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先週講壇
方、地を堅く据えられた方、地を人の住む所として
神の家族に招かれて
形作られた方、正義を語る者、公平を告知する者、
2015年7月19日
と詳細に語られます。神は、すべてを造られた創造
水間香織神学生
イザヤ書45章14~25節
フィリピの信徒への手紙2章6~11節
主でありました。すべては、神によって造られたた
め、他に神はいないということが出来るのです。
現在、日本には数多くの「神」と呼ばれるものが
Ⅰ.神の家族
存在します。子ども達の長期休みに公開されるアニ
4月から、高座教会で研修させて頂いています聖
メ映画には、日本に根付く八百万の神の文化を題材
契神学校の水間香織です。母教会を出ての研修は、
にしたものがあり、
「日本には神が沢山いる」と考え
高座教会が初めてのため、
昨年度は、
緊張とともに、
られていると知ることが出来ます。日本人の思想の
主に祈って備えていましたが、
今ではすっかり慣れ、
中に、たくさん神がおり、その中の一つとしてキリ
4月に、期待と不安を胸に高座教会にやってきたの
スト教があることは受け入れられても、聖書が「本
が遠い昔のことに思えます。それは、教会の方々に
当の神がただ一人である」と述べていることを受け
暖かく迎えて頂いたことが大きいと思います。そし
入れるのは困難な傾向にあるように思います。
て、何よりも、来たばかりの頃、礼拝中に「ここに
しかし、聖書は、神はただお一人で、それ以外は
も、
流山におられた主と同じ主が臨在しておられる」
神に造られた人間が作った偶像であり、すべてを創
と感じたことが、私が平安をもって研修に臨める要
造された神が、私たちが礼拝を捧げるお方であると
因であると思います。私は、前年度研修しておられ
はっきり語ります。
た神学生から、
「何となくここが神学生席」と引き継
がれた席で礼拝を捧げさせて頂いています。その席
で礼拝を捧げていた最中、
「同じ主が臨在しておられ
る」とひしひしと感じ、礼拝を捧げている方々に目
を向けた時、
「神の家族がここにいる!」という感動
を覚えたのです。礼拝されるべき方である神はあら
ゆるところに臨在しておられ、ただお一人であるこ
とを再認識したのです。
イザヤ書には、
「わたしが主、
ほかにはいない。
」
と主が仰せられたと記されていま
す。
Ⅲ.キリストとはどのようなお方なのか
その創造主である神が、すべてにまさる名をお与
えになったのが、イエス・キリスト、神の御子でし
た。パウロは、キリストについて、神の身分である
お方、神と等しいものであることに固執しようとは
考えなかったお方、ご自分を無にし、僕の身分とな
ったお方、人間と同じものになったお方、へりくだ
ったお方、
十字架の死に至るまで従順であったお方、
と宣べています。神は、このキリストを高く上げま
した。キリストを高く上げたとは、どういうことで
Ⅱ.神とはどのようなお方なのか
神がどのようなお方なのか、イザヤ書45章
18~19節で、天地を創造した方、地を形作った
しょうか。それは、本来キリストのものであったも
のがキリストに返ってきたと言い換えることが出来
ます。本来、キリストのものであったもの、それは、
「イエス・キリストが神と等しい身分である」
こと。
リストに適用されている箇所です。主なる神にあら
その身分に固執せず、キリストの地上での生涯が、
ゆるものが膝をかがめるというイザヤ45章23節
父なる神への従順に終始したことによって、すべて
の偉大な宣言を、主イエス・キリストに当てはめ、
の名にまさる名が与えられたのです。この謙遜と従
イエス・キリストは神であること、父なる神と子な
順に、私たち人間との決定的な違いがあります。は
る神は一つであると証言しているのです。私は不思
じめの人アダムは、神のようになれるという誘惑に
議でなりません。父なる神を神とすること、キリス
屈しました。それによって、罪が入りました。しか
トを神と認識すること、罪によって歪められた神認
し、人となられたイエス・キリストは、誘惑に屈せ
識を正すことが、神を褒め称えることになるという
ず、罪を犯されませんでした。神と等しい身分に固
のです。何か特別な事をするわけではなく、神、キ
執せず、徹底的に人間となられたのです。あらゆる
リスト、人間が本来の関係を取り戻すことが、神を
歴史上の偉人が死後、人間によって神として祀られ
褒め称え、礼拝することになるとは驚きです。
ています。しかし、イエス・キリストは、はじめか
ら神なのです。
Ⅴ.神の家族が集まり、礼拝する
さらに驚かされるのは、神が、私たちの礼拝を喜
Ⅳ.キリストを告白し、神をほめたたえる
んで待っておられるという事実です。それは、神が
この謙遜なお方に対し、神に造られたすべてのも
私たちを愛しておられるからにほかなりません。身
のの舌が、ひざまずき、
「イエス・キリストは主であ
分違いの愛が小説や映画になったりしますが、私た
る」と告白するのです。しかし、なぜ、これが信仰
ちは身分のまったく違う、なんと神から愛されてい
告白になり得るのでしょうか。ユダヤ人歴史家ヨセ
るのです。愛は、家族となることを求めます。神は、
フスは、ユダヤ人が、ローマ帝国の市民宗教であっ
すべての人が、神の家族になることを望み、招いて
た「皇帝崇拝」に加わることを拒否し、当時の皇帝
くださっているのです。神の家族が集まり、礼拝す
を「主」と呼ぶことを拒否したという記録を残して
ることを「みこころ」としてくださったのです。世
います。
「主」という言葉は、神のみに相応しいとい
界中で、神に招かれた神の家族が礼拝を捧げていま
う信仰がそこにはありました。その「主」が、新約
す。この神の家族の輪に、主が私たちを招き、加え
聖書でイエス・キリストを指すのに使われているこ
てくださった恵みに感謝したいと思います。
とは、イエスと神が同一であることを意味します。
これから私たちは、神が置かれた地に派遣されま
「イエス・キリストは主である」とは、
「イエス・キ
す。私たちがその地で、本気で神を信じて生きる姿
リストは神である」という信仰告白ということが出
を通して、神はキリストの香りを放たせ、人々を神
来るのです。そして、パウロは「イエス・キリスト
の家族に招いてくださいます。新しい週の歩みもキ
は主である」と告白する時、それは、父である神を
リストの香りを放つ務めを成し、次週、喜びの歌を
称えることになる、と語ります。フィリピ2章10
主に携え、再びこのところに神の家族が集まり、共
~11節は、神を指して語られたイザヤの箇所がキ
に主に礼拝を捧げることができますように。