コチラ - 湯梨浜町役場

目
次
発行にあたって .............................................1
神社、寺院を学ぶにあたって .................................2
町内の神社一覧 ...........................................3
町内の寺院一覧 ..........................................23
郷土の人物を学ぶにあたって ................................35
郷土の人物(羽合地区) ..................................36
郷土の人物(泊地区) ....................................42
郷土の人物(東郷地区) ..................................47
参考文献..................................................52
発行にあたって
ゆりはま塾の開講にあたり、何をテーマに学ぶのか塾生で話し合いました。
さまざまな意見の出る中、平成 16 年 10 月に羽合町、泊村、東郷町が合併し
て湯梨浜町になりましたが、自分の住んでいる地域のことはある程度知ってい
ても他の地域のことはよく分かりません。未だにどこにあるのか分からない地
区や読み方も分からない所もあります。
このような意見が出され、
「もっと自分の住んでいる町を知りたい」という思
いが強くなり、まずは地域と縁の深い神社・寺院や、郷土が誇る人物について
学んでみることにしました。これらは合併する前から調査やまとめが行われて
いますが、新しく湯梨浜町となり改めて学ぶことに意義があると考えたからで
す。
この他にも町が誇る歴史、伝統、自然などはたくさんあります。今後も私た
ちは町のことを学ぶとともに、伝承活動に取り組んでいきたいと思います。
本書が皆様のお役に立てれば幸いです。
平成 27 年2月5日
ゆりはま塾生
池本寿美子
賀須井長美
菊留高行
久葉俊二
寺崎美雪
八幡清香
~1~
神社、寺院を学ぶにあたって
湯梨浜町には、長い歴史に耐え、今も建造物として残っている神社や寺院が
多数あります。神社は各地区にあり寺院は地域に点在し、また神仏にまつわる
さまざまな行事も残っています。
神社や寺院を学ぶことで、時の流れ、世相、そして何を願い何を祈って生き
て来たのか、昔の人々の心の声が少しでも聞こえてくるのではないでしょうか。
また、お宮にはいろいろな神様が祀られ、お寺には仏様が安置されています。
生きるのに厳しい環境の中で、祈り願い手を合わせたであろう神様や仏様です。
神社や寺院を建てるには、多額のお金と人々の協力が必要となり、時代の流
れ、暮らしぶり、世相などの影響を受け、歴史を刻みながら今に至っています。
神社や寺院を調べる事は、歴史を学ぶことになります。そして地域に密着して
いることから、地域を学ぶことにもなります。
羽合、泊、東郷地域のどこにどんな神社や寺院があるのか、そして由来はど
うなのかを調べることで、地域をより良く知ることができます。
昔の人々の暮らしに思いを馳せ、私たちの故郷としてますます愛着を感じら
れるのではないでしょうか。
~2~
町内の神社一覧
~3~
場所
(地図番号)
松崎(1)
名称
まつざき
松 崎 神社
祭神
あまのほひのみこと
天 穂 日 命
あまつひこねのみこと
天 津 彦 命
いくつひこねのみこと
活 津 彦 命
概要

町指定文化財:松崎神社社叢。

かつては松崎大明神と称された。

元禄年間(1688~1703)に現在
くまのくすびのみこと
熊野樟日命
地に移転された。

うけひ
アマテラスとスサノオの誓約に
より誕生された子のうち次男~
五男を祀っている。
旭(2)
ちぎり
契 神社
いざなぎのみこと
伊邪那岐命

いざなみのみこと
伊邪那美命
松崎の人々から「契さん」と呼ば
れ、寿命延命の霊験あらたかな神
として親しまれている。

神世七代の神々で二柱は夫婦。

日本の大地やその他諸々の神を
生んだ神。
小鹿谷(3)
とうごう
東 郷 神社
いつきしまひめのみこと
市杵島比売命

すさのおのみこと
素盞鳴尊
地区に鎮座していた十三の神社
くにのとこたちのみこと
国 常 立 神
を合併し、東郷神社として現在地
いざなぎのみこと
伊邪那岐命
そこつつのおのかみ
底 筒 男 命
なかつつのおのかみ
中 筒 男 命
うはつつのおのかみ
上 筒 男 命
おおやまつみのみこと
大 山 祇 命
おおやまくひのかみ
大 山 咋 命
おほくにぬしのみこと
大 国 主 命
はやたまおのみこと
速 玉 男 命
ことさかのおのみこと
事 解 男 命
大正 4(1915)年、旧東郷村の各
に社殿を新設した。

大正 6(1917)年、東郷地区内十
六柱を合祀(引地:引地神社、田
畑:和田神社、国信:山辺神社、
別所:新宮神社、中興寺:谷口神
社、方面:松尾神社、小鹿谷:森
山神社・松上神社・秀尾神社、高
辻:高辻神社、久見:久見神社、
麻畑:麻畑神社)
※町内各神社により、祭神名記が「命」と「尊」となっていますが、
「命」は古事記名、
「尊」
は日本書紀名です。
~4~
場所
(地図番号)
名称
祭神
概要
さるたひこのみこと
佐留田彦命
ほんだわけのみこと
誉 田 別 命
たらしなかつひこのみこと
足
仲
彦
命
おきながたらしひめのみこと
気
野花(4)
まつお
松尾神社
長
姫
命
おおやまぐいのかみ
大 山 咋 神

わけいかづちのみこと
別
雷
命
は松尾大社の荘園であった。
このはなさくやひめのみこと
木花開耶毘賣命 
ことしろぬしのみこと
事 代 主 命
多紀理毘賣命
思 兼 神
荘園の守護神として、京都より勧
請して創建されたものと推定さ
たぎりひめのみこと
おもひかねのかみ
東郷荘絵図によれば東郷湖付近
れる。

おおなむぢのかみ
大己貴神
当初は光吉にあったが、洪水で流
され野花に漂着し、その地に祀ら
すくなひこなのみこと
少 彦 名 尊
れ後に今の地に移された。光吉に
いざなぎのみこと
伊邪那岐命
は今でも松尾屋敷と称する所が
いざなみのみこと
伊邪那美命
ある。

古来より、酒造りの神として崇敬
された。

四神社合祀(羽衣石:高山神社、
長和田:長和田神社、埴見:大宮
神社、佐美:佐美神社)
なごうた
たぎりひめのみこと
けいだい
おもひかねのかみ
長和田(5) 長和田神社 多紀理毘賣命
境 内 神社
思 兼 神
(田中神

境内神社(田中神社)
田中大明神は、松尾神社で祀られ
ている。
社)
※町内各神社により、祭神名記が「命」と「尊」となっていますが、
「命」は古事記名、
「尊」
は日本書紀名です。
~5~
場所
(地図番号)
埴見(6)
名称
こもり
籠守神社
祭神
うはつつのおのみこと
表 筒 男 命
概要

そこつつのおのみこと
底 筒 男 命
なかつつのおのみこと
中 筒 男 命
県指定文化財:籠守神社本殿附蟇
股一枚。

県中部で最も古い神社本殿建築。

祭神は、航海守護の神として信仰
を集めている大阪の住吉大社の
祭神と同じ。

埴見には、岸ノ前、船谷、赤浜な
どの小字があり、東郷湖が埴見あ
たりまで及んでいた事がうかが
える。
佐美(7)
さ び
佐美神社
すさのおのみこと
素盞鳴尊

え な
村の人々の胞衣を守る神。胞衣を
同じくする同族、共同体の守護
神、氏神。
門田(8)
きたの
すがわらのみちざね
ながえ
やそまがつつひのかみ
北野神社
菅 原 道 真

京都の北野神社を勧請して創建
された。
長江(9)
長江神社
八十柱津日神

おおなおびのかみ
大直日神
かつては、音若大明神、三宝荒神、
牛頭天王、衣那荒神、若宮が祀ら
かみなおびのかみ
神直日神
れており、音若大明神と言われて
そこつわたつみのかみ
底津少童命
いた。明治維新の際、長江神社と
なかつわたつみのかみ
中津少童命
改称した。
うわつかだつみのかみ
表津少童命
そこつつのおのかみ
底 筒 男 命
なかつつのおのかみ
中 筒 男 命
たじり
田後(10) 田後神社
たてはやすさのおのかみ
建速須佐之男神

県指定文化財:田後神社頭屋祭り
(宮の飯)
※町内各神社により、祭神名記が「命」と「尊」となっていますが、
「命」は古事記名、
「尊」
は日本書紀名です。
~6~
場所
(地図番号)
名称
祭神
概要

宝徳 2 年(1450)年、出雲八重垣
神社より勧請。田後は清谷の出村
と伝わるが、宝徳の頃に独立した
のであろう。

田後は、下西郷(山根、上井、海
田、福庭、清谷、田後)の村であ
った。
ながせ
は わ い 長 瀬 長瀬神社
あめのこやねのみこと
天児屋根尊

あめのふとだまのみこと
(11)
天 太 玉 尊
あめのうずめのみこと
天 細 女 尊
り勧請。

すさのおのみこと
須佐之男尊
はわい温泉
みやもと
宮 本 神社
さるたひこかみ
佐留田毘古神
宝徳元(1449)年、伊勢、近江よ
東郷荘下地中分図に北条内長瀬
村の地名がある。

(12)
金屋子神は鷺に乗り、播磨から出
雲へ行った(鉄山秘書)。

ほうそ
鷺大明神は、流行病(疫瘡)厄除
けの神であるが、アメノホヒノミ
コトの息子であるイナセハギ(別
名アメノヒナトリ命)も疫瘡厄除
けの神でもある。
かじや
下浅津(14) 梶屋神社
さるたひこかみ
佐留田毘古神

梶屋は鍛冶屋の意であろう。

鍛冶屋屋敷という古い地名があ
る。

浅津は元来一つの村。下地中分以
後、上浅津は地頭方、下浅津は領
家方と二分された。
光吉(14)
みつよし
光 吉 神社
たてはやすさのおのかみ
建速須佐之男命

鳥居の左右に松尾神社と光吉神
※町内各神社により、祭神名記が「命」と「尊」となっていますが、
「命」は古事記名、
「尊」
は日本書紀名です。
~7~
場所
(地図番号)
名称
祭神
概要
社の二つの神社名があるが、現
在、松尾地内の松尾神社とは関係
がない。
きたの
南谷(15) 北野神社
すがわらのみちざね
菅 原 道 真

