なぜ老舗を問題とするのか?

なぜ老舗を問題とするのか?
―老舗の社会史と民俗学における「伝統」―
塚原伸治(日本学術振興会/東京大学東洋文化研究所)
本発表の目標は、老舗の「伝統」を研究対象とするうえでの学史的・社会的意義を考察し、ひ
いては民俗学から「伝統」について論じる可能性について再考することにある。ここであえて民
俗学を取り上げるのは、人類学と民俗学の発想の違いを確認し、そのうえで、より豊かな協同の
可能性を考えたいという発表者の意志による。
発表者は、数年来、千葉県、滋賀県、福岡県を中心として、日本の地方都市における中小の老
舗企業を対象とした研究をおこなってきた。そのような中で、
「老舗とは何か」という困難な問い
について、以下のように結論づけるに至った。
①老舗はすなわち「古い店」ではなく、
「古いこと」
「伝統」が世間に承認されている店のことである。
②「承認」のプロセスは、様々な根拠に基づく連続性を店側がアピールし、その蓋然性が(たとえあやしいも
のであっても)当該社会において認められるという段階を経る。
③以上により、店の歴史はフィクションでもかまわないが、店の自由になるわけではない。世間の欲求を常に
意識しつつ、そのなかで限定的な戦略をもちいる。そのため、「老舗」は店と世間のせめぎ合いのなかで創ら
れるものだと考えることができる。
④しかし、老舗の側から世間を見ることは本来的に不可能である。そのため、
「店-世間」「アピール-承認」
のコミュニケーションは、最初から破綻している。
⑤そのため、老舗における「伝統」は、操作的に管理され創出されるものではなく、本来的な困難さを引き受
けつつ、コミュニケーション/ディスコミュニケーションのなかでつくられるものだと結論づけられる。
このように理解することで、
「老舗」の問題は、より広く日本社会における「伝統」の問題と接
続することができると考えられる。例えば、時折起きる老舗(同族)企業の不祥事が、一次的な
バッシングムードを醸しつつ、それでもなお伝統的な店や企業への信頼は根強い。当事者も世間
もそのアンビバレンスに気づきつつ、それを相対化するのは困難である。
民俗学は「伝統」的なものにこだわってきたのにもかかわらず、このような状況について応え
る言葉を(少なくともいまのところ)持っていないように見える。そこでここでは、柳田国男の
初期民俗学において構想され、うまく引き継がれることのなかったもうひとつの民俗学、
「世相解
説の学」としての民俗学を、いま一度、問い直してみたいのである。
柳田の言に従えば、
民俗学は広義の歴史学に位置づけられるべきものである。
とはいうものの、
「実は自分は現代生活の横断面、すなわち毎日我々の眼前に出ては消える事実のみに拠って、立
派に歴史は書けるものだと思っているのである」
(
『明治大正史世相篇』
)とあるように、その「広
義」は相当に広いところを視野に収めており、政治も経済も哲学もひっくるめた、総合的な民間
学知のパッケージとして、民俗学を構想していた節がある。そのようななかで、なお柳田が「歴
史」にこだわったことについては、特筆に値するであろう。すなわち、柳田国男の人間観におい
て、人々は過去の拘束性のなかで生きている。それが、柳田が問題とした「歴史」だったのであ
り、だからこそ現在について語ろうと過去について語ろうと、
「歴史」が問題となったのである。
本発表では、老舗の「伝統」について理解するところからスタートし、
「伝統」と「歴史」を軸
に、民俗学的思考および民俗学的人間観を浮き彫りにすることを目指す。