CASABELLA JAPAN レクチャー

C A S A B E L L A J A P A N レ ク チ ャー
いかに建築空間は思考されるか 岡田哲史
ルフ・ロース」の面白味はなかなか分からないはずです。
[Figs.1-2]
ロースは見えてこないということなのです。
歴史家だってオールマイティではないので、全史書の場
その私の判断に自ら援軍を送るつもりはありませんが、
第7回─アドルフ・ロース試論[2]
合は過去の出来事の目ぼしいところだけを摘んで紡ぐこ
美質についても信用に足る硯学、ジョゼフ・リクワートの
聞き手=小巻哲
とがほとんどですからね。
ロースに関する認識は参考になるかもしれません。彼は
それはさておき、現代の私たちにロースを誤読する
1972 年にミラノから出版されたロース本のために「序言」
─今回は「アドルフ・ロース試論」の2 回目ということで、
機制が働いていたとすれば、それはやはりロースが他
を書きおろしますが、その冒頭で「アドルフ・ロースはその
ロースの建築作品に踏み込んで語っていただきたいと
界する前 年にニューヨーク近 代 美 術 館(MoMA)で催
世紀の最も優れた建築家ではなかった。
しかし 20 世紀
考えています。その前に、前回の内容を少し振り返って
された「近 代 建 築:国 際 展 覧 会(Modern Architecture:
建築家のなかで彼は、一流の書き手としては唯一無二
おきたいのですが、そこではロースの核心とも言える「装
International Exhibition)
(1932)
」
に端を発しているのではな
(ル・コルビュジエを例外とすることは可能かもしれないが)
の存在
飾」の問題をめぐって、独自の論考を展開していただきま
いでしょうか[注1]。そこで「インターナショナル・スタイル」
と
であった」
と書き始め、
なんと僅かその 2 文だけで最初の
した。ロースは「装飾と犯罪」を執筆し、その言説ゆえに
いう造語で括られた建築が「装飾」を排除する原則を含
パラグラフを閉じています[注 3]。そのインパクトのある短
ロースは装飾の否定を高らかに謳った最初の近代建築
んでいたという事実と、
ロースが「装飾と犯罪」と題する
文に凝縮された論点はいたって単純明快ですね。つま
家であることには違いないのですが、
しかしそれを建築
論稿を発表し、現実に無装飾の白い箱状の住宅作品を
り
「20 世紀建築家のなかで、
ロースは執筆者としては一
の世界に短絡的に当てはめることは危険であること。そ
実現させていたという史実がショートして(=短絡的に結びつ
流だが、建築家としてはそうではなかった」
ということ。こ
れどころかロースは建築作品のなかでは古典主義のエ
いて)
しまい、誤解を招くきっかけを与えてきたことは十分
の批判的言説はとても示唆的です。
レメントを採用していたし、むしろ条件付きで建築におけ
に考えられる話です[注 2]。いずれにしても、
先入観をもっ
話をもとに戻しますが、
しかし、仮にそういった洗脳が
る装飾を肯定していたこと。そしてその条件とは、尊敬
てロースを逆照射してしまうと、
ロースを素のままに観察
解けたとしても、
「アドルフ・ロース」が難解な対象であるこ
するヴァグナーが創りだす機能的かつ現代的な装飾で
する眼を奪われかねないのです。
ところで「誤読」
とはい
とには違いありません。理由は前回述べたとおりです。そ
あれば受け入れるというものでした。それに対してロース
ささか無関係ではありますが、歴史学に引っ張られて多
こでは 2 つ挙げました。ひとつは「今日追体験することの
は、
オルブリッヒやホフマンによる現代装飾には、
ヒステリッ
(強いられている?)例がロー
くの人が滑稽な判断をしている
できるロースの建築作品が少なすぎるから」であり、
もうひ
クとも言える攻撃的な姿勢を見せていた。そこに、いわ
スハウス(Looshaus, 1909-11)です。
しばしばその建物を「美
とつは「ロースが残した言説が多すぎるから」です。とり
ばロースの二重人格性をみることができるといった内容
しい」
と表現する人を見かけます。お世辞なら気の利い
わけ後者については、
「建築家」を自称するロースが、建
だったと思います。つまり、現代の私たちはロースを表面
た洒落で済ませるのですが、それが本気だとすれば、そ
築以外の話題で書いた論稿のほうが圧倒的に多いもの
的に捉えすぎてきたのではないか、改訂されることのない
