第16回 語感を磨く

時事フランス語 和文仏訳の約束事(16)
語感を磨く(3)
彌永康夫
「日本語とフランス語で語感が異なる言葉」
1)平和,平和主義 - paix, pacifisme
「市民」についても見られたことだが,日本語とフランス語の間で,同じ意味の言葉の持つ語
感が異なることがある。その一つの典型的な例が「平和」,とくにそこから派生した「平和主義」
と,そのフランス語訳である paix および pacifisme であると言える。
日本の憲法を特徴づけるのは「平和主義」だということは,ずいぶん長い間,多くの日本人が
共有していた認識ではなかったか。もっとも,この「平和主義」をどう評価するかについては,
立場によって差があっても当然だろう。1990 年代頃からは,明らかにこれを否定的なものとみな
す人々が増えてきた。こうした人々は最初の頃,「一国平和主義」とか「平和至上主義」という
言い方で,平和憲法を否定し,とくに戦争と戦力保持を禁じた憲法 9 条の「改正」を要求してい
る。さらに,2012 年末に第 2 次安倍内閣が発足してからは,「積極的平和主義」というスローガ
ンを掲げて,一見「平和主義」を掲げながら,実はその換骨奪胎を唱える動きが,政府の支持を
得てますます力を得ている。その例として次の引用を見てほしい。
-「日本の保守勢力が,自国の一国平和主義や平和至上主義を乗り越え,地域の安全と世界の平
和への貢献を主張することは,ごく自然な流れであろう。」(『東京新聞』)
これを訳すとしたら,「一国平和主義」と「平和至上主義」にまず引っかかるのは容易に想像
できる。いつごろから「一国平和主義」という表現が用いられるようになったかは詳らかではな
いが,おそらく 1920 年代にソ連の国際的な孤立が明らかになった時期,スターリンが最初に標榜
した「一国社会主義」という考え方をもじったものだろう。これは一時期,ソ連の公式理論とな
り,国際共産主義運動に大きな影響を及ぼした。フランス語では socialisme dans un seul pays とい
うのが定訳になっている。「一国平和主義」を訳すときにこの前例に倣って pacifisme dans un seul
pays とすれば,意味は十分に通じるはずである。ただし,フランス語としてはいかにも特異な表
現なので,かっこに入れたほうがよいだろう。
一方,「平和至上主義」という表現は日本語でも定着したものではないと思う。ただし,その
意味は十分に想像できる。似た表現を探せば「芸術至上主義 théorie de l’art pour l’art」があるが,
それをそのまま政治や社会の分野に援用してもよいだろうか。それが悪いというわけではないが,
フランス語としてはいささか「くどい」という気がしなくもない。とくに,フランス語では「平
和主義」という語そのものにすでに,「平和」を何よりも重要なものとするというニュアンスが
含まれている。たとえば国立学術研究院(CNRS)の付属機関である「国立文書・語彙資料センタ
ーCNRTL (Centre national de ressources textuelles et lexicales)」はこの語を,「民族間における平和
がすべての善の条件となる善だとし,かつ武器による平和以外の基盤に立つ善だとみなす主義,
または態度 Doctrine ou attitude qui fait de la paix entre les nations un bien qui conditionne tous les autres
et qui doit être fondé sur des bases autres que celles de la paix armée.」と定義している。
この説明から想像できるように,フランスではほぼ一貫して,「平和主義」は否定的な語感を
伴う語だった。同じく CNRTL がネット上で公開している資料で pacifiste の用例を見ると,そのほ
とんどが否定的なニュアンスで用いられている。そればかりか,語義説明ではわざわざ軽蔑的
péjoratif と断って,「何よりも平和を重視するもの,あるいは普遍的な平和を目指そうとするもの
qui préconise la paix à tout prix ou prétend à une paix universelle」と書いているし,péjoratif としてい
ない用例でも Ce Louis XVI était un gros, un doux, un bon, un pacifiste, un débonnaire, un humanitaire.
Un philosophe. On le lui fit bien voir (Péguy, Argent, 1913, p.1244)を挙げている。
そうだとすれば,上の例文は次のように「意訳」に徹したほうがむしろ自然なフランス語にな
るのではなかろうか。
Que les forces de droite traditionnelles nippones prônent la nécessité de contribuer, en allant au-delà du
pacifisme, qu’il soit égocentrique ou universel et idéalisé, à la sécurité régionale et à la paix du monde,
rien de plus naturel.
