横須賀の碑を訪ねて-中編

板
碑
中 編
板碑は「いたひ」と読む。重箱読みだとの批判があったが、いまは通
称として辞書にも出ている。鎌倉時代初めころに発祥し、近世初頭(天
正頃)まで盛んに建立された石造卒塔婆の一種である。そのころ同時に
流行した宝篋印塔、五輪塔などの諸塔婆はすべて四方拝型であるが、板
碑は前面拝型であるところに特徴がある。
横須賀市内に現存する板碑は、いまのところ 14 所、20 基である。建立
年銘のもっとも古いものは大矢部満昌寺の元応2年(1320)、新しいもの
では久比里1丁目やぐらから出土した康正元年(1455)がある。最盛期
はそのいずれもが、緑泥片岩で造られた武蔵系である。この原石は荒川
上流の秩父地方の産出であり、武蔵系板碑はおもにその地方で造られ売
満昌寺の一双式板碑
元応2年(1320)大矢部
満昌寺の観世音種子板碑
鎌倉時代・大矢部
り出されたと考えられるから、その板碑が横須賀地域にそのまま建立さ
れたことは、板碑文化の上では、当地方はまさしく武蔵文化の流入につ
ながることになる。鎌倉時代以後の三浦半島は、地理的関係からも鎌倉
の影響をうけることが多かったが、板碑文化においては、沿岸交通の関
係から、武蔵系文化を直接うけ容れていたようである。
そのなかで、満昌寺元応2年板碑は双碑としても最も優秀な作品であ
り、密教系板碑としてこの地域唯一のものである。また後山の三浦氏墓
域の観音種子板碑は、無年銘ながら鎌倉時代の作品で、単純観音種子板
碑として唯一の存在である。清雲寺文永八年板碑は全高2m以上の鎌倉
時代板碑ながら、建立年銘に後刻された形跡があることが惜しまれる。
この三基は薬王寺と円通寺跡から移された。秋谷妙忍寺の延文5年(13
60)題目板碑はこの地域としては珍らしい存在であるが、他地からの移
動らしい。また田戸台聖徳寺には鎌倉長谷寺徳治3年(1308)板碑を模
観明寺の板碑
貞和元年・延文2年 長井
聖徳寺の板碑
慶長 15 年(1610)田戸台
造した慶長 15 年(1610)銘板碑がある。
*文永8年:1271年
貞和元年:1345年
やぐらと石塔
「やぐら」はかつて「矢倉」とも当て字したが、字義から誤解される
ことがあるというので、今は使用されなくなった。江戸時代には、鎌倉
のやぐらを呼称するに岩窟また画窟を当て、それに里人のよび名として
よ
ヤグラ・エカキヤグラの訓みをつけた。しかしその呼び名はいまだ学
界で十分に理解されるにはいたらない。明治 35 年、堀田璋左右氏は鎌倉
やぐらを調査したが、覚園寺百八巌窟との名称を使用している。それか
ら 35 年して昭和 10 年、鎌倉史跡巡る会は第 27 回に亀ケ谷五輪山腹の崩れ
地を調査して「やぐらである事を一見して知り得た」と記録している。
円通寺やぐらの玄室 大矢部
この会の調査記録にはじめて見る「やぐら」用語である。はじめ里人語
としてあったやぐらを学術用語としたのはどうやらこの会であったらし
やぐら玄室奥壁面奉納五輪塔
追浜イナリ谷戸
い。しかしやぐらの発現問題については明答がない。またやぐら分布圏
についても充分な調査がつくされてないが、鎌倉地域の特殊な存在とし
た旧来の考え方は破られかけている。
横須賀地域のやぐらとの関係については、極楽寺坂間、家裏のやぐら出
土の宝篋印塔銘、文保元年(1317)を鎌倉やぐらの上限とする考え方と、円
通寺跡やぐら出土の満昌寺元応2年(1320)板碑を上限とする横須賀地域
やぐら年暦との間には時間的な前後はほとんど見られない。といっても
横須賀地域やぐらが鎌倉やぐら文化の影響なしに発達したとは考えられ
ない。造寺・造仏などその他の事ごとからも横須賀文化は鎌倉文化の波
及であることは否定できない。横須賀市域にどれ程のやぐらが存在し、
どのような文化遺産を包蔵しているかについては今後の調査をまたなけ
ればならないが、横須賀市域やぐら調査はこれからが本番であろう。新
やぐら玄室の奉納石造物
久比里1丁目
衣笠やぐらの玄室
編相模国風土記稿に見るところでは大矢部円通寺はかっては岩窟寺院を
おもわせるように、後山にやぐら群が口を開いていたことが知られる。
阿弥陀如来の石像
阿弥陀仏一阿弥陀如来は、地蔵菩薩、観世音菩薩とならべてもっとも
親しまれた仏である。浄土教系の寺院では欠かせない絶対唯一の本尊に
なっているが、しかし石仏となると、見ごたえある尊像には容易に出会
えない。しかし、阿弥陀仏像は観賞するためのものではなく、拝むため
のもの、信仰の対象として造顕されたものである。
横須賀市内の阿弥陀像を順拝すると、まずその像様では立像と座像と
があることが知られる。彫刻の上ではまる彫と半肉彫とがあるが、細線
彫はまれである。立像では芦名浄楽寺の明暦3年(1657)像高 109 cm、
緑が丘の良長院にはすぐれた彫刻が3体ある。そのなかで寛文9年(1669)
じょうぼんじょうしょういん
像は舟形光背を負った半肉彫の立像で、像高 88cm、 上 品 上 生 印 を結ん
やすのぶ び
阿弥陀如来立像
明暦3年(1657)浄楽寺 芦名
阿弥陀如来座像
西来寺 不入斗
く
で立つ来迎の姿体の前にはおのずと頭がさがる。念仏衆4人が安信比丘の
ため四十八夜念仏を修し、逆修善根のため建立したのである。逆修とは
生前に仏事を修することで、死後の縁者による菩提供養よりも功徳があ
るというので平安時代末ごろから盛行し、法然上人はそれを弘く称道し
