2015/12/6 第9章 法的責任とモラル責任 工学倫理 第9回 もし事故の被害者になったら、もし勤務先の 企業が事故を起こしたら、どうなるか、前章の 法がどのように適用されるか、あわせて、自然 界に存在しない合成化学物質に特有の脅威を見 る。 9.1 カネミ油症事件 9.2 法的責任 9.3 法とモラルの境界域の責任 9.4 合成化学物質の脅威 9.5 まとめ 教科書:技術者の倫理入門 第四版 杉本泰治 高城重厚 著 杉本泰治,高城重厚 第9章 法的責任とモラル責任 工学倫理 第9回 1 9.1 カネミ油症事件-1 9.1 カネミ油症事件-3 1968年2月下旬~3月 カネミ倉庫のダーク油を使った配合飼料 西日本一帯の養鶏場で鶏40万羽が死亡 農林省の福岡飼肥料検査所、工場を立入り検査 家畜衛生試験所に病性鑑定を依頼 1968年6月~8月 人への被害、 西日本一帯で油症患者が続出:吹き出物、内臓疾患 1968年1月末~2月 カネミ倉庫 PCBが異常に減少⇒漫然とPCBを補充 280kgのPCBが循環系から漏れ、 ライスオイルに混入 ドラム缶3本に回収⇒正常油と混ぜて再脱臭⇒販売 届出患者=1万4千人、認定患者=1,824人(1983年) 工学倫理 第9回 4 9.1 カネミ油症事件-4 (2)原因究明 1968年10月 4日 患者の1人、福岡県大牟田保健所に 使用中のカネミライスオイルを提出 1968年10月14日 九州大学医学部 福岡県衛生部 九州大学医学部、福岡県衛生部 「油症研究班」が発足 1968年10月19日 厚生省に「米ぬか油中毒事件対策本部」が設置、 原因究明が始まった。 工学倫理 第9回 2 9.1 カネミ油症事件-2 1968年、食用油の製造工程で「過失」があって、含 まれるはずのない物質を含む「欠陥」のある製造物が 市場に出た。 • (1)事件の概要 ・カネミ倉庫 福岡県北九州市 本社、本社工場 当時:資本金5000万円、従業員約400名 米糠からとった粗製油⇒食用ライスオイルを製造 加熱工程で脱臭缶内の蛇管に、高温のPCBを 熱媒体として循環させて使用 ・鐘淵化学工業(鐘化,現在のカネカ) 国内で初めてPCB(カネクロールKC-400)製造、販売 一部上場、わが国の代表的な化学会社 ※現在 資本金:330億46百万円(平成27年3月) 3 工学倫理 第9回 従業員数:8,529名 (平成27年3月) 工学倫理 第9回 工学倫理 第9回 5 異常物質はPCB 1968年10月15日:原因物質はヒ素と報道される。 1968年10月17日:油症研究班長がヒ素説を否定。 使用残油の性状に異常発見されず。食品添加物も 規格基準に合致。有毒な重金属も不検出。クロルア クネ様皮膚湿疹を起こす可能性のある有機物質も含 まれていなかった。 高知県衛生部:原因油の塩素含有量が異常に多い。 国立衛生研究所:蛍光X線分析で100倍もの塩素。 1968年11月4日:油症研究班 製造工程でカネクロール400が使われている。 ライスオイル中の異常物質はPCB。 6 工学倫理 第9回 1 2015/12/6 9.1 カネミ油症事件-5 9.1 カネミ油症事件-6 ・PCB混入原因 6基ある脱臭缶のどこかでPCBが混入した。 ①ピンホール説 6号脱臭缶で塩化水素ガス⇒塩酸⇒蛇管腐食 ⇒腐食孔(ピンホール) ⇒1月31日補修工事の衝撃で開口 ※PCBの腐食性を警告しなかった過失=鐘化 ② 作ミ 説 ②工作ミス説 1980年(事件発生12年余後)に、従業員の一人が供 述したことを基礎に鐘化が主張した。 1月29日、1号脱臭缶の隔測温度計の保護管の工事 溶接ミスで近接する蛇管に穴⇒PCBの漏出 ※工事ミス=カネミ倉庫の過失 事故当時は不法行為法=過失の立証が争点 それで、PCB混入原因が争点になった。 7 工学倫理 第9回 現在ならPL法=欠陥であるPCBの混入だけでOK 9.1 カネミ油症事件-7 その後、様々な疑問点が浮上 そ 後、様 な疑問点 浮 ①患者の体内に残留するPCBの組成が特異である。 ②PCB単独汚染にしては症状が重く、長期間続く。 ③原因油中のPCBは、元の2倍以上の毒性がある。 