本編 第三章_PDF - Akira Togawa

第三章
ル・ジタン
「北柳の場合はどうなんだろう」
亮二は入力して、確定キーを押した。
画面に映った男は確かに北柳康雄に間違いなかった。かなり若い、隣に座っている女が誰かは分からな
かった。
「今日はどうしたんだい、顔色が良くないね、どこか調子でも悪いのかな」
「いえ、何でもないわ」
女は沈んだ顔に、暗い笑顔を浮かべた。暗い笑顔は凍りついたバラのような美しさを持っていたが、男
は女の明るい笑顔を見たいと思っていた。
「今日何があったのか話してくれないか、僕に話すことで多少でも君の悩みが軽減されるというなら」
世の中には他人に話せる悩みと、話せない悩みがあることは男にも分かっていたが、
「僕で解決できるかどうかわからないけど、君の悩みを聞かせてもらえる男はこの世の中に僕一人しか
いないと思うだけでも幸せなんだよ、それこそ愛し合っているということじゃないかな」
男の言葉は、女にとっての慰めにはならなかった。
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「本当に何でもないのよ、心配しなくていいわ。それよりお仕事の方どうなの、お父様とはうまく行っ
てるの?」
「親父は親父だ、雲の上の大物だからな。でも僕は君との結婚生活を第一に考えてるからね」
「でもお父様は厳しい方だから・・・」
「どうしたんだ、親父と何かあったのか」
男の心の中に何か小さなしこりのようなものが芽生えた一瞬だったかもしれない。
「いいえ別に、でもお父様は日頃から厳しく仰ってるんじゃないの、あなたは後継ぎだからって」
「後継ぎだ、後継ぎだって言われても、親父だけの会社じゃないからね。会社の創設者の一人だという
だけだ、黙ってても後継ぎとして社長になれるっていうわけじゃない。それに僕には僕の生活っていう
もんがある」
男はベッドの上で女を抱きしめながら、これからの時間の過ごし方を思った。
しかし女の心の中には不安という名の嵐が吹き荒れていた。思い出すことさえ息苦しく、心臓の鼓動が
外にまで聞こえるかと思うほどだった。
女はこれ以上男と身体を合わせていることはできないと思った。
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全てが、現れてはいけない秘密の全てが、涙と共に溢れ出してしまいそうになるのだった。
何とかして食い止めなくては。
「ワインでも飲まない、たまにはいいでしょう」
「この女性は誰なんだ、知らない人のような気がするけど」
「この女性の名前は黒川夏子といいます、ご存知でしたか、いや多分知らないでしょうね」
「でも何か関係あるんだね、彼女のことをもっと知りたくなったな」
話は約2か月前に遡る。
「君たちはこういうところは余り来ないかね」
3月上旬とは思えないほどの陽気の中、浅賀亮二と黒川太一は北柳康雄に連れられて六本木にやってき
た。
店の名は「ル・ジタン」、なんとも怪しげな、それでいて魅惑的な空気、酒と女の入り混じった匂いが
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そうさせるのか、階段を伝わって下から生暖かい空気が上がってくるような気がした。この空気に誘わ
れて何人もの男が異世界へと消えていったのかもしれない。
亮二と黒川も異世界への入り口に立って蜘蛛の糸にからめとられるのを待っていた。しかし北柳はその
蜘蛛の糸を操るが如く舞うように階段を下りて行く。
「いらっしゃいませ」
「あらぁ北柳様ね、お久しぶり、いついらして下さるのかと思って待ってたのよ」
「どこか他所で浮気してたんじゃないの、あら!今日は若い方もご一緒に?」
「こちらの若い方ステキね」
「私は北柳さんのほうが好き!!!」
女達の黄色い声が犬の遠吠えのように赤い絨毯に吸い込まれて行く、トンネルのような入り口を抜ける
と広間は暗く静かだった。
北柳はたった一言「12時過ぎてるよな」
「いやだあ、シンデレラのお坊ちゃまかしら」
中は暗いがゆったりとしたソファの配置が高級クラブらしさを演出しているようだ。テーブルにローソ
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クが灯っていなかったら間違って隣の男の肩を抱いてしまいそうになるほど暗い。
しかし暗さの中で揺れ動く微かな明かりが、ソファの間を舞うように客の相手をしている女達の肌の色
を浮き立たせていた。
この店のママと思しき女性が現れて北柳たちを導いて行った、この女性だけが脇に深いスリットの入っ
