59 Schubert : Klaviersonate B-dur D-960 平 井 修 二 1966 年春、音大に進んだものの、人生の中で というのは、私が 16 の歳から 35 年間ピアノを まだこれといった目標も定まらないままに学生 習っていた恩師 前川幸子先生とのエピソードと 生活を送っていた時でした。東京は都内のいた 繋がっているからです。そもそも強烈な印象をもっ るところに地下鉄や高層ビルの建設工事の立て たこの作品との出会いは、あるピアニストのリ 看板があり、騒々しく埃 っぽく、新しい街に生 サイタルを聴いた時のことでした。冒頭のオクター まれ変わろうとする最中でした。 ブの旋律を耳にした途端、全身に電流が走るよ 当時、100 円で見ることができるリバイバル映 うな衝撃を受けたのです。繊細でせつなく流れ 画専門の映画館がありました。そこで見た『愛の ていく旋律は、 慈愛に満ちあふれ、若く多感であっ 調べ』 (1947 年製作)は、キャサリン・ヘプバーン た私の心にも奥深くしみ込んだのでした。勿 論 主演のシューマン夫妻の伝記を映画化したもので、 その音楽の虜 になったことはいうまでもないこ その愛、当時の演奏形態など興味深く表現され とです。以来、ずっとその曲を勉強したいとい ていました。演奏する俳優は本当に演奏してい う願望を持っていたものの、余りにも壮大なこ るかのように巧 みな演技でしたが、実際に演奏 の曲は、若 僧の私が弾きたいなど、とても言い を担当したピアニストは、 アルトゥール・ルビンシュ 出せませんでした。1970 年、西独マンハイムで タインでした。今思うと、その映画が自分のそ リヒャ 活躍されていたシュナーベルの高弟である、 の後の勉強の大きな指 針となったような気がし ルト・ラウクス教授の下で勉強するチャンスに ます。 恵まれた時、念願だったこの曲を指導していた ほこり さなか たく ししん つな じあい もちろん とりこ わかぞう こうてい ピアニスト深澤(当時は大野)亮子さんの『幻 だくことができました。初めてこの曲に取り組 想曲作品 17』や高野耀子さんの『謝肉祭作品 9』の んだ時の喜びは、格別なものとして今も心に残っ すばらしい演奏を聴いて、自分もいつかは演奏 ています。 してみたいと思ったものでした。シューマンへの 1974 年冬、西独での勉強を終え帰国した後、 想いは今も尽きることはありません。しかし「我 リサイタルでこの曲を取りあげることにしました。 が心の曲」として 1 曲あげるとすれば、シューベ その準備のために前川先生のレッスンを受けて ルトの最後の『ピアノソナタ変ロ長調 D–960』を いる時のことでした。このソナタの 2 楽章を弾 措いては他に考えられない気がします。 き終えた時、先生が突然「私が死んだらこの曲を こうのようこ お ♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・ 46 弾いてね」と言われたのです。その時は切実なこ 少しご恩返しができたかな、としみじみ感じた ととして受け止めることはできず、笑ってすま ことでした。 せました。1999 年、私の音楽をいつも見守って この曲は、私にとって心の中の音楽という指 いてくださった前川先生はお亡くなりになりま 定席にいつも居たいという願望を叶えてくれる した。あの時の先生のお言葉がにわかに現実と 1 曲であるということは疑いもないことです。し なったことを受け止めなくてはなりませんでした。 かし、その実、とかく雑事雑念に邪魔され、思 そのお言葉を想い、いつか実現しなくてはなら うに任せぬ現実の中でも、その暗闇から私の心 ないとずっと思い続けていました。しかし毎日 を蘇 らせ、純粋に音楽を感じることのできる指 の仕事にかまけ、12 年もの長い間お預けになっ 定席に帰らせてくれる偉大なパワーがあると思 ていました。昨年 5 月、 多くの仲間の協力を得て、 えるのです。そのことからも、“SCHUBERT やっと演奏できる機会が到来しました。その演 Klaviersonate B–dur D–960”はまさしくかけが 奏会では、未 曾有の被害をもたらした東日本大 えのないものであるというほかなく、六十数年 震災で被災され、 お亡くなりになられた多くの方々 の我が人生においてこの曲との出会いは、この のご冥福と、恩師 前川幸子先生のご冥福を祈 上ない喜びであり幸せなことだと確信しています。 りながら、私の内にある全ての想いをこめて演 (ひらい しゅうじ 元くらしき作陽大学大学院教授) み ぞ う かな よみがえ 奏させていただきました。長年育てていただい た先生との約束を果たすことが出来て、ほんの 1mov. Klaviersonate Schubert D.960 2mov. ♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・ 47
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