5.各論-1 - 北里大学大学院 医療系研究科 臨床遺伝医学講座

平成26年度厚生労働科学研究費補助金
厚生労働科学特別研究事業
遺伝情報・検査・医療の適正運用のための法制化へ向けた遺伝医療政策研究
分担研究報告書
分担研究課題:我が国の医療制度下における遺伝医療の現状にみる問題点
研究分担者:
主任研究者:
櫻井晃洋 札幌医科大学医学部遺伝医学
福嶋義光 信州大学医学部遺伝医学・予防医学
小西郁生 京都大学大学院医学研究科器官外科学・産婦人科学
山内泰子 川崎医療福祉大学医療福祉学部
高田史男 北里大学大学院医療系研究科臨床遺伝医学
研究要旨
診断や治療方針の決定に遺伝情報が不可欠である単一遺伝子疾患数は急速に増加している。こ
うした疾患に対する遺伝医療の実施を円滑に実施するために、現在の我が国の医療制度下にお
ける遺伝医療の現状を調査した。
研究協力者
山田重人(京都大学大学院医学研究科人間健康科学
B.研究方法
現在の遺伝医療の実施現状について、国内外のウ
系専攻)
三宅秀彦(京都大学医学部附属病院遺伝子診療部)
ェブサイト、関連学術論文を中心に調査した。
福田 令(北里大学大学院医療系研究科臨床遺伝医学)
堀あすか(北里大学大学院医療系研究科臨床遺伝医学)
C.研究結果
1.遺伝性疾患の遺伝学的検査の保険収載について
ヒトの遺伝性疾患のカタログとして最も充実し、
A.研究目的
遺伝医学の知見の集積と遺伝子解析技術の進歩に
か つ 信 頼 度 の 高 い も の と し て 、 OMIM (Online
より、単一遺伝子の変異に起因することが判明した
Mendelian Inheritance in Man)があるが、ここには
疾患数は急速に増加し、従前の疾患分類の再編に至
2015 年 2 月現在、12,000 を超える遺伝子及び遺伝
った疾患も多い。疾患によっては確定診断を遺伝情
性疾患がリストされている1。海外では、一般診療の
報に依存するもの、すなわち遺伝情報抜きでは現時
一部として遺伝学的検査が広く実施されている。米
点での疾患概念に基づく確定診断に至り得ないもの、
国 で は
あるいは治療方針決定に遺伝情報が不可欠であるも
Information が Genetic Testing Registry と名付け
のが年々増加し、こうした知見は、現在学会等が作
られた、現在実施されている遺伝学的検査に関する
成、公開している診療ガイドラインなどにも反映さ
オンライン情報を公開している2。これは検査の提供
れている。
者が自発的に登録するものであるが、主に米国にお
ひるがえって我が国の遺伝医療の現状を鑑みると、
National
Center
for
Biotechnology
いて、臨床目的で検査実施が可能な疾患項目リスト
診療制度がこうした現状を反映していないことはも
と検査実施機関を参照することができる。ここには
ちろん、むしろ制度の壁によって本来患者が享受し
2015 年 3 月 20 日現在、9,784 の病態(conditions)
てしかるべき医療を十分に提供できていない現状が
に関係する 4,688 遺伝子(genes)、26,064 検査(tests)
みえる。本研究では、現在の我が国の医療制度にお
ける遺伝医療の現状を整理する。
1
2
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/omim
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/gtr
がリストされている。またこれらの検査を提供する
遺伝情報に基づく医療が標準診療として一般化し
検査会社や研究機関の数も 655 にのぼる。検査の実
つつあることを反映して、別表 1 に掲げた疾患以外
施を検討する医師は、本サイトを参照することで検
の多くの疾患でも、診療指針等において遺伝学的検
査を受託している会社や機関に直接コンタクトをと