室町時代の末、尼子家の家老戸崎
玄藩が赤池村に落ちてきて住み、
斎戒沐浴して天神像を刻み、自宅
に祀った。ある夜、霊夢により南
谷の地に奉祀し、神社を建立し
た。

南谷、赤池の氏神とし、天満天神
又は天満宮と称する。その後、明
治元年に北野神社と改める。
橋津(16)
みなと
湊 神社
はやあきつひこのかみ
速秋津彦命
はやあきつひめのかみ
速秋津姫命

町指定文化財:湊神社祭礼行事

平安時代(伯耆国湊神)、鎌倉時
すがわらのみちざね
菅 原 道 真
代
(大宮宮)、江戸時代(湊大
明神)

橋津は湊村とも称し、古代より東
伯耆の重要な港であったと思わ
れる。

古代の橋津の港は、川港で東伯耆
の大川の河口の港。
橋津(17)
しおかわ
わたつみのみこと
う の
すさのおのみこと
塩 川 神社
宇野(18) 宇野神社
少 童 命
素盞鳴尊

海上守護神が祀ってある。

東郷荘下地中分図に、一宮領宇野
の地名がある。

本社は三宝荒神、末社に漁民の
※町内各神社により、祭神名記が「命」と「尊」となっていますが、
「命」は古事記名、
「尊」
は日本書紀名です。
~8~
場所
(地図番号)
名称
祭神
概要
神・恵美須神があり、村の南に水
の神・八大荒神がある。
原(19)
みずたに
水 谷 神社
すさのおのみこと
素盞鳴尊

大正 4(1915)年、灘郷神社に併
合。
園(20)
その
園
さるたひこのみこと
猿 田 彦 神

昭和 23(1948)年分社。

県指定文化財:恵比寿天像、大黒
え び す
(恵比寿)
天像(木喰上人が山陰地方行脚の
神社
途次、寛政 10(1798)年 7 月当
地滞在中の作)

大正 4(1915)年、灘郷神社に併
合
泊(21)
なだごう
灘 郷 神社
すさのおのみこと
素盞鳴尊

町指定文化財:泊の大名行列

大正 4(1915)年、泊神社、石脇
神社、小浜神社、筒地神社が合併
し、灘郷神社と改称。現在地に移
転。次いで園神社、原神社も併合。

昭和 23(1948)年、水谷神社、
筒地神社を分社、昭和 26(1951)
年に小浜神社を分社。

狛犬は、因州川六の作である。[文
久 2(1862)年]
こばま
小浜(22) 小浜神社
ほんだわけのみこと
誉 田 別 命

大正 4(1915)年、灘郷神社に併
合。
つつじ
筒地(23) 筒地神社
すさのおのみこと
素盞鳴尊

昭和 26(1951)年分社。

大正 4(1915)年、灘郷神社に併
※町内各神社により、祭神名記が「命」と「尊」となっていますが、
「命」は古事記名、
「尊」
は日本書紀名です。
~9~
場所
(地図番号)
名称
祭神
概要
合。
北福(24)
くにぬし
国 主 神社
おおくにのぬしのみこと
大 国 主 命
すくなひこのみこと
少 彦 名 命

昭和 23(1948)年に分社。

町指定文化財:国主神社社叢

大国主命が開拓の際、霊跡を残さ
ことしろぬしのみこと
事 代 主 命
れた所と伝えられる筒地に創建
されたが、今の地に移されたのは
寛永 16(1639)年である。

筒地、小浜、石脇、泊、園、原か
ら氏神として信仰が続いていた
が、大正 4(1915)年にこれらの
地区が灘郷神社に合併して関係
が断たれた。

大正 2(1913)~大正 3(1914)
年にかけて、新宮(漆原)、小林
(方地)、野方、白石の各神社と
合併。
福永(25)
ふくなが
福 永 神社
しなつひこのみこと
級長津彦命
しなつひめのみこと
級長津彦姫

星宮大明神と称した。

明治元(1868)年に福永神社と改
称。

藩主池田家に追従して来た藪某
が、福永の地に居を定め、当社を
崇拝して現在に至る。

本殿横に座している大きな石は、
パワーを感じる。町内神社の中で
一番場所が分かりづらい。
※町内各神社により、祭神名記が「命」と「尊」となっていますが、
「命」は古事記名、
「尊」
は日本書紀名です。
~ 10 ~
場所
(地図番号)
名称
ふじつ
藤津(26) 藤津神社
祭神
そこつわたつみのかみ
底津少童命
概要

なかつわたつみのかみ
中津少童命
うわつわたつみのかみ
表津少童命
明治元(1868)年までは龍王大明
神と称した。

当社の付近の字は「龍王前」とい
う。

古代、藤津は海岸だったと言わ
れ、今でも深く掘ると海砂の出る
所もある。

通称「大浜、小浜」、字中浜の地
名もある。

祭神名の「少童」は、
「わたつみ」
と読み海を意味する。

旧社殿は現在の本殿裏の高台に
あり、以前は遠くから見ることが
出来たが、明治 26(1893)年の
豪雨で押し倒される。翌明治 27
(1894)年に社地を修復し、本殿
を現在地に移した。
わ せ だ
宮内(27) 早稲田神社
そこなかうはわたつみのかみ
底中表綿津見神 
そこなかうはつつおのみこと
2(1869)年に早稲田神社と改称。
底 中 表 筒 男 命
しとり
宮内(28) 倭文神社
たてはづちのみこと
建 葉 槌 命

したてるひめのみこと
下 照 姫 命
ことしろぬしのみこと
事 代 主 命
たてみなかたのみこと
建御名方命
すくなひこなのみこと
少 彦 名 命
あめのわかひこのみこと
天 椎 彦 命
かつては音若大明神と称し、明治
国指定文化財:伯耆一宮経塚、伯
耆一宮

大国主命の娘、下照姫命が出雲か
ら宇野と宇谷の中間に海路着船
された。今でもお腰掛岩、お舟岩、
化粧水などと呼び名が伝わって
※町内各神社により、祭神名記が「命」と「尊」となっていますが、
「命」は古事記名、
「尊」
は日本書紀名です。
~ 11 ~
場所
(地図番号)
名称
祭神
概要
あじすきたかひこのみこと
味 租 高 彦 命
いる。命は安産の指導に努力され
いちのみやだいみょうじん
一 宮 大 明 神
安産の守護神として崇敬されて
おり、参道横に安産岩と呼ばれる
岩がある。

創建当時、当地の主産業が倭文
(しずおり)の織物であったの
たてはづちのみこと
で、織物の祖神、建 葉 槌 命 と当
したてるひめのみこと
地に関係の深い 下 照 姫 命 を
祭神とした。倭文の由来は、“し
ずおり”からきている。

