平成 21 年度新潟薬科大学薬学部卒業研究Ⅰ

平成 21 年度新潟薬科大学薬学部卒業研究Ⅰ
論文題目
レーザーイオン化に伴うジペプチドの化学結合切断
薬品物理化学研究室 4 年
06P043
佐藤 碧葉
(指導教員:星名 賢之助)
要 旨
タンパク質の多くはアミノ酸がペプチド結合で並んだものである。タンパク質分解酵素(プロ
テアーゼ)は、特定の配列に選択的に作用し、ペプチド結合を切断する。プロテアーゼによるペ
プチド結合の切断においては、酵素の選択性は触媒部位の近傍に存在する疎水的な基質結合ポケ
ットの構造や性質によって決まり、またプロテアーゼによるペプチド結合の切断の触媒作用には
触媒部位のアミノ酸残基と四面体中間状態の安定化が伴っている。
一方、光照射にも、化学結合を選択的に切断する力は潜在的にある。200nm フェムト秒レーザ
ーパルスによるジペプチドの光イオン化では SIMS と比較した場合、光イオン化の方がよりシグ
ナルを形成する。光イオン化の方が高感度であることから、光イオン化を行うことで得られる
フラグメントパターンからの推測により、効率的なタンパク質イオンの質量分析を行うこと
が可能であると考えられる。また、ナノ秒・フェムト秒レーザー光によるジペプチドの多光
子イオン化解離(MPID)においては、発色団の有無と発色団による光子の吸収・エネルギーの
蓄積と再分配が切断箇所の選択性と大きく関わっていると考えられる。
ペプチドの光反応を行うことで効率的に新規のタンパク質を解析する足がかりが得られる
ことが期待される。また、医薬品のターゲットであるタンパク質の高次構造を知ることがで
きれば、薬をデザインする上でも重要な役割を果たす技術として需要が高まると考えられる。
キーワード
1.アミノ酸
2.タンパク質分解酵素(プロテアーゼ)
3.α‐開裂
4.ペプチド
5.多光子イオン化解離(MPID)
6.多光子イオン化(MPI)
7.SIMS
8.フェムト秒レーザー
9.ナノ秒レーザー
10.TOF-MS
11.分子内振動エネルギー再分配(IVR)
12.Tyr-Leu
13.Tyr-Tyr
14.Val-Val
15.キモトリプシン
16.サチライシン
17.セリンプロテアーゼ
目 次
1.はじめに
1
2.酵素によるペプチドの選択的切断の機構
2
3.ペプチドの光反応の研究(気相)
9
4.おわりに
22
引用文献
24
論 文
1.はじめに
タンパク質の多くはアミノ酸がペプチド結合で並んだものである。タンパク質分解酵素
は、特定の配列に選択的に作用し、ペプチド結合を切断する。タンパク質のアミノ酸配列
を決定する際には図 1 のようにタンパク質分解酵素によって選択的にペプチド結合を切断
し、高分子であるタンパク質から分子量の小さなペプチドに分解した後、質量分析法等に
より分析を行う。しかし、タンパク質からペプチドに分解する際に、試料としてのタンパ
ク質の量が減少し、分析における感度が下がってしまうという問題点がある。一方、光照
射にも、化学結合を選択的に切断する力は潜在的にある。図 2 のようにレーザー光を用い
て、タンパク質の処理をせずに、選択的にペプチド光切断を行うことで、試料としてのタ
ンパク質の量を減らさずに分析ができるのではないかと考えられる。そこで、私はまず酵
素によるペプチドの選択的切断の機構はどのようなものかを調べ、その上で、レーザー光
を用いてペプチド結合を切断する研究例(ペプチドの光反応研究例)を調べた。そこから
レーザー光が光酵素として機能する可能性があるのかどうかを検討し、最近の取り組みと
ともにまとめた。
図 1:プロテアーゼによるペプチド結合切断の概念図
図 2:レーザーによるペプチド結合切断の概念図
アミノ酸は筋肉、臓器などの主要成分であるタンパク質や酵素・ホルモンなど生体機能
を調節する生理活性物質を構成している[1]。ペプチドやタンパク質の生体内での機能はア
ミノ酸の種類と並び方(アミノ酸配列)によって決まり、この配列はタンパク質の設計図
として遺伝子 DNA に書き込まれている。また、ペプチドは 2 個のアミノ酸同士で一方の
アミノ基と他方のカルボキシ基間で脱水縮合した構造の化合物であり、‐CONH‐結合
(ペプチド結合)を含んでいる。20 種類のアミノ酸がこのペプチド結合によって鎖のよう
に繋がったポリペプチドをタンパク質という。タンパク質は生命現象の中心的な役割を担
っている生体高分子である。タンパク質は構成単位であるアミノ酸の種類、配列順序、高
1
次構造によって多様な構造をとることができる。さまざまな構造を形成しうるタンパク質
には、沢山の種類の形をもったタンパク質が存在し、それぞれが別々の機能を持っている。
それらのタンパク質は触媒作用、分子輸送、構造形成・保持、生体防御、代謝調節、貯蔵
などの多くの役割を果たしている。
タンパク質の機能はアミノ酸配列や立体構造と密接に関係しており、アミノ酸配列から
得られる情報は、アミノ酸組成から得られる情報に比べると格段に多い。例えば、膜タン
パク質における膜貫通部位や抗体タンパク質が認識する抗原部位を推測する際には、アミ
ノ酸配列情報から疎水性領域および親水性領域を検索して、その分布を作成することによ
り予測が可能となる。また、2 種類のタンパク質のアミノ酸配列の類似性があるかどうか、
あるいは、特定の機能を指定するための目安となるモチーフ配列の有無、リン酸化や糖鎖
結合部位などの翻訳後修飾部位の同定、そして基質や補欠分子族の結合部位などを検索す
ることによって、そのタンパク質の機能を推測することも可能になる。特に、モチーフ配
列はタンパク質のアミノ酸配列において、共通の特徴をもつ配列パターンである。この配
列パターンは特定の生命反応に関係しており、タンパク質の機能の推定に重要な情報を提
供している。
本研究でとりあげているレーザー光によってペプチド結合を切断する方法を用いるこ
とにより、ペプチド配列やアミノ酸配列の効率的な解析が可能となる。これによって、機
能がまだ特定されていない新規のタンパク質を解析する足がかりが得られると考えられ
