―― 白山部落郷土史より ―――

2.白峰村からの開拓移住者(2/2)
―― 白山部落郷土史より ―――
北海道開拓者の歴史
1.白山部落について
白山部落開拓 60 周年及び 100 周年記念誌より抜粋し、当時の回想録や記録を基に渡道し
た人達の苦労と開拓の歴史を、郷里の石川県の人々にも記録として見ることを目的に白山
部落郷土史より摘録しました。
白
山
開
拓
百
年
記
念
協
賛
会
平
成
五
年
十
月
十
日
の
象
徴
と
し
た
い
。
の
二
世
紀
に
飛
躍
せ
ん
と
す
る
決
意
の
偉
業
を
伝
え
る
と
共
に
地
域
住
民
込
め
て
記
念
碑
を
建
立
し
後
世
に
そ
た
り
、
白
山
ゆ
か
り
の
人
々
の
願
を
た
し
、
こ
こ
に
記
念
す
べ
き
時
に
あ
先
人
の
遺
徳
に
深
甚
な
る
感
謝
を
い
て
我
郷
土
白
山
を
築
か
れ
た
。
拓
え
の
情
熱
と
愛
郷
の
精
神
を
も
っ
境
を
克
服
し
、
血
の
に
じ
む
様
な
開
が
あ
る
。
開
拓
者
は
、
あ
ら
ゆ
る
苦
地
に
入
植
さ
れ
て
以
来
今
日
の
白
山
北
三
松
、
林
小
助
ほ
か
八
名
が
こ
の
北
海
道
に
求
め
て
、
笹
木
由
左
衛
門
手
取
川
の
氾
濫
に
よ
り
、
新
天
地
を
八
年
石
川
県
白
峰
村
か
ら
度
重
な
る
白
山
開
拓
百
年 碑
を
迎
え 文
、
明
治
二
十
奈井江町とは
白山部落を説明するに当たり、奈井江町役場のホームページより転載させて頂きます。
奈井江町とは北海道の2大都市である札幌市と旭川のほぼ中間に位置しています。
JR函館本線と国道 12 号線が町の中央部を、また、町の中心部から車で 10 分の場所に
は奈井江・砂川インターチェンジがあり、道央自動車道が南北に縦貫しています。
アクセスについて
・車を利用する場合は札幌から 68km
1 時間 30 分(高速道路使用の時は
40 分)
旭川から 68.8km
1 時間 30 分(高速道路使用の時は 51 分)
千歳から 86km
1 時間 55 分(高速道路使用の時は 1 時間 15 分)
JRを利用する場合は札幌から(岩見沢で乗継ぎ)
旭川から(滝川で乗継ぎ)
43 分
55 分
千歳から(岩見沢で乗継ぎ) 1 時間 20 分
函館から(札幌で乗継ぎ)
3 時間 58 分
釧路から(札幌で乗継ぎ)
4 時間 17 分
稚内から(滝川で乗継ぎ)
4 時間 30 分
苫小牧から(岩見沢で乗継ぎ)1 時間 19 分
※JR の場合は奈井江駅には特急列車が停車しないため乗り継ぎが必要となります。
空路を利用 (新千歳空港発)
◆千歳~羽田
1 時間 30 分
◆千歳~成田
1 時間 30 分
◆千歳~関西
2 時間 10 分
◆千歳~福岡
2 時間 35 分
奈井江町 HP より
我らの郷土白山(白山開拓 100 周年記念
誌巻頭言より抜粋)
天下の三大霊峰の一つ白山連峰は、四時不滅の白山を頂き乍ら、加賀越前飛騨の三ヵ国の
国境に聳えて、その美麗なる白峰を望かせている。
奈井江町の白山部落の開拓先駆者の故郷は、石川県白山山麓の村々が立地する此の山村
なのであります。伝承では 1250 年の永きに亘る歴史を経ると云われているものである。村
民は此の雄大さにして美しく、そして厳しい自然に培われ乍ら、山村民特有の辛抱強さと独
立心とが培われ条件の良くない、山地田畑の耕作出作りによる焼畑経営、養蚕林業、炭焼き
等を基として、その不屈の精神と信仰心の力強さの伝承が、白山村民の基幹を成していたの
である。
先駆者達が住み慣れた故郷を去らねばならなかった理由があったのである。文献による
と、雪崩による焼畑地流失の変化と水害による土砂崩落、土地の流失による荒廃、特に明治
19 年頃より国有林の伐採が始まったため、
19 年には岩尾俣谷、東俣谷で土砂崩れを起
こし、降雨ごとに出水を見るようになり、同
24 年 8 月の大水害同 26 年 5 月の大水害、同
28 年には赤岩部落の大火と大水害、同 29 年
には白峰全村に亘って大水害に見舞われた
のである。即ちこれが直接の原因となって離
村するものが相次ぎ、特に河内谷方面では著
しい人口戸数の減少をみたのである。
かくて離村する者達は相たずさえて、未開
拓地北海道へと目指し移住して来たのであ
るが、そこを第 2 の故郷として根を下ろし、
再び白山村へは帰らずに、生涯を終えたので
ある。
奈井江町の位置と区域
私達の白山部落(連合区)は、北海道の中央、石狩川流域にある奈井江北部に位置し、奈
井江第 11(1 区)
、12 区(2 区)、13(3 区)部落は今は三井奈井江坑区域と交錯している
山間地帯第 14(4 区)、15(5 区)部落とを合わせた区域である。この 5 つの部落が連合部
落(現連合区)を作り、この地区開拓の昔から、100 年を迎える今日まで、部落民が一致団
結して、部落開拓村作りの大業にあたってきた。
奈井江市街地より 3 ㎞、奈井江駅より 2.7 ㎞北によって、東西に通る道々赤平奈井江線(9
号線)道路を中心に展開している戸数 117 戸(現在 45 戸)、人口 565 人(現在 174 人)、面
積 530ha、殆んど水田を中核とした恵まれた農村地帯である。
砂川市豊沼とは 8 号線道路を挟んで相接し、南は 10 号線道路を以て当町厳島連合区に、西
は函館本線を挟んで大和連合区と連接している。東は二又沢境界沢を越えて夕張山脈系の
上砂川芦別へと連なっている。
昭和 63 年には、北海道縦貫自動車道が開通し、白山地区には砂川インターチェンジが設
置されている。昭和 47 年 11 月にオープンした「ないえ温泉」は、旧三井炭坑用地から沸
く冷泉であるが、新しい時代に応え町営の施設として衣替え、平成 2 年から「ないえ温泉ホ
テル」として新しく発足した白山部落は農業と観光、そして、保養地のある静かな里として
新しい出発をしようとしている。
地整
地下資源を豊富に埋蔵した東部の夕張山脈は、ゆるく丘陵地帯をつくり、東には標高 622
mの御料山に源を発する奈井江川が西に流れている。標高 271mの爾波山と、261mの豊平
山とを南北に分けて谷間を作り、その平地に出外れるところに肥沃な白山部落を縫って、石
狩川に注いでいる。北海道の大動脈である石狩川を挟んで遠く浦臼町の西高くそびえる地
勢根尻山(ピンネシリ山)は 1,100mの雄姿であり、金色の夕焼けの雲間から静かに我が白
山部落を見下ろしてくれている。
先史時代と開拓前
今日このように拓けつくしたこの付近も、先史時代は熊の横行する鬱蒼たる密林で僅か
にアイヌ民族が住み、石狩川に注ぐ奈江川は、南 15 号線を流れる奈井江川、更に南にある
茶志内川と共に、石狩川からそれぞれ 3 ㎞遡った東部丘陵地帯に、彼らの石器を残し、奈江
川の名もアイヌ語のナイ(川の意)からつけられたものである。
徳川末期には松浦武四郎が、石狩川をさかのぼって探検したが、明治 3 年仙台藩の伊達