工学倫理 第9回 8 9.1 カネミ油症事件-8 1973年 PCBの定量分析法が開発 1975年 原因油中にダイオキシンを検出 1978年 原因油中に未知物質=PCQを検出 PCBに対する含有比率 PCDF:230~420倍、 PCQ:4,200~17,000倍 , , 倍 熱媒体として長期間使われるうちに、熱反応によ ってPCBからPCDFとPCQが生成し、その反 応がステンレスや水の存在によって促進される。 1984年 原因物質ダイオキシン類のPCDFと判明 工学倫理 第9回 • 真の原因物質 長い間原因物質はPCBとされてきた。 PCBは安定、長期間変質しないと考えられていた。 PCBの同族体や異性体の定量分析方法が未開発。 • (3)被害者救済 1978年 法的責任の追及、 刑事裁判の判決(業務上過失傷害罪) 1987年 被害者が損害賠償を求めて民事裁判を起す。 事故から約20年後に最高裁で和解。 工学倫理 第9回 9 10 9.1 カネミ油症事件-9 9.2 法的責任-1 しかし、被害者の救済には役立たなかった。 被害に苦しむ被害者に手を差し伸べず放置した。 国による仮払い金の清算を2007年まで長引かせる 。 カネミ油症患者と認定されても、 カネミ倉庫から23万円の一時金と医療費の一部補 助があるだけ。 仮払い金を返さなければならない。 裁判という法による救済手続き 長い時間がかかり、そのこと自体が被害者には不 幸。 カネミ油症事件は、法の限界を考えさせる。 11 工学倫理 第9回 法的責任とモラル問題の一覧(表9.1) • (1)業務上過失致死傷罪(刑法211条) 刑法: 秩序を維持するために犯罪と刑罰を定める。 個人の権利を不当に侵害しないように抑制する。 刑法 適用 刑法の適用 刑事訴訟法により裁判を実施 ⇒検察官が公訴を提起 ⇒裁判所が受理、公判(=刑事裁判)が始まる ⇒検察官が、証拠を示して有罪を主張し求刑する ⇒被告側(弁護士)が、証拠を示して無罪あるいは 軽い罪を主張 工学倫理 第9回 12 ⇒裁判官の心証が形成され⇒判決となる 工学倫理 第9回 2 2015/12/6 9.2 法的責任-2 市民生活で過失により他人を死亡⇒50万円以下の罰金 〃 障害⇒30万円 〃 業務に従事する者の過失(業務上過失致死傷罪) ⇒5年以下の懲役もしくは禁固 または50万円以下の罰金 工学倫理 第9回 13 • 工場長 旧制工業学校応用化学科を卒業 油脂、鉱物油の仕事を経て、1955年入社 1961年 米糠油精製の主任 1965年 工場長・精油部精製課長(最高責任者) 禁固1年6ヵ月の実刑判決 1978年3月24日 高裁 控訴棄却 最高裁 上告取下げ 自らの落ち度を容認せず、 鐘化や装置メーカーに責任転嫁 ⇒ 実刑判決 工学倫理 第9回 (表9.2)14 9.2 法的責任-5 9.2 法的責任-4 • 代表者 カネミ倉庫社長⇒一審で無罪、控訴なし PCBの危険性知らず、混入の予見可能性なし 統括責任者として、一般的抽象的指示のみ (表9 3) (表9.3) ※刑罰は人の権利を侵害しないように控えめに適用 現在では、工場がISO9000シリーズの認証を得 ていたら、経営者を頂点とする品質マネジメント システムだから、裁判所の判断に影響していたか もしれない。 工学倫理 第9回 15 9.2 法的責任-6 鐘化=PCBの製造業者 小倉第2陣の第一審で責任があるとされた。 控訴審 ピンホール説⇒工作ミス説⇒逆転 原告不利の状況の中、1987年最高裁で和解。 ①原告は鐘化に責任がないことを確認する。 ②鐘化は 見舞金として1人あたり300万円を支払う ②鐘化は、見舞金として1人あたり300万円を支払う。 ③原告は、仮払金-見舞金≒約48億円を鐘化へ返還。 ただし、鐘化は強制執行などの手続きはとらない。 ※被害者の窮状から、返還できない人は免除した。 ④原告は、鐘化への全訴訟を取り下げる。 ⑤鐘化は、見舞金+訴訟追行費用約3億円を支払う。 工学倫理 第9回 ⑥原告は和解条件以外の請求を棄却する。 17 工学倫理 第9回 9.2 法的責任-3 • (2)不法行為法(民法709条) 刑法と違って、民法は、利害関係の対立を調整する。 和解できなければ、民事訴訟法による裁判になる。 被害者が原告⇒加害者を被告として、 証拠を示して損害賠償を請求する。 裁判所 受 裁判所が受理⇒被告側が証拠を示して賠償責任がない 被告側 証拠を 賠償責任 な またはより軽い責任を主張する。 様々な弁論を経て⇒裁判官の心証が形成⇒判決となる ※被告に支払い能力がなければ無意味 ⇒資力を見定めて被告とする(会社、国、経営者) 刑事事件で有罪となった工場長は登場しない。 