室町後期和泉国日根野荘の旱魃と風流―日根野荘の幽舞と民衆を中心

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Title
室町後期和泉国日根野荘の旱魃と風流 ―日根野荘の幽舞と民衆を中
心として―
Author(s)
屋敷, 道子
Citation
屋敷道子:人間文化研究科年報(奈良女子大学大学院人間文化研究
科), 第30号, pp. 208-199
Issue Date
2015-03-31
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http://hdl.handle.net/10935/3979
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室町後期和泉国日根野荘の旱魃と風流
――日根野荘の幽舞と民衆を中心として――
屋 敷 道 子
(01)
比較文化学専攻 (
)
文化史論講座 博士後期課程
郷」が最も注目されており、近隣の熊取や上郷などに援護を求めるな
りである。同じ土地に定着し、農業の仕事に専従することで、多くの
はじめに
ど、村を守るという連帯の構造は正平六年(一三五一)とある。「与合」
十六世紀初頭、前関白九条政基は、文亀元年(一五〇一)から永正
元年(一五〇四)十二月まで、鎌倉時代以来の家領である日根野荘を
経験と在地の意志決定の場として円満寺の宮座がある。円満寺の本質
し「合力」を根底として連帯を機能化した円満寺の影響についても然
再建するために下向し、滞在したが、この時の日記として稀有な史料
として、文亀元年(一五〇一)正月十六日には「於円満寺有會式、以
村会合滝宮惣評定」から保守性を発している。しかし、惣評定を強く
『政基公旅引付』がある。
この日次記にみえる災害関係の記事に注目すると、政基の滞在期間
がわずか四年間と短い期間ではあるが、様々な災害を見聞したことが
場としての円満寺」と述べられた点では、文亀元年(一五〇一)正月
判別することで、峰岸純夫氏は「意思決定の場としての滝宮、行動の
観点からなされたものとはいえ、内容としては、日根野荘の災害史と
盆会との関わりでおこなった研究も多くあるが、本稿では、芸能史的
にされている。一年間の農事暦や村の祭礼に演舞される風流を、盂蘭
の研究が重要とされ、そこでは農事暦からみた盂蘭盆の本質を明らか
る。当時の農村の民衆生活が史料のうえで、農事暦や年中行事(祭礼)
盛大だったのは、政基下向の年、文亀元年と同三年の盆の時期であっ
識していたのである。『政基公旅引付』によると、風流念仏がことに
する信仰が存在する。自然の威力は超人的なものとして、神の力を意
飢餓を防止するための、対策を練られ雨乞の神踊りがあり、神祇に対
ろは、旱魃・飢饉の時の水利や食の確保である。そこでは凶作からの
十六日条を指摘されたとおりといえよう。その背後の問題とするとこ
(02)
云々
」や文亀三年八月二十七日条では「今夜四ヶ
わかる。その滞在地での災害を史料からみておくと、戦乱による放火・
後曲舞有之、例年之儀
掠奪、疫病の流行、水害、稲の虫害、旱魃、飢饉をあげることができ
して残る旱魃と風流について考察したものである。
た。そこで史料から疑問点を正し解明していくことを目ざした。
一
日根野荘の農村社会では史料の文亀元年九月二十三日条で「クミノ
― 208
―
第一章 日根野荘の民衆文化
ハヤシの展開と風流
第一節
二
を免れるためには、風流(拍子物)は先陣を切るものであったのでは
なかろうか。
村落としての年中行事では必ずこの風流踊は賑々しく行われていた
ようである。その華麗さを政基は文亀元年七月十三日条にその感想を
次のように記しているのである。
念仏以後尽種々風流、田舎之土民所行加為此興哉之由、成其覚之
大井関社での祭礼で農民たちにより繰り広げられた村落の諸行事に
ついては、神楽・祈祷・田楽、そして能が、日根野荘内の農民とりわ