る。また、医薬品の薬効は薬物分子がターゲットとなる生体中のタンパク質に選択的に結
合することで発現する。したがって、ターゲットであるタンパク質のアミノ酸配列、さら
にはアミノ酸配列で決まる高次構造を知ることが薬をデザインする上で重要となる。
一方で、光を利用してペプチドを合成する研究も行われている[2]。光リソグラフィーの
技術を利用することにより、さまざまな配列のペプチドを顕微鏡レベルで二次元列状に固
相表面状に合成することが可能である。合成に用いるアミノ酸は N 末端を光分解性保護基
で保護され、C 末端に活性化したカルボキシル基をもつものである。最初に第1のアミノ
酸をアミノ基でコートした固相表面と反応させる。次に全表面に光を照射し、保護基をは
ずす。これによりそれぞれの鎖に第 2 の活性化アミノ酸を付加することができるようにな
る。この工程を繰り返すことでコンビナトリアルペプチド列を空間的に配置することが可
能である。光を利用したペプチドの合成は特定の生物活性の有無を多種のペプチドについ
て一挙に試験する際等に役立つと考えられる。
2.酵素によるペプチドの選択的切断の機構
一般的に、アミノ酸配列の決定は酵素により高分子であるタンパク質を分子量の小さな
ペプチドに分解してから質量分析を行う。そこで、酵素によるペプチドの選択的な切断の
機構を以下に述べる[3,4]。
2
酵素によるペプチドの選択的切断にはプロテアーゼが使われる。プロテアーゼはタンパ
ク質およびポリペプチド中のペプチド結合を加水分解する反応を触媒する酵素の総称で
あり、タンパク質分解酵素とも呼ばれる。プロテアーゼは活性中心と呼ばれる活性発現に
関与する部位をもっており、その活性中心は図 3 に示すように基質となるタンパク質やペ
プチドのアミノ酸残基と相互作用するアミノ酸基質結合部位と触媒作用が行われる触媒
部位からなる。プロテアーゼの基質特異性は基質結合部位を形成するアミノ酸側鎖の性質
により決定され、水素結合、静電的相互作用、疎水性相互作用などの非共有結合性相互作
用の組み合わせに由来する。
触媒部位
Ser195
Asp102
His57
-
OOC
OH
NH
N
R1 CH C N R2
CH2O H
NH
基質
基質結合部位
図 3:触媒と基質結合部位(キモトリプシンの活性中心) [Ref.1, 図Ⅱ,6,2]
プロテアーゼはタンパク質内部のペプチド結合に作用するエンドペプチダーゼと、タン
パク質やペプチドの N 末端または C 末端近くのペプチド結合に作用するエキソペプチダ
ーゼに分かれる。通常、プロテアーゼといえばエンドペプチダーゼのことをさす場合が多
く、その存在様式や基質特異性はさまざまであるが、触媒作用がかかわるアミノ酸残基や
原子団によって、セリンプロテアーゼ、システインプロテアーゼ、アスパラギン酸プロテ
アーゼ、金属プロテアーゼの 4 種類に大きく分類される。ここではセリンプロテアーゼに
ついて考えることにする。
セリンプロテアーゼは、Bacillus 属細菌が分泌するサチライシンやカビ由来のプロテイ
ナーゼ K など微生物由来の酵素(サチライシン型)とトリプシン、キモトリプシン、エラ
スターゼなど哺乳類由来の酵素(キモトリプシン型)に大別される。セリンプロテアーゼ
は、各々特定の種類のアミノ酸の C 末端側のペプチド結合を優先的に切断する。例えば、
トリプシンは Lys(リジン)や Arg(アルギニン)のような塩基性アミノ酸残基の C 末端
3
側を優先的に切断するのに対して、キモトリプシンは Phe(フェニルアラニン)のような
疎水性残基に対してもっとも強く作用する(図 4)
。
R1 O
N C C
H H
N末端・・・
R2 O
N C C
H H
・・・C末端
トリ プシン R1=Lys,Arg
キモトリ プシン R1=Tyr,Trp,phe,Leu
*示した残基の隣のペプチド結合が切断さ れること を示す
図 4:酵素によるペプチド結合の切断
ほとんどのセリンプロテアーゼは似たような三次元構造をもっており、すべてのセリン
プロテアーゼの活性部位領域には多数の共通点が見出される。大きな共通点としては、Ser
(セリン)
、His(ヒスチジン)、Asp(アスパラギン酸)からなる触媒三つ組残基が、活性
部位の窪みの周辺に常に存在している点が挙げられる。例えば、キモトリプシンの構造で
いうと、Ser195、His57、Asp102 がそれらに相当する(図 5)
。これらの 3 つのアミノ酸
によって効果的な加水分解が進行する。
O
H2C
O
H
N
N
H O
CH2
Asp102
H2C
Ser195
His57
図 5:キモトリプシンの触媒三つ組残基
また、一般にプロテアーゼの基質特異性は、触媒部位の近傍に存在する疎水的な基質結
合ポケットの構造や性質によって決まることが多い。セリンプロテアーゼでは基質結合ポ
ケットは活性部位にある Ser に近接して位置している。キモトリプシンでは Phe のような
疎水性側鎖を受け入れるために、ポケットは広くかつ疎水的残基に縁取られている。キモ
トリプシンの基質結合ポケットの底は Ser なので基質としては電荷をもったアミノ酸側鎖
は結合できず、Tyr、Trp、Phe などの芳香族アミノ酸が好んで入り込む(図 6(1))
。一
方、トリプシンではポケットの底に負に荷電したカルボキシルがあり、Lys や Arg のよう
な正に荷電した長い側鎖を捕らえ保持するのに適している(図 6(2)
)。それぞれのセリン
プロテアーゼに特異性を与えているのはこのようなポケットの性質である。
4
図 6:キモトリプシン・トリプシンの基質結合ポケット[Ref.3, 図 9.9]
それでは、酵素によるアミノ酸鎖の切断機構はどのようになっているのか。キモトリプ
シンとサチライシンのそれぞれのアミノ酸鎖の切断の機構について考えることにした。
キモトリプシンはどのように Phe のような芳香族アミノ酸の C 末端側を切断するかを
示す(図 7)
