A4 - 子羊の群れキリスト教会

2015年4月12日
わたしが生きるので、あなたがたも生きる(1)
美津子
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、
生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」
(ヨハネ 11:25-26)
主の復活を思う時、いつも主御自身が語られたこの言葉がわき上がってきます。まるで今、
耳もとで語って下さっているように。
「死んでも生きる」「いつまでも死なない」と断言される主です。
今から 28 年前、初めてこの言葉を聞いた(読んだ)時、死んでも生きる、いつまでも死なない
なんてヘンなことを言われるなと思いながら、私にはわけが分からないけれど、とても大切なこ
とが語られていると感じていました。重大ななぞでした。
ちょうど祖母を亡くしたばかりの頃でしたから、私はこのなぞを解きたかった。
その頃、「罪の支払う報酬は死である」(ロマ 6:23)ということを聞いたばかりでしたから、よけ
いに知りたかったのです。「祖母が死んだのは罪のせいなのか」 罪がどういうことか分からな
かったから、よけいに痛んでいました(罪とは神を知らないこと、神をいらないとすることでし
た)。
「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつ
までも死なない。あなたはこれを信じるか」 こんな短い言葉の中に、「信じる」という語が三度も
出てきます。信じるなら、死なない「いのち」が与えられる。信じる時、あなたはいつまでも生き
る「いのち」に入れられる。身体は死んでも死なない「いのち」がある。いつまでも生きる。
すごいことが語られています。しかし、信じないなら何も始まらない。「信じる」に鍵があるの
ですね。
「罪の死」の反対語は、永遠のいのち、これこそ私の痛みへの答えでした。重大ななぞの解
答だったのです。
イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをか
がめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に
帰するためである。
(ピリピ 2:10-11)
この宇宙礼拝にすべてのものが呼ばれています。これこそイースターのよろこびです。
宇宙礼拝を通していやしが、造られたすべてのものに成り、まことの平和が成るのですね。
(2015/3/21 春分の日に)
4月12日~4月25日 風の教会の予定 (★印は同時配信です)
日曜礼拝(10:30~)
金曜夕拝(19:00~)
土曜賛美練習(13:30~)
12日★
礼拝
17日
夕拝
18日
賛美練習
19日★
礼拝
24日
夕拝
25日
賛美練習
【礼拝前賛美練習】 毎週日曜日午前10時から礼拝前の賛美練習をしています。
ぜひ共に賛美して下さい。
【土曜賛美練習】 毎週土曜日午後1時30分から、翌日の礼拝に向けての賛美練習をします。
【3時の祈り】 毎週火~土曜日、午後3時から賛美と祈りがあります。
伝道のお知らせ(礼拝担当:ピーター&美津子)
◎ハワイ
4月18日(土) 午前10時 英語礼拝&ミニ賛美コンサート 会場:アラモアナ・ホテル
4月19日(日) 午前10時 合同礼拝&ミニ賛美コンサート 会場:アラモアナ・ホテル
◎ニューヨーク
5月24日(日) 午前11時 合同礼拝 会場:Pearl Studios (パールスタジオ、マンハッタン)
永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・
キリストとを知ることであります。
(ヨハネ 17:3)
父なる神とイエス・キリストとを知る。知るとは、信じる以上のこと、ひとつになることです。これ
は礼拝を指しているように思います。信じ礼拝する時、永遠のいのちが現わされ、永遠のいの
ちに生きる。生死を超えるいのちに生きる。
「生きる」というと、主が十字架につけられる前、弟子たちに語られた言葉が浮かんできます。
もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを
見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
(ヨハネ 14:19)
「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」 主がよみがえり、生き続けられるから、私も生き
る。永遠のいのちに生きる。主の復活こそ「生きる」源泉ですね。
そして宇宙礼拝の時に入って知ったことがあります。主を知らないで天に帰った魂も、永遠のい
のちを信じる者の信仰によって、これは宇宙礼拝を信じる者たちの礼拝によってということですが、
その礼拝に招かれていると。礼拝に招かれ、永遠のいのちに与る者とされると信じるのです。主
が生きるから造られたすべてのものが生きる時が来ているのです。
6月荒野荒野聖研課題
「全うされる」 提出日6月2日(火)
さて、これらの人々みな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神は
わたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちを
ほかにしては彼らが全うされることはない。
(ヘブル 11:39-40)
これは、どういう意味だと思いますか? また、「わたしたちをほかにしては彼らが全うされること
はない」とありますが、今、私たちを通して初めて全うされたこととは何だと思いますか?
荒野聖研専用アドレス [email protected]
子羊の群れ本部事務局 TEL:0797-21-6000
FAX:0797-21-6002
緊急の場合は事務局長携帯(090-9699-9651)までご連絡下さい。
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