け入山田村の百姓らによる農耕儀礼として行われていたのである。そ
之輩、逸興相催了、
処、各能作、云風情言詞不恥都之能者、条々故実以下不可恐有職
事」と記述された「風流」が「盆之儀」
アルノ
れらの儀礼は、
『政基公旅引付』文亀二年(一五〇二)七月十六日条
風流
ヨリ
と田舎の芸能に接した都の貴族の驚きとして「逸興相催了」といって
にみられる「地下
とのかかわりであった事、文亀三年の「念仏風流」が旱魃にもおよん
いるが、その状況は文亀元年七月十六日条にも記されている。
誠柴之所作稀有之能立也、皆見物之者等驚耳目云々
後聞、船淵之衆風流ハヤシ以後、式三番之後、鵜羽一番沙汰云々、
でいた事を、充分に推測できるのである。
『政基公旅引付』の史料で、文亀元年(一五〇一)には「風流」の
記述をみるが、文亀三年(一五〇三)と文亀四年(一五〇四、永正元
とあり、けっして野卑なものではなかったことを述べている。政基は
が高度なものであったことを認めている。そして、政基は日根野荘に
年)には「風流」云々の記述は「雨乞祈願」としてのみしか窺えない。
「風流」の記述がない史料においても、儀礼がおこなわれるところで
到着時、自らの今後の行末を案じて詠んだ歌で「われもたつ 都をよ
都において「能」の実質を鑑賞しているだけに、日根野荘の能の演舞
は必ず、風流と盆行事の儀礼とを結びつけていた事を推察するもので
しかし政基は例年の儀礼を「此作法恒規也」と記述していることから、
ある。
れ て い た の で あ る。 そ し て 旱 魃 が 盂 蘭 盆 と 重 な っ た こ と か ら、 七 月
またこの年は旱魃であった。旱魃のときには雨乞が行われたのであ
るが、文亀元年六月初めから「百姓願甘雨」として雨乞風流が祈願さ
が演ぜられていたことを記している。
その旅衣 春の行末はいづくなるらむ」として心境をのべている。し
かもこの村の風流は最初に念仏があり、踊りに移って、さらに後に能
(03)
この時代の風流といえば、もっぱら「風流踊」に焦点をあてて語ら
れることが多い。
「風流」系の集団的歌舞というほどの意味、風流の
3
概念については、
本田安次氏が民俗芸能の分類で示されている。また、
(04)
3
これらのことをはやく検討された小笠原恭子氏は、「風流」の概念規
3
十五日の念仏風流は放生会とともに先祖の霊を供養し、苦しんでいる
定の基準を芸能のほとんどすべてが風流の範疇に入るとして、民俗芸
能における風流踊の分類の無意味さを指摘された。たしかに、風流の
亡者を救うための仏事でもあったのである。遡って「官符衆徒猿楽
3
定義を伝承性にとらわれて、行事などではその内容を限定させること
催 ス」
(『春日御詣 記』
)とあり、
ここに貴族文化を論じることではないが、
ヲ
はできるが、伝承されてきた風流の実態を考えてみる時、地域の農民
農民の神仏祈願が風流によって意思表示をしているところに、貴族と
(05)
は、地域社会の安全を脅かす災難(難儀)、疫病や旱魃・渇水と虫害
― 207
―
農民の信ずることへの相違を感じている。
日根野荘の霊験
鹿之骨 頭
之中 ニ必有甘雨也、若不降者於七宝滝沙汰之、其猶不叶時者於不
云々 三ヶ日以後ハ四ヶ村之地下衆令沙汰
、
動明王之堂沙汰之、其後猶不降者、於件滝壺へ入不浄之物
、必無不降事
風情物 云々
もおこなわれた。そして最後には不浄の物である鹿の骨や頭などを七
第二節
とあり、犬鳴山七宝滝寺僧がきて滝宮で請雨が行われた。三ヶ日の間
戦国期の日根野荘で念仏風流は、単なる祖霊の供養だけではなかっ
たのである。
また領主と一連の段銭問題で争乱を起こすことでもなく、
宝滝の滝壺へ投げ入れれば、必ず雨が降るとしている。
後にも記しておいたが、和泉国が旱魃の起こりやすい地形であり、な
このような竜神を忩怒させる儀式は祭礼のなかにもみえる。竜神に
ついて『神於寺縁起』(神於寺所蔵)
、(『岸和田市史』第六巻六四一頁)
に雨が降らなければ七宝滝で祈願し、そのうえ本尊の不動明王の堂で