れこそ権威に眼を曇らされた判断といえるのではなかろ
ですから、それらが「建築」
と何かしら関係があるに違い
近代建築史のテクストを読み続けていたのではないか。
うか……、
と。ロースハウスは、なるほど建築史を賑わ
ないといった色眼鏡で読み込んでいくと、
またしても誤読
そんな思いを抱きました。
せてくれたという意味では
“名建築”
です。しかしあの建
に陥る事態を引き起こしてしまいます。ロースをめぐる誤
築を一目見て、つまりは理屈抜きに、心底美しいと感じる
解は、そんなふうにして幾重にも縺れた様相を呈してい
岡田─近代建築史の概説書(たとえそれが専門書だったと
人はいないでしょう?……(笑)。いずれにしても、
まずは
るのが現状です。それを慎重に解きほぐす作業からして
しても)
を読んで分かったようなつもりになっていても、
「アド
洗脳を解かなければ、眼を覚まさなければ、実体としての
いかなければなかなか本丸にまで辿りつけないわけです
が、近年その作業の立役者として筆頭に挙げられる研
究者がラウエルタであることも触れました。
今回は、ロースの作品に迫ってみようということです
が、実はその試みはロースの言説を吟味することよりもは
るかに困難です。理由は単純で、
“書かれた文字”
はひと
たび印刷されると修正できない(厳密には再版までいけばで
きる)
のに比べ、
“ 造られた建物”
は容易に壊すこともでき
れば改修することも可能だからです。一品生産の建物
は壊せば存在そのものが失われてしまうし、かりに改修
に留めておくとしても、原形を大切に保存しようとする意
識が働かないかぎりオリジナルのクオリティを損ねてしま
Fig.1:アドルフ・ロース
Fig.2:ロース|ロースハウス、
ウィーン、1909 -11
Fig.3:ハインリッヒ・クルカ
(ロースの右側)
います。
22
1897 年から1933 年までの活動期間においてロース
と思われますが、いちばんもっともらしい仮説は「彼がア
ロースによる空間デザインの方法を「ラウムプラン」
と呼
は、未完のプロジェクトも含めれば、大小あわせ、
ざっと数
パートメントの改修計画を手がけているうちに空間の有
ぶならば(以下、便宜上「ラウムプラン」と呼びますが……)、その
えて179 件の事業に携わっていました。線引きが難しい
効な活用法に目覚めた」
とするものです。その説をいった
真髄はほとんどこのロースの言葉に凝縮されているので
案件も多いためカウントの方法によって数字が多少前後
い誰が言いはじめたかは不明です。しかし真っ当な見
はないでしょうか。古典主義時代の建築は、大きな部屋
するかもしれませんが、具体的な数字で見ておきますと、
解ですから今や定説となっているのでしょう。アパートメン
も小さな部屋も天井高は一様に同じ寸法で造られてい
そのうちアパートメントや住宅等の改修/改装が 66 件、
トの改修工事は、既存建物の構造の内側で行われます
たのであり、その慣習を疑問視することはなかったという
集合住宅や店舗等の商業施設が 27 件、その他の細々
から、建築デザインというよりもどちらかといえば内装デザ
こと。
ロースはまずその認識を前提としています。
ロースが
とした仕事(インテリア、ファサード、壁面および天井の装飾、家具、
インに特化した仕事です。ロースが改修計画を行ったア
「カント」を引き合いに出した理由は、
カントが空間を悟性
お墓等のデザイン、あるいは設計競技等の図面やスケッチ段階で
パートメントは、おおむね古典主義様式の建物でした。旧
さらには理性で捉えることを考えた最初の人物だったか
終わりプロジェクトまで至っていないもの)が 32 件、未完のプロ
来の構造は階高が大きく、
したがって天井もヒューマン・
らです。不合理な空間を不条理と認識するためには理
ジェクトが 39 件、そして15件が実現までこぎつけた戸建
スケールの観点から見れば高すぎるくらい高かったわけ
性の働きが要請されます。ロースは、そうした「不条理な
ての住宅あるいは別荘になります。私自身、今回あらため
ですね(ちなみに、ルネサンス時代のパラッツォは 4メートルの天井
空間を合理的に使用するためには、それを必要に応じ
てロースが携わっていた仕事を細かく調べてみて、想像
高はふつうで、それは現在でもヨーロッパのいたるところで経験する
て分割すればよい」
と主張しているわけですね。この単
していた以上に多かったので正直驚かされました。