邦直が、従者 7 人をつれ、石狩川から奈井江に上陸し、土地の肥沃さを認めたが、河口から
120 ㎞上流のこの地の不便を思い、石狩当別に藩士 61 名と共に入地した。明治 5 年高橋利
宜が上川探検の途中、石狩川と空知川二又のところに相当数のアイヌが住んでいたのを認
め、同 19 年高橋利宜の言が入れられて、市来知から音江町に達する国道が、囚人たちによ
って初めて開通された。そしてこの国道通行人のため、翌 20 年山形県人の三浦米蔵氏が初
めて途守を兼ね、旅人宿を開業して南空知に居住した。この頃の行政区画は、現在の空知、
雨竜の両郡にわたり空知太と称されたが、明治 23 年 1 月滝川村が出来、同年 8 月滝川村か
ら奈江村(上砂川、歌志内、奈井江を含む砂川町の前名)が分離独立した。
明治 19 年開通した国道も道路僅か 1.8mしかなかったので、20 年、21 年には、又、月形
や市来知の監獄の囚人達により、岩見沢~滝川間の本道路工事が行われ、これにより路面も
修理され道幅も 5.4mに拡張された。明治 22 年には滝川村に屯田兵が入地したしたので、
この国道も次第に人馬の往来が煩雑になってきた。明治 20 年にはこの奈井江市街にも駅逓
がおかれ、横山某がこれをあずかり、又近間常松、野村正という人も市来知から来住して、
奈井江の草分けとなった。この頃砂川に 50 人程住んでいたと言われる。
開拓・移住期
明治 22 年 12 月屯田兵の一部 92 戸が滝川に、23 年 1 月
には滝川村戸長役場が設置された。この年滝川屯田兵 348 戸
の集団入地を見たが、奈井江にも金子金太郎、矢野昇、渡辺
靖三、本野大蔵の 4 戸の移住を見た。尚その年、歌志内炭鉱
が開発され、北海道炭鉱鉄道株式会社によって、岩見沢、歌
志内間の鉄道工事が始まり、24 年 7 月開通し、砂川駅、奈
井江駅が設立された。この頃奈江原野の植民区画の測量がな
され、24 年 11 月清水崇徳、和田幾次郎の 2 人が 250ha の
土地を奈井江で払下げ、多数の小作人をいれて農耕を始め
た。25 年には中野佐吉、岩手県人の伊藤広幾、佐藤庄五郎の
3 人が、10 数万坪の土地の払下げをうけて大和に入地した。
又、当時易学の大家で、北海道炭鉱汽船会社社長であった実
業家の高島嘉右衛門は、高島に 250 万坪の貸下げをうけて、
石川県、岩手県、神奈川県から移民を集めて入地させた。奈
井江も開拓の初光を見、駅の付近も幾らか市街地の形態を成
し、25 年香川県人折目初次郎は南 15 号線西 2 線の私宅に於いて家業のかたわら児童に読
書、算数を教授し、引続き 28 年 2 月に元の奈井江町役場の箇所で、竹内武丸が折目初次郎
に代って教授し童蒙倶楽部と称し、児童 22 名を教育した。
白山部落の開拓初期
明治 25 年入地の佐藤庄五郎氏等の農場関係者数名が、この付近に散在したらしいが、こ
のように 9 号線周辺も、いくらか村の形態を成して来たとは言うもの、ようやく測量を終
わって間もなく明治 28 年奈江川流域はつる草、熊笹、葦、蕗等が地を掩い、千古斧鉞を入
れない森林が鬱蒼として天日を遮り、熊が横行する有様で、その間に僅かに笹を分けて形ば
かりの区画道路がつけられた状態であった。この未開の地へ初めて笹を分けて入地したの
が河村米八、石川県人の加藤武衛門、北三松、その直後、笹木由佐衛門、林小助であった。
河村氏は国道より東に入り(今の林博六氏の地に入植)
、北氏は 8 号線、9 号線の中間(現
北準一氏)付近に、又、笹木氏は 9 号線沿いの現(伊藤重雄氏)道筋の基礎となった。尚笹
木氏と一緒に入地した林小助氏は 9 号線より 360m北寄りで国道に近い地点に、又加藤氏
は 9 号線 1 線(現宮本良一氏)に居を構えた。翌 29 年にはこの先駆者たちの郷里、石川県
の霊峰白山(2,707m)の麓で手取川上流にある白峰村では大洪水があり、多くの田畑、人
家が流失したので、災害に会った 25 戸が、これら先駆者を慕って集団移住して来た。更に
翌 30 年には福井県、石川県からも 42 戸の移住があり、白山及びこの周辺に入地し、部落
の形態も整って来たので、故郷の石川、福井県より眺望された白山の名を取って白山部落と
した。
明治年代入植者
尚別表“入植者年台表”に見るように、其の後明治 31 年~33 年と引続き内地同方面よりの
移住を見、それよりポツポツと 1、2 戸づつ移動、移住を毎年繰り返して今日に至っている。
部落の形がようやく出来かけた明治 31 年 4 月、南 9 号線3線に南簡易教育所が出来、白山
小学校の前身となった。(後略)
部落の開拓と道路
明治 29 年石川県能美郡白峰村よりの団体入植があって以来、9 号線道路も目に見えて道
幅が広くなってきた。又この頃、国道付近の土地より山地及び奈井江川流域沖積土地帯の方
が肥沃のため、道路開拓は奥地へ急速に進展する必要があるために3線橋架橋を見るに至
って9号線道路は白山部落の幹線となった。30 年、31 年と続々と移住、人口の増加と共に
生産力を加わってきたので、道路の重要性も増大した。31 年には 9 号線道路の幅を 3.6m
として本格的工事に着手し、その年馬車が初めて通った(その時の馬車は車輪に幅約4㎝の
鉄輪をはめた木車であった)しかし、国道より東 2 線までは湿地の為馬車の通行に適しな
かったので、道の両側に生えていたヤチダモ、ハンノキ、シラカバ等を伐って、割板としこ
れを路面一面に敷きつめて、一応馬車が通れるようにした。東 2 線より以東、現在の白山神
社付近までは土質が良かったので、それ程の苦労はなかった。尚この国道と 2 線間の9号
線道路には、その後も3回にわたって割板の入替えが行われた。明治 32 年に至り東 1 線道
路が、9 号線以北 8 号線までと東 2 線 9 号線以南 14 号線迄開通して、馬車鉄道が出来上が
った。42 年頃から毎年 1 週間にわたる部落民総出動で、砂利敷き作業を実施して以来、次
第に道路の形を整えていった。
この頃東 3 線道路が出来たが、44 年になって、奈井江川上流電柱沢より多数の電柱用材
が伐出されることになり、この搬出の為 9 号線奥の難所に白山橋が架橋され、その翌年の
45 年には白山橋以東電柱沢間の各橋が全部架橋された。この頃から二股沢に移住が始まり、
未開発の地の川沿いに爾波山と向山の間の沢を奥地に向かって入地し、第 15 部落の基を作
った。この奥地に入地した古館藤吉郎氏が、定住後毎年率先してこの道路改修に当り、遂に
馬車鉄道にまで仕上げた。明治 45 年当時本流の一番奥春日橋より更に奥に向け 2 本の橋が
必要となり、時の区長の小林氏は鈴木富蔵、加藤五郎吉、鈴木末松、鈴木仁太郎所有の分譲
を受け道路にするため、部落民より 80 円の寄付金を集めてこれを購入し、山沿いに道路を
作った。
入植者年代表
明治 26 年~明治 45 年までの入植者を下表にまとめた。
入植者年代表
年 代
氏 名
佐藤庄五郎
明治26年
佐藤広幾
北 三松
明治28年 櫛引 某
林 小助
高橋与七