お戦国期で飢饉になれば、餓死者がでる。その極限状況のなかで生き
あの華々しい念仏風流は、盂蘭盆という行事のなかに位置づけられ
ていたことがみえてくる。呪術や霊的存在との出会いを望む必死の祈
かに五種の願を発す、汝あきらかに聴け、まさにすなわちとかん
無策の請願をおこして一子のかなしみやむことなし、故にハひそ
ぬかなければならなかったのである。
願であった様に感じられるからである。
もし衆生ありて三宝帰して慈悲深広ならんに、我ちから所
・・・・・・
こ
こく と
りうしん
くえんそく
居の国土において、二竜神の五百の春属をつかハして、風雨時に
しゆ
くわん
しゆしやう
ほうくゐ
しやう
し ひ
しゆ
たいくわん
たうしや
われ
しん
などとあり、雨請の願いを、身を粉にして誓願をたてれば、二竜神(犬
ほう
かるかゆへ
政基は、文亀二年(一五〇二)八月二十二日条で、「犬鳴山之躰誠
閑居の仙窟、幽情の別業也」として、葛城修験の霊場・行場である犬
したかハしめ、五穀みな成せしめん、凡五種の大願に五百の願を
では、
鳴山七宝滝寺の静寂は、俗界を離れた風情のある仮の宿所であると記
き
している。
同八月二十一日条で根来寺等の軍勢が入山田に乱入した際、
摂す ・・・・・・
三宝をわかやまにあかめ、二世を当社にささけは、人
りん
けい
倫よろしく慶あるへし、
なんち
それから逃れるため、一晩中岩の根元を伝って、七宝滝寺西坊に避難
鳴山の二ノ池―塔ノ滝)等の五百の眷属(薬師仏の十二神将、不動明
おこ
したことを「夜もすがら 岩ねをつたふ み山ぢの 滝のごとくにあ
せそ落行」
と歩行に険しい山道を登った辛苦を詠んだ和歌一首がある。
王の八代童子の類)の加護を受ける。と一般的にみとめられていたの
せいくわん
その七宝滝寺について、政基が日根野荘に下向中に、文亀二年十一月
である。
む さく
三日、別当副院真海から借りて書写した『七宝滝寺縁起』(『九条家文
しよ
書』
)が残されているので、その縁起などから能役者である世阿弥は
農民たちの雨乞祈祷を見た政基は、これまでの祈りが神の神慮にか
なったと思い、「大明神の神変の不思議、仰ぐべし尊ぶべし」と感激
くわう
能の制作内容としたことだろう。和泉国は、当時の為政者としての根
しており、雨乞して三ケ日に神の霊験のあらたかさに「感涙難押」と
こく
来寺、土豪、両守護等による抑圧に対し、国衙の権力の遂行はかなり
記している。さらに月が替わっても請雨の儀は続けられた。
犬鳴山七宝滝寺五寺僧第
の困難があった。文亀元年七月二十日条では、
近日依炎干、従今日於滝宮社頭有請雨之儀、地下沙汰之、三ヶ日
三
― 206
―
第三節 風流と能
放れて、幽玄は存在しないことを注意している。「幽玄の物まねは幽
美 な 能 は 貴 族 社 会 に お い て は、 暗 く 光 を 失 っ た 弱 き も の で は
(0優
8)
なく、能を舞うときの心構えとして、強いものには、幽玄な物真似を
四
『政基公旅引付』にみえる風流の異彩を放っているところといえば、
玄なり 強さはおのづから強かるべし この分け目おばあてがわづし
盂 蘭 盆 や 雨 乞 の 時 に 催 さ れ た 念 仏 踊 に つ き る の で あ る。 文 亀 元 年
(一五〇一)七月十六日条には、
「滝宮へ風流、月昇山頭以後参仕之条、 て ただ幽玄にせんとばかり心得て 物まねおろそかなれば それに
似ず 似ぬをば知らで幽玄にするぞと思うこころ これ 弱きなり 又号習」とあるが、入山田の惣社が滝宮へ風流を懸けるのは、月が山
されば遊女 美男などの物まねをよく似せたらば おのずから幽玄な
頭に昇りて以後と定められており、「又号習」とは、嘉事として、政
基の居住の堂庭を借りて、四ヶ村の風流競演が展開された事である。 るべし」「幽玄の理を知り極めぬれば おのれと強き所をも知るべし」
「 幽 玄 の 理 を 知 り 極 め ぬ れ ば お の れ と 強 き 所 を も 知 る べ し 」 と 世 阿