。まず切断されるべきポリペプチド鎖が酵素表面に結合する。ペプチド基質が
疎水性ポケットの側鎖と非共有結合で結合すると、His57 が一般塩基触媒として働き、
Ser195 の OH 基からプロトンを引き抜き、生じた反応性の高い O-が基質のカルボニル基
を求核的に攻撃する(図 7-1)
。アルコール酸素の求核性のみではこの反応は進行しないが、
Ser 近傍 His のイミダゾール環が OH 基の水素と水素結合し、さらに Asp の COO-基がイ
ミダゾールの水素原子と相互作用することでアルコール酸素の求核性を高めている。この
一連の反応が進行することによって、基質は酵素によって四面体形中間体を形成する(図
7-2)。カルボニル基由来のオキシアニオン(O-)の近傍にはペプチド鎖中のアミド窒素に結
合した水素が 2 個存在し、オキシアニオンと水素結合してこれを安定化する。この部位は
オキシアニオンホールと呼ばれ、遷移状態の静電的安定化による活性化エネルギーの減少
を引き起こし、加水分解反応の効率的な進行に大きく寄与すると考えられる。Ser がアシ
ル化されると(図 7-3)
、切断されたアミン部分が活性部位から離れ、その空間に加水分解
に必要な水分子が入り込む(図 7-4)。その水分子が Ser の OH 基の場合と同様に His と
Asp の共同効果により活性化され、Ser エステルのカルボニル炭素を攻撃し、第二の四面
体形中間体が形成される(図 7-5)
。その後、プロトンは His57 から Ser195 に戻され、ポ
リペプチドの残りが遊離する。ここで酵素は最初の状態(活性型)に戻る(図 7-6)。
5
N
H
基質
1
R'
2
O
(四面体形中間体)
R'
N
H
O
H2C
O
H
N
N
R
O
H
H2C
H O
O
H
N
N
O
N
R
H
O
CH2
CH2
Asp102
Asp102
H2C
H2C
Ser195
Ser195
His57
His57
3
4
(アシル酵素中間体)
O
O
R'
O
R
N
H2C
O
H
H
N
N
Asp102
R
O
H
O
-R'NH2
CH2
+H2O
H2C
H2C
O
H
N
H
N H O
O
CH2
Asp102
H2C
Ser195
Ser195
His57
His57
5
6
N
H
(第二の四面体形中間体)
N
H
H
H
H
N
N
H
R
O
R
O
H2C
O
O
H
N
N
H O
CH2
CH2
Asp102
O
O
O
O
O
H2C
N
H
Asp102
H2C
H2C
Ser195
Ser195
His57
His57
図 7:キモトリプシンによるペプチド結合加水分解反応の触媒[Ref.4, 図 36・1]
次にサチライシンはどのようにアミノ酸鎖のペプチド結合を切断するかを示す(図 8)
。
サチライシンの触媒部位もまたセリンプロテアーゼに共通の触媒三つ組み残基(Asp32、
His64、Ser221)で構成されている。まず、酵素と基質の間でミカエリス複合体が形成さ
れた後、His64 が一般塩基触媒として働き、Ser221 の OH 基からプロトンを引き抜き(図
8-1)、生じた反応性の高い O-が基質の切断されるペプチド結合のカルボニル炭素を求核攻
撃し、四面体形中間体を生成する(図 8-2)。つぎに、形成された四面体形中間体は一般酸
触媒として働く His64 が与えるプロトンにより基質のペプチド結合が切断され、基質のカ
ルボキシル末端側が遊離し、アミノ末端側は酵素に結合したままアシル酵素中間体を形成
する(図 8-3)。四面体構造において、基質切断部位のカルボニル酸素は負電荷を帯びたオ
6
キシアニオン(O-)として存在し、Asn155 の側鎖のアミド NH2 基と Ser221 主鎖のアミド
NH が水素結合の供与体となって四面体形中間体は安定化する。さらに、水分子がアシル
酵素中間体を求核攻撃し、第二の四面体形中間体(図 8-4)を経て基質のアミノ末端側が
遊離したカルボキシル生成物ができると、酵素は活性型に戻る(図 8-5)。
1
2
Asn155
O
O
(ミ カエリ ス複合体)
NH
Asn155
H
O H
C N
O H
C N
O H
O H
O
N
(四面体形中間体)
NH
H
N
NH
O
N
O
O
Ser221
Ser221
Asp32
Asp32
His64
His64
3
4
Asn155
Asn155
O
O
(アシル酵素中間体)
NH
NH
H
H
O
C
H
HN
O
O
H
C O
H
O
N
O
N
(第二の四面体形中間体)
NH
O
N
O
O
Ser221
Ser221
Asp32
Asp32
His64
His64
5
Asn155
O
NH
(活性型酵素)
H
O
C OH
OH
O
N
NH
O
Ser221
Asp32
His64
図 8:サチライシンによるペプチド結合加水分解反応の触媒[Ref.3, 図 9.3]
7
セリンプロテアーゼによる触媒作用機構の鍵は2つの四面体形中間状態の安定性にあ
り、これらは本質的な遷移状態にきわめて類似している。これらの中間体はなぜこのよう
に安定なのか?酵素に捕獲された中間体の X 線による構造解析によると、Ser195 および
Gly193 のアミノプロトンは四面体複合体の酸素の1つと水素結合を形成することが可能
である。この酸素は基質のカルボニルを形成していた酸素であり、また上記の水素結合は
基質が四面体状態を形成しているときにのみ形成される。従って、この水素結合によって
中間体は安定化される。つまり、セリンプロテアーゼのペプチド結合切断の触媒作用には
四面体形中間状態の安定化が伴っている。
他のプロテアーゼもセリンプロテアーゼと類似の機構でペプチド結合を切断する。シス
テインプロテアーゼの触媒部位には Cys と His が存在する。植物パパイヤ由来のパパイン
では 2 つのドメインが接触する部位に Cys25 が存在し、セリンプロテアーゼの Ser が Cys
