序 ∼非がん性慢性疼痛に対するオピオイド鎮痛薬処方の現状∼ 細川 豊史 平成 22 年(2010 年) ,本邦の薬事法において,フェンタニルの経皮吸収型製剤(貼付剤)の効 能・効果が改定され, 「非オピオイド鎮痛剤及び弱オピオイド鎮痛剤で治療困難な中等度から 高度の慢性疼痛における鎮痛」という項目が追加となり,強オピオイドであるフェンタニル貼 付剤が非がん性慢性疼痛に処方可能となりました。さらに,平成 23 年には,本邦の薬理学的分 類では弱オピオイドに,一部の国のガイドラインでは強オピオイドに指定されているブプレノ ルフィン経皮吸収型製剤(貼付剤)が「非オピオイド鎮痛薬で治療困難な変形性関節症,腰痛症 に伴う慢性疼痛」に,また弱オピオイドのトラマドールと解熱鎮痛薬のアセトアミノフェンの 合剤であるトラマドール/アセトアミノフェン配合錠が「非オピオイド鎮痛薬で治療困難な非 がん性疼痛,抜歯後の疼痛」に保険適応されました。非がん性慢性疼痛にオピオイド鎮痛薬の 処方が可能となったことは,慢性疼痛に苦しむ多くの患者に福音をもたらす可能性があるとい う期待が膨らむと同時に,一方では日本社会でのオピオイドの氾濫を懸念する声が,当時多く の有識者から上がりました。 これを受けて,日本ペインクリニック学会は,非がん性慢性疼痛治療のためのオピオイド鎮 痛薬の適正使用ガイドラインを作成することを決め,慢性疼痛治療の専門家でかつオピオイド 鎮痛薬に造詣の深い学会員からなるワーキンググループを組織し,平成 24 年7月に,「非がん 性慢性[疼]痛に対するオピオイド鎮痛薬処方ガイドライン」1)を上梓させました。このガイド ラインは,後述する本邦における“オピオイド治療の指針”を固守することを大前提としたもの であり,非がん性慢性疼痛のオピオイド治療に精通していない経験の少ない医師による処方が 増えることを想定し,オピオイドの副作用,特に高用量あるいは長期処方による弊害から患者 を守ることに重点が置かれました。 この指針とは, オピオイド鎮痛薬を適切に用いて患者の痛みを緩和し,生活の質(QOL) を改善する. 適正に使用されなかった場合のオピオイドの弊害から患者を守る. 本邦にお けるオピオイド鎮痛薬の処方,使用,およびその秩序を維持する.の3つを主目的としていま した。それは,非がん性慢性疼痛のオピオイド鎮痛薬による治療を先んじて行った諸外国で, 以下のような問題が生じ始めていることが分かっていたからでした。 ―平成 12 年(2000 年)に当時の米国大統領ビル・クリントンが提案した,「2001 年からの 10 年間を“痛みの 10 年”とする」という宣言を米議会は採択しました。これは,不完全な痛みの 序 ∼非がん性慢性疼痛に対するオピオイド鎮痛薬処方の現状∼ コントロールが社会経済を大きく疲弊させているとの認識のもとに,国家的プロジェクトとし て痛みの研究を推進させるとともに, 「痛みの治療を受けることは患者の権利である」という理 念を一般市民に浸透させるという大々的な試みでした。これを社会的背景として,非がん性慢 性疼痛に対するオピオイド鎮痛薬の効果・効能が,米国はもとより欧米諸国に過剰に喧伝され, その処方が安易になされるようになりました。これにより,お膝元の米国を筆頭に多くの欧米 諸国では,オピオイド鎮痛薬の乱用・依存が青少年も含めた多くの一般人を巻き込み,その現 状が医学論文や CNN を中心としたマスコミを通じて,世界に数多く報告されるようにな り2,3),大きな社会問題となり始めていたのです−。 この状況は,その後,さらに悪化し,2年前にはクリントン自らが CNN に出演し,オピオ イド鎮痛薬の副作用による若者の死亡事件を題材にオピオイド鎮痛薬処方への“negative campaign”を張るというところにまで至ってしまいました。 幸い本邦では,このガイドラインがベストセラーとなり,多くの施設で,これをもとに慎重 なオピオイド鎮痛薬による非がん性慢性疼痛治療がゆっくりと拡がっていったため,目に見え る日本社会でのオピオイドの氾濫という状況には至りませんでした。 その後,以下のような新しいオピオイド鎮痛薬が次々と上市されました。 平成 25 年に, メサドンが, 「他の強オピオイド鎮痛剤で治療困難な中等度から高度の“が ん”疼痛」に対して, トラマドール単剤のカプセル製剤が, 「非オピオイド鎮痛剤で治療困難 な“がん”疼痛,慢性疼痛」 に対して, 依存を形成しやすいとされる速効性オピオイド(ROO: rapid onset opioid)であるフェンタニル口腔粘膜吸収製剤が, 「強オピオイド鎮痛薬を定時投与 中の癌患者における突出痛の鎮痛」に対して,また,平成 26 年に,タペンタドールが,「中等 度から高度の“がん”疼痛」に対して,平成 27 年に,トラマドールの徐放製剤が「非オピオイド 鎮痛剤で治療困難な“がん”疼痛,慢性疼痛」に対して各々薬価収載されました。また最近で は,オキシコンチンの慢性疼痛への治験が開始されています。 こういった国際的,国内的なオピオイドを取り巻く社会状況のなかで,オピオイド鎮痛薬の 安全性の確認と本来の期待されるべき適正使用について,今,本邦で,再考を求める時期が訪 れていると考え,本書の編集を決意いたしました。 「非がん性慢性[疼]痛に対するオピオイド鎮痛薬処方ガイドライン」により,3つの目的, オピオイド鎮痛薬を適切に用いて患者の痛みを緩和し,生活の質(QOL)を改善する. 