延喜 22(922)年の延喜式神名帳
に、伯耆の筆頭に書かれている。

一宮のお使いは蛇とされ、境内に
は蛇が多い。一宮ではアマテラス
の使者であるキジは供えてはな
らないとされ、宮司の米原家でも
食べる事は禁じられてきた。

平安時代、神仏習合説から当社に
も天台宗に属する神宮寺が建立
されたが戦国時代に入り、武将に
社領を没収され四散した。
※参考
お ふ だ
①御神礼は、一体、二体と数える。
ごさいじん
②神社の御 祭 神 は、一柱、二柱と数える。
※町内各神社により、祭神名記が「命」と「尊」となっていますが、
「命」は古事記名、
「尊」
は日本書紀名です。
~ 12 ~
【参考:町内の神社で祀られている神々】
日本書記名
あまのほひのみこと
あめのほひのみこと
あまつひこねのみこと
あまついこねのみこと
いくつひこねのみこと
いくつひこねのみこと
くまのくすびのみこと
くまのくすびのみこと
いざなぎのみこと
いざなぎのみこと
天 穂 日 命
天津彦根命
活津彦根命
熊野杼象樟日命
伊弉諾尊
天之菩卑能命
天津日子根命
活津日子根命
伊邪那岐命
マテラスの子と一九五柱の男神が誕生し
た(次男~五男)。
神世七代の神々で二柱は夫婦。日本の大
いざなぎのかみ
地やそのほか諸々の神を生んだ神。
いざなみのみこと
いざなみのみこと
いつきしまひめ
いちさしまひめのみこと
市杵嶋姫
うけひ
アマテラスとスサノオの誓約 により、ア
熊野久須毘命
伊耶那岐神
伊弉冉尊
備考
古事記名
国生み、神生みの祖。禊、はらいの神。
伊邪那美命
市寸島比賣命
アマテラスとスサノオの誓約により、ス
サノオの子として三柱の女神が誕生し、
むなかた
九州の 宗 像 神社で祀られており、海上守
護神として祀られている。
すさのおのみこと
素戔嗚尊
たけはやすさのおのみこと
建速須佐之男命
ひむか
お ど
イ ザ ナ ギ が 筑 紫 の 日向 の 橘 の 小門 の
あ は き
みそぎ
阿波岐 原という所で 禊 を行ったときの
三貴子の一柱で、海の神、鉄の神である。
またスサノオが根国(出雲)におもむき、
やまたのおろち
八 岐 大 蛇 を退治し、その尻尾から出てき
くさなぎ
たのが三種の神器の一つである 草 薙 の
太刀である。この神は、鉄を作るのに杙
木が必要だと感じ、新羅の国よりたくさ
んの種類の木を持ってこられた。五穀収
穫、農業の神。
くにのとこたちのみこと
国 常 立 尊
くにのとこたちのかみ
国之常立神
神世七代(世界が天と地に分かれた後に
次々と現れた神)
うえつつのおのかみ
うはつわたつみのかみ
なかつつのおのかみ
なかつわたつみのかみ
そこつつのおのかみ
そこつわたつみのかみ
上筒之男神
中筒之男神
底筒之男神
上津綿津見神
中津綿津見神
底津綿津見神
~ 13 ~
住吉三神(オリオン座の三つの星)
綿津見三神(海の上・中・底の神々)
イザナギが禊を行ったときに出現した
【参考:町内の神社で祀られている神々】
日本書記名
備考
古事記名
神々
わたつみ
※綿津見= 少 童 =海の守護神
おおやまつみのみこと
大 山 祗 命
別名:大山津見神
イザナギとイザナミが産んだ神で、地上
に山ができたときの山の神である。また
ににぎのみこと
天孫降臨で有名な邇 々 藝 命 の夫人(木花
之佐久夜比売)の父でもある。
おおやまくひのかみ
やますえのおおぬしのかみ
大 山 咋 神
別名: 山 末 之 大 主 神
山王神道(神仏習合の一流派)では、比
叡山の神の権現として現れたもの
※比叡山の地主神。
※京都市西京区にある松尾大社は、御本
家で酒造りの神として知られている。
おおなむぢのみこと
大穴牟遅尊
おおくにぬしのみこと(かみ)
大
国
主
命
くしいなだひめ
日本書記では、スサノオと奇 稲 田 姫 との
おおなむぢのかみ
間に生まれたのが 大 己 貴 神 であり、大
国主命のことである。古事記ではスサノ
くしなだひも
オと櫛名田姫 と結婚し、その子孫六代目
が大国主命である。
おおなむぢのみこと
また古事記では、大 穴 牟 遅 尊 は、木(紀)
やそがみ
の国に行き、再度八十神の迫害を受ける
おおやびこのかみ
木の国の大家毘古神 は、スサノオのいる
ねのくに
根 国 (出雲)に行くように言った。行っ
す せ り ひ あ
てみると、須勢理毘賣 が現れ、スサノオ
(父親)に「麗しき神が来ました」と言
あしはらしこめお
うと、スサノオは「葦原色許男 という」
と答えた。スサノオの娘スセリヒメと結
~ 14 ~
【参考:町内の神社で祀られている神々】
日本書記名
備考
古事記名
う か
みさき
婚し、宇迦 の山(御埼 山)に太い柱をも
きつき
った宮殿を建てた。これが出雲大社(杵築
おおやしろ
大 社 )である。ここで初めてオオムナ
ジから大国主神となる。
※六人の妻をもった大国主命
やがみ
ぬなかは
スセリヒメ(正妻)、八上ヒメ、 沼 河 ヒ
た ぎ り
かわやたて
ととりのかみ
メ、多紀理ヒメ、神 屋 楯 ヒメ、 鳥 取 神
※六つの名前をもった大国主命
おおものぬし
そのかみ
大物名主( 園 神 )【奈良の三輪山に祀ら
おおなむじのかみ
からかみ
やちほこ
れている】、大己貴神( 韓 神 )、八千矛神、
あしはら し こ お
葦 原 志挙乎、宇都志国玉神、大国主神(病
へいゆ
気平癒の神)
はやたまおのみこと
速 玉 男 命
ことさかおのみこと
事 解 男 命
火の神カグツチを産んだイザナミは、致
命傷な火傷を負いながら、鉱山の男、女
神、粘土の男、女神、灌漑水用水の女神、
かむさ
よみのくに
農業生産の神を産み、神避って黄 泉 国 に
行ってしまう。イザナギは、死んだイザ
ナミに会いたくて、そこで永遠の別れを
告げることになる。イザナミの姿を見て、
イザナギが唾を吐いた。そのとき出た神
はやたまおのみこと
けが
が 速 玉 男 命 で、次に死の 穢 れを払う
よもつことさかのおのみこと
神が現れた。この神が 泉 津 事 解 男 命
である。
ほんだわけのみこと
ほむだわけのみこと
たらしなかつひこのみこと
たらしなかつひこのみこと
おきながたらしひめのみこと
おきながたらしひめのみこと
誉 田 別 尊
足
仲
彦
品陀和気命
尊
気 長 足 毘 賣 尊
帯中津日子命
息 長 帯 比 売 命
~ 15 ~
第十五代天皇
応神天皇のこと
第十四代天皇
仲哀天皇のこと
じんぐう
み こ
仲哀天皇の皇后で 神 功 皇后のこと。巫女
【参考:町内の神社で祀られている神々】
日本書記名
備考
古事記名
の力を備えた勇ましい女帝。
さるたひこ
猿田彦命
さるたひこのみこと
佐留田彦命
さ る た ひ こ の か み
猿田毘古(彦)神
天孫降臨のおりアマテラスの孫。ニニギ
の命御一行を道案内した国津系の神様。
ふなど
道の神、辻の神、 岐 の神。
わけいかづちのみこと
別
雷
命
おおやまくひのかみ
大 山 咋 神 の子で、厄除け、災難除け
の神。自然の水を支配する神として祀ら
れている。
このはなのさくやひめのみこと
木花開邪毘賣命
かむあたつひめ
別名:神阿多都毘賣
木の花の咲き栄える神、枝芸の神、果実
の守護神。父親は大山祇命である。
ことしろぬしのみこと
事 代 主 命
オオクニヌシとカムヤタテヒメとの間に
できた子で、鳥狩り、漁業の粗神、七福
神のエビス様と同一視されている。
たぎりひめのみこと
多紀理毘賣命
おきつしまひめのみこと
別名: 奥 津 島 毘 賣 命
アマテラスとスサノオの誓約により、ス
サノオの子として三柱の中の一柱の女
神。イツキシマヒメとは姉妹の関係。海
上守護神。
おもいかねのかみ
たかまのはら
思 兼 神
たかみむすひ
高 天 原 の高御産巣日 の子であり、アマ
テラスの子孫が地上を支配するとき、よ
くこの神と相談された。知恵の神。
すくなひこなのみこと
少 彦 名 尊
すくなびこなのかみ
少名毘古那神
ガガイモの実の船に乗って、美保関で大
国主命と出会い、協力して国造りを行う。
かみむすひのかみ
神産巣日神 の子(薬指の間から零れ落ち
たとされる)。医薬の神、小人の神。
いざなみのかみ
伊耶那美神
国生み、神生みの祖。火・土・水の祖。
~ 16 ~
【参考:町内の神社で祀られている神々】
日本書記名
備考
古事記名
すがわらのみちざね
菅 原 道 真
人が死ぬと霊となる。恨みを残して死ん
だ人は怨霊となる。恨む相手を呪い殺す
ばかりではなく、天災や疫病すら起こす。
これを祟りという。恨む相手を祟るだけ
ならよいが、天災や疫病となると関係の
ない人までが被害を受ける。怨霊を鎮め
るために神として祀った。学問の神様。
や そ ま が つ ひ の か み
八十柱津(禍)日神
八十柱津日神は災厄を起こす神、大直日
おおなおびのかみ
神、神直日神は凶事を吉事に直す神。イ
大直日神
みそぎ
ザナギが 禊 をしようと、水に入って身
かむなおびのかみ
神直日神
体をすすいだときに穢れを払うと、八十
けが
柱津日神が現れ、穢 れを正すと大直日神、
神直日神が現れた。
あめのこやねのみこと
あまのこやねのみこと
あめのふとだまのみこと
あめのふとだまのみこと
あめのうずめのみこと
あめのうずめのみこと
天児屋根尊
天 太 玉 尊
天 細 女 尊
天 兒 屋 命
天 布 刀 玉 命
天宇受賣命
アマテラスがスサノオとの戦いを避ける
いわやど
ために、身を隠した場所が天の岩屋戸 と
言われている。世界は暗闇になり、元の
世界に戻すために、全ての神々が集結す
やおよろず
る。アマノウズメが踊りだし、八 百 万 の
神々の宴会が始まる。不審に思ったアマ
テラスが、戸を細く開けて顔を出し、戸
から身をのしだしたアマテラスを
あめのたぢからおのかみ
天 手 力 男 神 が手をとって引っ張り出
したとき、天布刀玉命が戸にしめ縄を張
り戻れなくした。
※日本書記では、戸にしめ縄を張ったも
のが、天児屋根尊と天太玉尊となってい
~ 17 ~
【参考:町内の神社で祀られている神々】
日本書記名
備考
古事記名
るが、古事記では天布刀玉命のみの記入
である。
あじすきたかひこのみこと
味 租 高 彦 尊
あじすきたかひこねのかみ
阿遲高日子根神
かものおおみかみ
別名:迦毛大御神
農具の鋤を神体とする農業神である。ま
た雷神として祀られている。
したてるひめのみこと
下照比賣命
たかみめのみこと
別名: 高 比 賣 命
下照から光を受けて美しく輝く姫のこと
であると思われる。出雲の神門から来ら
れ、この地に住まわれた伝説がある。豊
かな国造りをされた神。
あめのわかひこのみこと
天 稚 彦 尊
あめのわかひこのみこと
天 若 日 子 命
アマテラスの命を受けて出雲国にやって
くるが、下照姫と結婚し、八年経っても
アマテラスに返事をしなかった。怒った
アマテラスがキジ(古来は伝達者)を使
いに出したところ、このキジを弓矢で殺
してしまう。この矢がアマテラスのいる
所に届き、矢は投げ返され、この矢が天
稚彦に刺さり絶命する。
たてみなかたのみこと
建御名方命
アマテラスの命を受けて、タケミカヅチ
とフツヌシ両神がイナサの浜に来られ、
オオクニヌシに国譲りを願ったところ、
その要求に反対し抵抗した神。両者の争
いは十年も続いたとされ、建御名方命は
諏訪の地に逃げたという。諏訪大社で祀
られている。
たてはづちのみこと
建 葉 槌 命
~ 18 ~
しとり(又はしずおり)
倭
文
織物の租神
【参考:町内の神社で祀られている神々】
日本書記名
備考
古事記名
しずおり:梶の木の繊維と麻の繊維で筋
や格子模様(横縞模様)を織り出す
倭:織物の意味
文:模様の意味
はやあきつひこのかみ
速秋津日子神
はやあきつひめのかみ
速秋津比賣神
速秋津日子神は河口の男神、速秋津比賣
神は河口の女神。イザナギとイザナミか
ら生まれた自然の神。
しなつひこのみこと
しなつひこがみ
級長津彦尊
志那都比古神
しなつひめのみこと
しなつひめがみ
級長津姫孫
志那都比売神
~ 19 ~
イザナギとイザナミによって生まれた風
の男神と風の女神。
【参考:寛政 7(1795)年河村郡 神社・御改帳より(本社のみ)】
【参考:嘉永年間(1843~1853)河村郡 神社・御改帳より】
本社名
神社名
東郷神社
祭神
和田神社(村より丑 妙見大明神
大正 6(1917) [北東方向])
備考
妙見は武士の守護神々。妙見
神は日蓮宗の守護神。
年、東郷地区一 山辺神社(七谷)
七谷大明神
六柱を合祀
別所神社(東谷)
籠盛大明神
高辻神社(宮ノ前)
松尾大明神
松尾神社(宮ノ内)
新宮神社(鍛冶屋谷) 新宮大明神
久見神社(村より南) 梵天帝釈
仏教の守護神
谷口神社(村より北) 三宝荒神
松尾神社
引地神社(宮ノ山)
厳島大明神
高山神社(本谷)
八幡宮
大正 11(1922) 長和田神社(村より 田中大明神
年 3 月、六神社 北)
を合併。向山、 佐美神社(村の上)
衣那荒神
え な
村の人々の胞衣を守る神。胞
長和田、佐美、
衣を同じくする同族、共同体
大宮、高宮、高
の守護神、氏神。
山の各神社
大宮神社(埴見、宮 大宮大明神
ノ谷)
松尾神社(村より西)
鎌倉時代、京都の松尾大社よ
り荘園の守護神として歓請。
長瀬神社
長江神社(勘屋)
音若大明神
田後神社(宮ノ本)
大宝天王
長瀬神社(上屋敷)
一宝大明神
大正 12(1923) 久留神社(村より東) 久留大明神
年 3 月 9 日、久
※神社名の(
みずおち
ご ず
水 下 神社(村より 牛頭天王
)に書かれているのは鎮座地です。
~ 20 ~
祇園精舎の守護神。京都八坂
【参考:寛政 7(1795)年河村郡 神社・御改帳より(本社のみ)】
【参考:嘉永年間(1843~1853)河村郡 神社・御改帳より】
本社名
神社名
祭神
留、水下の各神 南)
備考
神社を中心とした疫神への
社を合併
信仰。
さぎ
宮本神社( 鷺 田森) 鷺大明神
梶尾神社(稲場)
ほうそう
流行病厄除けの神( 疱 瘡 )
三宝荒神
北野神社(村より辰 天満天神
天神、天満天神、北野天神と
己[南東方向])
呼ばれる神は、菅原道真であ
る。
湊神社(村より東)
湊大明神
宇野神社(平地村よ 三宝荒神
り丑寅[北東方向])
水谷神社(上ノ山)
八大荒神
仏教との関係から生まれた
神名で、八大金剛童子、八大
龍王からきたものとされる。
我が国では、祈雨、止雨の尊
格として信仰された。
灘郷神社
園神社(恵比寿、西 釜屋大明神
大正 4(1915) ノ樋)
年、泊、石脇、
小浜、筒地の各
神社が合併し、
灘郷神社とな
る。その後、園、
原の各神社を
併合
泊神社(村より東)
※神社名の(
三宝荒神
)に書かれているのは鎮座地です。
~ 21 ~
【参考:寛政 7(1795)年河村郡 神社・御改帳より(本社のみ)】
【参考:嘉永年間(1843~1853)河村郡 神社・御改帳より】
本社名
神社名
祭神
備考
石脇神社(村より辰 雀大明神
「すずめ」と読むが、記紀で
己[南東方向])
は「さざき」と読む。
小浜神社(村より北) 八幡宮
国主神社
筒地神社(上ノ山)
衣那荒神
新宮神社(村の中)
三宝荒神
大正 2(1913) 国主神社(河津垣)
国主大明神
年 ~ 大 正 3 野方神社(大門)
三宝荒神
(1914)年、新 白石神社(白山)
松尾大明神
宮、小木林、野
方、白石の各神
社を合併
福永神社(向山)
星宮大明神
藤津神社(立王山)
龍王大明神
早稲田神社(村より 音若大明神
東)
倭文神社(村より北) 一宮大明神
北
※参考(方位図)
子
亥
丑
戌
西
寅
酉
卯
申
辰
未
午
巳
南
※神社名の(
)に書かれているのは鎮座地です。
~ 22 ~
東
町内の寺院一覧
~ 23 ~
場所
(地図番号)
松崎(1)
名称
しょうりょうざん
照 量 山
宗派
けんぽんほけきょう
顕本法華経
ほんりゅうじ
本立寺
概要

