『食物本草歳時記』 「 羊 羹 「羊羹考」 考 」 安井邦彦 (2007 年 1 月) [血羹(ケツカン)] について に従わないで屠殺された羊の肉は、ムスリムが 口にすることを許されるハラル食品には認定 血の穢れを忌む神道の精神文化の基礎の上 に、殺生を戒める仏教を受容した農耕民族であ されない。 モンゴルでは草原が血で汚れることを嫌い、 るわが国においては、動物の生き血を食品に加 羊の屠殺にあたって一適の血もこぼすことは 工するという食文化は根付かなかった。鯉やす ない。羊を仰向けに横たえて、正中線にナイフ っぽんの生き血は、究極の薬食いとして用いら を入れて切り口を開き、袖まくりした腕を差し れることはあったが、料理として食膳に上るこ 入れて横隔膜を破り、心臓を鷲掴みにして冠状 とはなかった。神前で奉納される「式包丁」の 動脈を指先で引きちぎる[3]。羊はほぼ即死状態 儀式では、まな板の上にのせられる鯉はあらか で苦しんで暴れることもなく、流れ出た血は胸 じめ生き絞めして血抜きをし、内臓を抜いて鱗 腔内にたまり外にこぼれることはない。瞬く間 を落とし、きれいに水洗いされたもので、まな に羊は手際よく解体され、胸腔内にたまった血 板を血で汚すことはない[1]。 はしごいた腸の中に流し入れて湯煎し、ソーセ イスラムでは、羊の屠殺に当ってはアホンと ージに変身する。 呼ばれる導師が羊の耳元でコーランの一節を ヨーロッパでも、ブラックプディングやサラ 唱えて、生まれ変わる来世の幸福を説いて羊に ミソーセージなど血を使った料理や食品は、ふ 引導を渡し、羊の頭をメッカの方に向けて、作 だんの食生活で用いられていて、血を食べると 法にもとづき頚動脈にナイフを入れるのが鉄 いうことに対する拒否反応や嫌悪感は微塵も 則になっている[2]。 犠牲の血は聖なるもので、 ない。 流れ出た血は地を清めるために地面にまかれ 冬になると家畜の餌が不足するので、適正な ることはあるが、血を食べる風習はない。作法 頭数に間引かなければ群れ全体が共倒れにな ってしまう。その頃には気温が下がってハエな どの昆虫がいなくなり、雑菌の繁殖も抑制され るので、ハムやソーセージなどの加工品を作る のに最適の季節でもある。そしてその時季は、 人間が厳しい冬を越すために必要なたんぱく 質や脂質を摂取して、エネルギーを蓄えなけれ ばならない時期に、ぴったりと符合するのだ。 このように洋の東西を問わず、冬になるとハ ム・ソーセージの仕込みがさかんに行われるの は、人間をふくむ自然界の大きな循環のサイク 鶏レバーと黒米、香草、香辛料で作ったソーセージ。 「血」の代わりにレバーを用いたイメージ画像。 p. 1 ルによるものである。 牧畜民族の影響を受けた中国や朝鮮半島で 『食物本草歳時記』 「羊羹考」 は、羊、豚、牛、鹿などの家畜や鶏、家鴨など 羹」を模して小麦粉と小豆で作った精進料理の の家禽の血で腸詰や煮凝りなどの加工食品を 蒸し菓子を日本に伝えた。そのときに僧院では 作る食文化が今も伝わっている。韓国では牛や 「血」の字を忌んで、「羊」の字を用いたのが 豚の腸に血をつめて茹で、 「スンデ」というソ 「羊羹」のはじまりであったと考えられる。し ーセージにつくる[4]。中国では動物の血で作っ たがって、和菓子の「羊羹」は和製漢語であっ た煮凝りを一般に「血羹(シュエコン)」 、 「血豆腐(シ て、中国語の「羊羹」には羊肉のシチューやス ュエトウフ)」といい、家鴨の血で作ったものを「鴨 ープという意味しかないので、中国人と筆談し 血(ヤーシュエ)」 、鹿の血で作ったものを「鹿血(ルー ても意味は通じなかった。近年になって、 「日 シュエ)」などという呼びかたをする。いずれも鉄 本式」の点心として羊羹の製法が中国に逆輸入 分を補給する高タンパク低カロリーの「補血」 され、中国製の「羊羹(ヤンコン)」が上海あたりの の食材として、鍋料理やスープなどに広く用い コンビニの棚に並んでいるが、「羊羹」のルー られている。とくに羊の血で作ったものを、古 ツが「血豆腐」の「血羹」であることを知るも くは「 (血+臽) 」といった。 のはほとんどいない。 許慎の『説文解字』[5] にいう、 「(血 +臽)は羊の凝血なり。血に従い、 「羹」の字義について 臽(カン)の声」 。また『釈名』にい う、 「血(月+臽)は血を以って之 フリー百科事典『ウィキペディア を作る」 。すなわち、上に述べた羊 (Wikipedia)』などでは、羊肉の羹が冷えて 血のソーセージこそ、「(血+臽)」 ゼラチン質が固まり、煮凝りになったものが なのである。 「羊羹」の起源であるという説を紹介してい 羊血で作られた「 (血+臽) 」は音 るが、はたしてそうなのだろうか? 通で仮借されて「羹」の字が用いら 現代中国語では「羹(コン)」という字は「と れるようになり、あつものの「羹」 ろみのついたスープ」を意味し、とろみのな と区別するために、血の煮凝りの いクリアスープを指す「湯(タン)」と一対で、 「(血+臽) 」には「血(血+臽) 」 (ケツカン)と 「湯羹(タンコン)」と総称されている。 