宮田 俊男 さん - 日本医療政策機構

日本医療政策機構
エグゼクティブディレクター
宮田 俊男 さん
●プロフィール
1999年3月 早稲田大学理工学部機械工学科 卒業
2003年3月 大阪大学医学部医学科 卒業
卒業後は、市中病院を経て、大阪大
学医学部附属病院などで心臓外科医
として緊急手術、人工心臓、再生医
療に従事。
2009年8月 厚生労働省 入省
2013年8月 厚生労働省 退官
同年 9月 日本医療政策機構エグゼクティブディ
レクター、医療政策ユニット長 就任
同年 11月 内閣官房健康・医療戦略室 医療研究
開発等戦略推進補佐官 就任
このほか、神奈川県庁顧問、大阪府
庁特別参与、国立がん研究センター
政策室長、大阪大学医学部招聘教
授、東北大学医学部客員教授などを
兼務。現在に至る。
普段は休日返上で仕事をすることが多いという
宮田さん。その分、時間ができた時には仕事を忘
れ、リフレッシュに徹するのがモットー。2人の
娘さんの父親でもあり、休日は一緒にキャッチボ
ールをして楽しむことも。まだ娘さんが6歳だっ
た頃には、神戸の六甲山に連れて行き、一緒にロ
ッククライミングに挑戦したこともあるのだとか。
「社会は理不尽なもの。娘たちにはその中でも生
き抜く力を身につけてほしい…」と深い親心をの
ぞかせる。
写真:坂本文明
道なき道を切り拓く
民間シンクタンクの日本医療政策機構で政策提言を行う傍ら、首相官邸の健康・医療戦略に
おいて助言役をつとめる宮田俊男さん。その経歴は実に華麗で多彩だ。大学時代に人工心臓の
開発に携わったことがきっかけで、心臓外科医の道へ。その後は厚労省の医系技官、退官後は
現職に転身し、活躍の場を広げている。「諦めずに粘り強くやり遂げる」という信念のもと、
どんな厳しい環境でも困難を乗り越えてきた。このキャリアに貫かれているのは、もっと多く
の患者さんを救いたいという強い想いだ。
My Career Life は医薬品業界のさまざまなステージで活躍する方々を取り上げ、仕事に対する考え方や姿勢
を紹介します。
Monthly ミクス2014年8月号
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My Career
Life
私は“政策屋”であり“改革屋”。無駄なもの
を壊し、新しいものを生み出すのが仕事です。社
会保障費は増大し続け、放置すれば国民皆保険制
度が破綻してしまう。次の世代に責任をもって引
き渡すためにも思い切った改革をするのが使命だ
と考えています。
何千万人もの命を救うため
医師から官僚に転身
当初は医療の世界に入る気は全くありませんで
した。もともと宇宙の研究を志望していたため、
大学では機械工学科を専攻しました。しかし在学
中に「人体こそ宇宙だ」という言葉に惹かれ、当
時新設されたばかりの人工心臓の研究室に飛び込
んだのです。
ところが、ある国立大学との共同研究で目にし
たのは動物実験が漫然と続けられ、いつまで経っ
ても実用化されそうにない人工心臓。日本は当時、
人工心臓開発で欧米に大きな遅れをとっていまし
た。「高度な技術力を持ち、政府が多額の公的資
金を投じているにもかかわらず、実用化されない
のはなぜなのか」と疑問を抱いたのをよく覚えて
次世代のためにも
思い切った改革必要
います。
大学卒業後に選んだのは、心臓移植や人工心臓
開発のメッカである大阪大学医学部への編入でし
医療に携わる様々なステークホルダーの意見を
た。当時はヒトゲノム計画が大変盛り上がってい
束ね、中立的な立場で政策提言をしていくため、
る頃で、私も遺伝子治療に興味を持ち3年ほど研
13 年 9 月に日本医療政策機構のエグゼクティブ
究に従事しました。
ディレクターに就きました。同年 11 月には、安
医学部卒業後は、市中病院等で5年間ほどがん
倍晋三首相より任命を受け、内閣官房 健康・医療
の外科手術のトレーニングを積み、いつしか「自
戦略室の戦略推進補佐官に就任し、医療現場と政
分はがんの外科医になるだろう」という漠然とし
策をつなぐ役割を担っています。
た将来を描いていました。そんなある日、転機が
直近の仕事では、医療の研究開発の司令塔とな
訪れました。恩師である阪大心臓外科の澤芳樹教
る日本医療研究開発機構(日本版NIH)設立に
授から「心不全の治療で、再生医療を始めること
関する法律について、どういった点がポイントに