本尊:宗祖尊定(日蓮)の大曼荼羅

本妙院日饒(にちにょう)の開基で
慶長 18(1613)年の創建。

囲碁の寺として栄え京都の妙満寺
を本山とする。
松崎(2)
せいりゅうさん
清 龍 山
ほうりんじ
法林寺
浄土真宗

本尊:阿弥陀如来
大谷派

元は天台宗であったが、住職(多田
乗西)が文明 2(1470)年に大阪で蓮
如上人の教化を受けて御染筆、六字
名号南無阿弥陀仏を授かり改宗。

フラミンゴの襖絵:信者の寄贈

平和の灯:広島で原爆の際、焼け跡
でくすぶり続けていた火を亡くな
った人の供養にと、福岡に持ち帰り
絶やさずにともし続けられた火が
ある。平和を願う心を育てようと全
国に分けられ、法林寺でも灯し続け
られている
松崎(3)
ずいうんざん
瑞運山
せっしゅいん
摂取院
浄土宗

あみだにょらい
本尊:阿弥陀如来、向かって右が
かんのんぼさつ
知恩院派
せいじぼさつ
観 音 菩 薩 、左が勢至菩薩、これら
さいこうじ
あみださんぞん
西向寺
を阿弥陀三尊像と言う。

慶長元(1596)年の開創で開山は寿
心。

町指定文化財:十一面観音菩薩立
像、不動明王像、毘沙門天立像、青
面金剛像
~ 24 ~
場所
(地図番号)
名称
しょうきさん
中興寺(4) 昭 暉 山
宗派
曹洞宗
りゅうとくじ
龍徳寺
概要

因幡二十二士の碑

本尊:釈迦如来

永正年間(1504~1520)、和田の定
光寺三世の高弟、端翁玄鋭の開山。

町指定文化財:漆原にあった万福寺
の本尊薬師如来座像が安置。
別所(5)
ほうきさん
宝樹山
曹洞宗

ちょうえいじ
長栄寺
本尊:釈迦如来、宝樹子安観音菩薩
(故徳下泰明作)

元名を安泰山と称していた。

龍徳寺 12 世が、 鷲 仙 任 峰 の開基
じゆせんにんぽう
そんかん
で龍徳寺五世貞文 存 侃 を勧請して
開山。

明治 40(1907)年、15 世山崎祖苗
が江湖会修行に際して、但馬の長松
寺泰?昭に接して教化を受け、その
折山号を宝樹山と改めた。
引地(6)
くほんさん
九品山
曹洞宗
だいでんじ
大伝寺

町指定文化財:長栄寺天井絵

本尊:十一面観音菩薩、阿弥陀如来

万寿元(1024)年の開創。

大和の当麻寺から中将姫の遺跡を
分移。

慶長 5(1600)年、関ヶ原の戦いの
後、景宗寺、大伝寺いずれも焼失し
た。当時、景宗寺の住職仙長は、出
雲大社の社人の杉谷佐太夫の家に
行っていたが、急いで帰り長和田の
~ 25 ~
場所
(地図番号)
名称
宗派
概要
草庵にこもり大伝寺の再興をはか
り、慶長 10(1605)年の秋に成就し
た。このとき二十五菩薩の面も作
り、練り供養を行ったとされる。

町指定文化財:阿弥陀二十五菩薩立
像、中将姫像

引地の名の由来は、当麻寺の練供養
の儀式でお迎えし引き移したので
引地という。

九品山会式:中将姫の徳を敬って九
品囃子が奏でられる。毎年旧暦 3 月
14 日から 15 日にかけて行われ、流
れ潅頂大施餓鬼供養と中将姫の練
供養が修業される。

東郷池の水のかなたに他界があり、
東郷池や大伝寺は、極楽浄土の入り
口だと言い伝えられている。
長和田(7)
しょうほうざん
正 法 山
曹洞宗
ちょうでんじ
長伝寺

本尊:釈迦牟尼仏

慶長 5(1600)年の関ヶ原の戦いの
後、景宗寺住職仙長が長和田に草庵
を営み、長伝寺と改め、南條氏の菩
提を弔った。よって仙長が長伝寺の
開基となる。

元禄 14(1701)年、嶺堂住職のとき、
仏殿、庫裏堂、法器などの設備を整
え禅林と称する。
~ 26 ~
場所
(地図番号)
名称
宗派
概要

さらに嶺堂は、九品山大伝寺を再建
し、長伝寺の法系とした。

町指定文化財:長伝寺大シイ、長伝
寺天井絵
長江(8)
ながえさん
長江山
えいふくじ
永福寺
曹洞宗

本尊:薬師如来
通幻派

元は長江の字長泉寺という畑地に
あった薬師堂を現在地に移転して、
長江山永福寺と称した。

龍徳寺四代祐仙を開祖としている。

観音、地蔵堂は、長江出身の山根勝
太郎、恵美子夫妻と長男貞一氏の寄
進。
はわい長瀬
(9)
あんようざん
安養山
しょうふくじ
勝福寺
浄土真宗

本尊:阿弥陀如来
本願寺派

開基:釈正永(年代不詳)

天正 13(1585)年、中興開山無量院
教正は南條氏のもとを離れ、浄土真
宗に改め、南谷に進出し寺院を建立
し、後に長瀬村に移る。

南谷字屋敷の畑より、古碑や経文を
刻み込んだ石塊が出る。

明治 7(1874)年、米子城主で筆頭
家老の荒尾但馬守の菩提寺鳥取顕
功寺が、廃寺となっていたのを当時
395 円で買い取り、その年の 12 月上
棟した。
下浅津(1
まつかぜえん
松風園
浄土真宗
~ 27 ~

本尊:蓮如上人御染筆の御名号
南
場所
(地図番号)
0)
名称
こうほうじ
香宝寺
宗派
概要
本願寺派
無阿弥陀仏

上杉兵部大輔(?~1535)が、敗軍
してこの地に住む。その後、天照大
御神に参詣せんと志を立て向かう
道中、山城国山科の本願寺蓮如上人
に謁し、浄土真宗に帰依し法名廓道
を頂く。

永正元(1504)年、浅津に庵を作り、
修行の場とし念仏を広める。

池田清次郎軌長が、橋津川の合戦
(1540~1543)に敗れ光吉に住む。
衆民の念仏を深く信じ、廓道の遺徳
を偲ぶ姿に感化され、出家して祐尊
と称し廓道師の旧蹟に居住。さらに
念仏を広める。