しか
ことができる)
。そこで、その高すぎる天井を理不尽と考え
純明快なアイデアが、すなわち「ラウムプラン」の思想的
しここで問題なのは、その数にもかかわらず、原形を留め
たロースは断面方向の空間分節を試みるようになったと
根幹をなしています。ロースの言説で興味深いのは「三
ている建物があまりに少なく、
とりわけ民間の戸建住宅に
いう話。さきほどロースの作品業績を俯瞰したさいに紹
次元の空間のなかで平 面を解く」という件です。ここで
プラン
ほど
プラン
至っては(私的なプロパティであるがゆえに致し方ない話ではあり
介したとおり、彼が手がけたアパートメントや住宅の改修
というときの
いう
「平面」は、私たちが日常的に「平面図」
ますが……)皆無に等しいということです。
ロースによる建
計画は優に 60 件を上回りますから、手を変え品を変え試
「平面」
と解釈して問題ありません。ですから「平面を解
築デザインの核心に迫ろうとするとき、
アパートメントの改
行錯誤を重ねていたはずです。
したがってその仮説は、
1 枚からなる「平面」を機能的に合理性が認めら
く」
とは、
修や商業空間のデザインをもとにして議論を深めること
ロースが合理主義思想の持ち主であったことを考え合
れる幾つかの平面領域に分割することを意味します。さ
は難しいですからね。
となれば、
おのずと彼が比較的コン
わせれば頷けないわけではないのです。
ところがその一
らにロースは「三次元の空間のなかで」
と条件を付けて
スタントに手掛けていた戸建住宅に眼を向けることにな
方で、それを実証する資料があまりに乏しく、そのまま鵜
いますから、その分割された「平面」は水平方向にも垂
プラン
4
4
4
ほど
4
るわけですが、
なかでも断面形が複雑な様相を呈してい
呑みにするわけにもいきません。ロースが改修したアパー
直方向にも自由度をもつ、つまり合理性という名の
“必要”
る建物に注目したいと思うのです。というのも、その様相
トメントで、断面方向の空間分節を行った実例が図面に
に応じて動かすことができると言っているわけです。建築
にこそ「ラウムプラン」の本質が在るからです。
おいてさえ見当たらない(ひょっとしたらどこかに眠っているかも
の物理的空間領域は所詮有限ですから、そこで分割さ
そんなわけで、
ここからはロースの建築デザインを語る
しれませんが、
今後発見される歴史資料を待つしかない)
のです。
れた「平面」は自ずと垂直方向に制限が与えられ、つまり
さいに避けて通ることのできない「ラウムプラン」につい
さて、そんな疑問を抱えつつ「ラウムプラン」の核心に
は高さを持つことになり、三次元のいわば微分された空
て、少しずつ話を深めていきたいと思います。まずはその
踏み込んでいきたいと思うのですが、手始めとしては、
間が生まれます。それは平面分割を契機に生まれた諸
用語の由来について。いきなり衝撃的な話をするようで
ロース本人による興味深い言説が残されていますから、
空間が、
もうひと回り大きな三次元空間の領域内に合理
すが、
「ラウムプラン」はロース本人が命名したものではあ
まずはその引用から始めましょう。
的に組み込まれるイメージでもあります。その結果として、
りません。それどころかロースは、生前その用語を使用し
たことは一度もなかったというのです。私の認識が誤って
水平方向にも垂直方向にも、必要に応じて分割された
建築の世界に大きな革新があるとすれば、それは三
プラン
ほど
空間ができあがります。ロースは「三次元のチェス」を例
いなければ、
「ラウムプラン」はチェコスロヴァキアの建築
次元の空間のなかで平 面を解くことにあります。イマヌ
に取り挙げていますが、チェスの駒に相当するものが個
(Heinrich Kulka, 1900 -70)が命名し
家ハインリッヒ・クルカ
(それを)
エル・カント以前の人間は空間という視点から
別に機能する空間であり、
チェスの盤に相当するものが、
た造語でした。彼はウィーン工科大学を卒業後、
ロース
考えることができませんでした。
したがって建築家がト
その複数からなる個別の空間を布置するための器、す
のもとで学び始め、やがて右腕の一人としてロースの設
イレを設計するときでもホールと同じ天井高で造るの
なわちひと回り大きな三次元の有限空間というわけです。
計活動に寄り添い、1931年には
『アドフル・ロース建築作
(高さ方向を)2 分割するだけで天井高の
