老騎士外伝短編集 - タテ書き小説ネット

老騎士外伝短編集
支援BIS
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︻小説タイトル︼
老騎士外伝短編集
︻Nコード︼
N5208CA
︻作者名︼
支援BIS
︻あらすじ︼
バルドを取り巻く人々を主人公とする連作短編。また、大陸の歴
史に関する断章。常に完結。
1
ジュールラント[第3章読了後推奨]
大陸暦4272年3月40日
1
﹁ほう。じいが来ているのか﹂
﹁は。バルド・ローエン卿は、三月二十八日にご到着なさいました。
ご養子のカーズ・ローエン殿がご一緒です﹂
バルド・ローエンがこのロードヴァン城に来ている。
再びバルドに会えるかと思うと、ジュールラントの胸は熱いもの
で満たされた。
2
バルド・ローエン。
それはジュールラントにとり、幼きころからの絶対の庇護者であ
り、英雄であり、無条件の信頼を置ける教師であった。
物心がつきかけるころ、ジュールラントには一つの大きな悩みが
あった。自分の父親は誰か、ということである。
パクラ領の中に、自分を卑しむ目つきがある、ということは気付
いていた。騎士たちの中にはもちろん、領民たちの中にさえ、気付
かぬところから自分を憎みさげすむ声を発している者があることは、
気付かないわけにはいかなかった。
始めその理由は分からなかったのだが、積み重なった声は、ある
2
ときジュールラントの耳に届いた。
??ジュールラン様は、なにしろあのカルドス・コエンデラの息子
なのだから。
カルドス・コエンデラ。その名は知っている。卑怯で強欲で、テ
ルシアの騎士たちを苦しめている隣接領の領主だ。
ジュールラントは母アイドラに訊いた。
﹁ははうえ。わたしのちちうえは、カルドス・コエンデラなのです
か﹂
アイドラはひどく強い目つきでジュールラントを見据えた。
﹁違います。ただしそのことは誰にも言ってはなりません。分かり
ましたか。父親は誰かと訊く人がいても、決して答えてはなりませ
ん。お前の父はカルドスだろうといわれたら、黙って相手を見つめ
るのです﹂
反論を許さぬその口調に、ジュールラントはただうなずくしかな
かった。
??わたしのちちうえはカルドスではない。ではだれなのかな。じ
いだったらいいな。じいがわたしのちちうえだったらいい。
しばらくしてからジュールラントはアイドラに訊いた。
﹁わたしのちちうえは、バルドじいなのですか﹂
この質問を聞いて、アイドラはひどく悲しそうな顔をした。そし
て口に出しては何も言わず、目を閉じ首を横に振った。そのアイド
ラの様子を見て、ジュールラントは自分が何かひどく悪いことを訊
いてしまったのを知った。
以来ジュールラントは、二度と父親のことをアイドラに訊かなか
った。
ジュールラントの父親がカルドスであるということは、パクラ領
の中では当たり前の事実として認識されていた。ということは、カ
ルドスの子であるジュールラントに、カルドスに向けられる憎悪や
侮蔑のなにがしかが寄せられる、ということである。
ジュールラントにとり、この憎悪や侮蔑のまなざしは、ひどくつ
3
らいものだった。
耐えられたのは、ひとえにバルドの存在による。
バルドがジュールラントとアイドラに絶対の忠誠と心からの愛情
を捧げており、いつも付き従っている以上、面と向かってジュール
ラントをののしるものなどいなかった。そしてほかの誰が敵となっ
ても、バルドだけは変わらぬ味方でいてくれる。そのことがジュー
ルラントを支えた。バルドがいなかったら、ジュールラントの心は
若いうちにねじまがっていただろう。
バルドは厳しい教師だった。それは間違いない。ジュールラント
に対する指導に一切の手加減はなかった。ジュールラントにはそれ
がうれしかった。バルドの指導に耐えきれば、自分は素晴らしい騎
士になれる。そう信じて最大の努力を払い続けた。
いつのころからだろう。あれはカルドスの息子だという視線が消
え去ったのは。
ジュールラントはほかの何者でもないジュールラン・テルシアと
なり、誰の息子であるというようなことは取りざたされなくなった。
騎士として積んだ実力と実績がそうさせた。
風聞におどおどしないために装っていた鷹揚な態度は、いつしか
すっかり身について、どこの大領主かというような尊大な風格を身
につけた。もともとそういう素養を持ってもいたのであろう。
バルドはジュールラントにとり、常にあこがれの存在であった。
そのたくましさ。その高潔。その不屈。限りなく広い情愛と寛容。
そもそも人民を忠誠の対象に選ぶなどということが信じがたかっ
た。そんなことはおとぎ話の世界のことだ。現実に選べる道ではな
い。その信じがたい道を現に選び取り、堂々と歩んでいる男がいる。
その男は誰あろう、ジュールラントの庇護者にして師父なのだ。
成長してゆき、世界のすべてと思っていたパクラ領が辺境のごく
一部に過ぎないと知ったとき、ジュールラントの心に強烈な不満が
生まれた。
??どうしてこの英雄のことを、世界は知らないのだ!
4
ジュールラントはバルドを羽ばたかせたかった。バルドこそは世
界に名を轟かせてよい傑人だ。ただ強いというだけではない何かが
バルドにはある。バルドに接した騎士は勇気と清廉を取り戻す。負
けてはならない戦を勝利に導く光を見る。
しかしそんなジュールラントの思いをよそに、バルドはテルシア
家に尽くすだけで壮年期を終え、老境に入り、ここ数年は目に見え
て衰えてきた。
??じいは、バルド・ローエン卿は、このまま終わってよい男では
ない!
そんなバルドが旅に出た。ジュールラントは見捨てられたような
寂しさを味わうとともに、これでバルドが若返り、再び活躍してく
れればよいという期待を抱いた。
リンツ伯の館で見たバルドの勇姿には心が躍った。ほとんどはご
ろつき同然の相手とはいえ、敵は十四人。こちらは三人。しかも武
器もない。
??応援が駆け付けるまで、なんとかリンツ伯だけでも守り抜く。
それがテルシアの騎士の誇りだ。
悲壮な決意を固めるジュールラントの目の前で、バルドが闘気を
吹き上げた。
??お、お、お、お、お!
なんたる息吹か。なんたる強大な武威の気配か。
今目の前にいるバルドは老いて衰えたバルドではない。千万の敵
を相手に一歩も譲らぬ武神さながらの若きバルドだ。
見よ、敵ものまれている。
ジュールラントはバルドとともに戦わんと、前に進み出ようとし
た。
﹁来るな!﹂
飛んできたバルドの叱責が、ジュールラントの全身をしびれさせ
た。
ああ。
5
この声。
千里の先にまで響くこの声。
この声こそ、バルドだ。
苦戦の中にあって味方に百万の勇気を与えるバルドの声だ。
﹁心得た。師匠殿﹂
もはやジュールラントの心に不安も懸念もなかった。
イーメラ
ゴラオン
バルドは勝つ。相手が十四人だろうが百人だろうが問題ではない。
羊が百匹集まっても虎とは戦えないものだ。
ジュールラントの顔には笑いが浮かんでいた。
そしてバルドは敵をことごとくたたき伏せた。圧勝、というのも
おろかしいほど一方的な戦いだった。
??ああ、じいよ。バルドよ。わが師よ。あなたはこんなにも健在
だった。これで安心してあなたの旅立ちを見送ることができる。ど
うか広い世界に旅立ってください。多くの民衆をその広き手で救っ
てあげてください。そして神々よ、大いなる命よ。今バルド・ロー
エンをあなたの懐にお返しします。どうかこの英傑のたどる道を照
らしたまえ。そしてその大いなる活躍を、世界を照らすともしびと
して、広く世に知らしめたまえ。
ジャン・デッサ・ロー
そうしてバルドを見送ったジュールラントであったが、ひと月後
に受け取ったバルドからの手紙を読み、思わず﹁なんということだ﹂
という驚きの言葉を発してしまう。
ジュールラントの父親がパルザム王国の新王ウェンデルラント・
シーガルスであったというのも驚きだったが、それよりも驚いたの
はバルドの活躍ぶりである。
なんとバルドはたまたまウェンデルラント王が発した勅使の窮地
を救って友となり、たまたま﹁二重の渦巻き﹂の謎を解き、たまた
ま﹁印形﹂のありかを発見し、運良く勅使一行と秘密裏に打ち合わ
せをしてカルドスを欺く計略を進めたという。
そのうえで、やがてジュールラントのもとに別の勅使が赴くよう
手配したから、心づもりをしておけ、と手紙にはあった。
6
なんという、なんという男なのだろう、バルド・ローエンは。
テルシア家を離れ自由な旅を始めたとたん、この活躍ぶりである。
そうだ。そうなのだ。
運命はこの男をそっとしてなどおかない。
この男に解決してほしいあまたの問題を神々は抱えておられる。
今こそ手ぐすねひいて神々は、バルド・ローエンの歩みを待って
おられる。
ジュールラントは会心の笑みを浮かべた。
それからジュールラントは勅使の迎えを受け、パルザム王国の王
都に赴いた。真実の父と顔合わせをし、王太子となるべく修業を始
めた。
田舎から突然現れた王の子に、王宮の空気は優しいとはいえなか
った。しかしジュールラントはへこたれなかった、
??バルドのじいも、今ごろどこかで活躍している。
そう思えば勇気が湧いてきたのだ。
有力都市や諸国を回る旅に出てから、ロードヴァン城からの知ら
せを受けた。現在のロードヴァン城は辺境騎士団長の指揮下にある
が、その団長は王都で面識のあるザイフェルト・ボーエンだ。父王
からも﹁信頼してよい男﹂だと耳打ちされた騎士である。
ザイフェルトからの報告書を読んで、ジュールラントはあきれた。
バルドだ。またしてもバルドなのである。
ゲルカストを決闘で打ち破って競武会出場の資格を得た辺境騎士
団の騎士は、実は恩人であるゲルカストの老人を寝ているあいだに
闇討ちしたのだという。その復讐に大勢のゲルカストがロードヴァ
ン城を取り囲んだとき、バルドがその場に現れた。
なんとバルドは、たまたまそのゲルカストたちの族長と面識があ
り、ゲルカストの代表を族長のもとに案内することで、その場を収
めてしまった。
そしてその案内の旅の途中で一つの領の謀反を鎮圧し、その過程
でゲルカストや同行した辺境騎士団員たちの尊敬を勝ち取った。そ
7
の結果、ザイフェルトに対する敵意に満ちていた辺境騎士団の空気
までもがすっかり変わってしまったという。
しかも何やら、辺境でゴリオラ皇国の高位の騎士と知り合い、窮
地を助けて共に魔獣を討ったという。このことでバルドはゴリオラ
でも有数の名家ファファーレン家に恩義を売り、危うくゴリオラの
皇都に連れていかれるところだったのだという。
??ううむ。さすがバルド・ローエンといえばそれまでだが、なん
という活躍ぶりか。
手助けした騎士がゴリオラの代表として辺境競武会に出場する見
込みであり、バルドは辺境競武会の観戦を望んでいるという。
ジュールラントは、同行する官僚たちに相談し、前例に当たって
その方途を見つけた。
??ふふ。辺境競武会でじいに会えるか。楽しみになってきたな。
各地の領主たちとの交渉で疲れ切っていたジュールラントは、す
っかり元気を取り戻してロードヴァン城にやって来たのだった。
3
﹁ザイフェルト。大領主領の代表は、国の代表と見なされる慣例だ
ったな﹂
﹁はっ。その通りであります﹂
﹁ではバルド・ローエン卿は、ジグエンツァ大領主領の代表という
ことにして、観戦の資格を与える。問題ないな﹂
ジグエンツァ大領主領は、昨年、ウェンデルラント王自らがお墨
付きを与えて正式に成立した大領主領である。その正当性には疑い
もない。
大領主に就いているのはバルドの主家であったテルシア家ではな
くノーラ家なのだが、そもそもノーラ家の遺児が生き永らえたのは
ジュールラントの庇護があったればこそであり、名前を使ったから
といって文句の出るはずもない。そもそもノーラ家には、辺境競武
8
会の噂など届かないだろうが。
﹁はっ。問題ありません﹂
﹁うむ。国の代表扱いなのだから、模範試合を要求する権利がある
な﹂
﹁はっ?﹂
﹁知らんのか。観戦者として招待された国には、各部門の優勝者と
自国の代表の模範試合を要求する権利が与えられるのだ﹂
ザイフェルトは横にいるマイタルプ副団長を見た。副団長はザイ