た黒のロングドレスで首にはダイヤとおぼしきネックレスを巻き付けている、いかにも高価そうだとい
うことと、他の女の子とは違うということを改めて感じさせるのに十分ないでたちである。
「奥は開いているかな」
「北柳様の為に御用意しておりますわよ」
いくつかのボックス席の横を通るたびにローソクの光りに映し出された艶めかしげな画面がスローモー
ションで流れていくように通り過ぎていった。
「こちらでよろしいかしら」
年齢不詳の女が微笑む、美人である、面食いの亮二から見ても生唾を飲み込みたくなるような美形だ。
女の魅力をそのままビジネスに転化するとこうなるのか、顔もいい、身体の線も申し分ないが、何と言
っても引き込むような笑顔は一度見たら忘れられないものとなるに違いなかった。
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この笑顔の裏には何があるのだろうとあらぬ想像をしながら席につくと、
「黒崎洋子と申します」
「ママだよ、こんなやさしい顔してるけどやり手だよ、男はみんな彼女の言いなりだ」
北柳がいかにも慣れた調子で言うと、
「北柳さんたらそんなことおっしゃって、人聞きが悪いですわ」
「男の生血を吸って生きている女だからね」
「あらっ、人食い人種みたい」
ホホホホという笑いが付いて来そうであった。
「今日はお若い方をお連れ頂きましたのね。ええと、お名前を頂けますかしら」
「黒川です」
「浅賀と言います」
「黒川さんと浅賀さんですね、お二人ともいい男ね、女の子が放っておかないんじゃないかしら」
「販売会社の連中だ、僕なんか彼らの世話になって食わせてもらってるようなもんだよ」
ママが軽く会釈したように思えた、そして次に顔を上げる時、にこやかな口元と引き込むような微笑み
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が襲いかかってくるように亮二は思った。
「お若い方がご一緒なんだから、今日は特に若い娘をお呼びしますわ」
「俺一人の時は違ったのかな」
北柳の我がまま振りと、それを思うように操るママの大人振りが眼につく。
「ちょっと失礼しますね」
ママが立ち上がると同時に、ボトルとグラス、氷、おつまみ等が手際よく運ばれて来た。
亮二の眼が席を離れていく黒崎洋子の後ろ姿を追っていった。
「どうだ、あの女なかなかのもんだろう、年齢不詳だがいい女だよ」
「ほんといい女ですね、常務のお目当てですか」
黒川が合いの手をいれる。
「まだまだこれからだよ」
北柳はすこぶる上機嫌で軽口を叩き続ける。
「でもあのネックレス、そうとう金がかかってそうですね」
「そういう金のかかった貢物をする爺様がいるんだな、身体は効かないだろうに。でも俺は違うぞ」
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まばゆいばかりのドレスをまとった女達に圧倒されている亮二に北柳の言葉が届いた。
「浅賀はこういう世界は始めてか?現実とは違う世界だからな。しかしこういう世界が存在することも
知っておいて悪いことじゃ無い」
「浅賀知ってるか?常務の父上は石油業界のドンとも言われてるお方で、参議院議員も務められたんだ
ぜ」
「いらっしゃいませ、こちらいいかしら」
女の声が亮二たちの会話を遮った、女の子が3人、ママが言ったとおり若い娘ばかりのようで、彼女た
ちが身につけているものは、客の視線を意識したものになっていた。
「はいはい、お姫様達のおでましだな、こっちにいらっしゃい」
3人がそれぞれの客の隣にすわる。亮二の隣には肌は少し浅黒く目鼻立ちの整った娘があたった。
「私、ナオミといいます、よろしくお願いします」
日本語に少したどたどしさを残しているあたりが初々しさを感じさせる、日本へ出稼ぎにきているのだ
ろうか、何か目的があるのだろうか。
「僕は亮二、君日本語上手いんだね、出身は?」
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亮二は言いながらこの女の子に興味を抱いている自分を見つめていた。
「はいフィリッピンです、分かりますか、このお店は初めてですか?」
「うん、初めてだ、僕らの給料じゃ来られるようなところじゃないから」
「浅賀君、その娘いいだろう、まだこの店へきて 1 か月も経ってないと思うよ、多分まだ男もできてな
いんじゃないかな、お前が面倒みてやれよ」
けしかけるように言う北柳を見ると、隣の女の腰を左手で抱きかかえていた。
「まずは乾杯しよう、実を言うと俺は近々本社へ戻る、さっき柏木君が言っていた通りだ・・・・」
ここで北柳はグラスに一口つけて息をついた。