た一人である。阿弥陀如来の立像は浄土教信者が建てた供養塔にもしば
しばあらわされる。久里浜伝福寺の寛文4年(1664)像もすぐれた立像
である。
座像には不入斗西来寺堀田家の墓碑にすぐれた彫刻がある。舟形光背
を負い、像高 55.5cm、半肉彫の深さ 12cm、頭光背から舟形光背いっぱい
に 12 光を発し、面相は微笑をおびている。年銘を欠くが、江戸時代初期
の形式である。
武東漸寺には善光寺式阿弥陀三尊像が建立されている。この種の造像
はこのほかにもあるが、善光寺如来信仰の復興であって、順拝者にあた
える影響が期待される。
阿弥陀如来立像群
寛文9年(1669)ほか良長院 緑ケ丘
善光寺式阿弥陀三尊像
東漸寺
武
鬼より強い子育地蔵尊の慈悲
鬼は人間社会において、また仏教社会での不動明王などとはことなっ
た意味で、もっとも恐ろしい圧力をもった存在として考えられている。
ところが、その鬼を地蔵菩薩が脚下に踏伏している構図の石造仏塔が大
矢部満昌寺にある。
満昌寺は臨済禅宗で鎌倉建長寺との本末関係をもち、三浦義明を開基
としているところから義明山と称し、この地域での大寺である。後丘に
義明の霊社をまつる。こうした由緒から近隣にその寺名が知られ、境内
には三浦氏関係の石造物が数基建立されてある。山門前の十余基の庚申
塔群は、いずれもその近隣地から持ちこまれた第二次的な建立である。
子育地蔵尊像塔 (1)
大矢部 満昌寺
参拝者が歩を止めているこの異様な石塔群にまじって子育地蔵像塔があ
る。これもどこからか移動されたものにちがいない。安山岩製で総高
ばん
100 cm 余り、舟型光背を負い、右手に幡を持って肩にかけ、左手は与願
印を結んで垂れ、岩座上に立つ。その左脚元には小児2人が左右からま
つわりついている。
地蔵尊像の足下に一鬼が踏みつけられている。鬼面をあらわにし、左
手に金棒を握りしめたまま、地蔵尊の上からの圧力に押しひしがれてい
る。けだしこの様相は、この当時盛行した庚申供養塔に、青面金剛尊の
おうふく
脚下に天邪鬼が壓伏された姿を彫りつけて、青面金剛が持つ神通力を表
現すべく試みたという例があったが、それを子育地蔵尊に置きかえ、天
邪鬼を鬼にかえて、子育地蔵尊の育児愛と慈悲心の強さを表現したので
あった。
ばん
子育地蔵尊像塔(2)
大矢部 満昌寺
幡:
〔仏〕 仏・菩薩の権威や力を示す荘厳具(しようごんぐ)として用いる
旗の総称。
子育地蔵・岩舟地蔵
子育地蔵尊が集落の巷に祀られている例は多い。しかし子育地蔵とい
う菩薩が仏典中に説かれているのではなく、地蔵尊信者が祈願にまかせ
て名づけた俗称である。地蔵菩薩本願経にその信心の功徳を「菩薩の大
悲体は、その徳を六道中に満たして、影の形に付き添うようにしてしば
さいど
しの間もはなれることがない」と説かれているところから六道済度の慈
悲の菩薩とされている。六道は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人道・天道
で、宇宙中の生命を持つものの世界を意味し、その各道にそれぞれ地蔵
を配置して救済にあたらせる。子育地蔵は当然その中に含まれているわ
けである。とげ抜き地蔵・いぼ地蔵・耳たれ地蔵・おはぐろ地蔵・おし
岩舟地蔵尊像
享保5年(1720)津久井の路傍
ろい地蔵など、地蔵菩薩の愛称は限りなくあるが、それらはすべて心願
者が祈願がかなった功徳・ご利益にまかせて勝手に呼びなしたものであ
るから、そのために、せき地蔵が風邪地蔵にもなれば延命地蔵ともなる
子育地蔵尊像
元禄 10 年(1697)東逸見一丁目
わけであって、願のかけかた、お礼詣りの仕方によってもよび名はかわ
ってくるのである。
東逸見1丁目の子育地蔵尊は像様がかわっている。舟形光背を負った
半肉彫像で、総高 91cm、像高 50cm。建立銘には「南無阿弥陀仏」とある
が、裸頭で、左掌を胸前に置いて宝珠を載いているのは、まさしく地蔵
菩薩の様相である。同行者 16 人、建立年銘は「元禄十丁丑(1697)七月日」
とある。そして脚下に造り出した基礎の両側に猿像が彫りつけられ、前
面は小児6人が遊戯している様を彫り出している。
岩船地蔵尊像は津久井 123 番地の路傍に、その他の石造物とともに祀
られてある。火成岩製で、基台小舟の上に大きな蓮華座を据え、その上
にゆったりと座している。総高 97.5cm、像高 50cm、右に錫杖、左掌に
子育地蔵尊像の基礎部
東逸見一丁目
宝珠を棒ぐ。念仏回向のため同行六百余人が浄財を出しあって、享保5
年(1720)建立し、宝暦4年(1754)に津久井村人が再立したとの銘がある。
子育地蔵尊像
年銘欠 緑ケ丘良長院
岩舟地蔵は石造り舟に座していることから出た俗称であろう。
六道済度:六道の衆生を救済し悟らせること。此岸から彼岸の世界へ渡す。
両
面
地
蔵
久比里の宗円寺に両面地蔵とよばれる小形な地蔵菩薩石像がある。材
石は赤御影石で、総計 10 基。建立銘は無いが、近世初頭ころの作風で、
東国石工の作品ではないらしい。いま長浦常光寺に、これとほぼ同じ石
質と思われる花崗岩製の石燈龍一基があって、これもまた東国石工の作
品ではない。建立年銘を欠くが、室町時代の作品と擬定される。この二
宗円寺の両面地蔵
正面
久比里
種の石造物は異質ながら、その石質・手法等を考えあわせると、ともに
西国風である。江戸時代初頭ころに、廻船に積み込まれて移入されたの