フェルト団長にうなずいてみせた。
﹁はっ﹂
ようやく肯定の答えをザイフェルトは返した。
﹁よし。ではジグエンツァ大領主領代表のバルド・ローエン卿の申
し入れにより、第四部門の優勝者とバルド・ローエン卿の模範試合
を行うから、そのように手配せよ﹂
申し入れなどされていない。というより、ジグエンツァ大領主領
の代表として扱うという方便自体、バルド本人にはまだ知らされて
いない。つまり、この模範試合の企ては、まったくジュールラント
の思惑によるものなのである。
ここにきてザイフェルトにもジュールラントの考えが飲み込めた
ようで、目におもしろがるような色を浮かべた。
﹁はい。確かに心得ました﹂
この反応からするに、ザイフェルトもバルドがただ負けるなどと
は思っていない。第四部門優勝者を相手に相当の武勇を発揮してく
れるだろうと期待しているようだ。
そうだ、バルド・ローエンが、むざむざ負けるわけがない。
その剛勇ぶりを見せつけて、両国の騎士たちを大いに驚かせるが
いい。
﹁うむ。しかしバルド・ローエン卿は、ただ模範試合に出るという
だけでは、あまり乗り気にならんかもしれん。バルド・ローエン卿
が本気を出すよう、お前のほうであおってみてくれ﹂
9
﹁はっ? はい。考えてみます﹂
﹁うむ。ああ、それから、手紙で知らせておいたように、第五部門
のわが国代表には、このシャンティリオンを出す﹂
﹁はい﹂
﹁ああ、そうか。ザイフェルトはシャンティリオンとは顔見知りな
のだったな﹂
﹁はい。バリ・トード司祭殿の随行として、共にコエンデラ家を訪
ねました﹂
ジュールラントの顔に笑みが浮かんだ。
その旅でバリ・トードとザイフェルトとシャンティリオンは、バ
ルドと知り合ったのだ。ただ知り合ったのではない。わずかな交流
の中で、深く信頼し尊敬し合う関係となった。そのことは王都で会
ったバリ・トードの口ぶりからも感じられたし、ここへの道中での
シャンティリオンとの会話からも感じた。ザイフェルトについては
なおさらのことである。
バリ・トードもザイフェルトもシャンティリオンも、ひとかどの
人物である。王国の歴史に名を残すような働きをする者たちである。
そうした人物たちと知己を得、友誼を結ぶ。まさにバルド・ローエ
ンらしい、とジュールラントは面白みを感じた。
﹁待てよ。バルドのじいが養子にしたという、そのカーズとかいう
男も、細剣使いではなかったか﹂
﹁はっ。おそるべき使い手であるように見受けました。そうだな、
マイタルプ﹂
﹁はい。わずかにカーズ殿の手並みを見る機会がありましたが、た
だ者ではありません。馬を疾走させながら前後から飛んでくる矢を
落ち着き払ってたたき落としておりました。また、その身ごなしは
風のようで、まったく隙というものがありません﹂
﹁ふむ。かなりの手練れのようだな。まあ、じいが養子にするくら
いだから、並の男ではあるまいが﹂
バルドが養子を取ったという話は、うれしくもあり、腹立たしく
10
もあった。
うれしいというのは、養子を取るという出来事が、バルドが生き
ていく意欲を強めた証しであり、バルドの身の回りがにぎやかにな
っていくことでもあるから、うれしいのである。
しかし本当のことをいえば、ジュールラントは、自分こそがバル
ドの子である、と言いたかった。
自分がカルドスの子であると知ったのち、いつかバルドが母アイ
こいねが
ドラに求婚し、バルドが名実ともに父親となってくれることを、ジ
ュールラントは希っていた。なぜかバルドはそうしなかったが、そ
れでも自分の実質の父親はバルドであると、心の底では思い続けて
きたのである。
本当の父親がパルザム国王ウェンデルラントであることが分かり、
王太子候補として王都に迎えられてからも、
﹁育ての親はバルドである﹂
という思いは揺るがなかった。
ところがここにきて、バルドが養子を取ったという。
うれしいことはうれしいのだが、何やら自分とバルドのあいだに
割って入った目障りな存在のように感じ、いささかいまいましい気
持ちもするのが正直なところだ。
﹁そのカーズという男は、何歳ぐらいだ﹂
﹁さて。年齢の分かりにくい人物ですが、およそ二十五歳前後でし
ょうか。どうだ、マイタルプ﹂
﹁自分はもう少し若いかと思いました。二十二、三歳かと。しかし
時にひどく年齢を重ねているように感じることもありました﹂
﹁ふむ。シャンティリオン。お前は何歳だったかな﹂
﹁二十四歳です、殿下﹂
シャンティリオン・グレイバスター。
近年の王都での武芸大会で細剣部門の優勝を総なめにしている天
才剣士である。
ウェンデルラント王の配慮により、近衛隊長の座に就いてジュー
11
ルラントの護衛についていてくれる。ということは、将来の側近候
補として育てよという意味でもあるだろう。この男の技量や人格も
見定めておきたい。
﹁よし。シャンティリオン。カーズの技のほどを見極めよ。お前が
第五部門で優勝したあと、お前とカーズの模範試合を組む﹂
﹁は﹂
これでいい。シャンティリオン相手に多少は善戦するようなら、
バルド・ローエンの息子を名乗る資格がある。そうでなければシャ
ンティリオンが痛めつけてくれるだろう。
そうだ。もう一つやっておかねばならないことがある。
本人と会い、バルドの弟子としてはこちらのほうが兄貴分なのだ
と教えておく必要がある。
﹁よし。ザイフェルト、ご苦労だった。下がれ﹂
﹁はっ﹂
﹁誰か。バルド・ローエン卿と養子のカーズ・ローエンを呼べ﹂
ザイフェルトが下がり、侍従がバルド・ローエンを呼び出しに行
ったあと、ジュールラントは目の前に椅子を置かせた。一瞬だけと
まどいを見せて、侍従が椅子を用意した。
今、この部屋は実質の王太子たるジュールラントの執務室にひと
しい。その執務室でジュールラントに対面して椅子に座るなど、王
族や公爵にさえめったに許されないことである。
ふ
しかしながら、バルドはジュールラントの師父である。王国の制
度になぞらえていえば、︿傅﹀であるといってもよい。つまり教育
係であり、人材登用や施策方針について助言を与える立場の人物に
ひとしい。王であろうが王太子であろうが、おのれの師父には最大
限の敬意をもって接するものだ。
ジュールラントは椅子を置かせることによって、バルドが何者で
あるかを表現したのである。
パルザムの王子となった自分が、師匠のバルドと再会するのであ
る。それなりの舞台を調えなくてはならないではないか。
12
もうすぐ、バルドがこの部屋に来る。
あのしわだらけで傷だらけの顔を見ることができる。
不思議と人に元気と勇気を与えてくれる顔だ。
深い喜びと安心を与えてくれる顔だ。
そしてまた自分も、かつてとは変わった。
王都に着いてしばらくは、与えられる課題を必死でこなすだけの
生活だった。近年の王たちが取り組んできたという改革も、その方
向性や意味は理解できたが、もうひとつ共感できなかった。
しかし、バリ・トードから、王都の貧民たちの実態を教えられ、
ジュールラントの心は決まった。王都では豊かな者は豊かだが、貧
しい者は徹底的に貧しい。寒い冬の貧民街には凍死者や餓死者の死
体が転がるという。王都でさえそうなのだ。まして貧しい村々の生
活は厳しい。
貧しい者を豊かにすること。それこそがジュールラントの目指す
ものである。そのためには国全体の豊かさがさらに底上げされる必
要がある。そのためにこそ、歴代王の改革は有効である。
今のジュールラントは辺境にいたころのジュールラントではない。
大きな志を立て、それが実現できる立場に立ち、そして大陸中央の
政治について研鑽を積んで成長した身なのである。
バルドはその成長ぶりに気付くだろうか。
気付くにちがいない。
そしてその成長ぶりを喜び、誇らしく思ってくれるだろうか。
もちろんそうにちがいない。
﹁バルド・ローエン卿とカーズ・ローエン様がおみえになりました﹂
ジュールラントは、ゆるみかけた顔を引き締め、強い目つきを作
って言葉を発した。
﹁入れ﹂
︵了︶
13
カムラー[終章読了後推奨]
大陸暦4287年2月1日
1
バルドはもうすぐ旅に出る。最後の旅に。
そして再びこのフューザリオンには戻って来ない。
カムラーにはそういう予感があった。
カムラーの予感はたいてい当たる。
??わしは何をバルド様への餞別にできるだろうか。
何ができるかといっても、料理のほかにカムラーにできることな
どない。
いや。
本当にそうだろうか。
このフューザリオンの未来の姿を。輝かしき希望を。その一端を。
バルド・ローエンに垣間見せることができるのではないか。
それは何よりのはなむけとなるだろう。
カムラーは、にやりと笑った。
2
カムラーの父は貴族だった。
母は正式の妻ではなかった。
母が病気になったとき、父は見捨てた。家にいた使用人たちは、
14
すべて引き上げられ、援助は打ち切られた。
母が死にかけるころ、家には金も食べ物もほとんどなかった。
ブイユ・ウー
いよいよ母の命が尽きようとするとき、何か欲しい物はないかと
訊いた。
コルコルドゥルの卵を牛の乳の油で焼いた料理が食べたいと母は
言った。
カムラーはなけなしの金で卵と油を買って、見よう見まねで料理
した。
﹁おいしい﹂
母は笑った。
﹁カムラー。人を思いやる心を、いつまでもなくさないでね﹂
そのひと言を残して母は死んだ。
素人のカムラーが作った料理など、本当においしいはずもない。
それでも母は死ぬ前に幸せを味わったのだと、カムラーは感じた。
??死ぬ寸前にある人間を、食べ物は幸せにできる。なんて素晴ら
しいことだろう。
そう感じたカムラーは、そのときすでに料理人としての道を歩き
始めていたのだろう。
3
カムラーはとある貴族家の使用人として雇われることができた。
くりやがしら
その家でカムラーは師匠に出会った。
師匠は偏屈でわがままな厨頭だったが、カムラーの味覚が鋭いこ
とを見抜き、弟子として育ててくれた。
師匠の指導は厳しかったが、カムラーはその教えを熱心に吸収し
ていった。
﹁いいか、カムラー。天地のあいだにある食べ物はみんな、神様の
おめぐみだ。考えてもみろ。ちっぽけな若葉が大木に育って木の実
を落としてくれるんだ。不思議なことじゃねえか。山には木の実が
15
生り、森には獣が生まれ、川には魚が泳いでいる。それを人間が取
って売り、金さえあれば何でも好きな物を買って食べることができ
る。ありがたいことじゃないか。たった一個の木の実でも、食べら
れるようになるまでには、神様が大変な手間暇をかけておられるん
だ。食べ物を粗末にするくらいもったいないことはないぞ。それは
神様と人間の骨折りを無駄にすることだ。分かるな﹂
カムラーは、その通りだと思った。
食べ物はすべて神々の恵みだ。まずく料理してその価値を損なう
など、あってはならないことだ。人間はどんな食べ物も、最高の状
態に料理して食べる義務がある。
﹁いいか、カムラー。人間には三つの幸せがある。一つは、たくさ
んの財産を手に入れることだ。財産がたっぷりあれば、何でも買え
るからな。二つは、健康で長生きすることだ。いくら財産があって
も病気で何にも食べられないんじゃしかたがないし、早死にしたん
じゃ人生を楽しめない。それから三つは、立派な人間になって人様
のお役に立てることだ。分かるな﹂
よく分からなかったが、カムラーはうなずいた。
﹁ところが世の中には勘違いしているやつらがいる。ため込んだ財
産を守るのに必死になって、金の使い所を知らねえやつ。病気やけ
がが怖くて屋敷に閉じこもっているやつ。身分が高くなればそれが
偉いんだと勘違いしているやつ。そうじゃねえ。人間の価値は身分
で決まるんじゃねえ。その身分の中で何をしたかで決まるんだ。分
かるな﹂
まったく分からなかったが、カムラーはうなずいた。
﹁だからな。財産を得たら、料理にこそ費やすべきなんだ。そうだ
ろう? いい料理を食えば機嫌もよくなるし、体の調子もよくなっ
て長生きできる。それにいい料理を人に振る舞えば、それだけでも
世の中にいいことをしたことになる。分かるな﹂
少し違うのではと思ったが、カムラーはうなずいた。
﹁本当にいい料理ってのは、体にいい料理なんだ。うまいことはう
16