これをみた政基は、
「各能作希代希代」と絶賛している。村人は祖霊
を迎えることで、一味同心の祈願をしたのである。
観客に事の次第を物語り、問題点を問いかける」とされ、幽玄の世界
玄」は和歌の道から貴族のもとをはなれ、
民衆のなかにうつされていっ
当時の世阿弥としては、代々の将軍が、貴族の世界を憧憬しながら、
果たすことの出来なかったことを、
舞台に実現したといえる。その「幽
弥は 幽玄にしようと思うことを注意し、ただ正直な物真似があるの
みだといっているのである。
を「世阿弥が作り出した能の形式は、夢幻能と物狂能の二種類である」
たのである。
中世の人々は人の死について、死者の世界と共有しながら、精神世
界を作り上げた。
「死者の霊(シテ)は、死者の立場から生者である
として、
「夢幻能は成仏を願って主役を登場させ、地獄の恐ろしさを
(06)
荒々しい演技で見せ場をつくった」とある。人々は現世から来世の道
南北朝時代の能の世界は、田楽能の伝承性を重んじて、観阿弥は幽
玄な芸風を整えた。世阿弥の芸風も観阿弥の曲舞を取り入れて独自の
筋をみていたのであろう。
式三番(翁)は後半の鵜を化身として、前世・現世・来世を語り、
三世を舞う所作によって、世阿弥は夢幻能という結論に到達したので
幽玄の美を本質とする世界を改革した。
楽論書とした『花鏡』は、演技者の立場からの実践的な内容を示す芸
ある。そして日根野荘で能を観た政基は貴族の立場から希有の念をい
世阿弥の『風姿花伝』は、父観阿弥の遺訓に基づく修法により、猿
楽の歴史まで芸論を集大成させた。それに対し、世阿弥の代表的な能
論である。その能芸の演技論としてある『花鏡』の「幽玄之入り境事」
だいており、村人の願いは、五穀豊穣と追善供養の法会・儀式を能の
(07)
では、
「舞の幽玄にてあるべし」また物まねには、「三体の、姿懸り美
力に依拠して守りぬいたのではなかろうか。
すがたかか
しく幽玄にてあるべし」
「よく練習を積んで、身の姿・風情が美しく
静かなおもむきで、観客がひきつけられるというふうであれば、これ
が舞の優美さであろう。また、劇的演技(物真似に)おいては、三体
の姿・風情が美しければ、これすなわち劇的演技の優美さであろう」。
― 205
―
第二章 和泉国と飢饉
村落と災害
第一節
旱魃を引き金とした和泉国の飢饉は、なかば政治的戦乱のなかで起
こった。
寛正六年(一四六五)八月十六日条
大水出溢山城半国
於屋上營朝夕之飲食了
応永末比
・・・・・・
・・・・・・
有大水出事、不成大会放生会之煩由云々、(『斉藤親基日記』
)
寛正六年(一四六五)八月十八日条
前十五日、八幡疾風暴雨、人家共流没、四百年来旡此例也、
(『蔭
まじさをみせた。街には非人・乞食が群れをなし、疫病が流行したこ
最初の年は旱魃と長雨による不作で、翌年は蝗の大発生があり、三
年目の冬には都の辻は餓死者がつまれ、鴨川は死体で埋まるという凄
涼軒日録』)
ろうか。その状況を知るために寛正の飢饉が、当時の和泉国では如何
災害には事実の相違があるものの、時代の転換期の危機意識につい
ては、寛正の大飢饉といった厳しい内容に類似していたといえないだ
なる関わりがあったのかを解明してみたい。
あるが、餓死者の数は「城中死者八万二千人也」に及んだ、として数
八月二十五日東海道激震。細川政元延暦寺を焼く。
文亀元年(一五〇一)「この年、大旱魃」御柏原天皇、足利義澄
義澄将軍、
明応八年(一四九九)「この年、諸国飢饉」後土御門天皇、足利
疫病以外也、 ・・・・・・
五畿諸国可読誦般若心経 云々、 ・・・・・・
或病
或餓死者、満道路満郊野、今年之躰、同寛正度之由」
門天皇、足利義稙将軍、七月十九日改元明応元年。「近日一天
明応元年(一四九二)「この年、諸国飢饉・疫病の流行」後土御
将軍、「炎旱、堺内無作毛」(
『親長卿記』)
文明四年(一四九六)「この年、春夏旱魃、諸国飢饉」足利義政
いなかろう。