ではなかったかと推察される。
さて、この宗円寺の両面地蔵は、10 基ともに大小不同である。通じて
えぐ
自然的なまる形で、高さ 29cm∼32cm、その両面を蓮弁型に、わずかに刳
り込み、華座をやや深く陽刻し、その上に諸尊像を陽刻するという手法
である。現在は両面見通しのコンクリート製の飾り壇に上下段五体ずつ
安置されているが、一石の両面に仏像を陽刻したことの意向は、やはり
現状のように両面拝観のためであったろう。両面地蔵という呼称は、そ
宗円寺の両面地蔵
背面
久比里
の志向を汲みとった俗称である。
横須賀市内には宗円寺のほかに、なお吉井真福寺に3体、阿部倉地蔵
堂に1体、上町路傍祠に1体が奉祀されている。初め宗円寺の 10 体とあ
わせて移されてきたが、後日何等かの理由で分散したらしい。そこにま
たこの両面地蔵が他の土地から移され買いとられて来たという流伝史が
のぞかれるようである。
宗円寺の両面地蔵
上壇の右2体 久比里
地蔵尊像さまざま
地蔵菩薩は仏教諸尊のなかで、日本ではもっとも庶民的な「ほとけ」
として親しまれ、尊崇されている。鼻かけ地蔵から小便地蔵までさまざ
まな渾名がつけられているのも地蔵菩薩がもっている庶民性のあらわれ
しか
で、世俗のなかに確と根をおろしていることのあかしである。それだけ
に庶民の信仰の対象として庶民の手で建立された地蔵像は地上に満ちて
いる。それは地蔵菩薩の本願は、あらゆる人がもろもろの地獄に堕ちる
死後の苦悩を離れさせ、仏教の救いにあずかれない世上の衆生を済度す
こんじょう ごしょう
る、今 世 後生を通じての引導者であるとの経説が基盤になっている。し
かし折角祈願をかけるにも感じのいい仏像がよいというのも庶民のすな
おな心情であろう。地蔵石像にも座像と立像、まる彫と半肉彫、単一像
六地蔵一放光地蔵
寛文4年(1664)
六地蔵一金剛法地蔵
久里浜伝福寺
と六体像とがあるが、まる彫像は総しては頭部が欠け易い。
東西に墓地を順礼してまわると地蔵菩薩像は幼児の墓碑に利用された
例が多い。これは賽河原伝説の影響と考えられるが、石像作品としての
良作にとぼしい。横須賀市内地蔵像のなかで、建立銘が古く、かつ良作
としては芦名浄楽寺参道の寛文5年(1665)立像(像高 148cm)、久里浜
正業寺の寛文 12 年(1672)座像(像高 100cm)、久里浜長安寺の正徳6年
(1716)立像(像高 110cm)等がある。
六体像は俗称六地蔵と称され、普通は寺院の中門内、また墓地入口に
よ て ん が
ど
ほ う こ おう
こんごう がん
多く建立される。預天賀(諸天人を度す)
・放光王(五穀成就)
、金剛願
こんごう じつ
こんごう とう
(地獄入苦を度す)
、金剛実(餓鬼道に度す)
、金剛幢(修羅道を度す)
こんごうひ
・金剛悲地蔵があって、罪業のために地獄道に堕ちこむ衆生を救い出し
て極楽浄土に引導する大役をになっている。六地像の名は異なり、救済
の名目はちがっても衆生救済の道は一つである。市内六地像のなかで久
里浜伝福寺の寛文4年(1664)像が古い。念仏講中の施入である。
地蔵菩薩立像
寛文5年(1665) 芦名浄楽寺
地蔵菩薩座像
寛文 12 年(1672)久里浜正業寺
せにゅう
施入:ほどこし
度す:救う、諭す
不動明王像
横須賀地域では武山不動尊を中核として不動信仰が盛んになった。武
山登山が困難な信者のためには前不動を奉祀することも周辺の集落に流
行した。武一騎塚(安政5年)
、野比大作の武山不動尊(安政2年)塔
などはその例である。そのほかに不動尊像を奉祀する寺社として久里浜
正業寺・長安寺(昭和5年)
・芦名立石不動・大滝町豊川稲荷(明治 37
年)・久村御滝不動(万延元年)などあるが、そのなかで注目したいの
は正業寺の出世不動である。これには出世不動尊略縁起が彫り添えてあ
る。それによると、この不動尊は八幡光明院に祀られてあったが、当院
が廃寺された後、正業寺境内に移されたとある。曰く
抑当院二安置シ奉ル出世不動明王ノ由来ヲ尋ルニ、往昔当院主視先法
出世不動明王像
文政3年(1820)久里浜正業寺
印一夜霊夢二大威徳ノ冠人忽然トシテ枕頭ニ来リ告テ日ク、汝能ク是
ヲ聞テ此地稲荷ノ社中ニ時々光輝アルハ是則大聖不動明王ノ霊光也、
必ス怪ム事ナカレ。能ク精心ニ恭敬シテ謄仰シ奉ルヘシト告ケ畢テ忽
ニ跡ヲ没ス。誠ニ奇異ノ思ヲ成スニ堪ヘス、漸ク暁キ発シ晨朝ニ瑞夢
ニ随ヒ一人ノ幼童ヲ誘ヒ社辺二到テ是ヲ見ルニ神境ヨリ赫々タル霊光
当陽ニ儼然タリ、即チ童子手ヲ以其地ヲ穿ケレハ其中ヨリ御長ケニ寸
餘ノ金仏ノ不動直下二出現シ玉フ也。是廻テ仏製ノ聖鎔ニシテ容顔甚
タ奇妙也。即チ伝来ノ本尊御腹寵ノ秘蔵ニ勧請ス、茲ニ因テ出生不動
明王卜称号シ奉ル(中略)若シ能ク此ノ行ヲ行スレハ功徳量ル可ラス
法ノ如ク念誦ヲ作セハ大悉地ヲ得ル矣
と。そもそも不動明王は五大明王、八大明王の主尊で、無動尊ともいわ
れ堅固不動の菩提心を表わし、大日如来の所変教令輪身と説かれ、右手
の剣、左手の索は、如何なる不信邪悪な衆生をもことごとく大日如来の
功徳にあづからせるための示威であると解釈されている。
前不動明王像
安政5年(1858)武一騎塚
明治生まれの不動明王像
明治 37 年(1904)大滝町豊川稲荷
弁天窟・弁才天像
林地区の黒石地先に弁天窟とよばれる聖地がある。後背の丘陵および