に置き換わった構造をしている。そして、His159 が Cys25 の SH 基のプロトンを受け取
る役割をしており、セリンプロテアーゼと類似の作用機構であると考えられ、アシル酵素
中間体の存在することも証明されている(図 9(a))。また、アスパラギン酸プロテアーゼの
触媒部位には Asp が存在し、酸性において反応が進む。ペプシンではアミノ末端およびカ
ルボキシル末端側からなる 2 つのドメインの間に 2 つの Asp(Asp32,Asp215)を含む活
性部位が存在している(図 9(b))。活性中心に存在すると考えられる水分子が基質に対して
求核攻撃をする際に、
どちらかの Asp の COO-基が酸塩基触媒として作用しており、
また、
COOH 基から遊離したプロトンが 2 つの COO-基の中央に配位し、酸触媒として基質のカ
ルボニル炭素を攻撃するとも考えられる。一方、金属プロテアーゼの触媒部位には金属イ
オン(Zn2+、Mn2+など)が存在し、この金属イオンを除去すると酵素活性は失活する。
Bacillus thermoproteolyticus が分泌する金属プロテアーゼであるサーモライシンでは、
His231 や Glu143 だけではなく、Zn2+が活性に必要であり、酵素の安定化には Ca2+が関
与している(図 9(c))。Glu143 の COO-基により活性化された水分子が求核攻撃し、ペプチ
ド結合を切断する。
図 9:代表的なプロテアーゼの活性部位[Ref.3, 図 9.2]
8
このように、プロテアーゼの基質特異性(選択性)は触媒部位の近傍に存在する疎水的
な基質結合ポケットの構造や性質によって決まり、またプロテアーゼによるペプチド結合
の切断の触媒作用には四面体中間状態の安定化が伴っている。
3.ペプチドの光反応の研究(気相)
1:フェムト秒レーザーによるジペプチドのレーザーイオン化
最も単純なアミノ酸鎖であるジペプチドにレーザー光を照射したときにどのような反
応が起こるのかを調べた[5]。SIMS(secondary ion mass spectrometry)は古くから知ら
れた質量分析法におけるイオン化方法の一つであり、特に固体の表面にビーム上のイオン
(一次イオン)を照射し、そのイオンと固体表面の分子・原子レベルでの衝突によって発
生するイオン(二次イオン)を質量分析計で検出する表面計測法である。例えば、タンパ
ク質などの固体試料を用いれば、一次イオンの衝突によりタンパク質イオンの質量分析が
可能となる。しかし、感度の面で問題があった。それは、一次イオンが衝突する際に、陽
イオンと陰イオンだけでなく中性種も脱離されるという点であり、その収量はイオンに対
して 1000 万倍である。したがって、中性種を効率的に検出できれば、感度の飛躍的な向
上が可能になると期待される。
これまで、脱離した中性種を光イオン化するための方法としてナノ秒レーザーが主に用
いられていた。しかしながら、原子をイオン化することには成功したが、分子はイオン化
ののち解離してフラグメント化され、分子イオンとして検出することはできなかった。一
方、近年フェムト秒レーザーは脱離した中性分子を検出するための新たなイオン化の手段
として注目されている。フェムト秒レーザーを利用することで中性種を非破壊的にイオン
化することができるのではないかと考えられる。ここでは、検出の感度を高めるために、
フェムト秒レーザーを利用したジペプチドのレーザーイオン化に関する文献についてま
とめる。
実験に使用する試料のジペプチドはインジウム(In)ホイルにのせ、分析のための真空
槽へと導入した。実験には TOF-SIMS(time-of-flight secondary ion mass spectrometry)
を用いている。25 KeV Ga+イオンビームを照射することにより、試料分子は陽イオン、
陰イオン、もしくは中性種の形で固体試料表面から脱離する。イオンはそれらの質量に従
って flight tube 中で分離され、MCP 検出器によって検出される。MCP 検出器によって
検出されたシグナルは AC 変換し,PC に送られる。レーザーには Ti:Sapphire レーザー
システムが用いられており、得られたレーザーの出力は波長 800nm、時間幅 100fs、パル
スエネルギー3.5mJ/pulse である。
このレーザー出力を基準波として第二高調波
(400nm)、
第三高調波(267nm)
、第四高調波(200nm)を発生させた。レーザー光は 25cm 焦点距
離 CaF2 レンズにより分析チャンバーへと導入した。
Val-Val と Leu-Trp の 200nm 光イオン化質量スペクトルを図 10、図 11 に示す。これら
9
の 2 つのジペプチドは SIMS スペクトルでは容易に分子イオンを観測できるが、光イオン
化質量スペクトルではどちらのジペプチドも分子イオンが出ていない。
図 10:Val-Val の 200nm 光イオン化質量スペクトル(In+:インジウムイオン) [Ref.5, Fig. 1]
図 11:Leu-Trp の 200nm 光イオン化質量スペクトル(In+:インジウムイオン) [Ref.5, Fig. 2]
Val-Val ではα-開裂したバリン側鎖が強く観測される。一方,Leu-Trp ではα-開裂した
ロイシン側鎖とトリプトファン側鎖が強く観測される。それぞれの結合がどのように切断
されるのか、そのメカニズムについて考える。
これまでの研究では、α-アミノ酸において、窒素原子の孤立電子対のうちの 1 電子がイ
オン化するときと窒素原子にラジカルが形成されるときのエネルギーが最も低いイオン
化エネルギーをもつことが分かっている。その後、図 12 のように炭素と窒素間の二重結
合から電子が供給されることで、アミノ基の窒素原子は反応を開始する。アミノ基が他の
10
電子に寄与することで、C-C 結合が壊れ、カルボキシル基ラジカルが形成される。
(1)
H O H H
H2N C C N C COOH
R1
R2
(2)