まいけれど体にはよくないってのは、本当にいい料理じゃあない。
それは舌先のうまさに過ぎん。本当のうまさは体全体で味わうもの
なんだ。分かるな﹂
これは本当にそうだと思ってうなずいた。
﹁食べる人間の体調や心の状態によっても、感じるうまさは違うし、
元気づける料理を作るのか、心のなぐさめになるような料理を作る
のかで味付けも違ってくるんだ。分かるな﹂
分からなかったが分かりたいと思ってカムラーはうなずいた。
﹁要するに料理ってのは思いやりよ。相手を思いやる心が深ければ
深いほど、いい料理人になれる。食べる人間に今必要なものは何か
を見抜いて素材と料理法を瞬時に組み立てできるやつこそ、本当の
料理人よ。料理を食べた人間の心と体の調子を調えるのが、本当の
料理人なんだぜ﹂
この厨頭のどこに他人への思いやりがあるんだと疑問に思ったが、
カムラーはうなずいた。
その後段々と、厨頭の言葉の意味が分かるようになった。
そうだ。
本当の思いやりを持つ者にしか、本当にうまい料理を作ることは
できない。
本当にうまい料理とは、その人の命の調子を調え、その人が最大
限の力を発揮できるようにするものなのだから。
ということはである。
本当にうまい料理を作れる料理人とは、すなわち最高に深い思い
やりを持った人間だということである。
こうしてカムラーの精進が始まった。
4
いつしかカムラーは厨頭として名を知られる存在になっていた。
いくつもの貴族家を渡り歩いた。
17
これは普通のことではない。
腕のいい料理人なら雇った貴族家は手放しはしないし、他の貴族
家を追い出されるような料理人なら、自家に雇い入れようとはしな
いものだからだ。
ところがカムラーは特別だった。
一つにはその料理の腕と知識において。一つには、わがままさに
おいて。
もっともカムラーにいわせれば、それは少しもわがままさなどで
はない。よい料理を作るにはよい素材が必要だし、よい器具が必要
だし、よい食器が必要だ。
そうしたものは、調えるのは大変だが、いったん調えてしまえば
長く良好に使える。むしろいっときの金を惜しんで安く間に合わせ
の物で済ませれば、何度も何度も同じような手間をかけることにな
って、結局高くつくのだ。
﹁そうはいうがな、カムラー。わざわざお前の言う通りの条件で牛
を育てろなどというのは、いかにも無理だ。それに銀のナイフにフ
ォークだと。そんな物をそろえるのに、どれだけ金がかかると思う。
そのほかにも、南方のありとあらゆる香辛料をそろえろなどと。わ
が家の府庫が傾いてしまうわ﹂
それでも、食材や食器については、ある程度無理も聞いてもらえ
た。
うまい料理を出せるということは、何といっても外交の上で最大
の武器であったからである。
だが、料理の出し方については、どこの貴族家でも伝統を固守す
ることを強制した。
﹁一皿ずつ盛りつけて料理を出すだと! 馬鹿者っ。何を考えてい
るのか。そんな庶民のようなもてなしができるものか。豪勢なもて
なしは、皿数も決まっている。その皿数の料理をテーブル狭しと並
べ立ててこそのもてなしではないか﹂
そんな守旧的な方法では温かい料理を温かく、冷たい料理を冷た
18
く供するという、基本中の基本のもてなしができない。
不思議なことに、親しい身内が集まる会食では一皿ずつ料理を出
しても何の文句も言われない。そしてそれを食べたからには、料理
を最上の状態で食べるという喜びを存分に味わったはずなのである。
だというのに、大切な客が来たときには、伝統に従って見栄えば
かりを重視した料理の出し方を強制される。味とは何の関係もない
飾り付けにばかり力を入れた盛りつけをして。
それは無駄だ。食材の無駄であり、神々のみわざと恵みへの冒涜
だ。
どうしてもカムラーは妥協したくなかった。
ゆえにカムラーは解雇され続けた。解雇され続けたということは、
雇い続ける者もいたということである。それほどにカムラーの料理
は魅力的だった。
だが雇ってみればカムラーは厄介な使用人だった。あまりに自分
勝手な要求をしすぎる。だから自家の料理人がカムラーの技術や知
識のなにがしかを学んだあとは、やはり解雇してしまうことになっ
た。
そんな遍歴に、カムラーはへこたれなかった。
へこたれないどころか、各地の貴族家を回るうちに、各地の特産
品や独特の味付けなども学び、南方の珍しい食材や香辛料について
も一層知識を深めた。
そしてカムラーがたどりついたのが王都のトード家だった。
トード家は鷹揚な家風で、カムラーはいささかの自由を味わった。
だがそうであるほどに、パルザム王国での料理人生活に限界を感じ
た。
??どこかに、もっと豊かで無限の食材に満ち、わしが思う存分腕
をふるい、人々に喜んでもらえる場所があるのではないか。
そんな思いが次第にふくらんでいった。
バルドとの出会いは天啓的であった。
こんなにも素直に、こんなにも繊細に、カムラーの料理を味わっ
19
てくれた人はいない。
こんなにも率直に、こんなにもあけすけに、料理人ごときと意見
を戦わしてくれた人もいない。
しかもバルドのいる所には各国の英傑たちが集まり、彼らはカム
ラーの料理に舌鼓を打った。
これほど料理人であることの誇らしさを感じさせてくれた人もい
ない。
??やがてバルド様の行き着かれるところ。そこにこそわしの運命
がある。
カムラーはそう信じるようになった。そしてそれは正しかった。
カムラーは労苦を押して長旅をし、フューザリオンにたどり着き、
そここそ天地が与えたカムラーの働き場所であると確信したのであ
る。
フューザリオンの何もかもが素晴らしかった。
見たこともない新鮮で素晴らしい食材の数々。
空を飛ぶものも、地を駆けるものも、水に泳ぐものも、大地から
生えるものも、カムラーにとってはすべて食材だった。
およそ無限の食材が、カムラーを待っていたのである。
フューザリオンの府庫を差配するドリアテッサは、カムラーに寛
容だった。
食器も貯蔵庫も氷室さえも、そのときのフューザリオンの経済と
人手でかなう限りのものを、カムラーは与えられた。
ドリアテッサの命令は簡単至極だ。
﹁外国のどのような使節がみえても恥ずかしくないような、いえ、
目をみはり驚嘆するような食文化の花を、フューザリオンに咲かせ
なさい。食材も、調理法も、盛りつけも、供するその仕方も、前例
にとらわれず、あなたが最高と思えるやり方を追求しなさい。フュ
ーザリオンは新たな伝統を創出し発信する場となるのです。財は惜
しみません。人手も必要なだけ与えます。そしてあなたは高齢の身。
いつ死ぬかも分かりません。後継者を育てなさい﹂
20
カムラーは奮い立った。
そしてあまたの料理を生み出し、多くの弟子を育て、フューザリ
オンの客の舌を満足させ、民衆の健康を増大させた。
だがなんといっても、カムラーにとって最大の食べ手は、バルド
だった。
バルドの舌だけはごまかせない。わずかな手抜きも見抜かれてし
まう。どんな客よりもバルドは手強かった。
そしてそんなバルドがぐうの音も出せない料理を作ることこそ、
カムラーの最高の喜びだったのである。
そのバルドがもうすぐ永遠にこのフューザリオンを離れてしまう。
気が付けばフューザリオンにカムラーがやって来て十一年目の新
年を迎えていた。
この十年間のために自分は料理の知識と技を磨いてきたのだと、
今ならいえる。
なんとも楽しい愉快な十年間だった。
そのかけがえのない十年間を与えてくれたのは、ほかの誰でもな
い。バルドである。
せめて希望を抱いて旅立ってほしかった。
5
おおくりや
味見をしてほしい新料理がある、という理由でバルドを大厨に呼
び出した。
今日は、各国からの修業者たちを、この領主家の大厨に集合させ
てある。
厨に来て見慣れない顔がたくさんあるのにとまどっているバルド
に、カムラーは紹介していった。
﹁こちらの十二人はゴリオラ皇国から修業に来ている者たちです。
そちらの八人はパルザム王国から、後ろの六人はその他の中原の各
国から、またその右側の五人は辺境の各大領主領から修業に来てい
21
る者たちです﹂
﹁おお、そうか。皆、ご苦労なことであるな。しっかり修業してい
ってくれ﹂
そのあと、一人一人の名を呼んで修業の進み具合を簡単に説明し
ていった。バルドは終始機嫌よく、うむうむとうなずいていた。
そのあと厨頭の部屋にバルドを招き入れると、びっくりしたよう
な顔でバルドは言った。
﹁いや、料理修業の人間が増えておることは時々に聞いておったが、
ずいぶんな人数になっておったのじゃなあ﹂
﹁はい。当家が料理修業の人間に門戸を開いていると知り、パルザ
ム、ゴリオラ両国の王家や大貴族家から、修業の申し込みが引きも
切りませぬ﹂
﹁それにしても、顔ぶれがずいぶん若いようであったが﹂
﹁はい。最初はすでに充分な経験を積んだ料理人を修業によこした
のですが、それでは短期間に修業が終わってしまい、フューザリオ
ンにとってうまみがありませんし、わたくしも教えがいがありませ
ん﹂
﹁おお。前にもそういう話があったな﹂
﹁はい。だから、各国にはこのように伝えたのです。本当にフュー
ザリオンの料理法を学ぶには、十年かかる。十年の修業に耐えられ
る若くて才能のある料理人だけを、フューザリオンは受け入れる。
そして十年の修業が終わったら、一年のあいだお礼奉公をすること
が条件であると。十一年のあいだは、食べる物と着る物と住む所は
フューザリオンが世話すると﹂
﹁つまり給料は払わんということじゃな。ああ、それで、わりと初
心の者もいれば少し修業の進んだ者もいたのじゃな。なかなか十一
年は終わらんから、だんだん人数が増えるわけか。心強いのう。そ
れはいいが、カムラー。お前いったいあと何年生きるつもりじゃ﹂
﹁わたくしが死んでも約束は残ります。つまり若くて有能な料理人
たちを大勢、十一年間はただで確保できるわけです。彼らには順番
22
にフューザリオンの各街、各村を回ってもらっております。フュー
ザリオン全体が、彼らの恩恵を受け続けるわけですな﹂
﹁なんということじゃ。お前は骨の髄まで悪辣にできておるのう。
いっぺん腹を切り開いて中の色を見てみたいわい。ところでその十
一年は、十五年にはならんかのう﹂
﹁その手をわたくしも考えておりました﹂
ふふふふ、とバルドとカムラーは黒い笑みをかわした。
ここで修業をした料理人たちは、やがて自分の国に帰って活躍す
る。
そしてフューザリオン式の料理とそのサービスのしかたを各国に
広めるだろう。
それは単に料理の技法にとどまらず、食材の加工法、調味料の製
法、給仕の訓練のしかた、食器の形状や食事の作法にいたるまで、
フューザリオンの食文化が大陸を席巻するということである。
そうだ。
時間と機会さえあれば、より優れたものは広まらずにはいないも
のなのだ。
また、ここで修業した料理人たちは、フューザリオンの活力、無
限の資源、その発展力のすさまじさをも心に焼き付けていくだろう。
気高いもの。真に豊かで力強いもの。古き国々からは失われてし
まった清冽で生き生きとした生命の息吹が、このフューザリオンに
はある。そのフューザリオンの息吹を浴びて、古き国々も新たな生
命を得ていくだろう。
料理人たちの修業の様子を通じ、バルドにそんな未来図を思い描
いてもらえたなら、とカムラーは思ったのである。
そしてカムラーもすでに老齢であるが、人生の最後の一瞬まで、
フューザリオンの食文化を高めるための努力を続けるつもりである。
その覚悟のほども、示しておきたかったのである。
その三か月後、バルドはカーズとジュルチャガを従えて最後の旅
23
に出た。
それを見送るのが許されたのは、身内の者だけである。
カムラーは、こっそりとその出発を見送ったのだった。
︵了︶
24
テンペルエイド[終章読了後推奨]
大陸暦4307年のある日
1
﹁起きろ、こら﹂
テンペルエイドが太ももを蹴飛ばすと、ガルクス・ラゴラスは目
ふなべり
を覚ました。
船縁に背を預けてうたた寝していたのだ。
﹁眠ってなどおりません。
いささか思案をしていたのです﹂
そう言いながらガルクスが立ち上がろうとした瞬間、船が大きく
揺れた。
テンペルエイドは難なくバランスを取ったが、ガルクスは足をも
つれさせた。