周縁は樹木繁茂し、道路幅はせまい。時折り津久井あたりからの行楽自
動車が走り抜ける程度の静寂地である。
弁天窟は、入口高さ 2.5 m、広さ2m余、両袖があって、窟内は天井
はほぼ平坦で、間口4m弱、奥行4mほどでヤグラに似た感じである。
年中陽光をあびることがないようで、水滴が洞内をうるおしている。そ
の過剰な湿気は洞内の石造物の自然崩壊を早めているようであるが、陸
中の弁天窟にはふさわしい環境である。窟内には、その名のとおり弁財
天供養塔が数基奉納されているが、あるいはかたむき、自然のままに置
かれているというすがたである。建立銘もあるいは欠き、あるいはすで
ひのえね
に判読し難くなったものもある。そのなかに一基「宝暦六丙子年(1756)
林の弁天窟
九月吉日」として、同行者 10 人が名をつらねてあったが、この人びとは
あるいは弁天講中であったかも知れない。
林の地は水田がすくなく、そのために農間林業をもって生計をたてて
いたという土地柄であった。村中に太子講が結衆されていたのはその故
であるが、弁天信仰が盛行した理由はあきらかでない。
横須賀市内にはこのほかにも弁財天像石塔が奉祀されている。東逸見
一丁目子育地蔵堂内に安置されているものは、偏平な塔身の正面の八臂
座像を陽刻し、建立者は「当村喜代七]とある。総高 41cm、前面幅 26cm。
文化十二年亥(1815)十二月二日の建立である。塚山公園の一基は嘉永
五子年(1852)八月の建立で、建立者は「山中里中・木古庭村中・上山
口村中」とある。 三面八臂像で、塔身は火成岩質、偏平型、総高 45.5
cm、前面幅 32.5cm。大矢部満昌寺の一基は蓮弁光背型で、総高 43cm、建
黒石の弁才天像
宝暦6年(1756)林
満昌寺の弁才天像
無年銘 大矢部
立銘を欠く。本尊は童顔で近代的な作風である。
千手観音像・閻魔(えんま)大王像
大矢部
千手観世音菩薩像
清雲寺
千手観音像の石塔は市内の所々に建立されているが、そのなかから一
般に知られているものを取りあげることにした。
観世音菩薩は慈悲救済の菩薩(ぼさつ)として大勢至菩薩とともに阿
弥陀如来の挾持として蓮華座を両手にささげ侍している。これはあらゆ
る人びとをその上に乗せて阿弥陀如来の極楽浄土に迎え入れるためであ
る。そのために救世菩薩の異名がある。またその誓願によって七観音・
三十三躰観音とよばれる様ざまな様相があらわされる。
じゅんち
ようりゅう
千手観音はその一種で、聖観音はじめ十一面・如意輪・準胝・楊 柳 と
ともに六観音のなかに挙げられる。千本の手(千臂)をもち、各掌に眼
を持ち、観音経に慈眼視衆生とあるように、つねに慈悲に満ちたまなざ
ふくじゅ
しで衆生を見つめ、福聚の海に救い入れることを誓願としている。しか
し実際に信者によって建てられた千手観音石像は、その数は意外にすく
えんま大王像
正徳3年︵1713︶ 林 正住寺
ない。大矢部の清雲寺、久里浜住吉神社脇、佐原の聖徳院などがおもな
存在である。そのなかで清雲寺の一体はマンガに画かれそうな童顔の素
朴なところに観世音菩薩の慈悲心が深くこめられているようである。建
立銘はないが江戸時代中期の作であろう。
えんま石像は、地蔵石像とちがって容易に見当らない。記録としては
秋谷円乗院(浄土宗)持ちの十王堂、正行院(浄土宗)持ちの閻魔堂な
どのほかに、かつて寺院に祀られてあったことは記録に見られても、閻
魔石像は個人的な信条によって建立奉納されたと考えられる理由から容
易に見出せない。そうして石像仏探訪を重ねている間に、林5丁目正住
うち
寺で1基見出すことができた。同寺本堂前方の小祠の裡に数多くの石造
仏の奥に据え置かれていたのである。蓮弁光背を負った凝灰岩製の座像
きがんけつ
で「三界横治九居尊」という祈願偈が添刻され、
「正徳三巳(1713)二
福聚の海:福徳の集まることが海のように広大であるとい
うこと
月廿四日禅誉代」との造立の由来を知った。この像はあるいは秋谷の十
王堂・閻魔堂が廃されてここに移されたものかも知れない。
牛頭天王碑・牛頭観音供養塔
横須賀市域に牛頭天王と牛頭観音とよばれる供養塔がある。その数は
すくない。現在のところでは、牛頭天王は佐原に、牛頭観音は津久井、
衣笠地区などに見られ、牛頭観音は隣接の三浦市内にも見らオ七る。
佐原御霊神社境内の牛頭天王塔は、堆積岩製、円頭角柱型で、総高は
かまち ぐ
基台とも 50cm、塔身前面に花頭型に 框 刳りして「奉納牛頭天王」
、右側
せっしゃ
面に「宝永四年(1707)佐原村]とある。また摂社として石廟も奉祀され
ている。牛頭天王は、俗称[天王さま]と愛称されて、各地で行われる
夏の天王祭の祭神である。その本源は京都祗園社成就院、現在の京都八
坂神社で、本体はスサノオノミコトとされる。
それとは別に牛頭観音かおる。しかし仏教書によると、牛頭禅、牛頭
牛頭天王祠
御霊神社 佐原
法門という名称はあっても、牛頭観音はない。牛頭禅は中国の禅宗の一
派で、牛頭山を中として発したことに由来し、また牛頭法門は伝教大師
ようさん
が中国から伝来したと称する牛頭法門要纂という書に説かれる法で、観
音信仰とは関係しない。また『牛頭馬頭』(ゴズ・メズ)は地獄の獄卒
のことで『地蔵菩薩発心十王経』に[牛を苦しめ牛を食えば牛頭来り、
馬に乗り、馬を苦しむれば馬頭多し]と説かれているから、その名称に
はあるいは関係したかも知れないが、本質上は全く異なっている。