る。これらの様相を当時の日根野荘では十分に把握していたことに違
知れない死者の霊魂の供養を東福寺の禅僧が行ったことを記してい
とが示されている。寛正二年(一四六一)二月二十九日条でのことで
室町時代最悪の惨禍である寛正の大飢饉を記した禅僧大極の『碧山
(09)
日録』から述べたい。
寛正元年(一四六〇)六月十三日条
寅而大雨、 江客来日、湖水大溢浸欄平陸、田疇無敢下種者、
其民皆去、餬口於他州云、五畿七道之河堤決拆、橋梁無全者、
民憂之、
寛正二年(一四六一)正月十二日条
去年、蝗潦・風旱相継為灾、国家凋耗幣亡、玆年正月、天下殺
礼減食、飢餒者多、充飽者少、僧舎又止方外之会、
寛正二年(一四六一)二月二十九日条
「自四條坊橋上見其上流、々屍無数 ・・・・・・
城 中死 者 八万 二 千 人
願阿徹流民之屋」
・・・・・・
(10)
寛正二年(一四六一)五月十八日条 足利義政御教書 慈照院
花押
文亀元年(一五〇一)七月二十二日「炎暑甚、近日炎旱諸国衰弊
将軍、二月二十九日改元。
永享十一年七月廿六日御判之旨、所令免除也、早為守護使不入
(『実隆公記』)「文亀元年辛酉、大旱魃、人民多死」(
『讃岐国大
和泉国松尾寺并寺領同所散在田畠等段銭以下臨時課役事、任去
地、寺家彌可令領知之状、如件、
五
― 204
―
日記』
)
永正元年(一五〇四)
「天下飢饉、餓死多、和州特多死」(『二条
寺主家記抜粋』
)
六
を攻め神於寺を焼き打ちした事件が起きて以来、応仁・文明の乱を前
にして、神於寺は行人を中心に僧兵集団をもつようになったという。
京都物忩として、義就が河内に入ることは両畠山軍が、南河内一帯
で戦闘の兆候を察知した経緯がみえるのである。それは尋尊が『尋尊
か、河内の兵を含み、畠山義就・政長の家督争いを克明に記している
永正元年(一五〇四)閏三月六日「炎旱近年連続、民間之愁末休」
として文明四年(一四六九)の諸国飢饉であり、「炎旱、堺内無作毛」
ことからも窺うことができる。つまりその合戦は、両畠山軍が南河内
大僧正記』寛正二年五月六日条にも記している「去年諸国旱魃」のな
や明応元年(一四九二)の「五畿諸国」「同寛正度」が示している五
一帯で戦闘を交えることになる。その様子を文正元年(一四六六)九
(
『実隆公記』
)
畿諸国(山城・大和・河内・和泉・摂津)の飢饉が寛正の大飢饉に匹
城西ニ取陣在之、申七八□在之歟
云々
嶽山城衆悉罷下
西林寺ニ管領方勢罷籠」、「五日、霽 右衛門佐
・・・・・・
早
二日夜九時分、壺坂 ヲ立 テ千破屋城 ヲ通 テ、下着金胎寺 ・・・・・・
越智者坊
多武峰勢ヲ相約由 云々、道
・・・・・・
(12)
敵 す る も の で あ る。 そ し て 文 亀 元 年( 一 五 〇 一 )「 こ の 年、 大 旱 魃 」
月四・五日条の『経覚私要鈔』に記している。
「四日、霽 酉刻自越智
義就
金胎寺
方古市申遣云、右衛門佐着陣後軈馳向押子形城、二夜二日責戦 ・・・・・・
とあり、永正元年(一五〇四)には、
「天下飢饉、餓死多、和州特多死」
とあり、『政基公旅引付』より、
永正元年(一五〇四)五月八日条で「世
閒病死、佐野浜面一村皆死弗」と政基の記したことと一致する。
第二節 和泉の攻防
臘 月 十 日 条 で は、「 和 泉 守 護 力 之 而 難 辨。 崇 壽 院 領 和 泉 堺 有 徳 之 事。
(13)
河内へ 御奉書持下候也、路物二十疋」として、寛正元年の飢饉以降、
河内国は、旱魃・飢饉のなか、戦乱による衝撃の日々であったのであ
飢饉・飢餓について奈良興福寺の僧尋尊は、京都で大量の餓死者が
出たことを述べている。その状況が和泉国との関連について、寛正元
福被懸。以来年々貢三百貫文可辨、然則有御免許者為望之由」などと
限今度仰付。以後可有御免許の由」
、 同 十 七 日 条「 崇 壽 院 領 和 泉 堺 有
る。 ま た 天 快 晴 つ づ き の な か、
『 蔭 涼 軒 日 録 』 寛 正 六 年( 一 四 六 五 )