ついでに言うと,「平和主義」に批判的な人々はしばしば,「平和憲法」の支持者に対して「平
和ボケ」という非難を投げかける。これをどう訳すべきか。もちろん,和仏辞典はこうした場合
にはまず役に立たないだろう。いうまでもなく文脈ごとに訳語を考えなくてはならないが,いく
つか思いつくものを挙げておこう。最初は pacifisme に angélique という形容詞を付けることであ
る。この語を辞書で調べても,
「天使のような」という意味しか出ていないだろう。しかし,angélisme
という 20 世紀になってから用いられるようになった言葉に,さらに最近になって付け加えられた
意味が,この「ボケ」に使えるのではないかと思う。事実,CNRTL でこの語を引いてみると,最
初に次の語義説明が出ている。
「特定の人間的な現実(肉体,道徳,社会,物質などにかかわる)を無視,ないし認めようと
せずに理想的の型に従おうとする過剰な配慮からなる精神的あるいは知的な態度 Attitude
spirituelle ou intellectuelle consistant dans le souci excessif de se conformer à un type idéal ignorant ou
refusant d'admettre certaines réalités humaines (charnelles, morales, sociales, matérielles, etc.).
L'angélisme de qqc., de qqn; l'angélisme dévot」
そればかりか,CNRTL では以下の用例を挙げている。これは哲学者による難解な文章なので,
大要だけを記すと次のようになる。「自由を絶対視するマキャベリズムがとる戦術は,「過剰」
の弁証を利用することで,過度に自由であることによって自由が死に至る。平和主義,心理主義,
自由絶対主義など,あらゆる「主義」は唯一で同一の天使主義の変形なのである。La tactique du
machiavélisme libertaire n'est-elle pas d'exploiter à fond la dialectique du « trop » en sorte que la liberté
crève d'être hyperboliquement, superlativement, librement libre? Pacifisme, vérisme, libérisme, purisme en
général, tous ces « ismes » sont les variétés d'un seul et même angélisme qui réifie pour rendre absurde, et
qui est l'angélisme des anges professionnels comme le sophisme est la sagesse des marchands de sagesse.i」
このように,ここにはまさに pacifisme が登場している。
もう一つの可能性としては,naïf という形容詞を用いることである(名詞 naïveté でもよいが)。
2002 年の大統領選挙に社会党から立候補した当時の首相リオネル・ジョスパンが,保守派候補の
ジャック・シラクから治安対策の不備を責められたとき,「治安面において私は naïveté という過
ちを犯した j’ai pêché par naïveté sur la question de l’insécurité」と言明して,保守派ばかりか,マス
コミからも揶揄されたことを思い出すとき,pacifisme naïf と言えばその意味は十分に理解される
ものと考える。
歴史的に見れば,1950 年代には,他のヨーロッパ諸国ほどではなかったとしても,「平和運動
mouvement pour (de) la paix」がフランスでもかなり大きな勢力をなしていたし,第 1 次世界大戦の
直前の時期までさかのぼると,フランス国内には厭戦気分が支配していた。それなのにどうして
「平和主義」がそれほど嫌われているのか。1984 年 2 月号の『ル・モンド・ディプロマティック』
に大要次のような記述がある。「フランスで「平和運動」が他のヨーロッパ諸国ほどの広がり見
せなかった理由としては,それが共産党主導の運動であることに対する警戒だけでなく,(第 2
次世界大戦前の)ミュンヘン和平協議におけるナチス・ドイツに対する敗北や,核戦力保持に関
する広範な政治合意の存在,国防に関する代替策の欠如などが挙げられる」ii。さらに付け加える
とすれば,1870 年の普仏戦争における屈辱的な敗戦や,第 1 次および第 2 次世界大戦の初期にお
けるフランス軍の壊滅的な敗走などもあるだろう。また,第 1 次世界大戦の開戦直前まで,フラ
ンス国内を支配していた厭戦気分が,戦火が開かれると瞬く間に,大部分の政党やマスコミを巻
き込んだ「神聖同盟 union sacrée」にとってかわられたように,「厭戦」はしばしば「気分」にと
どまり,ひとたび国外からの脅威が現実のものになると,「好戦気分 atmosphère va-t’en guerre」
が優位になる。このことは,当時のフランス社会党を率いていたジャン・ジョレスの伝記を読め
ば一目瞭然である。一つの例として,ウェブ・サイト Internaute の次の記述を引用しておこう
(http://www.linternaute.com/biographie/jean-jaures/)。
「ジャン・ジョレスは思想の人であった。心底からの平和主義者であった彼の言説は,第 1 次世
界大戦前夜に,彼の不人気の原因となった。諸国人民を和解させたいとする彼の気持ちは,彼に
敵対する人々からは,裏切りとみなされた。暗殺への呼びかけがなされ,それに応えるものがあ
った。1914 年 7 月 31 日,戦火が開かれる 3 日前,彼はパリのカフェ・ドュ・クロワッサンにお
いて,ラウール・ヴィランというナショナリストの手で殺害された。殺人者は,開戦に先立って
「祖国の敵」を抹殺しようとしたと述べた。彼の遺骨は没後 10 年の 1924 年に,祖国に尽くした
偉人を祀る殿堂パンテオンへ移送された。Jean Jaurès était un homme d’idées. Profondément pacifiste,
ses discours le rendirent impopulaire à la veille de la Première Guerre mondiale. Son désir de réconciliation
entre les peuples est perçu par ses ennemis comme une trahison. Les appels au meurtre furent lancés et
entendus. Il fut assassiné le 31 juillet 1914 (trois jours avant le début des hostilités), par un nationaliste,
Raoul Villain, au Café du Croissant à Paris. Son meurtrier a déclaré vouloir éliminer "un ennemi de son