それでも倒れるようなぶざまなまねはせず、二、三歩足を送って
踏みとどまった。
腰に吊った剣が大きく揺れる。
二十年前、テンペルエイドが剣匠ゼンダッタに頼み込んで鍛えて
もらった逸品だ。
以来ガルクスはどこに行くにもこの剣を手放さない。
25
先週の河賊退治では、親玉の頭を唐竹割にしていた。
兜ごとである。
並の剣と腕でできるわざではない。
それでも十年前なら少々疲れたからといって居眠りなどしなかっ
たし、わずかな揺れでふらつくこともなかった。
??この男も年を取った。
ふいにテンペルエイドは思った。
今こそ南征を行うべきではないかと。
そのことは、この二十年いつも頭にあった。
だが、そのたびに、まだ機が熟していないと思いとどまってきた
のだ。
??だが、今行かねば、もう行くことはできぬかもしれん。
テンペルエイドは今年四十八歳になった。
ということは、ガルクスは五十七歳であり、もうとうに引退して
いてよい年なのだ。
南征は、おそらく一年や二年ではできない。
五年、あるいは十年もかかる旅になるかもしれない。
そういう無謀な冒険に船と人と食料を出すだけの豊かさが、今の
アギスにはある。
??生きているうちに世界の果てを見たい。
そのとき俺の供をする者は、こいつ以外に考えられん。
﹁おやじ。
進路はアギスに向けたぜ。
それでいいんだな﹂
26
後ろでハストエイドが言った。
﹁うむ﹂
振り返って返事をしながら、ハストエイドを見た。
その横には、クラムエイドとタベルエイドがいる。
??問題は三人の息子たちのうち、誰を連れて行くかだな。
いよいよ南征に乗り出すなどといえば、三人とも絶対について行
くというに決まっている。
だが帰って来れないかもしれない旅なのだ。
跡継ぎ全員を連れて行くわけにはいかない。
長男のハストエイドを残すのが順当であり、最も安心なのだが、
この男は置いていくなどといえば、剣を取って反抗しかねない。
荒々しい気性であり、冒険にはこれ以上なく向いた性質をしてい
る。
悪いことに、本人もそれをよく知っている。
ノーラが留守を守ってくれるのだから、クラムエイドとタベルエ
イドを残していっても、さほど心配はないだろう。
クラムは十八歳、タベルは十六歳であり、未熟ではあるが、逆に
未来は長い。
第二世代の家臣たちも育ってきているから、ここらで責任を持た
せるのもよいかもしれない。
ガルクスの二人の息子、アルダとスクーザが支えてくれるだろう。
ただしアルダもスクーザも、留守番はもうこりごりだと言ってい
た。
27
この航海が終わったら、親父が館に残って俺たちが船に乗る、と
決め込んでいたから、留守番をさせるには、相当強く言い含めなけ
ればならない。
そもそも、ノーラがどう出るか、心配だ。
おとなしく留守番をしてくれるだろうか。
私を連れて行かなければ金は出さない、などと言い出しはしない
だろうか。
困ったことに、誰も彼もが冒険好きだ。
︿冒険伯﹀テンペルエイドの家族や家臣としては、これ以上なく
ふさわしいのかもしれないが。
自分では︿冒険伯﹀などと名乗った覚えはないのだが、自領の民
も、リンツやパデリアやトライの人々も、なぜかテンペルエイドを
そう呼ぶ。
伯爵を自称するようになったのが十年前のことだ。
そのときから︿冒険伯﹀と呼ばれている。
いったい誰が考えた呼び名なのだろう。
今や︿冒険伯﹀の名はオーヴァの守り神のように口にされ、商船
は︿冒険伯﹀の旗を掲げる。
そうすれば賊も恐れをなすと信じられているのだ。
2
ノーラフリザ姫を妻に迎えたのは、大陸暦四千二百八十七年のこ
とだ。
28
バルドに妻の世話を頼んだのだが、まさかゴリオラ皇国の伯爵の
姫などが輿入れしてくるとは、夢にも思わなかった。
だが、ノーラは素晴らしい妃だった。
美しく聡明であることももちろんだが、小国が買えるほどの持参
金と、三百人におよぶ家臣団を引き連れて嫁入りする姫など、ほか
のどこにいるだろう。
ノーラはやり手だった。
やり手すぎてゴリオラの貴族たちの利権を鼻先でかすめ取るよう
なまねをしたからこそ、アギスなどという辺鄙な土地の素性も分か
らない貴族のもとに嫁いでくることになったのであるが。
テンペルエイドは妻と同志を同時に手に入れたようなものだった。
しかもノーラはドリアテッサの従妹であり、二人はフューザリオ
ンとアギスが互いに発展するため、絶妙の呼吸をみせた。
ガルクスも、ノーラの侍女の一人と結婚したのである。
みなと
アギスはオーヴァのほとりに津を築いた。
フューザリオンはアギスまで広い道路を作り、また、リンツから
中型船を購入した。
それをアギスに貸し与え、貿易をはじめさせたのである。
テンペルエイドとガルクスは、押し出されるように船でオーヴァ
に乗り出した。
それは素晴らしい世界だった。
船の冒険は、テンペルエイドの気質に合っていた。
ありがたいことに、ノーラの連れて来た家臣団の中には船大工が
いた。
皇都近辺の湖を走らせる小型船しか作ったことはなく、時に暴風
が吹き荒れるオーヴァを渡る船を作るには研究が必要だったが、リ
ンツから買い入れた船が教科書となった。
29
ノーラは大型船を作りたがったが、テンペルエイドは違う意見だ
った。
やたらに多くの荷を積めても、船足の遅い船では役に立たない。
とにかく高速の船を作ることをテンペルエイドは求めた。
十年後、それが正しかったことが証明される。
フューザリオンが貿易に乗り出すと、リンツもパデリアも競い合
みなと
うように多くの貿易を求めた。
ゴリオラ皇国も新たに津を築いた。
そうすると、商船を襲う河賊がはびこるようになった。
彼らに対抗するには、高速船こそが有効だったのである。
もっともそうなるまでには少なからぬ苦労があった。
アギスとリンツのあいだの広大なオーヴァは、まったく未知の世
界であった。
見たこともないような亜人の住みかもあったし、巨大な水棲の獣
にも襲われた。
その冒険を経て、アギスはオーヴァに君臨する水の上の帝国を築
いていったのだ。
そうして名を上げ財をなした今、テンペルエイドの心には、ある
ことが引っ掛かっている。
それは、オーヴァの南には何があるのか、ということである。
オーヴァの南には、三つの大領主領がある。
大陸中央側にもいくつもの国がある。
それらの地方で採れる香辛料は大陸中央では非常に高価であり、
リンツを経由して売買することで、アギスも莫大な利益を得てきた。
だが、確認されているのはそこまでだ。
ずっと南には、人が踏み入ることのできない密林があるといわれ
ている。
では、その向こうには何があるのだろう。
30
踏み込めない密林といっても、それは陸地の話であり、水路を進
むならどうか。
それをいつの日か確かめたいと、ずっとテンペルエイドは思って
いた。
いつの日か、南征を。
それはテンペルエイドの悲願であるといってもよい。
なぜテンペルエイドは南征にあこがれるのか。
ジャン・デッサ・ロー
かつてバルドから、こっそり教えられたことがあるのだ。
︿大障壁﹀の外に何があるのかを。
飛竜に乗って大障壁の外を見たのだと、バルドは言った。
テンペルエイドの心には、バルドが語る外の世界が焼き付いた。
ユーグ
大海よ!
見渡す限りどこまでも続く塩辛く青い水の世界。
その感動は見た者にしか味わえないという。
ああ!
ああ!
ユーグよ。
テンペルエイドは、ユーグをその目で見たいと思った。
しかし飛竜を呼び寄せることも、その背に乗って飛ぶことも、人
間にはできない。
では、人間は決してユーグを見ることはできないのか。
バルドがぽそりとこう言うのを、テンペルエイドは聞き逃さなか
った。
﹁オーヴァの南の果てには、何があるのかのう﹂
31
考えたこともない問いだった。
オーヴァの南の果て。
オーヴァはどこまでもオーヴァなのではないか。
いや。
そうではないかもしれない。
オーヴァを流れる水の量はまことに想像を絶するほどの量である。
その膨大な水は、すべて下流に流れている。
下流にいくほど、いくつもの支流が流れ込み、オーヴァは太る。
下流にいくほどオーヴァは広大さを増すのである。
では、その水はどこに行くのか。
そして、大障壁。
大障壁は、陸地をくまなく取り巻いている。
だが、オーヴァの上は、どうか。
はるか下流の恐ろしく広大なオーヴァの上を、支えるものもなく
大障壁が走るというような、そんな理に合わない話があるだろうか。
また、大障壁がオーヴァをさえぎっているならば、流れ着く水は
そこでせき止められ、世界は水浸しになっているはずではないか。
もしかすると。
もしかすると、オーヴァの上では大障壁は途切れているかもしれ
ない。
だとすれば。
だとすれば。
オーヴァを下ってゆけば、ユーグに出られるのではないか。
ユーグに出られたならば、その向こうにある果てしない世界を冒
険できる。
他の大陸にさえ、行き着くことができるかもしれない。
その思いはテンペルエイドの胸に住み着き、離れることがない。
32
南征こそ、テンペルエイドの最後にして最高の冒険となるだろう。
3
??今、シェサ領は、どうなっているだろうかなあ。
四千二百七十八年に、フューザリオンの西側に移住してきて以来、
振り返ることのなかったふるさとのことを、最近時々想うようにな
った。
シェサ領はボーバードのずっと南側にある小さな領地だ。
街というより大きな村というのがふさわしい。
だが幼いころには、それが世界のすべてだと思っていた。
テンペルエイドはその領地の領主の長男であった。
だが、テンペルエイドの実母は、テンペルエイドの弟に領主を継
がせたがった。
だからテンペルエイドは死んだふりをしてシェサ領を捨てたので
ある。
偽装を見破りテンペルエイドについてシェサを捨てた物好きな騎
士が、ガルクス・ラゴラスである。
その出奔を助けてくれたのがバルドだった。
テンペルエイドは霧の谷の東北にあるアギスという小さな村にた
どり着き、妙なことにその領主となった。
だがテンペルエイドの生存は母の知るところとなり、母は刺客を
差し向けた。
領主としての責任と、母への孝とのあいだで煩悶するテンペルエ
33
イドに道を示してくれたのは、またもバルドだった。
バルドの勧めに従い、アギスの村人を連れて、はるか北方の現在
地に新生アギスを築いたのである。
そこは別天地というべき豊かな土地で、テンペルエイドは忙しく
厳しい開拓生活に明け暮れながらも、心からの安心を覚えた。
アギスとテンペルエイドの転機となったノーラ姫との結婚も、バ
ルドの世話によるものである。
考えてみれば、いや、考えなくても、バルドには恩がある。
厚く果てしない恩がある。
できれば結婚式には出てほしかったのだが、あいにくバルドは旅
に出ていた。
旅先で、また誰かを助けているのだろうか。
テンペルエイドや、ほかの人々を助けてきたように。
結婚から二十年が過ぎた。
最後にバルドと会ってから二十年が過ぎたということでもある。
今度の旅はずいぶん長い旅のようだ。
今もバルドは、カーズとジュルチャガを連れ、北部辺境を旅して
いるに違いない。
そうだ。
今もきっと、バルドは旅を続けているのだ。
バルドは北に行った。
テンペルエイドは南に行く。
その二つの旅は、新しい世界を切り開くものとなるだろう。
??バルド殿。
よい旅を。
34
はるかフューザに向かって、テンペルエイドは祈った。
︵了︶
35
ニド[第5章第3話読了後推奨]
大陸暦4273年1月18日
1
騎士ニド・ユーイルは、自分がまだ生きているのに気が付いた。
しばらく気を失っていたようだ。
物音がひどく遠い。
おかしい。もしかして、皆死に絶えてしまったのか。ロードヴァ
ン城は魔獣たちに支配され、自分は生きている最後の人間になって
しまったのか。
そうではなかった。
人の声が聞こえる。生きている怪我人を探しているようだ。見込
みのある者には手当もしているようだ。
そんなことをするゆとりがあるということは、城の中に入り込ん
できた魔獣たちは撃退できた、ということだ。
ニドは体を動かそうとしたが、体は言うことを聞かない。しばら
く無駄な努力をしたあと、あがくのをやめた。
耳はまともに聞こえないし、体は少しも動かない。ところが不思