が当然でした。
「ラウムプラン」が実現された建物は、そのほとんどす
品集』
を出版した人物です[注 4]。その作品集の中で「ラ
低い部屋が得られるというのに。人間はいつしか三次
べてが一戸建ての住宅建築でした。
しかもそれが成立
[Fig.3]
ウムプラン」
という呼称が誕生していたのです。
元の盤でチェスを指すことになるでしょうが、
それと同じ
するための必要条件として「空間容量の大きな器」が要
プラン
ほど
ところで、
ロースが「どのような経緯で建物の断面形に
ように建築家が三次元の空間のなかで平 面を解く日
請されますから、おのずからクライアントは限られてきま
変化を加えはじめたか」
という問題をめぐっては諸説ある
[注 5]
が訪れるでしょう。
す。端的に言えば、
「ラウムプラン」は豊かな資本を有す
23
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る富裕層の人々の邸宅や別荘において実現されていた
岡田─アドルフ・ロースとル・コルビュジエの影響関係を
に多少なりとも根拠与えてくれる資料がありますから、そ
のです。そのせいでしょうか、
ロースが「ラウムプラン」
を試
めぐっては、確かにこれまでも幾つか論じられてきていま
れを紹介しておきましょう。それはロースが 1899 年に携
みた件数は決して多くありません。ほとんどが 1920 年か
すし、
それをまとめた著書も出版されています。
しかしロー
わっていたとされるアパートメント改修計画で、パステルで
ら30 年にかけて、すなわちロース晩年の作品に集中し
スの作品を観察していると、直観的なのですが、私には
描かれた 1 枚の透視図です。その透視図(どんなに贔屓目
ていますが、それが最初に現われるのがストラッサー邸
ロースの空間に「フランク・ロイド・ライト」が透けて見える
に見ても美しい透視図とは言えません)が、
いつ、
どのプロジェ
(Strasser House, Wien, 1919)
とルーファ邸(Rufer House, Wien,
のです。あるいはひょっとしたら世界中のどこかで誰かが
クトのために描かれたものか、未だに特定されてはいま
1922)です。その後、
ハバーフェルド邸(Villa Haberfeld, Bad
同じように感じているかもしれませんが……。むろん、直
せん。
ところが、いったい何を根拠としてか、文献の中で
Gastein, 1922)、
ストロッソ邸(Strosso House, Wien, 1922)、モ
観的とはいえ根拠がないわけではありません。すでに前
は 1899 年に描かれたものと同定されているのです。そ
アシ邸(Villa Moissi, Venezia, 1923)、テラスハウス(Terrace
回お話したとおり、
ロースは 1893 年から96 年までアメリカ
の一方で私自身、その透視図に描かれた空間に見覚え
House, Cote d’
Azur, 1923)、
フォン・シモン邸(Von Simon House,
に滞在していました。その渡米の最大の目的はコロンビ
があると思いつつ記憶を辿っていくうちに、最初に脳裏
Wien, 1924)と未 完プロジェクトが 続き、ツァラ邸(Tzara
ア博覧会を見学することであったと言われていますが、
s Home Journal 』誌に掲
に浮かんだのがライトの
『 Lady’
House, Paris, 1927)とモラー 邸(Moller House, Wien, 1928)
博覧会がどんなに盛大だったとしても数週間もかけて丁
(A Home in Prairie Town,
載された「プレイリータウンの家」
を経て、
ミュラー邸(Villa Müller, Praha, 1928 -1930)でクライ
寧に見て回る人はまずいないでしょう……(笑)。しかし
1900)の断面図でした。そしてさらにその空間性を手掛
マックスを迎えます。その後、
ボイコ邸(Bojko House, Wien,
その用が済んだからといって、
ロースがさっさと別の都市
かりに辿りついた先がダナ邸(Susan Lawrence Dana House,
1930)
とフライシュナー邸(Fleischner House, Haifa, 1931)の未
に移ったとは考えられないのです。当時のシカゴでは、
ア
1902)だったのです。内装材等のディテールは本質的な