査の実施が推奨されているが、そのほとんどは我が
ることができる。国によって保険制度が異なるため、
国において保険診療での実施ができないのが現状で
一律の比較はできないが、米国の多くの民間医療保
あり、先進医療として実施されている検査もごくわ
険はこうした遺伝学的検査の費用をカバーしており、
ずかにとどまっている。我が国の遺伝性疾患に関す
被保険者である患者は必要に応じてこうした検査を
る診療に関しては、国際的な医療標準に大きく遅れ
受けることが可能となっている。
をとっていると言わざるを得ない。
一方我が国では、長らく遺伝学的検査は保険適用
また単一遺伝性疾患としては最も患者数が多いと
の対象外とされていた。平成 18 年度に最初の 3 疾
想定される疾患の一つである遺伝性乳癌卵巣癌の原
患が保険収載され、その後平成 20 年度に 10 疾患、
因遺伝子(BRCA1 及び BRCA2)の検査については、
22 年度に 2 疾患、24 年度に 21 疾患が追加されたが、
特許の問題によって検査費用が極めて高額なままに
現在でも保険収載されている疾患はわずか 36 にと
とどまっているという現状がある。この特許は、米
どまり、その多くは希少な先天性代謝異常症である。
国の民間検査会社が取得したものであるが、 2013
近年の医療においてはエビデンスに基づいた医療の
年に米国連邦最高裁判所が同検査の特許について無
標準化が重視されており、医学関連学会では数多く
効の判決を言い渡し4、この結果米国内ではより安価
の疾患について診療ガイドライン等を策定、公開し
な検査が複数の民間検査会社から供給されるように
ている。
なった。2015 年 3 月の時点で、前述の Genetic
別表 1 は 2013 年に米国臨床遺伝学会(American
Testing Registry によれば、米国内で CLIA (Clinical
College of Medical Genetics)が全エクソームある
Laboratory Improvement Amendments) の認証を
いは全ゲノムを対象とした臨床ゲノム解析(clinical
受けて遺伝性乳癌卵巣癌の遺伝学的検査を受託して
sequencing)に際して、本来の解析目的とは異なる
いる検査機関は既に 16 にのぼっている。これに対
遺伝子変異が二次的に同定された場合に、被検者に
し我が国では依然として当該会社が取得した特許が
開示すべき遺伝子及びその遺伝子変異によって招来
有効であり5、国内ではライセンス契約を締結した一
される疾患のリストである3。これらの疾患がリスト
民間検査会社による検査受託のみが行われている。
アップされた根拠は遺伝情報をもとに早期の介入を
このため検査を希望する患者・受検者が高額な費用
行うことによって予後の改善が期待でき、被検者の
負担を強いられる、あるいは経済的な理由によって
利益となるという判断に基づいている。したがって、
適応を有する患者に対して有用な検査を実施できな
これらの疾患を想定した場合の遺伝学的検査はおの
いという事態が続いている。
ずからその臨床的有用性は高いと考えられる。別表
2.遺伝学的検査の保険点数に関する問題
1 はこれらの遺伝子に関して我が国の現状をまとめ
上述のとおり、我が国においては保険収載された
ているが、現在保険収載されているものは一つもな
遺伝学的検査は極めてわずかにすぎない。また保険
い。またここに掲げた 24 疾患・病態のうちの 19 疾
収載された検査については、その方法として PCR
患については国内の関連学会等から診療指針が公開
法、DNA シークエンス法、FISH 法、サザンブロッ
されており、そのうちの 10 疾患では遺伝学的検査
の有用性についてなんらかの記載がある。特に 6 疾
患については、エビデンスに基づいて遺伝学的検査
の実施が推奨されている。
3
Green RC et al. Genet Med 15: 565–574, 2013.