東は宇野、宇谷、松崎、西は八橋、
金市に教勢を張り真宗寺院の根基
をなす。

堂宇を再興し、準上人より香宝寺の
号を賜り、慶長 9(1604)年木仏本
尊及び親鸞上人の御影を安置する。

1780~1800 年頃、香宝寺は田舎本願
寺とまで称された。

松風園香宝寺は、松風山十万寺(天
台宗)の法燈を継いでいる。
たいほうさん
橋津(11) 䑓 方 山
浄土宗
~ 28 ~

本尊:阿弥陀如来
場所
(地図番号)
名称
宗派
さいれんじ
概要

西蓮寺
元は上橋津村に建てられており天
台宗の寺であった。

天正 12(1584)年、戦により焼失し
たが春道和尚が湊村に再興。

慶長 18(1613)年、赤池村の大旦那
戸崎家が先祖の供養のため、現在の
位置に建てる。

本堂入口の賽銭箱は、文化 7(1810)
年、天野屋の寄進によるものであ
る。

大石地蔵菩薩:宝暦 7(1757)年、
疫病の平癒を願って造立。

町指定文化財:茶町踊り

本堂の左右には、藩の絵師稲栄によ
る地獄、極楽絵図がある。
しんにょさん
橋津(12) 真 如 山
法華宗
じっそうじ
実相寺

本尊:釈迦多宝菩薩(法華宗の本尊)

橋津の灰吹屋(鉱山技師)宗近は、
有徳の信者であった。享保 4(1719)
年、死期を予知して読経し、永眠し
た。

息子の七郎左衛門、五左衛門父子と
時の庵主普門院嚫との協力で米子
の廃寺、妙善寺を買い求めて再建す
る。

鳥取の芳心寺の世話で藩の許可を
得、普門院を貫主として実相寺を創
~ 29 ~
場所
(地図番号)
名称
宗派
概要
立。

京都北山妙顕寺の日陳上人にまみ
え直末寺となる。
宇野(43)
せいりゅうさん
青 柳 山
あんらくじ
安楽寺
浄土真宗

本尊:薬師如来
大谷派

安楽寺開山の恵順は、一宮の別当職
であり、宇野村後方の丘陵地の南麓
に一堂宇を構え、正来院と号してい
たが、兵乱により焼失。その後、宇
野村に近い本尾崎家の貯水堤の下、
字宮の前に一宇と社を建立した(神
仏混合)。

天台宗であり、薬師如来を本尊とし
た。

第二代釈恵日律師は、承応 2(1652)
年に浄土真宗に改宗し、安楽寺と改
号した。

釈恵日律師は、香宝寺を再興した池
田新左衛門軌長(祐尊)の弟子と思
われる。
えんとくさん
宇谷(44) 円 徳 山
じょうれんじ
乗蓮寺

町指定文化財:宇野三ツ星踊り
浄土真宗

本尊:阿弥陀如来
大谷派

天文 13(1544)年、正面和尚を開山
として宇谷の寺谷に建立。創建当初
は天台宗。

正元和尚の代に香宝寺末寺の西本
願寺派。
~ 30 ~
場所
(地図番号)
名称
宗派
概要

宝暦 11(1761)年に安楽寺、法林寺
と共に東本願寺派に改宗。
泊(15)
かいうんざん
海雲山
曹洞宗
ちょうせいじ
長清寺

本尊:釈迦牟尼仏

享禄 4(1531)年、河口城主山名久
氏が城地の南東に菩提所として建
立。機堂長応大和尚を勧請開祖とす
る。

越前国慈眼寺の末寺で、第一世華翁
順侃和尚は泊に法大寺、石脇に祥音
寺、松崎に中興寺、宮内に龍徳寺の
四ヵ寺を建立し、寺門は大いに栄え
た。

創建以来七十年後、河口城落城によ
り伽藍はすべて焼失した。

江戸時代に旅の名僧が再興し代々
遺志を継承するが、延享 3(1746)
年に類焼により伽藍を焼失する。

宝暦 4(1754)年、檀信徒の浄財に
より再建。
泊(16)
じぞうさん
地蔵山
浄土宗
せいうんいん
清雲院

本尊:阿弥陀如来

天正年間(1573~1591)、吉川元春
しょうみょうじ
称 名 寺
の猛攻により河口城は落城し、城中
に残されていたのは、山名氏が累代
本尊として祀っていた阿弥陀如来
だけだった。

~ 31 ~
後世、雄誉霊厳松風上人が、衆生済
場所
(地図番号)
名称
宗派
概要
度のため諸国周遊の途中に河口城
跡に阿弥陀如来像があると聞き、四
十八夜、懇ろに祀った。

打吹城城主、山名氏豊の臣、賀藤金
吾久正という勇士が、60 余才になっ
て仏門に帰依し、名を息庵休哲と改
め絹見村竜泉寺の傍らに草庵を結
んでいた。

松風上人の弟子になって 10 年、唱
阿の号を授与された後、泊に堂宇を
建立し御本尊を移し、日夜念仏を称
えることを怠らなかった為に寺号
を称名寺とした。

地蔵山の山号の由来は、戦国の昔、
泊浦の海中に出現された地蔵尊を
安置した事によるとされる。

清雲院の由来については、敵、味方
を問わず数多の亡霊を供養し、五逆
の雲を晴らす意味において称され
たとされる。
たいようさん
方地(17) 太 養 山
かくぜんじ
覚善寺
浄土真宗

本尊:阿弥陀如来
本願寺派

元は天台宗であり、旧東郷町白石の
城山奥にあったが落城と共に焼失
したとされる。

寛文 2(1662)年、本願寺から木仏
本尊を受けて再興され、元禄 5
~ 32 ~
場所
(地図番号)
名称
宗派
概要
(1692)年に現在地に移転。
ほうしんいん
田後(18) 法 真 院
日蓮正宗
~ 33 ~