「羹(あつ いうことばが使われるようになった[6]。これが もの)に懲りて膾(なます)を吹く」の故事で 今日の「血羹」のもととなったと考えられる。 もわかるように、 「羹」は温かいスープを指す ことばであり、冷製の「煮凝り」の類を指すこ 十四世紀に中国から豚が伝わった沖縄では、 とばではない。今風にいい換えると「ポター 豚を余すことなく食べつくす中国の食文化も ジュで口中を火傷して、カルパッチョを吹く」 いっしょに伝わり、豚の血の煮凝りを炒めた ことはあっても、 「テリーヌで口中を火傷する」 「チィーイリチー」や、内臓のシチューの「中 ことはありえない。今の中国では、ゼラチン 身汁」、豚の塩漬け「スーチカー」など独特の や寒天で肉製品を固めた料理には「水晶扣肉 琉球食文化が形成された[7]。沖縄以外の日本に (シュイジンコウロウ)」などの別の呼び方をし、 「羹」 は、動物の血を使った食品は伝わらなかったが、 の字を用いることはない。 鎌倉時代から室町時代にかけて中国で学んだ 禅僧が、羊血で作る「 (血+臽) 」 、すなわち「血 p. 2 許慎の『説文解字』では、 「羹」という字の 『食物本草歳時記』 「羊羹考」 本字は「鬻①(かゆ) 」の字で、字義は「五味 『荊楚歳時記』[8] に「正月七日を人日(ジ の盉鬻①(カコウ)」であり、 『詩経』にいうと ンジツ)と為す。七種の菜を以って羹を為る。 」 ころの「和鬻①(ワコウ)」だとしている。段玉 とあるのは、わが国でいうところの「七草粥」 裁の注によれば、 「皿部にいう、盉は味を調す のことであり、杜甫の詩「鄭広文に陪して、何 るなり」とあるので、 「盉」と「和」は「調和 将軍の山林に遊ぶ」[9] のなかにある「香芹碧 させる」という意味の同義語であることが分 澗羹」は、 「芹粥」を謳ったものであることな かる。 「鬻①」の音は「古行(ko-kou)」の反 どからも、 「羹」の本義は「粥」であり、 「粥」 切で、「コウ」である。 から引伸して、米の粉でとろみをつけたスー 『礼記』 ・内則の注には、「およそ羹にはす べからく、五味を調和させるのには米屑の糝 プに「羹」の字を用いるようになったことが 分かる。 (シン)を用いるのがよい。 」とあるので、 「羹」 『戦国策』[10]「中山君饗都士太夫」の故事 は屑米で作った米の粉でとろみをつけていた では、 「羊羹」という料理が登場する。中山国 ことがわかる。すなわち、とろみをつけるた の王が「羊羹」をつくり、士太夫全員を招いて めに屑米で作った米の粉を用いたので、 「かゆ」 饗宴したところ、羊肉が少なくて司馬子期に を意味する「鬻①」の文字が使われ、この字が までゆきわたらなかった。子期はこれを深く 小篆で「羹」と表記されて、「あつもの(とろ 恨んで楚に出奔し、後に楚軍を率いて中山国 みのついたスープ)」の意として用いられるよう を攻め落とした。中山王は落ちのびる途中、 になったのである。 「我、一杯の羊羹を以って国を亡ぼす」と嘆 いたという。この話を「食い物の恨みは怖ろ しい」喩えのようにとらえるのは間違いであ 鬻①=弜の間の「米」を → る。 「羊羹」に用いられた羊は、神前に供えら 「羔」に置き換えた文字。 れた犠牲であり、その肉は「祭肉」であり、神 聖な祭器である鼎で「羊羹」に作り、それを食 この文字が「羹」の本字である。字義は「か べるということは、 「神餞」を分かち合い、祭 ゆ」から引伸して「米の粉でとろみをつけ 祀共同体の成員としての結束を相互に確認す た煮込み料理」。 る神事にほかならない。子期は、血肉を分け 合う祭祀共同体の一員として、自分が同等に 左の或体② は「弜」を省略 扱われなかったことに憤ったのである。この したもの。 中で「一杯の羊羹」という表現を使っている ことから、 「羊羹」が汁物であったことは明ら かである。 右の或体③ は「鬲」を省略 して、「美」に従ったもの。 また、 『爾雅』 ・釈木の「檟(カ;ひさぎ)、苦 茶」の晋郭璞(カクハク)の注にいう、 「樹は小 にして梔子(くちなし)に似たり。冬、葉を生 p. 3 或体④「羹」は小篆で、「羔」 ず。煮て羹に作り飲む可し。今、早采のものを と「美」に従ったもの。 呼んで茶と為し、晩取のものを茗(メイ)と為 この字があつものの「羹」の字 す。 」とあることからも、 「羹」は汁物であるこ になる。 とが分かる。 『食物本草歳時記』 『楚辞』 ・招魂の後漢王逸の注にいう、 「菜の 「羊羹考」 『斉民要術』の「羹」 あるものを羹といい、菜のないものを臛(カク) という」 。 『尚書』 ・説命の孔安国の注にいう、 「羹は須 らく塩酢を以って之を和す」。 後魏の賈思勰(カシキョウ) 『斉民要術』[12] の 第八巻「羹臛法」には、いくつかの煮込み料理 が紹介されている。 『広雅』・釈器にいう、「羹は之を(月+立) (キュウ)という」 。 「 (月+立)」とは勾芡(あん ● 芋子酸臛の作り方: かけ)でとろみをつけたスープをいう。 豚肉・羊肉各一斤を水一斗でよく煮込む。別に 『韻会』にいう、 「 (月+立)は肉の羹なり」 。 