國士舘史學 - 国士舘大学 文学部

國士舘史學
創刊によせて…………・………………・…………………・…大川
清……
1
忠……
3
論説
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について………………藤田
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について
-関東農村における「御事」の日の編成を中心に-
…………………..……。、……………・………・…………阿部
昭……29
史料紹介
前九年の役の未紹介史料
一狩野本『前九年合戦之事』の紹介と縦刻一……奥野中彦……67
国史学研究室だより
東洋史学研究室だより
創刊号
(No.1)
平成5年5月
國士舘大學史學會
國士舘大學文學部内
創刊によせて
ヒトなれば還暦、それより年月を経た大樹の移植には芯をつめ、枝も半ば以上伐り、根回ししてから移す。移植された大
樹は前のように枝を張って影をつくるには樹のたちにもよるが、十年経っても旧には復し難く、まして実を結ぶことなく、
実生の若木を育てることは危うい。
樹齢二、三十年の素性のよい樹は移植後十年も経てば根は張り、丈は伸び枝は広がって影は大地を潤し、実生の若木が育
つ。実生の樹林はやがて大地を守り生命の母となる。この輪廻に偽りはない。我等は自然と対話しながらその中で謙虚に生
きてきた先人の歩みを樋として、明日を有意義に生きる術を学ぶべきである。
国士館史学は戦後二十年して誕生した。当初移植した大樹は根も張らず、枝も伸ばさずして老木となった。その間に移植
した樹々は成長し、いま亭々として大空に聟え、枝葉は広く伸びて大地を潤し、実生の若木も育ちはじめたいま、史学会が
結成され、ここに学会誌「国士館史学」を発刊するに至ったことは、まことに慶ばしく感慨無量である。ここに到達するま
での四半世紀、好余曲折、決して平坦一路な道程ではなかった。移植の樹々はすばらしき樹林となり、林間に紅葉を焼き、
酒を暖め談論するなど、学芸に生きる我等には、樹林生々の四半世紀を厳しく銘記し、常に己を知り、人を愛し、日々新面
清
目を心すべきである。
平成五年弥生
那須小砂山荘にて
桃林大
一(一)
川
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について
…
序
〈一〉
顧炎武『日知録』巻十五、墓祭の条に、
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
藤田忠
一一一(三一)
革のうち、明帝が行った上陵の礼をとりあげ、それを通じて礼制改革の意味について考えてみることにする。
の陵寝での祭祀儀礼やその意義について論じられることは非常に少なかった。そこでこの小論では、後漢時代初期の礼制改
②
論に重点が置かれていた。数少ない陵墓に関するものでも、歴代皇帝の陵寝の造営やその位置の比定などが主であって、そ
①
う相違がある。皇帝にとって、両者とも重要な祭祀である事は言う迄もない。しかし、従来どちらかと言えば宗廟に関する
宿る所であるから、そこでの祭祀は吉礼に属する。陵墓はP枢の埋葬する所であるので、そこでの祭礼は凶礼に属するとい
吉、嘉、賓、軍、凶の五礼のうち、祖先(死者)に関わる祭祀として、宗廟と陵墓での二つがある。宗廟は祖先の霊魂の
へ
。。。。。○
四酋)
後漢明帝永平元年春正月、帝率公卿巳下、朝於原陵、如元會儀、而上陵之禮始興、毎正月上丁、祀郊廟畢、以次上陵、
百官四姓親家婦女公主、諸王大夫、外国朝者侍子、郡國計吏會陵、八月飲酎禮亦如之(○点筆者以下同じ)
とある。明帝は永平元(五八)年に、原陵(光武帝陵)に詣で元会儀を行ない、ついで上陵の礼を始めたことが記載されて
いる。さらにこの時、飲酎の礼も原陵で行なわれるようになったことがわかる。そもそも元会儀とは、毎年正月の元旦に、
③
公卿、百官をはじめとして多く来朝者が朝廷に参集して、皇帝に朝賀する儀式であって、前漢高祖が秦を平定して以来続い
ている儀式である。また飲酎の礼とは、宗廟で毎年行なわれる「二十五祠」の一つであり、前漢時代には毎年八月に「酎」
を宗廟に献ずる祭祀であり、犠牲として「九太牢」を用いることからも、宗廟で行なう祭祀の中では最も重要なものである。
このように宗廟で行なわれる祭祀のうち特に重要な「元会儀」と「飲酎の礼」が、何故に本来の場所を離れて、陵寝に移さ
れることになったのであろうか。
〈一一〉
まず、宗廟と陵寝との関係についてみてみよう。『後漢書』祭祀志下に
古不墓祭、漢諸陵皆有園寝、承秦所爲也、説者以爲古宗廟前制廟、後制寝、以象人之居前有朝、後有寝也、:::廟以藏
主、
、以
以四
四時
時祭
祭。。寝有衣冠几杖象生之具、以薦新物、秦始出寝、起於墓側、漢因而弗改、故陵上解寝殿、起居衣服象生人之
具、古寝之意也
いにしえ
④
いはい
とある。古に墓祭があったか否かは論の分かれるところであるが、今はふれない。宗廟は前方に「廟」があり、後方に
「寝」がある宮殿と同じ配置になっている。つまり宮殿の朝が宗廟に相当する。「廟」には木主を配して、四時祭祀する。
⑤
「寝」には衣冠几杖等、木主の生前の生活用具が収納されており、『禮記』月令に見える季節ごとに収穫された初物が供えら
れた。ところが秦始皇の時代になって、元来宗廟の中にあった「寝」が、宗廟から切り離されて、墓の傍につくられるよう
になった。漢もそれを改めずに継承したので、陵上のものを寝殿と称したのは、日常の衣服等を生前の生活用具に象どり、
宗廟内または宮殿内の「寝」にあったのと同じであることを表わしている。
秦が始めた「廟」と「寝」との分離は、漢に継承されたが、その後の経過については、『漢書」巻七十三、章賢列伝付草
玄成伝に、
初、高祖時、令諸侯王都皆立太上皇廟、至恵帝尊高帝廟爲太祖廟、景帝尊孝文廟爲太宗廟、……而京師自高祖下至宣帝、
與太上皇、悼皇考各自居陵労立廟、井爲百七十六、又園中各有寝、便殿、日祭於寝、月祭於廟、時祭於便殿、寝、日四上
食、廟、歳二十五祠、便殿、歳四祠、又月一勝衣冠
と見えている。高祖の時に太上皇廟をつくり、恵帝の時に太祖廟、景帝の時に太宗廟をつくった。子供が禰廟をたてている
ので問題はない。高祖から宣帝に至ると、太上皇、悼皇考(宣帝の父、史皇孫Ⅱ師古注)が陵の傍に廟をつくったので、全
国の宗廟総数は百七十六となった。そして園中には寝と便殿が別々にあり、日祭、月祭、時祭の場所が決められている。高
祖以来の「廟」と「寝」は完全に分離し、「寝」と「別殿」は陵園の内側にあり、「廟」も陵園の外側の近くに建てられた。
そして日祭(日々の祭祀)は寝で、一日四度の食事が供えられ、月祭は廟で行われ、一年に二十五の祭祀があり、時祭は便
三
画
殿で、年に四回行われた。また「寝」に収納されている衣冠をとり出して遊行させている。つまり秦、漢以前には宗廟と陵
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
五
→谷、
ユ○ノ
(一〈)
園とは全く別々の場所にあったものが、秦、漢時代になって一体化したのである。宗廟と陵園の一体化の理由については、
既に楊寛氏が、
高祖廟は長安城内にあったが、叔孫通の建議により、それとは別に高祖の長陵の近くの渭水の北に「原廟」をつくるこ
とにより、高祖の霊魂が陵寝より直ちに宗廟(原廟)に出て行けて、祭祀を受けるのが便利になる。原廟での祭祀に高祖
⑥
が生前身につけていた衣冠を「陵寝」の中からとり出して、原廟をひととおり遊行させた。当時の人々は衣冠に霊魂が着
いていると信じていたので、陵寝の中の衣冠を宗廟に運んで遊歴させることで、霊魂が祭祀を受け入れるのを便にした。
と指摘する通りであるが、『西漢会要』巻十二、原廟の条引く『漢奮儀』に、
(徐天麟按)原廟一歳十二祠、閏加一祠、月淋衣冠以廟晩食之日
とある。原廟は十二祀で、先引の津玄成伝に見えるように宗廟は二十五祀である。また娩食Ⅱ餓食礼の日に行なっている。
この場合、高祖廟での二十五祀は従来通り行なわれたのであろうか、それとも原廟で十二祀を行ない、高祖廟で十三祀、合
計二十五祀であったのだろうか。二十五祀については後述するが、他の一点祭儀を行なう日についてみよう。原廟での祭祀
日を記した資料は他に見当らないので、もし徐天鱗(南宋)の言う様に、餓食の礼の日に行なうとすれば明らかに高祖廟で
の祭祀日と別の日になる。餡食の礼については、『儀禮』の「特牲蹟食麓」と「少牢餓食禮」の二篇しか残っておらず、し
かも鄭目録には、
特牲餓食之職調諸侯之士祭祖禰、非天子之士、耐於五禮属吉魑
(少牢餓食之磁調)諸侯之卿、大夫祭祖禰於廟之職、羊永日少牢、少牢於五禮属吉縄
とある。特牲も少牢も吉礼に属するものであるが、「特牲」とは「特は一で、特牲とは永のこと」(『國語』楚語下、昭王問
髄
観射父の条の箆昭説)である。しかしいづれにしても、ここに見える餓食の礼は諸侯の士や卿、大夫の礼であって、犬子の
魁か
卿、人夫、士の礼ではない。ましてや天子や諸侯の礼ではない。だから『儀綴』のこのこ篇を漢代の原廟にそのまま適用す
うら心
ることは、問題が生ずるかもしれないが、この二篇に見える祭日決定方法は、二篇の冒頭に、「特牲餓食の礼、Rを諏らず、
Hを篭うに及びて……」、「少牢餓食の礼、日は丁・己を用い、旬有一日を遼い・…:」とあるように、祭日は卜いによって決
めるものであって、特定の定つた日ではない。『儀禮』の他の篇では所謂る礼の規定に則った記事が見られることからする
と、二篇の餓食の礼の祭日を以って、原廟での祭祀の日と推定すれば、尚祖廟での祭祀uと異なることになるであろう。ま
た「月一淋衣冠」とあることから必ず一ヶ月に一度行なうことになるのだろう。つまり原廟では宗廟と異なって、一ヶ月に
一度、一年で十二回の祭祀が行なわれたのであろう。
次に二十五祀についてみることにしよう。前引の『漢苔』草玄成伝の二十五祠の注引く『漢儀注』に、
宗廟一歳十二祠、五月嘗麥、六月、七月三伏、立秋躯婁又嘗樂、八月先夕餡殖、皆太牢、酎祭用九太牢、十月嘗稲、又
飲蒸、二太牢、十一月嘗、十二月臘、二太牢、又毎月一太牢、如閏加一祀、與此上十二為二十五祠
七名)
とある。宗廟で行なわれる二十五回の祭祀の規定であるが、「月祭於廟」(菫玄成伝)とはどういうことであろうか。何故な
らば古文経といわれる『周禮』等には、月祭の規定はない。例えば『周禮』春官、大宗伯に、
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
以祠春享先王、以禰享先王、以嘗秋享先王、以蒸冬享先王
⑧
とあり、『春秋繁露』四祭、第六十八にも、
ママ
ノ
l
(へ)
古者歳四祭、四祭者因四時之所生執而祭其先祖父母、故春日祠、夏日約、秋日嘗、冬日蒸、比言不失其時、以奉祭先祖
也、過時不祭則失為人子之道也、祠者以正月始食逃也、約者以四月食麥、嘗者以七月嘗黍櫻也、蒸者以十月進初稲也、此
天之經也、地之義也
⑨
という。『周禮』のの 説は、 経典として机上の案であるとしても、董仲野が四時祭だけで、毎月の祭祀についてふれていない
のは何故だろうか。
漢 王 朝 の 立 廟 は 、 『漢書』巻一下、高組本紀に
十年、秋八月、令諸侯王皆立太上皇廟干國都
とあるに始まる。しかしこれは郡国立廟の始まりであり、しかも太上皇(高祖の父)廟である。衣冠出瀞の対象となる高祖
廟についてみると、『史記』巻八、高組本紀に
。◎。◎
十二年四月甲辰、高組崩長樂宮、……己巳、立太子、至太上皇廟、重臣皆日、高組起微細、擬乱世反之正、平定天下、
爲漢太組、功最高。上尊號爲高皇帝、太子襲號爲皇帝、孝恵帝也、令郡國諸侯各立高組廟、以歳時祠
とある。高祖が崩御した時に、即位した恵帝が高祖の功を考えて各郡国、諸侯に高祖廟を建造させて、歳時を以って祭祀さ
⑩
せた。つまり本来の宗廟では時祭であって、月祭ではなかったと思われる。『漢書』葦玄成伝引く『漢薔儀』の一年十二祀
というのは、恵帝五年に渭水の北岸につくられた「原廟」についての事と考えられ、衣冠を寝廟からとり出し運ぶのに便利
にと、新しく廟をつくったことは、恵帝の時代に廟と寝の結合がさらに進んだことを示していると思われる。
⑪
次に、一歳十二祀以外の五月嘗麦から十二月臘祭までについてみると、前引の『春秋繁露』や『憩記』との間に若干の月
のづれが見られるものの、所謂る「薦新」(初ものを供える)と季節の節目の祭祀である。そしてこの祭祀には普通一太牢
乃至二太牢の犠牲が供えられる。ところが「酎祭」にだけ九太牢とずばぬけて多いが、「酎祭」とは『漢書』巻五、景帝本
紀の前元元年冬十月の詔に
蓋聞古者租有功而宗有徳、制禮樂各有由、歌者、所以發徳也、舞者所以明功也、高廟酎、奏武徳、文始、五行之舞、孝
恵廟酎、奏文始、五行之舞
とある。功徳があり尊ぶべき祖先廟で、歌舞(武徳は高祖の作った舞、文始は舜の舞、五行は周舞l孟康説)をつけて催お
す祭祀であり、その際に「酎」という新酒も供撰したことによる。「酎」とは、この張晏注によると、
⑫
正月旦作酒、八月成、名日酎、酎之言純也、至武帝時、因八月嘗酎會諸侯廟中、出金助祭、所謂酎金也
とある。正月元旦に酒を醸造し、八月に新酒として出来あがったものを「酎」と言い、真先に宗廟に供えた。祭祀を行なう
L
す
(九)
際に、諸侯王に賛助金として黄金を献上させたところから「酎金」とも言った。「酎金」は黄金の量が規定に足らなかった
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
一
e
一
へ
⑬
とある。既に引用した『後漢書』祭祀志下と重複する部分も見られるが、新しい点もあるので最初から眺めてみよう。
欲先帝魂睨聞之也、元會儀見下
随鼓漏理被枕、具盟水、陳莊具、天子以正月上原陵、公卿百官及諸侯王、郡國計吏皆當軒下、占其郡國穀債、四方改易、
古不墓祭、秦始皇起寝於墓側、漢因而不改、諸陵寝皆以晦、望、二十四氣、三伏、牡、臘及四時上飯、其親陵所宮人、
ママ
ところで、その明帝本紀の注引く『漢官儀』に、
上陵の礼の開始については、『後漢書』明帝本紀の本文を殆んどそのまま引用した『日知録』によって知ることが出来る。
〈一一一〉
点について考えてみよう。
とは逆転したことは言うまでもない。では何故に明帝は宗廟の重要な祭祀を陵寝に移すことにしたのであろうか。次にその
祭」の礼を、冒頭にも記したように、後漢明帝は永平元年に陵寝に移すこととなった。その結果、宗廟の地位と陵寝の地位
なったが、それ以外は宗廟での祭祀が中心であったと考えられる。その宗廟の中でも重要な祭祀である「元会儀」と「酎
以上のように、前漢時代は、孝恵帝が長陵の近くに原廟を更たにつくり、陵との結合をはかり、月一度の衣冠の遊行を行
あり、恵帝廟も陵寝の傍に更たに廟をつくったという記録がない。それ故に長安城安にあったものと思われる。
⑭
は、景帝本紀からもわかるように、寝陵の近くに新たにつくられた原廟ではなく、長安城内の高祖廟でおこなわれたもので
り、純度が悪かったりすると爵位を剥奪されたり、国を除かれる等の処罰を受け、諸侯王には重い負担となった。この酎祭
○
たてま
ととの
つどもり十五日
化粧迦具⑮そ雌
陵墓の側に渡をつくることは、秦始皇帝より始まり、漢はそのまま継承した。陵墓の寝では晦、望、二十四気節、三伏、
社、臘及び一日に四回の食事を上つる。その親陵所の宮人が、鼓漏に随い被枕を理え、盟水を具え、荘具を具える。天子は
⑯しら
正月に原陵に上り、公卿、百官、諸侯王や郡国からやってきた上計吏は皆寝の軒下の所にならび、順にそれぞれ郡国の穀価
や人々の疾苦する所を占べて報告するのは、先帝(光武帝)の魂晩がこの事を聞かんことを望んでいるからである、とする。
⑰
尚お帝陵の寝において、宮人が定日に祭祀を行なうことは、『後漢書』祭祀志下によれば霊帝迄確認することが出来る。
しかし明帝が、元年正月に元会儀の様に実施した上陵の礼は、『後漢書』の本紀には見えない。明帝の祭祀で後に継承され
たものは、明帝永年二(五十九)年十月の甲子に、
西巡守、幸長女、祠高廟、遂有事於十一陵(明帝本紀)
⑱
とある。これは章帝、和帝、順帝、桓帝と継承されているが、いずれも即位の年ではない。祭祀が行なわれたのは十月及十
一月のことであり、劉邦が天下を平定した十月にもとづいていると思われる。
では、明帝は重要な祭祀である元会儀と同じような祭祀を、原陵の上で行なったのであろうか。その事について、『漢官
儀』は「欲先帝魂晩聞之也」と言い、「禮儀志」上は「欲紳知其動静」と言っている。つまり先帝Ⅱ光武帝の霊魂が、人々
の生活状態を知りたいと望んでいるからであり、先帝である親が望むことに対して、子である明帝がそれに答えることは、
「孝子事親蓋禮、敬愛之心也」(禮儀志上)であるという。儒教倫理が既に浸透している後漢社会では、誰も正面切って反対
出来るものではない尤もな理由である。このようにして、明帝は即位すると、従来宗廟で行なわれていた定時祭の中で最も
一一(一一)
重要な二つの祭祀l元会儀と飲酎の礼Iを陵寝に移すことになった。この事は礼制上、大変大きな改革という事が出来る。
この明帝の礼制改革について、顧炎武は前引の墓祭の条の続きに、
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
一一一(一一一)
(永平)十七年正月、明帝當謁原陵、夜夢先帝太后、如平生歓、既贈、悲不能謀、即案歴明旦日吉、遂率百官及故客上
陵、會畢、帝從席前伏御視太后鏡匿中物、感動悲涕、……此特士庶人之孝、而史傳之以爲盛節、故陵之崇、廟之殺也、禮
之漬、敬之衰也
という。明帝は、夜、光武帝や太后(明帝の母)が夢の中でまるで生前のようによろこんでいるのをみて、眼がさめて悲し
くなった。明旦が吉日だったので百官等を率いて上陵の礼を行なった。祭祀終了後、太后の遺品を見て感動にむせんだ。こ
たか
の様な行為について、顧炎武はただ士、庶人の孝をしただけであるのに、史書がこれを盛節として伝えた。その結果、寝陵
の地位は崇くなったが、宗廟の権威はさがり、礼制は潰れ、尊敬の念が衰退したと捉えている。顧氏の指摘通りであるが、
陵寝の地位の向上と宗廟の地位の低下は、永平元年の陵寝での上陵の礼と飲酎の礼から既に始っていたと思われる。このよ
うな明帝の宗廟に対する考え方は、それ以後の宗廟制度に大きな影響を与えることになる。『後漢書』明帝本紀に、
⑲
永平十八年、秋八月壬子、帝崩於東宮前殿、年四十八、遺詔無起寝廟、蔵主於光烈皇后更衣別室
いはい
とあるように、明帝が四十八才で崩御した時の遺詔で、寝廟を建てないで、自分の木主を光武皇后廟の更衣別室に置くよう
に命じている。次の章帝もこの方針を継承する。『後漢書』章帝本紀に
章和二年二月壬辰、帝崩於章徳前殿、年三十三、遺詔無起寝廟、一如先帝法制
⑳
とあり、この方針は制度化されてしまう。
明帝は陵寝の近くに廟をたてることをやめただけでなく、天子七廟制も廃止したことになり、前漢以来続いてきた礼制の
一大変革を行なったことになる。なお後述するように、明帝の礼制改革はこれだけにとどまらず「三朝の礼」にも及んでい
る。それでは何故に明帝がこの様な礼制改革を行ったのであろうか。
「上陵の礼」をとりあげて、その背景を考えてみよう。
⑳
前漢中期以降、豪族勢力が伸展し、後漢政権は豪族層に基盤を置いていた事はよく知られている。その豪族社会で、墓に
詣でて祭祀を重視していたことは、顧炎武の指摘する以外にも、例えば『論衡』巻二十三、四諄篇に
古禮廟祭、今俗墓祀……墓者鬼紳所在、祭祀之虚、祭祀之禮、齋成潔清、重之至也
⑳
とあるように、後漢代には、それ以前の廟祭に相当する程重要であった。そしてこの風習は、上は天子から下は庶民に至る
⑬
まで、さらに男女の区別なく広く行なわれている。また豪族達は墓祭を行なうことを通じて、一族の団結を謀ったものと恩
われる。豪族の長を中心にした喪葬儀式は、厚葬の風習、服喪の期間、祠堂の建設等、それ以外の多くの面にも影響を与え
る。厚葬や服喪の期間等が定められたのは、前漢文帝の時である。『漢書』巻四、文帝紀に、
後七年夏六月己亥、帝崩干未央宮、遺詔日……當今之世、威嘉生而悪死、厚葬以破業、重服以傷生、吾甚不取
一一一一(一二一)
とあるように、厚葬のために破産したり、残された者に負担増となっているので、中止するように遺詔を残した。それ以来
薄葬かつ短喪が行なわれている。その後、『漢書』巻五十二、田紛列伝に、
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
0.0.O
(寶)嬰・紛倶好儒術、……迎魯申公、欲設明堂、令列侯就國、除關、以禮爲服制、以興太平
一四(西)
とある。商嬰、田紛はともに武帝即位時に丞相、太尉となった人物である。彼らが儒教に基いた服制の改革を行なうことを
⑳
進言したのであるが、当時まだ寅太后の力は強く、彼女の反対にあい、結局喪服を改めることが出来なかったばかりか、二
人は罷免させられてしまっている。しかし『漢書』巻八十三、解宣伝に、
。○○○◎
。。。○0.00
0○○○
成帝初即位、宣爲中丞……初、宣爲丞相、…:.宣有雨弟明・修……後母常從修居官、宣爲相時、修爲臨笛令、宣迎後母、
修不適、後母病死、修去官持服,宣謂修三年服少能行之者、兄弟相駮不可、修遂寛服、縣是兄弟不和
とあり、また同巻十一、哀帝本紀にも
綏和二年六月……詔日・…:博士弟子父母死、予寧三年(師古日寧謂虚家持喪服)
⑳
とある。成帝、哀帝の頃には「三年の喪」が行なわれていたことがわかる。嘗って筆者が触れたように、前漢の後半期、元
帝、成帝期以降儒家官僚の進出が目覚しくなってくると、儒家の禮教主義が整備されていった。それにともない「三年の喪』
の風習も社会全般に広がっていったと思われる。藤宣伝の前引文のすぐあとの部分に、
。。。。。◎。○。。。。
哀帝初即位、博士申威給事中、亦東海人也、殴宣不供養行喪服、薄於骨肉、前以不忠孝免、不宜復列封侯在朝省
とあるように、騨宣が三年の喪を行なわなかったので、同輩が非難を沿びせている。またこれと反対のこともある。『後漢
普』銚期列伝に、
○。。。。。。。◎
父猛爲桂陽太守、卒、期服喪三年、郷里孵之……光武即位、封安成侯
然
とあるように、前漢末の郷里社会で、銚期が三年の喪に服したことに対して、郷里の人々が称賛している。この様な三年服
喪の風習は後漢時代の初めにも継承されていった。
⑨⑨○O
また、蕊前に祠堂を建設することも行なわれており、後漢時代にはさらに流行し、大規模なものとなった。例えば『後漢
普』李固伝に、
00⑥⑨
(李固)乃奏記日、……明将軍望尊位顯、常以天下爲憂、崇尚謙省、垂則闘方、而新螢祠堂、 費功億計、非以昭明令徳、
崇示清倹
とあるように、巨額の費用を投じて祠堂を建設している。さらに『漢書』巻九十二、淋侠列伝の原渉の条にも、
。。。。。。。。
(王淋公)説(茂陵守令)尹公日……渉治家舎、著僧踊制、睾悪暴著、主上知之・・….