明治29年 飯田与三松
笹木源兵衛
鈴木万次郎
加藤助六
加藤万蔵
加藤茂太郎
明治30年 加藤茂吉
高田勘次郎
加藤長吉
村山銀次郎
笹木源左衛門
林 金代
明治31年 細田定助
鉾井文吉
庄田末吉
明治32年
林 与三吉
明治33年 加藤新三郎
明治35年 遠藤勝五郎
明治37年 大岡正蔵
明治38年 国兼治男
加藤 磊
明治40年
村上三松
明治41年 三角作松
明治43年 木村兵三
明治44年 山口助太郎
明治45年 永井佐吉
出身地
赤岩
市之瀬
赤岩
赤岩
氏 名
安芸豊蔵
笹木由左衛門
河村米八
鈴木仁左衛門
笹木富士松
梶 孫四朗
飯田庄助
加藤利助
加藤仁平
信夫五郎
庄田与三兵衛
加藤由蔵
鈴木仁太郎
加藤仁作
佐々木停造
出身地
市之瀬
小原峠
市之瀬
小原峠
氏 名
安芸八十平
加藤孫一
加藤武衛門
孝内孝次郎
松岡源蔵
笹木与三衛門
江川 某
加藤助五郎
加藤末吉
鈴木富蔵
加藤友九郎
林 与三松
鈴木市松
佐藤伝三郎
阿部千代松
出身地
三ツ谷
赤岩
市之瀬
赤岩
市之瀬
赤岩
上口与三松
鈴木新左衛門 赤岩
尾崎文治郎
加藤由助
加藤与三吉
稲原与三松
道下権七
表 多三郎
松川仁吉
古川角助
国兼治助
向原茂平
大宮四朗
山口助左衛門 赤岩
木下定吉
荒木盛治
奈井江町開基の謎
昭和 33 年 4 月 1 日(1958 年)発刊の「60 周年記念白山部落郷土誌」では、明治 31 年(1898
年)に奈井江に入植となりますが、平成 5 年 10 月 10 日発刊の 100 周年記念誌の「我らが
郷土白山」の白山開拓百年記念の碑文では明治 28 年(1895 年)の入植となっています。も
し碑文の通り明治 28 年入植とすれば 1895 年から 100 年後の 1995 年、つまり平成 7 年が
100 周年となるのではないだろうか? 平成 5 年(1993 年)に百周年とし、60 周年事業と
の整合性に歴史を調べる者としては不可思議なものを感じています。
~~神社と宗教~~
白山神社の由来(白山部落郷土史:60 周年、100 周年記念誌より)
白山地区の鎮守として、過去百年にわたり毎年、春の仕事始めの祈りに秋の稔りの感謝に、
また日照りの雨乞いにと、常に人々の信仰と精神的団結の中心として区内の発展と平和を
見守り続けてきた白山神社は、その御神体として 5 体の神々を奉祀している。
菊理媛守【白山大権現】、天軻遇突智命【不動明王】――――白山神
天照大神、八幡大神、春日大神――――――――――――――春日神
明治 31 年 4 月末、石川県能美郡白峰村より笹木源五郎が北海道移住に当り、郷里より白
山大権現の御神体を奉持し当地に来たり、現在の 10 号線東2線と3線の中間あたりに小さ
な社殿を建て、これを奉た。
古老の語るところに依れば、この年は雪も少なく且つ暖気であったので、早春既に雪も消
えて道路を車で曳く人もいたが、3 月の彼岸に至って突如として 4 尺余りの大雪に見舞われ
たので、御神体奉遷の準備、その他神社の作業は大変苦労したと言う。
入植移住 4 年目、心のよりどころとして氏神奉遷とこの天候異変とは、当時の人達に郷
里の霊峰白山の峰近い山間の情景を連想させるとともに、深い慕郷の念にかられたことで
あろう。時に神社世話役として庄田助衛門、笹木源五郎両氏により準備万端進められ、盛大
な祭典が行われた。以来祭典は、春は 4 月 18 日、秋は 9 月 18 日に行われて来た。
(現在は
春が 4 月 10 日、秋は 9 月 10 日)
白山神と笹木源五郎氏
加賀の国、白山の二千数百メートルもある山頂近くに、約 1300 年まえから奉じられてい
たという白山大権現と不動明王は、霊山白山大山神として、年に何回かの山伏の参拝のとき
か、山麓住民が登山の際、社前に膝まずく外は滅多に行けない場所にあったが、明治 7 年に
下山し、それまで祖父代々この御守り役を務めてきた笹木源五郎氏の敷地内に安置してあ
った。明治 31 年に同部落民多数が北海道移住の後を追って、
源五郎氏が渡道するにあたり、
この御神体を奉時してこの地にきた。
御神体は座高 30 ㎝の金箔おきの仏像体の菊理媛神が、蓮の台に坐したもので、これはも
と金製であったが当地に移転後同氏により、小樽の彫刻家に依頼し同寸同形のものを作り
これに代えた。これについては当時の部落民の間に種々意見も出たが、結局金の実物は同寸
の身代わり神を当地に残し内地に渡った。
不動明王像も座高 30 ㎝位で、真っ赤な炎を背に破邪の剣を手にした坐像で、全体は本物
の朱を固めたものであると言う。
春日神と宇野繁松氏
加賀百万石の穀倉としてその豊穣を誇る加賀平野の中心小松付近から、小松団体の一人
として、この地に入地した宇野繁松氏が移住の際、その家財道具の中に入っていた天照大神、
春日大神、八幡大神の 3 体の神像を 8 号線東 4 線の現林善治氏地域内の小高い丘の上に安
置して守護神とした。これが春日神奉祀の最初であると伝えられている。
加賀の霊峰白山と白山大神について(笹木清一氏:昭和 46 年 4 月 14 日没)
加賀の白山部落というのは石川県能美郡白峰村字市之瀬、字赤岩、字三ッ谷の三部落のこ
とで、これを高地と呼んでいる。
この白山が開拓されたのは、今から 1500~1600 年前、平安時恒武天皇時代の弘法大師
(空海)
、伝教大師(最澄)の頃と推察されている。
時の開拓使であった泰澄大師のお供をしてきた源五郎という人が、白山登山口に掘立小
屋を建て、熊笹で屋根を葺き、そこに住みながら大勢の人夫を使役して登山道を創ったのが
始まりだと言う。この時泰澄大師が源五郎に対して、木を建て笹葺きの小屋に住んでいたの
で姓を「笹木」と称えるのが良いと申されたので、以後笹木源五郎と名乗り、それから四十
何代、その間養子一人ももらわず直属の子孫で、代々源五郎と名乗ってきた。
昔から“白山絶えたら源五郎絶え、源五郎絶えたら白山絶え”と歌われたということであ
るが、たまたま昭和 5~6 年頃の 7 月白山に源を発する手取川の大洪水で村は殆ど流され、
古代から人間の造ったものは、田畑も家屋も何一つ残さず一切を押流し、そればかりか市之
瀬に居た 60~70 人の者が僅か 10 人助かったのみで、他は全部死に、このときに源五郎一
家も全滅し、千幾百年続いたこの一家の終りを告げた。
盛んであった白山登山者も一時は殆ど姿を見せなかった。その後県の復旧方策により、よ
うやく復旧してきている。
この白山に昔、祀られた神仏は大小一千数百体と申されているが、その中でもお宝様とし
て尊重された十幾体がある。現奈井江町白山に祀られている不動明王もその一体である。私
の父が僅かに覚えていると言うから明治 1~3 年頃かと思うが、高い山に仏体を祀ることは
まかりならぬと言うので、県庁から役人が出張してこの白山に祀られた仏体を下山させる
ことになったが、このとき源五郎を始め村人は大反対した。
役人は仏体の代わりに神様を祀るからと言うので、無理やり下山させ、石地蔵や小さいも
のは投げつけて破壊し、或は谷間に投げ落とし下山したと言う。このとき天候が大荒れとな