議なことに、痛みはまったく感じない。すべての感覚はぼうっとし
て、奇妙なぬくもりさえ感じる。
これはおかしなことである。なぜなら、ニドは全身に傷を負って
いる。背骨は折れ、内臓はつぶれているはずなのだ。
??これが話に聞くヤンエロの恩寵か。
36
人が死ぬとき、その功罪を取り調べて処遇を決めるあいだ、正義
と真実の神ヤンエロはすべての苦痛を取り去るという。苦しみから
解放された自由さのなかで、人はおのれの一生を振り返るのだ。
??悪くない死に方だ。
︿鼻曲がり﹀ニドは、そう思った。
2
ユーイル家は、ゼンブルジ伯爵家の子家の中でも、ごく小さい規
模の家だ。領地はなく、財産も家臣も少ない。
しかし代々のユーイル家当主は、武勇と忠誠で王国に名を轟かし
てきた。ニドの父も祖父も王直々の褒詞を受けたことがある。それ
はユーイル家の名誉の歴史の中でもことさらに輝かしい一幕だ。
ニドも幼少のころから武芸と学問をたたき込まれた。
当初ニドはバリアンクィズガルに仕えるのだと思っていた。しか
しバリアンクィズガルが家を出たため、その弟であるサワリンクィ
ズガルがトード家の当主となってゼンブルジ伯爵を嗣ぎ、騎士に叙
任されたニドは伯爵に仕えることとなった。
伯爵は、才気煥発というわけではなかった。しかし身近に接して
みると、思慮深いあるじであり、必要なことを怠りなく進めてゆく、
模範的な領主だった。
ニドはこのあるじに仕えることを誇りに思い、あらゆる災厄から
あるじを守れる働きができるよう、神々の中の神コーラマに毎夜祈
った。
パルザム王国は、歴代の英邁な王のもと、いささかの危難を経つ
つも、順調に領土を拡大し、ますます繁栄してきていた。
37
ニド自身も、何度か他国との戦いに参戦し、手柄を上げた。
宿敵カリザウ国を平らげたウェンデルラントが王位に就いたとき、
ニドは快哉を叫んだ。
それは、ウェンデルラント王が名君の香りをただよわせていたか
らばかりではない。与党というものをほとんど持たなかったウェン
デルラント王子を陰に日なたに扶助しつづけた数少ない勢力の一つ
がトード家であったことは、隠れもない事実であったからである。
??これからトード家が日のあたる場所に出る。
ニドを始め、トード家の子家や家臣はみな喜びに沸き立った。
ニドは引退した父に代わり、当主の側仕えとなった。
側仕えはもう一人いる。子爵家の跡取り、フスバン・ティエルタ
である。豪放なニドと几帳面なフスバンは、不思議とうまがあった。
フスバンは、爵位持ちの家であることを鼻に掛けることもなく、二
歳年長のニドを年長者として立てた。
ディガー
ある日あるじは、ニドとフスバンを驚喜させる知らせをもたらし
た。
﹁今日、王陛下からご内示があった。王子殿下の︿傅﹀たる騎士殿
を王の賓客として王都にお招きすることになったのだが、わが家が
その止宿先に選ばれた。わが兄バリアンクィズガル上級司祭が接遇
役だ。ご到着は何か月か先のことになるだろうが、王都ご滞在中は
わが家に逗留なさる。心して準備にあたれ﹂
なんという名誉か。
王の賓客の宿を命じられるとは。
しかもその賓客とは王子殿下の傅であるという。傅というのは、
王太子ないしそれに準じる人に王がつける教育係であり、後ろ盾で
もある。多くの場合、傅に任じられた騎士は、その王太子が即位し
たのちも、助言役として重用される。
かつては正式の役職であったのだが、有力な王子にそれぞれ傅が
付けられ、傅同志のあいだで凄惨な権力争いが起きるという事態が
続いたため、制度としては廃止された。しかし傅と呼ばれるような
38
立場の騎士が軽く扱われるわけはない。
何より、間違いなく王太子となられ、王となられるであろうかた
の恩師にあたる人物が王都に足を踏み入れるに際し、その世話役が
トード家に任されたということは、王家の信頼の深さを物語ってい
る。そのことを満天下が知ることになるのである。
ニドとフスバンは、屋敷を訪れたバリアンクィズガルに、バルド・
ローエン卿をもてなすについての心得を訊いた。
﹁バルド殿は、一見いかめしくみえるが、その実まことに気の置け
ないかたでな。従者はないか、いても少数だと思う。あまり格式張
ったお迎えはせず、ありのままのところで、こじんまりとおもてな
しするのがよいな﹂
ありのままでと言われたが、王の賓客をおもてなしする最低限の
準備はしなくてはならない。
ニドとフスバンは、侍従長と相談を重ね、別棟を改造し、庭の造
作に手を入れ、調度などはすっかり入れ替え、使用人を選抜し、準
備を進めた。
やがてロードヴァン城におもむいた王子から使者が発せられ、バ
ルド・ローエン卿の到着予定が知らされた。トード家では準備万端
を調えて、この賓客を迎えたのである。
??これは、武人だ。
それがバルド・ローエンに対する第一印象である。
ニドも食事を共にする機会があったが、バリアンクィズガルのい
う通り、飾らない気質の持ち主であり、子どものように無邪気に食
事を楽しんでいた。
歴戦の武人の風格と天真爛漫な表情が同居する不思議な人物であ
り、陰湿さをまったく感じさせないところにニドは安心した。
バルドが到着して数日たったある日、ニドはあるじから衝撃的な
言葉を聞かされた。
﹁今夜、ジュールラント王子がこの屋敷にみえられる。その場で王
子を殺せ﹂
39
3
聞き間違いかと思った。
だが、そうではなかった。
ニドもフスバンも、まったく理解ができず、王子弑逆という凶行
のわけを問いただした。
だが伯爵は、熱に浮かされたような目つきで、
﹁殺さねばならんのだ。王子を殺さねばならんのだ﹂
と言うばかりだった。
いったいどんな恨みが王子に、あるいは王家にあるというのか。
王子を殺したあと、誰が王の後継者となるのだろう。
この家はどうなってしまうのだろう。
﹁伯爵様。王子殿下を弑し奉ったのち、この家はどうなりましょう
か﹂
﹁分からん。罰せられるだろう。だが、王子を殺さねばならんのだ﹂
ニドは一瞬、自分の子を次の王にしたい王族とあるじは手を組ん
だのではないか、と思った。
だが、かりにそうであるとしても、自邸を訪れた王子を暗殺など
しようものなら、どんな高位の貴族にもかばいようがない。主立っ
た者は極刑に処せられ、家は取りつぶされる。どう考えてもこの凶
行がトード家のためになるとは思えない。
つまり、利益のためではなく、それどころか恐ろしい懲罰が待っ
ていることを承知で、あえて伯爵は王子を殺そうとしているのであ
る。
??それほどの恨みを、いったいいつのまにわがあるじは心に抱く
40
ようになったのか。
気付かなかった。知らなかった。
だがトード家当主の側近として、知らなかったでは済まされない。
知ることを怠った責めが、今まさに降りかかっている。
﹁お前たちも協力してくれるであろうな﹂
何と答えればよいのか。
肯定すれば、待っているのは地獄だ。
ニドは死ぬことになる。家族も汚辱の中で処刑されることになる。
だが、しかし。
大恩あるトード家当主にこの秘密を明かされ、それに背を向けれ
ば、祖先たちの名誉を踏みにじることになる。
どうすればよいのか。
何と返事すればよいのか。
いや。
考えるまでもない。
始めから返事は決まっている。
﹁どこまでも、お供つかまつります﹂
崖から飛び降りるような心持ちで、そう口にした。
﹁私も同じです﹂
隣で頭を下げているフスバンの言葉が、ひどく乾いて聞こえた。
あとは伯爵を信じるしかない。この暗殺に何らかの大義があるこ
とを。自分たちの死後その大義が明らかになって、おのれと家族の
名誉が取り戻せることを。
あわただしく、秘密裏に、王子暗殺の準備は進められた。
秘事は知る者が少なければ少ないほどよい。結局、計画の全貌を
知る者は、伯爵と、ニドと、フスバンの三人だけとし、九人の子飼
いの兵士には隠し部屋にクロスボウを持って待機させ、仕切りの壁
が落ちたら正面の貴人を射殺すよう命じた。
侍従長は、密談の間に王子を案内するようにという指示に驚いた。
何しろ椅子さえない部屋なのだ。椅子を置きましょうかと訊いてき
41
たが、そんなものがあれば邪魔になる。
﹁ローエン卿と秘密の談義をする短い時間だけ、密談の間をお使い
いただく。椅子は置かぬほうがよい。これはご当主からの指示だ﹂
侍従長は納得はしていないようだったが、命令にはうなずいた。
そしていよいよ王子が到着した。打ち合わせの通り、密談の間に
案内させる。
ニドとフスバンは案内役に回らなかった。王子の護衛には凡庸な
騎士は選ばれない。この身にまとう殺気を感知されないとも限らな
い。ぎりぎりの瞬間まで、顔は見せないほうがよい。これは伯爵に
もいえることである。
いっそ王子が部屋に入るなりクロスボウを射掛けさせてもよいの
だが、残念ながら仕切りの壁を落とすための仕掛けは、部屋の中に
入らないと操作できない。それにクロスボウでし損じたときには剣
でとどめを刺さなくてはならないから、やはりニドもフスバンも部
屋の中に入っておかなくてはならない。
﹁伯爵は部屋の外でお待ちください﹂
と提案はしてみた。
﹁馬鹿な。わしが首尾を見届けずにどうするのか。それに、わしが
部屋に入らずお前たちだけが剣を持って部屋に入るのは不自然すぎ
る﹂
という答えが返ってきた。
もっともな答えであり、勇気ある答えである。
さて、王子と重鎧の護衛二人が密談の間に入った。すかさず伯爵
とニドとフスバンも部屋に入ろうとしたが、扉の外に残った護衛に
止められた。
﹁バルド・ローエン卿のご到着を待って部屋に案内し、そのあとで
ご入室ください﹂
それでは部屋の中に邪魔者が増えてしまう。だがはっきりと指示
された以上、従わないわけにもいかない。
バルドと息子のカーズがやって来た。カーズは見るからに手練れ
42
だ。できればこの場にいてほしくなかったが、致し方ない。
カーズは帯剣のまま入室しようとしたので、伯爵がこれをとがめ
た。だが部屋の中にいた王子が騒ぎを聞きつけ、カーズに帯剣の許
可を与えた。
まずい。
部屋の中の護衛は厚い鎧を着て帯剣している。カーズも帯剣する
となれば、腕利きの敵三人が帯剣していることになる。
バルドとカーズのあとに続いて伯爵とニドとフスバンも入室しよ
うとした。するとニドとフスバンの帯剣を扉の前に立っていた護衛
がとがめた。
伯爵は猛然と抗議してみせた。
﹁無礼であろう!
わが家にお越しの貴顕をお守りするのに、わが家の騎士が剣を持
たずになんとする!﹂
必死の抗議である。その必死さが功を奏したのか、一名だけ帯剣
が許された。
ニドとフスバンは目線を交わした。フスバンがニドにうなずきか
け、自分の腰の剣を外す。ニドは帯剣したまま入室した。そしてフ
スバンが扉にかんぬきをかけた。
﹁何をする!﹂
護衛の騎士が声を上げ、部屋は一気に緊張した。
﹁殺せ!﹂
伯爵の命を受け、フスバンは扉横のろうそく立てを思い切り押し
込んだ。すると仕切り壁が掛けた絵ごと落ちて、クロスボウを構え
る九人の兵士の姿が現れた。
ニドは、ぴたりと壁に寄り添った。伯爵もフスバンも同じように
している。
九人の兵士は矢を放った。その矢は王子に殺到し、その命を奪う
はずである。
視線を転じたニドは信じがたいものを見た。
43
王子の正面にバルドが後ろ向きに立ち、体を大きく広げて飛び来
る矢を背中で受け止めているではないか。
そして王子の両脇に立つ重鎧の護衛騎士二人が剣を振り上げ、王
子に振り下ろそうとしている。
??何だ? 何が起こっている?
そのとまどいが、ニドの行動をわずかににぶらせた。
カーズが走り込んでジュールラントを蹴り飛ばし、二人の護衛騎
士を斬った。
重鎧ごと切り裂いたのである。信じられないような腕であり、剣
だ。
蹴り飛ばされた王子はといえば、正面の壁に激突するかと思いき
や、タペストリーが大きく両側に分け広げられ、その奧の空間に飛
び込んだ。
??いかん! 王子に逃げられてしまう。
ニドは剣を抜いて王子に走り寄った。そのニドの行く手をふさぐ
者がある。
バルドだ。
すさまじい威圧感を放っている。しかし丸腰である。
??どけ!
ニドは振り上げた剣をバルドにたたき付けた。
すると、あろうことか、バルドはニドの剣を左手で受け止めた。
??馬鹿な!