とある。王勝公は、原渉が祠堂をたてるに際して節度を越えたものであることを訴えている。王勝公はこの後、原渉に殺さ
五
一
へ
琴
れてしまうが、他人から訴えられる程祠堂が著侈であったことがわかる。このような祠堂は往々にして石材で建てられ、壁
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
一
⑰
一一ハ(一奉)
面には人物画像が彫刻され、墓前には門閥が建てられ、閾の上には額が飾られ、先祖代々の姓名や歴任官職、閾の建造年月
日等が刻されていた。
以上のように、前漢中期以後、豪族が社会、政治上に大きな勢力をもつことになり、彼らは儒教的礼制を社会規範として
採用した。そして『論衡』の「墓は鬼神の在る所、祭祀の所」として捉え、祖先を祭祀し、供養することが子孫の勤めであ
り、祖先に対する孝行としていったのであろう。このように豪族によって社会にひろめられた墓祀の風はやがて、顧氏の言
へ
う.般士・庶の孝」として社会全体を覆うようになっていったのであろう。
四
『後漢書』光武帝本紀下に、
(建武十七年)乃悉爲舂陵宗室起祠堂
⑳
とあり、舂陵に祠堂を建てている。その祠堂では、同祭祀志下に、
其南陽舂陵歳時各且因故園廟祭祀、園廟去太守治所遠者、在所令長行太守事侍祠
◎0。。。。
れていき、そして今度は、皇帝、皇族、高位高官者としての立場での祭祀儀式となったであろうと思われる。
後漢王朝を建国した劉秀は南陽の豪族であり、彼を助けたのも豪族達であった。当然豪族社会の風潮は彼らに採り入れら
…
⑳
⑳
とあり、翌建武十八(四十二)年から歳どしの祭祀を開始しているが、楊寛氏によると「故の園廟」とは「在来の祖墳の前
に置かれた祠堂」である。その祠堂が遠くにある場合は、当該地の令長に太守の代行をさせている。もちろん光武時代の墓
参や墓前での祭祀は明帝にも引き継がれたであろう。では明帝は何故に従来の方法を改めることにしたのであろうか。
⑪
明帝の礼制改革は、既に見てきた上陵の礼だけでなく、他に「三朝の礼』もある。三朝の礼の詳細は別の機会に譲るが、
『後漢書』明帝紀に
○○○。○
永平二年春正月辛未、宗祀光武皇帝於明堂…:三月、臨辞雍、初行大射禮、:.…冬十月壬子、幸畔雍、初行養老禮、詔
日光武皇帝建三朝之禮、而未及臨饗
。。。。。。
とある。三朝とは右の引用文は全て見えないが、同李賢の注に「三朝之禮謂中元(五十六)年初起明堂、畔雍、霊臺也」と
あり、中元元年に建てられたままで未だ祭祀が行なわれていなかったので、明帝が祭祀を実施したことがわかる、
中元年間は光武帝在位三十三年間の最末尾の二年間である。その時になって光武帝は三宮を建設したが、祭祀を行なうこ
となく崩御してしまっている。光武帝末年から明帝時代へ一瞥すると次のようになる。
『後漢書』光武帝本紀下に、
中元元年……是歳、初起明堂、霊臺、辞雍及北郊兆域
とある。中元元年に、明帝の詔にあるように三宮を建てている。それに加えて北郊の兆域を造営している。この中元元年は
一七(石)
光武帝が即位してから三十二年目のことである。そして翌二年に郊祭を行なっている。(中元二年春正月、初立北郊、祠后
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
土l同本紀)
と こ ろ で 、 中元元年の三朝・北郊造営、翌二年の郊祭の実施の経緯について、同祭祀志中は、
一八(六)
是歳初螢北郊、明堂、辞雍、霊臺未用事、:…・北郊在雛陽城北四里、爲方壇四陛。三十三年正月辛未、郊、別祀地祇
……高皇后配、:…・如元始中故事
と説明している。是歳とは、後文にも三十三年とあるが、既に見たように中元元年のことである。この時洛陽城の北四里の
ところに正方形の地埴をつくり祭祀の準備をし、翌年ここで地祇を祭祀し、高皇后を配した。この祭祀は光武帝が新設した
ものではなく、「元始中の故事」に倣ったものである。光武帝は建武元(二十五)年に即位した時、「告天地」の祭祀を行
なったが、この時も「采用元始中郊祭故事」(祭祀志上)であり、建武二年に洛陽城の南に郊兆を建てた時にも「采元始中
故事」(同上)と、元始中の故事を採用している。
では、「元始中の故事」とは何であるのだろうか。『漢書』巻二十五下、郊祀志に
平定元始五年、(王)葬又頗改其祭禮、日周官天墜之祀、樂有別有合、……天地合祭、先組配天、先批配墜、其誼一也
とある。王葬は『周禮』に基づいた統治を行なったとよく言われるが、元始五(五)年の改礼はまさしく『周禮』春官、大
司樂に則ったものであることがわかる。さらに王葬のこの構想は、彼が天下取りを果した始建国元(九)年の葬の言葉「郊
祀黄帝以配天、黄后以配地」(『後漢書』王葬伝中)にもあらわれている。皇帝を天に、皇后を地に配祀しようとするもので、
『周禮』に基を置く古文家説のものである。光武帝即位の「祭告天地」の元始故事や中元二年の高皇后を地に配祀しようと
したことは「先批配墜」に一致するものである。
以上のような大筋に大過が無いとすれば、中元元年、二年の北郊祀制度は王葬以来の古文家の礼制の継承を意味するもの
となるだろう。中元二年二月戊戌に光武帝が崩御し、同日明帝が即位し、光武帝を原陵に葬った。翌年永平元年と改元し、
元会儀を原陵で行ない、そして永平二年の三朝の礼の実施と続いてゆく。このような光武帝末年から明帝初めの動静につい
て、次の章帝の時に興味深い記事がある。
『後漢書』光武十王列伝の東平憲王蒼伝に、
後(章)帝欲爲原陵、顯節陵起縣邑、蒼聞之、迩上疏諫日……籟見光武皇帝躬履倹約之行、深韻始終之分、勤勤懇懇、
以葬制爲言、故螢建陵地、具稻古典……孝明皇帝大孝無違、奉承貫行、至於自所管創、尤爲倫省、謙徳之美、於斯爲盛、
臣愚以園邑之興、始自彊秦、古者丘朧且不欲其著明、豈況築郭邑、建都郛哉、上違先帝聖心、下造無益之功、虚費國用、
動揺百姓、非所以致和氣、斫豐年也、又以吉凶俗數言之、亦不欲無故繕修丘墓、有所興起、考之古法則不合、稽之時宜則
違人、求之吉凶復未見其福、陛下履有虞之至性、追組禰之深思、……臣蒼誠傷二帝純徳之美、不暢於無窮也、惟蒙哀覧、
帝從而止
とある。些か長文であるので大略を記すと、章帝が原陵(光武帝)、顕節陵(明帝)のために県邑を建造しようとした。こ
れを聞いた東平王蒼は、上疏して、「光武帝は質素倹約な行ないをし、終始を見通してつとめて葬制を考えて陵地を建造し
たので古典にかなっている。明帝も大孝を貫き通して人倫に違うことなく、自分で営み創めるものはとくに質素倹約で、謙
遜の美徳を発揮したので非常に盛況であった。今私(東平王蒼)が考えるに、園邑をつくることは強秦より始った。陵邑を
一九(完)
おこすことは先帝の遺志に違うだけでなく、無駄なことで、国家の費用の無駄づかいであって、人々を動揺さすものであり、
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
一
‐
ー
一
へ
一
る。また、それと同時に、同伝に、
光武皇帝建三朝之禮、而未及臨饗……初行大射、……升歌鹿鳴、下管新宮、八借具脩、萬舞於庭
。。。◎。。。。。。。。。。○○
永平二年春正月辛未、宗祀光武皇帝於明堂、帝及公卿列侯始服冠冤、衣裳、玉偲、絢履以行事.:…冬十月壬子……詔日
0.00○
さらに既に見たように三朝の礼の実施は永平二年である。その永平二年の事に関して、『後漢書』明帝本紀に、
題になりだしたのは、この三年前、光武帝の末年中元元年のことであり、実際に祭祀が行なわれたのは翌年のことである。
その詳しい内容を知ることが出来ない。しかし南郊、北郊の制度について議したとある。後漢時代になって北郊の祭祀が問
北郊、冠冤、車服の制度、光武廟の登歌、八借の舞数等を議して上奏している。礼楽志は散快してしまっていて、残念乍ら
とある。永平二年に、四夷の心配事がなくなり、天下が安穏になったのを機に、礼楽により統治を推進すべく、公卿らと南
廟登歌八借舞數、語在禮樂、輿服志
(永平)二年、是時中興三十餘年、四方無虞、蒼以天下化平、宜修禮樂、乃與公卿共議定南北郊冠冤車服制度、及光武
。○。。。。◎0o
東平王蒼は光武帝の子供で、若い時より経書を好み、優雅で智恵があり思慮深く、非常に寵愛をうけていた人物だからであ
東平王蒼が、陵邑の建造は秦始皇より始ったもので古法ではないと言った点は注目に値する。何故ならば、同伝によると、
帝、明帝の純徳の美が無窮に続かんことを願うものである」と諫言した。その結果章帝は陵邑の建設を中止した。
こすことは古法に合わないし、時宜にも適さず、吉凶で言うと吉ではない。陛下は虞舜の至性、先祖の深思を追尋し、光武
人々の調和をはかるものでも豊作を祈念するものでもない。故なく丘墓を修繕したり、興起することは望まない。陵邑をお
○
とある。先の東平王蒼伝では三朝の礼には言及されていないが、「冠冤車服の制度」や「登歌八借の舞」については、明帝
本紀の記事と合致する。つまり東平王蒼は光武帝の子であり、経書にも通じ且つ明帝に寵愛されていた人物であるから、明
帝の礼制改革に深く関わった人物であると考えられる。だとすれば、永平元年の「上陵の礼」の実施にも何らかの形か或い
は深く関わった。換言すれば光武帝末年から明帝時代にかけての礼制改革は、東平王蒼らによって行なわれた一連の変革と
捉えることが可能であろう。
これらの礼制改革は、既に見たように「元始の故事」に則ったものであり、先の東平王蒼も新しく陵邑をおこすことは、
…
古法に合致しないと反対している。これは王葬の採用した古文家の礼説に従おうとするものに他ならない。
へ
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
一一一(二一)
帝の時に反対され、実現しなかった土地私有制限を強引に「王田」とし、土地公有制にふみきった。王葬はこのように漢の
ている中、識緯説を利用して漢王朝にとって代った王葬新は、漢の制度を改めて新しい天下をうち立てようとした。先の哀
制限に対して傅氏、丁氏、董賢らの反対で実施出来なかった事などはその顕著な例である。既に豪族勢力が社会に根を張っ
⑫
族の勢力が伸展し、社会を牛耳っていて、中央政府も豪族の意向を無視出来なくなってきた。例えば哀帝時代、土地私有の
既にふれたように、前漢時代の元・成帝時代になって、従来と異なった儒家的礼教世界が確立してくる。換言すれば、豪
次にその点に触れて結びにかえたい。
光武帝、明帝は、何故に王葬の礼制を採用しようとしたのであろうか。
葬の礼制、即ち古文家説に基いて礼制世界を樹立しようとするものである。それでは前漢王朝の復活をめざしたと言われる
以上のように、明帝の上陵の礼を含む礼制改革は、光武帝時代の礼制改革を継承したものである。光武帝の礼制改革は王
五
一一一一(一一一一)
官制改革を強行したが、それは古典に基いた礼教主義的世界の確立を目指したものであることは、先にふれたとおりである。
ところで土地公有制に反対を唱えた豪族たちも儒家的教養に支えられて成立している。同じ儒家的教養Ⅱ礼教に基盤を置く
両者であるが、王葬の言う礼教とは、古典『周禮』に基礎をおく秦、漢以前の社会を念頭に置いたものであると思われる。
前漢後半期になり古文家説の勢力がだんだんと勢力を伸しつつあったとはいえ、今文家説の礼制を維持してきた豪族社会全
体になじむものではなかったのではなかろうか。
王葬新を倒し、更始帝の勢力を掃討した光武帝は国家建設に乗り出した。『後漢書』光武帝本紀上に、
建武元年八月壬子、祭牡桜、癸丑、祠高組、太宗、世宗於懐宮
とある。高組Ⅱ劉邦、太宗Ⅱ文帝、世宗Ⅱ武帝を懐宮に祭祀していることからわかるように、前漢王朝の復活を目指したも
のであった。また前漢末から王葬時代にかけて生じた社会の鎮締化、王葬時代の制度をすべて否定した。しかし既述のとお
り、礼制に関してはむしろ否定するのではなく、平帝Ⅱ王葬の元始の故事に倣っている。光武帝は何故に大学を建て、礼教
を尊重したのであろうか。
豪族勢力は前漢末に比べると、後漢時代にはさらに強くなっていただろうことは、王葬の官制改革や政治に対する反対の
態度から伺うことが出来るし、一般に言われるように後漢王朝の成立基盤からも推察される。だから、もし光武帝が王葬の
礼制をそのまま継承すれば、王葬の二の舞となるであろう。光武帝は豪族を協力しながらの政治を強いられる。礼制改革も
やはり豪族の動向を見、大きな反対が起らないように注意しながら推進していかなければならない。
建武元年に前漢王朝の復活を示した光武帝は、翌二年に、『後漢書』祭祀志下、
正月、立高廟干雛陽、四時粭祀、高帝爲太組、文帝爲太宗、武帝爲世宗、如菌
⑬
とあるように高祖以下の宗廟祭を行ない、さらに同年に洛陽の南に郊兆を定めて、郊祭を行っている。この事は前漢王朝Ⅱ
劉氏の復活、王葬の否定を意味するもので、今文学派の豪族も、古文学派の豪族も反対する理由はない。
@
光武帝時代の五経博士には、『易』に四家、『今文尚書』に三家、『礼』に二家、『公羊春秋』に二家の十四博士が置かれた
⑮
が、『穀梁、左氏春秋』、『古文尚書』、『毛詩』には博士が置かれていない。当然大学での学問の中心は今文学説であったと
思われる。しかし古文学説を全く否定しているわけでもない。
⑯
建武二(二十六)年以後、中元元年の三朝の建設までの間、光武帝は建武五(二十九)年に孔子の祭祀を行なった以外、
高祖廟での祭祀六回、前漢高祖以下十一人の帝陵と組禰である舂(章)陵の陵墓祭を行なっただけである。これらの祭祀も
今文学派、古文学派の対立、皇帝と豪族の対立を生ずるものではなく、むしろ前漢王朝の復活、祖先に対する孝を豪族社会
に印象づけるものと言えよう。また前漢末から王葬時代に勢力を伸ばしてきた古文学派に脅威を感じていた今文学派の人々
にとって、太学に今文学派系統の五経博士が設置されたことは、彼らに安心感と学問上の自由の保障を与えるものであって、
積極的に光武帝に協力する態勢を作りだしたと思われる。このようにして、光武帝は豪族と連携しながら、豪族の協力をと
りつけながら後漢王朝の基礎固めを進めていったと思われる。
光武帝が即位して三十年以上経過した中元元年になり、漸やく太(泰)山で封禅の儀式が行なわれた。それは皇帝として
の大業成就を上天に報告する儀式であり、前漢武帝以来の出来事であった。そして三朝の制度を定め、翌年、北郊で后土を
祭祀した。この頃になると、後漢王朝成立当初の不安定な社会も落ち着きを見せ、皇帝を中心に豪族達を団結させる国家体
一一一一一(二一一一)
制が可能になっていたと思われる。そして本来各々別々に独立していた明堂、辞雍、霊台の三つを一つにし、それを元始五
年に改めた郊祀制の礼制改革に結びつけた。
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
二四(茜)
礼制改革を通じ、天子対豪族と言う捉え方を超えて、より大きな世界の中に全て11当然豪族が当面の対象であるがI
を包み込もうとしたものではないだろうか。それは王葬が孔光、劉飲らと議した。
天子父事夫、母事墜(『漢書』郊祀志下)
元始 五年の礼制改革の基本に通じるように思われる。しかし、光武帝は中元二年二月に、祭礼儀式を行なうことな
●と一一言・つ、一元挫
く崩御した。
父の意志を継承し、礼制の完成をめざし、後漢王朝のより強固な基盤を確立するために、明帝は冷却期間が開き、この好
機が逃げていかないように注意しなければならなかった。その際父の行なったものをそのまま継承する事は勿論有効であろ
う。しかし明帝自身が統治を始めるに当り、彼自身の新しい施策を示すことは更に効果のあることではないだろうか。
上陵の礼はまさしくそれである。豪族勢力の代表たる公卿、百官、諸侯王や郡国の官吏たちを引きつれて原陵に行き、
「欲先帝魂睨聞之也」と光武帝を引き出すことによって、光武帝の霊の前で群臣達の明帝に対する忠誠心を識くすことを求
めたものと思われる。
古籍書店一九九○年)羅哲文著、杉山市平訳「中国歴代の皇帝陵』(徳間書店一九八九年)等がある。
子共訳、学生社、昭和五十六年)韓養民、張来斌『秦漢風俗」(陳西人民出版一九八七年)、朱孔陽『歴代陵寝備孜』(揚州
一九八四年)楊寛『中國古代陵寝制度史研究』、(上海古籍出版一九八五年、邦訳『中国皇帝陵の起源と変遷』尾形勇、太田有
①謝敏聰「中國歴代帝王陵寝考略』、(正中書局、中華民國六十五年)林黎明、孫忠家編著『中国歴代陵寝記略』(黒龍江人民出版、
②
(風間啓房昭和四十三年、昭和六十年増訂版)
②注①の楊寛氏前掲諜以外、楊樹達『漢代婚喪穂俗考」(上海文蕊出版一九八八年影印本)、藤川正数『漢代における礼学の研究』
③『後漢書』醗儀志中、朝會の条に、
毎歳首〔正月〕、爲大朝受賀、其儀:.…公、侯壁、中二千石、二千石態、千石、六百石噸、四百石以下唯、百官賀正月:…・其毎朔、
唯十月旦從故覗者、尚刷定秦之月、元年歳首也
とある
④今代表的なものをあげると、顧炎武は「古は墓祭はなかった」(『日知録』巻十五、墓祭)で、趙翼は「孟子東郭播間の祭や孔子塚
を歳時を以って祭ったの例を引用して、戦国時代にその萌芽がある」(『咳餘叢考』巻三十二、墓祭〕とし、間若班は「東郭播間の祭
りの典拠はわからないが、墓祭はあった」(『四書稗地』《皇清経解巻二十》)としている。
⑤『鯉記』月令に見える季節の植物は、麥、寂、媛、麻、黍であり、これらを春・夏・中央・秋・冬に配している。
⑥注①楊寛氏前掲書、十九~二十ページ
◎
。
⑦『儀禮」にはもと天子、諸侯の餓食の礼があったという説がある。胡培飛『儀禮正義』巻三十四(『皇清経解績編』巻七三二
⑧『皇清経解績編』巻八七九所収
O
o
o
⑨その他『憩記』王制に「天子諸侯宗廟之祭、春日同、夏日楴、秋日嘗、冬日蒸」、『春秋公羊」桓公八年に「蒸、蒸者何、冬祭也、
O
春日河、夏日杓、秋日嘗、冬日懇」、『爾雅』輝天に「春祭日祠、夏祭日杓、秋祭日嘗、冬祭日蒸」とある。王制と公羊、爾雅の間の
春・夏祭に名称の相違があるのは、夏股の祭名と周の祭名による。
⑩『史記』巻八、高組本紀に、「及孝恵五年、思高組之悲樂浦、以浦宮爲高組原廟」
とある。また『漢書」巻四十三、叔孫通伝に、
へ
恵帝爲東朝長樂宮、及間往、數騨煩民、作復道、方築武庫南、通奏事、因請間、日陛下何自築復道高帝寝、衣冠月出赫高廟……願
三
陛下爲原廟渭北、衣冠月出勝之、益廣宗廟、大孝之本、上乃詔有司立原廟
二
と見えている。
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
五
⑪注⑨『公羊』の注に「牛羊家凡三牲日太牢……羊家二牲日少牢」とある。
一ヱハ(一天)
⑫『後漢諜』櫨儀志上引く丁孚『漢儀』に、「文帝所加、以正月旦作酒、八月成、名酎酒、因令諸侯祭貢金」
とあり、同注引く『漢律金布令』には、
皇帝齋宿、親帥筆臣承祠宗廟、華臣宜分奉諭、列侯各以民口数、率千口奉金四雨、奇不満千口至五百口亦四雨、皆會酎、少府受
とあり、酎金律は文帝の時に始められ、諸侯の負担率が定められ、少府が受領していた事がわかる。
⑬『漢書』巻十五上、王子侯表には、「宜春侯成、元鼎五年坐酎金免」以下多数見えている。また巻十六、高恵高后文功臣表にも、緯
武侯周勃の孫建徳が、「元鼎五年坐酎金免」とある。巻四十六、衛舘伝には「(衛舘)子信嗣、坐酎金、國除」と見えている。
⑭『三輔黄側』には「恵帝廟在尚帝廟後」とある。
。
⑮『後漢書』祭祀志下は「陳嚴具」に作る。
⑯「四方改易:…・」、『後漢書」禮儀志上は「民所疾苦、欲紳知其動静」に作る。今鐙儀志に従って訳す。
⑰衷宏「後漢紀』霊皇帝紀、巻二十三に、
建寧五年春正月、車駕上原陵、諸侯王公主、及外戚家婦女、郡國計吏、創奴単干、西域三十六國侍子皆會焉、如會殿之儀、禮樂関、
百官受賜爵、計吏以次縛殿前、上先帝御座、具言俗善悪、民之所疾苦
O◎
とある。建寧五年五月に蕊平元年に改元されているが、右の記事は他に見えない。何に拠ったのか不明。
。◎
⑱章帝建初七年冬十月癸丑、西巡守、幸長安、丙辰、祠高廟、遂有事十一陵
○◎
和帝永元三年冬十月癸未、行幸長安..::十一月癸卯、祠高廟、遂有事十一陵
。◎
順帝永和二年冬十月甲申、行幸長安・…・・十一月丙午、祠高廟、丁未、遂有事十一陵
桓帝延黛二年冬十月壬申、行幸長安・…:甲午、祠高廟、十一月庚子、遂有事十一陵
(以上いずれも各本紀)とある。「有事」は「大事」とも記され、もと宗廟における祭祀を意味する語句である。拙稿『春秋」に於け
る諦祭・粭祭11「左伝」の解釈を中心としてI(『人文学会紀要』第四号、昭和駝年)参照。
⑲『後漢書』祭祀志下は 「 藏 主 於 世 祖 廟 別 更 衣 」 に 作 る 。
⑳『後漢書』祭祀志下に、
明帝臨終辿詔、遵倹無起渡廟、蔵主於世組廟更衣、孝章即位、不敢違、以更衣有小別、上尊號日顯宗廟、間祠於更衣、四時合祭於
世組廟・…:章帝臨終、遺詔無起寝廟、廟如先帝故覗、和帝即位、不敢違、上尊號日關宗、後帝承尊、皆藏主干世覗廟、穣多無別、是
後顯宗爲陵寝之號
とあって、歴
歴代
代の
の皇
皇帝帝
』に 継承されていったことがわかる。
⑳顧炎武『日
『知
日録
知』
録』
巻巻
‐十 五 、 墓 祭 の 後 半 部
”、
達前
、掲
前書
掲、
書 、 第 十 七 節 、 宋 徳 胤 『喪葬儀観』(中国青年出版社、一九九一年)、第十章、祭墓。
⑳注②楊樹達
⑳注①楊寛氏、前掲書
『書
漢書
二、
、田
田 紛伝に、
⑳『漢
』』
巻巻
五五
十十二
好黄
黄老
老言
言、
、而
而嬰
嬰、
、扮、趙縮等務隆推儒教、吃道家言、是以寶太后滋不説、二年:….(資太后)免丞相嬰、太尉紛……嬰、紛以
太后好
侯家居
とある。
拙稿「締祭・給祭の成立について」(「中国史研究」、八号、一九八四年)参照。
楊樹達、前掲書、
、二
二四
四二
二~
~一
二読
四四ページ。
注⑳、一六二~一八七ページ。
光武帝の祖や父の陵は章陵となっているが、「後漢書』巻十四、宗室四王三侯列伝の城陽恭王趾伝に
建武二年、以皇組、皇考墓為昌陵、置陵令守硯、後改爲章陵、因以舂陵爲章陵縣
一」
陵が
が章
章陵
陵と
とな
な(
った事がわかる。
とあり、舂陵
言
Q9口■・
へ
‐夕。①叩口びい0』
七
⑳祭祀志下引く「古今注」
一
使中
中印郎将歌遵治皇租廟菖噴稲田
建武十八年七月、使
上陵の礼よりみた明帝の礼制改革について(藤田)
一
⑳⑳⑳⑳
とあり、中郎将に皇組廟を治めさせている。
注①楊寛、前掲書の陵寝制度の確立時期(邦訳五九ページ)参照。
隆貴、皆不便也、詔書且須後、遂穫不行
とある。土地私有制限だけでなく、奴蝉の人数制限も行なおうとしたが、結局実現しなかった。
⑳『後漢書』光武帝本紀上に、
ccccccccccccccccccccC
建武二年春正月壬子、起高廟、建祗櫻於洛陽、立郊兆子城南、始正火徳、色尚赤
0.0.