改宗の祖:覚祐を初代とする。

町指定文化財:覚善寺天井絵図

本尊:曼荼羅(南無妙法蓮華経)
神社(赤色)
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寺(青色)
松崎神社【松崎】
契神社【旭】
東郷神社【小鹿谷】
松尾神社【野花】
長和田神社【長和田】
籠守神社【埴見】
佐美神社【佐美】
北野神社【門田】
長江神社【長江】
田後神社【田後】
長瀬神社【はわい長瀬】
宮本神社【上浅津】
梶尾神社【下浅津】
光吉神社【光吉】
北野神社【南谷】
湊神社【橋津】
塩川神社【橋津】
宇野神社【宇野】
水谷神社【原】
恵比寿神社【園】
灘郷神社【泊】
小浜神社【小浜】
筒地神社【筒地】
国主神社【漆原】
福永神社【福永】
藤津神社【藤津】
早稲田神社【宮内】
倭文神社【宮内】
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1
本立寺【松崎】
2
法林寺【松崎】
3
西向寺【松崎】
4
龍徳寺【中興寺】
5
長栄寺【別所】
6
大伝寺【引地】
7
長伝寺【長和田】
8
永福寺【長江】
9
勝福寺【はわい長瀬】
10
香宝寺【下浅津】
11
西蓮寺【橋津】
12
実相寺【橋津】
13
安楽寺【宇野】
14
乗蓮寺【宇谷】
15
長清寺【泊】
16
称名寺【泊】
17
覚善寺【方地】
18
法真院【田後】
郷土の人物を学ぶにあたって
今回、取り上げた人物は、江戸時代以降、湯梨浜町出身(生まれた・育った)
で、ゆかりのあった人を基本に、郷土(湯梨浜町)をはじめ、広く日本、世界
に対して貢献された25人(羽合地区10人、泊地区8人、東郷地区7人)で
す。
調査方法は、『鳥取県が誇る人物誌』『泊村誌』『東郷町誌』『羽合町史』など
の参考文献を中心に読みあったり、ゆかりの地を訪問したりしながら調べまし
た。
今回選出した人以外にも、郷土にはたくさんの偉人がおられます。今後も各
種文献や情報交換をしながら、調査研究活動と続けていきたいと思います。
~ 35 ~
郷土の人物(羽合地区)
~ 36 ~
市川竹蔵(いちかわ たけぞう 日本画)
文政6(1823)年生~明治35(1902)年没
河村郡橋津村(現在の湯梨浜町橋津)に生まれる。絵を描くことが好きで、10
歳頃より画法を長和田の長伝寺住職に、漢籍習字を橋津の儒者であり医者であった
戸崎三省に学んだ。家業に精励せず、18、9歳の頃出家して橋津の実相寺に入り、
続いて本山の京都妙顕寺で学問を学びながら修行した。同時に書画を出雲の天野漱
石、美濃の村瀬秋水、豊後の平野五岳に学ぶ。初めは四条派であったが、後に南画
に転じた。
修業のため諸国を遍歴し、帰郷したのは明治17(1884)年、以後没するま
で、山水画、花鳥画、風俗画、中国古典による画題などを精力的に描いた。円満、
高潔な人柄で学問も深く、学僧画家と言われている。羽合地区における最初の本格
的な画家である。作品は羽合地区にはもちろん、近郷の町村内にも所持している人
が多い。東温、南甫、嶂翠と号す。
長瀬村利七(ながせむら りひち 幕末のアメリカ・中国見聞者)
文政7(1824)年生~明治2(1869)年没
河村郡長瀬村(現在の湯梨浜町はわい長瀬)に生まれる。16歳のとき、橋津湊
に出入りする藩の持ち船の炊事夫として働く。嘉永3(1850)年、江戸からの
帰路において遭難し、53日漂流してアメリカ商船に救助された。翌年サンフラン
シスコ到着。港湾の仕事を手伝いながら中国向け便船を待つ。アメリカ滞在1年で
中国行の軍艦に乗船。長い中国滞在の後、嘉永7(1854)年、長崎にたどり着
く。長崎で取り調べを受けた後、鳥取藩に帰る。この体験により、学館尚徳館の仕
人(用務員)に取り立てられ、苗字帯刀を許され、佐伯文太と名乗ることになる。
藩よりたびたび呼び出しを受け、外国事情を聞かれた。彼の見聞録『漂流紀談』は
次々と写本され、多くの人に読まれた。
時代は尊皇攘夷思想により西洋人を避ける傾向が強まっていた。また、農民出身
の利七の待遇をねたむ者があり、武士社会が馴染めなかったようである。病を得た
利七は郷里に帰って生涯を終えた。利七の顕彰碑は湯梨浜町新川海岸にあり、碑に
は「青少年よはばたけ」と刻まれている。
尾崎文五郎(おさき ぶんごろう 農民の銀行・奨恵社を作る)
文政8(1825)年生~明治31(1898)年没
河村郡宇野村(現在の湯梨浜町宇野)の県下でも有数の豪農の長男として生まれ、
父が早く亡くなったことにより、若くして跡を継ぐ。宗旨庄屋、大庄屋を務め、明
治4(1871)年には区戸長を、また同年に郡長に任ぜられた。明治6(187
3)年、地租改正条例を機に、金納ができない農民のために橋津の官倉を借り受け
~ 37 ~
て共同倉庫を設け、その運用によって農民の困窮を救った。その後、中原与平(橋
津村)、市橋善蔵(小鹿谷村)、涌島長十郎(伊木村)、涌島正保(上余戸村)とと
もに「奨恵社」を起こし、共同倉庫業を前進させ、明治15(1882)年、郡内
窮民の救済、育児事業の開設、公益事業、日清戦争に兵隊として参加している家族
の援助を始めた。この取り組みは県下では初めてであったが、後に北条、由良、泊
などにも広がった。奨恵社は文五郎没後もその精神が受け継がれ、太平洋戦争終結
まで継続された。
元来、思いやりのある人柄で、地元はもちろん近郷の人からも慕われたが、自身
の事業のことを自慢することはなかったという。脱走した因幡二十士を援助した中
原吉兵衛に百両の金を貸したと『史劇 因幡廿士』には書かれている。
山内平作 篤処(やまうち へいさく とくしょ)(詩文書画・私塾での教育)
天保6(1835)年生~明治18(1855)年没
父は鳥取藩医。正墻適処に学び、藩の方針を勤皇に導くための努力をしたが、そ
れが危険人物と見なされたため幕末には4年間幽閉生活を送った。
藩の逆順を誤らせなかった功により、明治になって中央政府の役人になったが、
明治5(1872)年、役人を辞し、明道校初代校長、遷喬校校長、米子小学校教
員伝習所学長などを歴任した。職を辞した後、由良宿に、さらに河村郡長瀬村に移
り、楽只(らくい)舎と称する塾を開いた。「楽只」は詩経の「楽只君子」から取
って命名したものである。徹底した自学自習主義で、塾の雰囲気は自由で暖かであ
ったという。入門者は町内(羽合)に限らず、広く県内から集まっていた。
正墻適処、遠山添処とともに伯耆の三処と称された。顕彰碑には「先生ハ身幹魁
偉 眼光炯然威容有り 而モ之ニ就ケバ 温温トシテ圭角ヲ見ズ」と記されている。
顕彰碑は旧長瀬小学校にあったが、移転して旧羽合西小学校へ、さらに現在は羽合
小学校にある。
詩文書画をよくする(『北条町誌』)とある。
戸崎 省庵(とさき せいあん 医師・文人画)
天保11(1840)年生~明治16(1883)年没
河村郡橋津村(現在の湯梨浜町橋津)に戸崎三省の三男として生まれる。字(あ
ざな)は温で、省庵・黛山と号した。戸崎家は赤池の戸崎の分家で、代々の医師で
ある。省庵はその5代目である。
鳥取で藩医の木下大壮に学び、京都で医学を竹中謙吉に、儒学を梶村謙吉と山田
梅東に学んだ。また、瘍科を鎌田玄吉について研修している。
戊辰の役には藩命を受けて従軍し、傷病兵の診療に当たった。明治2(1869)
年に帰郷して創設された医学寮の助教役をして、翌明治3(1870)年藩医とな
~ 38 ~
り四人扶持を受けた。明治5(1872)年には囚獄所、医学統括の役に就いた。
戸崎家は医師であるとともに、塾生をおいて教えていた。省庵は明治6(1873)
年に橋津に帰り、医業を続けるかたわらで、医師を目指す塾生を指導した。さらに、
家塾を開き、近所の志のある者に学問を教えていた。当時の知識人として、書や文
人画をよくした。
団野蔵六(だんの ぞうろく 教師・漢詩人)
慶応3(1867)年生~昭和11(1936)年没
河村郡橋津村(現在の湯梨浜町橋津)に生まれる。名は亀吉、字(あざな)は健、
号は蔵六と馬山人である。小学校を卒業した翌明治17(1884)年、同年小学
校初等科助教の免許状を下付され、採用となった。この頃、遠山澹処の知遇を得て
漢詩の手ほどきを受ける。教師としては西晋一郎の倫理学の講習を受けたり、図画
の講習にも参加したりして研修を深めることにより、21歳で橋津尋常小学校長に
就任。明治45(1912)年、宇野小学校長に転じた。退職後、大正9(192
0)年、育英中学校で国・漢を講じる。
明治28(1895)年、水戸で漢詩人として高名な綿引東海が養生館で静養し
ていた折りに詩稿を持参して指導を受けた。東海は蔵六を高く称賛して激励したと
いう。明治42(1909)年、再び来遊した東海を主客にして東郷湖にちなんで
「鶴湖詩会」が開催された。昭和6(1931)年には山陰大詩会を主催して、1
9名の参加があった。中原孝太(中原和郎の父)とも交友があった。
本人が所蔵していた資料は現在県立図書館に収蔵されている。
谷田亀寿(たにだ かめとし 教師・郷土史家)
明治22(1889)年生~昭和47(1972)年没
倉吉市日下村清谷(現在の倉吉市清谷)に生まれる。後、結婚により湯梨浜町田
後に居を構える。
鳥取県教育会教員講習所で学んだ後、日下村役場に勤務。間もなく兵役に服し、
明治41(1908)年由良尋常小学校代用教員を皮切りに、45年に渡って小学
校教員~河北農業高校に勤務。そのかたわら、郷土史研究に打ち込む。昭和13(1
938)年まで16年間宇野尋常小学校に勤務したが、この間馬ノ山古墳に強い関
心を持ち、実測を繰り返して中国地方有数の古墳であることを突き止めた。さらに、
亀寿は本尾崎家庭園を調査し、水琴窟を発見して世に紹介している。伯耆国河村郡
東郷荘絵図についても研究して学会で発表した。全国的に国民意識の高揚が叫ばれ、
郷土を見直す気運が盛り上がっていく中で『宇野村郷土誌』の執筆編集にも尽力し
た。
戦後は『倉吉市誌』の編纂委員、県文化財専門委員を歴任。また、町史の編集委
~ 39 ~
員長として『羽合町史(前編)』
(昭和42(1967)年完成)の執筆編集に努力
した。戒名は谷翁考古居士。
中原和郎(なかはら わろう ガン研究の第一人者)
明治29(1896)年生~昭和51(1976)年没
東伯郡橋津村(現在の湯梨浜町橋津)に生まれる。父孝太は若くしてアメリカ(ミ
シガン大学)に留学し、アメリカで盛んになりつつあった冷蔵業を米子で開業して
いる。
和郎は父に従って橋津、米子、大阪、東京と住所を変えた。渡米については第一
高等学校の受験に失敗したことがきっかけとされているが、野口英世の業績に感銘
を受けたのも動機とされている。東京私立京華中学校を卒業後渡米して、大正7(1
918)年、アメリカコーネル大学生物学科を卒業。大正8(1919)年、ロッ
クフェラー医学研究所に就職してガンについての研究に取り組む。ここで野口英世
と親交を結ぶ。また、学部長の秘書ドロシーと結婚。大正14(1925)年、両
親の要望を受けて帰国。同年東京帝国大学伝染病研究所、理化学研究所に勤務。戦
前、戦後を通じてガンの研究を続け、ガンの毒素「トキソホルモン」の抽出に成功
