因果応報に思う 極悪人と被害者 北海道砂川市で暴走事故を起こした 2

因果応報に思う
極悪人と被害者
北海道砂川市で暴走事故を起こした 2 人も、1997 年の神戸連続児童殺傷事件の加害者である
少年 A も本当に許し難い人たちである。暴走事故の 2 人は 10 年もすれば刑期を終えることであ
ろう。少年 A は既に罪の清算は完全に終えている。この人たちが、刑に服しても死んだ人たちが
生き返ることはない。
個人的に見れば殺され損であり、遺族から見れば恨みの心と悲しみの心
が一生付きまとうので、やはり大損である。
悪人である殺した側は生きており、何の罪もない殺された側は二度と日の目を見ることが出来
ない。世の中は不条理にできている。このような事態が多くの人にとって許せないからであろう
か。因果応報という言葉がある。人は良い行いをすれば良い報いが、悪い行いをすれば悪い報い
があるという仏教の用語である。因果応報、果たしてそうであろうか。暴走事故の犠牲になった
人達が悪い行いの報いで死んだわけでもないであろう。
世の中に、因果応報と言うような事実か実際にあるのであろうか。根っからの悪人について何
世代にも渡って、その血筋の人達がどうなったかというデータを誰も取ってはいないと思う。デ
ータに基づいた言葉ではなく、ただ、悪人が許せないという感情から、このような言葉が生まれ
たのかもしれない。また、悪いことをしたら、いつか報いを受けるからしない方が良いよという
戒めの意味かもしれない。多分、後者であろう。
絶歌
少年 A は、神戸連続児童殺傷事件の成り行きを本にして出版した。「絶歌」と題された本は、
良く売れているようである。それは売れるだろう。少年の首を切断して校門に放置するという前
代未聞の事件を起こした犯人が著したものである。人間の中には覗き趣味の人も多い。その結果
として、犯人は多額の印税を手にすることになる。もちろん本を出版することも、多額の印税を
手にすることも、法的には何の問題もない。すべて自由である。倫理的には、このような行為は
けしからん、遺族の神経を逆なでしているなどと疑問を投げかける人も多いが、法的には何の問
題もない。そして、当然のことながら出版社も多額の収益を手にすることになる。無残な殺され
方をして、それを本にされた被害者は訴えようとしても、この地上に生きていないので、訴える
すべがない。幽霊になって、祟るというのも、怪談の世界の話であろう。
個人的には、遺族の心情を考えても、とても許せない思いが湧いてくるが、万人に平等な法律
を前にすると、何ら打つ手がないのが現状である。このような時に、テレビでは「必殺仕事人」
のような人たちが仇を取ることになるが、法治国家では、これもあり得ない。
それでは、殺された人は損で、殺した人が得で、それで話が終わりかと言うと、そうではない
という話もある。キリスト教や仏教などの高等宗教には、別の価値観が見られる。イエス・キリ
ストは、無実なのに世を惑わす極悪人として十字架上で磔の刑で殺された。その事実だけ見れば、
可哀想な人生であるが、イエスの場合は、これで終わっていない。死んだ途端に天国の門が開か
れてパラダイスに行ったと聖書に書かれている。まさに、この一瞬から 30 億人の信者を有する
キリスト教がスタートしている。一方、無実のイエスを十字架の磔刑にしたユダヤの民たちは、
「この人(イエス・キリスト)の血の責任は、私たちの子孫に降りかかってもいい」と叫んだから
か、ユダヤの子孫は国を追われ、流浪の民となっていった。イエス・キリストを磔刑にした報い
とも見て取れる。
これから見れば、人には生きるべき道理があって、その道を踏み外せば、地獄に行って償うこ
とになる。これは、まさに因果応報の論理であるが、天国、地獄、極楽の思想を持ち出すところ
が如何にも論理的に弱い。人間は外界を認識するのに、五感と言うような、ある限られた武器し
か持っていない。人間の認識の能力に限りがあるので、人間が認識し得るもの以外に、物は存在
していないとは言えない。そのため、人間が認識できないとしても、天国、地獄、極楽が実在存
在であっても何ら問題はない。しかし、存在証明できていないものを実在のものとして論理を組
み立てるのは少し弱い気がする。
天国と地獄
砂川市の暴走事故や神戸の児童殺傷事件のような、極悪人が善人を殺し、極悪人が現世で美味
い汁を吸ったという話は、人類歴史上、綿々と続いてきていることであろう。極悪人という表現
は適切ではないかもしれないが、権力を握った人は敵対する多くの人達を皆殺しにしてきた歴史
がある。一度しかない人生を訳のわからない理由で閉じなければならなかった人たちがどれほど
いたことか。そのような可哀想な人たちの遺族が、恨みの心を晴らすために、せめて因果応報と
言う言葉を使ってきたのであろう。目の前にわが子を手にかけた極悪人がいても、何の仕返しも
できない。その心の苦しみを僅かでも救うために、因果応報という言葉を、また天国や地獄と言
った永世の世界を夢見ることにより、少しでも癒したのかもしれない。
一方、天国と地獄が架空の世界の話でないとすれば、大変なことである。悪の限りを尽くし、
人の犠牲の上に恵まれた人生を送っている人がいるとすれば、死後は恐ろしいほどの恨みの中で
永世することになる。地獄の中で永世するのである。しかし、ここで訳の分からない話をするよ
りも、死後の世界がどうであれ、ごく普通の人生を、人に恨まれることなく、正直に、そして出
来ることならば、少しでも人の役に立ち、少しでも感謝されるような人生を生きてみたいもので
ある。一度しかない人生だから。
平成 27 年 6 月 20 日
矢田部龍一