「・・・まあ固く言えばこんなところだが、とにかく夜はまだ長い、今日は徹底的に飲んで、騒ぐとす
るか」
というなり、北柳の大きな身体が女に覆いかぶさるように、
「いやぁ北柳さんたら、まだ早いんじゃない」
女は口では咎めたものの、北柳の自由にさせたままだった。
と、黒川についていた女の子が「北柳さんは遊び人よね、あたしの彼も同じかしら」と言うと、黒川を
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抱きしめるように黒川に己を預けて行った。薄暗い中に女を身体全体で感じている黒川の表情が現れて
いた、その黒川が浅賀の方を盗み見るようにナオミにニヤッと笑いかけたような気がした。
「あなたは?」
振り向いた亮二に女が問いかけた。
その女の顔をはっきり見た亮二の胸の中を何かが駆け抜けた。
「あなた何か考え事してた、何考えてたの」
女は何かに興味を持ったようだった。
「いや、何も。でも君に会ったことがあるような・・・」
そんなはずはない、クラブの女の子に会ったことなんて、あるはずがない。
「あなた変わってる。このお店へ来る人は皆同じだけど、あなたはどうしてこのお店へ?」
「その先輩に連れられて、僕らがいつも行くところとは大違いだからね。じゃあ君はどうして?」
「先輩のお2人が先に席に着いたから、あなたしか残っていなかったわ」
「残りもんというわけか」
彼女にとって始めての客と言葉が通じた意味は大きい、言葉は心に通じている。彼女に営業用ではない
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笑顔があったのかもしれない。
「あなたいい人みたい」
「いい人?」
クラブのホステスにとってどういう人がいい人なんだろう。
「いい人そうに見えるわ」
「でも君は、日本へ来てまだ間もないんだろう、どういう人がいい人か分かるの?」
彼女のかわいい顔がちょっと曇った気がした。日本語の意味が不明だったんだろうか。
「私の勘、あなたはいい人だわ」
「悪い人を知ってるんだね」
何気なく冗談のつもりで言ってみた言葉だったが、彼女の顔から笑顔が消えていた。
そんなことを聞いて意味があるとも思えなかったし、謎の悪い人物が誰か分かるわけも無い。
「皆いい人よ、お店の人も親切だし。あなたのお仕事、何してるの」
多少無理矢理な感じではあったが、彼女は話題を変えたかったようだ。
しかし、それによって彼女の笑顔が戻って来たことはいいことだ、ずうっと笑顔でいさせたいと亮二は
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思った。
しかも、今だけじゃない、もっともっと彼女の事が知りたいとも思っていた。彼女のいままでの生活も、
フィリピンに何があるのかも。信じられないようなことだったが、亮二は彼女に魅せられてしまったの
かもしれない、危険な考えが亮二の中に芽生えていた。
「君に始めて会ったような気がしないんだ」
「どこかで会ったことがあるっていうこと?」
「そんな気がするだけかもしれないけど、昔会ったことがあると思いたいだけかもしれない」
「私は覚えが無いわ」
彼女は困ったような顔をしていた。
「僕はむしろ勝手に君のことが気になっているのかもしれないな、僕と君とは特別な間柄で赤い糸で結
ばれているってね」
亮二には自分が何を言おうとしているのか混乱してきた、彼女の魅力的な笑顔だけが眼に焼き付いてき
たのだ、決して忘れ去ることができない様に。
「分かりません。赤い糸って何ですか」
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亮二の想いを彼女は受け止めることはできなかったようだ。
「う~ん、説明は難しいな、気にしなくていいよ。それより君はフィリピンのどの辺りから?」
「マニラ、知ってますか?」
「行ったことは無いけど、フィリピンの首都だろう」
「マニラの郊外からです。でも私の話なんてつまらない、あなたのことをもっと聞かせて・・・」
「僕の何を話せばいいのかな」
「あなたは結婚してますか」
「いや未だだよ、今のところ予定も無いしね」
「でも、もちろん彼女はいますね」
「うう~ん、彼女と言えるかどうか、女の友達はいるけど」
「彼女のことをどう思っているのですか」
「いや特に今のところは、ただの友達だから」
ナオミの顔が一瞬歪んだように見えた、ちょっと難しかったのかもしれない。
「君のことが忘れられなくなりそうだ」
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「私もです、あなたのことが忘れられません」