完プロジェクトが続き、
ヴィンターニッツ邸(Winternitz House,
ドラー& サリヴァン建築設計事務所は文字どおり飛ぶ鳥
問題ではないためひとまず棚に上げておくとして、空間構
Praha, 1932)の 実 現を見 て、最 後 の 家(The Last House,
を落とす勢いで、当然のことながら博覧会場の施設計
成の本質は瓜ふたつです。ライトがそのロースのスケッチ
Praha, 1933)が未完に終わり幕を閉じます。
どこまでを
「ラウ
画にも深く関わっていました。アヴァンギャルドを自負する
を参照してダナ邸を設計していたなど絶対にありえませ
ムプラン」
と認めるかという問題は残るとしても、実際にそ
ロースが、彼らが実践を通して見せた先進的なデザイン
んから、そうなると逆にロースの「1899 年」のほうを疑わな
れを試みた 14 件のプロジェクトのうち実現まで至ったの
やテクノロジーに無関心でいられるはずはなかったはず
ければならなくなってしまいます。当時のロースとアメリカ
はわずか 6 件にすぎないのです。
です。1893 年と言えば、
ライトがちょうどその事務所から
の関係性を記述した著書としては、
建築家リチャード・
ノイ
独立した年でした。
しかしライトはすでにいくつも住宅を
トラが 1930 年に出版した著書『アメリカ』第 2 巻を挙げる
─ロースの「ラウムプラン」が、
アパートメントの改修計
設計し実現させていましたから、
ロースがそれらを実見
ことができます。そのなかでノイトラは、
「当時のロースは
画から生まれた確証がないとすると、いったい何を直接
する時間は十分にあったはずです。他方、1896 年以降
H・H・リチャードソンの特徴をウィーンに移植していた」と
的なきっかけとして誕生したのでしょうか? 1920 年代の
のライトの建築作品については、1911 年にヴァスムート社
触れており、天井の化粧梁と素焼き煉瓦で造作された暖
ロースはフランスにも逗留していて、ル・コルビュジエとも
から出版されたライト作品集をとおしてフォローすること
炉周辺の構成の類似性に注目していたようですが、私に
交流がありましたから、その影響関係のなかから生まれ
ができたはずですから、
ヨーロッパに戻ってからも情報に
はどう見てもライトとの親和性のほうが大きいように思わ
たものなのでしょうか? 2 人を関連づける書籍も複数あり
事欠くことはなかったとみてよいでしょう。
れます[注 6]。いずれにしても、
これはあくまでも仮説です
ますし。
ロースの作品を遡って観察していくなかで、私の直観
が、
もしロースがライトの作品に直接間接に触れていたと
Fig.4:ロース|あるアパートメントの透視図
Fig.5:ライト|ダナ邸、
Fig.6:ライト| G・ブロッサム邸、
スプリングフィールド、1902
シカゴ、1892
Fig.7:ライト| W・ゲイル邸、オークパーク、1893
24
Fig.11:
同、
アクソノメトリック
Fig.8:ロース|モラー邸、
ウィーン、1927 -28
Fig.9:同、平面図
Fig.10:同、断面図
したら、
ライトが「階段」
とその周辺で魅せた空間の妙技
ていたということですか。そこまで明確にライトの影響を
で……)
。したがって「ラウムプラン」は 1 階と2 階を合わ
にロースが感化されていたとしても不思議ではないでしょ
述べた論考を目にした覚えがないので、学術的にも価値
せた空間領域内で実現されていたことになります。そこ
う。なにせ、それこそが「ラウムプラン」を成立させる最も
のある新説になるかもしれませんね。
「ロースがヴァスムー
で詳しく観察したいのは 2 階の空間を下から支える床
[Figs.4 -5]
本質的な道具でありタクティクスなのですから。
ト版の作品集を一度も見ていなかった」
ことなどありえな
面の動きについてです。ロースは 1 階から階段で上がり
ライトが 1892 年から94 年頃までに竣工させた住宅
いし、むしろ「見なかった」
と信じることのほうが難しいで
きったホール(HALLE)を起点とし、段数にしてわずか 4 ─
の内部空間で、階段(あるいはステップ)が高低差のある床
しょう……。ところでロースの建築作品で、
ライトの影響
5 段分の小さな階段を巧妙に配置し、隣接する部屋の
レベルを巧妙に繋いでいる事例は 1 件や 2 件では済み
を見てとれる決定的な事例は存在しないのでしょうか?