とある。
⑳『後漢書』儒林列伝上に、
◎O◎◎0
二八(天)
.。◎◎00
.。。。。◎
㈱舂(章)陵・・・…三年冬十月、十一年三月、十七年冬、十八年冬十月の四回。年号はいづれも建武で多くい、㈲は連動している。
何有事十一陵……六年夏四月、十年秋八月、十八年冬十月、二十二年春閏月の四回(注⑱参照)
㈹祠高廟……三年二月、五年秋七月、十年秋八月、十五年夏四月、十八年冬十月、二十二年春閏月の六回
⑳光武帝本紀によると次の通りである。
⑮注⑭、・点部分参照。
とある。
博存衆家
0.。O
博士、太常差次總領焉……詔高才生受古文尚書、毛詩、穀梁、左氏春秋、錐不立學官、然皆擢高第爲講郎、給事近署、所以網羅辿逸、
。。
於是立五經博士、各以家法教授、易有施・孟・梁丘・京氏、尚書歓陽・大小夏侯、詩齊・魯・韓、鐙大小戯、春秋殿・顔、凡十四
0。○
十頃、諸侯王奴蝉二百人、列侯、公主百人、關内侯、吏民三十人、期諜三年、犯者没入官、時田宅奴蝉貿爲減賤、丁、傅用事、篭賢
哀帝即位……丞相孔光、大司空何武奏請、諸侯王、列侯皆得名田國中、列侯在長安、公主名田縣道、及關内侯、吏民名田皆母過三
『漢書」巻二四上、食貨志に、
祭祀志中は「初祀五帝於明堂、光武帝配」に作る。
⑫⑪⑳
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について
l関東農村における「御事」の日の編成を中心にI
はじめに
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
阿部
二九(元)
柳田国男の説などを紹介しつつ、「休みは晴の行事と共にあり、これと不可分のものであったが、次第にこれらの表現とし
よって得られる常民の生活文化の変遷の根底に共通して存在する、伝統的な心意の一例として「休み日」の問題をとりあげ、
「晴れの日」が働らくことを忌む禁忌を伴うことに早くから注目しており、すでに戦前、平山敏治郎は民俗資料の採集に
農村の「休み日」慣行が研究者の関心を集めたのは、けして新しいことではない。特に民俗学者は、年中行事の行われる
てきた今日、過去の習俗が果たしていた歴史的役割について、あらためて見直し明確にしておく必要がある。
江戸時代から続いていた重要な生活習俗の多くが、実質的な社会的機能を失うか、社会生活上に占める比重を著しく低め
たく実態を失い、農村社会それ自身においてさえ忘れ去られたといっても過言でない。
が多い。ここでとりあげる農村の「休み日」(所により、事、事日、遊び日)の慣行もその一つであり、今日では最早まっ
な生活慣行が、あるものは消滅し、またあるものは大きく変質して、短時日のあいだに既にその姿をほとんど留めないもの
農村地帯の社会生活のシステムが激変したため、これまで長く日本農村に固有の伝統的な習俗として継承されてきた様々
昭
三○(言)
(2)
(口8)
てあった儀礼、禁忌を捨てて、単なる常の日の自由なる休息、遊楽の日とする様になった」とする見解を述べている。これ
に続けて桜田勝徳、大藤時彦らの発言もあり、「休み日」はつねに年中行事との関連で民俗学の関心の的であった。
戦後、近世の農業経営と農業労働時間に関連して行われた森嘉兵衛の仕事が、農村の「休み日」慣行についての理解を進
めることに大きく貢献した。森は、農村と農業経営の変化にともなって特に元禄期以降顕著になってきた労働力不足への対
応として、労働時間・労働休日の統制が農業経営と藩政の双方から進められる必要があり、その過程で「休み日」の性格が、
(3)
伝統的神事・祭礼を主とする古典的形態から、休養を主たる目的とする労働休養型に移行する傾向をみせ、しかも現実には
その混合型の「休み日」が一般化してゆくことをあきらかにした。これは、民俗学の研究が提起していた「休み日」の性格
の変化を、心意の過程ではなく、江戸時代の現実の社会経済の変化を基礎に説明した最初の仕事であった。
森の仕事は、農業労働時間に関する豊富な史料にもとづく研究で学ぶ点が多いが、労働力不足と労働能率の低下に対応す
る農業経営と藩政側からの施策の問題として「休み日」を採りあげようとする点に特色があった。
これに対し最近の古川貞夫の仕事は、「休み日」(古川の著書では「遊び日」)の問題を、何よりもまず近世村落の共同体
機能の問題として理解することを基本としている。古川は、「休み日」を定めたのは村共同体であり、それはおよそ十七世
紀の後半から十八世紀はじめ、自立した小百姓による村共同体が成立した時期に、農業労働の共通性を基礎に形成された村
の慣習法的合意の一環として成立したとする。さらに成立当初の「休み日」の原型は、正月・盆・節句・産土社の祭礼・田
植え稲刈り等の農休みなど神遊び・神まつりの色彩の濃い、ごく限定されたものであったのが、十八世紀後半以降、労働休
養型休日や新規の祭礼型休日のかたちをとって、「休み日」数を増加させる傾向が顕著になったこと。また、その際「休み
日」を増加させる主体となったのは、年季奉公人層、離農化した下層村民そして若者仲間の三者であること。領主権力は、
(4)
「休み日」それ自体には基本的には干渉せず、「休み日」における遊興の蓉侈・素乱の警戒にこそ向けられていたことなどを
あきらかにした。
その後、筆者は古川の視点を継承しながら、「休み日」を決定し執行する村方の機能(村役人および村寄合)に備わる
「自律性」に着目した。特に「休み日」は村徒で一度定められても毎年そのまま同じように単純に繰り返されたものでなく、
(5)
その年の様々な状況を勘案し自在に編成し直して運営されることを、農民の日記の十数年間分の記録の観察からあきらかに
した。また「休み日」は、村の年中行事を基礎にしているが、すべての村行事が「休み日」になるわけでなく、伝統を墨守
するだけではない主体的な「村方の論理」による取捨選択があり、少なくとも領主の御用筋の公的行事は一般に「休み日」
(6)
の対象としていないことなど、こうした点からみて「休み日」の編成には、村方の側に一定の自律性が存在することを述べ
てきた。
筆者は以上のことを前提に、さらに一歩進めて「休み日」の制度は、村が主体になって村民の生活を、生産労働と慰安休
(7)
養(祭礼・神事をも含む)の両面から「自治的」に管理するシステムとして、兵農分離後の江戸時代の農村社会に適合的に
成立した村方の慣行であったと理解しようとした。筆者は、「休み日」の慣行を、江戸時代の社会の本質にもとづいて生ま
れた固有の社会制度であり、民衆の広義の生活文化でもあったと考えている。しかし、その内容をより具体的に明らかにし
確定するためには、まだ、いくつかの点で実証的な解明が必要であり、これが小稿のねらいとするところである。
その第一は、「休み日」の指
掴定
定は
は村
村の
の年
年中
中行
行事
事を
を基
基礎
礎に
に行
行わ
われ
れる
ると
とい
いう
うが
が、
、「
「休
休み
み日
日」
」の
の占
占め
める
る位
位置
置を
を明
明確にするためには 、
個々の年中行事と「休み日」と
との
の関
関係
係を
をよ
より
り具
具体
体的
的に
に、
、村
村民
民の
の意
意識
識の
の状
状況
況ま
まで
でも含めてとらえる必要がある。
第二は、「休み日」の性格は神祭的な原型から次第に神事・禁忌的な部分を脱落させ、労働休養型に変質したといわれる
が、その実態を確かめるためにも、「休み日」当日の村民の生活を、できるだけ多角的な視点から検討しておく必要がある。
第三に、「休み日」の慣行が、個々の農業経営や藩の施策上の問題にとどまらず、村方(村政および共同体)の機能の問
一一一一(一一一)
題であるとすれば、それが領主権力に対しどれだけ自律的であり、個々の農家に対しどこまで強制力を発揮できていたのか
を確かめておかねばならない。
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
一一一一一(一一二)
小稿では、こうした視点から「休み日」の慣行を研究する作業の一環として、まだ江戸時代の社会慣行を色濃く残してい
た明治初年の北関東地方の一村落の「休み日」制度の実態を、当時の村民が記録した日記を素材に分析しようとするもので
ある。
一明治二年の中堅農家の日記
l下野国河内郡町田村と鈴木易左衛門
明治元年から数年間、家内はもとより村内に起きた様々な出来事を丹念に書き綴った日記を残した鈴木易左衛門は、下野
国河内郡町田村(栃木県河内郡南河内町大字町田)の中堅農家の当主である。町田村は下野国河内郡の最南端にあり、日光
道中の石橋宿から分かれ下総の結城城下に向かって南下する脇往還(いわゆる日光東街道、または結城道)沿いやや東寄り
の村である。西隣は台地上の薬師寺村を結城道が通り、東側は河内郡北端に水源を有する田川が宇都宮の城下を経て南流し
てきて町田村の境を結城に向かって流れている。町田村は田川沿いの低地帯を開発し成立した村で、北側の成田村にある大
(8)
堰で田川から取水した四か村用水(明治以降は、五千石用水と呼ばれ今日に至る)が村の中央を貫流し、縦横に村内を瀧概
し水田を発達させていた。町田村は、江戸初期、一時幕領となったが寛永十年から出羽国の秋田藩佐竹家の飛地領(江戸賄
い領)となり、隣村の田中村や仁良川村に置かれた代官陣屋の支配下にあった。享保十九年の村差出帳によれば、村高は約
五百四十九石、うち田高三百四十石、畑屋敷百八十石、川欠地三十石で、水田の経営を主たる産業とした村であった。すで
(9)
に享保期に水田の一部に二毛作田(麦田)もあったが、畑作はとりたてた商品作物もなく、木綿の栽培と紬織りなどがいく
らか行われ、農家の家計の助けとされていた。寛保元年に五十五戸、二百九十一人あった人口は、寛政九年には、四十五戸、
百七十人に減退している。その後は戸数こそ増えないが、人口は確実に幕末に向けて回復し、明治二年当時は、四十三戸、
(旧)
二百四十二人となっていた。鈴木易左衛門家は、持高二十石四斗六升六合という以外に経営史料がないため、農家としての
内容を詳らかにできないが、日記には当主の易左衛門が重立ち百姓の集会に参加するとの記述があるから、村役人ではない
が、村内で重きをなす中堅農家としての格式を有し、村内でのランクは、上の部に属す農家であったと推測される。
2易左衛門の日記と記録の内容
易左衛門の日記は、横長帳形式の帳簿に明治元年から三、四年間分が連続し記録されているが、表紙が残っておらず冒頭
(皿)
の明治元年部分は完全とは思われない。そこで一年を通しての記述が完全に行われていると判断される明治二年部分を、と
りあえず今回の分析対象とした。この部分だけでも四百字詰めの用紙三百枚に達する膨大な記録だが、農家の日常生活を何
のてらいもなくたんたんと素朴に記録した日記である。
この日記には、特徴がいくつかある。その第一は、易左衛門家と町田村で行われた当年の年中行事が、細大漏らさず丹念
に記録されていることである。
第二は、日々神棚に供せられる「供えもの」の品が、朝、晩、ときには昼にまで、欠かさず記録されていることである。
「供えもの」の中身は、毎日変化し、単に神仏への「供えもの」というばかりでなく、易左衛門の家族の食膳の内容や、年
中行事の「ハレの日」の食べものである所謂「かわりもの」をよく反映していると考えられる。
第三は、易左衛門家の農事を中心に一年間の家内労働の内容と、それが季節を追って進行変化するさまを克明に書き留め
ていることである。
第四に、易左衛門は村役人ではないから、領主御用に関わる公の用務の記述はやや控え目であるが、それでも秋田藩や幕
府から課せられてくる人夫役や助郷役(日記では伝馬役と記す)、村民として共同負担しなければならない用水・堰や道普
一一一一一一(一一一二一)
請、村の祭礼行事への奉仕役などが、「出勤」しなければならないものとして正確に記録されている。
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
三四(一茜)
第五に、これらの記述と並んで、町田村が村として決定した「休み日」である「御事」が明確に記されているので、一か
ら四までに述べた事柄と「御事」の日とのつながりを具体的に検討することができることである。
易左衛門の日記が、幸いにもこのような特徴をもっていることから、江戸時代の村落の共同体慣行を検討するにあたり、
明治二年ということで年代的な制約はあるが、なおかつ、「休み日」の慣行のもつ歴史的な意義を知るうえで、きわめて有
効な材料を提供できうるものと思われる。
二町田村の年中行事と「御事」
l年中行事と「晴れの日」の食膳
易左衛門の日記を、たとえ一年分とはいえ全体を提示することは紙幅の都合上難しいので、その内容を「月日」「行事」
「晴れの日の食事」「休日」「役出勤」「農事」「備考とすべきこと」の各項目に分けて簡略に表記し一覧表に集約した。表l
から表吃までがこれである。それぞれ一か月ずつ村民生活の推移を示すものとなっている。旧暦(太陰太陽暦)では、月日
と季節に若干のずれを生じるが、農事の欄と合わせ見ることで季節の推移も知ることができる。
日記は
は、
、毎
毎日
日の
の行
行事
事と
とと
ともも
にに
、、その日神棚に捧げられた「供えもの」や食膳の品々を簡単にではあるが、ほとんど欠かさ
ずに書き上げ
げて
てい
いる
る。
。例
例え
えば
ば、
、テ
正月三か日については次のとおりである。
巳正月元日上々天気、昼
昼前
茎ハ東風吹、以上、
神々様江御備申候、以上、
御搗餅、年徳神、家内神、
朝夕灯明
御神酒備、
表1
1月の年中行事と村民の生活
1■■■■■■■■■■■■■■
側日
行
事
かわりもの(晴れの食耶)
役出鋤
休日
農
備
平
一
23456
1.
1
年徳神、家内神、蝋守詣
鎖守詣、紺興寺年始
弧守詣
宇都宮明神代参(12文)搗餅切
山入り
789
太神宮饗銭(400文)
鰍入れ[薬師寺初市]
繭玉
千手様(煎豆)、観音侍(白米)
日待(140文、宿伝左衛門)
山芋汁
白湯、藩麦
白湯、山芋汁
搗餅切、白賜、蕎麦
搗餅切
白泌、草ぞうせん、魑鈍
(客饗応、鯉鈍)
楓餅切
蝿餅切
.
侭餅切、侭純、蕎麦
搗餅切
搗餅切
若搗餅
餅、白陽、緒麦
搗餅切、小豆飯
搗餅切
搗餅切、蕎麦
鵠餅切
胡麻餅、白湯
伝馬人足(若屋形様通行、早朝、
新田宿へ)
伝蝿人足(宵に惟宮宿)
肥出し(もつこ)、軒こしらい
伝馬人足(夜九つ半誌)
結城町賀物
播麦
二十三夜様(灯明、蕎麦)
愛宕梯(焼掘餅)、機神講(白米)
機神調(100文)
穂麦
玉川識(100文)
蕎麦
結城町米売
龍興寺什物改め
注1 鈴木芳男文書「明治2年日記」から。
2 「行躯」棚の( )は、神邪の際の「供えもの」あるいは「散銭」。
項聿l韓嬢e塒号に締AJ「送硲国」e堅に巳OニトJ(直垢)
1 1IM
(11IM)
考
1111<
表2
(1!IK)
2月の年中行事と村民の生活
一
月日
23456789
2.
1
〃L幸
イ丁
'I1
かわりもの(昭れの食11)
万歳(12文)
緒炎
初午(赤飯)
(すみつかれ)
彼岸入り
鱈健
赤飯、小豆飯
オックルミ餅、豆腐
体I三1
役出動
荷菱錬、赤飯
小豆飯
オ・ソクルミ餅
御11
卸11
御耶
オックルミ餅、小豆戯
45
11
17
天祭様
天祭繊(行器、勝)
伝馬人足(夜五半、秋Ⅲ下り)、天
棚飾手伝
赤飯、簡炎
天祭像
千手梯(煎豆)
18
19
耶
畑片切、草取、井堀
犬韮槻(80文)
千勝操(供米1椀)
彼岸さん
二の初午(すみつかれ)
天祭槻(供米5合)
16
農
十九夜日持(白米、術又衛11‘1,100
文)
安州庚申111御師(玄米1升)
馬つくらい(神涌代50文)
堀普諭、伝馬人足(宵詰を命じら
れ暁七つ出役)
御耶 堀凌、伝馬人足(暁七つ)
御11 睡苫研
堀普荊
陸鵬人足(宵誌)、堀凌(九つま
で)
「竹へ酒場峡」(九つ)
落蕊、刈払
蒲炎
小豆飯
小皿飯
御III
御11ド
役元参会(Iiつ~棒) IM水堀普舗
懸水堀普揃(九つ迄)
埼荷参会(棚~翌朝、円餐院にて)
綿切初め
畑片切、綿切始(九つ迄)
綿透り
-
注l 「オ・ソクルミ餅」は、鮒や醐な粉でくるんだ餅。
2 「天棚」は、天祭に使川する飾り脇台。
祭文
「竹へ柄揚候」(夕刻)
"ll
御リI
末付
始し
咽や
味こ
日待(灯明料100文)
安波大杉唾(12文)
考
落葉、刈払、堀凌
落葉、刈払
落葉、刈払
二十三夜繊(灯明、播麦)
愛宕棟(灯明、御飯、神滴)
備
畑片切
落葉、刈払
畑片切、草取
叶淵圖
-fl
犀へ曄載壁
鮒饗叫無
蕪
にl
齢へ
、‐′
蹄馬
含×
い十仙海語(鐡粍)
ン+ン海
q+
ーー
信一一
《●ー
済
シ
一①
零
毒二写
…
雷
雪浸
雪壹
a浜)
毒葬嚇吟(声グ三騨漂)
薗謹全零
紫転蜂
曇
毒s涛臺s
毒藷一零
「罫,鼓塞黙」
三七(壱)
刈寺u悩毒α労s涛障。
4寺u脳毒
雪痔・4寺u悩毒〃三聿罫
三雲(芦J侭)
雪雲(一窯)ず雪壽
裁壽F罫
三詣睾〃蓋声言(豆J捺侭一望ご
粍蕊
4寺u且●戸邑二.竺
4寺u淵ニク窒宰,富
片茜J〈ご
国華
邑華ず4寺u隅ユ
国華ク三共蘇
曇霊零
三零雪s
三雲
三舞
三華
三零(芦J侭)〃栽塞・奏鞘(芦J
画号切片慈剣薗黒室)
三華(芦J侭)
騒
剛““ms捕丑軸偶庁虻即s肝魂
宮壹
鋸へ舞
鐸壽(雲蒸,‐茸蚕)
グ
雪壹
蜜壹
黒ご
除霊浜挿(濡穴J鑿グ「単璽謹筈)
シ儲(篭詣塞)“惑珪雪片載凝三豊
菫ニジ
宮筈
廊轄燕
読諏寒
>嚇嚇
億k>h>
菅廿ご参s(呈芦s働壹)
『ラ楓醗グ崇華肇菫.
窟肇診謙粍
(米瞬グ困溶作踏刷噸晨)
(衆鶉〃浦震ず曇零)
侭肇グ醗粍グ識
鐡臘
壽
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
今嵐建
今寓建
朧霊
淵罵片載録臘葦票叫エ室
鴬豐識鉾
卦雲叫塁審(馬汽)
醗悉
’
“司句印一“砲
-,つ
’
111<
表4
(111<)
4月の年中行事と村民の生活
-
月日
〃F早
『『
邪
かわりもの(研れの食‘狐)
体Ⅱ
役出勤
m
!11
一
23456789
蔚衆参会(夜)
小豆瞳
4.
1
木の蕊、刈払(ノLつから)
禰代(帆からノLつ迄)
草餅
多功・梁埋瀞#
[算指南受]
木の艇
「竹へ滴棚候」(IIつ)
搗餅、癒巽(客人饗唯)
伝蝿人足(Iw!朝、秋111分剛搬)
搗餅
与左衛門法耶(白米一升)
高士山御師札代(50文)
[薬師寺馬市]
みの婿礼(13~16日迄)
杉簡柚、綿栩蒔(ノLつ迄)
粟開刈
御リI
小豆飯
小豆飯、播災
庚申サン[宿、甚兵衛]
古泉観世音サン(12文)
取越子待サン
大堪・梁埋滞釧
庚叩に宵七つから八つ、ド迄出勤
伝.W;人足(脇錯)
総麦
馬つくらい
伝蝿人足(靭職)
小豆飯
小豆飯、播斐
111刈
水の侭
水の砿
水の億、1l1刈払済
コエ出し
IⅡ掻きWjめ
11I掻き、禰籾(鵬~しつ)
IⅡ掻き
II1掻き
IH掻き
Ⅲ掻き、大以蹄、火災刈
III掻き、大災刈
111腓、大災刈、災こき
コエ付、くる蝋切、災こき、典#
コエ付、くる蕊切、災こき、火炎
ぼうじ、炎柵げ
29
紺峨糸染め
「竹へ椚捌峡」(ノLつ)
洲脇糸染
い。一
ヱロ
痒臺豊
金堂グ、ラ犀竺さ
三顧畔4寺u隅毒クラ粍竺該今
粍、職(汁今冨岸)
苗ヱー竺窒〃笛曇琵グテ粍竺
三顧峰〃、ラ粍菫グ、テ齢、吟
4寺u脳こび、ラ粍竺・言汽峰
窒宰.竺グ三詣塞〃金屋″委竺″、ラ
三蓑(芳今二房)
労星針葺室勇奮制諒
蜜鈍
「ヰノ茜壼落」(芦J)
露篤雪罠ご罫
「ヰノ蓋圭薄」(嵐J・ご
今冷苓墨室ご善
I
‐
一
三雪雪雲吟(片』ラ弓湯)
三雲(片与己シ)
三雲(汁テご房)
三妻(汚今己済)
三厳酷
室厳騨
三雲(汁今己浜)
4寺u旧二
含篁
=
鯛mmms紺丑可偶作茸加s肝魂
号廿s参s(呈営s罵言)
ヰ
テヨ爵
堂謎陰篭詣塞
、ラ粍吾sグ蚕妾竺
膳仔路宮
’
計制ヰ無(雪国)
職舜僥s(ンJ)
計潅懲犀甜惑(馬済)
汁篭聿塞
一
汁映街隣s(囲雰)
一
霊三〃笛ヱ●s
ナL
壹莪二.g〃念曼
へ
肌十川患ヰ鷺(臓雰)
今劉園.米菫肇芋
今副建
一
画
薑s雪(片、ラご〆)
三s碧診謹逹菫〃認菫グヱ.gクラ
粍号⑲壽誼宮
ー
吋l
ー
ー
一
顔Jくい宮(喜菌9粁)
三
-,
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
九
雪
=
壽
雪
=
÷雪ラテラ÷
詞1
塁ヨョ1割にl
ま ’醗醗醗爵
‘
罫’’
グ
#肇坤茸喜
哉
勢隷
建屋
繭臓
蕎唇
’
圏麗葛麗践塁圏隠匿
’
國○(ヨ0)
表6
6月の年中行事と村民の生活
-
月日
夕二
打
邪
かわりもの(疏れの食耶)
休日
役出動
風
邪
鯛
一
6.
1
牛頭天王槻(白脇渦)
岨鈍
田の蝋、原蝋刈(品迄)
田の草、マヤコエ付
畑片切、草取、隙蛾刈
遊び
丞後御遊痩
伝馬人足(宵誌)
畑片切、M嘩刈
一の矢牛頭天王槻(きゅうり)
12
11
天気祭(白米6合、150文)
安波大杉醜(12文)
牛頭天王微(きうり、偶鈍)
小豆飯、小麦粉焼餅、陽鈍
小豆飯、鯉鈍
御事
小豆飯、鯉晩
御事 日待出勤(早朝)
原取刈(朝)
田の革、凧箪刈
原草刈(朝より九つ迄)
小豆飯、胆雌
御事
田の草(朝より九つ迄)
御事
籾捌
米春、原蛾刈
に飯
日本惣社牛頭天王槻(きうり、園
臆)
牛頭天王槻(きうり)
米粉鰻頭、鱈能
小麦粉にて焼餅
創理羽釧路妬
庚申操[家内中、遊び]
十九夜掛かり物受取り
村中参会(九つ)
御屋形出世御備餅に出勤
御屋形出世に陣屋で餅蒔
ごぜ雷応(宿、与三左衛門)
ごぜ蜜応
ごぜ蜜応
田の蛾、原兼刈
鯉髄
二十三夜樺(阻腱、神酒)
愛宕椴(小麦粉焼餅)
日待、安波大杉唖(I2文)
28
古泉観音大般若(小浬l升)
末伏
畑片切、原草刈、茄子切
畑片切、原草刈、111草
侶鈍
御事
日待(白米)
27
御耶
田の承、原蛾刈
原峨刈
原草刈(朝より九つ迄)
鋤“
て、
粉豆
米小
3
5
14
11
八幡宮祈願の儀につき亜立衆参会
(夕刻より)
小豆飯、隠鈍
小豆飯
伝馬人足(宵~八つ半)
田の草、原草刈
御事 日待(七つより出勤)仁良川伝馬 mの蝋、原草刈
人足(七つ)
御蛎 日待出勤
田の鞭、煎刈(九つまで)
田の草、原草刈、畑片切
斐描げ
畑片切、箪刈、柳燗
ごぜ饗応
弊迄)
手泌女房饗応
誉
鴻鴎片款汁窒喜(届減)
亜薙〔肌睡十里
鵡鴎片載岩室書(馬料)
琶戴号エグ肌十似憲寺留(繭震ず
雪三〃鼓)
+言渇ヰ無串回眉燕
雪建国竪唖メゾコ師s幽戦堀
‐一‐芦憲劃(剰劃)
震弐室s〔卑疎。妄醐司嗣グ葛垂
歴]〃鴎潅室陣甜〃(馬汽)
碁播薙(、ラ劉醗”雪雲)
言濯妹診壼脳,酔声
洪雲難嚇誌
雷濯難雷露麗謹(]宏)
医儘ご〃蹄懲汁載凝
。、
露
クラ屋
”、ラ割
壼掌.
壽画
国曇
宮曼
雪濁
雪置
酋謁
罰委篁(芦J侭)ず覇主艸
窒ヱー雪“偶竺
臺塞竺
廊鑛シ朧(亘澤蓬垂雷)
幡謹蔀
金堂
GJn駅や〃題壬信
澤壽
「或跨一房陰芦嚇烹」
「ヰノ蓋圭簿」
四一(空)
蚕轡竺
窒董〃笛住觜“罰憾篁
霊室
米弱.窒罪竺.窒撰觜〃罰繊竺
醗滕雷踊
弐酬鍬田副群)
畔芦澤穿
眸芦壼達
識輝瑞
壷緯篁
曇竺
喬竺
侭篁・笛罪竺
笛罪竺
「罫両蓋壼窯」
1
●
廊詞房知(恒謹〃踵顎窪宰蕎雲筐
淳壼写
=
三餐畳グ謝織三(芦J侭)
蚕舞竺.汽蕨も胃
畑
鯛凶『、s柑丑司偶斤茸剛s肝魂
号廿琶合s(呈営s陣言)
、ラヨ建
碕露
面雷
建量“
窟霊″
建塁
忘肇.
寵濤
、ラ冨爵
今急建
、ラ邑爵
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
勇屋
一一一一
司り一
画唾
碑『
脚⑦
哺函
闇今
ーーー■■■ーー
噛④
‘
面
繭
言
函屋
雰昌
罰=
’
“割の。←四
’
g1 1
行
月日
23456789
8.
