長崎原爆

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田中安次郎さん
無数の家族の生活があ を語り、花・笑顔・歌 薬もなく、どうするこ
番 大 切 だ と 伝 え て い 振り返る。
った。ずっと人間が生 があふれる世の中が一 ともできなかった」と
き続けていたと」。
「私たちは、被爆者 る。このほか、 歳で
夫の忠雄さんは米の
の平和への思いをつな 被爆し亡くなった林か 卸 会 社 を 経 営 し て い
学生に被爆体験を伝える
「九日の会」を平成
桜・親子桜を広める会」 「お国のために尽くす
る。平和案内人有志で を呼びかける「かよこ 送られて出征したが、
ぐ存在」と活動を広げ よこさんを通して平和 た。召集され盛大に見
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2歳下の妹と遊んでい と感じることがある。 務める。また、親交の も行う。
けではない。国民の食
年に結成、その代表を を立ち上げ、植樹活動 のは戦地で戦うことだ
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た」
いる者の使命だと思っ
ぐ
どで「出前講座」。実 の中の流れをとても危 から家族に託されたも
き
ち、市内の小中学校な れたものだが、今の世 じていたと思う。同僚
の 活 動 を 始 め た 。「 私 じた。3人でとっさに だろう。あの弁当箱の 験を描いた紙芝居を持 いという反省から生ま は生きて帰ることを恥
「平和につながる一歩を踏み出す」
を語ることは今生きて れなかった。
た 。「 バ バ バ ー ッ と カ 見るだけでなく、想像 あった被爆者の故・吉
「原爆の背景にある 糧補給としての任を果
「あの時出会った中 争をしたのか」と問わ 説明するボランティア メラのフラッシュを何 してほしい。あの家の 田勝二さん(長崎市・ のが戦争。平和憲法は たすことも同じ」と帰
学生の言葉から、体験 れたが、すぐに答えら 「平和案内人」として 万回も浴びたように感 人はその時どうしたん 光源寺門徒)の被爆体 もう二度と戦争をしな 還 を 命 じ ら れ た 。「 夫
平和案内人
手作りの教材で出前講座。
小中
原爆落下中心地公園の被爆遺構を
案内する田中安次郎さん
兵器廃絶のこと 踏み出すこと」と話す。 る太陽。その不気味な
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り
寺元 弘子さん
して帰ってきた。夫も
乗るはずだった船が沈
没したんです」。
原爆投下後、忠雄さ
んは被爆しながらもト
ラックに積めるだけの
米を載せて浦上へ何度
も通ったという。
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「警報が解除された
ので川へ涼みに行こう
と思い、ふと愛宕山を
見上げると敵機が飛ん
家にあった食料をみん 争をしてはいけないと
なで分けた。赤ちゃん 伝えたい。若い人には
たくさんいたが医者も い」。
湯を作った。ケガ人も 訴える行動をしてほし
には母乳の代わりに重 『核兵器廃絶』を強く
寺元弘子さん
防空壕へ逃げ込んだ。
爆遺構を案内し 近くの路上で、祖母と 示物が語りかけている ・勲さんを行李に入れ、 き、伏せた身体の上に た。互いに励まし合い、 通して、もう二度と戦
長崎原爆
こう
㌔の長崎市愛宕町。
のでとっさに近所の家 助けを求めてきた人を
と自問自答の日 はっきり覚えているの よみがえる」。
「夫は平成 年に亡
空襲警報のサイレン へ逃げ込んだ。玄関に 招 き 入 れ た 。「 座 敷 や くなったが、夫は多く
は光と臭い」。
原爆資料館では犠牲
々が続いた。
爆心地から3・4㌔。 になった被爆者の代弁 を聞くたびに、2月に 入ると同時に、頭上で 仏間、廊下まで、たく を語らなかった。私も
平成 年から
原爆資料館や被 長崎市新中川町の自宅 者として案内する。「展 生まれたばかりの長男 ド カ ン と い う 音 が 響 さんの人が避難してき そうだったが、体験を
ふすま
被爆したのは3歳の 光景が忘れられない。
などずっと無頓
寺元弘子さん(長崎 でいた。あっと思った 襖が倒れてきた」。
着、何も知らず、 時 。「 記 憶 と い う よ り 自宅に戻ってから逃げ
自宅に戻ってからは
何も言えず、こ も強烈な感覚として体 込んだ近くの防空壕の 市・発心寺門徒、 ) 瞬間、落下傘爆弾のよ
れでいいのか」 に刻み込まれている。 異様な臭いは、今でも の自宅は爆心地から4 うなものが落ちてきた 爆心地の浦上方面から
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「自宅に被爆者招き入れ、励まし合った」
年、修学旅行の中学 の一言がきっかけとな はないが、大切なのは、 うな薄暗い空に、オレ
車場で働いていた平成 いう田中さんだが、そ 兵器がなくなるわけで 出てみると、紫色のよ
田中安次郎さん(長
際の写真資料なども織 惧している。戦争がで のを後日届けようとし
「原爆のことは忘れ が平和案内人をしたか 近 く の 家 へ 逃 げ 込 ん 持ち主はどうなったの り交ぜながら戦争の愚 きる国にしては絶対に たが、玄関の『喪中』
崎市・深崇寺門徒、 )
は長崎原爆資料館の駐 たいと思っていた」と らといって、すぐに核 だ。しばらくして外に かと。そこには市民の、 かさ、原爆の恐ろしさ だめ」と訴える。
の張り紙にかなり動揺
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生から「なぜ日本は戦 り 、「 被 爆 者 な の に 核 平和につながる一歩を ンジ色にぼんやりと光
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