津久井の新込には大正 12 年に[牛頭観音]供養塔が建てられ、また衣
笠城址旗立岩の傍らに、昭和二十六年六月八日を銘する「牛頭観世音」
塔が建立されている。この事実は、あるいは当時信仰されていた馬頭観
音にヒントを得て、農耕用として駆使した家畜牛の死をあわれんで供養
塔を建てるにあたり、牛頭観音と仮称した一種の方言であったとも解釈
される。しかもその建立期が大正・昭和初頭であることは、朝鮮牛と称
した小躯の赤牛が農耕用として飼育された時期に相当する。
牛頭天王塔
宝永4年(1707)佐原御霊神社
牛頭観音供養塔
昭和 26 年(1951)衣笠城址道
摂社:神社の附近の境外にある小規模な神社のこと
要纂:要点を抜き出した書物
馬頭観音塔
へい ば
馬頭観音は世俗には馬頭観世音とも称されて、斃馬の霊をなぐさめる
ことを目的としてまつられる。馬頭観音は馬頭明王・馬頭忿怒王・馬頭
金剛明王・大力持明王などと称されて、その本尊は忿怒教令輪身とよば
れるように、怒(いかり)の相貌をあらわした明王部に所属し、観自在
菩薩(観世音菩薩)の変化身で、頂上に馬首をいだいているところから
馬頭観音とよばれるのである。
馬は、獣類の中でも水草を食うこともっとも強く、またこの観音は衆
生の身をつねに念じ、衆生の無明煩悩を食いつぶしてしまうことに専念
しているといわれる。この像は四面二臂、三面四臂、三面八臂という忿
三面八腎馬頭観音像塔
文化4年(1807)西浦賀浦島墓地
怒(いかり)の相に表現されることが多いが、この明王相は調伏、除病
などであって、世俗的には家畜、ことに馬の安全を祈り、またその追福
供養のためにまつられることが多い。石造物にみる馬頭観音像は、面相
がやわらいでいるのはそのためであろう。通常、その形像は二面二臂、
三面八臂である。二臂像は左手に鉄斧、右手に蓮華茎葉を執り、八臂は
こんぽん ば こういん
左右二手に根本馬口印をむすび、余りの六手は左に金剛棒、宝輪、念珠
せ む い い ん
を持ち、右は剣、金剛鉄斧、施無畏印を結ぶと説かれるが、かならずし
もそれによらないようである。
馬口印:人差し指と薬指は曲げて指の背と背を合わせ、親指、中指、小指
は立てて指の腹を合わせる印
施無畏印:手を上げて手のひらを前に向けた印相
三面八腎馬頭観音像塔
嘉永5年(1852)西逸見
安針塚後方山中
二面二腎馬頭観音像塔
元治2年(1865)林・黒石
横須賀市域初期の庚申塔と庚申講
庚申供養塔は庚申信仰を具体的に表現したもので、一般に庚申塔と略
称されている。この信仰はもと中国に発している。道教関係の古典と
ほう ぼ く し
される『抱朴子』という書によると、この世に「三尸」と呼ばれる形の
見えない鬼神があって、これが食物にともなって何時とはなしに人体に
潜入して、常にその人の行為を監視し、庚申の夜に、睡眠している間に
人体から脱け出して、天地に居ます司過之神に逐一報告する。司過之神
はその報告にもとづいてその人に戒罰をあたえることになっている。人
が死んだり、病にかかるのはそのためだと信じられた。そこでそうした
戒罰をまぬがれるために、庚申の夜は不眠で司過之神を祭った。これが
庚申待である。そうした信者の仲間を庚申講中とよんでいる。また庚申
庚申供養塔のある辻 林地区
中と称することもあるが、どちらかといえばこのよびかたがふるい。
日本の庚申信仰ははやく平安時代に宮廷貴族の間に流行し、鎌倉時代
には武士階級の間に普及し、さらに室町時代には一般庶民の間に信仰さ
れるようになった。しかしはじめは定まった本尊を祀ったのではなく、
仲間同士で祭祀したが、仏教が介入するようになってから、仏教風の本
尊が祀りこまれた。すなわち、初め天台宗は比叡山延暦寺の守護神とさ
れた山王廿一社を本尊とし、さらに山王神の使者とされた猿をもちこん
さいやく
だ。猿「さる」を災厄をまぬがれるという意味に附会したのである。ま
だ ら に じ っ きょう
た真言宗は『陀羅尼集 経 』という経文から青面金剛神を取り出して本尊
に仕立てあげた。そうして、たがいに自宗の宣伝と勢力拡張に利用した
のである。庚申信仰がもっとも流行したのは江戸時代になってからであ
って、庚申供養塔が盛んに建立されたのもこの時代である。そうして明
治初年までは続いていたが、昭和時代にはほとんど衰微し、ごく僅かな
初期の庚申供養塔(左)
寛永 12 年(また 16 年)公郷3丁目
初期の庚申供養塔
正保2年(1645)芦名城山麓
地区に名残りをとどめている程度である。
!II・
庚申供養塔
庚申供養塔、略称庚申塔。また青面金剛塔、山王庚申大明神塔、帝釈
天王塔などの建立銘もある。青面金剛塔以下の呼称はいずれも庚申待を
修するための信仰対象として祀りあげた本尊名にもとづいての仮称であ
る。もともと庚申待は庚申日、また庚申夜の災厄をまぬがれるための祭
祀であって、本尊と称するものは無かったが、中世になって祭祀は仏教
が関与することになると、何時とはなしに本尊が奉祀されるようになっ
たと考えられる。
やがて中世後期の室町時代に入り、庚申信仰が一般社会に浸透するよ
うになると、信者側からの欲求があり、また仏教側においても、教勢拡
張のためにも効果的であるとの観点から、積極的に庚申待のための本尊
を勧奨したようである。最初、そのことに着目したのは天台宗であっ
六臂青面金剛像 宝暦8年
(1758)
南武 路傍