「君と食事でもできたらいいんだけどね」
「できます、誘ってもらえばいつでも、私も一緒にお食事したい」
「食事だけじゃないよ、映画を見たり、公園へ行ってボートに乗ったり、いっそ海まで出かけて行って
もいいかな」
「海いきたいわ、私もあなたと遊びに行きたいです」
「本当にいいのかい」
亮二の頭の中の彼女は映画館にいた、映画以上に隣の彼女を気にしている彼がいた、肩に触れる重さを
感じたような気がした、彼女の頭だったのかもしれない。
公園でボートを漕いでいる彼がいた、彼女は流れる水に指を感じている、顔が見えなかった。
彼の隣には、海辺で砂浜に裸足の足を遊ばせている彼女がいた、彼女はソフトクリームを舐めているが
顔が見えなかった。
それは現実世界の出来事ではなかったからだ。
「今週末は?」
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「たぶん日曜日なら」
「じゃあ日曜日に、何処かへ行こうか」
彼女は、手許の小さな金色のバッグから名刺を出して、数字を書き込んだ。
「ここへかけて」
名刺に書かれた番号は光り輝いていた。
「必ずかけるよ。日曜日楽しみにしてるよ」
いつの間にか、二人の距離が無くなっていた、彼女の顔が彼の顔のすぐそばにあった、息づかいが伝わ
ってきそうなぐらい、唇を突き出せばすぐキスできそうなぐらいだった。
「お電話待ってます、あなたのこともっともっと話して欲しいわ」
彼女の笑顔が最高だった、亮二にとっても、そしてたぶん彼女にとっても幸せな一瞬だったのだろう。
とそこへママがきて、
「お楽しみのところ悪いけどナオミちゃん借りていいかしら」と言って「ナオミちゃん3番テーブルへ」
この世界ではママの言うことは絶対である。
「お話できて楽しかったです、あなたのお話もっと聞けなくて残念です、またお会いしたいです」
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といいながらナオミは亮二のもとを去って行った。去り際に見せた彼女の表情が亮二の記憶から消える
ことは無いかもしれない。
「彼女人気があるのよ、可愛いしスタイルもいいでしょう。もちろん仕事はどんなことでも嫌がらずに
一生懸命やるし。フィリピンに親兄弟でもいるのかもしれないわね、浅賀さん、どうかしら、かわいが
ってくださるかしら」
ママの目が亮二の目を捉えていた。目の表情は言葉とは裏腹に(私とは較べものにならないけど)と言
っているようだった。
亮二の胸の中の小さな小さな種は金曜日には大きく育っていた、もう胸の中に閉じ込めておけないぐら
いに育ってしまった。
ローソクの明かりしかないぐらいの中での束の間の出会いだったにも拘らず、彼に最後に見せた笑顔が
それを物語っているはずだった。
彼女と過ごす時間帯に何かを期待していたのかもしれない。身体を熱くするのに十分な夢想が可能だっ
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た。
偶然できた心の空白、そこへナオミの姿が浮かび上がってくる、薄暗い店の照明の中で誘うように浮か
び上がってくる肌、我慢しているものを追い出すように亮二は首を振って現実世界へ戻っていった。
彼女が教えてくれたはずの携帯電話番号が繋がらないのだ、店に電話をかけるしかないだろう、呼び出
してくれるだろうか、でもどういえばいいんだろうか、亮二はいろいろ思案した揚句、覚悟を決めた。
とにかく電話してみよう。
リーン、リーン、リーン、呼び出し音だけが鳴り響いていた、いくつ呼び出し音が鳴っただろうか、い
いかげん待ちくたびれてそろそろ諦めようかとした矢先だった。
「は~い、ル・ジタン」つっけんどんな女の声が返ってきた。
「私、浅賀という者ですが・・・」
「どのような御用件ですか」
女の声は相変わらずつっけんどんな感じだった。
「先日お店に伺った者ですが、その時ご一緒した女の子でナオミさん、いらっしゃいますか・・・」
その先何と言おうかとも考えたが次が出てこないで黙っていると、
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「ナオミ?
ナオミちゃんね、今日はまだ来てないかな」
「もしかしてお休みとか・・・」
「ちょっと待って」と言ってから、
「ナオミに電話だけど・・・・」と誰かに聞いている様子、
そして「今日はちょっと遅くなるみたい、またかけてくれば掴まるんじゃない」
「じゃあまたかけますけど、何時頃がいいのかな?」
「う~ん、9時頃なら間違いないんじゃない」
「わかりました、ありがとうございます」
「あんたナオミと話したいの?
