-6- 只見川開発の歴史 只見川において初めて水力発電 事業が計画され

只見川開発の歴史
只見川において初めて水力発電
事 業 が 計 画 さ れ た の は 1910 年 〔 明
治 43 年 〕 の こ と で 、 岩 代 水 力 電 気
発起人として太田黒重五郎等が只
見川と伊南川の各 1 カ所に壽水路
式 発 電 所 を 計 画 、河 川 管 理 者 で あ る
宮田光男福島県知事〔当時〕が最
初 で 、そ れ 以 降 様 々 な 電 力 会 社 が 只
見 川 、 阿 賀 野川 、 沼 沢 湖 等 の 発 電 用 水 利 権 取 得 申 請 が な さ れ 、こ れ ら の 申 請 は 福 島
県、新 潟県、群馬 県の知事に 提出されて 水利権獲得競争は激化した。
また源流である尾瀬沼についても水利権申請が行われ、関東水電株式会社を設立
尾瀬沼 にダム式水 力発電所を 建設し、水は利根川に放流するという計画で、群馬県知
事に水 利権を申請 し認可され た。
この他にも数々の水力発電計画により水利権の申請が福島県、新潟県、群馬県の
各知事 にだされそ れぞれ認可 されたから 、利権があ るところ必 ず政治家や 資本家、
地方の 有力者が後 に群がり、 それぞれの 思惑が衝突 し合った。
また 水力発電に は最高の立 地条件が揃 っているが 険しい山岳 地帯、過酷 な気象条
件であるから投下資本も莫大なものになるため会社側でも 1 社では負担できず、吸
収合併 が繰り返さ れた。
戦前 、只見川の 水力発電事 業は長大な トンネルに よる水路式 発電所・野 沢発電所
が東北 電力にによ って進めら れていたが 、東北電力 は尾瀬沼ダ ム建設を進 めていた
関東水 電と ともに信越 電力株式 会社に吸 収合併され た(昭和 3 年 )。
この 信越電力会 社も合併後 、東京発電 株式会社に 名称を改め 、更に程な く東京電
燈株式 会社と合併 するという めまぐるし い電力会社 の変遷があ った。
従っ て只見川、 阿賀野川流 域の水力発 電所は東京 電燈株式会 社が一ッ手 に握るこ
とにな り、更に猪 苗代湖や裏 磐梯三湖の 水力発電事 業を行って いた猪苗代水力発電
も吸収 合併したか ら、福島県 内の水力発 電は全て東 京電燈株式 会社の支配 下にあっ
た。
ところが 1929 年 (昭和 4 年)世界恐慌が起こり、日本経済は深刻な影響を受け、
それに伴い電力の需要が急速に落ち 、反面需要を見込んで電力増強に力を注いたが 、
それが かえって裏 めに出にで てしまい、 不況は更に 深刻化して しまった。
その 後は不況打 開として「 帝国の生命 線は満蒙に あり」と陸 軍が叫びだ し、満州
事変、シナ事変、ノモハン事件、太平洋戦争と 15 年戦争戸突入してしまい、わが国
はどん底へと突き進んだ。
戦時 体制を進め る軍閥政府 は電力の国 家統制を決 め、電力業 界は暗雲が 立ちこめ
てきた 。
1938 年 〔昭和 13 年 〕東条英機を中心とする陸軍統制派は第一次近衛内閣に猛烈
な 圧 力 を か け、 戦 時 体 制 を 遂 行 す る た め に は 電 力 の 国 家 管 理 も や む なし 、と し た た
めに松 永安左右衛 門氏を筆頭 とする電力 業界挙げて の猛反発し たが、憲兵 、特高に
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