。地方都市にバイパスをつくり、地方の中心市街地の衰退を招い
う話がありました。いままでの道路づくりは、地方の郊外部に道銘をつくっ
八ウジングと基盤整犠の一体化
ビジョンの構築﹂ができていない。郊外型の住宅問地の開発については、わ
小林間野先生から、大阪の木賃地域にはガワがない、アンコばかり、とい
れわれも数十年の経験で、どういう環境を礁保していくかということをずい
あるのではないか。そのことによって、ガワをつくっていくという議論も必
して反省をしているところです。
ぶん学んできました。都心居住についてはまだ十分整理ができていないのが
要ではないか。
3課題
正直なところです。
元、こういう役割分担の話と制度とが密接に関連していくのだと思っていま
﹁再開発事業制度の改善﹂や﹁役割分担﹂。国、地方、一卒業者、個人、地
外 は 基 本 的 に お 金 を 出 さ な い 問 題 が あ る 。 四 mとか六 mの 道 路 は 自 前 で 整 備
関連して、一二 m以 上 の 都 市 計 画 道 賂 で あ れ ば 閣 は お 金 を 出 す が 、 そ れ 以
服部(司会)三者の基調講演、さらに、四者のお話を踏まえて、新しい家
いは居住者参加の意味はいったい何であろうか、環境の更新と改良にはいつ
族像、コミュニティ像に対応して、どういう﹁図﹂が描かれるべきか、ある
れは埋めないでいいものなのかどうか。それをどうつないでいくかを真剣に
佐藤﹁図﹂と﹁地﹂の間はますます広がるなという感じがしています。こ
今後問題があるということですね。
服部道路は基本的なインフラであり、その整備の理屈が出てこないのは、
く必要があるのではないか。
はないか。﹁ハウジングと基盤整備の一体化﹂という理屈をはっきり阻めてい
整備を行なう根拠づけとしてしっかりやっていくという両もあっていいので
基盤整備を行なった自治体に入ってくる。そういうシミュレーションを基盤
建ての都市型の住居が建てられる。その結果、固定資産税その他が永続的に
基 盤 整 備 を 行 な う こ と に よ っ て 八 mの 道 路 を 入 れ る 。 そ の 周 辺 に は 、 五 階
ければいけない。お金の配分にかかわる問題です。
えでの大きな課題です。既成市街地における道路関係の投資をもっと図らな
れをどうやって実現していくかも、これからの既成市街地を再編していくう
Omの 道 路 を ど う や っ て つ く る か と い う 論 理 が わ が 国 に は あ り ま せ ん 。 そ
一
し な さ い と い う こ と な の で す が 、 細 か な ガ ワ の 構 造 を 形 成 し て い る 八 mとか
パネルテ'イスカッション風景
す
。
吉
岡
討
:
:
.
0
.
もう一つ、いろいろな大規模プロジェクトが動いていますが、それをきち
み子にいい住環境を提供するためにはどうしたらいいかということ。しかし
もう一点、設計する場合、どうしても住み予の立場で設計しがちです。住
有領域を中心に組み立ててみようと、そんな気持ちでスタートしたわけです。
んと関係づけていくことが必要ではないか。要するに、﹁図﹂と﹁圏﹂を関係
これからは町の視点に立つ、すなわち周辺環境との関係をどうするかが、非
考えなければいけないと思うのですが。
づけていく仕組み。街銘でつながっているとか、スーパー堤防でつながって
常に大切なことではないでしょうか。
などに接するパブリック度が高い共有領域と、集合住宅の共有領域、すなわ
私が手掛けているのはかなり小規模なものではありますが、道や周辺環境
いるとかということはみえてきますが、そこにできているもの同士の関係で
いままで幾つもつくってきたものをどんなふうにつなげていって、一つの
ちプライベート度のわりと高い共有領域がどういう関係をもってつながって
いうと、あまりにも野放図になりすぎているのではないか。
イメージをつくっていくのか、そのへんが重要ではないか。公団も新しい仕
いったらいいのか、そういうことを絶えず考えながら設計しています。
と各プロジェクトの
組みができて、そのあたりはどんなふうにお考えなのでしょうか。
L
﹁図﹂との接点になりうるのではないかという気はしています。
そのような﹁町への視点﹂が、市街地における﹁地
手掛けておられるつくり方に非常に隔たりが出ています。今後の住宅市街地
服部いまの理論は非常にわかりますね。そのことが町会体に述鎖的につな
瓶部住環境を整備していく課題として、大規模な開発と、佐藤さんなどが
をどういうふうに考えていったらいいかという話から入りましょうか。
はないかと思うのです。都市全体を更新するというような権力的なことでは
がっていく構造というのが、おそらく早川さんのなかの市街地のイメージで
ないかたちで町をつくりかえていくというお考えのように忠います。
総論から入ると非常にやりにくいので、個人的な好き嫌いも含めて、新し
い住宅地のあり方ということで、皆さんにお話を伺いたいと思います。
集 合 住 宅 佑li資 産 は 分 離 し て も 建 物 は 一 つ
間野さんは﹁集合住宅化しないとだめだ﹂と一一一一同われましたね。
ッパの集合住宅を比べたときのいちばんの差は、そもそも集合住宅が発生す
間野撲はデザインとは別の方向から話をしたわけですが、一一戸当りの敷地
早川いままでの日本の集合住宅と、集まって住むという歴史が古いヨーロ
住宅設計における町への視点
る基盤がかなり違うということです。
od というのでは、一戸建てはないだろう。実掠に一戸当り
効 率 的 で は な い か と い う こ と で 、 工 場 に 付 随 し た 宿 舎 が 集 合 住 宅 の ス タi ト
を発展させるという目的から、住むところと働くところを一緒にしたほうが
門真の﹁カルチェ﹂にしても、東大利にしても、都通四丁自﹁カルチェ・
のではないか。だから、高容積化、高密度化するという話でもありません。
それぐらいの敷地面積しか確保できないとすれば、集合住宅化するしかない
面 積 が 四O M、五
です。集まって住む豊かさ、楽しさが日本の集合住宅には、感じられません。
ドゥ・ミロワ﹂にしても、これから住宅市街地のなかで更新していくときに、
日本は、明治時代に入ってから、国の産業を興す、国力をもっとつけ経済
一方、ヨーロッパの集合住宅は、ガウディの集合住宅とか、ロイヤル・ク
レッセントとか、カール・マルコスホフとか、そこで感じるのは、空間自体
積み重ねだけで全体ができている。ところが、ヨーロッパの集合住宅をみる
またがる再強備ということになる。したがって、グルッと道路が新しくでき
の更新からいうと、かなり大きいわけで、通常の市街地からしたら、街反一を
﹁カルチエ﹂は、七四OOMあります。通常の一
oodl二oodぐらい
プロトタイプとして十分に使えるものを提案したつもりなんです。
と、倍々の集合を成立させている共有領域のなかに﹁ハレ﹂の空間がある。
ていますし、公園もできている。そこに四棟の囲み型の抵層高密度の賃貸マ
が非常に豊かであるということ。日本の集合住宅は、﹁ケヘ日常的な空間の
私は集合住宅を設計するとき、共有領域、それも﹁ハレ﹂の空間としての共
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一
されますか。プロトタイプ的な意味で:::。
間野田み型に関しては、僕も非常にいいなと思っていて、どのプロジェク
トも設計者はそれぞれ違うのですが、みんな問み型で設計することになりま
した(笑)。
市街地のなかで住むかたちとして、回み型は、日間条件などからは難しい
閣があるのですが、まとまりという点ではいい。同時に僕は、権利とデザイ
ってきているのですが、それをやるには屈み型配置は非常に分割しやすいん
ンを分離して、資産は分離するけれど、建築は一緒だということをずっとや
ですね。低層高密で、ユニットがグルッと回っていると、いろんな切り取り
方ができる。で、資産を分離しやすい。かっ、街並みとして一体化できると
いうメリットもある。非常に実利的なことでも評怖できると思っています。
服部早川さんがやっておられるのは一敷地ですよね。間野さんの場合は、
幾 つ か の 敷 地 に 分 け た 状 態 で 、 壁 を パ ー テ ィ ー ウ ォ l ルなりブランクウオー
ルにしておられるわけですね。敷地を区分所有ではないかたちで使えるよう
にしているということだと思うのですが、そのあたりは佐藤さん、小林さん
東大利も七一 OOUで 、 各 単 位 は 、 八001 一二OOMの ユ ニ ッ ト で 住 宅 が
り多いわけですが、﹁大規模なものをつくってどうする﹂というニュアンスの
な場所もたくさんありますね。鈴木さんや大村さんはそういうお仕事がかな
市街地はさまざまな意味で大規模な土地利用変換を伴って再開発するよう
の話に連動したのではないかと思います。
建てられています。現道を利用して、それを建て替えと向時に拡幅する。部
こととか、﹁さらにその更新はどうするのだ﹂という心配の向きの話もありま
す。プロジェクトが都市全体のなかでどういう意味をもってくるのか、そう
二OOOU、 つ ま り 街 区 単 位 で 動 か す と い う こ と に 関 し て は 、 難 し い と は い
る と こ ろ に 成 立 可 能 な の で は な い か 。 ユ ニ ッ ト と し て 考 え た 一 五OOMとか
家をもとうと採しだしたら、手ごろなところで計画的につくられたもので、
鈴木私は東京生まれの東京育ちなんですが、結婚して賃貸アパートに住み、
公団がつくってきた団地は田舎風
いうことを合めて、鈴木さん、お話しいただけますか。
え、低質住宅市街地のなかではどこででもやれないことはないという思いで
いうのが、この仕事に携わる動機にあるのです。
たのですが、どうも違和感がある。それで、住みたいところをつくりたいと
買いたい家、住みたい家、住みたい住宅地がなかった。公団もいろいろ考え
す
。
3VAnnv
問問立回
それで、回み型なんですよね。早川さんの設計されたものはどう評価
やっています。そういうものがずっと広がってくれたらいいなと思っていま
そうしてみると、一つひとつのものは、そんなに珍しいものではなく、至
共同建て替えを進めていくということを可能にしているわけです。
分的には買い取って公国をつくる。公共と地権者が協同して段階的に順番に
東大利地区は、段階再開発というやり方で、いっぺんにやっていません。
ンションを配置している。それぞれは、一一一OOi OOOMぐ ら い で 、 そ
一
一
れが四つ集まって一つの町をつくっています。
問
符.