言っといたげようか」
「いやいいんです、分からないでしょうから」
「名前なんていうの」
「浅賀亮二って言います、でも彼女に名前言っても分からないかもしれないし」
「ふ~ん、関係薄いんだね、でも話したいんでしょう、先週お店にきたって言った?何かわかることな
いの?」
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「先週じゃなくて今週です、北柳さんという人に連れられて始めて行ったんです」
「ああ北柳、知ってるわ、一緒だったんだ」
何かきたない物にでも触れるような言い方。
「いや、僕は・・・」
「いいのよ、それで北柳のおやじと来たのね」
「ええ北柳さんともう一人と僕の3人でした」亮二も気を取り直して、
「女の子が3人席について、僕の隣がナオミさんで、でもあまり話さない内にママに呼ばれて別のテー
ブルへ行ってしまったんです」
「しゃべり足りなかったっていうわけね、またおいでよ、私ナツキよ、ナオミが空いてなかったら私が
いつでも相手してあげるわよ」
そして「ふふふふふ」と意味ありげにくぐもった笑い方をした。
「ええ、それは・・・」
何と答えればいいのか分からなかった
「冗談よ、彼女には伝えておくから・・・でもナオミが覚えてるかどうかわからないけど」
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「よろしくお願いします、また電話しますから」
電話を切って、ふっと息を抜いた。
俺は何をやってるんだろう、彼女と会ったのはほんの少しの時間、お互いに自己紹介しただけというよ
うな間柄でしかない、もちろん彼女がどう思っているかなんて分からないのに彼女のことを気にしてい
る、他の男と食事に行ってるのかもしれないということを考えただけで嫉妬心がおれの中に湧き起こっ
ている、何をドキドキしてるんだ。
しかし彼女の姿は強く彼の中に残っているようだった、彼女の姿を眼の前から追い払おうとすればする
ほど、彼女の姿が目の前にちらつき、時間をかけて徐々に徐々に彼の脳裏へ焼き付けられていくようだ
った。時間をかけて焼き付けられた映像はそれを取り除くのにも大変な時間がかかるものだ、というこ
とはナオミの姿が亮二の脳裏から消え去ることはないのかもしれなかった。
そして9時、
「はい、ル・ジタンですが」
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元気な声が返ってきた、夜が更けて夜の街に活気がもどってきたからだろうか。
「ナオミさんいますか」
さっきよりは緊張せずにしゃべれるような気がする、
「ちょっと待って」
そしてナオミを呼んでいるような雰囲気が伝わってくる、店の騒々しさも一緒に伝わってくる。
「お待たせ、済みませんナオミちゃん今日はまだ出勤してないわよ、もしかしたら今日はお休みかも」
亮二には彼女と話もできないがっかりした気分と、これだけ待ったのにという苛立った気分に加えて、
どこかの男と一緒じゃないかという嫉妬にも似た気分が同時に襲ってきた。
「分かりました、私浅賀亮二といいます、電話したことだけでも伝えてもらえますか」
「いいわよ、浅賀亮二さんね、お店にはいらしたことあるのね」
「ええ、ナオミさんとはその時知り合ったもので・・・」
「ちょっと待って、彼女来たみたいよ、待ってて」
待つ時間は長い。
「ナオミです」
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「ナオミさんですね、僕浅賀といいます、3日前にお店でご一緒したんですけど覚えてますか」
彼女の答は期待しないことにした。
「その時、今度の日曜日に一緒にでかけようって言ったんですけど、覚えてくれてるかな」
「浅賀さん?
本当に電話してくれたんですね」
「ええ、だって電話するって・・・」
「でも、大抵は電話かかってこないから・・・」
「僕はそんなことはないですよ、だってまたお会いたいし」
「うれしいわ、本当に。でも今週末はだめなの。来週ならいいかもしれないけど」
「じゃあまた来週電話します」
「ご免なさい」
「それはそうと、もらった携帯の電話番号繋がらないんだけど」
「もう使って無いの」
「そうですか、じゃあまたお店に電話するしかないな」
「待ってるわ」
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空気が止まっているのかと思うほど重苦しい。
亮二の頭の中には嵐が吹き荒れていた。
女のシャツは雨のせいで少し濡れているようだ、それにも拘らず彼女を両手で抱いていると彼女の体温
が肌に心地よく感じられ、ずっとこうしていられればいいのにとも思った。
ここは誰もいない建物の中にポツンとおいてあるベンチ、二人は雨の中を歩いてきたんだろうか、濡れ
たシャツのまま抱き合っている、お互いの体温を肌に感じながら時が流れていくのを見ていた。
そのうちに雨もやむかもしれないな。亮二がその場を納得させるように心の中で独り言のように言うと、
