2015年4月26日 わたしが生きるので、あなたがたも生きる(3) あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 (ヨハネ 14:18-20) 美津子 イースターが春にあるというのは、うれしいです。眠っていた木々が芽を出し、花が咲く。今、 桜の花が満開ですが、いのちのよろこびを一番に感じます。 桜の花は、咲き始めも濃いピンクでかわいらしい。満開はすごい花々の中に花があり、あん なに咲き誇っているのにさわやかな美しさにあふれています。そして散る桜はまた美しい。写 真を撮って下さる方に「今年は散る桜を撮って下さいね」とお願いしたほどです。 散ってゆく桜が美しいのは、いのちが受け継がれ、再び来年咲くことが信じられるからです。 散ることも生きること、いのちそのものですね。 今年の春は、というより春分の日から一つのみことばがわき上がっていました。イースターを 前にしていよいよ迫るので、今年のイースターの主からのメッセージだと思っています(あとで 分かったことですが、「いのちの家」のことでもありました)。 わたしが生きるので あなたがたも生きる この一言が何度も聞こえてきます。これはヨハネ14章にあります。 「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」 「あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおる」 そしてさらに主は言われます。 イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであ ろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その 人と一緒に住むであろう。 (ヨハネ 14:23) あなた方を捨てて孤児とはしない。わたしがあなた方におる(あなた方の内にいる)。わたし たち(父と主)は、一緒に住む。 これを読んで思いました。「家族だな」と。 これは共に住み、共に生きる神の家族です。そしていのちの家ですね。 わたしの願ういのちの家は わたし(キリスト)のからだ 神の家族である (2012 年6月1日のときあかし 「いのちの家」の予定地の前で) もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを 見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。 (ヨハネ 14:19) 私は昔からどこかトロクて悲しい子供でした。だからでしょうか。「生きたい」と生きることを願 っていました。大学生の頃、私は、死んでもいないけれど、生きてもいないと感じ、こんなまま で死んでは生まれてきた意味がないと答をひたすら求めていました。その後、あきらめることが 答かもしれないと思い、人生を豊かに過ごそうと決めました。 そんな時、「白いハト」によって主に出会いました。 永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・ キリストとを知ることであります。 (ヨハネ 17:3) イエス・キリストを知ることが答でした。ここに本当のいのちがあったからです。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるので ある。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自 身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 (ガラテヤ 2:20) 神を信じることによって生きる。信仰によって生きることが、生きることでした。生きるよろこび が分かりました。「これが生きることだったんだ」 生きることがよろこびであることを知りました。 わたしが生きるので あなたがたも生きる この言葉が響くのでヨハネ14章を読みました。これまで何度も読んできたところですが、新し く読めてくるのには驚きました。 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばら くしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わた しが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、 これが分かります。「いのちの家」の建設契約の調印式が一昨日結ばれました。いのちの家 のために、「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」という言葉が続いていたのかもしれませ ん。 主はよみがえって、永遠に生きられるのですから、私たちも生きます。生きるものの「からだ」 がいのちの家です。 「風の教会は十字架のあがない、いのちの家は復活のいのち」とピーター先生は言われま すが、風の教会といのちの家が建つことによって神の御計画が成ってゆくのでしょう。 風の教会もいのちの家も、建物ですが、この小さな建物のことを言うのではなく、全地に風の 教会が建つという信仰、いのちの家─神の家族が成るという信仰によって、キリストのからだが 成るということだと思います。風の教会からあがないの愛を全地に伝え─さんびし─いのちの 家に、造られたすべてのものを招く。 こうして宇宙礼拝が成るのでしょう。 でっかいことを言っていますが、私は宇宙礼拝に神の願いを見てしまいました。白いハトに 託された願いだと思いました。 宇宙礼拝というスケールは大きく、時間は永遠という、人の頭ではとうてい分かり得ないほど のものですが、スケールが大きければ大きいほど神は一人一人の小さな祈りも、願いも見過ご されないと信じています。 今ほどいやしが起こる時もないのを見ても分かります。そして今ほど深いいやしが起こって いる時はないと感じています。根こそぎのいやしの時なのです。 復活は、死んでいたもの(死んだようなもの)が生き返ること。傷つき、痛んだ心、失われた心、 失ったよろこびや希望が生き返ることです。 わたしが生きるから あなたがたも生きる 神の家族として生きる キリストのからだが成る時は 宇宙礼拝に神の願いが成る時である (2015/4/5 イースターいやし礼拝の朝に)
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