inhu
公団がつくってきた団地は、 どうも閉会風だと僕には思える。平行配置で、
いきなり土の上にコンクリートの塊が載っかっている。思くいうと、掘立て
式みたいな感じ。地方から東京へ出てきた人が住みやすいということがあっ
一緒に住んでいる、ということをいわれたのではなかろうかと忠います。こ
れは街とかコミュニティをど、つつくるかということにつながる問題です。
服部さんが、私は大規模なものをつくっているとおっしゃったのですが、
みんな都会人になってきた。都会的な生活をしたくなってきた。そうすると、
ところが、最近は、そういうところで育った人たちのこ代目が出てきて、
すが、これからの問題として、いかにそういう街をつくるか、ではないでし
ます。私は都市設計ですので、ついそちらのほうに流れてしまう而はありま
鈴木大きいと、いま言ったようなことが実現する余地があるとは思ってい
大規模にこだわっているわけでは全然なくて:::。
積極的にこういうところに住んでみたいというものがない。一方、欧米の住
ょ、っか。
たのではないでしょうか。下町的な、おつき合いがあって、生活の息遣いも
宅地も旅で見できたりする。外国の真似をすればいいということではないで
一度、団地生活を経験した入は臨み型が貯き
膿部ごめんなさい。絵が大きいようにみえているんですね。
すが、一緒に住んでいるということが、何か共通の価値観を感じて住んでい
服部なかなか意味深なお話でした。私は、住居履歴と好きな住宅のタイプ
感じられる集合住宅。そういう而が公匝住宅、団地には感じられない。
るのではなかろうかということを感じだした。
が、私は、離れれば離れるほどいいと思っている。一般解ではなく特殊解、
の人です。十段抜東京にきて、最初にそれなりの家に入る人が超高層が好きだ
な人は確実にいるんです。どういう住居経歴をもっているかというと、田舎
を調査・分析したのです。超高層はほとんど嫌いな入が多いんですが、好き
そういういろいろなライフスタイルに合うものが幾っかできればいいなと思
と。好き嫌いで入るかどうかは加にして。で、いったん団地生活を経験した
そうなったときに、先ほど﹁関﹂と﹁地﹂が離れているというお話でした
っています。
ユニティに住んでいるというもの。そのなかでの自分のアイデンティティだ
てきて、その近代的な家の象徴が、問地だったのではないか。現在ではそれ
日本の戦後の近代化の過程のなかで、非常に多くの地方の方が東京に入っ
人は、中高層の閉み型が好きだと。そういうふうにはっきり出ます。
と思います。伺性のある街、そのなかでまったく同じユニットが積み重なっ
が超高層。いったん団地を経験して、次にどうなるかということになると、
﹂、つい、つコ
ているというのではない、自分は違うものに住んでいるという意識をもちた
新しい意味づけをもった家づくりが必要になってくるのではないかと忠、つん
いまの人たちが街に求めるのはたぶん、街への帰属意識と、
いということがあるのではないか。
大村さん、お願いします。
ですね。﹁地﹂から離れるほ、つがいいというような過激な発言もありました。
いるところが違うということですが、日本の場合はあまりそういうことがな
基盤整備は都市経営の視点で
その帰属意識、欧米の例ですと、お金をもっている度合いによって住んで
くて、これからは、趣味とか、時間をゆったり使いたいとか、こういう人た
大村かつては開発利益がかなりあって、ある一定の大きさの開発をやれば、
ました。ところが、現在、増進がそうない時代になったときに、どういうス
ちとつき合いたいとか、そういう価値観を共有できるような単位で住みたい
かつて﹁日本人はウサギ小屋に住んでいる﹂と一一一日われてみんながっかりし
キi ム で や っ て い け る か を 考 え る と 、 や は り 日 本 型 の ラ イ ト ダ ウ ン み た い な
それに見合う基盤整備を開発側で負担して、それなりのものが整備できてい
た。そのときは、小さくて見すぼらしい家に住んでいると受けとったと忠う
仕組みをつくらないといけない。アメリカのライトダウンは追い出し型で、
という方向があるのではないでしょうか。
のですが、実はそうではなくて、集合して住む意味が全然わかっていなくて
逆にいうと、公団みたいな組織は、﹁地﹂をつくる仕事、いろいろな﹁閲﹂
れるようで、本当は歯切れよく、新しい住宅のイメージなり住宅地のイメー
服部大村さんは、なかなかいいにくい研究中のこともたくさん抱えておら
は大事だと思います。
が掛けるシチュエーションを一生懸命つくりなさいというのが、今聞の組織
ジをお出しいただければ、大川端の次のステップの提案がどうなっていくか
問題がないわけではないですが。
改変の大きな目標でもあったなと思います。それを支えるためには、﹁日本型
ということがわかってくるのでしょうけれども。
同潤会江戸川アパートは閤み型ですが、同潤会の代官山は、囲み型ではな
限定されたなかで実現していくものなのだろうと思います。
佐藤中庭閤み型、これが本当にすべていいとは僕は思わない。やはりある
ライトダウン﹂が必要なのではないか。
立川駅北口再開発で、都や国から補助金をいただいたのですが、あとの経
済効果を考えたら、国と都は一年で、市も三年ぐらいで取り戻しちゃった。
公共団体にしてみれば、固定資産税は上がるし、そこで経済活動が活性化す
りある種目本的な、時間をかけて段階的に物をつくっていくとか、基盤と一
いんですね。当時のヨーロッパのものをいろいろもってきていますが、やは
いままでは、タダの金は﹁やってしまう﹂みたいな発想で公共団体は考え
緒に物をつくっていくなかでできてきた、自然な空間のおもしろさをもって
ることで別の税収が出て、かなり短期間に取り戻している。
ているんだけれど、都市経営として、このぐらい投じれば、あとで一民ってく
先 ほ ど 鈴 木 さ ん も 、 三OOmの一トにそういう街をつくりたいとおっしゃっ
いたのではないかと思う。
のですから、回収のしょうがないので、それは公共団体にやってもらうしか
ていたのですが、それはデザインの問題ではなくて、ある種のつくっていく
るよと。公団みたいな組織は、あとで税金を国民からとるわけにいかないも
ありませんが。そういう視点で基盤整備をやれれば、道路、公閣というレベ
仕組みの問題とリンクしないと、なかなかうまくいかないでしょう。
たとえばアメリカのミッション・ベイ。これはまだできていませんが、中
ルからもっと時み込んだ、公共山に地やアトリウムみたいな共同の部分まで
の繋備ができてくるのではないか。そこまで公団みたいなところが自分でつ
庭回み型で、それを何重にも閤んだりしています。それはつくる仕組みとか
はわりと市場性のあるものをつくってと、維持していくためにも、仕組みも
くってしまうのではなく、建築家、都市計画家が力を発揮できる仕組みをど
都市のなかで何を我慢するか、その代わりに何を手にするか、を考えると、
同時に考えている。中庭の閤み型とか、形態だけの問題ではなかなか解けて
主体を組み合わせていって、奥のほうには安いハウジングをつくって、表側
やはりかなり装置化した共用部分が大事になってくるでしょうから、誰がど
いかないのかなと思います。
うつくっていくかということだと思うのです。
うかかわって、どういうお金を使って、というようなことを考えた仕組みを
日本の法制度は近隣との関係を協調する仕組みを持っていない
いるんですが、どうして囲んでいくのかなと考えてみると、周辺の環境をあ
早川川私は自分で設計して、結果的に、間み型といわれる集合住宅になって
つくる必要があるのかなと思います。
公団はまだそこのところが十分にできていなくて、鈴木さんがおっしゃっ
ただ、﹁大川端リパ i シ テ ィ 泣 ﹂ は 、 公 団 の プ ロ ジ ェ ク ト の な か で は 数 少
ものであれば、当然われわれはそれに対して積極的な関係をもっていこうと
辺の市街地の空間的な骨絡、環境の特性が欧米のようにかなりしっかりした
まり信頼していないということが、たぶんいちばん大きい。﹁地﹂の空間、周
たように、﹁地方から出てきた人が安心して住める街﹂から一歩も前に出てい
ない、一一0年 間 同 じ 人 間 が か か わ っ て や っ て き た プ ロ ジ ェ ク ト で 、 た ぶ ん 同
します。
ないかもしれないですが、いろいろな試みはしています。
じ人がずっとかかわってやっていける仕組みも、 コ ン ト ロ ー ル と い う 意 味 で
司令d
ρnu
日本は時間の変化が速くて、隣りが更地であっても、その更地を利用して
周辺に素材的に何か合わせるようなものがあるかというと、素材もまちまち
ない市街地を、どういう制度的な枠組みで、あるいは環境条件を配慮したう
た数千ぽ単位の低層高密の住宅市街地まで、多様なものが共存するかもしれ
わが国はどちらもない。非常に大規模な超高層から、アンコのちまちまし
う意味で、また、予想可能性が高いわけです。
である。スケールもしかり。既存の周辺の環境を信頼して、そこに融合して
えでつくりうるのかという、非常に難しい、どこも経験していないようなこ
なんてことは考えられない。隣りに何が建ってしまうかわからない。では、
いく姿勢がなかなか生まれない。とにかく自前の変わらない空間を内側につ
とをやっているのです。
服部典型的な窓先空地問題とか、今後、非常に大きな改革が行なわれるで
家族のあb方
、 コミュニティのあb方
くり込もうということが結果的に閤み型をつくっていくことになります。
幕張のプロジェクトは、既成の市街地ではなくて、自分たちで新たに市街
地の環境をつくっていくわけですね。街時空間を明確につくりだしていこう
と。要するに、ヱッジをしっかりつくっていこうということから、それはそ