彼に抱きついている彼女の手に力が入った。
彼は彼女の顎を手で持ち上げて顔を少し上向きにして、上から優しく覆いかぶさる様に唇を求めていっ
た、周囲の静けさの中で二人の心臓の鼓動だけが聞こえてくるようだ、ゴットン、ゴットン、ゴットン、
唇と唇の触れ合いが長引くにつれ息遣いも荒くなってくるように感じられた。
建物の中に明かりはなく、雨空に太陽の光もまったく遮られてどんよりとした暗さの中で、亮二は大胆
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な行動に出たいと思う気持ちを押さえきれなかった。
周りに誰もいないことを一瞬目で確かめ、彼女の背中にまわしていた右手を動かして彼女の脇腹から胸
へ持って行ったのだ、掌に心地よいふくらみが伝わってくる、掌から受けるふくらみの感触が腕から肩
へと伝わりやがて脳へ伝わっていったのだろう。
(んっ)彼女の身体が一瞬彼を押し返したように感じられたが、その一瞬を通り過ぎると彼女に抵抗の
印はなかった。
離れかかった彼の唇が、自信を持って彼女の唇をまた捉え、更に右手は彼女の一つよけいに外れている
かに見えるボタンの合間からシャツの中へと潜り込もうとした、温かく柔らかいふくらみを目指して、
ジリリリリリ、ジリリリリリ、目覚ましの音とともに朝はやってきた。
まったく理不尽な目覚まし時計だ、いつもいいところで邪魔に入る。
彼女の抵抗を心に残したまま、ベッドを抜け出さざるを得なかった。
彼女が誰だったのかも分からなかった、ナオミだったらよかったのに。
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朝亮二が会社へ出ると、まだ始業時間前だというのに部長席に北柳常務が座っているのが見えた、しか
もそばには黒川が立っている。
亮二は二人を無視するように、まっすぐ自分の席に向かって行った。彼が席に着いたとき二人の視線が
亮二を捉えているような気がしたが、それも気にかけないで席に着こうとした。
「浅賀君、ちょっといいか」
北柳が大きな声で亮二を呼んだ。
亮二の周りの人間には亮二が北柳に気安く声をかけられているという事実だけしか見えてはいない、亮
二も黒川と同じ様に北柳に気に入られているように見えているのかもしれない。
いずれにしても北柳に呼ばれれば、それは亮二にとっては上司に呼ばれていることと同じだ、
「おはようございます」
努めてさわやかに、かつ冷静を装って対応した。
「うん、特に用事っていうようなもんじゃないんだけどね」
「はあ」
「昨日、客の接待があってね、六本木の例の店へ行ってきたんだよ、黒川も一緒だったんだけどな」
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黒川のほうへ同意を求めるでもなく顎をしゃくって見せた。黒川は何も言わず、むしろ一緒だと言われ
たことが迷惑だとすら感じさせるような素振りを見せた。
「そうしたら、この前のあの子、え~となんて言ったっけ?
先週君たちと一緒に行った時に浅賀につ
いた子だよ、フィリピン系の・・・・」
知っているのにわざとらしく引き延ばす素振りを見せてから、
「そうそうナオミだったな、彼女が相手してくれてね」
亮二は何も言わないことで自分を納得させることにした。
「ナオミは浅賀の特別な子だからな、お世話になったってことを報告しておかなくちゃと思ってね。あ
の子はいいな、身体は細いのに、出るべきところはしっかり出てるしな、浅賀にはもったいないな」
「彼女に君のことを聞かれてね、今度連れてくるって約束させられたんだよ、あの子お前に惚れてるん
じゃないか?
だからこうやって伝言係を務めているんだよ」
「いや、そんな私は何も、だってあれ以来会ったこともなければ、言葉を交わしたこともないですから」
「いやいや、ちゃんと聞いてんだから」
何を聞いたっていうんだろう。
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「何回も電話したそうじゃないか、彼女謝ってたよ。またぜひ来て欲しいそうだ、電話して欲しいとも
言ってたよ、浅賀の電話番号知らないから彼女のほうからはかけられないし、だから会社の電話番号教
えといたんだがね。だからお前の代わりに俺と黒川でなだめようと思って、店が跳ねた後寿司を一緒に
食いに行ってな、いろいろ彼女の話を聞いてやったんだよ。いやあそれにしても本当にかわいい子だな、
舐め回してやりたいぐらい」
北柳は同意を求めるように黒川のほうへ視線を向けた。
その視線を避けるような黒川の素振りが、むしろ亮二を不安な気持ちにさせた。
「そう言われても私が自腹でいけるような店じゃありませんし」
「俺だって自腹で行くのはきついな、まあそのうちに何か機会があるだろうから、その時にまた誘って
やるよ。それまでに口説き方でもよく考えておくんだな、まああのぶんじゃお前に優しい一言でもかけ
られようなもんなら一コロだな、すぐおネンネできそうだぞ」
「まさか?」