た。天台宗はそのための本尊として山王廿一社マンダラを採り入れた。
二臂青面金剛像
寛延4年(1751)長坂
そして庚申待を申待と称した。これが後日庚申塔に三猿像が附着するこ
とになったもとである。幕末に神道側が猿田彦大神をもって庚申祭祀と
した発想は、この天台宗義の転用である。天台宗よりも一歩おくれて真
だ ら に じ っ
言宗は、庚申待の本尊に青面金剛尊を案出した。この尊像は『陀羅尼集
きょう
じゅほう
経 』の大青面金剛咒法に説かれるが、庚申待とは何等の関わりがない。
ただ一身四手をもち、左右手にそれぞれの悪鬼をしりぞけ、災厄防止に
役立つ武器を持つなどの形相が、巧みに利用されたにすぎない。
現在はさらに二臂を加えた一面六臂像を多く見るが、これは江戸時代
武家中心的世相を礼讃する意味から、弓矢を持つ手を加えたのである。
また一身二臂、一身八臂像もある。浄土宗は阿弥陀像また六字名号を、
日蓮宗は帝釈天王また七字題目を、それぞれ本尊にあてたのも、ともど
も宗義に即した発想である。江戸時代中期以後になると、それとは別な
発想があらわれた。庚申供養塔、青面金剛などの文字塔である。これは
講中また結衆の寺壇制約にとらわれない自由な信条表現であり、且つ建
青面金剛王庚申塔
武4丁目の辻
庚申塔(文化 15 年・1818)
一猿像(享保9年・1724)
うるし山 長井
立費の低廉を考慮した発想である。
百
庚
申
太田和専養院境内に百庚申とよばれる一群の庚申供養塔がある。百庚
申の呼称はあっても、実在は稀である。専養院百庚申も正確には 14 基で
あるが、総体として 99 体の庚申塔を祀っているのである。それは、古来
仏教の行事として八万四千基供養とか、百万塔とかが伝えられるが、時
にはそれにちかい数字の塔を供養したこともあろうけれども、その多く
は多数量を表わす誇称であったらしい。千手千眼観音の称は、具体的に
千手・千眼を実際に一体で持つのではなく、一手に幾百手かを具えさせ
一眼で幾百眼を代表させているのを含みとしての千手千眼である。いま
専養院百庚申の内容を調べると、庚申塔名の書体は楷書・行書・隷書の
三様で『庚申塔』の文字が書刻され、1体のもの6基、8体のもの3基
百庚申の現状
専養院 太田和
11 体のもの1基、13 体のもの1基、15 体のもの1基、17 体のもの1基、
19 体のもの1基である。しかし1基1体の6基は、その他の8基がいず
れも偏平な変成岩を使用しているのとちがって、材石は偏平な変成岩を
使用しながら、書体・彫法を別にしているので、あるいは前者の書跡を
追慕して後人が別個に建立したことも考えられる。なおほかに大正9年
10 月 20 日建立の1基もある。
みずのえさる
この専養院百庚申塔は明治 壬 甲(5年・1872)春1月太田和住浅葉仁
右衛門が建立している。庚申塔之紀によると、その父貞晃は累年このこ
たいじょう
とを志したが、遂に果たさずして没したので、その志を嗣いで太 上 帝王
まんごう
う
す
さ
ま みょうおう
利益万劫のためにこれを建立し、別に祠を起こし烏枢沙摩 明 王 像一躯を
奉納したとある。
因に専養院は三浦大介義明の第三子太田和三郎義久がゆかりの地と伝
え、古跡山の山号を称している。また本堂には去る戦時中に軍需供出を
まぬがれた文政8年(1825)銘の半鐘が懸けてある。
太田和の百庚申塔(1)
太田和の百庚申塔(2)
太上帝王:最も優れた帝王
天台宗系庚申供養塔・真言宗系庚申供養塔
天台宗系庚申塔として、また真言宗系庚申塔として、明確に、他宗系
庚申塔と識別できるものはすくない。天台宗は、はやく山王廿一社を庚
えんご
申祭祀の本尊に推し立てるに成功し、同時に三猿をその掩護役に添えて
庚申塔には不可欠な添えものとして定着させた。また真言宗は、青面金
剛尊をもって庚申待の本地仏とするまでに成功した。そのため両宗とも
に今さらあらためて自宗色を表現する必要はなかったかも知れないが、
やがて各宗ともに乗り出してくると、かつて両宗の特色としたものは他
宗にも吸収されて、自宗の持ち味がうすめられてくる。そこで、敢えて
天台宗系庚申塔をもとめると、横須賀市域内の庚申塔のなかから寛永 12
年(1635)から延享4年(1747)までの間で天台宗系庚申塔と認められる
数基を取りあげてみた。それによると、銘文表現では「帰命山王庚申大
帰命山王大権現・
天台宗庚申塔(左)
寛永 12 年(1635)公郷3丁目
奉造立山王大権現・
天台宗庚申塔
延享2年(1745)田戸台
権現、奉勧請山王大権現、山王大権現庚申講中」などとある。現在各地
に日枝神社、山王社、日吉神社の社名で奉祀されている神々は、いずれ
も近江国坂本に鎮座する日吉神社を勧請したものである。日吉神社は、
しんぶつ こんこう
神仏混淆のころは比叡山延暦寺の守護神とされて、その関係から天台宗
の教勢が全国に伸展したにともなって日吉神社の信仰が広く高揚された
のであって、庚申供養塔に主神として山王神があり、その化神として三
猿像が添えられてあるのと一体である。古くは日吉神社をヒエシヤ、ヒ
エサンオウゴングンと称し、日吉山王利生記をヒエサンオウリショウキ
と訓むのもその名残りである。
真言宗系庚申塔は天台宗系のものよりももっとすくない。横須賀市域
内では衣笠大善寺の寛文 12 年銘に五大種子
りつけ、久比里宗円寺の文政2年庚申塔に明王部種子
いっぱいの努力である。
五大種子・真言宗庚申塔