4
http://www.supremecourt.gov/opinions/12pdf/12-398_1b
7d.pdf
5 特許公表 2002-502227 乳癌および卵巣癌の素因の診
断方法,特許公表 2000-500985 第 13 染色体連鎖-乳癌
感受性遺伝子,特許公表平 10-505742 17q-連鎖乳癌及
び卵巣癌感受性遺伝子
ト法などによることが指定されているが、これらの
が、結果報告までの期間は保証されないことが多
検査の保険点数は検査法にかかわらず一律に 3,880
い。
点とされている。当然のことであるが、遺伝子解析
 研究機関による検査協力:研究の段階を既に終了
コストは遺伝子のサイズ、解析方法により大きく異
した検査項目について、研究を実施していた研究
なる。例として先進医療として認められている遺伝
機関が奉仕的に解析協力を継続する。解析費用は
子診断を参照する。先進医療では検査費用は検査実
通常研究費から計上され、被検者の費用負担はな
施に要する消耗品等の経費を根拠に算定されている
い。結果報告までの期間はある程度保証されるが、
が、平成 27 年 2 月現在先進医療 A として実施され
解析機関の業務や人的余裕によって左右される
ている遺伝子診断をみても、その費用は最も低料金
場合がある。
が 設 定さ れて い る神 経変 性 疾患 の遺 伝 子診 断が
 民間検査会社への検査委託:民間検査会社が独自
15,800 円であるのに対し、遺伝性網膜芽細胞腫の発
に料金を設定し、検査を受託する。費用負担は被
端者の遺伝子診断は 151,000 円と、項目により大き
検者の通院する医療機関もしくは大学等の研究
く異なる。また、現在保険収載されているデュシェ
室が負担する場合や、病院料金規定に記載するこ
ンヌ型筋ジストロフィーの遺伝学的検査の場合、
とにより、被検者が負担する場合がある。結果報
MLPA 法で欠失が検出されない場合には既知の変
告までの期間はおおむね 1 週間から 1 か月程度
異を対象とした配列解析を要し、この場合には約 10
である。
万円、ここで変異が同定できない場合にはさらに全
 海外の検査会社への検査委託:国内の検査会社や
エクソン解析や mRNA 解析も追加するため、総計
研究機関で当該の遺伝学的検査が実施されてい
で約 25 万円の経費を要する。
(情報:東京女子医科
ない場合、海外の検査会社に検査を委託する場合
大学病院遺伝子医療センター齋藤加代子教授)
がある。多くの場合、検査費用は被検者が直接検
このような検査実施現場の実情を反映しない保険
査会社に支払う。結果報告までの期間は国内の民
収載は、結果として医療機関の経費の持ち出しある
間検査会社へ委託する場合と同様であるが、検体
いは検査コストを回収できない民間検査施設の受託
の移送に要する期間が加わる。
停止を招く。またその結果、大学等の研究機関にお
 特定非営利活動法人を介する検査委託:NPO 法
ける奉仕的な解析の継続を誘発する。別表 1 におい
人 Orphan Net Japan が、契約を締結した研究
ても数多くの疾患の遺伝子解析が、国内では研究機
機関や海外の民間検査会社が提供している遺伝
関によってのみ提供されている現状をみることがで
学的検査の委託を仲介している6。検体の搬送や、
きる。こうした代替的な医療への依存が、アカデミ
被検者からの検査費用の徴収も本 NPO 法人が代
アの健全な研究活動を阻害している可能性は否定で
行している。
きない。
3.保険診療・先進医療以外で提供されている遺伝学
的検査
我が国における遺伝学的検査のうち医療制度とし
これらの遺伝学的検査は、制度としての整備はな
されていない。また、研究機関によって行われる検
査については、質の保証を担保する体制が存在しな
い、結果の報告までの期間が保証されない等の問題
て整備されているものは、前述の保険収載項目なら
が存在している。
びに先進医療として認められている項目のみである。
4.医療機器、体外診断用医薬品の薬事承認の実情
それ以外の医療における遺伝学的検査については、
医学的診断を目的として試薬や解析機器を流通さ
以下のような方法で実施されている。
せる場合には、
「医薬品、医療機器等の品質、有効性
 研究への参加:症例を求めている研究者が研究協
及び安全性の確保等に関する法律」における「体外
力として被検者の遺伝学的検査を行う。解析費用
診断用医薬品」あるいは「医療機器」に該当するた
は研究費から計上され、被検者の費用負担はない
6
http://onj.jp/list/index.html
め、個別の製品ごとに製造販売承認(薬事承認)等
的に認識されてきた遺伝性疾患は、既に保険収載さ
の許認可を取得する必要がある。一方、研究機関等
れている疾患を含め、比較的低頻度の疾患が大多数
において実施される研究を目的とした遺伝学的検査