床面に高低差を与えています。具体的には、ホールから
音楽室(MUSIKZIMMER)
までの床面を同一とし、そこに
ません。具体的に挙げると、
ブロッサム邸(George Blossom
House, 1892)から、
W・ゲイル邸(Water Gale House, 1893)、
岡田 ─残された問題とは、
まさにそれなのです。それ
隣接する食堂(SPEISEZIMMER)の床面を高低差にして
ゴーン邸(Peter Goan House, 1894)、ベイグリー邸(Frederick
を示すことができれば仮説も真実味を帯びてくるのです
700 mm、段数にして 4 段分上げています。食堂は椅子
Bagley House, 1894)、
そしてライトの出世作となったウィンズ
が……。ただ、心当たりがないわけではない……。な
に座って過ごす時間が多い空間ですから、
ロースはそこ
ロー邸(William Winslow House, 1894)
まで、わずか 3 年の
かでも注目したいのはモラー邸(Moller House, 1927-28)
に高い天井は必要ないと判断していたのです。それに対
あいだに 5 件もの事例を数えることができます。それはも
です。その住宅に対するライトの影響について述べる前
して、音楽室の天井は、食堂の天井よりもさらに 450 mm
はや
“偶然”
という言葉で済ますわけにはいきませんね。
若
に、
この住宅の内部空間について解説しておきましょう。
ほど高く設定してあります。音楽室は気積の大きな空間
きライトが試行錯誤しながらも意図的に試みた空間操作
[Figs.8 -11]
が要求されますから、わざわざ折り上げ天井とし、3 階の
の方法だったのです。そのライトに纏わる現象をいま私た
10 m×13 m の平 面 概 形をもち、地 下 1
モラー邸は、
床スラブぎりぎりのところまで天井面を押し上げているの
ちが話題にしているロースの「ラウムプラン」に引きつけて
階から地上 4 階まで計 5 層分からなる箱状の建物で
です。
さらにその同じホールから段数にして 5 段分上がっ
説明すれば、
ライトの建築作品にあっては、すでに 1890
す。居室は 1 階から3 階までの 3 層分に計画されてお
たところに図書室(BIBLIOTHEK)
とアルコーヴ・ラウンジ
年代初期の段階で固有の機能を割り当てられた各々の
り、5 つの寝室が占める3 階は床面も天井面も完全にフ
(本稿では「壁面の一部を凹ませてつくられたラウンジ」を便宜上こ
ラットです。さらに 1 階の床面も、玄関ホールの空間領
の名称で呼ぶものとする)が計画されています。それは前面
域を除いては GL+540mm のレベルで統一されている
道路から見たファサードで言えば、壁面の中央で道路側
ため、
これまたほとんどフラットです(このあたりも実はライト
に突き出したところに該当します。その部分は必然的に
のウィリッツ邸を髣髴とさせるのですが、詳しい話は別途ということ
天井高の低い抑えの利いた空間になりますから、図書
プラン
「平 面」が単一の平面内に留まることをやめ、垂直方向
[Figs.6 -7]
に動きだしていたということになるのです。
─つまり、
ロースの「ラウムプラン」
もライトが起点となっ
25
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ライトの住宅は、
プレーリー・スタイルに代表されるように
比較的広大な敷地の中で水平方向に広がる性質をも
つため、床面の高低差は見かけ上、比較的散漫に表わ
れます。それに対してロースの住宅は、ほとんどが垂直
方向に積み上がる極めてコンパクトな箱状の建物でし
た。
したがって平面形状もコンパクトにならざるをえず、高
Fig.12:モラー邸のアルコーヴ・ラウンジ
Fig.13:ライト自邸
(オークパーク、1898 )の
アルコーヴ・ラウンジ
低差のある床面とそれらを繋ぐ階段が否応なく相互に
Fig.14:ロース自邸
(アパートメント改修計画、1903 )の
アルコーヴ・ラウンジ
近接/隣接するかたちをとります。つまりそれらの要素が
一ヶ所に集中し、凝縮したかたちで立ち現れるのです。
その凝縮が「ラウムプラン」
としての価値を、別の言い方
をすれば
“空間の魅力”
をいっそう際立たせていると見て
室にとっては読書に集中できる空間が、
ラウンジにとって
ラー邸の音楽室(MUSIKZIMMER)
と食堂(SPEISEZIMMER)
は造り付けのソファに腰を掛けると落ち着いた居心地の
の間に設けた 700mm のレベル差です。それがなぜ決
良い空間が実現します。ちなみにその部分の床面が上
定的かといえば、
その原風景を、
ライトが 1909 年にオーク
─単に視覚的なアナロジーを示すのではなく、そこま
がることで直下階の空間の天井面も連動して高くなりま
パークで竣工させたゲイル邸(T. Gale House, 1904 -09)の
で建築を具体的に読み込んだ考察を聞かせてもらえる
すから、結果として圧迫感のないエントランスの空間が
内部空間に見出すことができるからです。この小さな家
と、
ロースがライトの影響を色濃く受けていたという論旨
生まれているのです。ここでもロースは、1 枚の平面のうえ
(平面概形にして 8m×14 m)
でライトは、
まさに居間(LIVING
には十分な説得力を感じます。そうした視点は、岡田さん
で幾つかの機能に応じた平面を画定し、それらを分割し
ROOM)
と食堂(DINING ROOM)の間に、段差にして2 段
ます。その分割した平面に相応しい天井高を与えるべく