1
事
かわりもの(研れの食躯)
三日月礼(鯉鈍饗応)
小豆飯、鱈鈍
風祭、安波大杉嚥
風祭、安波大杉嗽
風祭、安波大杉嘘
汁、米粉餅
米粉汁餅、鯉鈍
鱈鈍
成、白山サン参詣[5~11日、7日 小豆新物
間]
鱈鈍
邪
御事
御躯
御耶
御
表8
-
8月の年中行事と村民の生活
休日
農
役出動
邪
古服観世音槻へ(12文)
22
32
42
52
62
72
82
9
2
庚申微(阻雌)夜食、小豆、御鼎
渦
取越子待槻(汁、品々)
二十三夜槻(灯明、茜麦)
小豆飯、汁、豆腐、阻陸
焼餅
考
原草刈、籾摺、米番
原草刈(九つ迄)
原草刈(九つ迄)
原草刈(九つ迄)
原草刈
「竹へ酒禍恢」(四つ)
原草刈、小豆引
菜副仕付、小豆引、草取、草刈
原草刈
原草刈
原草刈
畑片切、寵草刈
随草刈
猫糞
伝馬人足(朝詰)
大豆引
畑片切、からうち大豆、小豆、単
取
大豆引、畑草取、畑片切
畑片切、大豆引
小豆飯
籾摺、草刈、からうち
草刈
原草刈、麻苧ひねり
餅、汁、新豆、汁、品々、鱈
純
簡
原草刈
原草刈
伝馬人足(役宅継ぎ立て荷物)
〃見(灯明、御飯、汁、豆腐、栗、 オックルミ餅、汁
柿、まき、わら、すすき、豆煎)
彼岸人
(311)
画一
、0J
.言
露諄
宮
昔へ
勢
爵
、‐′
へ
一
ン露剥童欝垂急g×)
ン蕊醐熟潔蕊・澱蚕l窯
(届済)
洪竪靴房革刺望診喜・鏡餅慈読華
葉)
仙十脈憲ヰ無(雪呈・喜武″漆蝿
事
諒
完
篤唄
璽
毒星豊
ゴロ望畔・暑巻爵靭
匿詣睾〃岸ン陰極
雲罰壽議(糎竺)
雲罰壽読
喜罰霊室壼竪
廓鎮差挿(紅塞匡響)
觜罫(糎巷妻竪)
濠Jくいご壬辱
墓金堂
=
ー
片涯〃霊
三m岻
】転函亨寺『駄
雲未秀言三
「罫.〃菫一墓一薄」
四三(豐)
肇〃ご篝・もr読粍寅少伝
三m吟グ議蹄竺
三一輝爵室〃三m叫窒」
蕗毫ク窒蓋〃栄辱
笛箇
勇さ蹄靭
霊言
霊誤異母藍寺
霧笛曇畳
窒ヱーg〃笛悉臺
覇無熟出
配
剛①の、s捕丹動潤庁茸湘s肝醐
菅廿ご参s(墨営s吟曇)
今風建〃碇霞
、ラ圃建
《ラ齢譲華
、テ倒琶爵グエ.グ事々
今倒国爵
ヰグ霊
壽
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
心
鴻跨汁載録(馬汽)
与競
G‘
鱸廓琿群壹(臆雷)
ハ
ヰノ葦宍号癖
銅繋厩
』 望掛
斎芦室
げ
÷÷笠
寵l窟. お
雪国肇
電鐸
ず
爾
弓目
蓉
’
’
図国 (照)
表10 10月の年中行事と村民の生活
■■■■■■■■■■■■■
クー
イ丁
リI
かわりもの(昭れの食リ)
23456789
汁、餅
俵・細縄あみ、米番(九つ迄)
俵・細縄あみ、米番(九つ迄)
俵・細縄あみ、米番(九つ迄)
伝鳰人足
朝檎餅、新物、葡炎
品々
柿餅搗
小豆鮫
大かぐら(100文)
、、粉
醤奨、斬物
藁始末
「こき場」、マヤゴエ付
おがみ衆へ出勤
大根始末
マヤゴエ付、綿取、大根始末、畑
片切,
「大根取り祝い」
25
こえほし
26
「里芋取り祝い」
27
28
29
-
安波大杉槻祭礼
赤飯
小豆飯
考
ごぜ3人泊り
「竹へ酒柵候」
(ノLつ)
々々頭
品品鯉
二十三夜槻(灯明、新衡斐)
備
籾摺
紺屋糸染
大麦仕付、田こき
麦まき、稲こき、稲刈
稲こき、馬付
稲こき
「麦まき陽」、福刈
稲こき
こえ付、稲こき
糟ぽうじ
稲こき
「稲刈り上げ」
稲こき、藁始末
稲こき、里芋取
汁、品々
米粉鰻頭
焼餅
汁汁米
戎簿(飯、酒、肴、灯明)
躯
籾摺
米枌眼頭
庚申回し候
農
役出効
休日
小豆鮫
役元参会(五つ時)
伝馬人足(夜五つ時結)
菜植え、木の葉
菜植え
ごぜ饗応(今朝迄)
表11
11月の年中行事と村民の生活
1■■■■■■■■■■■■■■
Il日
行
11.1
聯
2345
[屋形様通行見物]
八幡宮代々神楽
かわりもの(明れの食DII)
餅、侭奨
役出効
小豆飯
6789
オ・ソクルミ餅
伝賜人足(早朝、秋IⅡ術寵)役も
と参会
h1寓にて参会(四つ時より)
大師嫌(御職場)
大師槻(御製湯)
大師様(御涌湯)
大師様(御胤湯)
大師嫌(御嘉湯)
新赤飯、小豆飯
61
7
1
[初芝、仁良川、1,噸より〕
柳夕とも御年貞皆済お祝
小M飯
「お備え申し錠」
、11
備
水の災
水の蕊
水の蕊
木の熊
木の鱗
木の蕊
木の鷺
水の艇、俄綱み
俄鵠み、靴ない
「竹に滴柵候」
(側つ)
ごぜ2人蜜応(耐、太郎左衛
門)
畑片切
「竹へ滴柵恢」、隈根lf(し
灰引き
芝、蔵籾付
蔵籾付
二'-液サン(灯り1,衝炎)
衡炎
フキコモリ祝い
小豆御飯
籾椚
祷斐
小豆飯、汁、餅
取越庚申梯[当宿、太郎左衛l''l]
注
考
水の鱗
水の鱗
木の蝋
水の雌
参会の触あり(夜ノiつから)Iリ養
院で参会、物成籾
俄作
初芝
蔵籾付
l・ノL夜サマ出勤(宵~今朝)
十ノL夜サマ(白米】升)
冬至水竹揚げ、屋根所々へ水揚げ
[侍済芝]
農
新I”蹄(鼎Wl)
柳州、米尚
畑灰、米粉尚き
ごぜ(12文)
l1j1には、術定された村の休凹はないので、「休日」欄は行略した。
飼主l韓嬢e針号に蹄Aj「送鵡、」e翠仁辿,≦IJ(匿垢)
国隅 (剛)
gK(3K)
表12 12月の年中行事と村民の生活
Ⅱ■■■■■■■■■■■■■■
月日
卓一
汀
事
かわりもの(珊れの食耶)
農
役出効
備
考
一
23456789
搗き餅
12.1
宇都宮明神代参(12文)
小豆飯
伝蝿人足(宵結)
日待(250文)
小豆飯
木の無、刈払
木の熊
木の紫
木の熊
木の蕊
まやこえ付
大変仕付、1nこき
ちよぼくれ女厨蜜応
ごぜ2人饗応
「竹へ涌柵侯」(四つ時〕
夜回り、焼き小駐伽出勤
焼き小屋手伝い
マャゴェ付
ご皆へ12文とむすび
日待
夜前より日待
餅
小豆飯
籾柵、マヤゴエ付、石臼引
煤払祝い、オイヌサンヘ参詣悉木
栫え、剛心水
用心水
オックルミ餅
米番、マヤゴエ付、石臼引
マヤゴエ付、石臼引
籾摺、臼引
臼
引
石
、
番番番番
米米米米
米枌焼餅
汁、餅
二十三夜槻(灯明、祷災)
夕御食節搗祝い
祷変
米番、石臼引
納豆餅
小豆御飯
-
注12月には、指定された村の休日はないので、「休日」欄は宙餅した。
「竹へ涌柵険」(九つ)
夕御飯御備、汁汁
ハハ
山山
彗芋 二御座候、(中略)
同二日大曇り、内
忍時より時々薄曇り、尤、薄照事少しも有御座候、以上、
内四つ
朝灯明、白湯、神酒、
夕蕎麦、灯明、御備申候、以上、(中略)
同三日大曇り、内五つ時半より雨降、風有り、尤末々薄照、以上、
朝御白湯、御灯明、御神酒御備、
夕御飯、汁山芋、御備申候、以上、
年神を迎える神棚への「供えもの」を記述しながら、実はそこに当日の家族の食膳の内容も反映するようになっている。
逆に「晴れの日」の特別な行事がない、平常の日の例を示すと次のとおりである。
四月十九日大曇り、上々、内九つ時より雨降り、以上、
朝夕飯、灯明、酒、御備申候、已上、(中略)
同二十日朝きり二て上天気、内八つ時より薄曇り、薄風東吹、已上、
朝夕飯、灯明、御備申候、已上、(中略)
同二十一日曇り二て九つ時半より天気、已上、
朝夕飯、灯明、御備申候、已上、
このように神仏への「供えもの」のかたちをとりながら、「晴れの日」と「ヶの日(平常日)」の食膳の品の区別が明瞭に
表れている。
正月は、「三か日」の間、山芋汁、蕎麦で過ごし餅を食さないが、四日以降は「七日粥」の日を除き、正月が明ける「二
四七(署)
十日正月」まで毎日餅が食膳にのぼり神棚にも供えられている。二十日には最後に胡麻を入れた餅を食べてお祝いをしてい
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
四八(実)
る。なお、正月「三か日」のあいだ餅を食べず、「二十日正月」には胡麻餅を食べて正月をしめくくる風習は最近行われた
(吃)
民俗資料調査の結果からも、町田村の周辺に今日も広く伝承されていることが確認され、日記の記述の正確さを裏付けるも
のとなっている。
あらためて調査するまでもなく、農家の食膳が「晴れの行事」の行われる日に、これを反映して普段とは異なる「かわり
もの」に変化することは、既に充分実証されてきたことである。町田村の場合、普段は「供えもの」が「飯」とだけ記され
るのに対し、「晴れの行事日」と目される日には、餅・赤飯・小豆飯・蕎麦・鰡鈍・汁・饅頭のほか、雑煮・「すみつかれ」
などの特別な料理が供せられる。これらの食事は、表3の三月六日、三月十四日、表4の四月八日のように、普段でも来客
があれば饗応用に用いられることもあるが、その場合は明確に区別して記述されるので、「晴れの日」のそれと混同するこ
とはない。
通常日の「飯」の内容が何かという問題は残るが、それが白米や単純に米飯を意味するものでないことだけは確かである
(崎)
う。一般には「晴れの食事」として白米の飯が食されることも多いが、易左衛門の日記上の「飯」は、これとは違うと思わ
れる。むしろ、それとの対称で前述の「かわりもの」を「晴れの食事」と考えて誤りないであろう。
このようにして毎日の食事の内容の変化を捉えることができると、逆に「晴れの食事」の有無をもって、当時の人々が、
その日をどこまで「あらたまった日」と認識していたかを推し測るひとつの重要な手がかりができる。かって民俗学者が問
題とした「休み日」の心意の変化する過程の一端を捉えうる可能性がある。
2町田村の「御事」の分布
次に前掲の表1~表吃を用いて、明治二年における町田村の「休み日」の執行状態を観察してみよう。日記では、村が定
めた「休み日」を「御事」と称し、その日、実際に労働を休み、神事・仏事に奉仕することを「御遊御待候」とか、単に
10
彼岸さん
14
天祭
15
天祭
16
天祭
17
千手様
26
日待
27
安波大杉噸
3.8
安波大杉聡、麦祈祷
9
安波大杉畷、麦祈祷
赤飯、蕎麦
小豆飯
10
安波大杉畷、麦祈祷
15
安波大杉聡
草餅、茜麦、菜
21
八十八夜
草餅
小豆飯
27
搗餅
4.11
5.21
大さなぶり
隠純
小豆飯、米粉餅、汁
27
四九(実)
8mⅢ胴肥型沁”|唖5塑弱”|“56幻一皿
6. 1
注1
おつくるみ餅
牛頭天王様
脇鈍
小豆飯、鰻鈍
天気祭、安波大杉雌
小豆飯、艦純
牛頭天王様
小豆飯、嶋鈍
惣社牛頭天王様
小豆飯、鰻鈍
牛頭天王様
米粉饅頭、臘純
愛宕様
小麦粉焼餅
日待
安波大杉聡、日待
小豆飯、鰻鈍
虫追い、安波大杉畷
臘純
風祭り〔二百十日〕
安波大杉大明神
小豆飯、汁、里芋
安波大杉大明神
小豆飯、汁、米粉餅
風祭り、安波大杉畷
風祭り、安波大杉畷
風祭り、安波大杉畷
米粉餅、鰻鈍
安波大杉畷
小豆飯
表l~表12から抽出して作成。
「御遊候」という表現で記録している。そうした表現が記録されている日を全部抽出し、月別に整理したのが表喝である。
鶚鵠鶚幾:写鰡鶚
天王様《御事初め》
千勝様
これによると、この年、何らかの意味で村の「休み日」の指定がある日は、全部で三十七日あることが判明する。そのうち
9
三十五日については明確に「御事」の指定が記録されているが、ほかの二日(六月一日、九月二日)については「昼後御遊
2.8
御待申候」とか「昼後御遊申候」とか書き留めているだけで、果たして「御事」であったのかどうか、村の「休み日」とし
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
月 日
ての性格がやや不鮮明である。だが明確に「御事」と記されている日のうちにも、しばしば同様の表現が「御事」と並んで
表13 「御事」の日の行事と「かわりもの」
五○(き)
記される例があることから、とりあえず、この二例も含めて町田村の「休み日」として取り扱っておくことにする。
もう一日(六月七日)、「天王様江御待申候」とだけ記録される日があるが、これは牛頭天王の祭礼の日に出勤したことは
示しているものの、この日が「休み日」として取り扱われた確証はなく、祭礼の関係行事があっても「休み日」でない例は
他に幾つも見られることから、「休み日」として性格は一層不分明と思われるので、正確さを期すために一覧表からは取り
除いてある。
(M)
すでに確認されていることからすると、同一の村においても「休み日」の配置は毎年細かに変動するものであり、毎年同
じことが機械的に繰り返されているわけではない。しかし、細かな点の変動はあっても、「休み日」の編成の全体的な傾向
は、さほどまで変わることはないと思われるので、一年分の観察ではあるが、表旧によって町田村の「御事」の編成の仕方
の特徴をおおむねつかむことはできる。
第一に、表圃によると、町田村の「御事」の日は月別の配置からみて著しく偏在している。「御事」は、十一月から正月
にかけての農閑期と、四、五月と、九、十月の初夏と晩秋の二度の農繁期にはたいへん少ない。これに対し、その間の時期
である二、三月と六、七、八月の五か月間に著しく集中し、三十七日のうち、この五か月以外の「御事」はわずか四日にす
ぎない。このような「御事」の偏在性は何故生じるのか検討を要する。
(胴)
第二に、一年間の「御事」が二月八日の所謂「事初め」(所によっては「事納め」ともいう)から始まるとともに、正月
(略)
と盆の伝統行事がいずれも「御事」の指定対象から外されているのは、この村の「休み日」の特色である。このような事例
は、これまでにも紹介されており、この村だけの例外ではない。例えば、柳田国男も次のような報告をしたことがある。
江戸の近郊をも含めた全国の農村では、二月十二月の二度の祝ふ限り、すべて二月の方をコト初めと謂って居り、他
の一方が当然にコト納めである。コトは節日又は祝祭日を意味する古語であったらしく、しかも正月だけはコトのうち
では無かった。
このように正月と盆の伝統行事が、「御事」とならない意味についても考えてみる必要がある。
第三に、「御事」の日の神棚や食膳には、三十七日の大半の日に、小豆飯、臨鈍、蕎麦、餅、赤飯などの「かわりもの」
(「晴れの日」の食事)がのぼせられていたことを確認できる。たとえそれが前例を踏襲した儀礼にすぎない側面をもってい
たにせよ、一面では、「御事」が「御遊御待申候」などの言い方と共に、いまだ多分に神祭り的「晴れの意識」を参加者に
抱かせる性質を保持し続けていたと判断できる。その一方で「御事」の日であっても「晴れの食事」の用意がなかったと思
われる日が僅かながらあった点も見落とせない。
第四に、三十七件のうちに登場する年中行事としては、風水害除けを祈願するための「御日待」に神事として安波大杉雌
が催される例が、十六ないしは十七件と圧倒的に多数を占めていて、この行事が数多く催された二、三月と六、七、八月に
「休み日」が集中する原因ともなっている。このことの意味についても考える必要がある。
第五に、「休み日」のこのような偏在は、町田村だけの特殊性かどうかの問題がある。そこで他の地方の事例との比較を
行うために表皿を用意した。挙出する事例がいささか関東甲信越地方に偏りすぎる恨みがあるが、一応「休み日」の季節的
配置の概略を全国的な視点で比較する材料になると思われる。それぞれ典拠とする史料の年が違うから、細かな違いまでは
問えないが、おおかたの村で、「休み日」の配置に、正月から三月までと、六月から八月までの二つのピークがあることは、
ほぼ共通していると思われる。ただし、そのなかで関東地方の村に、正月行事を「休み日」に数えない所が見られることが
分かる。その点だけを別にすれば、全体はほぼ共通のパターンを踏んでいると考えられる。特に二つのピークの存在ととも
(”)
に、十月以降年末にかけて「休み日」が著しく減少するか、またはなくなる事実は、地域を超えてかなり広く確認される特
二
三
徴とみられる。もしそうだとすれば、そのことの意味を問うことは、「休み日」の慣行の歴史的性格を解明するうえできわ
五
めて重要な問題と言わねばならない。
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
一
表14村の「休み日」の月別配置図
国 ・ 村
下野国東水沼村
元文3
陸奥国駒屋村
延享元
下野国上大田和村
天明3
出羽国庄内藩
天明3
信濃国沢度村
天明4
越後国中郷村
天明8
閃幡国鳥取藩
寛政8
陸奥国湯野村
寛政9
越中国新川郡
寛政12
下野国助谷村
寛政13
下野国助谷村
享和2
越後国大沢村
文化8
陸奥国飯豊村
文化8
武蔵国中奈良村
文化10
信濃国桜沢村
文化10
下野国大島村
文政5
陸奥国飯豊村
文政9
信濃国成相新田町村
文政11
武蔵国東方村
文政13
億漫国卜塩尻村
天保4
下野国亀山村
天保7
下野国下蒲生村
天保12
下野国小貫村
天保13
下野国三谷村
天保13
下野国西高橋村
天保13
下総国仁連町
天保15
下総国栗山新田
天保15
信濃国原新田
安政5
下野国町田村
明治2
五
一
一
念
一
一
注.上記史料の出典は、「栃木県史」史料縄近世三、「郡山市史」2近世上、「真岡市史」三近世史料編、「長野
県史』近世史料編五口、『新潟県史」史料福6近世一、「藩法集2鳥取藩」、「福島市史」近世資料7、「富山県
史」史料縄、近世上、粂川芳雄文番(壬生町助谷)、「新潟県史」史料編7近世二、「福島県史」10上近世資
料3,
「新福埼玉県史」史料縄14近世5,「長野県史」近世史料編八、古川貞雄「村の遊び日」、『越谷市史」
三、「長野県史」近世史料編-H、鈴木敏行文密(真岡市亀山)、
「栃木県史」史料編近世八、小貫敏尾文書
(茂本町小賀)、「飯沼新田史料」二。
一
三「御事」の編成の社会的基礎
l「御事」の配置の偏在性の意味
ここでは先ず前章で見た「御事」の配置の季節的偏在性の意味について考えてみよう。「休み日」が、農事のもっとも忙
しくなる四、五月と、九、十月に少なくならざるをえないことは容易に理解できることであり、当時の「休み日」慣行が、
農事への精励に関する村共同体の秩序や領主側からの勧農政策の動きに対して、それを無視して設けられているものでない
ことをよく示している。
一方、農事が一段落を遂げた十一月から十二月(関東の農村では正月も含む)、特に町田村では十月の農繁期から引き続
き十一月から正月までの農閑期に連続四か月にわたって「休み日」が著しく減少するのは何故だろうか。この期間は、表
加・表皿にみるとおり、十月の収穫期に続いて十一月が年貢上納期に当たり、やや緊張を要することがあるにしても農事そ
(肥)
のものは著しく軽微なものになって百姓生活に時間的ゆとりが生まれる。しかも収穫を感謝する秋祭を初め、正月を準備す
る様々な年中行事もあり、この間に重要な「晴れの行事」がないわけではない。
ましてや、正月「三か日」を初め、「小正月(正月十五日)」「山入り」「鍬入れ」「繭玉」などの行事は、いずれも先祖の
御霊や作神を迎え祭り、一年の平穏と五穀豊饒を祈願し予祝する神祭の性格を有する行事であり、こうした年中行事が連続
する正月は、一年中で「晴れの意識」がもっとも濃厚な期間でもある。
以上の事実にもとづいて考察すると、「休み日」は、農事が暇でゆとりがあるから設定するものでもないし、「晴れの行
事」があるゆえに設定するものでもないと考えざるをえない。「休み日」はむしろ農繁期に近接して、その直前ないしは初
五三(三)
夏と秋の二度の農繁期の中間に設定されているとみるべきである。この時期はいずれもかなり忙しい時期であり、けして真
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
五四(琶)
にゆとりのある時期ではない。しかし、あえてその時期に「休み日」を設定することで、過酷な労働の直前直後に一息入れ
させ休養をとらせている、いわばそのような時期である。町田村の「御事」は、このような時期を選んだ上で、何らかの神
祭を名目に指定されているし、他村の「休み日」もこの点はおそらく共通していると思われる。
とするならば「休み日」の設定は、一年間の農事の展開に合わせ、その折り目に適切に配置することで、農家に神事を理
由に休養をとらせ、次の農繁期に使用する労働力の涌養をはかることに一番大きなねらいがあったと考えられるのである。
他方、もっとも伝統的な行事で、労働を休み先祖の霊を祭ることに、何の障害も生じる恐れのない正月と盆は、あらため
て「休み日」に指定しないでも支障なかったものと思われる。したがって正月・盆行事が「御事」として扱われるか否かは
現実には大きな問題ではないが、むしろ伝統的「晴れの行事」でありながら、「御事」の取り扱いをしないものが多数ある
ことに「御事」の歴史的な性格の一端が示されていると考える。
2農家の労働力の配分から見た「御事」
表l~表皿によって、町田村において「御事」の日の指定が開始される時期と、終了する時期である二月と十月の農事の
状況を観察すると、二月は本格的な農繁期を前に、堀俊いや堀普請・落ち葉集め・刈り払い・畑かたきりなどの準備作業が
開始される様子が捉えられるし、一方、十月は、この月のうちに稲刈と麦蒔の他、大根・里芋などの畑作物の収穫が終わり、
労働の内容が、稲扱き・米舂・藁の始末・俵編み・縄編みなど家内での調整作業に転換していることが分かる。
この間は、いわば広義の農繁期であり、「御事」の日の設定はそれを対象に設定され、繁忙期における労働と休養のバラ
ンスを保ち、村内で必要とする労働力を管理・酒養する狙いをもっているものと考えられる。あわせて二月と十一月は年季
奉公人の出替わりの時期とも一致する。奉公人労働を雇用しなければならない期間にこそ、労働日・労働時間を休養日・休
養時間と明確に画する「村徒」(村共同体の共同慣行としての「御事」)を必要としたものと考えられる。
他方、十一月以降、農家の余剰労働力は、農間渡世に本格的に投入されるようになる。町田村の付近でも、駄付けなどに
(旧)
よる日銭稼ぎや紬織などが、農家の生計の助けとされていた。「休み日」を規定すると同時に、農間稼ぎに精励すべき期間
を特別に定めた地方もある。信濃国安曇郡沢渡村が天明四年八月に定めた「年内遊日定之事」は、
一作間
間稼
稼、
、当
当年
年十
十口
月より翌年二月迄、〆五ヶ月、日数百五十日一一及也、
男ハ、 四 百 五 拾 一
文分、
女ハ、三百文分、
一夕なへ之儀、稗
稗植
植え
え休
休っみ より始、翌年鍬入レ迄、
但し蕎麦蒔之内ハ抜也、
と、積極的に農間稼ぎと夜なべ仕事をすべき期間を定めている。田畑の耕作が村の共同秩序に従った協同作業を中心として
いたのに対して、農間稼ぎは多分にそうした共同体規制から解放されていて、いくらかでも日数多く稼げばそれだけ収入が
あがる側面がある。そうした農間稼ぎを行うべき期間に、労働を忌避し、休むことを強制する「休み日」が設けられること
(釦)
は、けして百姓の望むところではなかった。そこで逆に、天明八年十月越後国中頸城郡中郷村が「十一月、十二月、休日致
間敷候」と定めたように、この期間に「休み日」を設けるべきでないことを、積極的に規定した村もあった。
このように「休み日」編成の社会的背景を探ってくると、村落の休日慣行は、基本的には、村共同体の農業生産秩序その
五五(芸)
ものを支える農民階層の支持によって担われ成立していたものであって、けして離農した雑業層や、村内秩序からのアウト
ローの要求によって形成されたものでないことを確認できるのである。
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
四「御事」の日の村民生活
1「御事」の日の行事
五六(妻)
(副)
「御事」の季節的偏在性とそうした編成が行われた社会的基礎について明らかにしてきたが、それにしても、いざ「御事」
の日を決定する際、どのような名目で日が選ばれていたのか、具体的に確かめてみる必要がある。
筆者は以前の仕事で、領主御用(公用の仕事)のある日は、「休み日」の指定から省かれるのが一般的であると述べた。
このことをここでも確認するために、表晦を検討しておきたい。これは町田村の明治二年の領主御用にかかわる役への出勤
があった日を日記からすべて抽出したものである。年貢の上納や、宗門改め、代官陣屋の手伝い、荷物の運搬や普請等への
人夫役の徴発も含んでいる。しかし、そのほとんどすべてが「御事」の指定をうけていない。そのうえ九月十三日は村の鎮
守でもある星宮の虚空蔵様の祭礼日であり、当然、「御事」の指定を受けてもおかしくない日であるが、たまたまこの日が
宗門改帳に押印する公用日となったことから、「御事」の指定をうけていない。村側に領主に対し遠慮するところがあった
ためと思われるが、赤飯はいつものとおり炊かれ、祭礼日の意識があったことは確認できる。
表脂から、唯一七月五日だけが、「御事」の日にあてられていたことが分かる。これは領主の佐竹義尭公が、この年の六
月二日に戊辰戦争の勲功により賞典録二万石を下賜され知行増しになったことを領内あげてお祝いしたもので、かなり例外
的なものである。また、九月二日に「昼後御遊申候」の注記のあるのは前述のとおり、この日安波大杉離が催されたためで
あり公用
用事
事に
には
は関
関係
係な
ない
い。
。表
表正砺に掲げられた公用日には一般に農事の記述も少ないが、他方、食膳上から見るかぎり「晴れ
の日」の意識もきわめて薄い。
次に表陥で、社寺の祭礼日について見よう。星宮.「大師様」(天台宗円応院)は町田村の社寺、「牛頭天王様」(祇園
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
表15領主御用日の生活
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
領主御用日出勤
休日
かわりもの
(剛れの食耶)
クー
イ丁
事
-
伝馬人足(若屋形様通行、早朝、新田宿
搗餅
へ)
落葉、刈払
伝馬人足(夜五つ半、秋田へ)
駄付(陣屋~村内)
伝馬人足(早朝、秋田分知様)
小麦籾焼餅
御屋形出世、御供餅に出勤
御屋形出世に陣屋で餅蒔
仁良川伝馬人足(七つ)
7.5
御屋形様知行増遊び
御珊
伝馬人足(早朝、屋形様分知棟通行で新
田宿詰)
伝馬人足(役宅継ぎ立て荷物)
9.2
道普請、役人巡見
9.5
陣屋付馬(早朝)
9.6
陣屋付馬
9.7
陣屋籾摺出勤
遊
小豆飯
安波大杉畷
星宮祭礼
9.