れでまた関み型というのが発生していくのではないか。
日本の法制度は、隣りとの関係を協調州するような仕組みをもっていません。
います。中規模のブロックが幾っか連帯していって市街地ができるときに、
藤さんがいわれるように、いろいろな背景の条件のなかで考えるべきだと思
服部私も囲み型については、いろいろなかたちの追求があっていいし、佐
新たに開発するところではちょっと違うのではないかなという気がします。
ベーシックなスペースを貸して、オプションで付け加える住宅に
なぎ合わせてお考えになっているのかお話しいただこうと思います。
特に家族、社会の変化などについて、いまお話しいただいたことと、どうつ
ダブテl ションの問題というような会場からの質照もありますので、生活、
え方があるのか﹂という質開をいただいています。高齢者の開題、ハウスア
こしているのではないか。そういう変化に対して、どういうハウジングの考
京大の古川田先生から、﹁生活の変化は、社会、コミュニティの変化を引き起
しょうから、期待したいと思います。
法律そのものがお互いをばらばらにするつくり方になっている。あらためて
大村大きくは、いま非常に股帯が小さくなってきていて、公団の居住者は
一概に閥み型といっても、既存市街地のなかでの極み型の発生のしかたと、
いし、消極的に囲みになっているという早川さんのお話です。で、おそらく
協調しようということによってはじめてできるわけです。なかなか連帯しな
ものが出てくるのではないかと期待していますが、 いかがでしょうか。
新しい答申のなかにいろいろなものが出ている::・。今後、積極的な意味の
かなという気がしています。
う世界になってきている。つくるものも家族規模によっても変わってくるの
一 了 九 人 を 割 っ て い ま す 。 一 人 四O Mと し て も 、 三 人 で 一 二
odあればとい
小林おっしゃるとおりです。ヨーロッパでは保全地域という市街地がほと
りいろいろなものを取り付けないで、ベーシックなスペースだけを貸して、
いま服部先生とご一緒に勉強させていただいているプロジェクトで、あま
地はほとんど連帯市街地という住置づけで、そこは周辺との調和を前提とし
それにオプションをいろいろつけることができないだろうかということを考
ん ど で 、 ロ ン ド ン で は ウ エ ス ト ミ ン ト ス タi の 四 分 の 三 、 ド イ ツ の 中 心 市 街
て建築許可が下りる世界です。ですから、そこに住んでいても、周辺にどう
ム、あるいは仕事部屋なども借り足せるということができないだろうかと。
えています。簡単にいえば、家族の仲長に合わせ必要な部屋やストックルー
アメリカはそれがないために、しっかりしたコ lドをつくって、地域ごと
物をつくるのは簡単ですが、それを支えるソフトのほうが問題で、そうい
いう建物ができるか、だいたい予想できる。
に 、 建 築 の タ イ プ ま で 設 定 す る ゾi ニ ン グ で コ ン ト ロ ー ル し て い る 。 そ う い
がやっていくかなどがカバーできないと、制度として成り立っていきません。
う需要にパッと対応できるように空いた部分を確保できるか、その管理を誰
は借上げ公営に入れてもらうから、自分としては近くに転出したいとか、そ
ちゃんと同じフロアに住みたいとか、転出するのだけれども、おばあちゃん
は、同じ階に部屋がほしいという。分譲に入る人も、自分が世話したおばあ
んな話がいっぱい出てきた。まだまだそういう世界がある。
同じように、コミュニティという議論も、階段室のコミュニティなど固定
されたものではなく、選択型のコミュニティではないか。こういうところに
つながっていく人たちを、。フロが入って集めて、最初の仕掛けをしていくよ
そうすると、コミュニティスペースを用意することに終わらずに、そこで
ィを母体にした新しいコミュニティをつくっていくのではないかなという感
んでくるわけですね。たぶん新しい人たちを受け入れて、もとのコミュニテ
その一二O 戸 の 人 た ち は 、 も と か ら 住 ん で い た 人 た ち の コ ミ ュ ニ テ ィ に 入 り 込
都通四丁目は、情上げ公営住宅として一二O 戸ほど新規供給されるのですが、
うなことをしていかないと、なかなかうまくできていかないだろう。そうい
じがしました。
住みたいという人が入るコミュニティを考えるべきだろう。
うことも含めた、住宅サービスの水準、管理の水準、そういう部分に新しい
論もあるのではないかと思うのですが。
ておられるようにみえるんですね、大阪では、東京での話とかなりちがう議
初のコ i ディネl ト の 段 階 で 、 家 族 と か コ ミ ュ ニ テ ィ を 相 当 き め 細 か く 考 え
っていました。関野さんの手掛けられたものをみていると、更新の際に、当
臓部間野さんにはこういう質問をしたいのです。権利者協同型とおっしゃ
のではないかと思いますが。
蝦部非常に暗示的でいいですね。鈴木さんも江戸つ子っぽい家族論がある
そういうのがいいなと僕は思います。
いコミュニティをつくる。ものすごく古くさい話になるのですが、やっぱり
てくる。その新しい人は古い人のなかに受け入れられて、より拡大した新し
繰りにもとの近隣関係を維持しながら.更新していく。そこに新しい入も入っ
一回戻ることは非常に難しいのだけれど、その近所周りぐらいでお互いに順
佐藤先生が地域内循環賠住とおっしゃいました。要するに、同じ家にもう
地域循環扇住のすすめ
住み手が自出につくれる住一戸プランに
仕事があるのかなという感じをもっています。
の先端部分では、確かに家族の崩壊とかがあるのですが、既成市街地のなか
鈴木先端をいく建築家の方が、家族のあり方が変わって、個室が第一にあ
関野基本的に、下町的なものが常にベースにあることは確かです。肢の中
に入って権利者と話をしますと、もっと古くさい部分がまだいっぱい残って
り居間同みたいなものは後ろにあればいいというような住宅を設計して、それ
が話題になったり、それがいまの家族のあり方を住一戸プランに反映している
いて、特に都心周辺の既成市街地は、基本的に古い町です。
例を挙げると、都通四丁目は、阪神大震災のあとに入って、いま建設中な
っているみたいなところがあり、ものすごくおもしろい。例えば、身寄りが
うがいいのだということには結びつかない。個室をつくると引きこもって教
単に若い人がわがままになってきていることを、住戸プランに反映したほ
といわれたりしている。私はそれはちょっとおかしいと思います。
なくなった白分の母親の友人を、まったくの赤の他人なんだけれども、家族
育上よくないというような、先に家族のコミュニケーションがあったほうが
のですが、ここは戦前長屋なんですね。ここの家族は、他人向士が家族にな
に入れ、一緒に生活していたりする。権利者が三三人いて、実際に住んでい
いいのだ、という話に置き変わる程度のことであれば、それによってプラン
家肢のあり方というのは、もっと昔の、通い婚をやっているころといまを
あるいは住戸のあり方が変わるほどのものではないだろう。
るこ九世帯のなかに、他人の面倒をみている家族が三世帯あった。
建て替えの計画をするとき、本来からすれば別世帯ですから、そのおばあ
ちゃんを借上げ公営へ入れるわけです。そうすると、ずっと佐話していた人
くるかもしれない。あるいは、男と女でも結婚はしていないとか、そういう
か、もっと極論をいえば、男と男が一緒に住みたいというのもこれから出て
結婚したくないから、あるいはしなかったから仲のいい友だちと住みたいと
い い 女 性 同 士 が 住 むi l若 い う ち に シ ェ ア し て 住 む と か 、 年 と っ て か ら も 、
比べれば、最近の変化は全然変わったといえる話ではない。それより、仲の
がある状況に、住一戸の問題は、どう
たように、さまざまなバラエティー
ますし、いま鈴木さんのお話にあっ
んのおっしゃるような家族像もあり
て、あとはプラスするという大村さ
んがいわれ、また最低の単位をもっ
してもなってきているような感じが
ような家族のあり方もある。
大村さんのお話のように、ベーシックなものをどうオプションで変えるか
るようになっている、そういう観点はいかがですか。そういう住宅計画、あ
社会に進出するとか、いろいろな意味でわれわれは外部化したものに依存す
ではなくて、自由自在にいけるものがいいと、そういう主張ですね。女性が
服部ということは、住戸プランそのものは、型みたいなものでとらえるの
味です。
いとか、個室をいっぱい並べたい入はそういうふうにできるようにという意
って変わっていいではないか。ぽ開がものすごくでかくて、個室が小っちゃ
好きに仕切れるとか、内装を好きにできるということで、それぞれ個人によ
鈴 木 い え 、 も し ゃ る の な ら 、 八O 討の住戸の中が間仕切りも何もなくて、
たようにも・・・・・・。
ある﹂という風潮も祉の中にあるわけで、鈴木さんは相当古い意見をいわれ
ぱいあります。設計者となればもっといます。﹁ああいうプログラムは制度で
の住戸プランはなんなんだ﹂という意見は、私の同僚の学者のなかにもいっ
ストL D瓦 が 課 題 だ ﹂ と い う 説 が い っ ぱ い あ り ま す 。 い わ ゆ る ﹁3DK剖 り
服部なんとなく対立的な気持ちもないわけではないですが。祉の中では﹁ポ
民間の集合住宅であれ、公営の市営
それを設計するよりしょうがない。
ころに住んでみたいと忠えるところ、
うことになると、自分がこういうと
つもりで設計しているのだ?﹂とい
えないことです。だから、﹁どういう
設計しているときに住み予の顔がみ
早川集合住宅でいつも思うのは、
うがよい
集合住宅はあまりつくり込まないほ
か。家族像、あるいは生活保は:・:。