蒸して準備した芋子(こいも)一升、白葱一升を 加えてさらに煮込む。粳(うるち)米三合、塩一 これらを総合すると、「羹」は塩・酢で味付 合、豉汁*一升、苦酒*五合で味を調え、生薑 けし、米の粉などでとろみをつけた、具がたっ (しょうが)十両を入れる。臛一斗を得ることが ぷり入ったスープを指すことばであり、その文 できる。 字の成立から今日まで一貫して、中国において *豉汁: 「煮凝り」を指すことばとして用いられた証拠 蒸した大豆を発酵させて作った発酵食品の一 を見出すことはできなかった。このように、中 種。平城京出土の木簡にもその名があり、日本 国語の「羹」の字義には「煮凝り」の意はない でも古くから作られていたもので、現在では浜 ことは明白である。 納豆、大徳寺納豆として知られている。醤油が すなわち本来「羹」には、 「血+臽」の仮借 豉(シ)は和名を「くき」といい、 発明されるまでは、豉に水を加えてすり潰し、 字としての「羊血の煮凝り」の意と、本字であ 上澄みの液体を取って調味液とした。 る「鬻①」の「粥」の意と、粥から引伸して「米 *苦酒(クシュ) : 酒が酢酸発酵したもの。 「酢」 。 の粉でとろみをつけたスープ」の三つの字義 考えるに;「臛一斗を得る」とあるので、「臛」 があったことがわかる。ところが時代が下る も汁物であったことが分かる。材料にコイモや につれて、 「羊血の煮凝り」には「血羹」とい うるち米を用いているので、粘り気の強いもの う単語が使われるようになり、 「かゆ」には「鬲」 であったと思われる。 を省いた省略形の「粥」の字が広く使われる ようになり、 『随園食単』[11] の清代には、 「羹」 ● 鴨臛の作り方: はもっぱら「とろみのついたスープ」を指す 小鴨六羽、羊肉二斤、大鴨五羽。葱三升、芋二 ことばになっていたのだった。 十株、橘皮三葉、木蘭五寸、生薑十両、豉汁五 合、米一升で味を調える。臛一斗を得ることが できる。まず、八升の酒で鴨を煮る。 考えるに;これにもコイモやうるち米が使われ ているので、とろみのついた汁物であると考え られる。また、「臛一斗を得る」とあることか ら、汁物であることはまちがいない。調味料に は「塩・苦酒」を用いず、ショウガとミカンの 皮を用いている。 p. 4 『食物本草歳時記』 ● 鼈臛の作り方: 「羊羹考」 兔肉にゼラチン質が豊富に含まれているとは 鼈(すっぽん)を完全に煮て、甲羅を取り去る。 考えられない。これも、米でとろみをつけた兔 羊肉一斤、葱三升、豉五合、粳米半合、薑(は 肉のシチューである。 じかみ)五両、木蘭一寸、酒二升で鼈を煮込む。 塩、苦酒で味を調える。 ● 酸羹の作り方: 考えるに:うるち米の量が上に見てきた「臛」 羊腸二本、餳六斤、瓠葉*六斤に、葱頭二升、 より少ないことから考えて、すっぽんをトロト 小蒜(のびる)三升、麺(小麦粉)三升、豉汁、 ロになるまで完全に煮込み、すっぽんから出た 生薑、橘皮で味を調える。 ゼラチン質でとろみをつけた料理のようだ。こ *瓠葉(コヨウ): の料理は、冷めたら煮凝りになる可能性がある。 考えるに:「羊腸二本」がメインの食材になっ ひょうたん、ふくべの葉。 ているが、われわれがソーセージつくりに使う ● 猪蹄酸羹一斛の作り方: 腸詰用のスキンは、羊腸を加工したもので、た 猪蹄(とんそく)三本を柔かくなるまで煮込み、 いへん薄く、煮込み料理の具材にはふさわしく 骨を抜き取る。これに葱、豉汁、苦酒、塩で味 ない。ここでいう羊腸は、加工していない、羊 を調える。旧法(むかしのレシピ)では餳*六斤 の腸そのものを指すと考えられる。もうひとつ を用いたが、今はこれを除いた。 「酸羹」の特徴的な点は、とろみをつけるでん *餳(トウ); みずあめ。 ぷん質の材料に米を使わずに小麦粉を使って 考えるに:豚足をトロトロになるまで完全に煮 いることで、『斉民要術』の中ではほかに例が 込み、豚足から出たゼラチン質でとろみをつけ ない。また、 「酸羹」というが、調味料に酸味の た料理のようだ。この料理も、冷めたら煮凝り 「苦酒」を用いず、水飴の甘味とショウガとミ になる可能性があるが、「一斛」とあるので、 カンの皮など酸味のない香辛料ばかりを用い 汁物として供されたものであると考えられる。 ているところが矛盾する。 これらの材料から類推できる料理としてま ● 羊蹄臛の作り方: ず思い浮かべるのは、北京の「夜市(よみせ)」 羊蹄七本、羊肉十五斤。葱三升、豉汁五升、米 の屋台で売っている伝統的な「小吃(シァオチー)」の 一升で味を調え、生薑十両、橘皮三葉を加える。 「灌腸(クァンチャン)」である。これは北京の粉物の 考えるに:羊の脚を使っているので、ゼラチン 軽食の一種で、たとえていえば、日本のたこ焼 質が多いことが予測できるが、私自身羊の脚を きのような感覚で食べられているものである。 使った料理を作ったことも食べたこともない 『居家必用事類全集』[13] で紹介されている ので、断定的なことはいえない。