寛文 12 年(1672)衣笠大善寺
明王種子青面金剛・
真言宗庚申塔
文政2年(1819)久比里宗円寺
を彫
をみるのが精
浄土宗系庚申供養塔・日蓮宗系庚申供養塔
阿弥陀如来種子名号・
浄土宗庚申塔
享保 11 年(1726) 長井不断寺
阿弥陀如来来迎像・
浄土宗庚申塔
元禄4年(1691) 長井不断寺
南無妙法蓮華経帝釈天王・
日蓮宗庚申塔(右)
貞享4年(1687)大矢部満昌寺
帝釈天王・日蓮宗銘庚申塔
弘化5年(1848)三春町6丁目
信仰史の上でもっとも有利に、しかもほとんど無手のかたちで、しか
ももっとも幅広く庶民層のなかにとけ込んだのは浄土宗であったろう。
というのは、庚申信仰の思想を如実に表明した痕跡を今日に伝えている
遺物は板碑である。板碑にあらわされた種子が、そのまま当時の浄土教
信仰の実情を伝えるとは考えられないが、板碑にあらわれた庚申待供養
が阿弥陀如来の一尊または同信・同行者を結衆と称した像信仰をともな
っているのは事実であり、それが近世に持ち継がれたことは否定できな
い。江戸時代、庚申塔に阿弥陀如来像または阿弥陀名号を標識としたも
のが多いのはその事実を裏付けている。江戸時代の庚申信仰は、同行が
結衆した「講」のかたちで修せられたが、その場合、講中の間をまわり
もちに「宿」に会合し修法されたが、また同信同行の場合は菩提寺を利
用した例もあり、同行者中に僧自らが加わっている例も多い。そうして
庚申にあたった年時には、格別な行事を修したり、供養塔を建てたりし
たが、その場合には同信者の菩提寺の僧を請じて修法を行ったのであ
る。これについては江戸時代には、百姓や町人たちが勝手に集まり、会
合することはかたくいましめられていたので、自然、菩提寺に法事に事よ
せて庚申講を修したために、庚申塔の建立銘文も所属寺院僧の意向にま
かせることになったろう。そのために浄土宗庚申塔は、常時となえる南
無阿弥陀仏とか、阿弥陀像を彫った。また日蓮宗では常時口唱する南無
妙法蓮華経の題目とか、根本依経とする妙法蓮華経の経名を表わすこと
が多かったが、横須賀地域では帝釈天王名または帝釈天王像を表現した
ものが多く残存する。これは当時、江戸郊外柴又題経寺が宗祖日蓮真蹟
と伝える帝釈天王像板木を秘蔵して、その分身を関係寺院に頒布した影
響による。しかし浄土宗・日蓮宗ともに三猿像を添えることは忘れなか
った。横須賀市域内に現存する日蓮宗系庚申塔は約 60 基あり、そのうち
27 基が帝釈天名または帝釈天王像である。しかも帝釈天王欽座、帝釈天
王加護処、帝釈天王守護所、帝釈天王現安後善守所などと、その塔また
建立地点をもって帝釈天尊の降臨鎮座の聖地としていたのである。しか
も他宗派系のものと混在しないのが特徴である。因に浄土宗系庚申塔は
名号のほか、阿弥陀如来像、阿弥陀如来種子で表現されたが、文政年間
以後は見あたらなくなった。
猿田彦大神の信仰
横須賀市域内に現存する猿田彦大神塔は約 30 基、その多くは尖頭角柱
型で、塔身の総高は 100cm 前後で、一般の庚申供養塔よりは少し大形で
ある。材石は火成岩が多い。神名の表現はおおむね「猿田彦大神」に一
あめのうずめのみこと
定し、特殊な例としては芦名十二天社の一基が天 鈿 女 命 と猿田彦大神と
を併せ祀っている。また久里浜内川天神社には猿田彦大神像を半肉彫り
した一基がある。碑面の表現は神名だけの五文字を彫り付け、時に上方
左右に日月形を配したものがあるが少数である。その分布は、手控のま
ま挙げると、大矢部・金谷・岩戸・久里浜・久村・鴨居・浦賀・岩戸・
長坂・芦名・林・秋谷・深浦等で、そのなかで久里浜地区にもっとも多
猿田彦大神塔
天保 12 年(1841)久里浜尻摺坂上
く、住吉神社に集中している観がある。建立年時は宝暦7年(1757)か
ら大正9年(1920)までで、大正期2基、明治期 10 基、江戸時代 15 基、
欠年3基と内訳されるが、そのなかでも宝暦・安永・文化・文政などの
5基は住吉神社神域に在る。建立者は、明治期には少数の個人建立があ
るが7∼9人の講中が多い。建立の趣旨は、三猿像を彫り添えて、庚申
歳・庚申日を強く押し出している傾向があるので、仏教系の庚申供養塔
に対抗するような意向をもって、猿田彦命の猿を庚申の申(さる)に附
会した神道系の庚申供養塔と推察される。幕末から明治にかけてこのよ
うな傾向は横須賀地域に限らず、湘南地方にひろまっていたらしい。
猿田彦命は古事記や日本書紀にニニギノミコトが国土安定の際に東道
をつとめられたとの故事から、道の神、道あいの神として奉祀され、後
あめのうずめのみこと
世には道祖神として祀られることもあり、また天 鈿 女 命 との出会いから
道祖神としての二神併せ祀られる例もあった。すなわち、猿田彦命を道
あめのうずめのみこと
アイノ比古、天 鈿 女 命 を道アイノ比売に擬した祭祀である。
猿田彦大神塔
万延元年(1860)久里浜八幡社
i
猿田彦大神像塔と帝釈天王像庚申塔
猿田彦大神像塔は久里浜の天神社境内にある。しかし現在の位置に本
在したものではなく、近来何処か近接地から移されたのだろう。それに
しても、猿田彦大神石像はこの一基以外に存在しないのは不可解であ
る。もっとも東国地方地域においても猿田彦神像を祀るのは東京都不忍
池畔の一例が知られているにすぎない。
久里浜天神社の猿田彦像は安山岩、隅丸平頭偏平型で、総高 75cm、塔