年・二年と連続した戦乱から、寛正二年(一四六一)五月六日条とを
と あ る よ う に 河 内 の 兵 乱 の た め 国 人 等 餓 死 す と あ る。 河 内 の 兵 が 係
被仰五山於四条・五条橋上 ・・・・・・
大施餓鬼被行 ・・・・・・
去年諸国
・・・・・・
旱魃、并河内・紀州・越中・越前等兵乱故、彼国人等於京都悉以餓死」
星飛入東北角、其光芒射人、其鳴如大地震人皆聞之驚倒也 ・・・・・・
兵乱
寛正六年(一四六五)九月十四日条「夜前四皷之後、自西南角、大流
三十回とあり、「御祈祷大般若経御布施」は恒例化していたようである。
(11)
み て お き た い。
「 先 代 未 聞 事 也、 彼 死 人 悉 以 四 条・ 五 条 の 橋 下 ニ埋 之
わ っ て い た こ と が わ か る。 河 内 の 兵 と は、『 粉 河 寺 旧 記 五』 の 文 明
ある。寛正六年も正月一日から十二月二十九日迄「天快晴」の日々が
十六年(一四八四)九月五日条に「粉河寺行人より根来行人江合力を
流星が東北に飛び、その光芒は人を射、鳴動は大地震のようであった。
病事、五穀不収、人民死亡 ・・・・・・
諸門跡并宗門諸五山御祈祷之事被仰
出、即命之、同翌十五日条殿中大般若経」とあり、九月十四日夜、大
頼遣し、泉州木嶋へ陣立、 ・・・・・・
神於寺江押寄せ夜詰合戦、七日末ノ
剋に槍合して則神於寺を焼払」とあり、粉河寺・根来寺の行人が木嶋
― 203
―
かに乗り越えられたのである。人々は戦乱にあっても祭祀と風流は神
あり、日根野荘では文亀元年(一五〇一)以降の旱魃や飢饉をしたた
乱に対する人々の並々ならぬ意識のうえでは村郷の「合力」は堅固で
において、寛正元年より寛正六年の人々に与えた影響はおおきい。動
といっているが、和泉国では大旱魃になったのである。和泉国の災害
象の良好をみて「佳瑞・奇瑞」
(文亀三年正月二日・同四年正月七日条)
元年五月十一日条にも落雷を強訴によると記している。政基は自然現
を命じ、翌十五日殿中で大般若経が行われた。『政基公旅引付』文亀
「兵乱病事、五穀不収、人民死亡」と出たので、幕府は諸五山に祈祷
経覚の史料からだけで論じることを逡巡されているようである。なお
ている。熱田氏は動乱期の社会において、大和の旱魃の現状を尋尊と
二十日には旱天が続いたとみられると熱田公氏は雨天統計を作成され
記 載 の 脱 落 も あ る か も し れ な い と し て、 寛 正 元 年( 一 四 六 〇 ) 七 月
長禄元年(一四五七)―寛正二年(一四六一)の天候を正確に復元
す る こ と は 無 理 と し な が ら、 六 月 の 長 雨 と い っ た 傾 向 を、
『雑事記』
を呈したといえないだろうか、
阿弥父子の演能は、寛正期の飢饉と戦乱の地にあっても、最盛の様相
式に沸いた様子が窺える。足利義満の支援を得て大成した観阿弥・世
番射也」とあるように、演能の重厚でいて、「おもしろ」の表現や形
(16)
の範疇としていたことを高察するものである。
「 八 月 晦 日 に は 大 和 地 方 に も 大 風 が 襲 来 し て い る が、 長 禄 三 年
(一四五九)を上廻る被害でもなさそうである」
。寛正二年(一四六一)
、
能・狂言は動乱のなか農民たちの安堵の時でもあった。そこで三つの
飢饉の前ぶれとしてあった雨乞の行事、そして法味法楽としてあった
本論では村落としての風流が「座」を定着させた過程において、政
基と農民たちとの信仰の相異を記した。「神仏習合」から旱魃と祈祷、
私要鈔』において当時の世相を記しているが、それによると自然条件
か」と述べられている。尋尊は『大乗院寺社雑事記』、経覚は『経覚
がそれほど深刻ではなかったことの証左の一つとすべきではあるまい
からはじまったことも、「大和・河内方面で、自然条件としての飢饉
ろう」とされ、両畠山(政長・義就)合戦が長禄四年(一四六〇)冬
おわりに
問題について、①なぜ地方なのに都の能者に比べられるような芸能が