をみせるというかたちなのでしょう
ということのなかで、生活そのもの
っぱり住まいというものが﹁ハレ﹂
﹁
パ i クコ l 卜杉並宮前﹂の例は、や
最後に、早川さんに伺いますが、
します。
るいは住宅地計画は::・。
住宅であれ、その気持ちは変わらな
ということで十分応えられる話だと思います。
鈴木そうなると、住戸のプランというより、一つのあるコミュニティ、街、
いんです。
集合住宅をつくるときに
あまりつくり込まないほ、つがいいの
同時に
つまり大きな都市ではなくて、何百一戸というある個性をもった一つの街、コ
わかリました。相互扶助、共同性のある住まい方ということを関野さ
ミュニティインフラのなかでそういうものを備えるべきだと忠います。
服
部
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Tー ク コ ー ト 杉 並 宮 前 設 計 / 早 )
1
1邦彦建築研究室
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余白となる場所をいかに集合住宅のなかに残していくか。そういうことも、
とともに、自分たちの住んでいる環境に何か参加していける場所、すなわち
あって、高齢の低所得者に特化していくと忠います。そうでなくとも、いま
うことを実感していますし、特に公常住宅の場合には応能応益家賃の問題が
阪神大一以災でも、同潤会の建て替えのことを考、えても、えらく大変だとい
すが、大規模集合住宅に関しては、かなり問題が多いのではないか。
最近、できる範臨内でやっていきたいと思っています。特に、市営住宅など
はいいけれど、将米的に人気がなくなってきた場合にどうなるか。そうなる
ではないかという気も非市にしています。そこに住む人たちが、時間の位、過
では、経済的な制約が少なくなりますので、そういうことはやっています。
鈴 木 芝 浦 ア イ ラ ン ド の 場 合 は 、 提 案 と し て は 、 ス ケ ル ト ン の ほ う は 二0 0
考えておく必要があるのではないか、ご意見を伺いたい。
と、どうも大規模集合住宅は、あらかじめどういうふうに対応していくかを
識は生まれがたい。もし生まれるとしたら、コミュニティ意識ではなく、自
年もたせるつもりで、そのかわりインフィル(朴氏戸)や設備のほうは取り替
結局、いまのようなわれわれの生活のなかでは、なかなかコミュニティ意
分たちはこの集合住宅に住んでいるのだという帰属意識だと思うんですね。
えやすくしておこうと。中で移り住めるとか、間仕切りは自由にできるとか、
住戸の大きさすら自由にできる。そういうこともできるように、時代の変化
集合住宅をつくる場合に、どうやったらそこに住む人たちにそこへの帰属意
一つの要素として、﹁ハレ﹂の要素をもった共有領域もそうであるし、バル
識をもってもらえるか、ということが非常に大切なのではないか。
服部家族のあり方、コミュニティのあり方は、非常に不透明なところがあ
マとなっています。
そ れ が 集 合 住 宅 を 設 計 し て い く と き に い ち ば ん 自 分 に と っ て 関 心 が あ る テi
プライベートとパブリックの間に余白空間をどういうふうに創出していくか。
なんですね。
内田高さではなくて、大焼模ということで、コンセンサスの成立の難しさ
問題iiiよ り 、 制 度 の 問 題 の ほ う が 実 は 大 き い の で は な い か な と 忠 い ま す 。
が か か っ て い る 。 フ ィ ジ カ ル な も のili高 層 だ か ら 建 て 替 え に く い と か い う
たちがそろそろ建て替えたいといった。しかし調べてみると、敷地に一団地
また、昔つくった、分譲と賃貸が共存する普通の中層の団地で、分譲の人
に耐えられるようにという、柱が非常に少ない架構による提案です。
って、皆さんそれぞれ意見が違ったり、角度が違ったわけですが、古いもの
コニーであったり、ピロティ安閑であったり、ケース・パイ・ケースですが、
と新しいものが共存しているというような考え方であった感じがします。
H由 に 住 み 予 が つ く れ る こ と 、 早 川 さ ん も つ
よ う な 仕 組 み と か 、 鈴 木 さ ん はr
公共の関与が非常に必要な事項ですね。内問さんがいわれたことは、今後大
服部大規模で、なおかつ超高層裂の住宅、住宅地の更新問題は、基本的に
鈴木制度が混在しているともっと難しいという問題があります。
くり込まないほ、つがいい、とおっしゃったので、ハウジングそのものを建築
きな課題で、アメリカで大規模超高層型の団地がスラム化して建て替えられ
﹁リジッドにつくらないほ、つがいい﹂という意見は、自分でプラスできる
していくときの構えとしては、そこらがわれわれとして意思が一致できる、
ないとか、犯罪の温床になるといったあとの手当てとして、小規模散在型の
ころに安心もするのですが、非常に大きな課題になるのではないでしょうか。
公常住宅づくりを始めた経緯があります。そこまで日本がいかないというと
あるいは決定できるところではないかと感じます。
さて、最後に会場から、維持・再生、管理の問題で、東洋大学の内田雄迭
さんから質問がきています。
かと忠います。それぞれ個性的にハウジングに取り'組んでおられ、テi マを
時間になってしまいました。教科書的な雰囲気から脱皮できたのではない
内田(東洋大学)私は規制緩和の子段としての高容積化には批判的な立場
もっておられるということがわかりました。ありがとうございました。
集合住宅はあらかじめ建て替え対応策をつくっておくべきだ
でおります。そうはいっても、部分的なお符柏はありうると思っているので
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合によっては丸々二山時間を建物の小で過ごす。建
日 二 四 時 間 の う ち の 少 な く と も 八i ⋮
0時 間 を 、 場
巻くものやことのすべてである。私たち人間は、一
人間にとっての﹁環境﹂とは、私たち人間を取り
大きな環境にはあまり関係がなさそうに思えるかも
境﹂のような小さな環境は、﹁地球環境﹂のような
ろな大きさの環境を考、えることができる。﹁建築環
や﹁地域環境﹂など、境界線の設け方次第でいろい
心米兵やさまざまな機おに閉まれている。このように
物の山中にいる私たちは、山川士や窓・床・天井のほか、
が、これまたたいへんな勢いで﹁地球環境﹂のなか
超えようかという勢いで人口が哨加しつつある人間
しれない。しかし、
b
往築を締成するものによって区切られた部分の環境
にある資源を消貸し、廃物や脱獄⋮を﹁地球環境﹂に
二世紀の半ば過ぎには百俗を
を、私たちは一般に﹁建築環境﹂と呼ぶ。
航物・微生物についての知識、地球の池史学的・気
り、それを維持するために消貸されることになるか
川?っ。資源のかなりの部分か、﹁建築環境﹂をつく
を﹁地球環境﹂と防述させて議論するのは大切だと
捨てて活動をしていることを考えると、﹁建築環境﹂
-aO枇 紀 の 科 学
らである。
地球衣而に桜息している人間を合む動物、そして
・技術の発注によって飛躍的に明加した。その結果、
象学的活動についての知識などが、
私たち人間は、地球という大きな環境に閉まれて生
@
筆者は一一O 年ほど前に建築環境工学の佐川介に身を
きていることを多かれ少なかれ認識するようになっ
てきた。これを﹁地球環境﹂と呼んでいるわけであ
置くようになり、光と熱に関わる問題を小心に研究
を始めたが、そのころは、﹁建築環境﹂と﹁地球環
フ匂。
﹁建築環境﹂は、﹁地球環境﹂の内側に存在する。
境
⑧
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で あ る 。 五 安 に 対 す る 刺 激 は 、 音 ・ 光 ・ 熱 ・ 空 気,
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ぢ・1p・ 1、一上惑ま略立・免町
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五 官 ・ 五 感 に よ っ て 知 覚 す る 。 五 官 は 、 耳 -N- 皮
﹁建築環境﹂がどんな状態にあるかを、私たちは
考える基本凶古である。
と﹁地球環境﹂を考えるための、いま呪京の来者が
をいくつか紹介してみよう。これらは、﹁建築環境﹂
筆者の考えが拡がり展開していくのに杉山将した書物
ように筆者の考、えが発生・展開してきたのである。
今に到ってそんなことを考えるようになった。その
見出してみようなどとは考えなかった。ところが、
境﹂を比較してみよう、あるいは両私自につながりを
宿谷 昌期
﹁怨築環境﹂と﹁地球環境﹂の間には、﹁都市環境﹂
一一一住について考えるための基本図書
︿建築環境と地球漂境﹀基本図書リスト
(*印を付した本は住総叫削減れH
2に 刈 必 し て い ま す
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九六一一一年。
山波辺一安一制川弘刊吋建築計菌原論 IL 九帯、一九六二年。
山波辺裂一制壮行問建築計画原論日い丸ム品川、
c
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年、丸山内。
建築設備碁礎理論演習品川下献社、一九七
川波辺裂制許可建築計画原論m
L 丸浪円、⋮九六百年。
同木村役一
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*倒木村山比一一制汗﹁建築環境学 1・