り三日三晩暴風雨が続き、役人たちが帰国したとき、かれらの郷里は大洪水に見舞われてい
たと言う。村人達はこれも白山神の神罰だと語り合った。この時、源五郎が役人の目に留ま
らぬように自分の倉の奥にかくまっておいたのが、現在の奈井江白山にある白山様と不動
様と、それに石川県の林西寺にある十一面観音像である。この十一面観音様白山の頂上 9 千
尺の所、すなわち白山本社に十数体と一緒に祀られていた中の一体である。
不動様はこの本社と奥ノ院と言う社との中間にあった小さな社に祀られていたものと伝
えられる。(後略)
~~信仰と宗教~~
白山地区の信仰(郷土史 60 周年より)
白山地区の鎮守神に対する敬神の念は、よくこの社会集団を団結させる中心的な重要な
役割を果たしてきたが、各家庭では多く仏教的な行事を中心に結びついて来た。白山部落の
宗教分布状況として、白山部落関係 86 戸に於ける昭和 33 年 1 月現在の調査は別俵の通り
であって、その 78%の 68 戸が浄土真宗であった。この面でも加賀団体の特色を強く持ち、
昭和 33 年 1 月現在の寺院数
報恩感謝、他力本願の信仰がこの地
寺
名
所在地
戸数
区の気風に大きい影響を与えている。
信光寺
大谷派
砂川町
30 戸
各家庭では真宗の重要仏事である法
報徳寺
大谷派
奈井江町
20 戸
西本寺
本願寺派
奈井江町
10 戸
智光寺
大谷派
白山部落
7戸
音江村
1戸
日蓮宗 妙龍教会
白山部落
3戸
禅宗
白山部落
2戸
白山部落
5戸
事や、年に 1 度の報恩講には、一族郎
浄土真宗
党相集まって盛大に行い、この時は他
家に嫁いだ娘も、孫も曾孫も、叔父叔母
も、肉親親族が業を休み泊まりがけで
集まり、宗祖への報恩講並びに祖先へ
の感謝と、肉親への情を深めるのが慣
例となっている。
報恩講
良念寺
曹洞宗円通寺連絡所
天理教 龍白山分教会
その他
8戸
(郷土史 60 周年より)
浄土真宗の宗祖親鸞聖人の命日、11 月 28 日を前後として行われる仏事で、檀家寺より住職
を招き、法話を聴聞し、宗祖 90 年の御苦労によって救われていく教えを喜び先祖を語り合
いながら一同会食するのである。餅をつき、加賀の名物である茶粥を炊いて一族団欒をする
この行事は、一家にとっては最も楽しい年中行事となっている。
御講の始まりと云われ
(郷土史 100 周年より)
明治 28 年に、笹木由左衛門、林小助、加藤武衛門、北三松、鈴木仁左衛門、河村米八、
櫛引某氏 7 名が入植し、同 29 年、30 年には 25 戸が集団入植し、同 31 年には福井、石川
県より多数の移住者があり、それらの人々によって白山部落としての形態を整えていった。
その先駆者達、即ち入植者は開拓初期の過重な労働や、不安定な生活の中にあって、その
挫折感や動揺する心を力づけ励ますためにも、精神的な支えが必要となり、親鸞聖人の流れ
を汲む念仏の盛んな、白山故郷において真宗門徒の長年の歴史を持ち継承されている御講
(蓮如上人時代より受け継がれ、営まれている信仰の集い)を北海道の白山にもという強い
願いから、その施行の運びとなり、白山部落には明治 32 年より実施を見るに至った。
初めの頃は御寄り講という形で、定期的に家族ぐるみで集まり正信偈を全員で読誦し、そ
れぞれの信心を語り合い開拓の苦労を互いに慰め合い、助け合いながら信心と、慰安の時を
過ごして日頃の苦労を偲びつつ懇親の和を深め合ってきた。
大正 4 年 7 月 30 日に至り、京都東本願寺より彰如上人の御消息を下付して頂きそれを
「四日講」と名付け、それぞれ廻り当番制として、その当番の檀家住職を迎えて正信偈唱和、
御消息の拝読、法話を聴聞し、おときを催して白山特有の茶粥と自家製の収穫物での御馳走
により会食をしながら、農耕、信仰、家庭の諸問題などを語りあい、特に冬期間や農繁期に
は徹夜をしたり、また連日の時も有るなど楽しい団欒の中にも、有意義な集まりをしていた
ようである。
由左衛門、小助、武衛門など数戸の講員により始められた開拓精神昂揚への意義ある御講
であるが、既に 80 余年の永き、星霜を経て今日に至っている。その間、去る者、来る者と
世の変遷の中にあって現在も続いている。
尚昭和 39 年 15 戸の仲間が集う中で、北正治氏の提案により年1回 11 月の御講を報恩講
とし、その年に亡くなられた人へお経を頂き故人を偲んでいる。
現在の御講の会員は 12 戸である。
横山長治、笹木外太郎、高田勝次郎、林 善治、三角 正、笹木正男、
三角太郎吉、山口光司郎、三角 恵、加藤清一、林 博六、北 準一
~~教
創立当初
育~~
(郷土史 100 周年より
校舎…明治 31 年(1898 年)移住後僅か 3~4 年にして南 9 号線西 3 線の桃木三太氏の所
有地内に、雨露をしのぐ程度の草葺の寺子屋で学習が初められたようである。
初代教官佐藤金太郎氏が着任し教鞭にあたったが、明治 33 年に石狩川の大洪水等の理由
から翌 34 年に 9 号東 2 線(現北出氏)に移転したが、水の不便で再度東 1 線角(現富本氏
所有地)に移転した。
地先の立木を利用した校舎で、間口 5.4m奥行 13.5m高さ 2.8mの木造平屋建てで、当時
としては柾葺きの立派な建物であった。この工事には連合区の方々の並々ならぬ努力と協
力があったことは記すまでもありません。その後徐々に児童生徒も増え、白山奥地からの通
学の便も考慮され、明治 39 年 12 月寒風で肌を刺す中、伊藤広幾氏所有地(現在の集落セ
ンター)に移転した。その後幾多の変遷を経て校舎の基が出来て郷土白山の文化の殿堂が整
えられた。明治 42 年 6 月奈井江尋常高等小学校に統合され白山分教場として新たに発足し
た。
教官大岡正蔵氏が引続き就任され、校舎も障子張りの窓で通学児童は、夏冬共素足に草履
を履き、風呂敷に「読み、書き」程度の用具を入れ、腰にあるいは肩に背負い石坂を
唯一のノートとしていた。学習時には教室内が暗く寒中でも窓の障子を開けて勉強するこ
とが多く、丸太を胴切りにし削って、手作りの 1m角の机に向かい寒さ、暗さに耐えながら
困難な学習を続けた。また上級生で体力の優れている生徒たちが選ばれて、冬期間燃料とし
て使う薪割をしたり、
飲料水を川や沢に求めたりして、
(東 1 線辺りまでもらい水していた)
生活するための稼働を余儀なくされ、また教師の手助けもした。
生徒は週に 1 度必ず教師と同行して、奈井江の街に見聞を広めるため出かけた。それが
唯一の慰めであり、誇りでもあった。街までは 4 ㎞の道を草鞋を履き、帰りには恩師の米、
味噌、ランプの油等を買い、それを個々の風呂敷で背負い、夏冬通して続けられた。
100 年史の中では、地域の要望として「今日働け、明日も精一杯働くこと」が教育の主眼
点ではなかったかと思います。教育所の運営経営をしていくため、冬期から児童の教育を確
保するためにも教師は児童と共に働かなければならなかった。晴耕雨読の学習は特に重点
的に扱われ、読み書きに重点がおかれた。父兄の熱意と協力で教師と児童が一体となり勉学