(3)
H O H H
H2N C C N C COOH
R1
R2
H
H2N C
R1
+
O H H
C N C COOH
R2
図 12:アミノ基がイオン化したときのα-開裂の機構
Val-Val(図 13)には 2 つの窒素が存在する。この 2 つの窒素のうちアミド基の窒素は、
C=O 基が電子を引きつけるためイオン化エネルギーがアミノ基の窒素よりも大きい。した
がって、Val-Val ではアミノ基の窒素からイオン化がおこり、ペプチド結合の N 末端側が
切断される。
図 13:Val-Val の構造
Trp と Tyr のような芳香環をもつアミノ酸では、最も低いイオン化エネルギーを示すの
は官能基からの電子がイオン化するときである。Trp のイオン化ポテンシャルは 7.2 eV で
あり、これは官能基から 1 つの電子が外れるために必要とされるエネルギーに等しい。一
方、Leu のイオン化ポテンシャルは 8.5 eV であり、窒素原子がイオン化するために必要と
されるエネルギーに相当する。すなわち、Trp のイオン化ポテンシャルの方が低いので、
Trp の方から電子がイオン化しやすいといえる。しかしながら、Leu-Trp(図 14)では Leu
が電子を引き付けることで Trp の官能基からとりにくくなる。これにより、官能基または
窒素原子から 1 つの電子が取り外されるために必要とされるエネルギーはほぼ同じになる
ため、Leu-Trp はペプチド結合の N 末端と C 末端のどちらからも切断されうる。
図 14:Leu-Trp の構造
11
SIMS とレーザーイオン化のスペクトルを比較すると、親分子イオンシグナルは SIMS
の方がより容易に検出できる。これは SIMS 法により分子が解離せずに、脱離・イオン化
されていることを意味している。しかしながら、光イオン化では分子イオンは検出されな
かった。分子イオンが検出されないということは、試料の質量が特定できず、その結果と
して分析が困難であるということになる。一方で、SIMS と光イオン化のスペクトルを比
較すると、光イオン化によって得られた総イオン収量が SIMS のものに比べてかなり高い
ことがわかる。Leu-Trp においては光イオン化によって得られた総イオン収量は 25 倍大
きかった。
結論として、200nm フェムト秒レーザーパルスによるジペプチドの光イオン化において、
分子イオンシグナルは検出されず、そのフラグメンテーションのメカニズムはα-開裂が主
たるものであった。また、SIMS と光イオン化により生じた総シグナル強度を比較したと
き、光イオン化の方がよりシグナルを形成する。光イオン化の方が高感度であることから、
フラグメントパターンから推測することでタンパク質イオンの質量分析を行うことが可
能であると考えられる。
2:ナノ秒・フェムト秒レーザー光による生体分子の多光子イオン化質量スペクトル
ナノ秒・フェムト秒レーザー光によるジペプチドの多光子イオン化解離(MPID:
Multiphoton ionization and dissociation)過程について調べた[6]。共鳴多光子イオン化
(REMPI:Resonance Enhanced Multiphoton Ionization)は広い範囲の生体分子の質量
分析に利用されている。しかし、ナノ秒レーザー光による REMPI では 1 光子吸収による
解離速度が MPI に必要な次の光子の吸収速度を上回ってしまう(図 15)。したがって、こ
のケースではどんな波長においても非破壊的に分子イオンを形成することは不可能であ
る。この問題を改善するためには高い強度のレーザー光を用いることで光励起速度を増加
させることが必要である。近年、フェムト秒レーザーイオン化質量分析が発色団を含む有
機系においてフラグメンテーションを最小限にするのに有用であるとの報告がなされて
いる。ここでは、イオンビームを照射した中性種に対する最適な光イオン化法の開発のた
めに、ナノ秒とフェムト秒レーザーを用いたイオン化を比較した研究に関する文献につい
てまとめる。
図 15:光子の吸収と解離の競合
12
実験では、266nm,5ns のナノ秒レーザーと 250fs のフェムト秒レーザーによる励起の
結果生成した MPID の生成物である Tyr-Tyr、Tyr-Leu、Val-Val を飛行時間型質量分析計
により検出している。この実験装置の概要を図 16 に示した。レーザーによるイオン化で
は、ナノ秒励起では Nd:YAG レーザー(波長 266nm、最大出力 30mJ、5ns)
、フェムト
秒励起では Ti:Sapphire レーザー(波長 266nm、最大出力 150μJ、250fs)が使われてい
る。Nd:YAG レーザーは 10Hz、Ti:Sapphire レーザーは 1KHz で作動し、図 16 左側から
真空槽に入射される。ジペプチド試料は真空槽の中央に設置され、primary ion gun によ
るイオン照射により脱離される。レーザー照射によって生成したイオンは、試料と
TOF-MS の導入口の間の電場により 2.5 eV の運動エネルギーまで加速され、TOF-MS
tube で測定される。
図 16:実験装置[Ref.6, Fig. 1]
ナノ秒レーザーを用いたイオン化において、Tyr-Leu と Tyr-Tyr は時間幅 5ns、レーザ
ー電場強度 102-109 Wcm-2 でイオンが観測された。しかしながら、Val-Val ではイオンは観
測されなかった。イオン化のためには 266nm の光子を 2 光子吸収する必要がある。これ
までに、発色団をもたない分子は近紫外領域でのナノ秒レーザーを用いてのイオン化は困
難であることが報告されている。発色団をもつ分子には可視・紫外域の吸収帯が存在し、
これにより光子を容易に吸収することでイオン化の効率が上がる。一方、発色団をもたな
い Val-Val ではそのような吸収帯が存在せず、その結果ナノ秒レーザーを用いた場合には