カネミ倉庫=ライスオイルの製造業者 16 工学倫理 第9回 どの判決でも責任があるとされた。 9.2 法的責任-7 • (3)製造物責任(PL法)僅か6ケ条(8章末「付」) 欠陥を立証すれば足りる(2条2項) 事件発生当時、PL法はない。 不法行為法(民法709条) 過失の立証が必要・・・ピンホール説⇒工作ミス PL法施行(1995年)後なら 鐘化の責任を認めた判決(表9.5参照) 鐘化はPCB製造業者としての責任を免れな かったかもしれない。 食用油に含まれないはずのPCBが含まれ、 通常有すべき安全性を欠いた。 工学倫理 第9回 18 3 2015/12/6 9.2 法的責任-8 9.2 法的責任-9 • (4)使用者の責任(民法715条) カネミ倉庫の代表者=社長 使用者(カネミ倉庫)に代わって、被用者(工場 長ら)を選任し、その業務を監督していた。 不法行為法(民法709条) ⇒会社に請求 使用者の責任(民法715条)⇒社長に請求 ・小倉第1陣の裁判 第一審では社長の責任を否定 控訴審では認めた 民法第715条は、PL法施行後も生きている。715 条の請求には、被用者の過失を立証する必要がある。 工学倫理 第9回 19 • (5)国家賠償法 この事故は、初めに鶏に発生した(2月下旬~3月) 福岡肥料検査所は、事故の状況を把握していた。 厚生省(当時)へ通報していれば、人への被害を減ら すことができた。 福岡肥料検査所=農水省の機関=国の責任 保健所=北九州市の機関=北九州市の責任 国家賠償法により,国と北九州市に請求 小倉第1陣:第1審=国無罪 専門外であった 控訴審=国有罪 通報義務あり 少なくとも3割は阻止することができた 。 工学倫理 第9回 20 9.2 法的責任-10 討論1 国のもう一つの問題 仮払金の返還(仮払いの精算)請求を続け、 立法による解決策を2007年まで長引かせた。 ↓ 特例法による国の債権放棄 (一定の収入基準以下) 工学倫理 第9回 • 工学倫理 第9回 21 討論1 表9.6 国の責任を否定した判決 • 工学倫理 第9回 22 討論1 表9.7 国の責任を認めた判決 農林省担当官が・・・・食品衛生という専門外の 分野に目を向け、カネミの米ぬか油について危 険を予想して食品衛生所官庁に連絡する措置を とらなかったことは無理もないことであったと いう外はない。(小倉第1陣一審) 工学倫理 第9回 行政庁の責任について裁判所の判断には、い まも上の二つのタイプがあるが、行政庁による 規制の役割からどう考えるべきだろうか。 • 23 食品の生産流通を職務とする農林省係官が、 自己の職務を独自に執行中であっても、その過 程でこのような食品の安全性を疑うような事実 を探知し、食品の安全性について相当な疑いが あれば、食品衛生業務を本来の職務としないと ば 務 務 はいえこれを所管の厚生省等に通報し、もって 権限行使についての端緒を提供する義務を負う ものと解すべきである。・・・・適切な措置をとっ ていれば、油症被害の拡大を、油症発生の経緯 、油症の特質に照らし総じて少なくとも三割は 阻止することができた・・・・国はその義務を果た 24 工学倫理 第9回 さなかった。(小倉第1陣控訴審) 4 2015/12/6 9.2 法的責任-11 • 食品衛生法(規制法令) 国の責任の追及に、食品衛生法が登場する。 (表9.6、表9.7参照) 行政庁は、食品衛生法にもとづき、 「その食品を・・・廃棄させ、またはその他営業者に 対し食品衛生法上の危害を除去するために必要 な措置をとることを命ずることができる。」 食品衛生法第22条(廃棄・除去命令) 鶏の事故のあと、人の被害を事前に、 「少なくとも三割は阻止することができえた」。 その事前の抑止策が、実行されなかった。 ⇒国の責任=有罪 工学倫理 第9回 25 • 判決の外にあるもの もし、だれか1人が抑止の努力をすれば、この 悲惨な事件は起きなかった。あるいは、被害が少 なくてすんだ。 はっきりとした法的な責任(表9.1) 刑法:工場長=有罪、カネミ代表者=無罪 民法:カネミ倉庫=有罪 カネミ社長、鐘化、国=有罪または無罪 被害者たちの幸せ(=福利)を害したのは、P CB混入だけではない。 事故にはさまざまな人が関わる。