ここでは羊肉 元代の「灌腸」は、別名が「血腸」であること を使っているが、調味料に「塩・苦酒」を用い から今の「血羹」の類であり、北京の「灌腸」 ず、ショウガとミカンの皮を用いている。 は、 『居家必用』でいうところの「灌肺」に近い 食べ物である。 「灌」は「流し込む」の意で、ま ● 兔臛の作り方: ず小麦粉を冷ましたスープで練り、その中に細 兔一頭を棗ほどの大きさにぶつ切りにし、水三 切れの肉や刻んだ香草類、五香粉などの香辛料 升、酒一升、木蘭五分、葱三升、米一合、塩、 を入れてよくかき混ぜたものを羊腸に流し込 豉、苦酒で味を調える。 み、これを湯煎してソーセージのようにしたも 考えるに:兔の皮からは上質の膠がとれるが、 のを斜めにカットして、油を引いた鉄板で表面 p. 5 『食物本草歳時記』 「羊羹考」 をかりっと香ばしく炒めて食べるものである。 ● 胡羹の作り方: おそらくは、本文にある「酸羹」はスープやシ 羊脇(あばら肉)六斤、または肉四斤を水四升 チューの類ではなくて、 「灌腸」や「血羹」に類 で煮る。あばら骨を抜き取り、カットする。葱 似した、腸詰のような食べ物だと思われる。 頭一斤、胡荽*一両、安石榴(ざくろ)汁数合で 「瓠葉」は調達できなかったので、ニラを使 味を調える。 って試作したのが下の写真である。干しエビか *胡荽(コスイ): 和名をこえんどろ、中国 ら出るうま味と塩味が、生姜と柚子の皮の風味 語では香菜(シャンツァイ)、英語ではコリアンダー、 とマッチして絶妙の組み合わせだった。ごま油 タイ語ではパクチー。 を引いたフライパンで表面をカリッと炒め、い 考えるに:これまでの「臛」や「羹」は、調味 ろいろな調味料で試してみたが、ポン酢がいち 料に「塩と苦酒」か「ショウガとミカンの皮」 ばんよくあった。これは想像だが、「酸羹」と を用いていたが、「胡羹」はシャンツァイとザ いう名前は、「苦酒」を使った酸っぱい調味料 クロの果汁を用いているところが西域風のエ のタレを付けて食べたことからついたのかも キゾチックな味付けなのだろう。ザクロの果汁 知れない。 にはカクテルに使うグラナデン・シロップを用 いて、葱頭はたまねぎやエシャロットで代用す れば「胡羹」を再現することができる。ワイン ビネガーをたっぷり使うと、酸味の利いたフル ーティーな羊肉のシチューになるはずだ。 水で溶いた小麦粉にニラ、干しエビ、生姜、柚子 の皮を加えて羊腸に流し込む。 たまねぎ、にんじん、セロリなどの野菜と フェンネル、クミン、コリアンダーで炒める。 湯煎したものをスライスし、ごま油で表面を カリッと炒める。 2日かけて肉がとろとろになるまで煮込んだが、 冷蔵庫で冷しても、煮凝りにはならなかった。 p. 6 『食物本草歳時記』 ● 胡麻羹の作り方: 「羊羹考」 400cc なので、一斗五升は6リットルになる。 胡麻一斗を搗き潰し、よく煮込み、さらにすり 鶏一羽から仕上がりが6リットルのスープを 潰して汁三升を取る。葱頭二升、米二合を加え 作ったとしたら、サラサラとしたクリアーなス 火にかける。葱頭、米に火が通り、二升半まで ープしかできないはずで、とても煮凝りができ 煮詰まればできあがり。 るとは考えられない。 考えるに: 『斉民要術』の「羹臛法」の中で、た だひとつ例外的に肉類の材料を使わない料理 ● 笋(笳+可)鴨羹の作り方: である。ゴマの油脂成分のクリーミーなとろみ 肥鴨*一羽を「糝羹法」のようにきれいに掃除 と、米のでんぷん質のとろみを組み合わせたも しておく。臠*もまた同様に準備する。 (笳+ ので、肉類を用いない「素菜」(精進料理)の 可)*四升をていねいに洗い、塩気だしして、 「羹」の一種である。 別の鍋に水を入れてこれを煮る。沸騰したら取 よく似たものに、今の中華料理のデザートで り出して水洗いする。小蒜及び葱白、豉汁を加 「黒芝麻糊(ヘイチーマーフー)」という黒ゴマで作っ えて、ひと煮立ちさせたらできあがり。 た汁粉のようなものがある。ペースト状にした *肥鴨: よく肥えたアヒル。 黒ゴマに、砂糖と水で溶いた吉野葛(コーンスタ *臠(レン): よじれたひも状の乾し肉。 ーチでもよい)を加えて火にかけてよく練る。 *(笳+可)(カ): 塩漬けのタケノコ。 考えるに: 「糝羹法」の名は『食経』から引 用したものが『太平御覧』の中に見えるが、 『食 経』は散逸していてこの法は伝わっていない。 おそらくは、米の粉でとろみをつけた「羹(あ つもの) 」の一種であろう。 『斉民要術』にある「臛」と「羹」に使われ 写真の黒芝麻糊は、クルミをトッピングしてある。 る食材を分類してみたのが上の一覧表になる。 「臛」も「羹」も、肉類と野菜の煮込み料理で ● 瓠葉羹の作り方: 瓠葉五斤、羊肉三斤に、葱二升、塩・豉五合で 味を調える。 考えるに:瓠葉が塩漬けではなく新鮮なものだ としたら、夏の料理ということになる。材料は 羊肉に葱、塩、豉といたってシンプルだ。 あることに相違点はない。肉類の材料を用いな い「胡麻羹」と、おそらくは腸詰料理である「酸 羹」を例外と考えて除外すると、「臛」には必 ず粳米(「米」とあるのは「粳米」と考えてよ い)を用いているが、 「羹」には米を用いてい ないことが分かる。