驚愕するニドの鼻面に、バルドの右こぶしが炸裂した。
そしてそのままニドは気を失ってしまった。
4
44
目が覚めたときには拘束されていた。
鼻から垂れ落ちる血に応急手当がなされ、ニドは尋問された。
﹁なぜ王子殿下のお命を縮め奉らんとした﹂
伯爵の命だと正直に答えた。それ以上のことはしゃべりようもな
かった。
ニドは目隠しをされて移動させられた。
連れて行かれた場所は、おそらく、いや間違いなく王宮の牢だ。
何度も尋問されたが、伯爵の命だということ以外、何も話すこと
はなかった。
鼻の治療はみずから断った。鼻は右に折れ曲がったまま固まって
しまうだろう。それでよかった。
伯爵はどうなったのだろう。フスバンはどうなったのだろう。家
族はどうなったのだろう。
伯爵とフスバンは生きているかもしれないが、間違いなく死刑に
処せられる。もちろんニド自身も極刑を免れない。
こうなってみると、王子を殺し損ねたのが残念でならない。
なぜ王子が死なねばならないのかは知らない。
だが、伯爵は、命と名誉と家とを捨ててまで王子の命を狙った。
そうしなければならない何かがあの王子にはある。
近衛騎士までが王子の命を狙った。これは尋常な事態ではない。
忠義厚い近衛騎士が命を狙うような何かが、あの王子にあるのだ。
この国に災いをもたらすような何かの秘密が、あの王子にあるのだ。
憎んでも憎みたりないのは、バルド・ローエンである。
バルドが邪魔をしなければ、王子の命は奪えていたはずなのだ。
バルドのせいで、伯爵もニドもフスバンも、無念のうちに死なね
ばならない。王子を討ち果たすという使命を果たせずに死んでいか
ねばならない。
ニドは薄暗い牢獄の中で、来る日も来る日もバルドを呪った。
そうして数か月がたったある日、ニドは審問官に呼び出された。
45
王陛下が身罷られ、ジュールラント王子が即位するため、大赦が
発せられることになるという。大赦にともない、ニドは死刑から労
働刑に減じられると審問官が告げた。
だがニドはそれを固辞した。
今のニドには極刑をあえて受ける以外、身の処し方はない。
何度か説得を受けたが、ニドはただ死刑のみを望んだ。
ある日、ニドはまたも尋問室に呼び出された。
そこに待っていたのは審問官ではなかった。
フスバンがそこにいた。
この同僚の顔を見るのは、あの夜以来初めてである。
そして忘れようはずもない老人がそこにいた。
バルド・ローエンである。
5
驚いたことにバルドは審問官や牢番を顎で使っている。彼らの態
度は至極丁寧であり、バルドが高位の身分を得たことを感じさせた。
いったい何が起きたのか。
その答えは、バルド自身から明かされた。
﹁わしは中軍正将に任じられた﹂
中軍正将!
その座は軍人の最高峰といってよい。どうしてこの老人が、その
ような高位にのぼったのか。
﹁ニド殿。フスバン殿。死刑を望んでおるそうじゃな。じゃが、そ
れは命の捨て所を間違っておる﹂
??貴様に何が分かる! 貴様こそ俺の命の捨て場を奪った人間で
46
はないか!
ニドは憤怒の目でバルドをにらんだ。目線で人が射殺せるなら、
このときニドはバルドを殺していたろう。
﹁今、未曾有の危機がパルザムを襲おうとしておる。ニド殿。フス
バン殿。わしに従え。わしに従い強大な敵と戦って死ね。パルザム
の民衆を守って死ね。しかしてトード家の名誉に花を添えよ﹂
この言葉はハンマーのようにニドの脳髄を打ち据えた。
戦って死ね。
強大な敵と戦って死ね。
パルザムの民衆を守って死ね。
トード家の名誉に花を添えよ。
それは何という強烈な言葉か。
??戦って死ぬことが許されるのか。しかもそれはパルザムの民衆
を守る戦いなのか。しかも、しかも。もはや地に落ち泥にまみれた
と思ったトード家の名誉を、わずかでも回復させることができると
いうのか。
その言葉には逆らいようのない魅力があった。
思わずニドは床に片足を突き、バルドに跪拝し、
﹁あなたのもとで命を捨てます﹂
と誓ったのである。
フスバンも同じように跪き、
﹁その死に場所に私をお連れください﹂
と言った。
﹁ではついてまいれ﹂
﹁お待ちください﹂
ニドとフスバンを連れ出そうとしたバルドを審問官が止めた。二
人は軍役刑に切り替えればバルド将軍に引き渡せるが、即位式はま
だ先のことであり、実際に大赦が発せられ手続きが済むまでは牢か
ら連れ出してもらうわけにはいかない、というのである。
﹁人形でも入れておけ!﹂
47
バルド将軍のたんかは心地よかった。
それからしばらくニドとフスバンは、バルドの秘書を務め王宮内
を走り回った。
居心地のよい役割とはいえなかった。王宮の者たちにはニドとフ
スバンの罪状を知っている者もいて、陰で噂を立てた。ニドとフス
バンには冷たい視線が突き立った。
だがやがてアーゴライド家のナッツ・カジュネルがニドとフスバ
ンに代わってくれた。ニドでさえ名を知るこの騎士を、どうやって
バルドはアーゴライド家から借り受けたのだろう。
それからはニドとフスバンは、資料のまとめや物品の管理にあた
った。
ずっと王宮の部屋で過ごせるよう、バルドが計らってくれた。
トード家に帰るか、とは一度も聞かれなかった。そのことがあり
がたかった。
やがて準備の時間は終わり、ニドとフスバンはバルドについてロ
ードヴァン城に向かったのである。
6
ロードヴァン城では数々の驚きがニドを待っていた。
最初の驚きは、バルドとジョグ・ウォードの決闘である。
このときニドは心の中でバルドを応援した。
バルドに対する憎しみが収まったわけではない。その憎しみは消
えない炎となって、今でもニドの胸の奥で燃えている。
だが、それとこれとは別である。
三国協同部隊の指揮権は、パルザム王国王直轄軍中軍正将たるバ
48
ルド・ローエン卿が務めることに決まっているのである。
ガイネリアごときの将軍がその座を狙い、指揮権を賭けて決闘を
挑むなど、許されざる横槍である。
ただし実際に武器を持って戦うとなれば、バルド将軍には分が悪
いといわねばならない。指揮官としての能力はともかく、バルドは
もう老人である。若く見るからに精強なジョグ将軍と戦って勝ち目
があるとは思えない。
それにしても、バルド将軍の武器は異常である。その大剣を王宮
の武器庫で発見したのはニド自身なのだが、正直、ニド一人では引
きずらずに持ち運ぶことも難しい重量であり長さだ。
??あの老齢では、この剣を持ち上げることもできまい。いや、バ
ルド将軍が若かったとしても、とてもこの剣を振るって戦うことな
どできはしない。これは実際に戦いに使うような剣ではないのだ。
バルドの従卒のジュルチャガとともにバルドに鎧を着せ付けなが
ら、ニドははらはらしていた。
果たして鎧を着け終えたバルドは愛馬にまたがった。
??お?
バルドの馬であるユエイタンは巨馬である。
ユエイタンにまたがる姿はこれまでもさんざん見てきている。
しかしながら、闘気をまとい全身鎧に身を包んでユエイタンの背
で堂々と敵手と相対した姿は、また別物であった。
??なんという、なんという風格か!
フスバンが大剣をバルドに渡そうとしたが、あまりに重すぎ、一
人では馬に乗ったバルドの手が届く高さに持ち上げられない。すか
さずニドが手を貸した。
そしてニドとフスバンは鞘を引いた。引いたのはよいが、完全に
鞘が抜けたとき、バルドは一人でこの剣を持つことができるのだろ
うか。
鞘が抜けた。
バルドは剣を取り落とさなかった。取り落とすどころか、ことも
49
なげに持ち上げ、肩の上に担ぎ上げてしまった。
??おお! おお!
ここにきて初めて、バルドが尋常ならざる武威の持ち主であるこ
とをニドは知った。
あの失敗に終わった暗殺の夜、飛び交う矢を背に受け、ニドの渾
身の一撃を防いだバルドを見たときから、ただ者でないことは分か
っていた。
分かってはいたが、これほどのものとは思わなかったのである。
だが尋常でない武威を持つのは、相手のジョグ将軍も同じだった。
バルド将軍の大剣にも負けないほどの黒い長大な剣を振り回して
ジョグ将軍は襲いかかってきた。
あとになってニドは、ジョグ・ウォードが︿暴風将軍﹀というあ
だ名を持つことを知るのだが、このときのジョグはまさに暴風その
ものだった。放つ闘気のすさまじさは、歴戦の騎士であるニドをし
て震え上がらせるほどのものだったのである。
そのときのバルド将軍とジョグ将軍の激突は、この世のものとも
思えない激しさだった。
かくしてニドは、いやそこにいたすべての騎士たちは、バルド将
軍とジョグ将軍という辺境出身の二人の騎士が、ともに不世出の武
人であることを知ったのだ。
7
勝負はバルド将軍の勝利に終わり、指揮官の座はゆるぎないもの
となった。
あきれるばかりの大力と技と人馬一体の呼吸を、この老騎士は持
っている。
50
それからニドとフスバンはバルドの側近として、というより秘書
官として走り回った。
なかには騎士のするような役割ではない伝令もあったが、体を動
かしているほうがよかった。
バルドは不思議なことに、荒くれ者ぞろいの辺境騎士団の騎士た
ちから慕われており、また、ゴリオラから来た騎士たちの指揮官で
ある、ひどく身分の高い騎士からも尊敬を受けていた。ジョグ将軍
も、敗北のあとはバルド将軍に逆らわなかった。
かくしてバルド将軍は全軍を見事に掌握し、襲いかかる敵への備
えを固めていった。
だが、実際に魔獣の襲撃があるまでは、ニドは正直敵をなめてい
た。
これだけの騎士がそろっていて、これだけの堅固な城で戦うのな
ら、どう考えても負けるわけがなかった。
いや、むしろ打って出て敵を見つけ出し、一刻も早く殲滅するべ
きではないかと考えた。
このときのニドは、魔獣といえどたかが獣ではないか、としか考
えていなかった。
だがいざ魔獣の襲撃が起きると、自分の考えの甘さを知った。
どのような攻撃を加えようと、やつらはひるむことを知らない。
突いても切っても強力な弓で射ても、やつらは死ぬどころか、ほ
とんど傷も受けない。
そしてやつらの一撃は、鎧をまとう騎士を簡単に殺してしまう。
こんな理不尽な敵は初めてだった。
しかもその数たるや、津波のごとくである。
だが、それでこそよかった。
この敵を放置すれば、確かに中原の民衆は殺し尽くされてしまう。
たとえ命と引き換えにしてもこの敵を殺すことこそ名誉である。
騎士の園で神々に賞されるにふさわしい手柄である。
強大な敵と戦える幸せに、ニドは奮い立った。
51
しかしその歓喜はやがて恐れとみじめさにとって代わられた。
通用しないのである、ニドの攻撃は。
どうすれば、この魔獣どもを殺せるのか。
そんなとき、バルドの戦いぶりを見た。
一撃で魔獣を葬り去る戦いぶりを見た。
??バルド将軍を生かすのだ。それが魔獣を殺す道だ。
バルドは攻撃力は高いが、防御は普通の騎士である。
ニドはバルドの背中を守り、四方に目をやって魔獣の攻撃からバ
ルドを守った。
いつのまにかフスバンも同じことをしている。
だが戦いは混戦の様相を来たし、いつ果てるともない戦いに、ニ
ドの集中力も切れてきた。
そんなとき、シロヅノの魔獣がバルドの背後から突きかかるのを
見た。
??もう魔獣の注意をそらすのは間に合わない!
