13 18 楡原 41 ③ 22 2010.12 ﹁全国疎水百選﹂ 認定 舟倉用水 ︵富山市︶ 江戸時代後期、砺波郡内島村︵現・高岡 市︶の十村役︵大庄屋に相当する役職︶で あ っ た 五 十 嵐 孫 作・篤 好 父 子 は、時 の 加 賀藩主の開墾奨励により、水に恵まれず、 不毛の荒れ野であった船峅台地を肥沃 な水田に変えるため、神通川支流の長棟 川︵ 薄 波 川 ︶か ら 水 を 引 い て 用 水 を 作 る 事にし、寛政8︵1796︶年から文化5 ︵1808︶年の 年間を測量設計に費や し、文化7︵1810︶年より工事を始め た。工事は、幅5尺︵1・52m︶、深さ3 尺︵ 0・9 1 m ︶の 水 路 を 造 る も の で あ っ たが、峻険極まりない神通峡右岸中腹を 掘 る 作 業 は、非 常 に 困 難 で あ っ た。土 木 技術が進歩していない当時の事で、ノミ、 タガネ、コヅチを唯一の工具として進め ら れ た。巨 大 な 岩 石 に 遭 遇 す る と、草 木 を 刈 り 集 め て 焼 き、岩 石 を 熱 し、そ の 上 に 水 を 注 い で 急 冷 し て、亀 裂 を 作 り、破 壊 す る と い う 工 法 を と り、難 工 事 を 続 け な が ら、7 年 の 歳 月 を か け て 文 化 ︵1816︶年に完成させた。延長は ㎞ 余り。船峅台地の水田360 に水を運 ぶことを可能にした。 13 14 工 事 に は、 上 銀 1 2 0 0 貫 匁 ︵ 4 5 0 0 ㎏ ︶、 玄 米 1 0 0 0 石 ︵ 万 ㎏ ︶、現 在 の 価 値 に 換 算 す る と、約 ha 億8000万円かかったと言われる。 直坂の級長戸辺神社境内には、五十嵐 父子ら功労者の顕彰碑が立っている。こ の 中 に は、算 学 者 の 石 黒 信 由、十 二 貫 野 用水︵黒部市︶を完成させた椎名道三の名 前も見える。 ち な み に、五 十 嵐 孫 作 は、改 作 奉 行 宛 に提出した用水の詳細な絵図に、自作の 和歌 首を書き入れるほど、和歌に打ち 込んでいたそうだ。用水工事によって住 みかを失う川魚に対する鎮魂の思いをこ めた作もあるという。 その後、風雪による落石や土砂の崩落 などが毎年のようにあり、維持管理に苦 労 し て い た そ う だ が、平 成 元 年 度 よ り、 用水路の再改修︵県営かんがい排水事業︶ が 着 手 さ れ、平 成 年 度 に 完 成 し た。こ れにより、年間を通じた用水の安定供給 と、維持管理の軽減が可能になった。 平成 年2月 日には、農林水産省の ﹁全国疎水百選﹂にも認定された。 今 回 は、熊 の 出 没 が 心 配 さ れ た た め、 取水口の写真は撮れなかったが、いつか 見 に 行 っ て み た い と 思 っ て い る。片 路 峡など、神通峡を見に行かれたついでに、 舟倉用水にも足を運んでみてはいかがだ ろうか。 15 16 ① ※直坂遺跡そばには広い駐車場があり、案内板も 立っている。 ④ 20 ② 天湖森 13 17 22 長棟川 舟倉用水 取水口 年かけ完成 舟倉用水 神通川 片路峡 ①級長戸辺神社横を流れる舟倉用水。 ②級長戸辺神社。 ③級長戸辺神社横で、用水が3つに分流してい る。 左側から、 中江分水、 三ツ分水、 西江分水。 ④神社内の顕彰碑。 第一ダム 参考文献等/「神通川と呉羽丘陵」 (廣瀬誠著・桂書房) 、 案内板 2010.12 23 級長戸辺神社 41 直坂遺跡 笹津 寺家公園 猿倉山 第二ダム
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