に励んでおり、直径 1mもある大木を苦労して切り倒して耕地を作り、それを学校用地に提
供し、また共同作業によって最初は掘立小屋であった校舎を土台付にするなど、数多くの備
品教具が関心ある部落民から寄進された。
明治 28 年に最初の入地をみて、入植者の方々の夢と希望を自分たちの子供に託した教育
施設の充実を郷土史 100 年記念誌より転載させて頂きました。上記「教育」に関しては 60
年記念誌の内容を基に若干の補足を加え編集されたものです。全編はまだ続くのですが、開
拓初期の状態を特筆している関係上、これ以降から現在までは割愛しております。
~~~~入植当時の回想録~~~~
白山部落郷土史の 60 周年(1958 年 4 月発刊)より入植当時の生活や大正時代の生活様
態についての当時の回想録を抜粋してみました。
林業
この部落に入植した人達の発祥の地加賀の白山は山合いの高所にあり、先祖以来山の木
を伐って生活の根幹としていた。従って当地入植のときも森林に大きな関心を持ち、特に赤
岩、白峰、牛首等山間出身者は、現平地より山間地に入地し、白山や新十津川、浦臼方面入
地者も多くは山地に沿って居を構え、農業と共に林業に関連するものが多かった。
このため白山は古来より林業と農業が生活を支える二大産業であったと言える
開拓初期の森林は千古斧鉞を入れたことのない昼尚暗い大密林であったと古老は語って
いる。この大資源も明治末期入地の頃は、その利用方法もなく、製材加工の設備もその販路
もなかった。只開拓者が自分達の住宅建築材と燃料に使うに過ぎず、有り余るその他の大木
は無用物として、彼らの開墾作業を妨げ捨て場所に困った。この処置に困った人達はこの伐
り倒した木を山と積んで焼却するか、川に流すかする外はなかった。
時には大雨によって、川の曲折地点に流木がつまって河水氾濫し、付近畑地に大洪水を与
えたこともあったと言う。
明治 35 年、三井物産株式会社砂川木挽工場が砂川に建設されたので、40年頃から同工
場へシナ丸太が売れるようになり、続いてヤチダモ、ナラ、センといったとくていの樹種が
売れるようになった。尚此の頃に電柱の沢から電柱が大量に切り出された。この電柱の沢す
なわち二又から稍々東、奈江川流域の小支流一帯の沢で、見事なトド松林、直径2尺~3尺
もある大木が何万本となく林立し、見るも壮観な群生林帯となっていたと言う。
当時開拓に汗を流し、あらゆる苦難と闘いこの原生林に挑んだ先人の苦労がこの頃にな
って漸く陽の目を見るようになった。
奈江川流域一帯、特に二又沢、本流沢にかけて昼も暗い大密林でヤチダモ、ナラ、センカ
ツラ、トド松、白樺等が繁茂し、何れも幾抱えもある大木であったが、中でも今の三井鉱社
宅1区の道路の所にあったアカタモは直径六尺三寸、樹高十数間、木肌の滑らかな大木とし
て当時の人達の注目をひいた。この大木の伐り跡はつい十年位前まで残っていて、古老達の
当時を偲ぶ懐かしい思い出となっていた。
尚此の間に道有林境界沢付近に山火事が発生して約 30 町歩程焼けたことがあり、今も黒
焼の株跡」が散見されるのは、この時の焼跡である。
大正初期頃より、この森林資源の活用範囲も広くなり「ドウギ」にトド松が盛んに利用さ
れるようになった。「ドウギ」というのは柾の原料で丸太を柾の長さに切り、これを一たん
大割にし、良質の所だけを取り、束にして運搬を楽にするために行われたものである。
(後略)
心棒そり
大正 6 年、石川県から入地した笹木文作、笹木市松両氏が、通称「心棒橇」という冬山に
使う運搬道具を白山に伝えた。これは石川県の白峰付近の山村に昔から伝え使用していた
もので、両氏の白山入地によって広められた。
冬の山地に於いて薪或いは丸太等を積んで、斜面を自由自在に運搬できる便利なものだ
けに他の人々も段々と使い出し、今日白山部落ではこの心棒橇は冬山に無くてはならぬ道
具となった。
構造は実に簡単で、長さ約 1.8m位、幅約 25 ㎝の一本橇で、前後両方に滑られるように
ソリの“ハナ”がついている。これに両端よりそれぞれ 50 ㎝位の処に左右両方に木の腕木
が出ている。これは片方が約 75 ㎝他の一方が 1.6m位でこの腕木が「カジ」となり、これ
を前手、後手といっている。前手、後手も荷物を積むときは支える役目をする。
この橇の操作一つで、前後左右何れにでも自由に滑らせ、又停止させることが出来る。こ
れは実に原始的な道具であるが、どんな複雑な機械にも、やっぱり冬山に入ったら無くては
ならぬ重宝な物である。(すみれ会 佐藤峰雄)
農業の推移
(入植期)
(畑作期)
いな きび
明治 28 年入植当時の頃、この付近に於ける開拓地農作物は主として粟、稲黍、小麦、菜種
が栽培され、反収小麦 4 俵、菜種5俵位で、米価1俵4円くらいであった。翌 29 年江川某
氏が 8 号線の水を利用して、水稲の試作をなし、今の北次夫氏の箇所に約 3 反歩の造田を
行い、赤毛稲を栽培した。この時 7 寸 5 分角間隔に水苗で植えた。
明治 31 年頃、開拓以来 3、4 年経て耕地も広くなったので販売作物の作付が始められ、
菜種、小麦、馬鈴薯等の作付面積が拡張された。馬鈴薯も多くの品種が輸入されたが白山部
落で一般に普及栽培されたのはアーリーローズ種で、反収 35~36 俵の収穫があった。又小
豆、大豆等は地味肥沃に過ぎて、容易に結実せず、成熟遅延して霜害の恐れが多かった。
明治 37 年、8 年頃は水田も今の 13 部落を中心に約 25 町歩作付され、品種は開拓当時と
同じく赤毛種、又栽培方法も変わらなかった。
畑地も広くなった明治 40 年頃、日露戦争の後、陸軍糧・廠の買上げによって蕎麦は軍馬
の資料として大々的に耕作するようになった。反収は7俵位あった。品種はナイヤガラ、レ
ースホースとうであった。裸麦4俵を収穫し、その間作で大豆も 4 俵収穫した。裸麦の品種
は三月子 1 号、大豆の品種は夏大豆、秋大豆、中間型の三生態型に大きく分けられている
が、当地方では中間型が多く作られた。
大正 2 年は渡道以来の大凶作で、稲籾収穫もなく他の地方から購入準備した種子でやっ
と間に合わせた程であったが、翌大正 3 年は開拓以来の大豊作で水稲坊主 5 号が反収 6 俵
もあった。
明治 46 年頃より大正 6 年頃にかけて畑作物は色物が多く作られ、金時、えん豆、手亡等
で馬鈴薯も耕作されて、澱粉製造が始められ、農村工業として活目されるに至り、加藤文吉
氏は 9 号 3 線の角地に於いて澱粉工場を経営した。当時の品種はアメリカ太白十勝薯、ド
イツ薯で、反収 35 俵~40 俵の収量であった。
大正 5 年に笹木力蔵氏が和寒より除虫菊の種子1升を取寄せて試作し、最高 400 貫近く
の収穫を挙げた。
(このころ 1 貫匁 1 円位)その後衰退して現在は山口助太郎氏のみが僅か
作っているにすぎない。又この頃、亜麻の栽培も行った。
大正 7、8 年欧州大戦の勃発によって青豌豆、菜豆、除虫菊等の輸出が盛んになり二又を
中心に畑作黄金時代を現出し、約 5 年間続いた。
人々の生活
明治のころ
住み馴れた故郷を去り、新天地開拓の夢をいだいて、朝夕開墾の鍬を振った入植当時の人