し、日本学士院賞受賞。昭和37(1962)年に設立された「国立がんセンター」
の研究所長に、昭和49(1974)年からは総長として亡くなるまでその職にあ
った。
和郎は蝶についても優れた研究をしている。中学生の頃には北海道大学、東京大
学の教授などから指導を受けている。発見した新種には自分の娘の名前を取って
「シルビアシジミ」と命名した。さらに和歌にも優れ、歌集も出版している。歌人
栗原潔子は実妹。
栗原潔子(くりはら きよこ 歌人)
明治31(1898)年生~昭和40(1965)年没
東伯郡橋津村(現在の湯梨浜町橋津)に生まれる。兄は中原和郎。
4歳の時米子に移る。さらに、両親と別れて、兄と共に東京に転居する。跡見女
学校に学ぶ。跡見女学校を4年で中退した後、20歳頃に佐々木信綱に師事し、
「竹
柏会」に入会。さらに大正4(1915)年、齋藤与里画伯から油絵を学ぶ。大正
8(1919)年、洋画家栗原亮と結婚。この年「潔子集」発刊。昭和3(192
8)年、文芸同人誌「火の鳥」創刊により参加。「心の花」撰者となる。昭和10
(1935)年、
「婦人公論」の記者となる。昭和16(1941)年、
「寂寥の眼」
出版。
昭和17(1942)年、墓参のため橋津を訪れる。そのときの一首「疲れはて
流離の心しきりなるわがわたりゆく湖に風つよし」。昭和30(1955)年から
~ 40 ~
32(1957)年の作品を集めて『冬日抄』を刊行。また、昭和30(1955)
年には短編小説「じきに夜が明ける」を執筆。昭和33(1958)年、「栗原潔
子歌集」を上梓。歌碑は西蓮寺の中原孝太夫妻、中原和郎夫妻の墓石のそば及びハ
ワイ風土記館にある。
「人のゐるごとくおもひてふりむきぬ金木犀がすぐそば匂ふ」(西蓮寺・碑文は
自筆)
井口 寿賀野(いぐち
すがの
婦人運動家)
明治32(1899)年生~昭和35(1960)年没
羽合町下浅津(現在の湯梨浜町下浅津)に米増周蔵の長女として生まれる。
鳥取高女を卒業後、奈良高女師範に進学し、首席で卒業後、大正9(1920)
年、両親の要望で帰鳥して鳥取高女教諭となる。大正11(1922)年、奈良高
女師範助教授となる。在職中に教え子井口惠美の「私のお母さんになってください。」
という願いがもとで、井口茂寿郎と結婚。その後、夫とともにブラジルに渡り、植
民事業の発展に関わる夫を支えた。戦争の終末段階には一家をあげて下浅津に帰る。
昭和22(1947)年に夫が死亡。母子家庭の保護を強く痛感して、母子会の設
立に力を注ぐ。県母子会連合会の会長となり、全国母子代表者会議に出席。さらに、
昭和26(1951)年に県議会議員となる。同時に日赤中央委員県連合会婦人会
長、県連合会母子会長、全国母子連合会副会長の要職を務め、全国運動の中核とし
て精力的に活動した。戦後の婦人運動の先駆けといえる。
~ 41 ~
郷土の人物(泊地区)
~ 42 ~
米田幸三郎(よねだ こうざぶろう 江戸時代初期~中期の富豪・地域の繁栄に貢
献)
寛文2(1662)年生~宝暦8(1758)年没
泊浦宿は、江戸時代初期から中期にかけて陸地と海上路の要所として、宿駅や番
所が設置されて繁栄した。米田家は、この時期に宿場、廻船などで富を築いたもの
と考えられ、藩の御用銀の調達を勤め、代々郷士の格が許されている。泊が灘手大
所とされ宿駅や番所が設置されたのは、単なる交通の要地だけでなく、米田幸三郎
の存在やその時代なりの繁栄があったからであろう。米田家については、称名寺の
火事による類焼をはじめ、その後の何回かの類焼によって古文書などを焼失したた
め記録が残っていないが、称名寺にはひときわ大きい墓がある。米田家は所三郎、
愛三郎などがその後も地方経済に貢献を続けるかたわら、寺子屋を開いて村の子ど
もの教育にあたった。御子孫は三朝町に健在である。なお、江戸時代初期から中期
にかけての繁栄の中で富豪と称されたのは、他に大鉄山師日野郡黒坂の緒方家、日
南町の段塚家がある。
慧照和尚(えしょう おしょう 大本山能登総持寺大和尚)
寛文5(1665)年生~没年不明(60余歳で寂とされる)
河村郡園村の松嶋家に生まれる。13歳の時、刈った草を牛の背中に負わせよう
として、鎌を払ったとたん、誤って牛の尾を切ってしまった。その自責の念に耐え
られず、死を決して一宮社前のむぐろの木の最も高い枝に登り、「自分に寿命あら
ば生を与え給え、寿命無くば死を与え給え」と祈願して飛び降りたところ、身に少
しの傷も無かったため、これを機に発心してそのまま松崎の龍徳寺の弟子となった。
その後、日夕勤学怠らず、成業を得、元禄の頃、伯耆の大刹米子町総泉寺にあっ
てさらに修行し、後大本山能登の総持寺の大和尚となり、60余歳で寂した。大用
と号して、高僧慧照和尚の名を残した。
妙好人清兵衛(みょうこうにん せいべい 念仏専念の人)
生年不明~文化元(1804)年から文化15(1818)年の間に没
河村郡泊村の玉津屋、尾嶋家に生まれる。玉津屋は代々、酒屋、質屋を営み、村
役(庄屋)に携わる泊村の代表的な商家であった。檀那寺は宇谷の乗蓮寺(浄土真
宗)であり、寺の護持にあっても有力な檀家であった。玉津屋が隣の称名寺(浄土
宗)ではなく、宇谷に檀那寺を求めた理由は不明だが、篤く浄土真宗に帰依してい
たからであろう。それ故、子どもの時から念仏の生活が身に付いていたと思われる。
毎日、日に向かって念仏を唱えていたという。京にもたびたび出かけており、それ
によってさらに信仰を深めたと思われる。その言行については伝えられていない。
妙好人とは浄土真宗において、「念仏三昧で世を送った人」を讃えて言う時の表現
~ 43 ~
である。清兵衛の名は東本願寺が作った『妙好人伝』に残されている。なお、青谷
町山根にも妙好人源左(足利喜三郎)がおり、「ようこそようこそ」などの言行を
残した。
伊王野 担(いおの たいら オランダ内科診断書を翻訳した蘭学家・県知事・自
由民権論者)
1813(文化10)年生~1883(明治16)年没
河村郡石脇村に生まれる。松崎の龍徳寺で少年僧として修行に励む。後に蘭学を
志し、江戸の箕作阮甫、大阪の緒方洪庵について学ぶ。オランダ語の内科診断書を
翻訳して『察病亀鑑』として刊行した。安政3(1856)年、藩命により帰藩し、
国産方という藩内の産業振興の役を担当する。安政5(1858)年、長崎で西洋
の技術・学問を学び、帰藩後は蘭学をもって取り立てられた。担は密命を帯び、京、
大坂、広島などを休む暇なく走り回った。明治元(1868)年、丹後久美浜県の
知事に任命されたが、3年足らずで鳥取に帰る。やがて、官を退き医界で活躍する
かたわら、鳥取読売新聞社社長としてマスコミ界にも進出し、自由民権の論陣を張
った。その後、東京に居を移し明治16(1883)年没。
覚応寺鳳鳴(かくおうじ ほうめい 和歌、絵画、茶道に優れた僧侶)
文化11(1814)年生~明治11(1878)年没
宇谷村の浄土真宗乗蓮寺の次男として生まれる。鳥取に出て苦学力行を重ね、寺
町の覚応寺住職となる。気骨のある僧侶であるとともに、和歌、絵画、茶道にも優
れた才能を持ち、庶民の指導薫陶にも多大な貢献をした。『鳥取県史』には鳥取藩
歌壇隆盛の項に鴨川集の歌人群の一人として鳳鳴の名前が見える。大和の勤皇の志
士である三枝真洞が幕府に追われて因幡に身を隠した時、自分の息子文英と真洞が
東本願寺寮での学友であった関係もあり、これをかくまい援護を続けたという。真
洞はイギリス公使パークスを襲撃した罪により明治元(1868)年刑死したが、
その死を悼み、主唱者となって、覚応寺に「青荷真洞之碑」と記した石碑を建立し
た。
吉田周監(よしだ しゅうかん 医師・文化人)
文政5(1822)年生~明治4(1871)没
泊で医業を行っていた周貞の三男として生まれる。医業を継いでいた兄が亡くな
り、その2年後には父も亡くなったことにより、発奮して医学修行に励み、京都に
出てさらに医学を修める。周監は遊び事に凝り、酒に浸る日々を送り、そのため家
業が傾いてきたこともあったが、反省後は遊びも酒も断ち、医業に励んで家も栄え
た。
~ 44 ~
泊宿は特に幕末では様々な情報、人物が行き来して、政治・歴史・文化の面でも
交通の要地となった。幕末の急進的志士三枝真洞、鍵屋を継いだ三枝礼二、蘭医で
あった井王野担などはその代表的人物である。周監は医業のかたわら寺子屋で子弟
を教え、文化人としての中心的な役割を果たした。藩からは直触の待遇を与えられ
ていた。医業は現在でも泊の地で受け継がれている。
三枝真洞(さえぐさ しんどう 幕末動乱期の急進的志士)
天保11(1840)年生~明治元(1868)年没
大和の国椎木で生まれる。塾で儒学、国学を修めた後、京都東本願寺の学寮に入
る。天下の志士が集まり、尊皇攘夷、倒幕、佐幕の論がやかましい中、勤皇の急進
派天誅組に加わる。文久3(1863)年、天誅組が挙兵、京都五条の代官所を襲
う。そのため幕府より追われる身となり、真洞は因幡に逃れた。因幡では鳥取市の
覚応寺、宇谷の乗蓮寺、泊の鍵屋(三枝)、玉津屋(尾嶋)、吉田、宇野の尾崎、水
下の河原、清谷の福井、上余戸の涌島を宿とした。
鳥取藩は番所木戸を新設して取り締まりを強化した。泊は宿場の関係上、藩士の
往来や宿泊が多かった。蔵や離れに身を潜め、時には他出して難を逃れ、倒幕の同
士と策を諮るなどした。因幡二十士が黒坂から鳥取に移されたとき、その中の五、
六人は鍵屋に立ち寄り密かに会談をしている。明治元(1868)年、真洞は林田
衛郎貞堅と共にイギリス公使パークスを襲う。朝廷を軽んじ、外国との交際を妨げ
たとの罪名で斬首された。
真洞は乗蓮寺と吉田で寺子屋を手伝い、鍵屋では音蔵(礼二)を教えた。また、
真堂は絵が上手で、その作品は県立博物館をはじめ、各地に残っている。
三枝礼二(さえぐさ れいじ 泊小学校開校、河村郡の戸長・村長)
天保14(1843)年生~明治40(1907)年没
清谷の豪農で中庄屋を勤めた福井八十七の次男として生まれる。名は音蔵。長じ
て泊で間物問屋を営んでいた鍵屋(遠藤)の養子となる。鍵屋は事業に失敗し、後
事を債権者福井に託していたため、音蔵が跡を継ぐことになった。天誅組の志士三
枝真洞が因幡に逃れた時には、その宿としてかくまった。音蔵は真洞に傾倒し、名
を三枝礼二と改めた。
時代の変化と学問の大切さを知っていた礼二は、明治5(1872)年10月、
土地と家屋を寄附することを条件に、小学校開校願を県に提出し、許可を得て、県
下に先駆けて開校した。
その後は、明治15(1882)年、鳥取県最初の県議会議員となる。翌明治1
6(1883)年には河村郡第三連合戸長、さらに明治17(1884)年には泊
地域・舎人地域連合戸長、明治22(1889)年、久津賀村・三福村・泊村組合
~ 45 ~
村村長となる。泊港の築港改修、鳥取米子間の国道改修にも尽力した。
~ 46 ~
郷土の人物(東郷地区)
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山枡直好(やまます なおよし・つる・もく 旅館経営)