11
伝馬人足(早朝出勤)
9.13
宗門改出勤(早朝出勤)
赤飯
小豆飯
11.7
初芝(年貢上納)
11.
18
年貢蔵納駄付
11.21
皆済芝・蔵籾付
11.22
蔵籾付
農
事
五七(老)
五八(宍)
社)・八幡宮は隣村の薬師寺村、残る「千勝様」・「愛宕様」はどちらともとれ所在不明であるが、この六つの社寺につい
て、全体で十五日間の祭礼関係日が記されている。しかし、そのうち「御事」の指定があったのは、牛頭天王様と千勝様・
愛宕様に関する六日間にすぎない。星宮の祭礼日が「御事」から除かれたのは前に述べたとおりである。これらの祭礼日を
食膳の状況から見ると、さすがにしっかりとした「晴れの日」の意識がそこに表れていると思われるが、「御事」の指定は
別で、祭礼日のすべてが指定をうける訳ではなく、前章で見た「御事」の季節的配置の期間から外れたもの(「八幡宮」、
「大師様」)は、指定をうけていないものが多い。
躯一噸
J跡
藤
創創創
鶏豆豆一豆
ヨ小小小
ロ漂聯
際鮮
、鯉$
で、それらはほとんど例外ないほどに「御事」の指定と重
日記に記される限りの安波大杉雌の開催日を抽出したもの
田村の「御事」を代表するのが安波大杉聡である。表Ⅳは、
と悪疫災害除けを祈願する行事であるが、そのなかでも町
われる安波大杉雌(M日間)である。いずれも天候の平穏
間)、夏の天王様(4日間)と、農事の期間中繰り返し行
ん親近性を有する行事がいくつかある。春の天祭(3日
これに対し、表旧からも分かるとおり「御事」とたいへ
れ自体として「御事」になることはない。
ならず小豆飯・赤飯・蕎麦・鯛鈍などが用意されるが、そ
ど縁がない。また毎月の朔望の日(一日と十五日)にもか
鈍・餅・煎豆などが用意されるが、「休み日」とはほとん
毎月、日を定めて行われた女性の信仰行事(女人講)の「十九夜様」「二十三夜様」には「かわりもの」として蕎麦・鯛
表16社寺の祭礼日の生活
御事
小豆飯
2.27
峨餅、総麦
御事
6. 10
小豆飯、鰹純
御事
6.27
小豆飯、鯉鈍
御事
7.25
小豆飯、汁里芋
御覗
7-27
小豆飯
御事
8.
4
汁、半粉餅
御事
風祭
御砿
風祭
風祭
8.
5
8.
6
米粉汁餅、阻鈍
御事
9.
2
小豆飯
遊
10.27
赤飯
天気祭
3.
15
虫追い
御事
7.
2
行事
かわりもの(H#れの食”
月 11
3.
8
御事
麦祈祷
3.9
御事
麦祈祷
3.
10
御事
麦祈祷
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
なっている。しかも「晴れの食事」も随伴しており、厄除
祈願の神祭的性格を保持している。
この行事は、もともと茨城県稲敷郡桜川町阿波の大杉大
明神を祭るといわれ、俗に「アンバ様」といわれ、千葉か
ら岩手にかけての太平洋沿岸で漁の神として信仰されたが、
享保年間に江戸で大流行し、以後関東各地にひろまった。
漁場では漁師の若者たちが仕事を休みたくなると、船の上
(狸)
にアンバ様を飾るといって船具を重ね、しめ縄を張る。す
ると船主も船止めせざるをえなかったといわれる。
日記では、麦の収種期を前にした麦祈祷、夏場の天気祭
や虫追い、秋口の二百十日前後の風祭の行事に好んで催さ
れ、その日は村人に「御日待」と認識され、村民は午後か
五九(亮)
町田村の名主四郎兵衛家に残された天保二年から八年の「安波大杉大明神嚥覚帳」によれば、町田村の大杉聡の衆中が、
たものであり、「御事」というものの性質や催し方の一端を物語るものがある。
現したもので、前日の夜に急速決定、その晩の内に触れが回り、翌日の早朝から「かた日待」という異例の方法で実施され
また、六月十日の「御事」における天気祭と安波大杉聡の開催は、前月半ばから続く長雨に業を煮やした村民の要求で実
する村人の動きが、安波大杉嗽を開催する圧力となっている傾きがある。
アンバ様は開催される数日前から、村内でしきりに若者組の集会(日記では参会という)が開かれていて、若者組を中心と
ら労働を休み、「御待ち申す」という言葉に表されるように、神祭に出勤・奉仕することが心意的に義務づけられていた。
表17安波大杉畷当日の生活
六○(き)
二月から八、九月までの農事の期間中に、「麦祈祷」「湯立て」「天気祭」「虫追い」「風祭」などの名目で、毎年十数回にわ
(羽)
たって出勤し、そのたびに「参銭」や「御神酒」を得たことが記されている。なお、その出勤時期は、やはりほとんどが二、
三月と、七、八月という「御事」のピーク時に集中している。
2「御事」の日の労働
「御事」の指定を受けた日がどのような行事の日であったかをみてきたが、次に「御事」の日の村民生活の実態をより具
体的に知るために、「御事」当日の村民の労働のありかたを検討しておきたい。
表出は、日記から「御事」の日に行われた役出勤と農事を抽出したものである。易左衛門は村役人ではないから、村内の
全農家に関わる情報を書き留めているわけではない。記録は基本的には易左衛門家に直接に関わる役勤めと農事に限られて
いる。
まず、「御事」と農事の関係からみると、二月半ばの天祭以降は、「御事」の日であっても、ほとんどの日に農事が行われ
ている。易左衛門家についてだけみてもこうした状態であるから、他家を含めれば「御事」の日に村内で労働が行われてい
るのはあたりまえということになろう。ただし、日記はその農事の多くが極力「九つ」(正午)までに終了するよう工夫・
努力されていることを記録している。三月八日は、麦祈祷で安波大杉雛が三日間連続催される第一日にあたっていた。易左
衛門家ではこの日午前中、田耕いを行ったが、畑の芋植え・麻蒔きが残ってしまった。通常日なら午後に回せばいいのだが、
この日は「御事」である。翌日に回してもまた「御事」であるし、田耕いの仕事もまだあるからどんどん仕事が遅れること
にもなる。やむなく易左衛門家では「大勢」を動員して「九つから短時間」で仕事を終してしまった。仕事が何時までか
かったか明確でない日もあるが、夏場の草刈りなど常識的に朝露の残る午前中でないとうまくないものが多いことからして、
まずはほとんど例外なく午前中に仕事を終えて、午後の労働は休んだと見られる。
表18 「御事」の日の役出勤と農事
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
「御事」の日の行事
2.
8
役出勤
農
天王様《御事初め》
千勝様
彼岸さん
天祭
天祭
天祭
千手様
日待
〔天祭に出勤〕
村堀普講
村堀凌、伝馬人足
〔天祭受け継ぎ〕
村堀普請(九つ迄)
安波大杉嚥
3.8
安波大杉畷、麦祈祷
安波大杉畷、麦祈祷
安波大杉嘘、麦祈祷
安波大杉畷
陣屋荷物駄付
堰普諭、菅苗植
八十八夜
4.11
-
5.21
大さなぶり
堰普諭
牛頭天王様
Hの埠
京草X1
8
天気祭、安波大杉聡
京草XI
牛頭天王様
到の草
日本惣社牛頭天王様
面言巻Jt
牛頭天王様
7.
2
h《写生八I
里芋り
27
村中参会(九つ迄)
愛宕様
伝馬人足(朝~八半)
日待
陣屋荷物駄付(九つ~)
安波大杉雌、日待
虫追い、安波大杉雌
〔日待出勤〕
王lの草、原草XI.
刑の草、原草XI"
東草刈、もや剛
〔屋形知行増祝〕
5
一ハー
風祭り〔二百十日〕
25
安波大杉大明神
原草刈
27
安波大杉大明神
草刈
8.4
岬騨騨鯏一》
(一〈一)
24
風祭り、安波大杉雌
風祭り、安波大杉雌
風祭り、安波大杉聡
27
安波大杉畷
道普諭(役人巡検)
事
一ハーー(一〈二)
「御事」は、このように農事がいくらでもあって、かなり多忙な時期にあえて神事にかこつけて村全体が一斉に休みをと
り「御遊御待申」すことに本来の意義があった。
「御事」の日の役への出勤は、表肥ではさほど多くないように見えるが、実はこれは易左衛門家に関するだけであるから、
この表から役出勤の量や頻度を即断できない。しかし表上に表れた例からだけみても、「御事」の日の役出勤の本質に関わ
る点が知られる。
まず村共同体の役への出勤からみると、「天祭」や「日待」への出勤は「御事」の行事そのものへの奉仕であるから別と
して、村の「堀普請」「堀俊い」「萱苗植え」「村中参会」は、当日の祭礼とは関係のない労働ないしは勤めであるが、二月
二十六日、六月十八日の例に表れているように、これらにも「九つ」までに終了させようとする強制がはたらいていたとみ
られる。
次に秋田藩の代官からの夫役の徴発と、宿駅を通じて賦課される助郷役(日記では伝馬役という)をみると、藩の夫役と
しては陣屋の荷物の運搬役(三月十日、六月二十六日)、道普請(九月二日)の三例があり、うち六月の例は九つ(昼)か
ら七つ(午後四時)まで秋田藩家中の扶持米の運搬にあたっており、短時間ではあるが、「御事」で労働を忌避する午後の
時間帯に夫役奉仕している。他の二例は、それが午前中のみの夫役であったかどうか不明である。
助郷役についても、二月十六日、六月二十四日の二例があるが、二月十六日は、前日の夜五つ時(午後十時頃)に触れが
回り、翌朝七つ(午前四時)からの出勤を命じられている。これには易左衛門の息子安三郎が出役した。六月二十四日の助
郷には早朝から安三郎が出て八つ半時(午後三時)に戻った。この日の夕方には易左衛門家にではないが組内の家に翌朝か
らの助郷役の触れ当てが行われている。
このように見てくると、農事と村の役については、「御事」の日の労働を忌避する村共同体の論理がかなり厳格に守られ
ていて、できるかぎりその日の労働が午前中に終了するよう努められていたことが分かるが、領主から課せられる夫役は、
の
日
る
あ
興
遊
る
よ
に
人
査云
9
表
妾
手
楽
神
大
応
饗
ぜ
ご
戎講
応
饗
ぜ
ご
応
饗
ぜ
ご
乏
初
応
饗
ぜ
ご
ごぜ
豚
女
れ
く
ぼ
よ
ち
応
蜜
ぜ
ご
応
饗
ぜ
ご
宇都宮藩の寛保元年の「御定目書」もその一例である。
一日侍・庚申待等之儀、其人之祈祷之様に申なし候得共、右二事寄せ座頭・盲女迄呼遊候儀不宜、其上物を人、供養
牛頭天王様
御事
事
御
)
宿
者
若
(
応
饗
房
女
妻
手
若
般
大
音
観
泉
古
塚・石碑なと建候事無益成儀二候、且月之中何ヶ度もことと申、村中遊候儀、近年数多二相成候由相聞候、五節句丼
応
饗
ぜ
ご
嗽
杉
大
波
安
鎮守祭り日之外相止め可申候、併し古より遊び来候訳有之候ハハ其筋と相談可請差図候事、
「休み日
応
饗
ぜ
ご」の労働からの解放と祭礼・神事にともなう芸能や「晴れの食事」は、容易に酒宴に発展した。村民も神事への
奉仕を名目に実は酒宴を楽しみにしていたのに間違いない。表卿は、日記に出てくる盲女・「手妻師」を招いた芸能ごとに
一ハーニ奎雪一)
ともなう遊興の記録である。「御事」の集中する六月にも多いが、十月から十二月にかけて、「御事」のなくなる時期にもし
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
六四(茜)
ばしば芸人を招いての遊興があったことが分かる。「休み日」は設けられていなくても、この時期のほうが農民には本来的
なゆとりがあったと考えられる。しかし、あえてこの時期に「休み日」を設定する理由はないのであった。
むすびに
これまで検討してきたことを次のとおり総括し、むすびとする。
①明治二年に町田村で行われていた「休み日」の慣行は、年中行事に織り混ぜて、年間三十七日間の「御事」(休み日)
を設定していた。「御事」の日は、二月八日の「事はじめ」から始まり、春から初夏の農繁期の直前と、秋の農繁期との間
の時期を中心に、いわゆる広義の農繁期で奉公人の雇用期間とも重なる、かなり多忙な期間にあえて偏在して設定され、過
酷な労働を行う農民に適切な休養と慰安を与えるように工夫されていた。
②伝統行事である盆・正月、鎮守の祭礼日など、重要な年中行事でも「御事」から外されることがあるように、その年
の農事の進行具合や天候の加減を勘案し、村民の要求にも配慮しながら、あくまでも村が主体的に日を選び、悪疫災害除け
を祈願する安波大杉雌などの比較的新しい型の神事を中心に執行され、かわりものの「晴れの食事」を食す習慣も守られて
いた。
③「御事」の日、村民は仕事を午前中に済ませ、午後からは祭礼や神事仏事に奉仕するために労働を休むという禁忌の
意識を共有しており、村が共同で行う夫役や一般の農事なども、できるだけ午前中に終了するようになっていた。また領主
御用のある日は、「御事」の日には指定しないが、「御事」の当日、領主役が労働を忌避する時間帯にまでわたり課せられて
来ることはしばしばあり、村側はこれを拒めないでいた。
④「御事」の制度は、兵農分離後の江戸時代の政治体制と農村の社会秩序に適合的な慣行であり、村方が年貢と諸役の
勤めを果たしうるかぎりにおいて、領主側から一定の「自治」と「自律性」を容認されていた社会システムであったといえ
プeO
一九九三・一・一四
これまでの自説をいくらかでも補強できれば幸いである。最後に史料の借覧をお許しいただいた鈴木芳男氏と南河内町史
編纂室に謝意を表する次第である。
注l平山敏治郎「休み日」『民間伝承』第六巻第十一号、昭和十六年八月一日。
2桜田勝徳「休みの問題」『民間伝承』第七巻第一号、昭和十六年十月一日。大藤時彦「休日の問題」『民間伝承』第十巻第五号、昭
和十九年五月五日。
3森嘉兵衛「近世農業労働時間並に休日の統制」『社会経済史学』第十六巻第一号、昭和二十五年四月十五日。
4古川貞夫『村の遊び日I休日と若者組の社会史』平凡社選書鯛、一九八六年九月十八日。
5拙稿「遊び日の編成と共同体機能」津田秀夫編『近世国家と明治維新」(三省堂)一九八九年八月十五日。
6拙稿「近世における民衆の休日慣行とその論理」『人文学会紀要』第一二号(国士館大学文学部)昭和六十三年十月。
7拙稿「近世村落の労働と休養の管理システム」『鹿沼史林』三二号、平成四年十二月二十日。
8拙拙
稿稿
「「
中中小
の歴史的景観と近世の開発l近世絵図による復原法を用いてl」『人文学会紀要』第二三号(国士館大学
小河
河川
川流
流域一
近世村落の年中行事と「休み日」の慣行について(阿部)
六五(壹)
「お餅を食べるとでき物ができるといって、三が日は餅を食べないという家や、七日正月までの間は、雑煮を食べないという家も
鈴木芳男家文書、南河内町町田。
拙著『近世村落の構造と農家経営」(文献出版)六十五頁、昭和六十三年四月十四日。
『南河内町史』近世史料編第一章地域の概況。
文学部)平成二年十月。
9
10
11
12
一ハーハ全く一〈)
ある」という民俗資料の調査報告が町田村の近隣で行われている(南河内町史資料集4『台坪山の民俗』、畑年中行事、「正月の食
事」南河内町史編纂委員会、平成三年三月)。他に、同資料集3『本吉田の民俗』(平成二年三月)、成城大学民俗学研究会調査報告
書第十一集「栃木県河内郡南河内町谷地賀の民俗』(平成元年三月三十一日)。
田町田
村村
のの
食食
性性
にに
つつ
いい
てて
はは
、、
注注
岨旭
のの
各各
報報
告告書書に
町田
に、
、民
民俗
俗資
資料
料の
の調
調査
査結
結果
果が
があ
ある‐
。
皿注5、注6の拙稿参照。
閲二月八日について、『吉田村郷土誌』(吉田尋堂局等小学校、昭和七年)は、「事始め、屋根に目篭を上げ笹神様を祭る」とする。
注吃の報告書によれば、「ダイナマコ、ササガミサマといい、竹竿にメカイ(目龍)をかぶせ軒先に立て掛け、悪魔・疫病神を除け
る」行事が町田村の周辺にあることが知られている。
肥柳田国男「七島正月の問題」『民間伝承』(第十三巻第一号、昭和二十四年一月五日)。なお、筆者が注5,6にとり上げた寛政年
間の下野国都賀郡助谷村でも、正月のハレの日だけが「遊び日」から外されていた。
Ⅳ前掲注3の森嘉兵衛論文に掲載される「休日の月別配置表」は、表皿と一部重複があるが、同時に検討する資料として有効である。
しかし、それを加えても全体の傾向はかわらない。
脇柳田国男は、十一月から十二月の期間は、正月を準備する物忌みに入り、重要な年中行事がめじろおしとなる期間と位置付けた
(『年中行事覚書』講談社学術文庫一二四、昭和三十年八月)。
岨『長野県史』近世史料編第五巻(二)中信地方、三三五頁。
別「覚」『新潟県史』資料編6、近世一・
別前掲注5,6.