これらから考えて、少なく とも『斉民要術』の中では、米のでん粉質でと ● 鶏羹の作り方: 鶏一頭を解体して骨と肉に分ける。肉はカット し、骨は細かくすり潰してよく煮込む。骨を漉 し取り、葱頭二升、棗三十個といっしょに煮る。 羹一斗五升ができる。 考えるに :後魏の時代の度量衡では一升が p. 7 ろみをつけたあんかけ風のスープを「臛」 、米 を用いないで素材をトロトロに煮込んだシチ ューを「羹」、として大まかに区別していたこ とがみとめられる。いずれにしろ『斉民要術』 にある「羹」は、とろみのあるシチューのよう な煮込み料理であり、「煮凝り」の料理ではな 『食物本草歳時記』 かったことは確かだ。 「羊羹考」 ない。これらからみて、和菓子の「羊羹」の起 中国語の「羊羹」は、米の粉でとろみをつけ 源を羊肉の羹が冷えて自然に固 た羊肉のシチューであり、皮付きで煮込んだ豚 まった「羊羹」に求め、そのような煮凝り料理 肉はコラーゲンなどのゼラチン質が多く含ま が中国にあったとする説には説得力がないと れるが、皮を剥いで肉だけを煮込んだ羊肉の羹 いわざるをえない。それでもなお羊肉の羹が が、冷えると固まるほどゼラチン質が豊富であ 冷めて煮凝りができると主張するものは、レ るとは考えられない。じっさい、たっぷり羊肉 シピを公開してゼラチンパウダーや寒天など を使って「羊肉火鍋」をした後に残ったスープ を使わなくても、じっさいに煮凝りができる を、冬の寒い屋外に放置しても煮凝りにはなら ことを証明すべきである。 『斉民要術』における羹・臛の材料一覧 名称 肉類材料 野菜類材料 調味料 芋子酸臛 豚肉、羊肉 小芋、白葱、生姜 塩、豉汁、苦酒 鴨臛 アヒル、羊肉 芋、葱、橘皮、木蘭、 豉汁、酒 とろみ材料 米 粳米 生姜 鼈臛 スッポン、羊肉 葱、生姜、木蘭 豉、酒、塩、苦酒 粳米 羊蹄臛 羊脚、羊肉 葱、生姜、橘皮 豉汁 米 兔臛 兔 木蘭、葱 酒、塩、豉、苦酒 米 酸羹 羊腸 瓠葉、葱頭、小蒜、 餳、豉汁 小麦粉 生姜、橘皮 胡麻羹 ゴマ、葱頭 米 猪蹄酸羹 豚足 葱 豉汁、苦酒、塩 胡羹 羊肉(あばら) 葱頭、香菜 ザクロ果汁 瓠葉羹 羊肉 瓠葉、葱 塩、豉 鶏羹 鶏 葱頭、ナツメ 笋(笳+可)鴨羹 アヒル、乾し肉 タケ ノコ 塩漬、小 蒜、白葱 p. 8 豉汁 『食物本草歳時記』 『庭訓往来』の「羹」 「羊羹考」 ● 鼈羹(ベツカン) 禅宗の修行僧は、朝の「粥座(シュクザ)」、昼 『扶翼』にいう、摺り立ての山の芋壱升、砂糖 の「斎座(サイザ)」の一日二回の正式な食事以 一斤、こし粉の赤小豆一升、小麦の粉五勺、ね 外に、 「点心(テンシン)」、「茶の子(ちゃのこ)」 り合せ、むして亀甲の形に切る也。 とよばれる軽食を食べて過酷な修行に耐えた。 考えるに;中国ではやまいもは天日で乾して、 室町時代はじめの『庭訓往来(テイキンオウライ)』 「山薬(サンヤク)」に加工して用いるのが一 [14] には、 「水繊(スイセン)、温糟(ウンソウ)、糟鶏 般的で、生のものをすりおろしていることから、 (ソウケイ)、鼈羹(ベツカン)、羊羹(ヨウカン) 、猪 「鼈羹」は日本で生まれた点心だと思われる。 羮(チョカン)、松露羹(ショウロカン)、驢腸羹(ロチ ョウカン)、 「笋羊羹*」 (シュンヨウカン)、鮮羹(セ ンカン)、海老羹(カイロウカン)、寸金羹(スンキン カン)、月鼠羹(ゲツソカン) 、雲(魚+亶)羹(ウ ンゼンカン)、 砂糖羊羹(サトウヨウカン)、白魚羹(ハ クギョカン)、饂飩(ウドン)、饅頭(マントウ)、索麺 (ソウメン)、碁子麺(キシメン)、巻餅(ケンヘイ)、温 餅(ウンヘイ)、蒸餅(ジョウヘイ)」などの多種多 彩な点心が紹介されている。なかには動物の名 前のついたものもあるが、これらはいずれも精 写真の「鼈羹」は、小麦粉に熟し柿の果肉と山 進料理であり、本来の料理を真似て作った「モ 芋をすりおろしたものを練りこんで生地を作 ドキ料理」の一種である。 り、ごま油を薄く引いたフライパンの上で焼き、 (「笋羊羹*」は、東洋文庫版では「箏羊羹」とあるが、 音「シュン」に従い改めた。) 本来とろみのついたスープを意味する「羹」 亀甲に形を整えたもの。 『食物服用之巻』[15] に は、 「鼈羹は足、手、尾、首を残して甲より食う なり」とあるので、薄く削った木や紙などの食 が、『庭訓往来』では小麦粉などを使った蒸し べることのできない材料で作った手足や頭尾 菓子の点心として、さまざまなバリエーション を付けて出したらしい。 で登場する。蒸し菓子の類に「羹」の字を用い る例は中国にはないことから、これらの「羹」 は和製漢語であり、日本で独自の発展を遂げた ● 羊羹(ヨウカン) 料理であることが分かる。これらの「羹」は茶 菓子のような嗜好品ではなく、饂飩(ウドン)や 考えるに;別の一種に「砂糖羊羹」というもの 索麺(ソウメン)などと同列に並べられている があり、わざわざ「砂糖」と断っていることか ことから、ある程度腹持ちのする軽食として用 ら、プレーンの羊羹には「砂糖」は使われてい いられたことが分かる。