光子を吸収できない。これはナノ秒レーザーの電場強度が Val-Val の非共鳴 2 光子吸収に
よるイオン化が起こるには不十分であるためである。したがって、ナノ秒レーザーでは発
13
色団が存在するとイオン化しやすいということがいえる。
一方、フェムト秒レーザーを用いた 250fs(1010-1012 Wcm-2)での励起では Tyr-Leu、
Tyr-Tyr、Val-Val の 3 つのジペプチドで同じ程度イオン化した。図 17 はおおよそ等量の
中性分子を用いた条件で Ti:Sapphire レーザーにより Tyr-Leu、Tyr-Tyr、Val-Val それぞ
れから生じたイオンの信号の強さを示したプロットである。3 種類のジペプチドのデータ
は大体同じ値を示している。このことから、ナノ秒レーザーを用いたイオン化では発色団
をもたない Val-Val はイオン化しなかったが、フェムト秒レーザーを用いた場合では
Val-Val は芳香環を含む分子とよく似たイオン化効率を示すということがいえる。これは
フェムト秒レーザーにより非共鳴吸収過程が増すためだと考えられる。それにより、フェ
ムト秒レーザーを用いた場合では共鳴、段階的吸収以外によるイオン化が優勢になり、発
色団をもたない分子でも同程度イオン化する。
図 17:Tyr-Leu、Try-Try、Val-Val のイオン信号のレーザー強度依存性のパワープロット[Ref.6, Fig. 2]
(a)Tyr-Tyr
(b)Tyr-Leu
328 136
H
C
H2N
H
O
H
N
C
O
C
C
298
107
CH2
H
C
H2N
OH
327
C
H
N
C
O
C
188
107
H
CH2
H
O
136
C
248
H
277
H2C
CH
H3C
発色団
OH
OH
OH
(c)Val-Val
H
O
H
C
H2N
56
C
H
N
C
72
C
170
CH
H3C
O
OH
199
HC
CH3
H3C
CH3
図 18:MPI による単結合開裂[Ref.6, Scheme 1]
14
CH3
OH
図 18 はジペプチドの MPI によって起こる単結合開裂によってどの場所で結合が切れたの
かを示すものである。
Fragment
M-OH
or
M
M-NH₂
M-NH₃
M-H₂O
M-HCOOH
M-NH₂COOH
Immonium
m/z
344
328
327
326
298
283
136
ns
-
-
-
-
-
-
91
fs
1
4
33
99
100
74
12
m/z
294
278
277
276
248
233
136
ns
-
-
-
-
-
-
21
fs
8
16
100
82
28
85
48
m/z
216
200
199
198
170
155
72
fs
7
-
-
-
100
28
70
Tyr-Tyr
Tyr-Leu
Val-Val
表 1:5ns, 250fs レーザー波を用いた MPI における生成物の相対的量[Ref.6, Table 1]
表 1 は 5ns と 250fs レーザー光を用いた MPID での生成物の相対的な量を示している。
15
図 19:2 Jcm-2 におけるナノ秒 MPI 質量スペクトル[Ref.6, Fig. 3]
フラグメントには、ナノ秒レーザーを用いた場合にだけ観測されるものと、フェムト秒
レーザーを用いた場合にだけ観測されるものがある。これはフラグメンテーションのメカ
ニズムにレーザーの時間幅が関与していることを示している。
図 19 は 2Jcm-2 におけるナノ秒 MPI 質量スペクトルである。Tyr-Leu のナノ秒 MPID
質量スペクトル(図 19(a))で観測される最も大きい質量は m/z220 であり、ロイシン側鎖と
OH 基もしくは NH3 が外れたイオン種に相当する(図 20)。すなわち、光を吸収する発色団
から離れた部位が切断される。これは発色団に蓄えられたエネルギーが速やかに分子全体
に再分配され、発色団以外の基が外れたことを示唆している。発色団以外の基が外れたこ
とは C7H7O が外れて生じる m/z188 のピークが観測されないことから明らかである。また、
m/z240 である(M-C4H9)イオンが形成される場合には 2 つのルートがあると考えられる(図
21)。1 つは Tyr-Leu がイオン化せずに、C4H9 と M- C4H9 に壊れ、その後、M-C4H9 がイ
オン化するルートである(図 21(1))。もう1つは、Tyr-Leu がイオン化し、(M- C4H9)+
と C4H9 が生じるルートである(図 21(2))
。しかし、実際には M+が観測されないことか
ら、後者のルートは考えにくいと言える。
16
m/z188(M-C7H7O)
m/z220
H2N
H
O
H O
H
C C N C C
CH2
H2N
OH
H2N
O H H O
C N C C OH
CH2
CH
H3C CH3
CH2
OH
m/z240(M-C4H9)
H
C
CH2
CH
H3C CH3
H
O
H O
H
C C N C C
CH2
OH
OH
OH
CH2
CH
H3C CH3
図 20:ナノ秒 MPI マススペクトルにおけるイオン種
図 21:m/z240 を形成する 2 つのルート
17
R2
O H CH
H
H2N C C N C COOH
H
R1
H
rH
H
O
H
H2N C C N
R1
H
R2
CH
C COOH
H
H
O
H
H2N C C N
R1
H
α
homolytic
cleavage
H
O
H
H2N C C N
R1
H
R2
CH
C COOH
H
α
heterolytic
cleavage
H
O
H
H2N C C N
R1
H
R2
CH
CH
COOH
R2
CH
CH
COOH
m/ z114
m/ z114
rH
rH
O
H
H2N C C NH2
R1
O
H
H2N C C NH2
R1