魂宮田登『近世の流行神』一七九頁(評論社、一九七一年)。
認南河内町町田後藤清二家文書、NO九二。
前九年の役の未紹介史料
l狩野本『前九年合戦之事』の紹介と雛刻I
|、狩野本『前九年合戦之事』について
奥野中彦
ここに紹介する狩野本『前九年合戦之事』は写本の前九年役を記述したものである。同役を記したものに『陸奥話記』が
あり、これは、「今抄二国解之文一、拾二衆口之話一、注二一巻」したもので、それ故、史料性が高く、前九年役の根本史料とし
ての地歩を占めているのは周知のところであるが、狩野本『前九年合戦之事』は、同じ前九年役を扱っていても『陸奥話
記』が全文漢文体であるのに対し、和文体をもって記録しようとした全く別系統のものである。
この狩野本『前九年合戦之事』というのは、東北大学附属図書館『東北大学所蔵和漢書古典分類目録和書上(昭五一
刊こ、「三、歴史地理H国史四、時代史」の同書七二九ページに、
二巻竝後三年 合 戦 之 事
宍
琶
(請求番号狩野文庫第三門四八三二、二冊)
六
前九年合戦之事一謹型雌蘂掴
前九年の役の未紹介史料(奥野)
七
とみえるものである。
六八(天)
(1)
狩野本『前九年合戦之事』は中本で、全二七丁、半丁九行で書かれている。またそれは、『後三年合戦之事』と同一峡に
収められている。題篭に、「前九年合戦之事上」と記され、『後三年合戦之事』には、「後三年合戦之事下」と記してい
るがこれは誤りで、「前九年合戦之事上下」としなければならない。けだし、『前九年合戦之事』と『後三年合戦之事』と
が対になっているために、題策を書く際、前者を「上」、後者を「下」と記したものであろう。
この狩野本『前九年合戦之事』の紹介は管見の節囲ではまだないが、同一本はすでに、梶原正昭氏が、同氏校注本の古典
(2)
文庫本『陸奥話記』(一九八二年一二月刊)に、「参考」として盛岡市中央公民館蔵本(南部家旧蔵本)『前九年合戦之事』
(3)
を付載している。これは内容的に狩野本と同一系統のもので、字句上の若干の相違を除いては叙述ともほぼ一致する。しか
し、盛岡市中央公民館蔵本『前九年合戦之事』もこれに関する書誌学的検討はまだなされていない。
二、『前九年合戦之事』と『陸奥話記』との記事の異同
(4)
狩野本『前九年合戦之事』と『陸奥話記』と対比して、その異同の箇所を摘記してみたい。
①ま
まず
ず、
、『前九年合戦之事』(以下異同を論ずる際は、『前』と略す。)には「目録」を載せるが、『陸奥話記』(以下『陸』
と 略 す 。 ) にはこれがない。
②『陸』 にある「六箇郡」に始まり、大守藤原登任の兵を安倍頼良が「鬼切部」で撃破したことを語る冒頭部分が『前』
にはない。
③「阿久利河」事件について
『陸』
差将軍怒、召貞任欲之罪、頼時語其子姪日、人倫在世、皆為妻子也、……
壷則』
将軍大二怒り其実否ヲ糺明セントテ貞任ヲ召サル父頼時此事ヲ間テ子息丼甥トモヲ集メ申ケルハ光貞力人馬ヲ傷スル事
、、、cもも、もももも、勺もももももも、、守。も、守も
既二貞任力所為ナレハ将軍ノ方へ参ラハ罪セラレン事疑ナシ予情案スル’一人倫ノ世ニアルハ皆妻子ノ為也
とあるように、『前』にある「、、、、、」部分は、『陸』にはみえない。
(咽)
④平永衡に陰謀の企みがあるということを頼義に告発したのは、『陸』では、「有人説将軍日」とあるのみであるが、『前』
では、「頼義ノ近臣三浦平太夫為通ハ将軍二咽テ云ク」と、「三浦平太夫為通」としている。永衡を処刑するところの記述で、
以下の文章は、『前』のみあって、『陸』にはみえない。
(マ、)
抑為通力黄巾赤眉ノ故例ヲ引ダル事ハ応助ヵ日赤眉黄巾ノ如ク青眉ノ故例ヲ引ダル事ハ物ヲ頭に着シ他ノ軍二相別卜云云
今永衡力冑ノ衆二替リタル|一心ヲ付頼時力兵士二被射マシキ相符ナルヘシト推量シタル而已二非ス能故実ヲ覚タリ時に取
テノ高名也卜将軍ヲ初メ軍兵皆褒美シヶリ
⑤経清は永衡が処刑されたのをみて恐怖し頼時(頼良改名)に従おうとして流言を構え頼義を妻子らのいる国府に戻し、
六九(麦)
その間に頼時のもとに走る計をたてたが、『陸』と『前』とでは、前者が、計画が奏功して経清は頼時の下に走りえたとい
うのに対し、後者は、直ちには奏功しなかったことが記されている。
前九年の役の未紹介史料(奥野)
陸
言
い◎
召兵根発軍兵、
七○(巷)
……大戦二日、 頼時為流失所中、還鳥海柵死、但余党未服、請賜官符、徴発諸国兵士、兼納兵糧、悉課余類焉、随賜官符、
『陸』
⑥頼時が鳥海の棚で戦死するところは天喜五年九月の国解を引用して述べられているが、その内容は、『前』の方が詳し
前者が韓信と彰越と二人をあげるのに対し、後者は韓信のみであることである。
また、細かい相違点としては、『陸』が「韓彰被殊鯨布寒心」とするのに対し、『前』は、「韓信被謙鯨布寒心スト」とする。
と。もっとも、『前』もそのあとに、気仙郡金為時と僧良昭との戦いを記し、その戦いの隙きに頼時の元に走ったとする。
リシカハ経清トモ心ナラス同ク国府へ供シヶリ
数千ヲ卒シテ国府へ返タマフ此紛二経清ハ我軍兵ヲ引分テ頼時力手馳加ラントシヶレトモ軍ノ教令稠クシテ可立除ヤウ無
将軍ノ宣ク争力只今去事アルヘシ是ハ敵ノ謀二云シムル雑説ナルヘシト宣ケレトモ軍兵普ク勧ムルニ依テ心ナラス軍士
豆則』
人、走干頼時美、
等攻頼時、頼時以舎弟僧良昭等令拒之、為時錐有利、而依無後援、一戦退芙、於是経清等属大軍擾乱之間、将私兵八百余
将軍之摩下内客、皆妻子在国府、多勧将軍、令攻国府、将軍因衆勧、自将鋭騎数千人、日夕馳還、而遣気仙郡司令為時
一
豆別』
(マL)
.…:冨忠伏兵ヲ置テ頼時力軍兵ヲ嶮岨二呼引大二戦う事一目也官軍ノ中二栗林主馬助平貞新擁趣卜云者アリ是ハ弥七郎貞
次ヵ三男二精兵ノ手足ナリ百発百中空シカラス故二頼時ヲ射ン卜心掛八方二目ヲツケ窺寄テ能引兵卜放ッ矢頼時力側腹ヲ
射貫二頼時痛手ナレハ鳥海柵二返リテ死シタリヶリ然トモ其余党未伏侍将次力軍功大ナリト頼義感シタマヒニ引両ノ幕旗
(マ兇)
ヲ将次二下サレ恩賞ノ事ハ朝家ノ御計ニタルヘシト宣フ将次御紋ヲ子孫二伝テ家宝トス其後頼義ノ云ク願クハ官符ヲ賜り
諸国ノ軍ノ兵ヲ催集兼テ兵根ヲ入置尽ク余党ヲ珠シ且官符二随テ兵根ヲ召集軍兵ヲ発セン但郡郷ノ義不同未官軍二動賞ヲ
トモ不被行間他国ノ兵モ難し求勇士モ又忠勤ヲ励ム事ナシト云云
このように、『前』には、『陸』にみえない平将次の軍功が記されているのである。すなわち、安倍頼時を戦死にいたらし
めたのは将次が放った矢に側腹を射貫かれたことによるとする。また、引用後尾の「但」以下は、『前』にのみみえ、ここ
求求
璽勇士モ又忠勤ヲ励ム事ナシト」というところは、前九年の役の経過において『陸』が示しえ
のところ
ろの
の一
「他
他国
国ノ
ノ兵
兵モ
モ難
難しし
(犬再五)
なかった重要な側面を開示する。
⑦「同年十一月」以下の頼義軍の敗戦のところは、『陸』、『前』ともにほとんど異同はない。ただし、『前』には、義家ら
の勇戦のほかに、「此時二栗林父子将軍ノ士ヲ集メ来テ敵ノ後ヲ襲討夷賊等イョイョ敗レ走ル」と、栗林父子の活躍を記し
ている。また、『前』には、「賊待等ハ新羅ノ馬ヲ馳テ」とあって、『陸』の「賊類馳新蝿之馬」と異っているが、これは、
『前』が筆写したときに「侍」を「侍」に、「鵬」を「羅」に誤ったものであろう。
七一(三)
⑧佐伯経範の戦死のところでは、『陸』が「則殺十余人」とするのに対し、『前」は「敵二十余人ヲ殺シテ」と、『陸』が
一○余人に対し、『前』は二○余人と人数に相違がある。
⑨新陸奥守高階経重のことについては、『陸』と『前』は以下のごとく異同がある。
前九年の役の未紹介史料(奥野)
一
陸
とある。
八月朔日栗原郡菅岳二着陳ス
壷削』
八月九日致栗原郡営崗
『陸』
郡「菅岳」とする。
七二(三)
また、頼義と清原武則率いる清原軍とが相会ったところについて、『陸』は栗原郡「営崗」とするのに対し、『前』では栗原
新国司二属スル者ナシ貞任新国司ヲ攻討へシト評議スルョシ風聞スル也聞怖シテ一戦ニモ不及逃上ル
下着シテ入境里し着し任国中ノ人モ或ハ逆徒貞任宗任家任則任兄弟四人二与力シ残ル輩ハ又陸奥前司頼義ノ下知ニ従う故二
(瞳)
康平五年壬寅ノ春奥州ノ任ン終ル’一ツキ禁裏ニテハ高階朝臣経重ヲ以テ陸奥ノ新国司トス経重策彼国へ進発シ頓テ奥州二
童削』
司指損故也、
康平五年春、依頼義朝臣任終、更拝高階朝臣経重為陸奥国守、揚鞭進発、入境着任之後、無何帰洛、是国内人民、皆随前
弓
⑩小松柵合戦のところでは、深江是則と大伴員季が率いた兵の数について、『陸』は「廿余人」とするのに対し、『前』で
は「二千余人」とする。また、安倍宗任が攻めてきたときこれを支えた五陣の軍士のなかで、『前』では、『陸』にみえない
三人の名が加わっている。三人とは「二階堂維兼栗林貞次同将次」である。また、宗任が率いた遊兵の数を『陸』では「州
余騎」とするのに対し、『前』では「三千余騎」とし、小松柵を焼き破って『陸』では「所射礎賊徒六十余人」とするのに、
『前』では、「討捕処ノ賊敵百六十四人」とし、『陸』で「被疵逃者不知其員」とするのに、『前』では「創ヲ蒙ル者二百五十
余人ナリ」とする。
⑪衣川関を攻撃の際に活躍した久清について、『陸』では、かれを「召兵士久清」というのに対し、『前』は「手ノ郎等久
清」とする、また『陸』では、「久清云、死生随命則如猿猴之跳梁」とするのに対し、『前』では、「久清力云ク某力死生ハ
君ノ仰二随ントテ則鎧ヲヌキ放火ノ道具井二筒ノ火ヲ髻二付テ河辺ニュキ前ナル木枝二上リシカ猿猴ノ跳梁スルカ如クシ
…:.」とする。久清について、『陸』はどこにもその姓を記さないが、『前』には「坂久清」と姓を記した箇所をもつ。
⑫黒沢尻柵を破る一方、『陸』では「鶴脛・比与烏」の二柵を攻略したとあるが、これを『前』は、「鶴脛鴨ノー柵」とす
z己◎
⑬厨川柵の攻撃の記述においては、『前』は、『陸』の記述に比して、叙述が整っていないところがみうけられる。
『陸』
……囲厨川嘔戸二柵、相去七八町許也、結陣張翼、終夜守之、件柵京北大沢、二面阻河、々岸三丈有余、壁立無途、其内
築柵自固、柵之上構楼櫓、鋭卒居之、河与柵間亦掘隈、々底倒立刃、地上蒔鉄刃、遠者発弩射之、近者投石打之、適到柵
=
名
下者、建沸湯沃之、振利刀殺之、官軍到着時、楼上兵招軍日、戦来焉、雑女数十人、登楼唱歌、将軍悪之、自十六日卯時
七
攻戦、終日通夜、積弩乱発、矢石如雨、城中固守不被抜之、官軍死者数百人、
前九年の役の未紹介史料(奥野)
三
軍削』
七四(窟)
去程二将軍ハ所々ノ柵ヲ攻破軍士ヲアッメ同十四日ニハ厨川柵二馳向十五日ノ酉刻二至ル両城ノ相去コト僅七八町計也則
陳ヲ結上翼ヲ張テ終夜守之件ノ柵西北ハ大ナル沢東南ハ又大河也其河岸ノ高キ事三丈余如屏風時テ道ナシ其中二柵ヲ築キ
其上櫻ヲ挙賊徒ハ身ヲ碧潭二投首ヲ白刃ノタメ’一刎ラレント堅ク守官軍是ヲ事トモセス川ヲ渡り谷峰ヲ越テ競上掛テ攻敗
ス依之敵数百人戦死ス然しトモ賊徒必死ニナリ刃ヲプリ矢ヲ飛セ囲ミノ中へ突出テ生ントィフ心ナシ故二官軍若干討死ス
この「両城」が『前』では厨川柵とどの柵かが明らかではない。『陸』では、「厨川嘔戸二柵、
『前』に「両城」とあるが、》‐
相去七八町許也」としている。
また、この厨川柵の攻防では、『陸』が「官軍死者数百人」としているのに対し、『前」は「敵数百人戦死ス」とあり、
「官軍若干討死ス」とする。すなわち『陸』は清原・頼義軍の苦戦の様子を叙述するのに対し、『前』は、清原・頼義軍の攻
撃に対し、安倍氏側が多くの犠牲者を出していることを記述しているのである。
なお、厨川柵の落城の際にみえる『陸』の以下の如き記述は『前』にはなく、『前』の叙述はやや単調になっている。
将軍
軍命
命士
士卒卒
十七日未時、将
[日 、各人村落、壊連居舎、填之城隈、又毎人刈萱草、積之河岸、於是壊軍刈積、須里如山、将軍
城誓
誓言
言、
、(
(中
中略)伏乞、八幡三所出風吹火、焼彼柵、則自把火称紳火投之、是時有鳩、翔軍陣上、将軍再拝、
下馬、遥拝皇城
焔如
如飛
飛、
、先先
暴風忽起、烟焔
同是官軍所射之矢、立柵面楼頭、猶如蓑毛、飛焔随風着矢羽、楼櫓屋舎一時火起、城中男女数千人、
徒潰
潰乱
乱、
、[
[或
或枚身於碧潭、或刎首於白刃]、官軍渡水攻戦、是時賊中敢死者数百人、被甲振刃、突囲而出、必
同音悲泣、賊徒
死莫生心、官軍多傷死者、
右のうち、[]のところは、『前』には、
賊徒ハ身ヲ碧潭二投首ヲ白刃ノタメ’一刎ラレント堅ク守.…:
というように、厨川柵における安倍軍の守りの言葉として使用されている。
後尾の、『前』にみえる「首献スル使者」は、『藤原秀俊とあるが、『陸」では「季俊」となっている。
⑭『陸』にある「あとがき」の部分は、『前』にはみえない。
三、『前九年合戦之事』の成立
『前九年合戦之事』の成立を窺う手がかりは少ない。『前九年合戦之事』には、『陸奥話記』にみるような「今抄国解之文、
拾衆口之話、注之一巻」といった「あとがき」もみえない。
『後三年合戦之事』の記述は、『陸奥話記』のそれと比較するとき記述内容、合戦の次第の叙述の順序等、小稿の二、にあ
げた諸例を除いてはほぼ一致するとみてよい。いいかえれば、『陸奥話記』が全文、漢文体をとっているのに対し、『前九年
合戦之事』は全文和文体であるところに唯一の根本的相違があるのである。
しかし、それでは、『前九年合戦之事』が『陸奥話記』を和文に変えることによって成立をみたものかといえば、そうは
七五(芸)
いいかねるのである。『前九年合戦之事』と『陸奥話記』と類似するところを引くと次のような例がある。
軍別』
前九年の役の未紹介史料(奥野)
七六(美)
此時経清等大二恐怖シ手ノ郎党ヲ潜二招キ語テ云ク前者ノ覆ヲ見テ後者ノ零トス韓信被謙鯨布寒心スト云リ既今永衡謙セ
ラレタリ我又不知何レノ日力死ン是ヲスル事如何卜問郎従皆云足下ニハ赤心ヲ顕シ将軍二属ストモ頼義必ス客ヲ疑レン足
下ニモ頼時ノ聟ナレハ争力心ヲ置レサラン謹口未聞二叛キ走テ頼時二従レョ独り檎ト成シ時鱗ヲ噛トモ何ソ及ント云う
『陸』
於是経清等怖不自安、窃語其客日、前者覆者後車鑑也、韓彰被諜鯨布寒心、今十郎已残蕪蛎、吾又不知何日死、為之
如何、客日、公露赤心、欲事将軍、将軍必意公、不若讓口速開之前、叛走従干安大夫、独為軍功之時、唾噴何益焉、
右に引用したところは両者ともにその結構はきわめて近似しているといえようが、その細部をみるとき、経清が平永衡(伊
具十郎)の討たれたのをみて、早晩自分にも難が及ぶと考え、身の処し方について相談した相手は、『前』は「手ノ郎等」
であるのに
に対
対し
し、
、『
『陸
陸」
」は
は「
「客
客」に対してである。『前』にも「客」という語が出てくるが、この「客」というのは、経清の
相談相手
手と
とし
して
てで
では
はな
なく
く、
、頼
頼華
義と経清との関係を指す言葉で、経清が頼義から「客」分扱いをうけていることを示すものと
して使用されているのである。
右の例でも判るように、『前』は『陸』をもとにしてこれを単に和文に転換したものではない。それでは、一歩進めて、
『前』は、『陸』をみることなしに、『陸』のように、国解等をもとにして和文体の前九年合戦記として成立したかといえば、
これも断定はできかねるが、その可能性は高くない。むしろ、『前』は『陸奥話記』の記事を意識し、その結構に従いつつ
も、新しい解釈、新事実をつけ加えつつ成ったものと考える方により妥当性があると思う。
とくに、安久利事件を『前』は、安倍貞任の所為と認めていること、平永衡の「陰謀」を頼義に伝え、その処刑を求めた
人物を「近臣三浦平太夫為通」としていること、頼時の死は、栗林主馬助平貞新(将次)の働きによること、またその働き
に対し、幕旗をもってその褒美としたことなどを書き記しているのは、『陸』にもれたことがらを、『陸』を下敷きに和文体
前九年合戦記を書く際、積極的にこれを付加したものととらえられる。
なかでも、本稿の二、でも記した如く(二、の⑬)、『前』には、「両城」としながら、ひとつ厨川柵をあげるのみで、他
の一柵を
を示
示し
して
てい
いな
な恥
いのは、『陸』にみえる「厨川嘔戸二柵」をみながら、「嘔戸」のことを書き損じたためであろう。もし、
『前』
』が
が『
『陸
陸』
』を
をみ
み系ることなく、独自に和文体前九年合戦記を記したとすれば「両城」として、その前に、二柵をあげるの
を忘れるわけがない。
このように、『前九年合戦之事』は、『陸奥話記』が成立したあとに、それを下敷きに、新事実を付け加えながら和文体の
前九年合戦記として製作した作品と考えられる。
なお、狩野本『前九年合戦之事』は、「仁土呂士」を「仁士呂忠」とし、「新羅」の馬を「新羅」の馬とし、「安倍」を
「安位」とか「安信」とかと明瞭な写し誤りをしている(この点、盛岡市中央公民館蔵本も狩野本と同様に記している)の
は、狩野本が原本ではなく、少くとも一次以降の転写本であることを語るものではないか。
『前九年合戦之事』で、三浦平太夫為通が「頼義ノ近臣」として従軍していること、ほかに栗林貞次・将次の親子、二階
堂維兼が頼義の躍下の兵として従軍し、戦功をたてたこと等が書き記されているのは、単に『陸奥話記』の記事の増幅にと
どまらない前九年の役の新知見として改めて注目さるべきことがらであろう。
狩野本『前九年合戦之事』の閲覧にあたっては、同本『後三年合戦之事』とともに東北大学図書館の御許可をいただいた。
末尾になったが改めて厚く御礼申上げます。
前九年の役の未紹介史料(奥野)
七七(壱)
工狩野本『前九年合戦之事』については「米沢史学』七(一九九一年六月)に、「奥州後三年の役の新史料11史料紹介とあわせ
註
「置賜四郎」についてl」として世に紹介した。
七八(尺)
z盛岡市中央公民館蔵本『前九年合戦之事』(古典文庫本『陸奥話記』の「参考」として付赦されているもの)と、狩野本のそれと
(山)
対比してみると、登場人物、安倍を「安位」・「安信」とする箇所、異体字の使用箇所、その用字等、一致する。
ただ、梶原氏校訂本に、「康平五年壬弓」を「康平五年壬子」とするのは、「弓」を「子」と誤ったものであろう。康平五年は「壬
なお、笠栄治『陸奥話記校本とその研究」(一九六六年三月刊)によれば、『前九年合戦之事」(上下)は「東北大学図書館(狩野
寅」であって「壬子」ではない。
文庫所収)および岩手県立博物館(南部家旧蔵本)に同書が存在する」とし、「内容は一部陸奥話記に欠ける個所と補充する箇所を
有するも陸奥話記とほとんど同一であるといえよう。」とされている。
亙梶原正昭前掲書では、『前九年合戦之事』について、「その骨子は「陸奥話記』とほぼ同じだが、内容的に本書(筆者注、『陸奥話
記』)を補い得る叙述があり参考となるところが多い。」とされるが、それ以上の言及はない。
工ここで使用した『陸奥話記』のテキストは尊経閣文庫蔵本を底本とした『古代政治社会思想』(日本思想大系8、一九七九年三月
刊)所収のそれに拠った。
〈謙刻〉
前九年の役の未紹介史料(奥野)
前九年合戦之事
I
』I■‐POI・fldIIl
i
I
七九(莞)
|
I
I
凡例
八○(合)
一、異体字ハナルベク現代用字二改メタガ、一部改メズ異体字ノマ、’一シタモノガァル。ソノ場合、当該字ノ
傍キー()ヲモッテ現代用字ヲ宛テタ。
例7↓事得↓得托↓トモ
一、誤字卜考エラレルモノハ現代用字ヲモッテ正シダ。
×○×○×○
例葉↓奪宿称↓宿禰仰↓仰
一、不明ノモノデ恐ラクコノ字デナイカト思量シタモノハ(ヵ)卜傍書シダ。
一、写本ノ使用字ヲ尊重シタモノ及ビ不明ノモノハ(マ、)ト傍書シダ。
前九年合戦之事上
目録
(マL)卜j
三頼義射藝f武勇事
一二経清属頼時付鳥海合戦事
十二奥州新国司下向付清原武則与ニカスル干将軍一事
同下枚丁略之
二小松柵合戦付落城事
一二貞任逆二寄干将軍ノ屯一付貞任敗北事
室将軍責落石坂衣川大麻生野頼原鳥海等之諸柵ノ事
空域川軍付貞任被生捕多F
千代童子武勇事
十一二貞任首献京都付一族降参井勲賞事
八
目録終
前九年の役の未紹介史料(奥野)
一
(八一)
頼義
頼義射藝付武勇事
(術)
(マ鷺)
八二(全)
正四位下鎮守府将軍伊与守左馬助左才門尉聴昇殿頼信ノ嫡男也一条院ノ時判官代トナル彼院常二狩ヲ好タマ
フュヘニ野原二赴タマフ事数度ナリ鹿廉狐兎ノ類ハ頼義ノタメ’一得ラレスト云事ナシ頼義好テ弱弓ヲ持ッ放シ
処ノ矢必ス羽ブクラヲ不呑卜云事ナシ響へ如何ナル猛獣卜云トモ弦音一一応シテ必ス発し死ス其射藝ノ巧ミ諸人
二勝リタル事如此干し此上野介直方ハ頼義ノ射藝妙ナル事ヲ感シ潜二相語テ云ク直方不肖ナリト云モ筍モ名将
ノ後胤也岼〃舘嘩四偏二武藝ヲ貴フニ未曽射藝ノ巧ミ頼義ノ如ク能スル者ヲ不見願クハ我女ヲ以テ客ノ箕箒ノ
(帰)
妾一一セント云リ頼義則肯彼女ヲ納テ妻卜シ三男二女ヲ生シム嫡子ハ太郎義家二男ハ加茂二郎義綱三男ハ新羅三
郎義光也判官代ノ聰依テ相模守トナル此時東国二於テ武勇ヲ好ム民多ク販服ス是頼義朝臣ノ威風大二揮フ故也
(マ乱)
尤武士皆奴僕ノ如ク従属ス頼義士民ヲ愛シ施ス事ヲ好ム依之自坂東シ弓矢二携ハル者大半門客トナレリ既二相
州ノ任ン終テ頼義上洛ス人王七十代後冷泉院ノ御宇永承六年辛卯ノ春奥州ノ夷賊安ン大夫安位頼良卜云者乱ヲ起