それぞれの立 場で自分に出来ることをしないと、人の幸せは確 保できない。 27 9.4 合成化学物質の脅威-1 • PCB対策 広く普及⇒多く残っている⇒対策が必要 1972年 行政指導によりPCBの製造中止。 1973年 化審法により製造、輸入、使用が禁止。 1975年 化審法発効。 1979年 台湾中部の台中県でほぼ同じ油症が発生。 1999年 ベルギーで廃食用油にPCBが混入。 鶏肉や鶏卵にダイオキシン汚染。 2001年 PCB特別措置法⇒適正処理をする 電力会社等でトランス内のPCB処理。 2004年 東京都三鷹市の学童保育所 照明器具からPCB漏れて、女児が触れる。 工学倫理 第9回 いったん市場に出た合成化学物質は、制御が難しい。 29 工学倫理 第9回 • 法では償えないこと 法=刑法、民法、行政法(規制法令) 過失や製造物の欠陥による事故に対処する仕組み カネミ油症事件の裁判 法的責任の追及は、被害者の救済には無力。 被害者が獲得した損害賠償さえ不十分。 かりに多額の賠償金を得ても、失われた生命や 健康は戻らない。 事故に会わなかった場合にこの人たちが過ごし たであろう人生に比べて、法的救済では償えない 部分がある。 ※過失や事故を起こさない、減らす努力を! 工学倫理 第9回 26 9.3 法とモラルの境界域の責任-3 9.3 法とモラルの境界域の責任-2 工学倫理 第9回 9.3 法とモラルの境界域の責任-1 PCB:鐘化や装置メーカーの技術者の責任 カネミ倉庫の試験室、研究室の技術者 カネミ倉庫研究室:九大農芸化学出身の研究室長 1968年1月、ガスクロ分析機器購入 原因究明:九大工学部・農学部の教授たち 最後に否定されたピンホール説 事故原因の正しい鑑定は、公平な裁判を導き、か つ裁判の長期化を防ぐことになる。 和解推進:治癒が難しい状況を知りながら、被害者の救 済を先送りした形で最高裁での和解を推進し た弁護士や法律家の立場はどうなのか。 判決逆転→仮払金の返還問題 立法対策・・・・行政庁がすること 工学倫理 第9回 28 (2007年 特例法による国の債権放棄) 9.4 合成化学物質の脅威-2 • 自然が作りだしたことのない物質 1962年 レーチェル・カーソン「沈黙の春」 自然が作りだしたことのない物質 ⇒化学物質の危害 (レーチェル・カーソンのメッセージ) ( カ ジ) 自然に存在する物質は、時をかけて人間の生命 が適応し、バランスがとれている。いま人間が実 験室であとからあとへと作りだす合成物質は、大 地、河川、海洋を汚し、そこで変化するなどして 、影響ははかりしれない。時をかければ適応する のかもしれないが、それには自然のモノサシで幾 世代もの時間がかかる大変なことなのだ。 工学倫理 第9回 30 5 2015/12/6 9.4 合成化学物質の脅威-3 討論2 近年、欧州連合(EU)が化学物質規制を積極的に推進。 2006年 EUで化学物質規制「RoHS指令」を施行。 2007年 新たな化学物質規制「REACH」を導入。 化学物質の登録や安全性評価を企業に義務づける。 対象は約3万種類。 自動車や電化製品、日用品、玩具などに影響。 EUの中長期的な戦略とみられているが、 底流として、「自然が作りだしたことのない物質」 の制御がある。 工学倫理 第9回 31 • PL法では、製造業者は、出荷時の科学技術 の知見では欠陥を認識できなかった場合、免責 される(4条1号)。法律家は、その「知見」 として、公知文献記載のレベルでよいと解する 。他方、カネミ油症訴訟の裁判所は、PCBの ような「本来自然界に存在しない」合成化学物 質について、製造業者が用いるべき注意を説い ている(前出表9.5)。二つの見解は同じではな いようだが、どちらがより妥当か討論しよう。 工学倫理 第9回 32 9.5 まとめ • カネミ油症事件は、技術者が法と倫理を学ぶ のに、これほど適した事例は少ないかもしれな い。 • この悲惨な事件は、「本来自然界に存在しな 悲惨な事件 「本来自然界 存在 な い」合成化学物質の脅威を示している。 • レーチェル・カーソンが1962年に著した思想 は、EUにおける化学物質の規制に受け継がれ ているとみられる。 工学倫理 第9回 工学倫理 第9回 33 6
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