図 22:Tyr-Leu からのアミド基の elimination の経路 R1=C7H7O, R2=C3H7 [Ref.6, Scheme 2]
図 22 は Tyr-Leu からのアミド基の elimination の経路を示している。ナノ秒 MPID 質
量スペクトルにおける m/z114 のフラグメントは図 22 のような反応により生じると考えら
れ て い る 。ま ず 、 ア ミド 結 合 の 酸素 に 位 置する 正 荷 電はγ -水 素 の転 位 を 促進す る
(McLafferty 転位)。
次に N-C 結合はアミドとカルボン酸をつくるためにα-開裂をうける。
この N-C 結合の開裂がヘテロリティック開裂(図 22:右のルート)であるならば、m/z114
におけるラジカルカチオン(陽イオン)は直接形成されるが、ホモリティック開裂(図 22:
左のルート)であるならば、まず中性カルボン酸が形成された後に続けて光子を吸収し、
イオン化する。したがって、ナノ秒質量スペクトルにおける m/z114 のフラグメントはイ
オン化-解離機構のどちらからでも形成されうるといえる。
18
図 23:5 mJcm-2 におけるフェムト秒 MPI 質量スペクトル[Ref.6, Fig. 4]
図 23 は 5 mJcm-2 におけるフェムト秒 MPI 質量スペクトルである。フェムト秒レーザ
ーを用いた場合にはナノ秒レーザーを用いたときと異なり、発色団の近傍で結合が切断さ
れる。このことは Tyr-Leu のフェムト秒スペクトルから読み取ることができる。例えば
(M-NH2)+・、 (M-OH) +・、(M-H2O)
+・
は全てチロシン側近傍のフラグメンテーションに
より生ずることが可能である。発色団が外れると m/z188(M-C7H6O)
+・
が現れる。このイ
オンは Tyr-Leu のフェムト秒質量スペクトルでは観測されるが、ナノ秒レーザーを用いた
場合にはどのパワー密度においても観測されない。また、Tyr-Leu のフェムト秒質量スペ
クトルでは(M-C4H9)+フラグメントイオンは観測されない。(M-C4H9)+フラグメントイオ
19
ンは観測されないのは、ロイシン側鎖もしくは m/z220 イオン(m/z237(M-C4H9)からさら
に OH 基もしくは NH3 が外れたイオン種)が外れているためであり、チロシン末端の分
子にエネルギーが蓄積しているということを示している。フェムト秒 MPID スペクトルに
おけるインモニウムイオンとアシリウムイオンの出現は、チロシル環からの部分的な分子
内振動エネルギー再分配(図 24)が起こっていること、あるいは光が吸収された部分の近
傍から結合が切断されるはずであるという考え方から、カルボニル基が光を吸収している
のではないかということを示唆している(C=O のところから決断される=m/z136)。
図 24:分子内振動エネルギー再分配(ex.Tyr-Leu)
H
O
H2N
H
C
H
N
C
C
CH2
O
O
C
H2N
OH
CH2
C
H
N
CH2
-C4H4O
m/z 344
H
C
H
O
C
C
OH
CH2
m/z 276
C
CH
OH
OH
OH
-C2H2
-OH
O
H2N
H
C
C
H
N
O
C
CH2
H2N
-COOH
CH2
m/z 188
H
C
C
O
H
N
C
C
OH
CH2
CH2
m/z 233
図 25:Tyr-Tyr の MPI フラグメンテーションの経路(266nm,5ns・250fs レーザー波)[Ref.6, Scheme 3]
図 25 は 266nm における 5ns と 250fs を用いた場合の Tyr-Tyr の MPI フラグメンテー
ションの経路を示している。Tyr-Tyr では、チロシン側鎖と OH 基もしくは NH₃が外れる
ことにより、m/z220 のフラグメントを生じる(図 26)
。このフラグメントは 5ns と 250fs
20
のどちらの励起でも観察されることから、フラグメンテーションするために必要なエネル
ギー再分配の速度はフェムト秒レーザーの光吸収の速さに匹敵すると考えられる。
m/z220
O
H2N
H
C
O
H
N
C
C
C
OH
CH2
CH2
図 26:Tyr-Tyr の m/z220 フラグメント
Tyr-Tyr の m/z276 フラグメント(=(M-68)+)もナノ秒、フェムト秒 MPID マススペクト
ルの両方で観察される。(図 19(b)、図 23(b))この(M-68) +の構造はよく分かっていないが、
このフラグメントは図 25 のように環の開裂により C4H4O が外れることで生じると考えら
れる。一旦、環の 1 つが開裂すると、分子には 1 つの環だけが残される。この場合、エネ
ルギーの再分配速度と光子吸収速度間の競争によりフラグメンテーションのパターンが
決定される。m/z276 が図 21 で示されている機構により生ずると仮定すると、さらに C2H2
と OH が外れることにより m/z233、COOH が外れることにより m/z188 が形成される。
これらのフラグメントはナノ秒質量スペクトルだけで観察される。図 19(b)に示されてい
るように、m/z188 は最も強いピークを形成している。
図 25 で示唆されている機構は、ナノ秒質量スペクトルだけで観測された m/z170 と
m/z147 フラグメントの観測によりさらに確証を得ることができる。なぜならば、これら
のイオンは m/z188 フラグメントから形成されるためである。m/z188 から H2O が外れる
ことにより m/z170、また末端の NHC=CH2 が外れることにより m/z147 が形成される。
m/z233、m/z188 フラグメントを形成するようなフラグメンテーションは環の 1 つが開裂
した後に残されたもう 1 つの環から離れたところで起こっている。これは 5ns レーザー光
の時間幅の範囲内で効率的な分子内振動エネルギー再分配が起きているためである。
(M-NH2)+・、 (M-OH)
+・