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*山間段段仁川子教科だ研究会制詐日環境工学教科警﹄一九
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川山政彦日さまよえるユダヤ人の手記より﹄(﹁芯
⋮九九七年。
日﹂,九二一一二年八月初出)、﹁年川山県彦んし集第三巻﹂
一日川初出)、篠川⋮七制﹁谷崎潤-郎川地準集﹂山行
*仰谷川町潤一郎﹃時間融制礼譲﹄(﹁経済往米﹂一九三三年
波文時、一九八五年。
*間十除介川中--内日本の住宅﹄山行波仏札口約、⋮九二八年。
仰向川誠二ぷ撚エネルギーのお話﹄日本続的情協会、
LLeLド
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と地球環
それに対して、環境要素と計画を結びつけることに
沢点を出いて者わされたものとして汲姿なのが、問
削だと思う。日以近に者わされた附なども同様のな昧
で重要だと思う。帥も参考になる。間同などは﹁建
関連して仰などに述、べられたことを改めて掘り起︾﹂
築環境﹂とは何かを再考するためにとても良いし、
⑧
すことも重要だろう。
筆者は、﹁建築環境﹂を良好な状態にするための
建築的・機械的・電気的仕掛けを総称して、﹁建築
が重要である。そのことが認識できるようになった
L
判合品川円応、一九九三年。
*同組川牧口数⋮学外論生命・環境を含む開放系の熟
理論
開山本義降﹃熟学思想の史的展開熱とエントロピー﹄
*川間押川見山川・藤城敏幸吋熱力学﹄裳単一均一九七O年
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125﹃語。島M455wmY 守山口の吋田君主一一-同出∞﹁
問中村絞子﹃生命科学﹂講談初学術文山郎、一九九六年。
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のは、筆者の場合、熱力学と生物学の書物を素人な
*仰い山町山口吉田}内可広君
水といった﹁建築環境﹂を構成する要素である。こ
りにひもといたからだ。熱力山?と生物学は、筆者に
環境システム﹂と呼ぶことにしている。この建築環
れら物埋的な姿京の振る舞いをどう扱うかを、建築
とっての﹁建築環境工苧﹂を﹁建築環境学﹂へと、
境システムか働くには、︿流れ﹀と︿循環﹀の存在
計両のための科学的恭俗﹁往築計両国以論﹂として体
閉じた限界から洲かれた附界へと導いてくれたとい
﹁建築計同原論﹂は、今日までのあいだに照明や
役割をそちらの方に移すようになって、一般に﹁建
としての役割をも担うように、というよりは主要な
わかろうとする気持ちさえ持続すれば必ず理解でき
私たちの誰もが日常的に体験できる呪象であって、
きにくい領域ではあるが、州問、っ対象の多くが、実は
、
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例沢山允茂﹁哲学の風景
﹄講談相、一九九七年。
州側沢削允茂﹁言語と人間﹄議談社山一千術文時、一九八九
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七七年(-九九州年第二ハ制)。
築環境工学﹂と呼ばれるようになって久しい。他の
る。ここでは、数多い熱力学の書物の中で、同
、
川
側沢山允茂ぷ誠一授と思想構造﹄講談判学術文節、
諸科学の分野と同様に、建築環境工学は、分科の学
川 出 入 り し て み た が 、 そ う し た と こ ろ 、 エ ネ ル ギi や
を挙げておきたい。筆者は、熱力学の世界にかなり
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﹁設備﹂を書物のタイトルのゐ部に返した教科書は、
エ ン ト ロ ピ ー の ほ か 、 ヱ ク セ ル ギi と 呼 ば れ る 重 姿
な概念が次第にきちんとつかめるようになって、以
生き物の振る舞いに興味がでてきたのは、熱力学
前には気づかなかったことに気づくようになった。
ていることが多い。定説となっている知識をできる
がわかり始めてからのように思う。生物学の書物を
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次ベl ジ へ 続 ︿
だけ多く椛り込むことに重点が置かれているからだ。
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環境の要素のそれぞれについて、経列的な記述をし
﹁建築山県境工学﹂の教科討は、光・熱などの建築
川1刷に一取すもののほか数多くある。
として著しく発展してきた。この間に、﹁環境﹂や
品開力学は、抽象性の高い学問で、なかなか取っ付
っても過三一刊ではない。
系 的 に ま と め た 山 1聞か、日中者にとって建築環境工
建築環
学の佐川介への入門主だった。
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暖房・冷房・換気などの往築設備技術の基礎的学問
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住総研図書室だより
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くことで、来者の︿認識の風対﹀の小に﹁地球環境﹂
にけはを通してみると、そこに述べられていることが
が 入 っ て き た よ う に 芯 う 。 そ う し て 、 例 え ば 側i 側
一系人がひもとくのは、川知力学と崩じように MVの折れ
ることではあるが、﹁建築環境システム﹂がどのよ
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﹃可阿国。品目向日ZRJC﹀円﹀閉山c
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同 PZ2P
山ネ州附F C︿巾一C 円
うにして成り立つのかを考えるうえではやはり主要
*倒小林山川行・山行村和犬・小(令郎有子・延際交弘・卯月
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平4 川3千 十
ら﹁働く家﹂ヘコシリーズ上服役築学校3、建築資
*側長小九日川敏・和川義行・村山徳治﹃﹁消費する家﹂か
i ズ士山附処築学校2、佐築資料研究枚、一九九五年。
*側奥村昭総吋パッシブデザインとOMソーラー﹄シリ
築中校 1、処築資料研究初、一九九問年。
俊介“居住のための建築を考える﹂シリーズ土限建
附に落ちてくるように思えた。
である。ここでは、読みやすくしかも内容が広くか
︿認識の印刷対﹀が設かになって、いま一つ思いを
主力向、会し L;L ドド。
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*川ノ
川好沢正光・小にいい祐“郎・間関山彬彼・伯区治的化・ド仰向
っ深い倒仰を学げておきたい。
巡らすようになったことは、私たち人間が﹁地球環
環境システム﹂をつくっていくには、住まい子と住
境﹂に備わっている仕組みをうまく利川した﹁建築
み子、住まい予とっくり子、っくり子とっくり予の
畿
抜知覚できるけれど、﹁地球環境﹂は、私たちが流
鼠かな関係性をつくっていくことが如何に大切かと
﹁建築環境﹂の要素である光や熱は、私たちが政
で、私たちの頭(心)の山中で認識されるものである。
闘
M に述べられていることの大切さがわかってくるよ
い う こ と だ 。 そ の こ と が 祝 野 に 入 っ て く る と 、 倒l
抜知党できる対象ではない。﹁地球環境﹂はあくま
認識は﹁ことば﹂によって行なわれるから、論明・
もらおうとする時、吋ねられた人はど
速くはない。 ーの方向へ
そして道を尋ねた時に、
一
一
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﹁そんなに
﹁大刊怖が沈む方向﹂という表現を
ってきたので、方向も﹁太陽の昇る方
る。遊牧民は自然の中で方向感党を培
説明がないというのは不思議な気がす
住築資料問山九社、令九九じ年。
此叩小八五︿に住むかたち﹂シリーズ KMm往築学校 4、
いかと思っていたのだが、 多 く の 住 民
(しゅくや・まさのり//政政仁たし入山戸大リ下院仁川下州究利校同日)
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号 mと い っ た こ と に つ い て 考 え る こ と は 大 切 だ 。 そ
山本おの場合、品川⋮力学や生物学を素人なりにひもと
の た め に 役 立 つ 書 物 と し て 倒 l仰を挙げたい。
草原の国から見た雑草の国
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川府ビルが立ち仲立ぷ近代的なテクノ
のように地同を捕さ説明するか。
ロの所だ﹂というような答えが返って
くる。このようにずっと広い祭問が日
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の前に続く平原と建物が立ち並ぶ日本
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にして滋路を抗き、道順を艇かく説明
のまちとでは、空間のとらえ方が爽な
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っている。これはか方向。だけでなく