「そりゃお前、一発だよ。ちょっと優しくしてやってみろよ、ああいう出稼ぎの子は男の優しさに弱い
んだよ、まあそんなことグチャグチャ言わなくても先刻ご承知だろうけどな」
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北柳は一人で楽しんでいるようだった、牛が反芻しているようでもあった、いや猫がネズミを弄んでい
るかのようでもあった。亮二は北柳が何を反芻して楽しんでいるのか何を弄んでいるのかが気になった。
そして何か裏を感じさせる黒川の素振りが亮二をさらに不安なものにした。
その黒川が亮二の席にやってきて、
「さっきは済まなかったな、北柳ってやつは本当に女のことになると・・・、口だけなんだが、どうせ
何もできやしないんだ」
「しかし店には行ったんだろう、そして十分遊んだんだろう」
「親父があの店に出資してるらしい、だから大口叩いているだけで」
「それで常務はどんな具合だったんだ」
「どんな具合っていってもな、店がはねてからママと女の子も連れて麻布まで寿司を食いに行ったんだ
よ。常務がすっかり乗り気でね、涎を垂らしそうだったな」
思い出すような黒川の眼差し、亮二は気分が重くなってきた。
「寿司食ったあとどうしたんだ?」
黒川の顔を見ないようにしながら藪を突いてみた。
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「寿司食った後?帰っただけだよ、タクシー呼んでな」
「なんだそれだけか、もっと何かあるんじゃないのか」
「別に、少なくとも俺の知ってるかぎりではな。それはそうとお前の方はうまく行ってるのか」
更に続けて、
「そんな知らん顔するなよ、お前の彼女のことぐらい知ってるよ、最近どうなんだ?」
黒川に彼女のことを話した覚えはない、もちろんデートだからと誘いを断ったことぐらいあったかもし
れないが。
「そこそこだな、男と女山あり谷あり、何でだ?」
「ふ~ん、いや別に何でもない。彼女は大切にしろよ、クラブの女とは違うからな」
黒川とは入社は違うが、歳が近いこともあって会社帰りによく二人で飲みに行く間柄だった。歳は若干
俺より上なのかもしれない、やけに世間慣れしたところも見せられることもあるが、表向きの明るさと
は別なものが裏に隠れているようなところも感じている。更に、顔も着るもののセンスも俺の方が上だ
と思うのに、やつは女にもてるんだ、いつも女には事欠かない。
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2日後北柳康雄は大手町の本社へ取締役執行役員という肩書で迎えられたが、社内の噂では父親の元参
議院議員北柳一郎がこの会社の創立メンバーの一人であることによるものと思われていた。
そして北柳康雄の取締役就任後まもなく政財界を揺るがす贈収賄事件が表面化した。
会社は石油鉱区割り当てに際し、北柳一郎元参議院議員の仲介により、霞が関の有力官僚を毎夜六本木
のクラブや麻布の料亭でもてなし、鉱区割り当てが有利に運ぶようせしめたというもので、実行部隊と
して一郎の長男で会社の取締役でもある北柳康雄にも東京地検特捜部の手が伸びていた。更に主たる響
応現場となった六本木のクラブでは売春斡旋の疑いもあるとのことで警視庁の取り調べが進んでいた。
そして 1 か月半が過ぎていった、気にはなってはいたものの事件への関与が疑われている中、店には電
話もできずにいたところへ黒川から誘いがかかった。
「浅賀、今晩空いてるか?そろそろほとぼりも醒めただろうからあの店へ行こうかと思ってるんだけど、
どうだ付き合わないか」
亮二は何も言わずに同行することにした。
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店に入るとすぐに「北柳さんいらしてるのよ」と話しかけて来たママと黒川の関係は亮二には計り知れ
ないものに思えた。
そして席に座った2人のところへ新しい女の子がやってきたが、その中にナオミはいなかった。
更にママと連れだってやってきた北柳にはすでにかなりの酒が入っていそうであった。
「よう久しぶりだな、あれ以来か」
「本社の方は大変でしたね、もういいんですか」
「あんなもんどうってことない、親父はちょっと参ってるけどな。だいたい地検に何が分かるって言う
んだ。俺たちの働きが無かったら日本のエネルギーはどうなると思ってるんだ、日本中の電気が停まっ
てしまうんだ。政治家のやつらは原発だ原発だというが、無責任極まりない、最終処理場もないものを
どうやって使うんだ。日本は石油に頼るしかないんだ」
「まだ取調べは続いているんですか」
「ああ」
吐き捨てるように言う。
「この店も調べられてるんだ。何も出て来ないさ、何も隠し立てするような事もないしな」
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「お父様にもまた元気なお顔を見せていただかないと、今回のことでいらっしゃりにくいと仰る方もお
いでですもの」