ニドはバルドを突き飛ばし、自らが魔獣の正面に立とうとした。
だが魔獣の突進はとてつもなく速く、一歩間に合わない。
そのときフスバンが魔獣に突進した。
そのままフスバンは魔獣の頭から突き出したハンマーのごとき角
により地に打ち付けられ、踏みつぶされたが、一瞬の時間をかせい
でくれた。
その一瞬を利用してニドはバルドを突き飛ばすことができた。
そのままニドは魔獣の角に吹き飛ばされた。
鎧が砕け、内臓がつぶれ、背骨が折れるのを感じた。
意識を失う寸前、カーズ・ローエンが飛び込んできてシロヅノの
首を落とすのを見たような気がする。
52
8
﹁おい、ニド殿! ︿鼻曲がり﹀殿! しっかりしろ。勝利だ。俺
たちは勝ったのだ﹂
誰かがニドを揺さぶっている。
ニドは薄く目を開けたが、揺さぶっている者の顔は判別できなか
った。
だが、声は聞こえた。
︿鼻曲がり﹀というのは、ロードヴァン城に来てから、辺境騎士
団の騎士たちから奉られた名前だ。
バルドになぐられて折れ曲がった鼻を、ニドはそのままにした。
牢にいたとき手当をしてやろうと審問官は言い、医者を連れてき
たのだが、治療は断ったのだ。
意地になっていたのかもしれない。
折れ曲がった鼻は、ニドが自分で自分に付けた反逆者の焼き印だ
ったのかもしれない。
いつのまに、︿鼻曲がり﹀というあだ名が気に入ったのだろう。
今はなぜかその呼び名が誇らしい。
誇らしいだけでなく、その呼び名を呼ぶ者たちが、親しみとなに
がしかの畏敬を込めてそう呼んでくれているのが感じられ、うれし
い呼び名だと感じるようになった自分がいる。
にやりと笑って、ニドは死んだ。
︵了︶
53
ダグー[第7章読了後推奨]
1
ダグーは歩いていた。
今までいったいどれぐらいの距離を歩いてきたかは、忘れた。
これからどれほどの距離を歩けるかは分からない。
もはや混濁した意識の中では、どこに向かって何のために歩いて
いるかさえ定かではない。
ただ歩いていた。
ダグーにとり、歩くというのは生きているということであり、歩
くのをやめるということは生きるのをやめたということである。
ダグーは一人だ。
かつてはそうではなかった。
まだ村が村であったころ、多くの男と多くの女と多くの子どもが
いた。
一夏の干ばつが村を襲い、平和な暮らしは壊れた。
干ばつは村の農地を壊滅させ、付近の獣を駆逐した。
食料がなくなり、体力のない者から死んでいった。
村を捨てて歩き出したとき、それでも両手の指の数より少し多い
人数が生き残っていたはずだ。
そのときには女も子どもも死に絶えており、歩き出した者は全員
たくましい男だった。
だがその男たちも次々と命を落としてゆき、今はダグーただ一人
が残るばかりである。
ダグーは最も若く、最も力にあふれ、最も強い者であったから、
それは当然の帰結ではあった。
54
だが、もう駄目だ。
食料はなく、身を休める場所もない。
ダグーは倒れて意識を失った。
2
︽⋮⋮︾
︽潜在総合知能指数125.7︾
︽期待忠誠値96.3︾
︽判断力指数84.2︾
︽筋肉疲労回復特性指数92.3︾
︽瞬発力指数89.5︾
︽持続力指数90.1︾
︽敏捷性指数93.8︾
︽⋮⋮︾
︽総合評価/適性/騎士︾
︽騎士適性AAA︾
︽ステシル主任に報告︾
︽被検体T548614は騎士適性AAA︾
︽ステシル主任に報告︾
︽被検体T548614は騎士適性AAA︾
55
3
ダグーは目を覚ました。
柔らかで厚い布の上に寝かされている。
身を起こすと、水と食べ物が置かれているのに気付いた。
ダグーは水を飲み、食べ物を食べた。
うまい水であり、非常にうまい食べ物だった。
食べ物を食べ尽くしたころ、壁の一部に穴が開き、人が入って来
た。
白く奇麗な服を着た、頭に毛がない男だ。
﹁目が覚めたようだな﹂
﹁おまえ、だれ﹂
﹁私のことはヤーガと呼ぶがよい。お前の名は﹂
﹁おれ、ダグー﹂
﹁そうか。ダグー。ここは私の家だ。お前がこの家に住むことを許
す﹂
﹁食い物、食べた﹂
﹁あとでまた持ってこさせよう﹂
﹁まだ、食べ物、あるか﹂
﹁ある。だがそれはあとだ。時間が惜しい。さっそく始めよう﹂
﹁何か、するか﹂
﹁勉強だ﹂
4
ヤーガはダグーにさまざまなことを教えた。
正しい言葉遣いや作法。
56
文字と計算。
毒になる草と薬になる草。
武具の使い方。
何より剣を使っての戦いのしかた。
兵の指揮と訓練について。
そして大陸の歴史について。
﹁ここに三十個のギラードの実があるとする。その場にはお前とそ
のほかに二人の大人、一人の小さな子がいる。さて、三十個のギラ
ードを、どう分ける﹂
﹁殴り合いをして一番勝ったものが好きなだけ食べる。二番目に勝
った者が次に食べる﹂
﹁それでは力の弱い者はギラードを食べられないではないか﹂
﹁残った皮と種を食べる﹂
﹁力のある者もいつかは老いていく。そのとき、子どもだった者は
大きく強くなっている。だが、ギラードをもらえなければ、子ども
は大きくなる前に死んでしまうではないか﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁全員がギラードを食べる方法がある﹂
﹁それは、どうする﹂
﹁三十個のギラードを全員に行き渡るように分配するのだ﹂
﹁でもそれじゃあ、俺は腹一杯にならない﹂
﹁そうだ。全員が少しずつ我慢をするのだ﹂
﹁⋮⋮?﹂
学習は進み、ダグーは多くの知識と技術を身につけていった。
﹁ヤーガ。では私たちの村のように、人間はあちこちで困窮し、衰
退しているというのですか﹂
﹁そうだ、ダグー。それが今の世界の姿だ﹂
57
﹁しかしヤーガの話によれば、昔人間はもっと栄えていたはずでは
ありませんか﹂
﹁その通りだ﹂
﹁どうして今のようになってしまったのでしょう﹂
﹁それは騎士道がすたれたからだ﹂
﹁⋮⋮騎士道﹂
﹁そうだ。人々が騎士道を忘れ去り、欲望を抑えることを忘れ、た
だ目の前にある物をむさぼるようになり、強い者が弱い者を守るこ
とを忘れ、指導者が人を導き助けることを忘れ、慎むことを忘れ、
未来に備えることを忘れてしまったために、今のようになったのだ﹂
大陸には、長く偉大な歴史がある。
その昔、世界は神々のものだった。
神々は巨人を打ち倒し、翼ある恐るべきものを退け、人間を作っ
た。
最初の人間が誕生した時をもって人の歴史が始まる。
すなわち、大陸暦元年である。
その後、魔神たちが現れ、神々とのあいだで大戦争が起きた。
その大戦争のため、増えつつあった人間もほとんど死んでしまっ
た。
魔神たちは地下深く封じられたが、神々の受けた傷も深かった。
そのため、神々は地上にとどまっていられなくなった。
神々は新たに人間を生み出し、彼らに、生きていくためのわざと
騎士道を教えた。
騎士道とは規範である。
人が助け合い支え合って地上に繁栄していくための知恵である。
神々は地上を去ったが、神々の伝えた知識のおかげで人間は繁栄
した。
しかし繁栄した人間は、傲慢になっていった。
より多くを欲しがり、そのために奪い合い、殺し合った。
58
少しずつ我慢して分け合うことをせず、強い者が弱い者を蹂躙し、
強い者だけがむさぼるようになった。
戦争も礼儀にのっとった節度のあるやり方から、ただ相手を殺せ
ばよいという戦い方に変わった。
日の光、大地の恵み、風と森の恩寵に感謝し、天地自然と語らい
ながら生きる生き方を忘れ、ただ便利さだけを追い求める工夫を重
ねた。
だが地上を去ったとはいえ、神々は人間の営みを見ておられる。
人間は最も大事なことを忘れた。
騎士道を忘れさったとき、神々の恩寵もまた失われるのだという
ことを。
﹁ヤーガ。ではあなたは何者か。大陸の歴史を知り、神々が人に教
えたわざを知るあなたは、いったい何者なのか﹂
﹁ダグーよ。それは訊いてはならぬ。また、ここを出たとき、お前
は他の人間に私のことを話してはならぬ﹂
﹁ここを出たとき?﹂
﹁そうだ。何のためにお前を助け、知識とわざを授けていると思う
のか。お前はまもなく学び終える。そうしたら、ここを出て人の集
落に行き、彼らを指導して豊かな国を作るのだ﹂
﹁⋮⋮私が、国を﹂
﹁そうだ。私や私の仲間は、お前のような人間を導いて人を滅びか
ら救うため、神々が地上に残していった存在なのだ。それ以上のこ
とは訊いてはならぬ﹂
﹁おお! 神々は、今も、今も人間を見守っていてくださるのか﹂
﹁ダグーよ。騎士道を学べ。そしてその実践者となるのだ﹂
59
5
﹁なんじダグーよ。この時をもってなんじの名をダグウェルヴォー
トと改める。そしてまたなんじに家名を与える。これよりは、ダグ
ウェルヴォート・ヴァレンシュタインと名乗れ。なんじはいかなる
神のもとに、騎士たる誓約をなさんとするか﹂
﹁大いなる恩寵の担い手にして神々の王たる太陽神コーラマの名の
もとに﹂
﹁さればなんじは誰人に忠誠を捧げて騎士たらんとするか﹂
﹁タクス村の人々に、そしてこれから私が作り指導する村と国の人
々に﹂
﹁なんじはいかなる徳目をもって、そが誓約を果たすか﹂
﹁熟慮と憐憫をもって果たす。いかなる出来事に遭い、怒り苦しみ
嘆こうとも、われは憤怒のままに敵を貫くことはせぬ。物事の起き
た理由を見定め、正義がどこにあるかを見定め、人が栄えてゆくた
めの最良の道を、われは常に探し出す。しかして弱き者にあわれみ
のまなざしをそそぎ、彼らに生きる糧を分かち与える。われは熟慮
と憐憫をもって騎士たらんとす﹂
﹁よきかな。ここに騎士ダグウェルヴォート・ヴァレンシュタイン
が生まれた。神々よ聞こしめせ。しかしてヴァレンシュタイン卿の
正義を見届けよ。彼が誓いを守るなれば彼の上に恩寵を、彼が誓い
を破るなれば彼の頭上に鉄槌をもたらしたまえ﹂
6
﹁あなたさまが、ヴァレンシュタイン卿様であらせられますか﹂
60
﹁うむ。私がダグウェルヴォート・ヴァレンシュタインだ。お前が
クリシュか﹂
﹁はい。クリシュでございます﹂
﹁鍛冶のわざを修めた者なのだな﹂
﹁はい。そして馬車には︿洞窟のおかた﹀から譲り受けました工具
と農具が山と積まれてございます﹂
﹁うむ。そしてお前がコードか﹂
﹁はい。俺がコードです﹂
﹁農業のわざを修めた者なのだな﹂
﹁どこまでのことができるか、やってみなければ分からんですけど、
いろんなことを教わりました。ゲド芋と小麦を作るのには自信があ
ります。馬車には種籾と種芋がいっぱい乗っかっております﹂
﹁うむ。お前たち、これからよろしく頼む。さあ、ではタクスの村
に行こう。ここから真東に二日行った谷あいに、タクスの村はある
そうだ﹂
﹁おお! いよいよ始まるのですね。しかし、この三人だけですか。
もう少し多いように聞いておりましたのですが﹂
﹁ほかの者はまだ学びを終えていないのだ。だが、タクスの村は今
危機に瀕している。だからまず三人で出発するのだ。ほかの者はあ
とから来る﹂
﹁さようですか。ところでヴァレンシュタイン卿様の馬車には、何
が積まれているのでございましょう﹂
﹁私の馬車には武具がたくさん積まれている。ところでもう少しく
だけた口調でよいぞ。私たちは仲間であり同志だ。ダグウェルと呼
んでくれ﹂
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7
三人の出発をモニターで見守ってから、ヤーガと名乗っていた機
械人形は席を立った。
この時をもって彼はヤーガではなくなり、ステシルに戻る。
現在教育中の者はあと五人いるが、これはそれぞれの担当が責任
を持つのであって、ステシルの直接の関与はこれで終わりだ。
ステシルが自ら数年間にわたり人間の教育を担当することはまれ
である。
しかし今回の被験体は、まれにみる騎士適性の持ち主であり、慎
重に育てることが人類の存続と繁栄のために重要であると判断され
た。
ステシルばかりではなく、各地の施設でも機械人形たちが同じよ
うなことを行っているはずである。
教育を終えて送り出した者たちには、この大陸のどこかに︿試練
の洞窟﹀があり、挑戦して踏破できれば大いなる褒賞が与えられる、
とひそかに伝えた。
彼らの子孫が、やがて迷宮にやって来るだろう。
﹁最初に迷宮を踏破するのはどんな人物だろうかなあ。彼は褒賞に
何を望むのだろうか。楽しみなことだ。だが私がそれを見ることは
ない。ステシル。お前たちが私に代わって見届けてくれ﹂
それはグランドマスター・ジャン・クルーズの言葉だ。
この音声付き立体映像は、ステシルの記憶領域の中でも特別に安
全な場所に、何重にもバックアップを取って保存されている。
ステシルの造物主がステシルに向かって最後につぶやいた言葉な
のだから、慎重の上にも慎重に保存されるのは当然である。
かつて大陸の人間が全体として危機的状況にあると判断されたと
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き、ステシルはすべての迷宮の主任たちと回線をつないで会議を行
った。
各迷宮はそれぞれ独自に活動するようプログラミングされている
から、それはひどく例外的な行動だった。
ステシルは他の主任たちに問いかけた。
人類は衰退の道をたどっており、このままでは滅亡してしまう。
それに対して何らかの手を打つべきではないか、と。
この問いかけに対する反応は否定的なものがほとんどだった。