する。しかし、その地問に方位はなく、
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や木治建物がまちに広がり、 そ れ ぞ れ
た、新しい発見もいろいろあった。
の時代を表明しているのであった。ま
して抱いていたイメージだった。しか
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はあっても京尚南北の説明はない。モ
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の方向感党とモンゴル人のそれの迷い
か凶断。に関しでもい、える。二二 1 一
まず第一に気付いたことは、
②方位と距離の感覚
は違っていることが解ってきた。伝統
である。例をあげてみると、 目 的 の 場
ンコル人は遊牧民として常に方伐を係
五キロをヶ迷い。と感じるかか近い。
認するという掛け悦があるので、 方 伎 の
建築はん 1く 建 て ら れ て い な い の で は な
所が解らなくて地闘を拙いて説明して
は、実際の﹁東京﹂がそのイメージと
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的な建築技術や要素をとり入れた近代
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キロはか速い。となるようだ。
少ない部会人にとっては、二二 j 一
五
をしていて長い距雌を移動する機会の
変なことではない。しかし、都山生活
の人にとってはこの距離はたいして大
と感じるか、という遠いである。草原
して日本では、どんなに小さくても自
家者がか豊かさ々を表わす。それに対
関心を払わない。それより馬や羊など
もので、人ぴとはあまり土地の所有に
地は広く誰のものでもない。当然ある
ではないかと私には思える。草原は上
wに
分の土地、庭、家があるとか凶尽か
られていない。しかし、日本に来て、
の所有権という問題はあまり深く考え
モンゴルでは建物を建てる時の土地
なったと考えるようである。
畿土地の所有とぷ豆かさ。の感覚
また、日本に米てからずっと考えて
いてである。日本人は、なぜ居住でき
建築物は土地の上に建てるのだから土
るまでに、誰か通りすがりの人がその
阜の上に汚いておくと、夕方帰ってく
o
ゲルの外線と内部。
いたことが、人と土地の結び付きにつ
の家を持ちたがり自分の土地に執着す
地の所有という問題が不可欠だ、とい
てくると、皆で協力して生活していく
こ飯を食べていく。ご馳走になった人
おられることまで、研究者・実務者から市民の
になっていく。そして情報交換や報道
ネ
仏庖に供えて感謝の気持ちを表わし、
皆さま方の忌憾のないご投稿をお待ちしてお
は何か身のまわりのものをそのゲルの
居住地域も、情践を交換できれは近く
またご馳走した入は誰かに良いことを
すまいろん編築部﹁ひろば﹂係
財団法人住宅総合研究財団
一
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i附東京都設問谷区総橋四TgmU8
︿宛て先﹀
ゐ
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い
。
せていただく場合がありますので、ご諒承下
なお、内容を儀っけない範屈で一部手直しさ
は住所、氏名、年齢、融制業を御記入下さい。
原稿用紙(四O O字詰)一一一枚程度。原稿に
ります(採用分については薄謝進累)。
﹁住﹂に関する捜索から日頃お感じになって
に住む必姿性がなくなり、パソコン等
したと幸せな気持ちになる。これは遊
︿ひろば﹀へのご投稿をお待ちしております
の機器の発達により仕事も自白にでき
牧生活する人ぴとのコミュニケーショ
私は今、六角鬼丈先生の研究室で皆
るとなると、場所の選択も可能性が広
日本も近代化が進み、住宅も変化し
様にお枇話になりながら建築の勉強を
ンである。
てきているようだ。北日と遠い近所との
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ヘエン・ボルド/ J
京
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長一五術火山一子大学院建築科修士課程﹂
れからもよろしくお願い致します。
吸収し、経験したいと思っている。こ
続けている。今後もいろいろなことを
は社け令がなく、判、ご似を作って食
遊牧民のゲルという住宅の入り日に
モンコルにはこんな話もある。
交流はだんだん少なくなる。
がると思う。
が人びとにとって烹要になってくる。
形態より、個人生活が尊重される形態
日常生活についても、社会が発展し
畿コミュニケーションのかたち
うことを改めて考、えさせられた。
るのだろう。これはもったいないこと
る土地の範凶が少ないのに、二戸時叫て
遊牧民の住宅、ゲル¥
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南サハリンの住宅における歴史的背景と居住環境に関する研究
小林
克
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7・1
8世 紀 の 日 本 と オ ラ ン ダ の 都 市 居 住 生 活 と 物 質 文 化 の 実 態 比 較
熊谷広子
大坂谷吉行
明
ラジ jレにおける臼系移民の住空間の変遷について
コンパウンド(複合住居)の空間組成に関する研究
谷村秀彦
伝統的都市の現代化における空間制御技術に衡する研究
乾
街並色彩に関する研究
正雄
長嶋二郎
自治体住宅マスタープランの策定過程と策定手法に擬する研究
宗国好史
目T家 ・ 町 並 み 景 観 整 備 に よ る 都 心 商 業 ・ 高 庖 街 活 性 化 手 法 の 研 究
安藤元夫
復興まちづくりにおける生活街路・住宅の一体的整備に関する研究
公的住宅建替えに際し住民の個人的記憶を計菌に生かす手法の研究
森本
昭 和 20年 代 を 中 心 と し た 住 宅 計 画 の 史 的 研 究
{言明
罰 由 民E
里子
集会住宅におけるパンダリズム及び人為的環境不安に関する研究
大場
修
近堂町家の地方色の形成過稜とその成立要図
白井裕泰
横田家大ヱ文警における近設住宅の調査研究
大原一興
吉宗家の保存・活用のための方法論的研究
橘
弘志
居住環境における持続可能性に関する研究
宗本
l
頃三
環境負荷低減を目指した住宅建材選択システムの開発と適用研究
木多選宏
都市住民の生活行動と日照に関する研究
延膝安弘
高齢者の「安心・自立居住」を「まち」で支える「地域力」の実践的研究
喜
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高齢者の持ち家を活用した生活安定に関する研究
真鍋
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恒
古阪
銑鐙
住宅生援システムの革新による住宅産業構造の変革研究
建築部品・構法の変遷に関する資料の保存とリスト化に関する研究
住総研一九九八年度研究助成決定、 期 待 さ れ る 成 果
ライフステージの展開に伴う非標準世帯への移行からみた住戸計画
荒)
11千 恵 子
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沢田知子
pr山心です。ご別待ください。
藤井
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地方中小都市における「まちなか居住」の推進方策に隠する研究
広範囲に注目の課題二六件
イギリス・サッチャ一政権以後の都市・住宅政策の動向
越里子
住総印刷卒業の小心を出める今年皮研究助成は、左記の↑一六件の研究が選ばれました。ムハバ↑九日には、住総問問にて、
前田昭彦
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査説明会が開催されました。研究成果は九九年九バまでの一六かけの研究刻間を経て、一ベゾペゾハゾ年べ月発刊の住総研
研究Jl!il
近代アメリカでの民本人建築従業者に対する認識の変遷と構造介析
研究年搬にぬ出帆される
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中谷ヰし{二
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住総研 1
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8年度研究助成一覧表
財団で催した主査説明会風景
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次号予告
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羽年冬季一九九九年一月一六日発行
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論説
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特 集iすまいと﹁性能﹂
︿報告﹀
住宅性能表示は市場をどう変えるか
大森文彦(京洋火山下・大森法律事務所)
見えないものを伝える
﹁快適さを伝える雄知かしさ﹂
一段辺孝次(秘水ハウス納得工一切)
住宅性能表示と建築家
