約0.4MB - 日本科学教育学会

科教研報 Vol.25 No.4
日本の学校理科教育における諸問題
Some Problems of the School Science Education in Japan
池田幸夫
IKEDA, Yukio
山口大学教育学部(非常勤講師)
[要約]
現在の学校理科教育は入試に代表されるような目先の学力にこだわりすぎて,理科
を勉強する目的や意義が子ども達に伝わっていないように思われる。高度科学技術社会を生き
る彼らに理科のおもしろさや有用性・必要性をきちんと伝える必要がある。そのための授業方法
として理論依存型授業を提唱する。
[キーワード]
1
理論依存型授業
理論追求型授業
問題解決学習
子ども中心主義教育
として有効である。
はじめに
現在の学校理科教育は,大きな壁に突き当た
2
っているように思う。受験のため以外に,理科
子ども中心主義教育
戦後 の日本の教 育課程は ,1990 年 代に科学
を勉強する目的や意義が子ども達には十分伝わ
主義から子ども中心主義に大きく方向を転換し
っていないのではないか。
この懸念は,昨年の 11 月に山口県内のある
た(図1)。現在の理科教育を考える場合には,
このことを無視することはできない。
高校の公開授業に参加した時に,いっそう明確
高度経済成長
徒に伝えるよりも,大学入試で生徒の関心を引
伝統的教育( 科学主義)
1990
であった。授業開始直後から内職したり居眠り
をする生徒がけっこう多いように見えたが,そ
図1
2010
バブル崩壊
子ども中心主義教育
科学的知識を重視
・教師主導
・知識偏重の教え込み
・画一的
きつけようという先生の思いがよく表れた授業
2000
活用力
1980
総合学習
1970
生活科
1960
ゆと り
1950
二つの授業とも,物理や生物のおもしろさを生
探 求学 習
(物理内容)と2年生の生物Ⅰの授業であった。
系統学 習
生活単 元
学習
になった。参観したのは,1 年生の理科総合 A
興味・関心・意欲(生きる力)
・子どもの主体的活動
・子どものよさを伸ばす
・教師は子どもの活動を支援
・問題解決学習
理科教育の変遷の模式図
れは受験に関係のない生徒にとっては,何のた
1980 年 代以前 の理科教育 は,工業立国を支
めの授業か分からないためであろう。
「実験や観察などの活動を取り入れておもし
える人材育成とともに,将来の科学技術の発展
ろい授業をしたいが,大学入試を考えるととて
につながる知識の伝承が大きな目標であった。
もできない」と,悩みを訴える先生は多い。し
そのため,学習内容は現在の教育課程よりも質
かし,私はこのような二者択一の思考様式こそ
・量ともにかなり高くなって,実際には授業に
問題であると思う。科学への興味関心を高める
ついて行けない児童生徒が増加して,落ちこぼ
ことも必要だが,大学入試に対応することも学
れや校内暴力などの学校の荒れが社会問題化し
校教育としては同じように重要だからである。
たのである。また,学歴社会を背景にした激し
したがって,これからの理科教育を考えるとき
い受験競争は,子どもの健やかな成長を阻害し,
には,科学への興味関心や必要性と入試への対
教育の混乱をもたらすものとして強く批判され
応を両立する授業の確立こそ重要なのである。
た。
この問題を解決する教育として 1990 年代に
理論依存型授業は,そのための授業方法の一つ
43
登場したのが,子ども中心主義教育である。子
問題による意識調査を行い,このことを裏付け
ども中心主義教育では,「子ども達に何を教え
るデータを発表している
るのか」よりも,「子どもの立場に立って考え
一例で ある。1989 年 は子ど も中心主義教育の
る」ことが重視され,授業方法は大きく変わっ
前の教 育課程,2001 年 は子 ども中心主義教育
た。子ども中心主義教育の考え方は,文部省の
を受けた子どもである。図2から明らかなよう
1)
3)
。図2はその結果の
に,2001 年の児童生徒の方が 1989 年よりも明
次の文章によく表れている 。
らかに成績は低下しており,特に 70 点以下の
中央教育審議会の答申においては,これからの学校教育
中・下位グループの成績低下が著しい。
について,「生きる力」の育成を基本として,知識を一方
的に教え込むことになりがちであった教育から,子どもた
ちが自ら学び,自ら考える教育への転換を目指すことが提
言されている。