達にとって、先立つものは衣・食・住のことであった。郷里石川県白峰は山岳の地で、耕地
も狭く貧農生活であったのと、多くは天災の後をうけての移住であったので、この地入植に
当っても殆んど無一文の者が多かった。かねて覚悟の上とはいえ、未開の地で鬱蒼と茂る森
林雑草、熊笹の身の丈を没する、昼なお暗い密林の中に、先ず第一に通称拝み小屋という家
を建てた。これは屋根や壁は笹叉はカヤ草で、雨露をしのぐ程度であった。当時樹木は焼き
捨てる程あったとは言え、それを製材する設備と時間的労力的余裕がなかったのである。
照明用としては、当時奈井江の町に石油を売っていたので、石油カンテラを用いたこのカ
ンテラはブリキ製で径 2 寸位、高さ 1 寸 5 分の缶で、中央に木綿の灯心を出し、それに火
を灯しその灯心は歯車がついたツマミの回転によって上げ下げしたものであった。又中に
は菜種油を入れて灯心を灯した行燈式の灯火を用いた人もあった
食物の調理は焚火を用いた。これは居間の中央に 3 尺に 4 尺位の炉を切り、これに付近
で開墾の際伐採した木を薪に切って焚火をした。火床と言って長さ 3 尺~4 尺位で直径 1 尺
2、3 寸位の割切れないアカダモ或はナラ等の木株を、その炉の中に入れて長く火種を消さ
ないにした。昼や夕食の時は、その灰を払いのけ薪をくべて焚火をしたので、マッチは町に
行けば売っていたが、殆ど之に依らなくても火種は持ちこたえたと言う。この頃のマッチは
「早付け木」と言って薄板の先に硫黄をつけたもので値段は1個1毛位のものであった。
炉の形式も種々あったが炉端が入口よりそのまま続いて仕切られ、土足のまま入って暖
をとったり煮炊きをしたりし、又時には作業衣のまま.この炉端にごろ寝をして夜を明かす
人も少なくなかった。
日中は開拓作業に追われ星を仰ぎながら小屋に帰り、夕食を取ると主人は毎日履くワラ
ジを作ったり、縄をなったりし、妻は笹壁より入る隙間風」にゆれるほの暗い灯の下でせっ
せと針仕事に精をだす。焚火の煙は屋根裏の煙出しより自然に外に出るようになってはい
るが、それでも立ち込める煙のために目を悪くする者も数多くあった。天井は煤煙の為に黒
光りに光り、屋根裏の草から煤が下がっていた。
作業衣は木綿の手縫い股引にモンペ、袢纏、帽子の代わりに手拭のほおかむり又はネルや
赤ケットを用いて冬を越した。履物は夏は草鞋、冬はツマゴで足巻に赤ケットを履いた。
嫁いだ頃の生活記録
(林 さつ)
57 年前(明治 34 年)白山部落に嫁いだ私は、まだ 16 才の若さで姑と共に開墾の鍬を揮
いました。アカダモ、セン、カツラ、イタヤ等の木や熊笹の原始林で女も木を伐りナタのよ
うな鍬で土を切り唐鍬で畳耕しと言う方法で土を反し、馬鈴薯、稲黍・稈・栗・南瓜・小豆・
麦等を作付しましたが、大変よく出来て肥料など一つもやらなくても馬鈴薯などは 1 個 300
匁位のものが出来て食料の余りは加工法も知らず捨てた事さえありました。
必死の開墾作業もすべて腕一つでするので、遅々として進まず余りの過労で気絶も幾度
か有りました。お産の後でも 3 日程の休みで重労働をしました。
筒袖の着物に帯を締め腰巻を出して手甲脚絆足袋にワラジ履きブヨに悩まされ乍ら朝早
くから夜遅くまで働き夜はカンテラやガンピの皮に火をつけて灯として夕食の仕度をして
おりました。
つらい作業も山ブドウ・ハシバメ・ドングリ・栗等の自然の実りに唯一の喜びを感じたも
のです。米は月 3 升位を食べ、主に老人だけで、若い者は麦、稗、栗等を食べました。米麦
は餅つくように杵でついて精米して居りました。
男達が直径 4 尺位の丸太を伐り出したり枝木を山盛り積んで燃やしたり、その当時が目
に浮かびます。冬になると笹や葦で作った壁からは雪が吹き込み部屋中雪で一杯になるし
自在鉤に鍋を吊るし寒い朝食の仕度は今思いだしてもゾットするような気がします。
私達はツマゴやワラジ又縄ない刺足袋作り等男は材木運搬作業をしていた。雪で濡れた
時は一晩中かかって炉に大きな木をくべてツマゴや赤毛布の足巻や脚絆モンペを乾かし煙
で目を真っ赤にしていたものです。
ムシロを敷き暗いカンテラの灯の下で夜業に励む屋根の上を猫がドンドンと音をさせて
寂しかった夜や畑仕事中すじ近くからバシバシと歩く音をさせて熊が通り木の影に身をひ
そめて通り過ぎてホッとしたり、ガンガンをたたいて熊よけをしながら細いぬかる道を通
った心細さ。夜道を行くとかならず同じところで提灯の火が消えた。それは猫のいたずら故
女が灯をまたぐと良いと言われその通りにしてやっとその難から逃れた事が忘れられませ
ん。
次々と生まれる子供には着物に 3 尺帯、股引、シャツ、藁靴、藁手袋、赤毛布の帽子をか
ぶせる等全部手製で作る忙しさ、生まれて満 3 才位までは藁で作ったイヅコの下に木灰を
入れ藁を敷きその上におむつを 2 枚程敷いて子供の着物をまくって座らせ朝昼晩の他は一
度ずつ乳を飲ませて、いくら泣いてもそのまま放って置いたもの。高い障子窓の暗い部屋で
こうした育児法なので、くる病で心配した子供が幾人も有りました。今頃の子供は本当に幸せ
だと思います。時計も無いように毎日の生活も今とは考えられないものでした。栄養なんか口に
する人は無く、只腹さえ一杯になれば良いと言う考えでしたが皆な丈夫でお祖父様は 93 才、父
が 92 才、88 才まで長生きをしました。医者も無く薬と言えば富山の薬だけでも丈夫でした
のに、近頃の事を考えると余りの差に只驚くばかりです。
目出た 目出たの 若松さまよ
枝を栄える 葉も茂る
わたしや歌好き 念仏嫌い
死出の山をも 歌で超す
石川県輪島の民謡を唄いながら開墾の喜びと希望に燃えた日は苦しみをこえた人生の華だ
ったと思います。
白山 わじま
目出た 目出たの 若松さまよ
枝を栄える 葉も茂る
能登の七尾で 竹割る音が
一里聞えて 二里ひびく
ういたか ひょうたん
カルソニ ナガレル
シャントコイ シャントコイ シャントコイ
※くる病:日光 不足や極端な偏食でビタミンなどの栄養不足になると発症することがあっ
た病気である
座談会摘録
昭和 32 年 8 月 20 日に部落の中堅層で組織された「すみれ会」会員が 12 名の古老の方を
お招きして座談して頂いたことの摘録の一部を紹介したい。
こ う し
●明治 27 年、北三松、林小助、河村米松の 3 氏の入地が部落開拓の嚆矢である。其の後数
ケ月を経て笹木由左衛門氏の移住を見、春・秋 2 回の移住によって部落の礎が築かれた。
●古老幼少の頃、
(4、5 才~15、6 才)小舟に家族と乗って、小樽へ上陸、無蓋車にムシロ
を敷いた輸送車で奈井江に到着した。
●未開地を 3 年間で開拓すれば 5 町歩の土地を貰えるということが最大の魅力で、父母達
は希望に胸をふくらませていた。
●住居は付近の笹よし等を屋根壁とする掘立で、故郷の山河に少しでも似た川沿い、山間に
住まい山仕事と開拓に精を出した。当時は炭焼きなどして 1 日 25 銭の収入を得た。
●奈江川にはウグイ、イトウ、フナが多くいた。川魚を商売としていた人は、ヤナをかけて、