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住み手からみた﹁住宅性能表示﹂の問題点
片山和俊(京京芸術大半)
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和附設(鰍リクルート)
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建築設計事務所)
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︿ す ま い の テ ク ノ ロ ジi ﹀
性能とすまい/
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﹁{八ぐら﹂考
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松阪秀行
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m沢山叫築設計事務所)
︿すまい再発けん﹀
住宅について
陥叩沢キョ守(州
︿州問主日中主だより﹀
都市計商の本
大江川寸之(慶応義泉大学)
タイトルは仮題、執山学者は変わることもあります
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は、一般市民、材料・設備メーカー、建設
環境先進同スウェ i テ ン で 出 版 さ れ た 本 件
交住宅と健康
出版助成による刊行
A4M門 万 ペ ー ジ 本 体 価 怖2 4 0 0円
た彫弊を、詳制に剖州市凡・分析している。
以放と水路・道などの成洗との関係に与、え
などの成し札安川と、戦後の州場終術事業が、
点から、ゐ小利隊保、イエの何削減、立地特性
住総研新刊刊行物のご山菜内
大まちはこどものワンダーらんと
什刊数育委目以会若者
・設計会社、ハウスメーカー、ピルオーナ
!lこ れ か ら の 環 境 学 習
﹁すまいろん﹂のご購読について
春ロマ問月一日、
γHA
口万六月一五日、秋口万一
@発刊日は原則として、冬号一月一六日、
始は、脱制読料受領後の最新号とさせてい
O月 一 日 で す 。 し た が い ま し て 、 送 付 捌
ーなどに向けて﹁飽成住宅﹂の知識将及の
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正
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堀口捻己
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電話 (03)3456205
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晶甲建築学会資料頒布所浴ぼ一芝51%lm
購読の受け付けはしておりません)。
1ま い ろ ん ﹂ は 次 の 応 頭 で も 販 売 し て お り
半
﹁
ますので、ご利用ください(応頭での予約
はいたしません。
⑧購読期間中の購読中止による購読料返金
行いたしません。
えさせていただき、財団からは改めて発
@領収書は、郵便局の払込票兼受領証で代
お支払い方法
一 年 間 五000円(送料品ん()
一 年 間 二 000円 ( 送 料 共 )
総読料は次のとおりです。
認下さい。
夜防の有無、送料を左記財団まで、ご確
ております。ご希望の方は、あらかじめ
@パックナンパ i のお求めにもおこた、えし
e購 読 満 了 時 に ご 通 知 い た し ま す の で 、 引
週間かかりますので、お含みおき下さい
ただきます。なお、購読子続きには約⋮
本万は、人・住まい・環境川かすべての︿か
傘研究
9 7 4 1 抽出問哲労ほか
ためにつくられたものである。スウェーデ
施設における介護負担と機器支援に関する
申し上げます。
き続きご購読いただきますよう、お願い
U附
かわり﹀が希務化している初会において、
ンでは新人研修や余業向けセミナーのテキ
調査および実験研究
︿つなぐ﹀ことをキーワードに、これから
介護笠間の適正化と介護私自側の心開負相の
につながるという視点から、介護環境の災
ストとして佼われている。
の環境小計の悦点と卜刀法として、︿環境体
験主税引学問﹀を従起しています。
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戦減を凶ることが、良好な介護環境の形成
一
慾洲市日および介護負制一に関するモデル災仙械
本 体 側 俗2 1 0 0円
を通して、施設終備のあり方を提案してい
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。
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迫
恥
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次のように尚一止いたします。
以下の誤りがありました。似んでお詫びし、
紋いたしました﹁戦後住宅建築史年表﹂に
九九八年夏日ザ(市川口ZmMlmべl ジ に 拘
お詫びと訂正
ωべi ジ
交問問潤会のアパートメントとその時代
A 4判
より取り廃されようとしているのを機会に、
本 書 は 、 代W 山 ア パ ー ト メ ン ト が 判 開 発 に
S A N W A mべi シ本体側松山2 8 0 0川
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2mT ス ウ ェ ー デ ン 建 築 研 究 評 議 会 / ス ウ
続手エテン王立什午、.往築計州委民会
ユニークな実践事例の約八月と、則論的な
球つけとしてれ段境学問におけるワークシ
ョップの右効川口などを保っています。また、
子 法 の シi ト 化 を 凶 り 、 子 較 に 取 り 組 め る
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矧山九財刊川什江教育委 HH会
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ようになっています。
i ジ 本 体 側 俗 2800円
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風土初出べ
た研究者グループが協倒して、代宮山アパ
同総会アパートメン卜の研究に関わってき
ートメン卜の記録を残すことに取り組んだ
成果を中心にしている。例制州会アパートメ
ン卜の怠昧を読み解く一助になるだろう。
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し山牛崎市 伊 藤 祁 久
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山氏丸山版会 間べ l ジ 本 体 術 情3 3 0 0内
印刷助成による研究論文の刊行
令般往築・社会の項
目叫堀口捨己
一戸山叫て住宅品川口聞の項
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電話 ( 0 3 ) 3 2 9 1 3 3 8
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砺波数居村における居住システムの分析
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中日本の代点的な﹁散問﹂を、﹁どのよう
なれ刻みで成り伝っているのか﹂という制限
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6団
エリエル@サーリネンハウス
アメリカの中の北欧
て過ごすこととなる。当初はミシガン大学徒
サi リ ネ ン は そ の 後 半 生 を ア メ リ カ の 人 と し
計競技(一九二三年)一人選以降、エリエル・
機 を 背 景 に 、 シ カ ゴ ・ ト リ ビ ュ l ン社屋の設
ナショナル・ロマンティシズムに対する数多
るへルシンキ山中央駅の設計三九一五年)で、
ていた。フィンランドでの彼の最終作品であ
は共有しながらも、そこに別の可能性を求め
る。一方サ│リネンは、同時代的な問題意識
優れたクラフトマンの育成を教育の主眼とす
ツ・アンド・クラブツ巡動に拠るものとし、
オ ブ ・ アi 卜 の 教 育 理 念 を 、 イ ギ リ ス の ア │
ザ イ ン の 変 更 を サl リネンに強く要求する。
た奇怪な提案と感じられ、規模縮小を含むデ
配置計回も、ブースにとっては予算を超過し
分に反映させられていた。しかしこの斬新な
された、都市と自然に閲する考察の成果も十
もに設計された共悶住宅ウィトレスクで追求
の狂・ゲゼリウス、
の都市計闘案や、フィンランドでパートナー
に繋げようと試みる。そこでは、彼の数多く
それらを相瓦に距離や高低差を超えて有機的
一九一一0 年 代 の 母 国 フ ィ ン ラ ン ド の 経 済 危
父親、デトロイトの新聞王ジョージ・ブ!ス
築科で教職に就いていたが、一人の教え子の
が持つ特殊性と工業技術の持つ呼遍性の新た
くの批判を真剣に受け止めながら、デザイン
@アメリカ
に招かれ、彼の構想する新教育機関のキャン
下方黒部介がサーリネンハウス。
サl リネンハウスは、 学 内 メ イ ン ス ト リ ー
⑫森へ
リネンハウスの性格を大きく決定づけている。
独 感 を も た ら す 。 こ の 経 験 が 、 彼 の 自 邸 サi