これは,これまで進められてきた,自ら学ぶ意欲や思考
力,判断力,表現力などの資質や能力の育成を重視する,
いわゆる新しい学力観に立つ教育を一層充実・発展させた
ものである。
私が山口大学に赴任したのは,子ども中心主
図2
義教育が導入された 1993 年であった。附属学
年度の成績の比較(苅谷による)
校などの公開授業を参観することが多くなり,
授業を見て感じたことは,「こんな授業でいい
私の理科教育の基本理念は,広島大学理学部
のか」という素朴な疑問であった。
「自ら学ぶ」
の恩師である小島丈児先生の「理論は自然を見
や「自ら考える」という子ども中心主義のキー
る光である」という言葉である。この言葉は,
ワードはたいへん魅力的ではあるが,実際には
理論や法則を発見することよりも,それらを活
「教師が教える」ことは「教え込み」として批
用して自然事象を認識し理解することの重要性
判され,「子ども自身に考えさえる」ことを重
を指摘している。私が山口大学に赴任後に取り
視したぎこちない授業が多かったからである。
組んだ教育研究は,小島丈児先生の言葉を具体
そのため、ほとんどの子どもは何を学んだのか
化し,子どもの意欲をかき立てる理科授業の方
分からないままに授業が終わったように、私に
法論をつくることであった。理論依存型授業は
は感じられたのである。市川伸一(2004)はこ
その成果の一つである。
のような授業を「教えずに考えさせる授業」と
表現し,その問題点を的確に指摘している
2)
共通問題による 1989 年度と 2001
。
3
先に述べたように,子ども中心主義教育は理
理科授業の型
実験・観察は,理科にとって最も重要な活動
念としてはよく理解できるが,学校現場で行わ
の一つである。図3に示されているように,授
れている実際の理科授業では,本当に学力がつ
業における実験・観察の位置づけによって,理
いているのか疑問を感じることが多かった。考
4)
科授業を2つの型に分けることができる 。
えるためには知識や経験が必要であるのに,そ
一つは,実験や観察に基づいて「きまり」を
れを与えられないままに考えさせようとしてい
帰納的に導く過程に重点を置いた授業である。
るからである。その影響は,成績上位の子ども
きまりの発見を目標にしているので,この型の
よりも中~下位の子どもに現れやすいはずであ
授業を,私は「理論追求型」と呼んでいる。こ
る。苅谷ら(2006)は 1989 年と 2001 年に同一
れに対して,教科書に記述されているような「き
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まり」は教師から教えて,きまりを使って課題
科の中ではよく行われている実験の一つであ
を解決する活動に重点を置いた授業が,「理論
る。最近の教科書ではビーカーを使うことが多
依存型」である。理論依存型授業は,教師の「知
いため,沸騰しているのにアルコール温度計は
識の教え込み」として批判されることが多いが,
100 ℃よりかなり低い温度を示すという問題が
実際には子ども自身の思考活動を重視した問題
知られていた。理論追求型でこの授業を行うと,
解決学習となっている。
「水は 100 ℃で沸騰する」とまとめなければな
型
授業構成
理論追求型
実験・観察
きまりを見つけるこ
とができる
↓
きまりを見つける
理論依存型
きまり(理論・法) きまりを用いて自然
事象を認識・理解
↓
自然認識・理解 できる
図3
らないために,「今日は天気が悪くてうまくい
科学的思考
かなかったが,上手にやれば 100 ℃で沸騰する
よ」と,苦しい弁解をしたという話をよく聞く
ことがある。
授業の型
小学校や中学校の教室で行われる実験や観察
は身近な素材を用いることが多いために,うま
くきまりを見つけることができないことがあ
る。例えば,「振り子の働き」の授業では,お
もりの重さを変えても振り子の周期は変わらな
いはずだが,たこ糸などを使うと,おもりを重
くすると糸が伸びて,周期は明らかに長くなる
のである。これは実験の精度が低いために発生
する誤差ではなく,周期を 100 分の 1 秒まで精
図4
水の沸点を調べる実験(A 社)
確に測ると必ず現れる現象なのである。
これを「理論依存型」で行うと,次のように
ビーカーの温度計が低い沸点を示すのは,口
なる。まず,振り子の等時性については教師か
の広いビーカーではアルコール温度計の柱部が