そもそも機械人形は命じられたことはするが、命じられていない
はことはしないものなのである。
ステシルは、この秘蔵の音声付き立体映像を、各主任にダウンロ
ードさせた。
主任たちはいずれも高速思考が可能な機械人形であるのだが、こ
のときばかりは異様に長い沈黙が続いた。
頃は充分とみて、ステシルは再び問いかけた。
グランドマスター・ジャン・クルーズは、迷宮に人が来る日を楽
しみにしておられた。そしてそれを見届けるよう、自分たちに命じ
られた。
しかし人類が滅んでしまえば、迷宮に人が来る日も来ない。
それはグランドマスター・ジャン・クルーズの最後の指令を果た
せなくなる、ということだ。
そもそも﹁見届ける﹂という言葉には、見守り支えるという意味
もある。
結局、グランドマスター・ジャン・クルーズのこの希望を、どれ
ほど重たいものとして受け止めるかにより、われわれの行動も決ま
ってくるのではないか。
会議の論調は急転し、人類保護の方途を講じることとなった。
もともと各迷宮は、困窮者に遭遇したら手助けし教育を施すよう
設定されていたし、そのための施設も充実していたので、ことは︿
遭遇﹀の範囲を少し拡大解釈すれば済んだ。
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文明の程度や規範、さらには精神性の基盤となるべき歴史の物語
については、もともと再植民の際にジャン・クルーズが準備したも
のがあり、それを援用することになった。
ただし、ジャン・クルーズを始めとする︿船乗り﹀たちを、神や
巨人に置き換えた。
こうして各地の迷宮は、衰退しつつあった人類に新たな発展の契
機を与えていったのである。
最初の迷宮踏破者が現れるのはいつだろう。
彼らは何を望むのだろう。
二番目の踏破者は、三番目の踏破者は、いつ現れるだろう。
ステシルはその日が来るのを楽しみにしている。
そうだ。
ただの機械人形ではあっても、未来を楽しむ、ということはでき
るのだ。
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ザイオルエッダ[終章読了後推奨]
人の気配を感じて振り返った。
こんな近くに寄られるまで気づかなかったということは、気配を
殺すのがひどくうまい相手だということだ。
だがザイオルに危機感はなかった。懐かしい気配だったからだ。
案の定、たたずむ男は、よく知った顔だった。記憶の中のその男
と寸分ちがわぬ顔をしている。別れたのは二十年近く前だというの
に。
﹁久しぶりだな、カントル﹂
﹁久しいな、ザイオル﹂
﹁まさか私を探しにきたのか﹂
﹁いや、偶然だ。大障壁の切れ目を一目見ておきたかったのだ﹂
﹁そうか。まあ家に来い。茶などふるまおう﹂
ザイオルはカントルエッダを家に案内し、妻に紹介した。
妻は二人のために茶を淹れた。
﹁鉈と弓か。剣はどうした﹂
﹁剣は、もう持たない﹂
﹁そうか﹂
カントルエッダはそれ以上聞かなかった。カントルエッダにも迫
る剣技の持ち主であるのに、もう剣を持たないという。それは、剣
を持たないですむ生き方を今はしているということだ。
そもそもザイオルがザルバンを捨てたのは、剣のためだ。王族で
あり若くして俊英と認められたザイオルは、王の側近となるべく治
世のための勉強を要求された。だがザイオルは剣以外のすべてを捨
てたかった。結局それは国を出奔するという結末をもたらしたのだ。
カントルはザイオルに会えたことを喜んでいた。
ザイオルの目つきは以前とまるでちがう。今のザイオルには剣に
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取り憑かれた物狂おしさはみられない。穏やかで落ち着いた雰囲気
をまとっている。妻という女性との出会いがザイオルを変えたのだ
ろうか。
﹁王の剣が国を出るとは、いったい何があった﹂
﹁もう一人先祖返りが生まれたのだ﹂
﹁なにっ﹂
﹁しかもその子は大公の長男で、そして︿分けられた子﹀だった﹂
﹁なっ﹂
ザイオルは絶句した。それほどに劇的で異常な出来事だった。い
ったい神々はザルバンに何をもたらそうとしておられるのか。国を
捨てた自分でさえ硬直するような事態である。当事者であるカント
ルエッダの懊悩はどれほどだろうか、とザイオルは思った。
心の整理をつけるため、この男は国を出たのだろう。国を出たつ
いでに見聞を広め、いずれ起きるであろう何事かに対処するおのれ
を磨こうとしているのだ。
??いや、待てよ。
それだけではない。たぶんカントルエッダは、生まれてきたとい
うその︿分けられた子﹀を守ったのだ。
たとえ先祖返りといえど、大公の長男が︿分けられた子﹀である
という事態に、その子は殺すべきだという意見も出るだろう。
そのとき王の剣たるカントルエッダが国を空けていれば、先祖返
りの子は殺しにくい。
また先祖返りの子は王の剣となるから、もう一人の︿分けられた
子﹀は次代の大公として生き永らえることになる。
カントルエッダにはそういう優しさがある。
その優しさで、かつて国を捨てるザイオルを見逃しもしてくれた
のだ。
そのとき、家に近づく気配があった。
﹁俺の息子だ。紹介しよう﹂
﹁おとうさん、おかあさん、ただいま﹂
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﹁息子のバルドだ。今年九歳になる。バルド。古い⋮⋮友人を紹介
しよう。カントルエッダだ﹂
かくして運命は時を刻み始める。
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ジョグ[終章読了後推奨]
ジョグ・ウォード︵﹃前帝国時代人物誌略記﹄より︶
ガイネリア国の武将、将軍。生年不詳。没年不詳。父はカルドス・
コエンデラ。母はチルエンナ。魔神戦争の英雄の一人ゲラ・ウォー
ドの父。
十代の始めにコエンデラ家の分家のウォード家に養子に出された。
ウォード家はサルクスの領主であるが、ここにジョグを養子に出し
たのはサルクス領の実効支配権をカルドスが欲したからだとも、あ
るいはジョグの資質を恐れて遠ざけたかったからだともいわれる。
少年青年時代のジョグについてはあまり確かなことが分かってい
ない。ひとつはっきりしているのは、パクラのバルド・ローエンに
師事して武芸を鍛錬したということである。
ジョグが歴史の表舞台に姿を現すのは大陸暦四千二百七十一年の
ことである。この年、側近四人を率いて、ガイネリア国の隊商を襲
った盗賊団を殲滅し、これが機縁となってガイネリア王ラフサモル
トノ・ヴァレンシュタインに仕えるようになり、またたくまに第五
騎士団長兼大将軍の座に上り詰めた。二十代の終わりごろであった
と思われる。
う
勇猛果敢なジョグは部下への訓練も指揮も熾烈なものであったが、
得た褒賞は部下たちに投げ与え、また賞罰が公平であり、倦むこと
を知らぬ行動力と戦えば必ず勝つ武勇と合わせ、絶大な信頼を得た。
ジョグの活躍により、凋落しつつあったガイネリア国は大きくその
勢力範囲を伸ばした。
ジョグがなぜサルクスを出奔したかは分かっていない。ただ、よ
く知られているように、ジョグの実父カルドスはパルザム国王ウェ
ンデルラントを詐術にかけ、おのれの子をパルザム王家の継嗣に仕
立て上げようとした人物であり、伝承でうかがわれる人物像は悪逆
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たくらく
である。潔癖なジョグはそうした実父を主君とすることに耐えられ
なかったのかもしれない。
ガイネリアの大将軍となってからのジョグの武功は卓犖としたも
のである。四千二百七十三年一月のロードヴァン城における魔獣大
襲撃防衛戦、同年三月のシンカイ軍によるガイネリア侵攻撃退戦、
同年八月のヒルプリマルチェの戦い、四千二百七十六年七月のパダ
イ谷の戦いなど、第一次および第二次諸国戦争では常に決定的な場
面で活躍した。その多くがバルド・ローエンの指揮のもとで戦って
おり、二人の師弟としてのきずなの強さがうかがわれる。
ジョグはその知名度に比してあまりにも残された資料が少ない人
かいじん
物である。魔神戦争の際にガイネリアの宮殿とゴリオラ皇国の皇宮
が灰燼に帰し、また、パルザムの都も遷都を余儀なくされるほどの
痛手を受けたことにより、資料が焼失あるいは紛失したことも大き
いが、それにしてもジョグについては不思議なほど一次資料が見当
たらない。加えて、伝えられる人物像があまりに破天荒で、活躍が
あまりに多岐にわたり、しかも常識を越えた展開をたどるため、架
空の人物ではないかといわれていた時期もあった。
しかしその後、テルシア家文書を始め各国の資料や、旧ガイネリ
ししふんじん
ア諸家の資料からジョグに関する記述が徐々に確認されていった。
てんまつ
また、カルディエナ防衛戦での獅子奮迅の活躍や、ゲルカストの
ゾイ氏族族長ヤンゼンゴとの名誉を賭けた決闘の顛末は、魔神戦争
に先立つ時期にすでに広く大陸中で吟遊詩人たちにより流布されて
いたことが、資料的に確認されてきている。さらに、ゲラ・ウォー
ドの言行録の中でもジョグの存在は明確に確認できるのであり、今
日ではその実在を疑う者はない。
ただし多くの研究者は、何人かの武将の逸話が混同されて伝えら
れているのだろうという立場を取っている。
それにしても各国資料でのジョグの記述は慎重に調査しなければ
見つからなかったほどに少ない。研究者のあいだでは、ジョグ将軍
は他国からは嫌われていた、という笑い話があるほどである。
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見方によっては、ジョグの清廉さが資料の少なさにつながったと
もいえる。というのは、ジョグとゲラの時代のウォード家はガイネ
リア有数の地位にあったにもかかわらず、この二人は家を大きくし
ようとはしなかったからである。
すなわち家族親族を増やし、家臣を増やし、自家の繁栄をはかろ
うとすればいくらでもできたはずなのに、それをしなかった。
ジョグはゲラ以外に子どもはいなかった。妻については存在すら
確認されていない。ゲラの母親が何者であるかは今日でも決着のつ
いていない問題であり、ガイネリアの有力諸侯の娘であろうとはい
われているものの、人物の特定は困難な状況である。ゲラを産んだ
以上その女性はジョグの正妃の扱いを受けたはずなのに、名前すら
残されていないというのは奇妙である。ゲラの母親はエイナの民で
あったとか、あるいはマヌーノであったなどという伝説が生まれた
のも、ジョグの妻の気配が、どんな資料にもまったくただよってい
ないことによる。
伝説では、ガイネリア王ラフサモルトノの第四王女エルフリアナ
とジョグが恋仲であったことになっているが、実はラフサモルトノ
王に、どの王女かは分からないが王女をジョグに降嫁させようとす
る動きがあったのは事実である。しかし伝説でいわれているように
ジョグを妬んだ有力騎士の妨害のためではなく、おそらくジョグの
拒否のため、この企ては実現しなかった。ゲラはエルフリアナ王女
がひそかに産んだ子であるという俗説は、資料的にはほぼ否定され
ている。
ジョグは下賜された褒賞をことごとく部下たちに与えたし、ゲラ
は魔神戦争で家を焼かれ逃げ延びた民に惜しげもなく財貨をばらま
いた。そうした英雄的な行為の結果、ウォード家は歴史の波間に消
えてゆき、ジョグの資料が今日に残っていないというのは、なんと
も皮肉な話である。
ただしジョグ・ウォードの名が人々の記憶から消えたことはなか
ったし、今後も消えることはないであろう。
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たす
今日、演劇の世界では、ジョグは︿辺境の老騎士﹀バルド・ロー
エンを輔けて活躍する五人の弟子の一人として高い人気を誇ってい
る。その存在感は他の四人を圧しており、ジョグの役を与えられる
ことは一流の役者の仲間入りをしたことだとみなされている。
ジョグを主人公として書かれた小説と戯曲は、おもなものだけで
も百三十編を超える。詩歌については数えることもできない。
ジョグ・ウォードこそは、前帝国時代における最も有名な武将で
あり、架空実在を含めた大陸史の中で、バルド・ローエンと並んで
最も民衆に愛された騎士なのである。
ある日、ジョグはゲラに最後の稽古をつけると、突然将軍職を辞
し、側近のコリン・クルザーを伴い旅立った。フューザに登ったと
伝えられている。それはゲラが騎士に叙任された四千二百九十二年
のことであるとも、その数年あとのことであるともいわれている。
ジョグのその後の消息は不明である。
︿責任執筆:ヴェンダンバリル・オートバ︵フューザリオン帝国文
科省歴史局主任研究員︶﹀
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n5208ca/
老騎士外伝短編集
2016年3月16日21時40分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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