シ国中ヲ掠ム此時頼義朝ノ撰ヒニ応シ征伐将帥ノ任ンヲ専ラ’一ス拝而補任ス陸奥守鎮守府将軍一是奥州ノ夷賊
安倍頼良ヲ為可諌也天下元来頼義ノ才能ヲ知1へ’一東国ノ勇士皆悉従属ス既二頼義勢ヲ卒シ奥州二赴入レ着レク
(帰)
任ンニノ初メ俄二天下ノ大赦ヲ行ハル時二安倍頼良ハ以前叛逆セシ罪ヲ以テ可有諌伐カト思う処二大赦ノ義ヲ
間テ大二悦上先国司頼義卜吾同名ダル事ヲ偉リ則名ヲ改テ頼時卜称ス頼時ハ悔先非身ヲ縮メ販服スルニ依テ境
内再上静謡シテ事ナシ頼義奥州ノ任既二終ルノ時頼時府務ヲ作ランカ為二鎮守府へ入り数十日経廻スルノ内頼
時首ヲ傾ヶ給仕シ駿馬金宝ノ類ヲ尽ク幕下へ献シ且士卒等一一モ与之而後国府二返ル其道二阿久利河卜云所アリ
権ノ頭藤原朝臣説貞ヵ子息光貞元兄弟彼川ノ辺二野宿シヶル処二誰トハ不し知大勢人夜討一テ人馬ヲ殺傷ス将軍頼義聞
(恥)
之光貞兄弟ヲ召テ疑敷者アリヤ否ヲ尋ラル光貞答申ケルハ安倍頼時力嫡子貞任先年光貞力妹ヲ姿ラント所望然
トモ其家族ヲ賎ンシテ不許之貞任深ク趾ト云リ是ヲ案スル’一貞任力所為ナランカ此外内ノ仇ナシ卜申ス将軍大
一一怒り其実否ヲ糺明セントテ貞任ヲ召サル父頼時此事ヲ間テ子息等井甥トモヲ集メ申ケルハ光貞力人馬ヲ傷ス
ル事既に貞任力所為ナレハ将軍ノ方へ参ラハ罪セラレン事疑ナシ予情案スルニ人倫ノ世ニアルハ皆妻子ノ為也
貞任愚也ト云トモ父子ノ愛育忘スル事ナシ貞任諫数セラレハ我父トシテ何ソ思ピン所詮叛逆ヲ企テ関ヲ閉将軍
ノ来リ攻ン事ヲ侍へシ今頼時力人数トモ又将軍ノ勢二過タレハ拒戦ニ不足ナシ敢ヘテ患へカラス峨上戦上不有
(泥力)
利モ我レ子息等卜同ク戦死セン|一何ノ痛ム事カァランャト云う一坐二並居タルー族郎従一同一一云ク頼時ノ仰尤
ナリ凡二丸ノ尼ヲ以テ衣川ノ関ヲ封セハ誰力敢テ破ルモノァランャ卜申ス依テ此義二遂二道ヲ閉テ人ヲ不通頼
義イョイョ念リ兵ヲ発ス坂東ノ猛兵等如雲集リ如風来リ歩騎都テ数万人攻具ノ畳楯潜キ連テ山野二満依也国中
(畷)
震上恐レ故二不応二下知一卜云者ナシ干此頼時ヵ聟散位藤原朝臣経清平ノ永衡等ハ舅ノ頼時ヲ背テ私ノ軍士ヲ引
八三(全)
分将軍二相属ス干時永衡ハ銀ノ兜ヲ着タリ頼義ノ近臣三浦平太夫為通ハ将軍二咽テ云ク永衡ハ陸奥ノ前司登任
前九年の役の未紹介史料(奥野)
八四(鐙)
旧主ヲ奔テ俄二舅頼時卜与シ主君二敵シタル不忠不義ノ無道人也是以案スル’一外ハ将軍二版服スル体ナントモ
朝臣ノ郎従トシテ当国二下向シ厚ク恩顧ヲ蒙リー郡ヲ領ス故二安倍頼時力女ヲ要テ後二大守登任合戦アリシ’一
(棄)(帰)
内ニハ好謀ヲ挾ミ味方ノ智謀軍謹等ヲ頼時力方へ通シ且又軍士ノ動静謀略ノ出ル処ヲ告知セン為ノ謀カト覚候
其上永衡力着ダル冑諸人ト不同是ハ必ス合戦ノトキ頼時力軍兵等已レヲ射サル為ノ相印卜存也彼黄巾赤眉豈一
分し軍哉ト云一一非スャ早ク永衡ヲ訣獣シ其内応ヲ施ン’一ハ不如卜申ケレハ将軍尤卜同心シ郎等二下知シテ則兵
(マL)
ヲ進メ永衡及上其従兵ノ中二腹心同スル者四人搦捕テ推問スル処二果シテ叛逆露顕ス依テ立処二首切ル抑為通
力黄巾赤眉ノ故例ヲ引ダル事ハ応肋ヵ曰赤眉黄巾ノ如ク青眉ノ故例ヲ引ダル事ハ物ヲ頭二着シ他ノ軍二相別ト
云云今永衡力胄ノ衆二替リタル|一心ヲ付頼時力兵士二被射マシキ相符ナルヘシト推量シタル而已二非ス能故実
ヲ覚タリ時二取テノ高名也卜将軍ヲ初メ軍兵皆褒美シヶリ此時経清等大二恐怖シ手ノ郎党ヲ潜二招キ語テ云ク
前車ノ覆ヲ見テ後車ノ鑿トス韓信被謙鯨布寒心スト云リ既今永衡諜セラレタリ我又不知何レノ日力死ン是ヲス
ル事如何ト問郎従皆云是下一一ハ赤心ヲ顕シ将軍二属ストモ頼義必ス客ヲ疑レン足下一一モ頼時ノ聟ナレハ争ヵ心
ヲ置レサラン讓口未開前二叛キ走テ頼時二従レョ独り檎卜成シ時膳ヲ噛トモ何ソ及ン卜云フ経清尤卜得心シ則
(マ弘)
流言ヲ構テ雑説ヲ云セケルハ借モ安倍頼時ハ騎馬軽卒ヲ閑道ヨリ国府へ遣シ将軍井二従車等力妻子ヲ攻捕卜相
計ヨシ謁寄シヶル程二軍兵驚キ頼義ヲ進ケルハ公ノ内客士卒ノ妻子皆国府一一アリ敵ノ為二檎トナシテハロ惜事
也願クハ先国府ニ返り妻子を片付後ヘヲ心安シテ合戦アルヘシト云う将軍ノ宣ク争力只今去事アルヘシ是ハ敵
ノ謀一一云シムル雑説ナルヘシト宣ケレトモ軍兵普ク勧ムルニ依テ心ナラス数千ヲ卒シテ国府へ返夕マフ此紛二
経清ハ裁軍兵ヲ引分テ頼時力手馳加ラントシヶレトモ軍ノ教令稠クシテ可立除ヤウ無リシヵハ経清トモ心ナラ
ス同ク国府へ供シヶリ
経清属頼時付鳥海合戦事
(ノヵ)
将軍国府二返テ後気仙ノ郡司金ノ為時卜云者ヲ将帥トシテ頼時ヲ攻ル頼時トモ舎弟ノ僧良昭卜云者ヲ大将トシ
テ拒シムル’一為時大二勝利ヲヲ得タリシヵモ敵ハ目に余ル大勢也味方ハ小勢殊二後詰モナキ故一二戦シテ退散
ス此時二至テ頼時ヵ聟散位藤原朝臣経清等ハ官軍大二散乱スル弊二乗二我兵八百余人ヲ引分テ頼時力陳へ馳加
ハル又其禁中一一ハ奥州ノ新国司ヲ補セラル是ハ頼義奥州ノ任ン終ルー依テナリ然しトモ彼国ニハー摸起り将軍
頼義日夜旦暮苦戦ストィヘトモ夷賊未夕雌伏一卜伝聞驚キ辞退シテ任二赴ク者ナシ依之菫テ頼義朝臣ヲ国司一一
任シ猶可レ遂二ク征伐一ヲヨシ宣下アリ奥州騒動ニョリ国中飢鯉シ根之シ此時頼義謀ヲ定ラル、二依テ漸ク年序
(マ秘)(マ秘)
ヲ送ル天喜五年丁酉九月国解ヲ送り頼時ヲ諌伐スヘキノ条ヲ言上ス依之為時下毛野興重等ヲシテ奥州ノ加勢一一
定メ官軍ヲ与シム於此鉋屋仁士呂忠宇曽利三郎ノ夷人ヲ合セ安部冨忠ヲ頭トシテ兵ヲ発シ為時等二従う頼時此
(マL)
事ヲ聞テ性テ利害ヲ陳ス軍僅二千二不過富忠伏兵ヲ置テ頼時力軍兵を嶮岨二呼引大二戦う事二日也官軍ノ中二
栗林主馬助平貞新癖趣ト云者アリ是ハ弥七郎貞次力三男二精兵ノ手足ナリ百発百中空シカラス故二頼時ヲ射ン
卜心掛八方に目ヲツケ窺寄テ能引兵卜放ッ矢頼時力側腹ヲ射貫二頼時痛手ナレハ鳥海柵二返リテ死シタリケリ
然トモ其余黛未伏借将次力軍功大ナリト頼義感シタマヒニ引両ノ幕旗ヲ将次二下サレ恩賞ノ事ハ朝家ノ御計一一
八五(金)
タルヘシト宣フ将次御紋ヲ子孫二伝テ家宝トス其後頼義ノ云ク願クハ官符ヲ賜り諸国ノ軍兵ヲ催集兼テ兵糧ヲ
前九年の役の未紹介史料(奥野)
(マL)
(天保五)
八六(尖)
入置尽ク余党ヲ謙シ且官符二随テ兵糧ヲ召集軍兵ヲ発セン但郡郷ノ義不同未官軍二勲賞ヲトモ不被行間他国ノ
(営力)
兵モ難し求勇士モ又忠勤ヲ励ム事ナシト云云然トモ捨置ヘキナラストテ同年十一月将軍兵士千八百余人ヲ引卒
(烈力)(マ畠)(認ヵ)
シテ頼時力息貞任宗任を誰セント欲ス故二夷賊ハ精兵四千余人ヲ卒シ為行ヵ河崎ノ柵ヲ菅トシテ将軍ノ勢ヲ烏
ヲ力
海二於テ拒戦此時風雨甚裂シテ道路銀難ナリ剰官軍根乏シテ人馬トモ’一疲レ賊待等ハ新羅ノ馬ヲ馳テ疲足ノ官
(廿)
軍二敵ス依テ官軍大二敗し死スル者数百人也干此将軍ノ長男太郎義家ハ驍勇人倫二超騎射神ノ如シ白刃ヲ冒シ
十重汁重ノ囲ヲ突破夷賊ノ左右二出テ大ノ矢ヲ以テ頻リ’一賊ノ師ヲ射ル其矢必ス外レス中ル処ノ矢二倒しスト
云者ナシ如二雷走一如二風飛而神変妙也夷賊騨走テ敢テ近付者ナシ偏二八幡太神ヵ漢ノ飛将軍ナラント恐擢ル然
モ将軍ノ従兵或散乱シ或死傷ス残ル処僅二七騎ナリ所謂将軍頼義嫡子八幡太郎義家条理ノ少進藤原景通大宅光
任清原貞廣藤原範季同則明等也賊敵二百余騎左右ノ翼ヲ張テ囲ミ攻ム矢ノ飛来ル事雨ノ如シ故二将軍ノ馬流矢
二中テ倒ル干時景通敵ノ馬ヲ得テ是二乗シム義家ノ馬モ又矢二中テ死スル間則敵ノ馬ヲ奪テ授之如此ノ間殆刻
ヲ移ス囲ヲ解コトヲ得カタシ義家頻リニ魁兵ヲ射殺ス光任以下ハ身命ヲ捨テ相戦依レ之夷賊神也トョテ漸ク行
退此時ニ栗林父子将軍ノ士ヲ集メ来テ敵ノ後ヲ襲討夷賊等イョイョ敗レ走ル此節官軍ノ中二散位佐伯ノ経範ト
云者アリ渠ハ相模国ノ住人也将軍常々厚情ヲ掛夕マフ是レ敵ノ為二囲マルト云トモ其囲ヲ漸ク解テ死ヲ遁レ去
トモ将軍ノ在処ヲ知ラス依し之散乱シタル味方二尋ケレハ軍士等答日将軍御父子ハ賊ノタメ’一囲マレ玉シカ従
(マ団)
兵六七騎一一ハ過サリキ是ヲ推量スル’一免レ給上難シト申ス経範聞テ泪ヲ流シ我将二仕ヘテ年既二三十年ヲ経ル
(マL)
老僕齢上已及順輪礎艸鋒一庫布垣稲一壱云将軍ノ齢モ又掛詞二逼リ今覆滅ノ時二当テ何ソ命ヲ同セサランャ地下
’一相従是我志也卜云テ返テ敵ノ中へ馳入其郎従三人モ又云既二主君ハ将軍命ヲ同フシテ節一一死ス吾等又豈
得し生事乎倍臣ト云トモ節ヲ慕う是一也トテトモ’一敵陳へ馳入相戦コト甚目ヲ驚カス敵二十余人ヲ殺シテ終二
戦死シヶリ藤原景季ハ景通力長子ナリ生年廿歳其天性四手肥ニシテ騎射ノ達人也合戦ノ毎度二死ヲ不顧馬ヲ馳
テ敵陳二駈入将帥ヲ殺シテ出ルコト七八度二及フ然ル|一馬畷倒テ敵ノ為二生捕ラル賊敵等景季力武勇強力ヲ惜
シヵトモ将軍ノ親族タルヲ以テ終二斬レ之又散位和気ノ政輔為清等モ皆万死二成テー生ヲ不し顧尽ク将軍ノタメ
ニ命ヲ捨ル彼勇士等カカ戦猛勇ノ分野ヲ見テ敵モ目ヲ驚カス又藤原茂頼ハ将軍腹心ノ臣ナリ是モ驍勇ニシテ毎
マサニ
度能戦う軍敗テ後数日将軍ノ在処ヲ不し知茂頼思ケルハ将軍ハ定テ賊ノ為二討レ給ケント悲泣シテ云ク吾彼骸
(貌)
骨ヲ求テ方二葬送セシ但兵華一一テハ求カタシ僧侶ノ身二非ンハ不叶卜則髪髪ヲ刺テ遺骸ヲ拾ン卜思上忽出家シ
僧ノ貝トナリ戦場指テュク其路次二於テ将軍二逢奉リ甚喜且悲テ将軍ノ供奉シテ返ル君ノタメニ出家スル思切
ヒラマケ・ソ
猶感スル’一足しり又散位平国妙ハ出羽国ノ住人也渠モ驍勇ニシテ能戦常二寡兵ヲ以テ大兵ヲ敗ルコト妙ナリ未
曽テ敗北シタル事ナシ字ハ平太夫ト云俗号ヲ立テ平不負ト呼リ将軍常々彼ヲ招キテ前魁トシタマフ今日モ敵ノ
(馳力)
堅陳ヲ打破敵ヲ討事員ヲ知ラズ囲メハ敗り向う者ヲハ切テ落シ八方二当テ武威ヲ振フ処二国妙力馬矢二中テ倒
し死ス国妙馬二敷レヶレハ則馬ヲ駅返シテ起ントシヶル処ヲ敵数十人落重り終二国妙ヲ生捕タリ然モ賊ノ大将
藤原経清ハ国妙力外甥ナルュヘ不殺シテ助タリ自此後モ月々夜一一合戦更二止時ナシ
奥州ノ新国司下向付清原武則与千将軍事
八七(合)
斯シテ日月ヲ送ル処二同年十二月ノ国解二曰ク諸国ノ兵糧丼二軍兵等進発ノ名アリ卜云トモ到来スル事ナシ依
前九年の役の未紹介史料(奥野)
八八(公)
之当国ノ士民尽ク他国二赴テ兵役二不し随故二出羽国へ催促スル処二彼ノ国主源朝臣兼長モ敢テ進発ノ心ナシ
裁許ヲ蒙ルー非ンハ何ノ夷賊ヲ討事ヲ得ンヤト云云於是朝家ヨリ兼長朝臣ノ出羽ノ任ヲ止ラレテ源朝臣斉頼ヲ
出羽守トシテ令二下向一是頼義ニカヲ合セ貞任ヲ可レ誹旨被宣下処也然ルー斉頼不時ノ恩賞ヲ蒙リナヵラ貞任ヵ
猛威二怖レ全ク征伐ノ心ナク諸国ノ軍兵曼零来ラサレハ将軍重テ敵ヲ攻ル事不レ錨倣二貞違篭郡二
横行シテ人民ヲ犯シ掠ム経清ハ数百ノ甲兵ヲ引卒シ衣川ノ関ヨリ出テ軍士ヲ諸郡へ遣シ宮物ヲ納シノ其上二皆
マ・ト
白符ヲ用ユヘシ赤符ヲ用1へカラスト下知ス夫レ白符卜云ハ経清力私ノ徴符也不僚故一一白符卜云う国符ノ事ナ
リ又朱ヲ以テ国印アルヲ赤符卜云将軍不し能し制し之ヲ頼義常二甘言ヲ以テ出羽国仙北ノ領主清原真人光頼同舎
(寅)(階)
弟武則等二触テ官軍二与力一スヘキョシ催セト云卜云光頼以下猶予シテ未応催促将軍猶更珍器ヲ送り甘言ヲ以
(錐)
テ|光頼武則ハ其志切ヲ感シテ漸ク許諾シヶリ斯テ康平五年壬ヨノ春奥州ノ任ン終ル’一ツキ禁裏一一テハ高偕朝
臣程重ヲ以テ陸奥ノ新国司トス経重策彼国へ進発シ頓テ奥州二下着シテ入境里着レ任国中ノ人民モ或ハ逆徒貞
任宗任家任則任兄弟四人二与力シ残ル輩ハ又陸奥前司頼義ノ下知ニ従う故二新国司二属スル者ナシ貞任新国司
ヲ攻討へシト評議スルョシ風聞スル也聞怖シテ一戦一一モ不及逃上ル此間頼義朝臣頻リ’一兵ヲ光頼丼一一舎弟武則
(廿)(府)
一一乞う依之同年秋七月出羽国仙北ノ住人清原武則以下一万余兵ヲ引卒シ陸奥国へ越来ル将軍大一一喜悦シ玉上我
(猶)(干力)マト
兵三千余人ヲ帥上七月升六日二国符ヲ立テ八月朔日栗原郡菅岳二着陳ス此所ヲ菅岳ト云事ハ昔田村丸将軍蝦夷
(今云力)
ヲ征スルノトキ此処二軍士ヲ支整ス自其以来号シテ菅岳ト云其陳場ノ迩枕有子今卜云リ武則真人ハ先此処二軍
(マL)
ヲ立テ将軍二相号シ互二陳心懐各拭涙悲喜交至ル同十六日ニハ諸陣ノ押領使ヲ定ム先清原武貞ヲ一陳トス此武
貞ハ武則力子也又武則力甥逆志万太郎橘貞頼ヲ二陳トス吉彦荒川太郎秀武ヲ三陳トス渠ハ武則ヵ甥一一テ聟也貞
(マL)(マ秘)
頼ヵ舎弟新方二郎橘頼則ヲ四陳トス将軍頼義ハ五陳タリ五陣ノ内ヨリ三陣二分ルー陣ハ将軍一陣ハ武則真人一
陣ハ国中ノ官軍等ナリ班目四郎義候武忠ヲ六陣トス具沢三郎清原武道ヲ七陳トス此時武則ハ遥二王城ノ方ヲ拝
シ天地二誓テ云ク臣既二子弟門族ヲ発シ将軍ノ命二応ス其志節ヲ立ル’一有テ自滅セン事ヲ不し顧必ス死セント
(磐力)
欲シテ生ル事ヲ不思八幡三所臣ヵ忠丹ヲ照シ玉へ若シ惜レ命不レ到一死事カーヲ則必中テ神ノ鏑一一而死セント云
云今日鳩多飛来テ軍中旗ノ上二翔ル則将軍ヲ初テ軍士等皆拝し之唄辮山二赴キ繁井郡中山大風沢二至翌日《
八九(金)
同郡萩ノ馬場卜云処二至ル小松ノ柵去事五丁余呈ナリ今日ハ日次不宣殊更及二晩景一ノ間軍ハ明日ト定ケリ
前九年合戦ノ事上終
前九年の役の未紹介史料(奥野)
小松柵合戦付落城事
(マェ)(爾)
九○(き)
此小松柵卜云ハ宗任力叔父ノ僧良照法師力楯籠ダル柵也干此清原武貞頼貞等ハ今日柵ヲ攻討ヘキ心一一ハ非レト
(宜)
モ先シ間ノ地形ヲ見ンカタメ’一柵近ク至ルノ処二歩卒ノ車卒不二放火シテ柵外ノ宿屋ヲ焼依レ之城中ノ軍兵モ
騒キ呼テ天石ヲ乱飛ス官軍モ又是二相応シテ争上進ム将軍武則二下知シテ宣ク軍ハ明日相議スル処二俄二寄テ
当時ノ戦上已二起ル但兵ハ機ヲ侍テ発スル’一必シモ時日ヲ不撰故二宋ノ武帝ハ性亡ヲ不撰シテ功アリ好見兵機
可随早晩武則答申テ云官軍ノ念猶水火其鋒アタルヘカラス用兵之機不過此時トテ則騎兵ヲ以テ要害ヲ囲ミ歩卒
(十ヵ)
ヲ以テ城柵ヲ攻ル抑此小松柵卜云ハ東南ハ深流一一シテ碧潭ヲ帯西北ハ壁立メ青岩ヲ負う歩卒騎馬等相トモ’一疲
し泥ム干此官軍ノ中ヨリ深江是則大伴員季卜云者手ノ郎従二千余人ヲ引卒シ剣ヲ以テ山ヲ穿チ鋒ヲ取テ杖トシ
巌二登り忽柵下ヲ切壊城内へ乱入刃ヲ合セ関ヲ作り喚呼テ攻破ル夷賊等大二騒キ散々二敗走ス千時安倍宗任八
百余騎ヲ卒シ柵外へ出テ相戦二将軍ノ左陣頗ル疲倦テ宗任力荒手ヲ不能防依之将軍下知シ五陣ノ軍士平眞平菅
(鰹)
サカヘ
原行基源眞清刑ヲ部
千富大原信助清胤顛照趣騨藤原兼成橘孝忠源親季二階堂維兼栗林貞次同将次藤原朝臣時経
丸子宿禰弘攻藤原光貞佐伯元方平経貞紀季武安倍師方等ヲ召シ彼勢兵ヲ合セ加テ相戦シム此輩ハ皆将軍ノ摩下
坂東名ヲ得ダル暹兵トモナリ今日ハ殊二武則力一万余ノ軍兵攻倦タルニ依テ其代トシテ将軍ヨリ択出サレ又羽
州ノ諸兵力見物スル処ナレハ万死一一ナッテ一生ヲ忘レ戦ケルホト’一終二宗任力大軍ヲ攻破ル其軍立ノ烈シキソ
(十ヵ)(襲)
偏二雷ノ落ルカ如シ故二夷賊等敵封スル事不叶シテ敗軍ス又将軍方七陣ノ頭武道ハ要害ノ所二支ヘヶル’一宗任
力精兵三千騎遊兵トナッテ裏来ル干時武道力兵向上戦テ互二死傷スル者多シ将軍ノ勢又走来テ武道ヲ救う依テ
夷賊等弥防ク事不叶城ヲ捨テ逃走ル則火ヲ放テ其柵ヲ焼破ル討捕処ノ賊敵百六十四人創ヲ蒙ル者二百五十余人
本ノマ魁
ナリ依テ士卒ヲ体メ干戈ヲ整テ進テ攻討事ヲ制セラル
i
貞任逆寄干将軍之屯f貞任敗北ノ事
小松柵没落ノ後森雨一一合将軍ノ軍勢徒二日数ヲ送ル其間二根尽テ軍兵飢二及フ宗任諸卒二下知シテ磐井以南等
ノ郡々へ数千兵士ヲ指向テ官軍ノ根道ヲ取切人物雑具等ヲ遮り奪う将軍囲之件ノ賊徒ヲ追捕センカ為一一兵士千
余人ヲ分テ栗原郡二道シ又磐井郡中村辺二置シム其陳ヲ去事四十余里迦遮唾此辺ハ耕作ノ田畠民屋頗ル饒也則
(製)
兵士千余人ヲ遣シ禾稲等ヲ刈セテ軍料トシヶル程二営中二止ル者僅六千五百余人ナリ貞任此由ッ聞テ軍将等二
語ケルハ此頃伝聞二官軍根乏ク成テ軍士四方へ散乱シ糧ヲ求メ営中軍士千二不過卜云リ此節我大軍ヲ以テ裳討
(宜)
ハ必ス敵敗レナントテ同年九月五日精兵八千余人ヲ引卒シ地ヲ震テ攻来ル於是武則真人進出将軍二慶賀シテ云
ク貞任既二運尽テ謀ヲ失ヘリ夷賊ノ首ヲ梁セン事今日ニァリ将軍ノ宣ク其思慮何卜云事ソャ官軍ハ四方二分散
シテ営中兵少ナシ敵急一一大勢ヲ率上来テ襲攻是必勝事ヲ計ルカュヘナリ然ヲ足下一一ハ謀ヲ失フト云リ其心ヲ聞
ン武則重テ云ク官軍ハ客兵タルヲ以テ根常二乏シ一旦鋒ヲ争ソヒ雌雄ヲ決セント恩テトモ夷賊等若険阻ヲ守り
進ミ戦スンハ官軍ハ頓テ飢疲久敷不能攻是険阻ノー人ハ平地ノ廿人二封スル故也此故二良将ノ城攻ルハ十双倍
(マL)
愚将ノ城ヲ攻ルハ二十双倍ノ相違アリ是古法也然ルー今味方ハ大軍トイヘトモ敵兵一一ハ倍セス若夷賊等堅ク城
ヲ守テ変二応シ気一一ノリ味方ノ糧ノ通路ヲ絶モノァラハ官軍攻倦剰サヘ根尽退散スル者マテモ却テ敵ノタメ|一
九一(空)
計レント武則常一一是ヲ怖ル然ル’一今貞任等要害ノ地利ヲ放レテ遥々此二馳寄客戦ヲ好ム偏二天ヨリ将軍ヲ福ス
前九年の役の未紹介史料(奥野)
九二(空)
(マ鷺)
(践)(恥)ヲロソカ
ル’一アラスャ又賊兵ノ気ヲ見ルー敗スヘキ相アリ官軍必ス勝事ヲ得へシト申ス将軍ノ宣ク足下ノ云ル事尤是也
我モ左思ヘリ昔勾賤ハ萢霊力謀ヲ用テ会稽ノ趾ヲ雪ク事ヲ得タリ今又我ハ武則ノ忠一一ヨッテ朝威ノ嚴ナル事
(蛇)
ヲ顕サント欲ス今日ノ軍二於テ身命ヲ惜ム事ナカレト宣フ武則力云ク今将軍ノタメニ命ヲ捨ルコト鴻毛ヨリモ
軽シ寧賊徒ノ賤シキ|一向テ骸ヲ晒ストモ敵二押付ヲ見セテ生ル事不思トイフ去程二将軍陳ヲ張事常山ノ地勢ノ
如シ士卒ノ喚呼声天地ヲ響カス両陳相戦鋒ヲ交へ白刃骨ヲ砕ク其戦午刻ヨリ酉二至干時八幡太郎義家加茂二郎
義綱兄弟如雲集如風走自ラ斬将抜旗貞任力大軍是一一砕易シ敢テ進ム事ヲ得ス終二以テ敗北ス官軍勝二乗テ北ル
(錐)
ヲ追う夷賊等磐井川二至テ途二迷上或ハ高岸ヨリ落或ハ深淵二転入溺漂処ヲ襲討戦場ヨリ河辺マテ追討スル処
ノ賊敵都テニ百余人奪取馬三百余疋也将軍武則二不知シ玉ヒヶルハ深夜呈暗賊敵猶乞不僥今夜必ス追放へシ緩
ニセハ賊敵明白威ヲ振ン武則尤卜肯上精兵八百余人ヲ以テ暗夜二貞任ヲ尋追将軍ハ自是営二返り且士卒ヲ饗応
シ且医師大勢陳中ヲ廻ラセ疵ヲ蒙リ傷ム者ヲ療治サセテ自ラ軍士ヲ愛又依之軍士等皆云意為恩使命依義軽今将
軍ノタメ死スト云トモ恨ナシトテ一同忠切ヲ尽サン事ヲ励ミヶリ
将軍攻落石坂衣川大麻生野瀬原鳥海等之諸柵事
去程二貞任ハ高梨ノ宿石坂柵二逃入シヲ武則計略ヲ廻ラシ間者五十人ヲ分チ潜二西ノ山ヨリ貞任力軍中へ忍入
ン俄二火ヲ挙サセ其火ノ光ヲ相図トシ武則力軍兵トモ三方ヨリ時ヲ作テ攻寄タリ貞任力軍兵ハ未臆病神ノ覚サ
ル’一又不意一一軍起リシカハ城中大二騒動シ思々’一打テ出死傷スル者太多貞任防戦不叶高梨ノ宿井ニ石坂ノ柵ヲ
捨テ衣川ノ関二逃入ケルカ歩卒騎兵途ヲ失上岩一一行当り谷底へ落人或ハ嶮岨ヲ伝兼テ転落ルホト’一僅三十余町
ノ間二倒し死スル人馬死モ乱麻ノ如シ肝胆地二塗シ膏臓ヲ野ヲ潤ス同六日午刻将軍高梨ノ宿二至テ則衣川ノ関
(関力)
ヲ攻ン卜議セラル件ノ関ハ元来隙路嶮岨過峪函之固一人拒嶮万人不能通其上樹ヲ切テ道ヲ塞キ岸ヲ崩シテ路ヲ
絶剰へ霜雨降テ晴ル時ナク河水洪溢ス然しトモ三人ノ押領使攻之武則ハ攻閑道頼貞ハ攻衣川道武則ハ攻関下道
未刻ヨリ戌時二至マテ攻戦う然処二嶮難ノ地タルュヘ官軍死スル者九十余人創ヲ被ムルモノ八十余人ナリ武則
ハ馬ョリ下テ岸辺リヲ廻り見テ手ノ郎等久清ヲ召テ下知シヶルハ此川ヲ下墨見ル|一向岸二曲レル木アッテ枝ハ
川ノ面二掩フ汝ハ生得軽業ヲシテ常二飛超ヲ好ム何トモシテ此岸ヲ伝へ渉リ倫二夷賊ノ営二入テ正二其塁ヲ焼
へシ敵営二火起ルヲ見ハ必ス諸軍士驚キ走ン我其時兵ヲ帥シテ関ヲ被ント云久清力云ク某力死生ハ君ノ仰二随
ントテ則鎧ヲヌキ放火ノ道具井二筒ノ火ヲ髻二付テ河辺一一ユキ前ナル木枝二上リシカ猿猴ノ跳梁スルカ如クシ
向岸ノ曲ル木ノ枝二取付縄ヲ引葛ヲ丹居三十余人ノ兵士ヲ引越尽ク渡ル事ヲ得タリ則潜二藤原業近力陳ノ柵一一
至テ俄火ヲ放テ焼立タリ大藤内業近轤旺睡雌走り終二一度モ不戦シテ烏ノ柵二逃入此柵ヲ専一卜保ッ坂久清等
カタメ’一殺サル、者七十余人二及フ同七日関ヲ破り胆沢郡白鳥村二至り大麻生野及上瀬原ノー柵ヲセム寄手ハ
処々ノ軍二柵ヲ破り気二乗テ息ヲモ不継攻付々々鯨波ヲ作り曳々声ヲ出シ勢上掛テ攻シカハ敵拒兼テ大麻生野
(倍)
瀬原ノ両柵モ攻破ラル此時賊徒一人生捕彼者二敵ノ事モ尋ケレハ答日ク度々合戦ノ場所ニテ賊ノ将卒死スル者
(マL)
数十人中一一モ散位平孝忠金師道安信時任同貞行金依方等ハ皆是貞任宗任力一族驍勇驍桿ノ精兵一方ノ大将ナリ
(棄)
卜申ス処聞ノ味方イョ々気ヲ得タリ同十一日ノ鶏鳴ヨリ鳥海ノ柵ヲ攻ル其行程十余里也官軍未攻来前一一貞任経
九三(彗一)
清等ハ柵ヲ奔テ逃走厨川柵ヲ保シ将軍ハ鳥海ノ柵二入暫ク人馬ノ息ヲ休ム係ル処二柵中陳屋二醇酒数十樽アリ
前九年の役の未紹介史料(奥野)
(マェ)
九四(茜)
士卒等争上奪テ是ヲ呑ントシヶルヲ将軍制シテ若賊徒等相計毒酒ヲ置テ官軍ヲ塁ロシセントスル者ナラン先試
(梁ヵ)
二生捕ノ雑人等二飲セ見ヨトテ数甑ノ酒ヲ生捕トモ’二々呑セラレシカトモ敢テ害モ無リヶレハ軍勢尽ク飲之
(宜)
万歳ヲ唱へ示ケリ干時将軍武則二向テ宣ケルハ頃年鳥海柵ノ名ヲ聞テ其体ヲ見ル事不叶シ’一今日足下ノ忠切二
(旅力)
依テ初テ此柵二人事ヲ得タリ御辺予力顔色ヲ見ルコト如何ト問レヶレハ武則力云ク賞客宣ク王命ノ為二節ヲ立
ラルヘシト櫛風浴雨甲冑ニハ蚤凱ヲ生シテ軍族二苦ム事既二十年天地其忠ヲ助ヶ軍士又其志ヲ感ス此故二賊徒
(マL)(宜)
潰走コト積水ヲ如決愚臣ハ鞭ヲ挙テ相従ノミ也但将軍ノ形容ヲ見ル’一白髪却テ半黒シ若厨川柵ヲ破り貞任ヵ首