ら教えることになる。次に,おもりを重くして
空気に触れて冷やされるためである。柱部の温
周期が長くなることを演示実験で確信し,振り
度が低ければ,そこに含まれているアルコール
子の等時性との矛盾を明示する。この矛盾を意
(実際は着色した灯油)が 100 ℃に相当する膨
識させたところで問題提起し,それを解決する
張をしないために,低い温度(92 ~ 94 ℃)を
ことを目標に授業を展開するのである。
示すのである。以前は,首の長いフラスコが使
では,具体的授業事例を紹介しながら,理論
われていたためにあまり問題にはならなかった
依存型授業について説明する。
が,ビーカーが使われるようになってこの問題
が顕在化したのである。
4 理論依存型授業
これを矛盾として注目することによって、ビ
理論依存型授業を成功させる具体的な3つの
ーカーとフラスコを使って理論依存型授業を行
方法について見ていこう。
うことができる。授業手順は,次の通りである。
(1)矛盾を自覚する場面の設定
①ビーカーとフラスコを使って,水が沸騰し
「水の温まり方」は小学校4年生で学習する
ている様子を観察し,温度を予想させる。
内容である。比較的簡単であるため,小学校理
②実際に温度を測定して,フラスコはほぼ
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100 ℃を示すのに対して,ビーカーは 93
を回転する円盤と見なして,その上を直進する
℃とかなり低いことを確認する。
物体の運動を考える。プリントには,円盤の上
③水が沸騰する温度は 100 ℃であることを教
空から見下ろした場合と、円盤上にいて円盤と
える。
一緒に回転している人から見た場合の軌跡をイ
④矛盾を自覚させるために,次のように問題
メージさせるのである。一般に、大学レベルの
提起を行う。
力学の授業では座標変換によって数学的に説明
することが多いが,この授業では数式を全く使
先生の疑問:沸騰してるときの水の温度は 100 ℃
のはずなのに,ビーカーの水は沸騰しているのに 93
℃しかないよ!どうして?
うこことなく現象を頭の中でイメージできるよ
うにすることが目標である。
(3)比喩モデルによる現象の理解
⑤ビーカーとフラスコで班別に実験と話し合
物質を粒子の集合体と見る粒子概念は,新学
い活動を行い,先生の疑問に答える仮説作
習指導要領の柱の一つとなる重要な概念であ
りとその検証を行う。
る。子どもにとって目に見えない現象を理解す
ることはたいへん難しいので,子ども達が想像
温度計
温度計
できる別の現象に置き換えて考えることができ
れば,現象をある程度イメージすることが可能
水
である。これが比喩モデルである。電流の流れ
水
を水流でたとえる「水流モデル」は,教科書に
よく見られる代表的な比喩モデルの一つであ
る。
目に見えない電流や電気抵抗の概念を理解さ
せる方法の一つとして,比喩モデルは大きな効
図5
果を発揮するはずである。その一例として,電
理論依存型で行う実験
気抵抗の概念を理解させるために考案された釘
(2)科学モデルを用いた思考実験
モデル(横沼先生考案)を紹介する。
「粒子モデル」や「地動説モデル」などの科
学モデルに置き換えると,自然事象をよく理解
文献
できることがある。科学モデルを導入すれば,
1) 文部省(1997),こどもたちが主体的に学び
紙と鉛筆を用いた思考実験が可能になり,自然
生きる教育を目指して,『初等教育資料』
事象の本質をイメージできるようになるはずで
4月号.
2) 市川伸一(2004),学ぶ意欲とスキルを育て
ある。
これまでに私が行った授業の中で最も効果的
る― 今求 められ る学 力向 上策 ―, 小学館 .
を発揮した授業が,大学2年生を対象にした「転
3) 苅谷剛彦他(2006),調査報告「学力低下」
向力(コリオリの力)」に関する授業である。
の実態,岩波ブックレット,No.578 .
4) 池田幸夫(2009),矛盾の自覚から始める問
転向力の概念は,高校の地学で学習する概念で
ある。理系の学生にとっても理解が難しいのは,
数式に頼るだけでは現象をイメージすることが
ほとんどできないからである。
この思考実験は,次のように行う。まず、学
生には円を描いたプリントを配付する。この円
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題解決学習,『楽しい理科授業』,No.513 .