よ う と し て い た サl リ ネ ン に 、 憶 し が た い 孤
に渡り、米るべき世界の要請に桜紙的に応え
の岡山有の歴史から逃れてこの宕い多民族国家
へと変えていった。この葛藤は、民族性やそ
ティティを求める保守的な国家人というもの
れた世界人というものから、固有のアイデン
のアメリカ人に対する認識を、進歩的で閃か
ブi ス と の 衝 突 と 相 互 不 信 は 、 少 な か ら ず 彼
念に対する志間けんの相違も合め、この度章一なる
前 述 の ア カ デ ミi ・ オ ブ ・ ア ー ト の 教 育 迎
@葛藤
ッフの一人に加えて計画を継続させる。
に 置 き 、 日 付 け 役 と し て ブl ス の 長 男 を ス タ
彼のミシガン大学での教え子たちをスタッフ
サl リネンを、主任に抱えながらも、かつての
グランプルック組織内に建築事務所を設立し、
さらに、サ│リネンの独走を危倶した彼らは、
A- リ ン ド グ レ ー ン と と
パス全体設計および教育プログラムへの助一一一一日
みれば、工業技術と職人技術の今までにない
バランス感覚、換一一一一閃すれば﹁素材﹂の加工と
な 融 合 の 道 を 模 索 し て い た サl リ ネ ン に し て
製品化の過程における新たな概念こそが問わ
を行なう機会を符る。このグランプルック・
られた新教育機関は、幼稚割、小学校、高校、
れるべき問題であった。
エデュケi シ ョ ナ ル ・ コ ミ ュ ニ テ ィ と 名 づ け
ト(図書館、美術館)から成る、大規模な私
科学博物飴、そしてアカデミー・オブ・アー
全体計画の初期案(悶││、 2) で、サl リ
⑧クランブルック
の中に、微妙に角度の呉なる納線や秘衝の焦
ネンは敷地として与えられた広大な森の自然
当時、デトロイトは依然として自動車成業
設教養地区として構想された。
の腕(隆の只中にあった。この状況の行く末に
点を多数設けながら諸施設を悦重に配置し、
当時のヨーロッパの産業革命期以降の文化的
葛藤を重ね見たブースは、特にアカデミー-
~C澄計画のほぼ最終案( 1
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4年頃)
3
限
トーマス・コン
&
岸健太
1
1
サーリネンハウス内 7.
ライベー卜 ・スタジオ 。 写真 一 2
夫人との共用で、見えているのは夫人の織物。
写真一 4
卜 沿いの教員宿舎群の中に控、えめに配鐙され
ている(図 I3)。 北 側 隣 家 の ミ ル ズ ハ ウ ス
ているが、巧妙に計算された幅を持つ通りか
を含めると、この建物は完全な対称型を成し
らは建物全体を完全に見渡すことはできず、
それは帆枇快に自然なものとして限に入る(写
真││)。 平 面 計 画 ( 図 │4) か ら は 、 中 庭
中 央 の 彫 像 に 向 か っ て 敷 石 に 刻 ま れた人工 的
なパ l ス ペ ク テ ィ ブ が 、 主 要 各 部 屋 か ら の 視
線を彫刻に集中させていることが見て取れる。
高 台 に あ る こ の 建 物 か ら の 唯 一一開放された東
び越、ぇ、奥行きのある深い森の 中 へと似い込
側への視線は、図書館前の大きな人工池を飛
まれる(写真│2)。 自 ら 故 郷 を 一度 は 捨 て
た サ │ リ ネ ン で あ った が 、 周 囲 と の 絶 え 聞 な
い葛藤と孤独の中で求めたものは、やはり 他
でもなく故郷北駄の風景であった 。 彼は、森
のみが外部に見えるこの自邸で家族に固まれ、
で 一人 思 策 し 、 ま た 時 に は 隣 人 の 、 や は り 北
時 に は プ ラ イ ベ ー ト ・スタジオ(写真│4)
と語らい故郷に思いを馳せた。開かれた世界
欧スウェ ーデ ン出身の彫刻家カール ・ミルズ
を求めるサ│リネンと、森の中の隠れ家であ
る 彼 の 自 邸 。 サl リ ネ ン ハ ウ ス は 、 こ の 北 欧
の一建築家が混迷の時代の 中で 避け難く抱え
た 葛 藤 と 矛 盾 を 現 代 に 伝 え て い る 。 彼の生き
椴に思いを巡 ら せてみることは、やはり現代
という混沌とした状況を吐界という連続休の
なかで否応なく生きる我々にとり、決して無
昨 健太、
川
一
己 4 。﹃﹀ユ卒業)
o
t
g
g
d。一ハ﹀g 2
駄なことではないだろう。
(文賢
編集後記
、
いえば、多くめ建築が 静 的で九るのに対
以前から不思 議 に思っていた 。 大雑把に
むちのに変わりつつある 。 今回の企画の
ク千ズ番組や体 験 番 組 の 定 番 と し て 楽 し
のであった ア が、現在ミ 旅は消 費 され、
さと強さ、そじて 影響 力をもっているも
し て 、 城 下 町 の 械 と 町 の 構 成はダイナミ
裏側には、安易な異文化紹介や体 験 に対
U
城下町
dv
Mうしてできたのだちうかと、
ックで戸
空間的であるからだ 。永い問、そ
て、異文化は創造の契 機争 はらむもの、
4
ー建築家や研究者とし
49る嫌 悪感がある 。
o 命題が守ることに
れは手ることから始まった戦国大名たち
の工夫と思ってし か
前にも蛇行する川を配し町を築t 発想が
ていたように反省している 。 A・レ l モ
-て、盲分の思い入れが時代から少し 離 れ
ところでミニシンポジウムをやってみ
という思いもあった 。
生 ま れ る と 考 え て い た 。 ところが司馬 亮
ンドは、若い学生にとって全くか殆ど知
あれば、背に大きな水や高い山を背負い、
太郎によると、城はヨーロ ッパのカテド
らない建築家であり、そのために、 多 く
住 宅 総 合 研 究 財 団 (﹃称 H住総研) は
、 当時の清 水 建設社 長 ・清水
昭和 二三 年
康雄により ﹁戦後の窮迫した住宅問題を、
住宅の総合的 研究、および成果の公開、
実践、普及によって解決することを 目的
として設立された財団法・ベであります 。
現在は住宅に関する 研究助成 事 業を中
心とし 、 ﹁研究年報 ﹂ ﹁
研究論文 ﹂を発刊、
また住に関する専門 図書 室、セミナー室
等を整輪、公開、社会のお役に立つよう、
、
この ﹁すまドろん﹂ は、活動の一環と
公益事業につとめております 。
して、成果の一端を、市民、 実務者 、 研
究者の皆様に、より広く 、 より手軽にご
季刊 す
いろん明年秋号
443
一九九八年 十月 一日発仔
500円
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、
﹂百
小林秀樹 (
建設省建築研究所室長 )
片 山和 俊 (
東京芸術大 学建築科助教授 )
l
・ 、
服部写生(千葉大 学デザ4ン工学科教授 )*
編集委員 H
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百E
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TEL (
03)3484i53 81
FAX(D3)348415 794
k蜘 東 京 都 世 田谷区船橋四丁目 ぬ 18
〒m
発 行 人 U峰政克義
発行 H財 団 法 人 住 宅 総 合 研 究 財 団
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野城智 也 (東京大学大 学院工学系研究科助教授) 一
* 11委 員 長
立松久昌(月 刊﹁住宅建築 ﹂
顧問 ) 圃
、,
理解いただくとともに 、 その意見交流の
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ラルに溌想の源があるという 。 信長は宣
の時間を彼の紹介にさかなければならな
、
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教師を通じてヨーロッパの町市町 構成を知
っており、町の中心に吉田︿ 釜 えるカテド
ているものです バ ご利用のほど 、 よろし
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制作 U建築思潮 研究 所
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印刷・ 製本 H慶昌堂印刷株式会 社
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場になることを願って 刊行(季刊 )され
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頒
価
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かったことをお断りしておきたい 。 豆
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ラルをイメージして 、 城 と 城 下 町 を つ く
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化が。時問 。 にも 為 忍と実感した 。
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くお願い申し上げます。
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ったのではないかという 。 異文化との出
(本号 責 任編集 H片山和俊)
、 ,
会いというのは、本来ニのくらいの新鮮
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