分、寸法にして約 310 mm の高低差を施し、空間に変化
各々の床面を上下に動かすと同時に、高低差のある床
を与える試みを実践していました。さらに興味深いディ
岡田 ─前回の冒頭で触れたとおり、
「アドルフ・ロース」
面相互を小さな「階段」で巧妙に連絡させていたので
テールについて言及すれば、
ライトはその階段部分を
に関する学術研究が本格的に始動したのが 1990 年
[Fig.12]
す。
両脇から挟むような構成で収納を造り付けていますが、
代だったとすれば、
まだ四半世紀しか経っていないわけ
ところで、
ロースがライトから影響を受けていたと見られ
ロースはその構成についてもそっくりそのまま踏襲してい
ですから、明らかにされていないことがまだまだたくさん
る空間要素についてですが、ひとつは「アルコーヴ・ラウ
たのです。
しかも開口部のプロポーションまでほとんど同
あるはずです。それにしても不思議なことですね。目ぼ
ンジ」を挙げることができます。実はその種のラウンジはラ
じですからね……。ロースの場合、音楽室から見て左
しい研究書を紐解いても
「フランク・ロイド・ライト」のロー
イトの十八番とするところでした。ヴァスムート版作品集
側はいわば構造体を内包する収納であり、右側は楽器
スへの影響関係に触れた論著は皆無ですからね。も
のページを捲ればいたるところでその情報を得ることが
の収納庫としています。ライトがオークパークに実現させ
ちろん私はロースを専門とする研究者でもないし歴史
できます。ライト本人も、
きかっけとしては H・H・リチャード
たゲイル邸が、モラー邸の誕生から数えて 19 年も前に完
家でもないので見落としているかもしれませんが……。
ソンから多くを学んでいたはずですが、その洗練された
成していたことを考えれば、その影響関係は明白なので
ヒューマンスケールのデザインは先達を遥かに凌駕して
[Fig.15-19]
す。
よいでしょう。
が建築家だからこそ持ちえるものかもしれませんね。
「CASABELLA JAPANレクチャー」の初回に「過去と
現在を相対化させること」
というタイトルのもと、
ライトのゲ
います。ロースが最初にそのラウンジを自らのデザインに
採り入れたのは 1903 年で、
自宅のアパートメントを改修し
たときのことでした。1889 年にライトが自邸にデザインした
アルコーヴ・ラウンジと比べてみてください。壁面をニッチ
状に刳り抜いて、中央に暖炉を配し、その手前両側に対
面する一対のベンチを仕込む構成はまったく同じです。
そのアルコーヴをカーテンで仕切る仕様まで踏襲されて
いますね……。ロースは、
このようなアルコーヴ・ラウンジ
をその後に設計する住宅の中でも適宜かたちを変えて
[Figs.13 -14]
計画していたのです。
それから、
もうひとつ決定的と思われるのが、
ロースがモ
Fig.15:ロース|モラー邸、音楽室と食堂の関係性
Fig.16:ライト|ゲイル邸、オークパーク、1909
Fig.17:同左、居間から食堂を見る
26
イル邸に注目し、それがリートフェルトに与えた影響につ
いため信用に足らない。
いて言及しましたが、今回の考察でその小さな住宅が
6 ─ Richard Neutra, Amerika, Neues Bauen in der Welt, vol.
ロースにも少なからぬインパクトを与えていたことが判明
II, Vienna 1930 , p.44
したと言ってよいのではないでしょうか。
7 ─ Max Risselada, op.cit. p.78
今回は時間の都合で「ラウムプラン」が最も充実した
かたちで顕われたミュラー邸についてはお話しできませ
んでした。したがって次回はその建築作品に照準を合
わせてみたいと考えています。今回は、ひとまず、
ロース
(Karel Lhota,
がチェコスロヴァキアの建築家カレル・ウホタ
1894 -1960)に対して語った言葉を引用しておしまいにし
たいと思います。
[注記以外の参考文献]
─ Adolf Loos, Spoken into the Void – Collected Essays 1897-1900,
The MIT Press, 1982
─ Panayotis Tournikiotis, Adolf Loos, Princeton Architectural
Fig.18:ゲイル邸、平面図
Press, 1996
─ Giovanni Denti, et.al., Adolf Loos opera complete, officina
edizioni, 1997
私の作品には実際のところ地上階もなければ 1 階も地
階もありません。部屋とそれに付随する空間やテラスを
つないでいるだけなのです。例えば食堂の天井高が階
段のそれとは異なるように、各部屋にはそれぞれに相
応しい天井高を割り当てます。床の高低差も然りです。
部屋から部屋へと移動する人がそれを面倒に感じな
いよう、いとも自然に、
しかも無駄のない方法で効率よく
[注 7]
連絡させることが肝心なのです。
─ Allison Saltzman ed., Villa Müller – A Work of Adolf Loos,
Princeton Architectural Press, 1997
─ Roberto Schezen、et.al. Adolf Loos: Architecture 1903-1932, The
Monacelli Press, 2009
─ Beatriz Colomina, Privacy and Publicity – Modern Architecture as
Mass Media, The MIT Press, 1994
