若 若葉 葉と とと とも もに に ☆ 坂出市立東部中学校 学校だより 平 成 27年 2月 13日 号 Vol.40 ☆東中の歴史と伝統(その③)☆ ~ 「若葉会の歌」物語~ 校長室前の廊下に 「若葉会の由来」の額 が掲げられており,そ こには作詞者・作曲者 の「回想」が記されて います。東部中学校の 歴史のひとこまとし て,「若葉会の歌」がど のようにしてできあが ったかが分かります。 日本の高度経済成長期, その時代のうねりの中, 当時の生徒と先生によ って「若葉会の歌」が 作られました。 『作詞者の回想』 若葉会の歌詞を作ったことは,中学生時代の懐かしい思い出です。 中学生が作ったつたない詩に,美しい旋律をつけてくださり,そして,こ んなにも長く歌い続けて下さったことを光栄に思います。 私は二年生の九月から,東部中学校にお世話になった転入生でし た。私より少し前に同じく転校してきた小林紀子さんとお友達になり,学 校でも放課後にも,よく一緒に過ごしました。当時,東部中学校には校 歌がなく,二年生の時か三年生の時か,さだかではないのですが,在校 生に向けて,自分たちで校歌を作ろうという呼びかけのもとに詩の募集 がありました。私たち二人は,思いつくままに言葉をつなげてなんとか歌 詞らしいものを作り上げました。昔の中学生ですから,校歌であるからに は古めかしい言葉を用いようと考えました。辞書を引き引き,美しい郷土 のイメージと,新しい時代に生きる自分たちの未来をゆかしい言葉で歌お うと,楽しみながらも苦心いたしました。 校歌は,小林紀子さんと二人連名で応募したわけです。採用された 詩を,私たちは校歌と思って作ったのですが,結局は生徒会の歌として 作り上げられ,ゆくゆくはきちんとした校歌が作られるとお話がありました。 生徒会の歌なら,もっと現代的で若々しい詩を作ればよかったとそのと き二人で話し合ったことを思い出しました。 このようないきさつなので,校長先生からご連絡をいただいた時,作者 が私一人されているらしいことに少なからず驚きました。これからも作者 を表示なさるのであれば,この詩を一緒に作った小林紀子さんの名前 を,ぜひ一緒に並べて下さい。 当時,日本は急激な経済発展の兆しの頃で,国中気合いは十分で も物は少なく,学校では教科書だけがたよりの学習でした。東部中学 校には体育館がなく,私たちの卒業式は小学校の講堂を借りて行わ れました。米ソ対立,キューバ革命,ベトナム戦争,ケネディ暗殺,大き な世界のうねりをトランジスタラジオのイヤホンでとらえる,そんな中学生 時代でした。 田中 京子(旧姓 滝本) -1- 「若葉会の歌」作詞 田 中 京 子 さ ん (写真上) 小 林 紀 子 さ ん (写真下) 『作曲者の回想』 この若葉会の歌は,昭和38年ごろ,若葉会の強い希望で生まれました。 いわゆる団塊の世代で,いろいろな意味で特に中学校教育が困難な時であ りました。今ではおよそ考えられないような状態でした。そこで生徒会活動を 助長し,生徒の自主性を大切にしなければと学校長以下先生方も考え,生 徒会が自主的に図って歌詞を募集しようということになりました。 当時でも校歌のない学校はめずらしく,現在もないというのは前代未聞か もしれません。私は,東部中学校で5回修学旅行に行きましたが,必ずどこ かでバスガイドさんから校歌か何か歌えと言われ,そのたびに辛い,恥ずかし い思いをしたのは私たち教師だけでなく,生徒も同じだったと思います。 細谷校長先生から,滝本さんの歌詞を見せられてとき,校歌くさいとちらっ 久米 雄紀 先生 と思いましたが,私が作曲してもよいということで,急いで作りました。そして, 音楽主任の三好先生に指導してもらいました。 この後,すぐ私は転勤になり,以後この歌が盛んに歌われ,校歌のようだということを長い間知りませ んでした。十年以上経って,仕えていた校長先生に東中の校歌を作ったろうと言われ,ビックリしまし た。今から二十年位前,東中の阪根先生にこの歌について聞かれた時,あくまで生徒会の歌だと言っ たことを覚えています。その後何人かの校長先生ともお話をする機会があり,この歌は生徒会の歌で すと申し上げました。そして,あらためて校歌をつくれないかと言ったこともあります。 久米 雄紀 当時の学校風景 (「50周年記念誌」より) ◇ 「校 歌」 (昭和37~39年) 当時,校歌がなくて,生徒会 (若葉会)の歌詞 を生徒より募集して,優秀なものを若葉会の歌と して,音楽の先生の作曲により完成する。現在, 歌い続けられているかどうか。校歌がその後できた でしょうか。 ◇「 校 歌 に つ い て 」 (昭和37年頃) 音楽の先生だった,久米先生が作曲してくださ り,今の校歌が出来ました。私達は卒業式に校歌 を歌おうという事になり,休み時間に,校歌の練 習をして いました。(昭和38年卒業 大池 悦子) ◇「校章について」 (昭和40年頃) 在校中に,校章が変わったと思います。それまでは,坂出中学校と 同じだったと思います。新しい校章は,若葉会(生徒会の名前)と, 東部中学校の「東」,そして坂出市のマ-クが入っていると言われた様 な気がします。 (昭和40年卒業 高木 俊水) ◇「弁 当」 (昭和43年頃) この頃は,まだ給食はなく,みんな弁当を持って来ていた。冬にな ると,当番の者がみんなの弁当をかごに入れてまとめ用務員室で弁当 を暖めていた。寒い時期にあつあつの弁当のおいしさが,とてもなつ かしく思う。 (昭和45年卒業 中山 新一) 《 ◇「学校の昼食」 旧 校 章 》 (昭和43年頃) 1959(昭 和 34)年 卒業アルバム表紙より 昼食は給食ではなく弁当持参でした。弁当は当番の者が朝厨房へまとめ て運んで昼食の時間になると,暖まった弁当と牛乳を取りに行くのです。又,業者がパン類の販売もしていました。早く 買っておかないと,残った食パン2枚の昼食になってしまいます。 (昭和46卒業 前田 悦子) ◇「スカーフの思い出」 (昭和45年頃) 中3の国語(浦田先生)の授業中,何の話からか,東中の女子のスカーフの色が話題になりました。「緑色は紺色 みたいにありあふれた色でなく,また新緑とか若葉とかのイメージがあり,とても中学生らしい色です。誇りとして 下さい。」とおっしゃられたことが嬉しくて,今でも教室の授業風景とともに思い出されます。娘が入学した時にも, このことを話しました。 (三木 智子) -2-
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