ヲ見ハ雷髪尽ク黒ク成夕マヒ容貝肥満シ玉ハント申ス将軍ノ宣ク足下子息一族等心ヲ合セ大軍ヲ発シ堅ヲ破り
(謝)
要害ヲ砕キ自ラ矢石二中テ強陳ヲ破り要害ヲ抜コトヲ得タリ柳功ヲ吾二謀ルコトナカレ但白髪却テ半黒卜申ス
予力心モ然リト宣フ武則承テ舜射ス其後軍兵ヲ引卒シテ正任力篭ル処ノ和我郡黒沢尻ノ柵ヲ襲攻ル官軍ハ毎戦
二利ヲ得テ城柵ヲ抜1へ射殺処ノ賊敵三十二人疵ヲ被ル者不知其員此勢二乗シ鶴脛鴨ノー柵ヲモ尽ク攻破シヵ
ハ官軍ハ勢上猛二振ヘハ賊徒ハ又鷹一一合ル碓子ノ如シ
厨川軍付貞任被生捕井千代童子武勇事
去程二将軍ハ所々ノ柵ヲ攻破軍士ヲアッメ同十四日一一ハ厨川柵二馳向十五日ノ酉刻二至ル両城ノ相去コト僅七
八町計也則陳ヲ結上翼ヲ張テ終夜守之件ノ柵西北ハ大ナル沢東南ハ又大河也其河岸ノ高キ事三丈余如屏風時テ
道ナシ其中二柵ヲ築キ其上模ヲ挙賊徒ハ身ヲ碧潭二投首ヲ白刃ノタメ’一刎ラレント堅ク守官軍是ヲ事トモセス
川ヲ渡り谷峰ヲ越テ競上掛テ攻敗ス依之敵数百人戦死ス然しトモ賊徒必死ニナリ刃ヲプリ矢ヲ飛セ囲ミノ中へ
突出テ生ントイフ心ナシ故二官軍若干討死ス武則軍士二下知シ囲ヲ解テ夷賊ヲ城ヨリ出スヘシ是敵ノ気ヲ一一一
セサル計事ナリト申ス官軍即囲ミヲトク故二敵ハ忽外心ヲ出シ不戦シテ逃走ル然ヲ官軍横合一一入テ尽ク打殺ス
此時藤原綱(経)情ヲ生捕タリ将軍頼義大悦タマヒ渠ヲ召テ宣ケルハ汝力先祖相伝テ頼義力家僕タリ然二年来
ノ朝恩ヲ忘レ旧主ヲ蔑如一一シ大逆無道ノ賊二与シテ敵対スル大罪人子細ヲ只今申スヘシ且又白符ヲ今日用ル事
得ルャ否ャ経清頭ヲ伏テ不能返答将軍深ク悪之故二鈍刀ヲ以テ其首ヲ摺キル是経清力苦ミ痛ムコトノ久シカラ
(マL)
ンヲ計テナリ去程二貞任ハ劒ヲ抜テ数万人ノ中へ破テ入四角八方へ切テ廻ル’一官軍数十人を殺ス其猛勇目ヲ驚
セリ然トモ官軍大勢寄合セ終二貞任ヲ生捕則大楯一一ノセテ強兵六人ニテ界悩漸ク将軍ノ前二来ル其長六尺有余
(貌)
腰ノ周り七尺廻リ容貝魁偉皮膚肥満シタリ軍兵数万ノ前一一テ頼義ハ貞任力罪ヲ攻合テ殺之又貞任力弟比浦六卜
重任ヲモ生捕テ来リ詠數ス但シ宗任ハ自ラ深泥ノ中ヲ逃遁テ逐電ス干此貞任力息千代童子ハ生年十三歳貝美麗
(貌)
也甲冑ヲ着シ柵外へ出テ戦う’一渠少年ナリト云モ驍勇ニシテ祖父ノ風アリ官軍渠二討ル、事若干ナリ然トモ大
勢二取込ラレ渠モ終二生捕ラル将軍ハ千代童力幼稚ニシテ武勇ヲ励シ且容貝ノ万人一一スクレ美麗ナルヲ憐懲シ
(券ロヵ)
タマヒ欲宥之干時武則真人諫テ云ク将軍小義ヲ思テ巨害ス忘ル事ナカレ毒虫ヲハ脳ヲ砕テ害ヲ除ク者ナリト申
ケレハ将軍尤卜仰ラレ則是ヲ課セラル父貞任ハ三十四歳千代童ハ十三歳奥州昌盛ノ栄巷一朝ノ敵風二散乱シテ
切ラレヶルコソ哀ナル城中ノ美女童部数千人綾羅錦繍ヲ身ニマトヒ金翠ヲ粧上烟二咽テ泣悲将軍渠ヲモ助出シ
テ各軍士二賜之但柵ヲ破ルトキ則任力妻一人三歳ノ男子ヲ懐キ夫二語テ云ク君既一一今日ヲ最期トシタマフ妾濁
九五(芸)
生残テ何益カァラン君ノ前一一テ吾先シ死シテ貞女ノ心ヲ顕サントテ小児ヲ抱キ忽チ深淵二飛入テ死シタリ誠一一
前九年の役の未紹介史料(奥野)
烈女ト云ツヘシ
貞任首献京都付一族降参井勲賞事
ノロ
ヘ
、
ー
一
〆、
プL
出シ硫之使者見之テ涙ヲ流シ泣咽テ云ク我主君存生ノ時是ヲ仰ク事高天ノ如シ豈汝ラカ垢付ル櫛ヲ以テ恭クモ
彼首ヲ実検二入ルノ刻櫛硫シテ上覧二入へシト称ス使者力云ク汝ラ私ノ櫛ヲ以テ是ヲ椀ルヘシト也槍夫則櫛ヲ
驍勇騎射ノ巧ミ義家二次リ同六年二月十六日貞任重任経清力首三級ヲ京都へ献ス其使者一一ハ貞任従者ノ降人也
ヲ射貫其矢向フノ木一一タツ武則大二驚テ云ク是神明ノ変化也凡夫ノ所為ナランャト恐怖ル舎弟加茂二郎義綱モ
卜仰ケレハ即武則ノ着領ノ堅鎧三領重子是ヲ木ノ枝二掛テ所望ス義家矢ヲ取テ是ヲ発スル’一三領ノ鎧裏表六重
(ネ)
一一御弓勢ヲ拝見スルニ矢二中ルモノ倒し死セサルハナシ我慥力’一御弓勢ヲ試ミ度卜所ス義家尤望ミ’一随フヘシ
冑ヲ着スル武者ヲ射ル’一彼矢二中ル者不死卜云事ナシ故二武則ハ義家一一申テ云ク君数年戦場へ向ヒタマフ度毎
任力許二隠し居タリケルカ宗任等降参スルョシヲ聞テ程経テ彼トモ出来ル抑今度合戦ノ毎度力八幡太郎義家甲
(速力)
未出来又僧良昭ハ戦場ヲ遁レテ出羽国二至りシヲ守護斉頼生捕之云云彼正任初メハ出羽守光頼力子大嶋太郎頼
弟家任則任剛塞翠散位安倍為元金為行同則行同経永藤原業近同頼久同遠久等此外貞任ヵ家族遺類ナシ正任一人
ハ安倍貞任同重任藤原経清散位平孝忠藤原重久散位物部ノ惟正藤原経光同正綱同正光也降参ノ龍ハ安倍宗任舎
任力舎弟家任トモ降参ス又数日ヲ経テ宗任以下ノー族九人降参ス同十二月十七日ノ国解二日ク切得処ノ賊徒ニ
既二厨川城攻落サレ貞任千代童子ヲ初メ其外門葉トモ謙セラレテ後時日モナク宗任力伯父赤村ノ介為元井二宗
九
(衛)
椀ル事ヲセンャトテ悲哀二不忍見聞スル人皆涙ヲ流シ其忠信ヲ感ス同廿五日除目被行勲功ヲ賞セラル頼家朝臣
サクワン
ハ正四位下伊与守二任シ太郎義家従五位下出羽守一一ナルニ郎義綱ハ左才門尉一一ナル武則真人ハ従五位下二叙シ
九七(老)
鎮守府将軍二任ス首献スル使者藤原秀俊右馬允一一ナル物ノ部ノ長頼陸奥大目二任ス其外勲賞普ク新夕’一諸士
へ一付ハル
前九年合戦終
前九年の役の未紹介史料(奥野)
平成四年度国史学専攻研究室だより
◎卒論研修
外交史料館では神山編纂室長の講演を拝聴し、その後、吉田茂記念館に展示されている近代外交史料を館員の
○二年生今年度の二年生の研修は、平成四年五月二十九日(金)、外務省外交史料館及び大倉集古館において行われた。
説明を受けながら見学。その後、大倉集古館見学の後、午後三時半現地解散。
○三年生今年の三年生の研修は三班に別れて、平成四年十一月十六日(月)~十八日(水)の二泊三日の行程で行われた。
引率指導、奥野教授、阿部教授、佐々助教授、大門技術職員。
房総方面班(古代中世班)奥野教授と大門職員の引率で館山国民休暇村における卒論指導のほか館山城跡、安房国分
寺、洲崎神社、石堂寺、安房神社、清澄山、久留里城、上総国分寺、邪古寺などの実地検証が行われた。
飛騨高山班(近世班)阿部教授の引率で飛騨高山市内と岐阜市内の実地研修および宿舎において卒論指導が行われた。
三浦半島方面班(近代班)佐々助教授と奥田晴樹講師の引率案内で横浜市内、横須賀、観音崎、浦賀、葉山における
史蹟の実地検証と宿舎において卒論指導が行われた。
今年度は早稲田大学教授で文博の深谷克己先生にお願いして、平成四年十月二十九日午後三時より五時まで柴田会館三階
◎国史学専攻講演会
研修室において開催された。演題は『農書に見る江戸時代』であった。
◎考古学実習
夏季実習は平成四年七月二十五日から九月四日まで栃木県南河内町薬師寺(下野薬師寺・古代寺院跡の発掘調査)及び安
蒜郡田沼町(縄文時代から室町時代までの複合遺跡の発掘調査)の二か所で行われた。参加学生二十六名。
春季実習は平成五年二月十四日から三月九日にかけて栃木鹿沼における遺跡分布調査と下野薬師寺の発掘調査が並行して
九九(究)
行われた。
一○○(一s)
今年度の史料学実習は平成四年六月に栃木県今市歴史民俗資料館(一泊二日)、七月栃木県馬頭町町立郷土博物館(三泊
◎史料学実習
四日)において二回、実施された。
◎教員異動
西 沢 奈 津 子 非常勤講師平成五年三月退職
教授平成四年四月l平成五年三月国内研修留学。
沓沢宣賢 非常勤講師平成五年三月退職
大川清
本学法学部職員、才野基彰氏を通じて才野源士氏所蔵(阿部勝平氏旧蔵)古文書の寄贈がありました。この文書は、摂津
◎古文書
書の
の寄贈
壬申の乱と古道について
心に1
浮世絵にみる江戸庶民の生活l広重図版を中
蘇我政権の史的性格について
役小角伝承の史的性格について
相馬御厨の研究
関東地方における寵目痕土器の研究
義昭栄敦
良
郎博一史淳一
成五年一月二十三日寄贈。
百済役の疑問について
榎本脱走艦隊の動向l洋式軍艦の存在意識l
麻田藩の所領であった現岡山県里庄町付近の江戸後期から明治期にかけての農村文書がその中心となっているものです。平
紀子
大井関桜栗漆
塚内
井原原
◎平成四年度卒業論文題目一覧
智子
四境戦争における長州藩の軍制
幕末期における樺太国境論議について
野村靖と松下村塾
平安貴族女性の美人像と出産の関係について
博愛社について
浩二
宏之
美紀
一宅一
孝之
波石田堀原蛯田
塚田村田
原中
野元
成田
藤田
後宮女官采女l古代を生きた女性達l
藤島
遠州民会と地租改正事業について
吉川
川路聖謨と日露和親条約
田中靖久
渡辺弘行
津川知恵
山下典之
小林
織田政権の楽市楽座政策について
船橋佳奈子
日本の大陸進出と騎兵制
平安時代における食物考察
江戸の庶民に対する倹約令
女蔵人lその起源と職掌についてl
新仏教と埼玉
世田谷ポロ市と周辺の庶民
幕末越前藩の藩政改革
大正デモクラシー期の民衆の動向l成金出現
鈴木
慶一
智彦
戦時下における肥料供給l過燐酸石灰を中心
シャクシャインの乱について
縄文中期における甲信地方の立体土偶
や米騒動に見るl
千葉
太郎
横浜鉄道の創設について
中世における世俗教育について
浜崎
としてI
岩倉使節団について1大隈の発議を中心にl
孝徳紀の「軽神道」について
沼田
山内
佐藤
金内
光弘
章弘
公子
武史
太平記についてl修験道と作者を中心に’
聖徳太子の造寺伝説
孝徳紀の東国「国司」詔の一研究
織田政権下の堺
ての研究
日露戦争における日本陸軍の補助輸卒につい
加納美奈子
戊辰戦争における新発田藩の動向
十八世紀後半の商業の展開l大坂の経済的位
三橋幸夫
『男衾三郎絵詞』と武蔵国武士
武田家の中の高天神城
西上野の山城と狼煙台
江戸時代の勧進相撲l勧進相撲にみる時代背
花岡貴一郎
戊辰戦争に果たした城の役割
智子
景とその歴史的位置づけl
秋山邦彦
中本
近世村落における見懲らし
戦国期における下野宇都宮氏についてl広綱
ー
林要
鍋倉利行
置I
幕末期における川越藩の相州警備
石島一
へ
幕末の横浜についての一考察
江沢崇
主として高麗氏を中心にI
古代における大陸系の人々の移住についてl
一
と佐竹氏の関係を中心にl
一
小池
‐
新選組と小島家の関係
豪族居館の研究
一
江戸末期武蔵国荒井村硝石生産の実態
国本俊明
山崎吉夫
井上有子
会田哲郎
田中直人
佐藤秋乃
石塚幸雄
鈴木竜司
深沢貞雄
小峰秀晃
千裕久孝康
洋将雄志代努
東宏和
一
土佐勤王党に見る土佐藩の尊王連動
新潟開港と新潟港修築について
○
室田
平井
圭朋
一美悟
御座岡幸治「記註撮要(御目付申渡)」にみる目明かしに
採用される者たち
岩松浩司長屋王政権の成立と崩壊
上野隆子織田信長の金森での対応についてl藤木、峰
岸、神田三氏の論文を中心にl
中村光一郎親王創始に関する一考察
白井香菜子玉川上水における周辺農村の役割
域を中心としてl
大橋和久中世食品流通史および渡来銭の研究l畿内地
考察l北陸諸国の散町、相対請地を中心にl
武田伸一近世城下町における士庶混住地区に関する一
田沖浦賀水道の海難救助l
清宮文昭近世後期の海難救助者の救助義務と報酬l下
沼尻順子
一○二(一三)
近代日本を支えた農村婦人I丸岡秀子女史の
木下河岸における河岸出入一件とその構図
功績をたどってl
大津皇子謀反事件についての一考察
中世の東国と私年号「延徳」
三浦一族について
田沼意次とその時代
甲斐国八代荘停廃事件の研究
持統天皇の吉野行幸について
古沢千恵子
長沼香純
高坂博子
榎本靖子
小河圭介
森靖太
室町幕府と土倉・酒屋
後北条氏の水軍について
日本書紀天智九年夏四月癸卯条についての一
縄文時代漁業用錘具の研究
大輔
文治地頭の設置について
天智天皇政権の成立について
源頼朝の東国経営と御家人支配
佐々木茂
中村智洋
石川和彦
千葉隆司
中村悦子
欣士
考察
浜田
育昭
星野修火の見櫓について
松本
塩尻環七世紀中葉における日本の仏寺の役割につい
金子
て
宇都宮百合子天皇号の成立時期について
江藤新平と征韓論
京都守護職における松平容保の立場
中世軍事組織の研究
戦国時代における佐野氏の動向とその後
大輔
山田寺仏頭
長田
明久
将直
明治初期における服装の変化と背景
印章社会
山本理恵秋田地方における朝鮮移住民についての一考
小野
勝博
征司
近藤
智子
英治
内藤
阿部
中西
麻生
察
前田剛捕虜に見る日露戦争
高島秀文水戸天狗党争乱I天狗党の日光進出について
田辺朋子木曽義仲の軍勢の研究l上洛過程における寺
社勢力について1
武田氏滅亡の原因について
平城京における東市西市について
宮中での古代音楽
イギリス船来港問題と浦賀奉行の動向
奈良
山口
船橋
吉海
阿部
真一
朝洋
宗男
丈治
実
巌
中世日向国における伊東氏の支配について
「師守記」について
鎌倉仏教と権力の結びつきについて
小松帯刀
愛知県中島郡稲葉騒動
近世における津久井県の位置
発
前期蝦夷地幕領時代におけるエトロフ島の開
畿内における守護領国制について
井上
小林昇
浄土曼茶羅lその成立と考察l
佐々博雄助教授(国史講読Ⅳ、国史演習I。Ⅱ、国史特殊講義Ⅷ)
一○三(一三)
阿部昭教授(国史概説下、国史講読Ⅲ、国史演習I。Ⅱ、国史特殊講義Ⅵ、文書館学、史料学実習I。Ⅱ)
奥野中彦教授(国史概説上、国史講読I、国史演習I。Ⅱ、国史特殊講義Ⅳ)
大川清教授(平成四年度国内留学)
平成四年度国史学専任教員専門担当科目一覧
国分氏の研究
北条執権政治成立過程とその構造について
太田区内の古東海道
高相小星玉野但田延
橋本山野川崎野中末
由
良
大隆尚妙樹正将
典毅輔昌美子彦史憲
東洋史研究室だより
一○四(一屋)
東洋史の学生全員を対象とする行事に博物館研修・東洋史講演会があり、このほか希望者が参加する関西研修旅行、四年
生に係わる卒論中間発表会・卒論研修旅行・卒論口頭試験問がある。平成四年度は次のように行なわれた。
例 年 、 東 洋 に 関 す る 収 蔵 品 の 多 い 博 物 館 を 選 ん で 実 施 す る が 、 今 年 度 は 東 京 国 立 博 物 館 で 特 別 展 示 の 「曽侯乙墓」を見学
博物館研修〈五月七日(木)〉
し、其の後三・四年生に対して卒論作製に関する指導が行なわれた。
関西研修旅行〈九月一三日(日)~一五日(火)〉
奈良市の飛火野荘に二泊しつつ藤井有鄭館・天理参考館・寧楽美術館を参加者全員で見学し、其の合間に各々京都や奈良
の寺院・史跡を経巡った。例年、この行事は、計画から実行まで幹事役の学生が中心になって行なうが、今年は福田孝史・
清野妙子両君に負うところが大きかった。
四年生・専任教員の全員が参加して階段教室で開かれた。学生は事前にレジュメを用意して一人ずつ発表し、其の後で質
卒論中間発表会〈一○月三○日(金)〉
問に答える形をとった。発表者が五○余人に及ぶ為、各人の持時間は一五分程度だが、各々自分の進捗状況を知る貴重な機
会だった。
東洋史講演会〈二月一八日(水)〉
今回は東京外国語大学助教授八尾師誠氏を招き「国民国家・エスニシティそしてイスラムー中東現代史のゆくえ’」と題
して講演して戴いた。イラン革命時に現地に滞在しておられた氏の貴重な体験やスライドに基づいた講演は学生に強い刺激
をあたえた。
卒論研修旅行〈一二月一七日(木)~一九日(土)〉
関西研修旅行と同様に幹事役の学生(田村恵子・中條美幸・三田照代・中村美津子の諸氏)が中心になって準備をすすめ、
千葉県鴨川の鴨川館を会場として行われた。発表は延べ一○時間余に及び、活発な質疑応答が交された。発表の合間に誕生
寺・鯛の浦・大多喜城跡等を見学した。
「元の南宋征服と色目人」
「周公旦に関する一考察」
松本徹
「漢初の功臣について」
「戦国時代の斉・三晋の外交政策」
花島寛
「雍正朝の対漢人政策について」
奥泉
大部
一○五(一室)
「後周の外交政策について」
「香妃伝説考」
泰・天順朝を中心にI」
「明とモンゴルの交易についてl正統・景
「始皇帝に関する一考察」
「アンダに関する一考察」
中心としてl」
「毛文竜の行動とその影響1丁卯虜乱以前を
「張篭の西域遠征について」
「戦闘法の変化と秦の統一について」
「王朝国家の統治機構と富官の役割について」
「林則徐のアヘン取り締まり政策について」
「ガルタンのジュンガル統一をめぐって」
中村美津子
木村正彦
「明代前期の官官に関する一考察」
「前漢代の商人について」
「黄巾の乱と太平道」
河南充
三田照代
「清代の科挙について」
中條美幸
根岸俊雄
五日間にわたって実施されたが、一人二時間に及ぶことも少なくなく、早朝から夕刻まで真剣かつ詳細な試問が行なわれ
卒論口頭試問〈二月一二日(金)・’五日(月)~|八日(木)〉
「曹魏の兵制について」
今年度に提出された卒業論文は次の通りである。
「年美尭断罪事件について」
「漢楚の争覇戦における項羽の敗因について」
吉野健一
坂本博子
加藤佳恵
山川正樹
中島充紀
高橋佳苗
鶴丸俊樹
板垣哲也
矢野真樹
「乾隆朝の安南遠征について」
「嘉慶白蓮教乱の一考察」
潮田
石橋寛幸
石割勝己
井戸茂樹
福山勝基
「義和団の勃発とその背景」
「明武宗皇帝とその側近について」
敦
公
子滋治
和和
浩美
「清露の国境紛争l雅克薩を中心としてl」
谷口亜沙子
方本
0
上野裕介
山岡
た
中村浩司「清太祖の火器導入について」
池上祐子「劉理の対立勢力について」
田村恵子「シルク・ロードの開拓と張飛の役割」
高橋敏伸「オゴタイ汗国とハイドゥ」
酒井輝尚「北宋の度牒制度について」
斎藤泰司「元朝の漢地支配と本裕法」
いて」
石井努「西方世界におけるモンゴル帝国の評価につ
I」
増田誠「黄巾の乱と曹操l青州黄巾軍を中心として
長谷川学「始皇帝と秦王朝の伝統的側面について」
高坂洋子「モンゴル遊牧民に関する一考察」
白須野美「王葬に関する一考察」
平成四年度東洋史学専任教員専門担当科目
小岩井弘光(教授)
「清代文武官の冠服制度について」
一○六(一実)
小野達也
前田将志
松本伸朗
矢崎大助
「広東駐笥期の林則徐について」
「元代兵制の一側面」
「唐代の奴蝉について」
「北宋の水軍について」
「宋代の風習と祭祀」
阿部真一
吉田栄一
「清末外交の一側面」
「清初の薙髪令について」
三田章博
亀谷創
「明代の火器について」
「明代中期の官僚制に関する一考察」
「明代の海上交通について」
合津今朝義
「清代官僚制の一側面l李衛を中心としてl」
設楽昌希
八木明子
鍋島進
史学概論釦東洋史研究法I・東洋史特殊講義Ⅶ。東洋演習I・東洋史演習Ⅱ
藤田忠(教授・専攻主任)
東洋史概説I・東洋史研究法Ⅱ.東洋史特殊講義Ⅱ.東洋史演習I・東洋史演習Ⅱ
石橋崇雄(助教授)
東洋史概説Ⅱ。東洋史研究法Ⅲ。東洋史特殊講義Ⅸ・東洋史演習I・東洋史演習Ⅱ
奥山憲夫(専任講師)
東洋史講読・東洋史特殊講義V・東洋史演習I・東洋史演習Ⅱ
国士館大学史学会会則
学研究室内に置く。
第一条本会は国士館大学史学会と称する。
第二条本会は事務局を国士館大学文学部国史学・東洋史
第三条本会は歴史学を研究し、その啓発と普及に努める
ことを目的とする。
研究会・講演会の開催。
本会は前条の目的を達成するため次の事業を行う。
その他必要な事業。
機関誌の発行。
第四条
一一一
一一
本会の会員は左記の通りとする。
てあてる。
第八条本会の経費は会費・助成金・寄付金その他をもっ
一本会則は委員の三分の二以上の賛成をもって変
十一日をもって終わる。
第九条本会の会計年度は四月一日に始まり翌年の三月三
付則
更することができる。
二細則は別に定める。
三本会則は平成五年四月一日から実施する。
國士舘史學・創刊号
倉敷印刷株式会社
森下三‐一九‐一五
〒噸東京都江東区
國士舘大學史學會
世田谷四’二八‐一
〒耐東京部世田谷区
代表大川滴
國止舘大學史學會
平成五年五月十日発行
編集兼
国士館大学国史学・東洋史学専攻専任教員。
発行人
第五条
国士館大学国史学・東洋史学専攻の卒業唯で入会
国士館大学文学部国史学・東洋史学専攻の学生。
印刷所
発行所
一一一
本会の役員の任期は一年とする。
監査二名。
委員若干名(うち一名を代表委員とする)。
本会に左記の役員を置く。
その他入会を希望して委員会の承認を得た者。
を希望する者。
一一
四
第六条
一一
第七条
恥
4■■
Preface………………………………・……………・…・OKAWAKiyos/zi
AStudyonLi-systemReformationofEmperorMing(明帝),
concerningShang-Ling'sLi(上陵の攪)
Fu"TA7bdasノ"
AnnualFunctionsandoffDayPracticesintheEarlyModernAge,
onthe'@Okoto''SystemofVillagesaroundEdo.
ABEA"im
NewlntoroductionofMatirialsConcerning',ZenKuNennoEki"
(前九年の役)
-IntroductionandReprintingofKano's(狩野)Library
"ZenKuNenKassennokoto"(前九年合戦の事)-
OK[ノⅣOⅣα虎α〃た0
NotesandReports