安永七年︵一七七八︶ コー月七日 常陸国新治郡旗本本堂氏領上佐

︻人物﹂下佐谷村与惣左衛門 しもさやむ 一
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︱
らよそうざえもん
生年不詳︱安水入年九月.六日。
聞の義民、新治郡ド佐谷村百姓代︵名士と
も︶、姓は福田。名を肋六ともいう。安永
元年︵︵七七六︶の汪戸門訴にも頭取とな
り、安永﹄年門訴でも、ド犯行村六部几tけ
高貪村庄右衛門と相談、村々の高札場に掛
札をして領民を結集させ、一揆の頭取を勤
めた。領内の僧侶ら加罪軽減のため汀戸に
のぼって訴えたが、安永八年九月一六日獄
門の刑が申し渡された。詰所は一念か。ド
孫の相田氏宅にも供養草加あり、法名は秋
宿院深阿隔月義知緩翁居L。ぃ目塚加あり、
匈日切山の地名伝承が生まれた。閉居山の肋
六地蔵は領水が建立したとの伝承が生まれ、
八四目に肋六地蔵祭加行われた。百万遍供養
塔は陣屋代官杉山家加混在したという伝承
がある。開浜人年︵一八﹄斤︶に肋六白年
た、
︵深谷屯ビ︶
祭加行われ、記念碑が混てられ供花が行わ
れた。助六の霊は火ぶせの神になったとの
口碑伝承がある八万、本空家家臣らに対す
る肋六崇りの伝承もある,﹁からかさも開
けば人を肋くるに、しずくのドには寺はな
いかも﹂との領主批判の邦語伝承も生まれ
︹参︺奇勝善之﹃茨城県臼性.拐総合年八犬
柚田敏雄編﹃茨城自性ご恍﹄
〃’
安永七年︵一七七八︶ コー月七日
常陸国新治郡旗本本堂氏領上佐谷村等門訴
︵助六一揆︶
志筑に陣屋を置き八〇〇〇石を二目的に
支配すう参堂氏は旗本殼ヒ回のブ京で、当
時のL代当土親房加人名の板行水から人っ
てから実家の協力で藩体制に似た職制を整
備した。そのもとで有性支配が強まったた
め、安永五年に江戸門訴加実行された。こ
れは和解となったが、和肘金は志筑役所加
取り込んだ。一一年後、ド佐谷村百性代与惣
左衛門はト佐谷村六即決、高貪村出社衛門
と相談し、先年の和解金返還、年貢減免、
稲吉宿助郷退京反対などを訴える文占を
村々の改札揚に貼った。触発されて知行所
ノ五か村百姓加.く月じ目からー八日まで
嶋本原に枯生、ミ人を頭取に選び、にト田
村田左衛門加願書を書いた。郡奉行永山几
衛門加解散を命じたが、百姓側は拒否、・
ミ日永印加汪バにのばった。こ.日に回答
加なされたが、要求は処世されたため、自
性はミ斤目とくじ目に集会、︱八日に江バ
屋敷に門壽した。翌年.川村役人ら加人牢
させられたためヽ百姓は化合を重ね、人平
行赦免を優求して再度門訴した。禎上側は
当時の幕府の所内たる処以の原則で応じ、
ヅ惣左衛門が獄門、外ミ人が水平、
LJ
ノJ・
ミ入がT鎖に処さ牡た。
り