京都では悲惨な状況であったが、麦の収穫とともに大飢饉もようやく
あるのか。②風流をなぜ行わねばならなかったのか。③神と地域社会
としての飢饉がそれほど深刻ではなかったので、尋尊の日記では京都
終息にむかったとして、「大和地方でも麦が順調に成育した証左であ
との近さ、
芸能―神についてなど。また政基の経験した寛正の飢饉と、
ほど大和の状況には言及されていないとして、「寛正の大飢饉は大和
(14)
日根野荘の旱魃との比較を試みた。
七
的記録として、貴重な史料であることを判断するきっかけをつくって
れまでに述べてきた『政基公旅引付』は、十六世紀初頭四年間の実証
ではそれほどひどいものではなかった」との熱田氏の論説には違和感
章で述べた「能」については、寛正六年(一四六五)九月
まず第(一
15)
二十七日条に「今日春日社御祭礼。天快晴。万人悉歓喜踊躍也 ・・・・・・ がある。和泉国では戦いの最中での飢饉であったが、この通説におい
四方八面。見者如雲如海。不知幾千万人云也。奇哉快也。祭礼次第。 ても、「戦争と飢饉を同時に実行されるわけがない」とされるが、こ
馬長女巫乗馬。
四座申楽。大鳥居垂松。今春 金剛 観世 寶
・・・・・・
掌 立会一曲一舞。 ・・・・・・
各歌祝言也。随兵田楽。一曲一舞。鏑馬三
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くれている。
(註)
(01)藤木久志「村の隠物・預物」(『村と領主の戦国世界』東京大
学出版会、
一九九七年)
。
三浦圭一「日根荘をめぐる諸問題」(『日
本中世の地域と社会』思文閣出版、一九九三年)。矢田俊文「戦
国期日根荘の民衆と生活-戦争と平和-」(小山靖憲・平雅行
八
子と曲舞(二)―曲舞に就いて―」(『国語国文』一九三二年。
『能勢朝次著作集』第四巻、一九八二年)
。
(09)竹内理三『増補続史料大成』第二十巻 『碧山日録』
(臨川書店、
一九八二年)。
(10)『松尾寺文書』寛正二年(一四六一)二月十八日条(和泉市史
第一巻 六九三頁)
。将軍足利義政は松尾寺荘園に対する段銭
以下臨時課役を免除し、守護使人部を停止させた。
える。
(12)
『経
(藤井寺
覚私要鈔』文正元年(一四六六)九月四・五日条 市史第四巻、史料編上下)。両畠山軍、南河内一帯で戦闘を交
畠山義就壺阪より河内に入る。
編『荘園に生きる人々』和泉書院、一九九五年)。「クミノ郷」 (11)
『尋
尊大僧正記』文正元年(一四六六)九月二日条 『大乗院
寺社雑事記二』藤井寺市史第四巻、史料編上下、(一九六五年)
。
を一味同心の協力関係すべてとして認められた。
(02)峰岸純夫「崩れゆく荘園」
(『日本民衆の歴史』3 天下統一
と民衆、三省堂、一九七四年)。
(03)本田 安 次『 神 楽 』
( 木 耳 社、 一 九 六 六 年 )。 つ く り も の 風 流、
仮装風流、練り風流もあるとされる。そこに風流踊という項
目は立てられていないのだが、「風流」としてあげられる「踊」 (13)竹内理三『続史料大成』第二十二『蔭涼軒日録』(臨川書店、
一九八六年)。
をひとえに風流踊と認識されていたことだろうか。
一二五頁。
まることはなかったと思考した。
(大日古一六四)とあり、寛正の大飢饉の余波は、一寺社に留
下臨時課役並検断等事、早任永享十年十一月十五日免除之旨」
(付記)『観
心寺文書』寛正二年(一四六一)四月二十七日条の〔畠山
義就安堵状〕では「河内国観心寺雑掌申同国観心寺郷段銭以
(16)熱田 公『 中 世 寺 領 荘 園 と 動 乱 期 の 社 会 』( 思 文 閣 出 版、
二〇〇四年)。
(04)小笠原恭子『かぶきの誕生』(明治書院、一九七三年)。
(14)田 村 憲 美「 中 世 に お け る 在 地 社 会 と 天 候 」
(『 民 衆 史 研 究 』
(05)
五五、一九九八年)
。
『春日御詣記』大日本史料 第七編之一(五〇七頁)。
(06)小林
