中文会 平成27年6月7日 6月例会資料 三堀 八郎 農地・農具の歴史からみた「中国農業史」 1・農業と農書の歴史 農地体系: 2・耕作体系 耕耘具 播 種 3・収 穫 4・稲の分類 農業技術欧州へ 穀物貯蔵 輪 作: 施 肥: 現代農政: 1・農業と農書の歴史 農地体系: *①狩猟採集民から農耕定着民へ *②新石器文化時代層序 *③開墾と開拓 *④特異な農地 移動焼畑耕作 *①狩猟採集民から農耕定着民へ:仰詔文化期の遺跡は1920~30年代にかけて多く発掘され、 そこから数多くの農具、穀粒、骨格が出土し、狩猟採集民から農耕定着民へ移行したことが窺える。 農業区分:1・自給的農業 2・商業的農業(現農家) 3・企業的農業 4・集団的農業 *中国歴代農書 王朝表:表2 ・『呂氏春秋』秦・ 『漢書』後漢・ 『斉民要術』(せいみんようじゅつ)賈思勰(かしきょう)北魏・ ・『管子』春秋時代?唐 ・『王禎農書』(王禎著)元 ・ 『農書』宋 陳旉(ちんふ) ・ 『農桑輯要』元 ・ 『補農書』明 ・『農政全書』明 ・『農書』元 不詳・ ・ 『天工開物』明末 宋応星 *②新石器文化時代層序:表1【ヴェトナム】BC八千年~BC六千年は前期新石器時代で、 バクソン文化(ランソン省バクソン山から発掘)と呼ばれる。器は刃部磨製の石斧、土器はまだ発達し ていなかった。この頃になると山の洞窟から広い平野に下り狩猟、漁業、稲栽培も行われていたと 推測される。農業技術は、初歩的な発展がみられ、石器磨製技法が発達する。 *③開墾と開拓 移動焼畑耕作: *開墾と開拓:中国語は開荒、墾田、漢代以前は萊田、作田。華北の農民は移動焼畑耕作を周代まで 行っていた。周代末に短期休閑輪作が進み連続栽培は肥沃な土地のみと考えられる。 土地所有→戦国時代 8 人家族 2ヘクタール配分。 宋代 6ヘクタール配分。 *移動焼畑耕作:焼畑農業は非効率とか環境破壊的と考えられているが、そうではなく逆にきわめて 調和的システムであり最適条件では普通の永年耕作より少ない労力で、より高い収量を挙げられる。 現在では、少数民族の瑶族が焼畑農民と言われている。 中国の焼畑農民の耕作物→ 豆 ミレット ハトムギ 陸稲。 *④特異な農地:圍田・ 圩田(うでん)・耕地が高い土手で囲まれ洪水から守られている。 揚子江、淮河の間に多い。図A 砂田・沙田・砂州と川中島に土手をめぐらすと作れる。土地は常に肥えて収穫が確実である。図B 架田・浮き田・葑田(かぶらた) ・湖辺が沼地で土手を作れない場合、浮いている田をつくる。図C 櫃田(きでん=勘定台田) ・外堤はどれも4か所に樋口を設けていて、耕作に便利である。図D 塗田(シルト田→ silt) ・江蘇海岸に海壁を作り、この塩鹹地を開拓し土地は砂と粘土との中間の 細かさを有する土地。シルト田の収穫は通常の水田の10倍あり、相続できる財産(永業)であった。 シルトとは、土質力学上は直径 0.02~ 0.002 ミリのもので、沈泥、微泥、砂泥とも言う。図E ―1― は B 砂田・沙田 砂州や川中島に耕地を作り A 圍田・圩田 干拓地の耕地で洪水から作物を 周囲を芦で囲む。 揚子江 淮河 守る為、周囲に土手がある。BC1 古代蘇州 に 綱 を 架 け 田 圃 と 結 ん で い る C 浮 田 ・ 架 田 浮 い て い る 田 圃 が 流 さ れ な い よ う に 大 木 D Aの囲田より小さく四周は高い土手で 守られ外堤の四か所には樋口がある 守られ、外堤は樋口あり。 E 塗 田 ・ シ ル ト 田 ―2― 黄 河 、 淮 河 の 蛇 行 地 に 耕 地 を 作 る F 17~18世紀にスコットランドで発達 した曲がり鋤。
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