1 日1晩 30 貫も獲った人もいた。8 寸位のウグイ一繋ぎで 3 銭だった。
●山には兎、狐、リス、テン、熊が多く鹿は角くらいしか見ることが出来なかった。
●山稼ぎが多かった為、熊に対するエピソードが多く、7 号線の西、福井の武士、内山惣四
朗しは□一丁で熊と組み、120 貫の巨熊に鼻を取られて脇差で仕留めたなど当時の語り草
であった。
●笹藪の多かったため蛇についての話も多い、6 尺から 8 尺位のものが多く、気を付けて捕
ると 1 日に 26 本も捕れたことがあった。マムシも多く、何週間も行かなかった山小屋に
火を焚くと煙の為にバタバタ落ちることがあった。
●畑作は偉業を成し遂げた陰に家庭を守った女子供を忘れることができない。
●男衆は春の蒔付けが終わると出稼ぎに行き、家の切り廻しは主婦がした。蒔付け後の僅か
な暇を見て笹刈りをしたり手に負えないものは焼き払って菜種を蒔き、木の枝を取り除
き整地に努力した。
●奈井江を中心として旭川、氷山屯田部落へ通じる立派な道路があり、月 3 回の公休はお
墓参りをし、疲労回復のため寝ることが大きな楽しみであった。
●部落民の教育熱は盛んで、私利私欲を離れた篤行が多かった。机のなかった頃、大木を輪
切りにして机代りとした。近隣にない柾葺きの校舎の建築、本宿先生の後任の小林吉孝先
生を迎える 2 か月間表辰五郎氏が教鞭をとるなど、
白山部落の先人は豪快な気風を備え、
敬神崇祖の念篤く木と取組んでは斧一丁、のこぎり一丁でどんな大木も倒した程の名人
がぞくぞくといた。
行政の概況と部落公職者
明治 28 年最初の開拓者の河村、笹木、林、北氏らの入地した頃、今の砂川、当時の奈井
江村に戸長役場が新設され、戸長に伊藤寛吾氏が就任し、行政の用件は奈井江でだした。
26 年 5 月佐藤庄五郎氏が既に国道から大和方面に入地していたので、この地に入地した
当初の人達は佐藤氏の指導や世話を受けたものと思考される。
29 年 5 月石川県白峰村から移住の 25 戸は自由移民の形で、高島部落や京極部落のよう
に土地払下げの大地主のもとに小作移民のように入地したのや、美唄、滝川地区のように屯
田兵移民の形式とは全く異なっていた。随って入地当初の支配者といった者はなく、入植先
達者の指導のもとに自治的に各自の入地地域の開拓にあたった。
(後略)
小作移民と自由移民の考察
前項に於いては明治 29 年 5 月石川県白峰村から移住の 25 戸は「自由移民」である
と記述されています。
「人々の生活」明治の頃の項で、「郷里石川県白峰は山岳の地で、耕地も狭く貧農生
活であったのと、多くは天災の後をうけての移住であったので、この地入植に当っても
殆んど無一文の者が多かった。」と記述されているのである。
高島農場の小作人契約の例では
「小作人トノ契約ハ原籍地ヨリ移住地ニ至ル迄ノ旅費卜小屋掛料 1 戸金 5 円トシテ支
給シ食料ハ米ニ、麦 8 ノ割合ヲ以テ貸付ス農具一通リ及ヒ初年度限リ種子ヲ貸シ 1 戸 1
万 5000 坪(5 町歩)ヲ配当シ 5 ケ年間ニ墾成セシム
其開墾料ハ樹林地草原地共ニ 1 反歩 2 円ニシテ初年ノ開墾ハ鍬下 3 ケ年ヲ与へ、2 年
目ノ開墾ハ同 2 年ヲ与へ其以後ハ只 1 ケ年ノ鍬下ヲ与フルノミ」
初年度から 3 年間を鍬下年期として年貢は徴収しないが小作料は 4 年目から徴収する
という「鍬下年季 3 年」といわれるものである。
このように小作人契約での渡道では、雇い主が原籍地より移住先までの旅費と移住先の
衣食住と開拓のための農具、種蒔き用の種子の貸付があり、いわば無一文での移住がで
きるのである。北海道への移住者の多くは小作人としての移住が多かったのである。
自由移民の場合
自作農の夢を求めて(吉野谷村史
第 3 章より)から自作農のケースを調べて見た。
道庁は明治 25 年に「貸付地予定存置制」を定め、内地民が 30 戸以上で自作農団体を組
織して 3 年以内に移住を完了する場合、1 戸当たり 15,000 坪(約 5 町歩)の貸付地を
3 年間予定存置することを認めた。
※「貸付地予定存置制とは明治 25 年、貸付地予定存置の制度を設けた道庁は、団体移
住を奨励した。その制度は、移住の目的、戸数、毎年移住する戸数の配当、自作農・小
作農の区別、土地借受人との契約、勤倹貯蓄、習俗慣例、相互救護などに関する事項、
移住旅費や移住後の家作り・器具・食糧などの支弁方法、移住総代、規約違反者処分事
項などを明記した団体移住者規約をつくり、府県知事の認可を受けた 30 名以上の団体
で、1 カ年に 10 戸以上ずつ移住する場合には、団体 1 人について 5 ヘクタールの割合
で、総戸数に応じて向こう 3 年間は貸付予定地を存置する利点を認め、一定期間内に開
墾すると、無償で付与するということであった。
吉野の桑原権兵衛は明治 29 年に奈井江の高島第一農場に小作人として移住していたが、
天塩の国に肥沃な土地があることを聞知し、自作農として同郷の同士を募り、吉野谷村
農民団体は明治 30 年 9 月吉野谷村役場で移住願書を作成し、「団結移住規約」を石川
県庁に提出、10 月県庁を経由し道庁へ送られ、11 月道庁から正式に 35 戸分の開墾地
54 万坪(180 町歩)の貸付が認可された。
大椴子植民団体の移住成績調査の中で移住の顛末では、「権兵衛郷地に於て加盟者を募
りしに 30 余戸を得たるを以て規約を調整して県庁の認可を受け、各戸百円以上、多き
は千円内外の資本を調へ、明治 31 年 4 月初回の移住者 20 戸郷里を発し、海路目的地
に向ひ、途中小樽港により、1 週目の後移住せり。」とあります。
つまり自由移民の場合は、渡航費用や移住後の衣食住、農具、種子の費用も全て自費
となり、移住に関して一家当り、100 円以上の蓄えがないと移住できないのである。
白峰村からの移住者は自由移民で入植したと記述されていることに疑義を挟む訳で
はありませんが、移住に関しての総代人や「団結移住規約」等の記録が残っていること
が歴史を正しく認識するためには必要不可欠であると思考するものである。
白山部落各戸の紹介
白山郷土史(100 周年)第 9 章の中では白山部落在住の方々が紹介されていますが、石川
県出身者に特化して摘録していきたい。
1 区の笹木宗次郎氏の子孫
笹木貞弘(大 15 年)
、妻:トミ子(昭 3 年)
祖父は明治 29 年 5 月石川県能美郡白峰村より、空知郡歌志内村の下幌倉に移住、同 32
年砂川村に移転(現在の厳島)
、同 39 年雨竜村に移転、父末太郎は大正 3 年砂川村南 9 号
東 7 線に入植、同 7 年加藤仁吉氏の 4 女すえと結婚した。同 10 年 7 月祖父与三郎が死亡、
昭和 16 年 5 月祖母ふでが赤平にて死亡した。
(後略)
2 区の湯谷榮助氏の子孫
湯谷四朗(昭和 10 年)、妻惇子(昭和 13 年)
祖父榮助は大正 2 年、52 才のとき石川県能美郡大杉谷字瀬領(現小松市瀬領町)より、
子供も永朔 10 才、みよ 3 才、と渡道する。昭和 4 年妻以とを 53 才で亡くする。
昭和 3 年永朔 25 才で早瀬みき 19 才と結婚し、白山 3 区の国兼氏より小作する。昭和 15 年