じっさいにどのような なかったことが分かる。つまり、甘い羊羹と甘 食べ物であったのか、ひとつずつ考察を加えて くない羊羹の二種類があったことになる。 「羊 みることにしよう。 羹」は羊血のソーセージである「血羹」を模倣 したとすれば、「素菜」(精進料理)の「血羹」 には本物と同様に、塩と香辛料、刻んだ香草な p. 9 『食物本草歳時記』 「羊羹考」 どが用いられたと思われる。つまり、羊の血を 小豆と小麦粉に置き換えただけで、それ以外の ものは本物とおなじ材料を用いたものが、そも そものオリジナルなレシピで、モドキ料理の 「血羹」は甘いデザートではなく、本来はうす 塩味の前菜や軽食の一品だったと考えられる。 したがって、「砂糖羊羹」には砂糖が使われ、 プレーンの「羊羹」には「あまづら」が使われ たとする説には賛成できない。 小豆餡を小麦粉の生地に練りこむ。 ● 蒸したもち米と小豆餡を搗き潰す。 型に押し込んで、一晩寝かせてから切る。 猪羮(チョカン) 考えるに;「猪羹」とあるのは、豚の血ともち 米でつくる「猪血糕(チューシュエカオ)」を模倣した 「素菜 (スーツァイ)」 (精進料理)であったと考えら れる。おそらくは中国で「素猪血糕(スーチューシュエ カオ)」と呼ばれていたものが、日本に伝わった 蒸し羊羹に作る。 ときに「血」の字を忌んで「猪羹」となったの だと思われる。「素菜」であるので豚の血を用 いることはできず、 「血糯(シュエヌオ)」 (黒もち米) で作られたと思われるが、日本では簡単に入手 できる小豆でもち米を着色して代用したのだ ろう。同じように小豆を用いた「素菜」の点心 であったが、小麦粉で作った「血羹」が「羊羹」 と呼ばれ、もち米を用いた「猪血糕」を「猪羹」 と呼んで区別されるようになったのであろう。 きな粉をまぶした猪羹 p. 10 『食物本草歳時記』 台湾の屋台料理にある「猪血糕」は、クラッ 「羊羹考」 ● 驢腸羹(ロチョウカン) シュピーナッツをまぶし、刻んだ香菜をふりか けて食べる。同じように日本の「猪羹」は、き 考えるに;驢馬は華北で広く飼育され、なかで な粉やはったい粉などをまぶして食べたのか も山東の驢馬料理は有名である。北京の宮廷料 もしれない。 理は山東出身の料理人によってつくられたの で、北京料理にも驢肉を使った料理が多く伝わ っている。私が食べたことのある「驢腸」は、 ● 松露羹(ショウロカン) 少し細めの自転車のチューブのような腸の中 に、親指ほどの大きさにぶつ切りにした驢肉を 考えるに;「松露」は松林の地中でとれるキノ 詰め、五香粉などの香辛料と醤油であまからく コの一種で、直径が1~3センチほどの球形で、 煮込んだようなものだった。 茶褐色をしている。松露羹は「松露」の形を模 したもので、今の茶団子のような、小さな丸い 団子であろう。おそらくは、黒砂糖などを用い て着色したものだと思われる。今の松露饅頭は、 小さく丸めたこし餡を白い砂糖の衣でくるん だものだが、「羹」の字が使われているので、 蒸し菓子の一種であろう。 蒸したもち米、小豆、胡桃、銀杏で作った餡を、クレー プで巻く。 もち米と粒餡で試作した松露羹。 切口が「驢腸」のように見える。 当時ロバの腸の実物を見たことある日本人 はほとんどいなかったはずで、「驢腸羹」とい う名の食べ物のルーツは中国から来たものだ ろう。ただし僧院の点心であるので、日本に伝 白玉粉と黒砂糖で試作した松露羹。 わったものは、本物のロバの腸詰を模した「素 菜」であったはずだ。食感などから考えるに、 p. 11 『食物本草歳時記』 「羊羹考」 小豆の餡と小麦粉や米粉などをいっしょに練 よくわからない。「羹」の字があるので、蒸し り上げ、薄く焼いたクレープ(煎餅)か板湯葉 菓子の一種であると考えられる。 のようなもので巻いて蒸したものだろうと想 像している。切り口が驢の腸詰に似ていること から名づけられたのだろう。 ● 海老羹(カイロウカン) 考えるに;小麦粉や白玉粉にすりおろした金時 ● 笋羊羹* (シュンヨウカン) 人参などを練りこんで着色し、エビの形に作っ た蒸し菓子の一種だと考えられる。『食物服用 考えるに;プレーンの「羊羹」をタケノコの形 之巻』には、「海老羹は、ひげを残して食うな に作ったものか、タケノコで蜜煎を作り「羊羹」 り」とあるので、松葉などを挿して触角をつけ に練りこんだものか、丁稚羊羹のようにプレー たかもしれない。僧院で用いられる「点心」で ンの羊羹を竹の皮に包んで蒸したものなどが あるので、エビをそのまま練りこんだものだと 考えられるが、詳細については記録が残ってい ないので、想像の域を超えない。 白玉粉に梔子の実を煎じた汁で黄色く着色した。 は考えられない。 竹の皮に包んで蒸す。 ● 寸金羹(スンキンカン) 考えるに;「寸金」は小ぶりの金貨または金塊 (インゴット)のことで、その形を模した点心で あろう。『庭訓往来』の点心にある「水繊(スイ セン)」は、葛切りを梔子(くちなし)の実で黄色 に染めて「水仙」の花に見立てたもので、 「寸 竹の皮に包んで蒸し上げた。 