、(M-NH3)
+・
や(M-H2O)
+・
のようなフェムト秒質量スペクト
ルに特有のフラグメントの形成はおそらく発色団の近傍での解離光イオン化に起因する
と考えられる。
Val-Val のフェムト秒質量スペクトル(図 23(c))では、Val-Val が発色団をもたない
にも関わらず、発色団をもつ分子と同じフラグメンテーションが観察できる。Val-Val ス
ペクトル中でインモニウムイオン(m/z72)(図 27)が最も大きいピークを示しており、一
方でアシルイミニウムイオン(m/z100)はスペクトル中では観察されない。なぜならば、ア
21
シルイミニウムイオンを形成するフラグメンテーション反応は芳香環の近傍で起こるた
めである。ゆえに、芳香環をもたない Val-Val では m/z100 フラグメントは現れないので
ある。
m/z72
H2N
O
H
C
C
H
N
CH
H3C
H
O
C
C
OH
HC
CH3
H3C
CH3
図 27:Val-Val の m/z72 フラグメント
結論として、イオンフラグメンテーションパターンは中性分子の励起のために使われる
レーザーの波長によって決まり、ナノ秒レーザーとフェムト秒レーザーを比較すると、フ
ェムト秒レーザーの方がよりフラグメンテーションが少ないといえる。レーザーによるフ
ラグメンテーションには発色団が関わっており、ナノ秒レーザーでは発色団が光子を吸収
した後にエネルギーの再分配が起こり、発色団から離れた部位でフラグメンテーションが
起こる。一方、フェムト秒レーザーでは発色団に光子が蓄積し、発色団の近傍でフラグメ
ンテーションが起こる。また、ナノ秒レーザーでは発色団をもたない分子はイオン化し難
いが、フェムト秒レーザーでは発色団の有無に関わらずイオン化効率は変わらない。
4.おわりに
酵素によるペプチドの選択的切断の機構にはプロテアーゼの基質特異性(選択性)や触
媒部位が大きく関わっている。
キモトリプシンの構造でいうと、触媒三つ組残基の Ser195、
His57、Asp102 が触媒部位に相当し、これらの 3 つのアミノ酸によって効果的な加水分
解が進行する。また、触媒部位の近傍に存在する疎水的な基質結合ポケットの構造や性質
によってプロテアーゼの基質特異性が決まっている。一方で、プロテアーゼによるペプチ
ド結合の切断の触媒作用には四面体中間状態の安定化が伴っており、これにより効率的に
ペプチド結合の切断が行われる。
200nm フェムト秒レーザーパルスによるジペプチドの光イオン化において、そのフラグ
メンテーションのメカニズムはα-開裂が主たるものであり、レーザーは C-C=O 群中の
C-C 結合や官能基・側鎖と骨格間の C-C 結合を切断する。また、フェムト秒レーザーによ
る光イオン化では分子イオンシグナルは検出されないため、試料の質量が特定できず、そ
の結果として分析が困難であるという問題点がある。しかしながら、SIMS と比較した場
合には、光イオン化の方がはるかに強いイオンシグナルを形成することがわかった。した
がって、光イオン化の方が高感度であることから、フェムト秒レーザーを用いてジペプチ
ドの光イオン化を行うことで得られるフラグメントパターンからの推測により、効率的な
22
タンパク質イオンの質量分析を行うことが可能であると考えられる。
ナノ秒・フェムト秒レーザー光によるジペプチドの多光子イオン化解離(MPID)におい
ては、発色団の有無と発色団による光子の吸収・エネルギーの蓄積と再分配が切断箇所の
選択性と大きく関わっていると考えられる。ナノ秒レーザーでは発色団をもたない分子は
イオン化し難い。このことから、逆に発色団をもつ分子を選択的に切断できるのではない
かと考えられる。また、ナノ秒レーザーでは発色団が光子を吸収した後、発色団に蓄えら
れたエネルギーが速やかに分子全体に再分配され、発色団から離れた部位でフラグメンテ
ーションが起こることが分かった。一方、フェムト秒レーザーでは発色団の有無に関わら
ずイオン化し、かつ発色団に光子が蓄積し、発色団の近傍でフラグメンテーションが起こ
る。したがって、発色団をもつ分子において、レーザー時間幅をかえると、発色団に近い
側あるいは遠い側の結合を選択的に切断できると考えられる。
以上のことから、レーザーイオン化に伴うペプチドの化学結合切断では選択的にタンパ
ク結合を切断することが可能であると考えられる。今後更なる研究が行われることで、ア
ミノ酸配列の効率的な解析が可能となり、これにより機能がまだ特定されていない新規の
タンパク質を解析する足がかりが得られることが期待される。また、レーザー光によって
ペプチド結合を切断する方法を用いることにより、医薬品のターゲットであるタンパク質
のアミノ酸配列、さらにはアミノ酸配列で決まる高次構造を知ることができれば、薬をデ
ザインする上でも重要な役割を果たす技術として需要が高まるのではないだろうか。
23
引 用 文 献
1.堅田利明, 菅原一幸, 富田基郎編, NEW 生化学第 2 版, 廣川書店, 2006, pp. 101-163,
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2.S.P, A.Fodor et al., Sience, 251, 767-773 (1991).
3.松澤洋編, タンパク質工学の基礎, 東京化学同人, 2004, pp. 184-211
4.日本薬学会編, 化学系薬学Ⅱ, 東京化学同人, 2006, pp. 174-176
5.S.Sun, V.Vorsa, N.Winograd, AIP Conference Proceeding, 584, pp. 3-7(2001)
6.N.P.Lockyer, J.C.Vickerman., International Journal of Mass Spectrometry, 176,
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24