保治・森田拾史郎『能・狂言図典』(小学館、一九九九年)。 (15)『蔭
涼軒日録』寛正六年(一四六五)九月二十七日条。
(07)
『花 鏡』世阿弥の芸術論は「奥の段」に「此の花鏡一巻」応永
卅一年(一四二四)六月一日条があり、世阿弥が六十二才の
作品である。
『風姿花伝』応永七年(一四〇〇)には習道論は
勿論のこと、幽玄論が滔滔と述べられている。
(08)白 洲 正 子『 花 と 幽 玄 の 世 界 ― 世 阿 弥 ―』( 宝 文 館 出 版、
一九六四年)
。能勢朝次「鎌倉時代猿楽能想定資料としての狂
言風流」
(
『能楽源流考』岩波書店、一九七二年)。同、「白拍
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概要
本論文は、旱魃と風流の視点から、多事多難の乱世と自然災害とを
比較検討し、村郷・村民の生活記録を考察したものである。
第一章では、風流踊りの鑑賞が貴族と農民の感覚的相違など、災害
危機を一味同心して雨乞・祈祷と「縁起」を重視していた農民たちの
姿を示し、芸能の答を出した。世阿弥の能に接近したであろう中世の
人々は、
幽玄の世界を独創的に表現し発揮したのである。第二章では、
政治的戦乱のなか、文亀三年和泉国の旱魃は相当に深刻であったが、
尋尊・経覚は旱魃・飢饉については記していない、その影響について
考察した。
九
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The Drought and furyu - dancing
in hinenosho, Izumi-no-kuni
in the later Muromachi period
“Focus on yumai and people in hinenosyo”
YASHIKI Michiko
This study documents the lives of villagers who lived in the wild times [Remark 1]
and suffered natural disasters such as famine, and examines the influence of furyu - dancing.
[Remark2]
In Chapter 1, public entertainment is explored through an examination of the
superstitions and beliefs of the people in those times, such as the praying for rain. People in the
Muromachi Era(1337-1573), must have known of Zeami’s Noh, which expressed the subtleties
and profundities of the world in creative ways. However, there appears to have been some
sensory perception differences between the aristocrats’ and the peasants’ enjoyment of furyudancing.
The drought in war-torn Bunki san-nen in 1503 was very severe. However, neither
Jinson nor Kyougaku wrote about this or the consequent disastrous famine. Chapter 2 explores
the influence of these events.
十
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