である。遺伝学的検査は患者ひとりにつき 1 回のみ
については、使用する試薬や解析機器に対する薬事
の実施で足りることから考えると、希少遺伝性疾患
承認等の許認可は必要とされない。
に対する遺伝学的検査を保険収載することが、我が
5.保険制度における遺伝カウンセリングの扱いの
国の医療費全体に及ぼす影響は極めて小さいと考え
問題
られ、一方検査によって得られる便益は、患者にと
現在、保険収載された遺伝学的検査、すなわち 36
っても医療者にとっても大きい。さらに、近い将来
疾患の遺伝学的検査を実施した際は、その結果が陽
には次世代シークエンサー等を用いた複数遺伝子の
性であった場合に限り 500 点の遺伝カウンセリング
網羅的な解析が臨床診断として普及していくことが
加算が認められている。遺伝カウンセリングという
予測される。こうした将来予測をもとに、個々の遺
専門医療は、遺伝学的検査の実施のいかんにかかわ
伝学的検査項目にとどまらず、より包括的な遺伝学
らず、遺伝医療において常に行われるものであり、
的検査の保険収載のあり方を検討することが望まし
検査の実施及び結果の開示・説明は一連の遺伝カウ
いと考える。
ンセリングのプロセスの一部分にすぎない。日本医
また、今後は頻度の高い遺伝性疾患に対する遺伝
学会による「医療における遺伝学的検査・診断に関
医療のあり方が問題となってくる。最もよい例が遺
するガイドライン」においても、遺伝カウンセリン
伝性乳癌卵巣癌 (hereditary breast and ovarian
グの必要性が明記されており、遺伝医療において適
cancer、 HBOC) であり、本症は欧米のデータによ
切な遺伝カウンセリングの提供は必要不可欠なもの
ると、乳癌患者全体の 5-10%を占めると推測されて
である。保険制度の中で「遺伝カウンセリング」と
いる7。我が国の年間乳癌罹患者数が約 8 万人である
いう医療が認知されている点は評価すべきであるが、
ことを考えると、年間数千人が HBOC という遺伝
現行の保険点数は、平成 18 年の新規収載時より検
性疾患を背景に乳癌を発症していると推測される。
体検査判断料として位置づけられている。本来遺伝
海外においてはリスクを有する患者あるいは血縁者
カウンセリングという専門医療に対する対価は技術
に対して積極的に遺伝学的検査を実施し、遺伝的背
料、指導管理料として認められるべきものであり、
景に基づいた治療選択や未発症段階での予防的治療
実態にそぐわない現状が遺伝カウンセリングの認知
が急速に普及している。遺伝情報の最大の特性とも
及び普及に対する障壁となっていることは否定でき
いえる将来の健康状態の精度の高い予測は、今後の
ないと考えている。
先制医療を可能にする重要なツールとなるものであ
り、こうした検査の長期的な癌死予防効果やコスト
D.考察
これまでの我が国における遺伝学的検査は、費用
負担の問題、実施体制の問題が整理されないまま五
ベネフィットについて、海外諸国の実情調査も含め
今後検討していく必要があると思われる。
遺伝子解析で用いられる試薬や解析機器は、核酸
月雨的に導入されてきた現状がある。今後に向けて、
という物質の特性から、解析する遺伝子はもちろん
我が国における遺伝学的検査の保険診療に関しては、
試料の由来も問わない汎用性の高いものであり、研
対象とする疾患、遺伝カウンセリングという専門医
究目的だけではなく、臨床診断を目的とした遺伝学
療の位置づけを含めた医療の適正化について検討す
的検査にも利用できる。今後劇的に需要が増大する
ることが望ましいと考える。
と予測される遺伝医療の適正な普及とそれによる国
遺伝学的検査は正確な臨床診断を可能にし、患者
のその後の治療方針を根拠に基づいて立案すること
7 日本乳癌学会乳癌診療ガイドライン
ができることから、その臨床的有用性は高い。歴史
http://www.jbcsftguideline.jp/category/cq/index/cqid/40
0004
民の受益という視点から、臨床的有用性の高い検査
項目をより円滑に実用化するため、その検査提供体
F.健康危険情報
なし
制を拡充することが望まれる。
G.研究発表
E.結論
遺伝学的検査は、正確な臨床診断や適切な治療の
1.論文発表 なし
2.学会発表 なし
根拠となる臨床的有用性の高い情報を得られる検査
であり、医療現場において活用される機会は今後ま
H.知的財産権の出願・登録状況
すます増えると予測される。遺伝医療の適切な実践
1.特許取得 なし
のため、我が国の医療制度の中で、どのように遺伝
2.実用新案登録 なし
学的検査を位置づけるか、今後検討を進めていくこ
3.その他 なし
とが望ましいと考える。
別表 1 米国臨床遺伝学会による、偶発的に確認された遺伝子変異を開示すべき遺伝子及び疾患と、
これらに対する国内関連学会等の対応