舟倉用水

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楡原
41
③
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2010.12
﹁全国疎水百選﹂
認定 舟倉用水 ︵富山市︶
江戸時代後期、砺波郡内島村︵現・高岡
市︶の十村役︵大庄屋に相当する役職︶で
あ っ た 五 十 嵐 孫 作・篤 好 父 子 は、時 の 加
賀藩主の開墾奨励により、水に恵まれず、
不毛の荒れ野であった船峅台地を肥沃
な水田に変えるため、神通川支流の長棟
川︵ 薄 波 川 ︶か ら 水 を 引 い て 用 水 を 作 る
事にし、寛政8︵1796︶年から文化5
︵1808︶年の 年間を測量設計に費や
し、文化7︵1810︶年より工事を始め
た。工事は、幅5尺︵1・52m︶、深さ3
尺︵ 0・9 1 m ︶の 水 路 を 造 る も の で あ っ
たが、峻険極まりない神通峡右岸中腹を
掘 る 作 業 は、非 常 に 困 難 で あ っ た。土 木
技術が進歩していない当時の事で、ノミ、
タガネ、コヅチを唯一の工具として進め
ら れ た。巨 大 な 岩 石 に 遭 遇 す る と、草 木
を 刈 り 集 め て 焼 き、岩 石 を 熱 し、そ の 上
に 水 を 注 い で 急 冷 し て、亀 裂 を 作 り、破
壊 す る と い う 工 法 を と り、難 工 事 を 続
け な が ら、7 年 の 歳 月 を か け て 文 化
︵1816︶年に完成させた。延長は ㎞
余り。船峅台地の水田360 に水を運
ぶことを可能にした。
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工 事 に は、 上 銀 1 2 0 0 貫 匁
︵ 4 5 0 0 ㎏ ︶、 玄 米 1 0 0 0 石
︵ 万 ㎏ ︶、現 在 の 価 値 に 換 算 す る と、約
ha
億8000万円かかったと言われる。
直坂の級長戸辺神社境内には、五十嵐
父子ら功労者の顕彰碑が立っている。こ
の 中 に は、算 学 者 の 石 黒 信 由、十 二 貫 野
用水︵黒部市︶を完成させた椎名道三の名
前も見える。
ち な み に、五 十 嵐 孫 作 は、改 作 奉 行 宛
に提出した用水の詳細な絵図に、自作の
和歌 首を書き入れるほど、和歌に打ち
込んでいたそうだ。用水工事によって住
みかを失う川魚に対する鎮魂の思いをこ
めた作もあるという。
その後、風雪による落石や土砂の崩落
などが毎年のようにあり、維持管理に苦
労 し て い た そ う だ が、平 成 元 年 度 よ り、
用水路の再改修︵県営かんがい排水事業︶
が 着 手 さ れ、平 成 年 度 に 完 成 し た。こ
れにより、年間を通じた用水の安定供給
と、維持管理の軽減が可能になった。
平成 年2月 日には、農林水産省の
﹁全国疎水百選﹂にも認定された。
今 回 は、熊 の 出 没 が 心 配 さ れ た た め、
取水口の写真は撮れなかったが、いつか
見 に 行 っ て み た い と 思 っ て い る。片 路
峡など、神通峡を見に行かれたついでに、
舟倉用水にも足を運んでみてはいかがだ
ろうか。
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①
※直坂遺跡そばには広い駐車場があり、案内板も
立っている。
④
20
②
天湖森
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長棟川
舟倉用水
取水口
年かけ完成
舟倉用水
神通川
片路峡
①級長戸辺神社横を流れる舟倉用水。
②級長戸辺神社。
③級長戸辺神社横で、用水が3つに分流してい
る。
左側から、
中江分水、
三ツ分水、
西江分水。
④神社内の顕彰碑。
第一ダム
参考文献等/「神通川と呉羽丘陵」
(廣瀬誠著・桂書房)
、
案内板
2010.12
23
級長戸辺神社
41
直坂遺跡
笹津
寺家公園
猿倉山
第二ダム