父永朔は 37 才で村上氏の土地を買入し、現在地に転入する。昭和 21 年祖父の榮助 84 才で
逝去する。(後略)
3 区の山口助太郎氏の子孫
山口光一(昭和 24 年)、妻洋子(昭和 26 年)
山口助左衛門は白峰村赤岩の旧家で、家系は極めて古く、旧幕府時代白山山麓 18 ヶ村が
幕府直轄地(天領)時の惣元締代官であった牛首村の山岸十郎エ門は、山口家の古い分家で
ある。(大宮市次郎著「家」より)
明治 30 年頃、加藤金七郎を頼り茶志内京極農場に入植、同 33 年上砂川鵜農場へ再入植、
同 41 年にこの地に移り住む。
初代助太郎は大正 8 年ちよと結婚し、同 11 年に天塩郡塩別村に分家したが、同 15 年こ
の地に戻る。昭和 7 年ミカと結婚し、同 46 年に死亡した。
(後略)
3 区の横山岩松氏の子孫
横山松次郎(昭和 11 年)
、妻照子(昭和 14 年)
明治 26 年祖父岩松は石川県能美郡中海村字中(現小松市中海町)より沼ノ端に移住し山
仕事に従事した。
明治 35 年には砂川村字奈井江江現白山に転居。
明治 39 年祖父岩松、鈴木サキと結婚
大正 6 年祖母サキ死亡。大正 12 年 2 月祖父岩松死亡。
(後略)
3 区の笹木由佐衛門氏の子孫
笹木正男(昭和 17 年)、妻洋子」
(昭和 19 年)
祖父由左衛門は、明治 28 年石川県能美郡白峰村より新天地を北海道に求め白山に入植し
開拓の鍬を入れた。笹木家の先祖は奈良時代初期から笹切源五郎の名で約 1150 年続き白山
山麓で、山仕事や畑作りで不屈の精神で生計を立てていた。明治初期に笹木に改正。
明治 20 年頃より国有林の伐採が進み降雨毎に土砂崩れが起きて、煩雑に大水害に見舞わ
れたのが原因で離村する決意がなされた。家族 6 人で未開拓白山 2 区に入植し 3 年後に現
(笹木太一氏宅)に移り本格的な開拓を目指し、仲間を迎えて白山部落の形態がなされた。
(後略)
3 区の北 三松氏の子孫
北 準一(昭和 20 年)、妻澄江(昭和 20 年)
石川県小松市今江町の町史によると先代の北三松は明治 28 年 4 月 24 日付で現在地付近
に入植したものと思われるが、三松 33 才、正次 4 才であった。
津軽海峡は大しけで船底に大の字になって函館に渡ったと聞いている。正次は 9 才で父
三松を鉄道事故で亡くし、その時から馬を使って開墾に精出したと聞き、私どもの想像にも
及ばない苦労があったものと思う。
昭和年代に入って水田、畑も盛んになったが、牛も 10 頭程飼っていた。父政夫は奈井江
の学校へ通うときに自転車にリヤカーを付け、牛乳缶を運ぶのが最も辛かったという。父政
夫は昭和 18 年 7 月外地へ出征し牛はその時に手放した。
祖父正次の厳しくも優しい手の中でそれぞれ独立や嫁いでいった。
(後略)
3 区の三角作松氏の子孫
三角太郎吉(明治 39 年)
、妻まつ(明治 42 年)
甥:三角 恵(昭和 9 年)、妻つや子(昭和 10 年)
三角作松と“とん”の次男が太郎吉氏であり、100 周年記念誌に寄稿されているのはとて
も貴重なことです。
また、長男の寅松氏の長男が恵氏です。今回、両氏が寄稿されておりますが、恵氏の寄稿文
を転載しました。
明治 41 年春、石川県能美郡苗代村字吉竹(現小松市吉竹町)より、作松 37 才、とん3
1才、美可 8 才、寅松 6 才、太郎吉 2 才、ひな 55 才、ふで 19 才の時に来道した。小樽ま
では船で、奈井江までは貨物列車に乗ってきた。
奈井江の駅はプラットホームもなく、道も熊笹の生い茂る中を歩いて、飯田庄松宅に草鞋を
脱ぐ。同年佐藤庄五郎氏の小作に入る。草木の生い茂る所を開墾して畑を造り、除虫菊や亜
麻などを作り、蚕も飼ったとゆう。大正初期に水田作り始める。最初は人力で(モッコ)土
を運び、後には馬を使った(スケリッパ)
。大正末期には 3 町歩程、昭和 5 年頃には 5 町歩
程になった。当時は水稲栽培で冷害凶作が常で大変苦労し、同 7 年 8 年はひどい不作と聞
いている。その頃反収は 3.5~5 俵で、1 俵が 10 円だったという。戦時中は食糧難で供出が
厳しく、芋、トウキビ、南瓜飯を食べた覚えがあります。(後略)
3 区の林 小助氏の子孫
林 善治(昭和 9 年)、妻美智子(昭和 16 年)
明治 28 年 2 代目林小助は父市左エ門家族と共に度重なる水災害飢饉に遭遇し、長年住み
慣れた墳墓の地(石川県能美郡白峰村字白峰 50 番地)を後にして奈井江村東1番地現在の
鈴木茂雄氏の北側へ入植する。
明治 31 年 3 代目市松(梶原十郎 3 男)と養子縁組」し明治 32 年現在地 9 号線東 3 線に
移住し、同 36 年(永井佐吉次女)さとと結婚し、2 男 8 女を設け開拓に励んだ。
(後略)
3 区の加藤新三郎氏の子孫
加藤清一(昭和 8 年)、妻シズエ(昭和 10 年)
加藤新三郎は明治 36 年に石川県能美郡白峰村字白峰 13 号 25 番地より、北海道空知郡沼
貝村茶志内京極に入植した。明治 35 年に都合により砂川村字奈井江南 9 号線東 5 線』191
番地(現在の奈井江温泉東側)に移り本格的な畑地開墾に努めた。作物の収穫も少なく又、
価格も不安定でありましたが、全て慎ましく生活したようです。
(後略)
※京極に入植した年が明治 36 年で、奈井江に転居してした年が明治 35 年と記載されてい
ますが、どちらかが勘違いであると思慮されます。
4 区の鈴木仁太郎氏の子孫
鈴木 茂(昭和 15 年)、妻豊子(昭和 16 年)
鈴木仁太郎、ソヨは石川県白峰村赤井川から現在の白山に移住し農業を営んでいた。
昭和 3 年 12 月に父兼松と母玉江が結婚し、4 男 4 女を設けたが 5 人が亡くなった。
昭和 5 年 2 月に祖父仁太郎」が死亡し、昭和 12 年 11 月には祖母のソヨが死亡した。
(後
略)
4 区の稲原与松氏の子孫
稲原フミ子(大正 13 年)
、稲原倉男(昭和 20 年)
、妻キヨ子(昭和 21 年)
明治 33 年石川県能登より祖父与松、祖母フサ、母ミツが白山に移住し、滝川の照井家より
佐次郎を養子に迎え、ミツと結婚した。
大正 4 年に長男賓が誕生し同 12 年白山小学校に入学した。昭和 18 年次田久義の次女フミ
子と結婚、昭和 20 年長男倉男誕生。
(後略)
4 区の笹木文作氏の子孫
笹木 實(大正 14 年)、妻テツ(昭和 5 年)
大正 5 年」に笹木家 3 代目の文作一家 9 名が石川県白峰村市之瀬より奈井江町白山 4 区
に移住し農業に従事した。
4 代目忠則、5 代目実と続き、昭和 37 年に離農した。岩見沢林務署の造林作業員として
勤務したが、昭和 46 年に笹木林業有限会社を設立し現在に至っている。
上記資料は平成 5 年 10 月 10 日発刊、白山開拓百年記念協賛会発行の「我らの郷土白山」
より各戸の紹介を摘録してあります。石川県出身と記載されている方々です。なお、同一家
系の子孫の方も多く紹介されていますが、代表となる一家のみの摘録としました。