pays" à la veille de la guerre. Dix ans après sa mort, ses cendres furent transférées au Panthéon, rejoignant
ainsi les grands hommes de la patrie.」
「平和主義」と pacifisme の関係に話を戻そう。とっかかりとして,日本の憲法について『ル・
モンド』をはじめとするフランスのマスコミがどのような言葉を用いて報道しているかを,ある
程度の時間幅を置いて調べてみた。詳細に検証したわけではないので断定は避けるが,印象とし
て言えるのは,日本における「平和主義」論議が本格化するまでは,フランスのマスコミで日本
の事情に通じた記者たちはとくに深く考えずに「平和主義」=pacifisme,「平和主義的な」=pacifiste
と書いていたのに,1990 年代の後半から 2000 年代にかけては,
「平和憲法」を constitution pacifiste
ではなく constitution pacifique と書くことが明らかに増えていた。ところが,2012 年に第 2 次安倍
内閣が誕生して,「積極的平和主義」というスローガンが掲げられるようになると,政府の立場
は pacifisme proactif とする一方で,伝統的な「平和主義」については再び pacifisme だけが用いら
れるようになった感がある。もちろん,フランスのマスコミでは同じ言葉の繰り返しを避けるこ
とをとくに重視するので,つねに同じ言葉遣いがされているわけではない。しかし,pacifiste と
pacifique のどちらがより多く用いられているかを見ると,上に述べた傾向がかなり明らかに認め
られるのである。
ところで,日本では安倍首相の「積極的平和主義」に批判的な人々が,ノルウェーの政治学者
で代表的な「平和学者」でもあるヨハン・ガルトゥング Johan Galtung の説を引用して,安倍首相
の言う「積極的平和」とガルトゥングの言う「積極的平和」はまさに逆の意味になると書いてい
る。すなわち,ガルトゥングは武力によって「平和」を保つ,というよりはむしろ「戦争を防ぐ」
状況を
「消極的平和 paix négative」
とみなし,貧困や不正義などの
「構造的暴力 violences structurelles」
をなくすための闘いによって得られる平和を「積極的平和 paix positive」と呼ぶのである。もっと
も,このガルトゥングの学説や彼の「平和学」はもとより,その名でさえ,フランスではほとん
ど知られていない。フランス語版『ウィキペディア』には Galtung という見出しはあるが,その
記述はきわめて簡略である。また「平和学」を science de la paix といわずに ,わざわざギリシャ
語で平和を意味する eirênê を語源とする irénologie という新造語で広めようとする試みもほとんど
知られておらず,PR にも Antidote にもこの語は採用されていない。それに対して,「戦争学」な
いし「紛争学」にあたる polémologie はどちらの辞書にも見出しとして採用されている。なお,日
本の外務省はこうした批判を意識しているのか,安倍首相の「積極的平和主義」を英訳するとき
には,proactive contributor to peace ということにしているという。しかし,フランスでは pacifisme
proactif というだけで,contributeur とか contribution などを間に挟む訳は見たことがない。
i
ジャンケレヴィッチ『なんだかわからないものとほとんど無』Vladimir Jankélévitch : “Le Je-ne-sais-quoi
et le presque rien”,1957, p. 214
ii
La France est moins touchée. La campagne menée par le Mouvement de la paix a certainement obtenu un
résultat honorable, mais il semble que les gros bataillons des militants communistes et cégétistes aient été
mobilisés. Il serait sans doute exagéré de dire que cette campagne a réellement diffusé, dans la population, le
message du pacifisme. Plusieurs raisons ont été avancées pour expliquer cette réticence des Français : le mauvais
souvenir laissé par la capitulation de Munich, la méfiance à l’égard de l’Union soviétique et du parti communiste,
le large consensus existant entre les formations politiques sur la dissuasion nucléaire, le manque de crédibilité
des solutions de rechange pour assurer la défense... Il faut aussi tenir compte des traits particuliers du «
mouvement de paix » français, qui se caractérise d’abord par son hétérogénéité. Il comprend, en effet :
- les pacifistes stricto sensu , pour qui la guerre est un crime collectif ;
- les non-violents, qui proposent une défense basée sur la résistance passive et le refus de coopérer avec
l’occupant ;
- les écologistes, qui condamnent l’atome sous toutes ses formes ;
- les antimilitaristes, hostiles à l’institution militaire ;
- les objecteurs de conscience, qui refusent de tuer, et donc de porter des armes ;
- une nébuleuse de partisans de la paix, des droits de l’homme, du mondialisme, etc.
“Enquête sur le « mouvement de paix »”, par Daniel Colard, Jacques Fontanel et Jean-François Guilhaudis, Le
Monde diplomatique, février 1984
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