金羹」も同じように梔子で着色していたのかも しれない。僧院の点心であるので、卵の黄身は 用いることはできない。またこの時代には、南 ● 鮮羹(センカン) 瓜はまだ日本や中国には伝来していない。 「羹」 の字があるので、蒸し菓子の一種にちがいない。 考えるに; 「鮮羹」が何を指すのか意味不詳で、 p. 12 『食物本草歳時記』 ● 月鼠羹(ゲツソカン) 「羊羹考」 議論の余地がありそうだ。 考えるに; 「月鼠」とは「うさぎ」のことで、お そらくは小麦粉や白玉粉などを練って、うさぎ ● 白魚羹(ハクギョカン) の形にした蒸し菓子の一種であろう。白ウサギ を模して、白玉粉と白砂糖を用いた。 考えるに;おそらくは小麦粉や白玉粉などを練 って、魚の形にした蒸し菓子の一種であろう。 白玉粉に白砂糖を練り込んで試作した。 ナイフで切れ込みを入れてうさぎの耳をつけた。 ● 雲(魚+亶)羹(ウンゼンカン) 「白魚」とあるので、生地には着色していない 考えるに;「 (魚+亶)」はチョウザメ、または はずで、またきな粉をまぶしたり、蜜をかけた 巨大な鯉の意だが、 「雲(魚+亶)」は何を指す のでは「白魚」ではなくなってしまうので、貴 のかよくわからない。おそらくは大きな魚の形 重な白砂糖を使って生地に味付けをしたぜい を模して作った、一回りサイズの大きな蒸し菓 たく品だったと考えられる。 子の一種であろうと思われる。 ● 砂糖羊羹(サトウヨウカン) 『扶翼』にいう、前に羊羹あり。又重ねて砂糖 羊羹と云ふ者は、古代は、今世の如く、砂糖、 異国より多く渡り来らず。世に砂糖少し。故に 何を製するにも、甘味を付くるには、あまづら の煎汁を用ふ。(中略)庭訓を書きたる頃は、 常にあまづらにて、製したるやうかん多く、砂 糖にて製したるやうかんは稀なるゆゑ、砂糖羊 羹の名を別に出したる也。 考えるに;当時は高価な貴重品であった砂糖を、 惜しげもなく使い生地に煉りこんだか、プレー ンの「羊羹」の上にふりかけて景色としたかは、 p. 13 『食物本草歳時記』 練り羊羹の登場 「羊羹考」 「羊羹」の語源について 日本に伝来したばかりの「羊羹」は、塩味で 室町時代に中国留学僧たちによって、『庭訓 炊いた小豆餡を小麦粉で練り、これを蒸して作 往来』にあるような蒸し菓子の「羹」の類が伝 る「丁稚羊羹(でっちようかん)」のような蒸 来するまでは、日本でも「羹」はあつものを指 し菓子であったと考えられる。われわれのよく すことばであった。たとえば、承安二年(1172) 知っている「羊羹」は、天正十七年(1589)伏 の摂政家臨時客の献立に「三献、盃を勧む。雉 見の鶴屋(後の駿河屋)四代目岡本善右衛門が、 羹、松梅、生鮑」[17] とあるが、この「雉羹」 砂糖を使った小豆餡を寒天で棹状に固め、 「練 はとろみのついた汁物の料理で、今でいうとこ り羊羹」を作ったのがその嚆矢とする説がある ろの吉野葛の銀餡でとじた「治部煮椀」のよう [16]。 な料理であったに違いない。時代は下って天保 しかし、寒天の製法が発明されたのは、万治 十四年(1843)刊行の『貞丈雑記』[18] に、 「羹 年間(1658~61)のある冬に薩摩藩主島津光久 の汁は皆たれ味噌の汁なり。又、煉汁も用ひる が伏見の美濃屋に宿泊したとき、心太(ところ 事あり。 」とあるように、 「羹」はあつものとし てん)の残りを宿の主人の太郎左衛門が庭先に ての本来の字義を一貫して持ち続けていたこ 放って置いたところ、夜の寒気のために凍結し、 とが分かる。ただ、禅宗の僧堂の中では、点心 陽に当たると解凍して水分が蒸発し、数日たっ の蒸し菓子の類に「羹」の字をつけることが流 てカラカラに乾燥しているのを発見し、ためし 行した。 に湯に漬けて戻したところ透明の液体になり、 道元の『典座教訓』[19] の例を出すまでもな 冷えると元の心太のように固まることを発見 く、禅宗では食事もたいせつな修行の一環であ した、という偶然から生まれたものだといわれ、 り、留学僧たちは禅宗文化とともに、その食事 四代目善右衛門の時代にはまだ存在していな 作法や不殺生の戒律を厳守した素菜(精進料理) かった。秀吉の大茶会に引き出物として出され の数々を日本に伝来した。中国の素菜は、植物 た羊羹は、「伏見羊羹」、「紅羊羹」と呼ばれた 由来の素材をさまざまな手法を用いて加工し、 蒸し羊羹の一種であった。 本物そっくりの「モドキ料理」に姿を変えて、客 実際に「練り羊羹」をはじめたのは五代目善 の目と舌を驚かせてきた。中国で学んだ禅僧が 右衛門の頃からで、彼は茶を好み甘党でも有名 日本に持ち帰った点心のなかには、このような であった駿河藩主徳川頼宣(家康の十男、南龍 「モドキ料理」も多く伝えられた。本来は羊血 公)に召抱えられ、頼宣が紀州に国替えになる の煮凝りであった「血羹」も、小豆と小麦粉で のにつき従って和歌山に入り駿河町に店を構 作った精進料理の「血羹」に仕立て上げられた えた。その後貞享二年(1685)に将軍綱吉の息 のだと考えられる。