「もう少しの辛抱だ、ここさえ乗り切れば毎日でも来るさ、俺も親父も何ら後ろめたいことは無いから
な、女と遊んで何が悪いんだ」グラスの酒を飲み干すと、
「お前たちにも迷惑かけたな」と言いつつ、ママの肩に支えられるように元の席に戻っていった。
「自殺した子のことなんですけどね」
去り際にママの口から洩れた言葉が亮二の耳に残る。
「フィリピン・・・」
北柳の口から発せられた言葉は“フィリピン”と聞こえた。
「相変わらず大口たたいてるけど雲行きは怪しそうだな。親父は会長職を退くらしいし、常務の取締役
会への出席もお預けになってるらしいよ」
黒川の言葉は北柳家の凋落を意味しているように聞こえたが、将来のことは誰にも分からない。
隣を見ると女がにこっと笑ったが、濃い化粧の中に埋もれた顔からは決して若さが感じられい。
「お話は終わりのようね、私ナツキよ、お名前教えてもらっていいかしら」
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「僕、浅賀です」
「浅賀さん、素敵なお名前だこと」
そしてちょっと考えこんだ様子で、
「もしかして、この前電話かけてきた人、1か月ぐらい前、いやもっと前かな」
そして少し声をひそめるように、
「ナオミちゃんに電話繋いで欲しいって?」
騒々しい店内で声をひそめる必要はなかったかもしれないが、亮二も声をひそめて、
「ああナツキさん、あの時の・・・」
「ナオミと話はできたのかしら」
「あの後、話しました。でも会えなくて・・・」
そして周りを確かめるように黒川のほうをちらと見てから、
「それで僕も忘れてました、今日まで」
亮二は嘘をついた。
「それで今日は彼女に会いに来たのね、でも遅かったわ、彼女ね・・・」
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ナツキは言葉を濁してしまった。
「彼女どうしたんですか」
「分からないわ、信じられないのあんないい子が・・・」
「何かあったんですか」
「私たちには何も知らされてないのよ、ママは何か知ってるみたいだけど、それに北柳・・・」
「北柳さんが何か?」
「私たちは何も聞いてないのよ」
ナツキの言葉は文字通り歯切れ悪かった。
「北柳さんと関係あるんですかこの店って」
「出資者かなにかそんなところでしょう、親父が代議士なんだって、だから息子も威張ってんのよ、で
も親父さんに較べたらかわいいものよ」
「おい浅賀、楽しくやってんのか」
席に戻っていたはずの北柳が亮二の後ろに立っていた。
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「おまえ本当はナツキじゃなくてもっと若いのがいいんだろう、ナオミがよかったんだろ。諦めるんだ
な、ナオミはもういないよ、自殺したんだってよ。いい女だったのにもったいないな、どんないい女も
死んでしまっちゃあ終りだな」
北柳の言葉が亮二に重くのしかかってきた、死んだ女のことを持ち出してくるなんて。
「何故ナオミなんだ」
吐き捨てるような亮二の呟きは北柳には聞こえなかっただろう。
「浅賀はナオミにぞっこんだったからな」
亮二の中で炎が燃え上がっていた。
北柳は酒の勢いもあってか、いつまでも止めようとはしなかった。
「浅賀がもっと優しくしてやりゃあ自殺しなくて済んだかもしれないのによ、なあ黒川よ」
「北柳さんもう十分でしょう、おやめなさいよ、死んだ人のことをそんな風に言うもんじゃありません
よ」
ナツキが暴走し始めた北柳に釘を刺した。
「なに言ってんだ、こいつな、最初の女がナオミだったんだよ、なあそうだよな」
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亮二も黒川も、女の子たちまで北柳の毒舌ぶりに黙ってしまった。
「それですっかりナオミに熱上げちゃって、いい女だもんな、フィリピンの女はかわいいんだよ、生活
かかってるから一生懸命働くからな、触らせるし、やらせるし、しかもいい身体してるからな、ムチム
チっとして、考えただけでもゾクゾクするな・・・」
北柳は止まるところを知らなかった、周りも止めようがなかった。
「それで浅賀、おまえやったのか、ええ、ナオミとやらなかったのか」
ママがやってこなかったら、亮二が爆発していたかもしれないが、
「北柳さん、もうその辺で止めていただかないと出ていってもらいますわよ」
ママが北柳を睨みつけるように、
「いくら北柳様でもちょっと度が過ぎるんじゃないでしょうか、こんな店ですけどね、やはり礼儀は礼
儀として守っていただかないと」
ママは北柳の袖を掴んで引っ立てるように化粧室の方へ連れて行った。
残された者にも暗い影が残った、誰も何も言おうとはしない、ただ黙ってグラスを傾けるだけだった。
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つづく
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