直好文政8(1825)年生 ~明治23(1890)年没
つる慶応2(1866)年生 ~昭和17(1942)年没
もく明治34(1901)年生~昭和54(1979)年没
直好は、倉吉市下田中の豪族で大庄屋を務める。江戸時代から明治にかけて、北
条平野では水不足に困っていた。上流の村が水を分けてくれなかったためである。
そのため、直好は上流の村と交渉をして、時間を決めて下流に水を送らせることを
約束させ、北条の人達に感謝される。
幕末になると、鳥取藩主池田家に二千両を献金して、山枡の苗字と帯刀を許され
る。また祥雲と称する。農業教育が必要だとして、倉吉農学校の設立に努力した。
農学校では、直好翁の功績を讃えて祥雲堂という記念館を建てた。また、学校で使
用する筆を祥雲と名付けた。
明治5(1872)年、東郷池に温泉が発見されると大金をつぎ込み、池を埋め
立てて別荘を建て、温泉を引いた。最初は別荘であったが、家運が傾くと下田中の
家屋敷を処分して旅館業に転じた。明治15(1882)年、鳥取県最初の県議会
議員となる。
つるは直好の一人娘。いとこの園太郎を婿養子に迎える。園太郎は、養生館を大
きくして鳥取県一の旅館にする。仕事ぶりは派手で、前の川に橋を架け廊下をつけ
て百畳の間を作り、周囲の襖には何年もかけて絵師に描かせた。鳥取県を訪れる名
士に宿泊してもらい、養生館の名を内外に宣伝した。宿泊した大隈重信お手植えの
松は、今も残っている。現在も残っている直好の顕彰碑は、伊藤博文が揮毫してい
る。鉄道山陰線の開通に当たっては、東郷町民の先頭に立って運動し、現在のコー
スに決定した。
大正5(1916)年、園太郎死去。その時は多額の借金が残っており破産寸前
であったが、東郷村長益田傳吉などの努力により、養生館は再建されることになっ
た。建物と土地だけ残して財産は没収されてしまい、以後賃貸で商売を続けていく
ことになる。末娘のもくは、つるを助けて借金の返済に努力し、昭和8(1933)
年頃には返済のめどが立つようになった。
昭和17(1942)年、つる死亡後は、もくが経営する。もくは、東郷小学校
6年修了で県立鳥取高女に合格した。父が倒れてその後の進学は出来なくなり、家
業に励むようになる。大正12(1923)年、渡邊恒蔵を養子に迎える。恒蔵は
泊村出身の医師で大阪の病院に勤務していた。その後、恒蔵は泊村民の要望に応え
て、泊村で開業する。しかし恒蔵は、昭和20(1945)年4月死去し、一家は
泊を引き上げた。
昭和19(1944)年、養生館の一部は接収されて疎開児童の宿になり、昭和
20(1945)年3月には全館が陸軍病院となった。終戦後は引揚者に部屋を貸
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していたが、昭和23(1948)年から旅館を再開して現在に至る。養生館とと
もに生きて働いたもくは、昭和54(1979)年78歳で死去した。
松田昌造(まつだ しょうぞう 医師・県議会議員・初代東郷町長)
明治14(1881)年生~昭和39(1964)年没
東伯郡松崎村に医師松田春齋の長男として生まれる。明治41(1908)年、
千葉医専を卒業し医業を継ぐ。大正12(1923)年~昭和22(1947)年
の間、鳥取県議会議員となり、その間、副議長、議長を歴任する。昭和3(192
8)年~昭和27(1952)年の間、鳥取県医師会役員となる(東伯郡医師会長
を2期)。日本医師会代議員5期、県医師会会長に2期就任した。
昭和28(1953)年、初代東郷町長となり2期務める。長らく県政に関与し、
医師会活動に努め、健康保険、結核予防、衛生業務、日赤事業などの役職を兼務し、
県政、医政の重鎮であった。地方自治功労で勲4等瑞宝章を受けた。また、国民宿
舎建設全国第一号は水明荘である。
千熊宇平(ちくま うへい 立体図案家)
明治16(1883)年生~昭和16(1941)年没
東伯郡東郷町別所に生まれる。号は章禄。小学校から倉吉研志塾に学び、明治3
5(1902)年、京都市立美術工芸学校(現京都芸大)図案科に入学。この間、
実習競技などで金銀銅賞を受賞。その後、東京美術学校(現東京芸大)図案科に入
学し、明治44(1911)年に卒業後、京都市立美術工芸学校教諭、府立第一高
女、市立絵画専門学校講師を兼務した。昭和元(1926)年には、私塾(昭和図
案工芸研究所)を開設し、立体図案の指導に専念した。
作品としては、奈良県立橿原公苑考古博物館の壁画(聖徳太子絵伝)の大作があ
る。また、湯梨浜町内では、別所長栄寺の絵天井(大雲龍)や東郷中学校に日本各
時代意匠表紙図案がある。
藤原喜代蔵(ふじわら きよぞう 教育評論家)
明治16(1883)年生~昭和34(1959)年没
河村郡北福村の農家に生まれる。明治24(1891)年、舎人尋常小学校に入
学したが、貧しさのために3年生で中途退学している。20歳の時に上京して独学
で法律の勉強をし、また、職場でも英語の本を持って熱心に勉強した。
明治40(1907)年、読売新聞社に入社し、教育担当記者として文部省に通
う。社説に教育評論を執筆するようになり、新聞界における教育評論の元祖となる。
明治42(1909)年に出版した『明治教育思想史』が高く評価され、文部次官
岡田良平の推薦により、翌年、2年間イギリスに留学する。
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大正8(1919)年には、実業界に転身し、成功を収める。その後、教育と言
論出版に対する情熱から出版事業を始め、再び著作活動に入る。昭和17(194
2)年から昭和19(1944)年にかけて、『明治、大正、昭和教育思想学説人
物史』全4冊を発刊した。教育を時代背景の観点から政治・経済の流れにも言及し、
教育界に関わる指導的人物の性格や言行にも厳しい目を向けている。史実と功労者
を公平に後世に残すことを信条として著作に励んだ。
峰地光重(みねじ
みつしげ
教師)
明治23(1890)年生~昭和43(1968)年没
西伯郡名和町前谷に生まれる。明治44(1911)年、鳥取師範学校本科第一
部卒業。卒業と同時に西伯郡庄内尋常高等小学校訓導として赴任。以後、各地の訓
導及び校長を歴任する。昭和11(1936)年、東伯郡東郷尋常高等小学校訓導
兼校長として赴任する。翌年、「聴方話方」に関する授業研究により、第一回文部
省初等教育奨励会より教育功労賞を受賞する。昭和30(1955)年、岐阜県教
育委員会より、昭和40(1965)年、鳥取県教育委員会より、それぞれ教育功
労賞を受ける。
東郷尋常高等小学校在職中[昭和11(1936)年3月~昭和17(1942)
年4月]に、東郷村郷土読本、東郷かるたを編む。また、東郷小学校校歌の作詞者
でもある。
中野久子(なかの ひさこ 無料宿泊施設「四恩寮」創設)
明治30(1897)年生~昭和45(1970)年没
東伯郡松崎町松崎西向寺住職の次女として生まれる。後、父が三朝町穴鴨の大雲
寺住職となり、小学校時代はその地で過ごす。父が亡くなった後は、母と二人で転々
と住所を変え、辛い日々を過ごした。大正6(1917)年、八頭郡丹比村の実相
寺住職中野知明に嫁ぐ。大正8(1919)年には鳥取市寺町の一行寺に移り、よ
うやく平穏な日々を得る。
昭和18(1943)年9月10日、鳥取大震災発生。一行寺の本堂も、檀家の
ほとんどの家も倒壊した。時は太平洋戦争の真っ直中で、寺の再建などは考えられ
ない状況であった。しかし、再建を目指した久子は、昭和22(1947)年、趣
意書を手にして、募金箱を首に吊して山陰、山陽をはじめ、四国、東海道にまで托
鉢の足を伸ばした。その中で、宿泊に困り、時には野宿することもあったその体験
から、「無料宿泊施設」の建設を決意する。刑余者、浮浪者、家出人などを救済す
ることは、仏の慈悲にかなう道でもある。私財を投じ、知人・友人などから資金を
調達して一行寺に近い土地を購入し、払い下げを受けた震災応急住宅を移築して、
昭和25(1950)年に開設し、「父母の恩」「社会の恩」「国土の恩」「食の恩」
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の意味を込めて「四恩寮」と名付けた。
経営は大変苦しかったが、古切手収集運動が大反響を呼び、全国からの善意で悲
願の鉄筋建築にすることもできた。昭和44(1969)年、創立20周年を迎え
た時には、利用者は延べ8万2千人を超えた。個人での運営にこだわり、法人化に
はしなかった。
高橋 惇子(たかはし
校校長)
あつこ
教師・女性の地位向上推進・鳥取社会福祉専門学
大正11(1922)年生~平成10(1998)年没
鳥取県の禅寺住職の三女として生まれる。1歳のときに長和田の長伝寺に転住す
る。両親、姉2人、お手伝い2人、弟子3人という大家族の中で、住職の父、女学
校の教師の母から厳しい躾を受けて育つ。16歳のとき京都女子高等専門学校家事
科入学。太平洋戦争勃発のため、繰り上げ卒業をして、鳥取県由良町立由良実科高
等女学校教諭となる。
昭和18(1943)年、21歳で結婚するがわずか1ヶ月の結婚生活の後、夫
は戦死。昭和20(1954)年、23歳の時、実家の後を継ぐため再婚する。農
地改革により多くの土地を失い、生活状況が変わり、生活を支えるため鳥取県立東
伯高校教諭となる。昭和37(1962)年、40歳の時、鳥取県教育委員会指導
主事となる。現実の社会の中で女性の地位が低いことを痛感し、いっそう自己研鑽
に努めた。女性問題を研究することになったきっかけは、生まれたときに「また女
か。」と父が言った言葉がショックとして残っていたことがあったという。
昭和46(1971)年、鳥取女子短大創設にともない、講師として勤務する。
そのかたわら、東郷町婦人団体連絡協議会、「ネットワークはなみ」を設立して女
性の地位向上、社会システム確立に向けての活動を展開した。
家事調停委員、鳥取県婦人問題企画推進会議委員、鳥取県社会福祉審議委員、高
齢者総合相談センター運営委員、生涯学習ボランティア活動推進委員など多くの分
野で活動した。
平成6(1994)年、72歳の時、鳥取社会福祉専門学校校長に就任する。平
成10(1998)年、76歳で逝去。
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参考文献
『鳥取県が誇る人物誌』(平成2年発行 鳥取県教育委員会編集)
『羽合町史 後編』(昭和51年発行 編さん:羽合町史編さん委員会)
『新修 羽合町史』(平成6年発行 編集:羽合町史編さん委員会)
『泊村誌』(平成元年発行 編者:泊村誌編さん委員会)
『東郷町誌』(昭和62年発行 編者:東郷町誌編さん委員会)
『長瀬村利七漂流談』(昭和57年発行 著者:松岡貞信)
『栗原潔子歌集』(昭和33年発行 著者:栗原潔子)
『養生館と山枡もくの生涯』(昭和55年発行 編:中村
『図解 日本神話』(平成22年発行 著者:山北 篤)
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実)