─ Jeffrey K. Ochsner, H. H. Richardson – Complete Architectural
Fig.19:同上、断面図
Works, The MIT Press, 1982
─ Kenneth Frampton, Modern Architecture – A Critical History,
[注]
[3『
] CASABELLA
1 ─岡田哲史「起点としてのフランク・ロイド・ライト
JAPAN 』841 号、2014 年、pp.24 -25
2 ─ Henry-Russell Hitchcock & Philip Johnson, The
International Style, W. W. Norton & Company, 1966 , pp.69 -77
Thames & Hudson, 1980
─ Bruce Brooks Pfeiffer ed. Frank Lloyd Wright – Collecting
Writings I-V, Rizzoli, 1992
─ Terrence Riley et.al. ed. Frank Lloyd Wright - Architect,
MoMA, 1994
設立。デダロ・ミノッセ国際建築賞グランプリほか、受賞多数。ヴェネ
ツィア建築大学(IUAV)、デルフト工科大学など、海外の主要大学で
も建築デザイン教育に携わっている。主要著書:
『ピラネージと
「カン
(桐敷真次郎/岡田哲史、本の友社、1993)
プス・マルティウス」』
、
『 建築巡礼
(丸善、1993)
(共著、
トレヴィル、1997)
、
32 ピラネージの世界』
、
『 廃墟大全』
ちなみに、
ヒッチコックとジョンソンは「アドルフ・ロース」をインターナ
─ Alan Hess et.al., Frank Lloyd Wright - The Homes, Rizzoli, 2005
(G・B・ピラネージ著、岡田哲史校閲、アセテート、
『ピラネージ建築論 対話』
ショナル・スタイルの建築家としてはカウントしていなかった。このあた
─ David Larkin et.al., Frank Lloyd Wright - The Master Works,
2004)など。2009 年には、
ミラノのエレクタ社より作品集『 SATOSHI
りの問題は、
ドイツ工作連盟が 1927 年にシュトゥットガルトで開催した
Rizzoli, 1993
(近代住宅展)
において「アドルフ・ロース」が
ヴァイセンホフ・ジートルンク
─ Richard Pommer et.al., Weissenhof 1927 and the Modern
除外されていた経緯と無関係ではないと考えられるが、
このあたり
Movement in Architecture, The University of Chicago Press, 1991
の議論を深めていると今回の主旨を大きく逸脱するため別途の議
─ Harry Francis Mallgrave, Modern Architectural Theory – A
論に委ねる。
3 ─ Joseph Rykwert, The Necessity of Artifice, Rizzoli, 1982 ,
p.67
[図版提供]
岡田哲史建築設計事務所
Historical Survey 1673-1968, Cambridge University Press, 2005
─ Joanna Merwood-Salisbury, Chicago 1890, The University of
Chicago Press, 2009
[いかに建築空間は思考されるか]
1 ─過去と現在を相対化させること(CASABELLA JAPAN 833号)
[1(
]CASABELLA JAPAN 837号)
2 ─起点としてのフランク・ロイド・ライト
4 ─ Heinrich Kulka, Adolf Loos Das Werk des Architekten,
Schroll & Co., Wien 1931
(序文:フランチェスコ・ダルコ)
OKADA 』
が刊行されている。
[岡田哲史]
[2(
]CASABELLA JAPAN 838号)
3─起点としてのフランク・ロイド・ライト
5 ─ Franz Glück ed., Sämtliche Schriften, Wien 1962 ;
1962 年、兵庫県生まれ。建築家、千葉大学大学院准教授。コロン
[3(
]CASABELLA JAPAN 841号)
4 ─起点としてのフランク・ロイド・ライト
Benedetto Gravagnuolo, Adolf Loos, Milano 1982 , p.202 ; Max
ビア大学大学院修了後、早稲田大学大学院博士課程修了。日本
[4(
]CASABELLA JAPAN 842号)
5 ─起点としてのフランク・ロイド・ライト
Risselada, Documentation on 16 houses, Raumplan Versus Plan Libre,
学術振興会特別研究員、文化庁芸術家在外研修員、
コロンビア大
]CASABELLA JAPAN 845号)
6 ─アドルフ・ロース試論[1(
Delft 1988, p.78 後者(論文 1988)の引用は文章として成立していな
学大学院客員研究員を経て、1995 年、岡田哲史建築設計事務所
]本号)
7 ─アドルフ・ロース試論[2(
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