になった。君のような力が必要なので是非戻って
なるのか、首相官邸に助言を行ってきました。こ
きてほしい」と強い誘いを受けたのです。
の法律の最大の目的は、基礎研究の成果が医薬品
その後は阪大病院などで心臓外科医として2年
開発につながらない原因を解消しようというもの。
間研鑽を積みました。24 時間休みなく働く組織で
今後、医療研究に関する戦略や予算配分の決定権
厳しい世界。一方、心臓疾患の患者さんはあっと
は、当組織に集中されます。
いう間に命を落としていく。命に向き合う姿勢を
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Monthly ミクス2014年8月号
根本から叩き直されました。いまでも印象に残っ
れました。逆風が吹く中、財務官僚を何度も捕ま
ているのが、お子さんのいらっしゃる若い患者さ
えては説明を繰り返したものです。バトンは後任
ん。重症の心不全でした。米国なら1カ月で緊急
たちに引き継がれ、 先日、 国会で医療法が改正
の心臓移植が受けられるのに、日本では順番待ち。
されて、臨床研究中核病院が法的に位置づけら
人工心臓のデバイスラグは深刻でした。残念なが
れることになりました。
ら、その患者さんは待機中に亡くなりました。「何
たまに、公共のためにやっているのか自分のた
とかできなかったのか」と申し訳ない気持ちは今
めにやっているのか、自らに問いただすこともあ
でもあります。
臨床に横たわる問題を解決
ります。そんなとき当時の上司
(元厚労省事務次官の 阿曽沼慎
す る に は、 現 場 の 努 力 だ け で
司氏)の「心を虚しくしなさい」
は限界がありました。でも、も
という言葉をよく思い出しま
し政策的に解決することが出来
す。世のため人のため公共の精
れば、先ほど述べた亡くなられ
神を持って取り組む姿勢は、霞
た若い患者さんだけでなく、1
が関時代を通して私の中に深
日何万人、何千万人もの命を救
く叩き込まれたと思います。
える可能性がある。そう思い立
担当した政策で成果が出てく
ち、厚労省に1年間出向しまし
ると、医療現場から「あの仕組
た。その後、正式に入省して結
みを変えてもらって助かってい
果的に約5年間腰を据えること
る」といった声が届きます。そ
になったのです。
の時は、やってきて良かったと
行政を変えるのは困難の繰り返し
粘り強さが大きな武器に
思える、一番嬉しい瞬間です。
基本的には悩まないタイプですが、心掛けてい
るのはあきらめずに粘り強くやること。私の仕事
入省当時は、臨床現場を離れる寂しさもありま
は道なき道を切り拓くことですが、目の前のこと
したが、「政策面でもっと大きな手術をして改革
を一つ一つ片付けていくと延長線上に道が開けま
をするぞ」という気持ちでみなぎっていました。
す。周囲の人には無理強いせず、各々の自発的な
私は常に目の前の問題を解決するのに、全力を
気持ちを大切にして巻き込んでいくと、最後は必
尽くしてきましたが、行政を変えるのは非常に困
ず気持ちを開いてくれます。
難なことの繰り返しでした。特に民主党政権時代
仕事の最終ゴールは、多様な社会の実現です。
はねじれ国会で法案が通らず、改正すべき法律が
持続可能な社会にするには必要なこと。私のよう
各省庁にどんどん蓄積していきました。そのよう
に様々な職種を経てキャリアを積み重ねる人は日
な中で自分の担当する法案を通していくには、相
本で稀ですが、キャリアパスの多様化も促進した
当な精神力が求められました。この時、臨床医時
いですね。これからは若者の時代。一人一人がリー
代に鍛えられた、多職種の方々との調整を行った
ダーシップを持って必死に取り組む必要がありま
経験、粘り強く取り組む姿勢などが、非常に役立
す。自分の言動にプリンシプル(規律)を持ち、
「変
ちましたね。
えるべきものは変える」という気持ちで臨んで欲
なかでも「早期・探索的臨床試験拠点整備事業」
しい。イエスマンが沢山いると、組織は滅びます。
の予算を獲得したことは、印象に残る仕事のひと
時にはリスクを取ることも恐れず、「自分がどう
つです。当初、財務省は予算化に難色を示し、
「日
成長したいか」という視点を持ち頑張ってほしい
本の臨床研究力を挽回するのは無理だ」と一蹴さ
と思います。(取材・文 医療ライター・小沼紀子)
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