そのときに、小麦粉を用い 女鶴姫が紀州徳川家にお輿入れになり、それを るヒントとなったのが、 『斉民要術』の「酸羹」 畏れて「鶴屋」の屋号を返上し、その褒美とし の製法ではなかったかと想像している。もちろ て「駿河屋」の名を賜ったのが今日の総本家駿 ん精進料理であるので、羊腸を用いるわけには 河屋のはじまりである。 行かないから、竹の皮などに包んで蒸したのだ ろう。これが日本に伝わって「羊羹」と呼ばれ るようになったと考えられる。同じようにして 「猪血」の代わりに「血糯」 (黒もち米)で作っ p. 14 『食物本草歳時記』 「羊羹考」 た精進料理の「猪血糕」が、日本では小豆とも をふるまわれたという記載があることを紹介 ち米で代用されて「猪羹」と呼ばれるようにな している。はたして僧策彦が中国で見た「羊羹」 り、驢肉の腸詰の「驢腸」を模したものが「驢 がどのようなものであったかは定かではない 腸羹」と呼ばれるようになったのであろう。こ が、少なくとも僧策彦は、中国の「羊羹」はあ のようにして日本では、「羹」の字のついた蒸 つものであり、日本の「羊羹」のような点心で し菓子の点心の類が独自の発展を遂げ、いくつ はなかったことを認識していたはずである。し もの「羹」が誕生したのだ。 かしながらそのことは後世には伝わらず、舶来 物の「羹」は喫茶の風習などのあたらしい禅宗 これまで「羊羹」のルーツは、羊肉で作った 文化とともに、蒸し菓子の点心として独自の発 「羹(あつもの)」が冷えて固まったものであ 展を遂げることになった。そして本来は僧堂の るとか、 「羊羹」は「羊肝」であり、羊の肝臓の 中だけで通用することばであった「羊羹」は、 形を模した食品であるというのが定説となっ 茶の湯文化が庶民に広まるとともに、人口に膾 ていた[20]。しかし上に述べてきたように、和 炙するようになったのだ。 菓子の「羊羹」のルーツは羊血の「(血+臽)」 であり、「羹」は「 (血+臽) 」の仮借字であっ このようにして、日本製の「羊羹」はひとり歩 きをはじめたのである。 て、 「あつもの(とろみのあるスープ)」の意か らきたものではない。「肝」はさらに音通で仮 借したもので、いいかえれば「 (血+臽) 」の当 て字の「羹」の、さらに当て字が「肝」だとい うことである。 「血」の穢れを忌み嫌う日本人の DNA は、 われわれに和菓子の「羊羹」から羊血の「血羹」 を連想させることはなかった。また、殺生を禁 じ四足を食べるのを忌み嫌ったので、じっさい に羊肉の羹を口にした日本人はほとんどいな かったに違いない。そのため想像の中の「羊羹 (あつもの)」は、頭の中で容易に「煮凝り」に 変身することができた。また、羊の肝臓の実物 を見た日本人はほとんどいなかったはずで、 「羊羹」を見て、まっ先に羊の肝臓を連想する 日本人もいなかったに違いない。「羊肝」もま た、日本人が頭の中で作り上げた虚構だった。 中国に学んだ留学僧は現地で「素菜」の「血 羹」を食べたであろうし、羊血で作った「血羹」 を目にしたかもしれない。 『和菓子ものがたり』 [21] には、大内義隆が派遣した対明貿易使節の 副使であった僧策彦の日記、「策彦入明記」の 天文八年(1539)条に、中国滞在中に「羊羹」 p. 15 (2015 年 3 月補筆改訂) 『食物本草歳時記』 「羊羹考」 参考文献: [1] 『日本料理秘伝集成』第十八巻、 「四条流包丁書」 同朋舎出版 1986 年 7 月 [2] 『食物と歴史』 レイ・タナヒル 小野村正敏訳 評論社 1980 年 6 月 [3] 『モンゴル草原の生活世界』 小長谷有紀 朝日新聞社 [4] 『韓国料理文化史』 李盛雨 平凡社 1996 年 4 月 1999 年 6 月 [5] 『説文解字注』 段玉裁 上海書店 [6] 『食物本草』 姚可成 人民衛生出版社 1994 年 11 月 [7] 『聞き書き 沖縄の食事』 農山漁村文化協会 1988 年 4 月 [8] 『荊楚歳時記』 宗懍 平凡社 東洋文庫 [9] 『杜甫詩選』 岩波文庫 [10] 『戦国策』 劉向 新書漢文大系 明治書院 [11] 『随園食単』 袁枚 岩波文庫 [12] 『斉民要術校釈』 賈思勰 中国農業出版社 1998 年 [13] 『中国の食譜』 「居家必用事類全集」 平凡社 東洋文庫 [14] 『庭訓往来』 平凡社 東洋文庫 [15] 『菓子の文化誌』 赤井達郎 河原書店 平成 17 年 6 月 [16] 『和菓子』 守安正 毎日新聞社 昭和 48 年 3 月 [17] 『お菓子の歴史』 食の風俗名著集成 守安正 東京書房社 1985 年 3 月 [18] 『貞丈雑記』 平凡社 東洋文庫 [19] 『典座教訓』 道元 講談社学術文庫 [20] 『近世菓子製法書集成』 平凡社 東洋文庫 [21] 『和菓子ものがたり』 中山圭子 新人物往来社 1993 年 12 月 「羊羹考」は『食物本草歳時記』の一部です。無断転載を禁じます。 Copyright © 2015 Ringo-do , All Rights Reserved p. 16
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