身の基礎部分を残して約7cm 刳り込み、本尊像はその刳り込みの深さに
半肉彫りされ、像の上方左右に雲台付きの日月形を配す。像様は裸頭。
洗足の立像、布衣の裾をタッツケ様にまくりあげ、左腰に直刀を佩き、
鍔元を左手でかたく握り、右手にナギ様の一枝を左肩にかざした凛然た
猿田彦大神像塔
万延元年(1860)久里浜内川天神社
る風貌は、まさしくこの地石工の名作と評価される。因に隣接の八幡神
社の猿田彦大神塔には「神主物部経豊 万延元年庚申歳冬日造」
、基礎
前面に佐兵次以下8人の建立者名がある。まさしく猿田彦大神像の庚申
供養塔である。
帝釈天王像塔は旧荻野 306 番地先の辻にある。 10 年ほど以前までは路
傍の石仏塔としてあった。旧時この地点に庚申塔群があり、その一基は
笠塔婆型で、総高 77cm、碑面上方に題目三尊を背後にした帝釈天王像を
陽刻し、「高祖御真筆板木真帝釈天王、東葛飾領柴又村経栄山題経寺常
什、天保十四年卯七月吉日」と由来が記されてある。また同辻に寛文七
未九月十八日、延宝二年甲寅拾月二十九日、嘉永三戌十月吉日等の庚申
供養塔があり、すべて日蓮宗系である。
帝釈天王像庚申供養塔 旧荻野 306 の辻
文政 11 年(1828)・天保 14 年(1843)
青面金剛像2態
久留和字仲山の庚申供養塔、鴨居切通し上の庚申供養塔。この2基は
横須賀市内庚申供養塔のなかで観賞に値する石像塔であろう。
仲山の一基は、庚申供養塔として珍らしい表現をとりあげたい。材石
は火成岩質で尖頭偏平型。基礎全高 97cm 頭部を山型に造り、その屋根
の下に本尊青面金剛像を陽刻。六臂像で、第一手は左右に長蛇を持つ。
第二手は右に長槍・左に輪宝を握り、第三手は右に矢・左に弓を持つ。
脚元に天邪鬼を踏まえ、その左右に侍士立像をあらわす。脚下に3猿像
と雌雄2鶏を岩座の上に並べ彫り、さらにその下段に防衛のための4像
を配して、邪気制圧のための万全の体制である。4像の中の2像は不動
明王らしい。地獄絵に見るものである。総じて青面金剛界を如実に表現
したような観がある。宝暦十三年未(1763)の建立で、建立講中は7人。
塔身は何故か中央で上下部をホゾ継ぎにしている。
鴨居腰越の庚申供養塔は観音寺入口の斜面にある。笠塔婆型で、総高
66cm 余り、安永4年正月吉日と建立銘がある。一面六臂の青面金剛像を
碑面いっぱいにやや深めに彫りあげた工法は、庚申供養塔というよりも
鴨居石工がつくり出した立派な石造美術品である。碑面上方に雲台上に
乗せた日月形を配し、それを天蓋がわりにして、長身の青面金剛像を拝
す。腰をわずかに右にひねるようにして天邪鬼を足下にふまえて立つ。
第一手右に剣、左に輪宝をかざし、第二手は右に長柄の三叉槍、左は餓
鬼をひっさげ、第三手右は矢、左手は弓を握る。餓鬼は童児形で、天邪
鬼は頭上から本尊に踏みつけられるにまかせた姿勢である。しかし全体
の構相に無理なく、本尊の忿怒相にも、また、踏みひしがれた天邪鬼の
2脇士・4明王を倶す
青面金剛像
宝暦 13 年(1763)久留和仲山
威を張る青面金剛像
鴨居切通し
面相にも柔和さをもった楽しい彫刻である。
三猿像と青面金剛像の本体
庚申供養塔に猿像はつきもののようになっているが、本来、両者は関
係なかった。
初め庚申信仰には具体的な崇拝対象は無かった。ただ庚申当夜の災厄
をまぬがれればよかったのである。その当夜の除厄を効果的にするため
に仏僧を請じて修法した。しかしそれも庚申信仰が起こってからしばら
にょほう
く経った平安時代末ころになってからである。時に天台宗では、如法当
夜の本主に比叡山五神を請じ猿像を添えた。サルは「去る」に音・意が
相通じることの附会を山王一実神道義に会通させて、猿は日吉山王神の
分身であるとの哲理を成立させた。二世安楽・国土泰平の訴願は現世利
益の大逆修の極である。ここをもって、中世末期における天台宗は、庚
申信仰を宣揚することをもって一般庶民層への宗勢拡張に利用したので
正侍する三猿像
元禄2年(1689)長井不断寺
姿態をくずしかけた三猿像
元文2年(1737)長井不断寺
あるが、山王神の使者としての猿を三猿としたについては、天台宗が宗
かん
義とする「一心三観」の義を背景に「観」を「緘」に換え、さらに心口
かい げん
意の三業を眼耳口に代えて「見ざる・聞かざる・語らざる」の戒諺を立
てたのであった。庚申信仰が中国風の抱朴子の意をはなれて日本的に弘
通した理由があったと思われる。
他方、真言宗は庚申信仰の対象に青面金剛を案出した。この尊像は
『陀羅尼集経』の大青面金剛呪法に発するが、もともと庚申信仰とは何
等のかかわりを持たない。この経は奈良天平時代に請来されたが、あま
り活用されずにあった。それによると、一身四手、左辺上手は三股叉、
下手は棒、右辺上手は一輪を握り、下手は羂索を握り、大口を張り、拘
どくろ
牙をむき出し、眼は皿の如く開いて三眼あり、頭頂に独髏をいただき、
大蛇をまとい、両腰には龍を倒に垂れさせ、腰には虎皮をまとうなどの
ものすごい形相が災魔を威圧するにふさわしく感じとられて、庚申待の
本尊に奉祀されたー猿像
享保 10 年(1725)秋谷・粒石
奉賽姿勢の一猿像
宝永6年(1709)大楠中学校入口
本尊にまつられることになったと思われる。庚申塔に見える像相が一身
六臂なのは武家時代の反映として弓矢を持つ手を加えたものである。
如法:仏の教え通りに行う