適 正に使用されなかった場合のオピオイドの弊害から患者を守る. 本邦におけるオピオイド鎮 痛薬の処方,使用,およびその秩序を維持する.はまずまず保たれてきたと思います。しかし, 最近ではオピオイド鎮痛薬の非がん性慢性疼痛に対する処方において新たな問題も浮上してき ています。それは,がん患者の非がん性慢性疼痛に対する認識の誤りによる安易なオピオイド 鎮痛薬処方に纏わる問題です。本書の第 11 章にも詳記されていますが,編者が 1980 年代に初 めて痛みを持つ“がん”患者のケアに携わった当時の“がん”患者の持つ痛みは,ほぼすべてが “がん”そのものによる痛みでした。しかし,がん患者の5年生存率の平均が 65%,乳癌や前立 腺癌では 85%超となってきている現在では,がん患者の持つ痛みが, “がん”そのものを原因と するものだけではなく,手術後の創部痛や化学療法,放射線療法などの“がん”治療が原因と なる痛み,さらに高齢者が多いことからも, “がん”と関係のない筋肉痛や腰痛,帯状疱疹後神 経痛,関節痛など,その痛みの種類は多岐に亘るようになってきています。 後二者の痛みは,まさに“がん”患者の“非がん性慢性疼痛”です。もちろん,その治療は非 がん性慢性疼痛に準じたものでなくてはなりません。ところが,緩和ケアの領域では,これら の痛みの原因と治療の理論の理解がまだできておらず,がん患者の痛みだから,即“がん”疼 痛と考え,安易に WHO がん疼痛治療法の三段階除痛ラダーや日本緩和医療学会編の「がん疼痛 に対する薬物療法ガイドライン」に準じてオピオイド鎮痛薬がレスキューも含めて投与され, 依存を生じるという問題が起こり始めています4,5)。その数は決して少ないものではないこと も明らかになり,最近,ようやく多くの緩和ケア医やペインクリニック医師がこのことに気づ き,その予防や教育について考える時期に来たと認識しつつあります6,7,8)。 日本ペインクリニック学会編の「非がん性慢性[疼]痛に対するオピオイド鎮痛薬処方ガイド ライン」では,実際に非がん性慢性疼痛に対してオピオイド鎮痛薬処方を始めようとする医師 には,個々のオピオイド鎮痛薬の長所や短所,また,具体的な適応疾患やその投与法の実際や 副作用対策など,多くの情報が不足していると感じられる内容であったことも事実です。 本書は,このことを踏まえながら,この5年間の臨床におけるオピオイド鎮痛薬による慢性 疼痛治療の普及の中で見えてきた現場の問題や処方医師がさらに身につけておくべき,基本 的,実務的,臨床的知識と理論についてまとめられたものです。その内容は,オピオイドおよ びオピオイド鎮痛薬の基礎知識,そして本邦で非がん性慢性疼痛に使用可能なオピオイド鎮痛 薬の特徴を医療用麻薬でないトラマドール,ブプレノルフィンも含めて,その使用における注 意点,使い方の実際と副作用対策,長期使用における問題点,さらに同意書の作成方法から海 外渡航時の手続きと必要書類の書き方,さらに近未来への考察にまで及び,オピオイド鎮痛薬 による非がん性慢性疼痛治療に必要不可欠なほぼすべての項目を広範に詳細に網羅していま す。 本書は,非がん性慢性疼痛の患者にオピオイド鎮痛薬を処方しようとする初心者からベテラ ンの臨床家まで,教科書として,参考書として,座右に置くことで,その目的を果たせ得る書 となると自負しています。 この書が,本邦における“非がん性慢性疼痛に対するオピオイド鎮痛薬処方のためのバイブ ル”となり,慢性疼痛に苦しむ多くの患者を痛みから救い,間違っても諸外国の轍を踏み,一 般人や患者を苦しめるようなことなどがないように,そして オピオイド鎮痛薬を適切に用 序 ∼非がん性慢性疼痛に対するオピオイド鎮痛薬処方の現状∼ いて患者の痛みを緩和し,生活の質(QOL)を改善する. 適正に使用されなかった場合のオ ピオイドの弊害から患者を守る. 本邦におけるオピオイド鎮痛薬の処方,使用,およびその 秩序を維持する.を達成できることを祈念し,本書の序とさせていただきます。 文 献 ………………………………………………………………………………………………… 1)日本ペインクリニック学会 非がん性慢性[疼]痛に対するオピオイド鎮痛薬処方ガイドライン作成ワー キンググループ 編:「非がん性慢性[疼]痛に対するオピオイド鎮痛薬処方ガイドライン」,真興交易 (株)医書出版部,東京,2012. 2)Avoiding Opioid Abuse While Managing Pain,by L.R. Webster, B Dove:「臨床医のためのガイド: オピオイド乱用・依存を回避するために」 (細川豊史 , 山口重樹 監訳) ,真興交易(株)医書出版部,東 京,2013,p31, p67. 3)Firestone M, Goldmanb B, Fischer B:. Fentanyl use among street drug users in Toronto, Canada: behavioural dynamics and public health implications. Int J Drug Policy 20:90-92, 2009. 4)権 哲,細川豊史,深澤圭太,吉本裕子:食道癌術後の創部痛にレスキューを伴うオピオイド鎮痛薬 の処方を行い依存症に陥った1症例.日本ペインクリニック学会誌 21:50-53, 2014. 5)権 哲,細川豊史:オピオイド鎮痛薬による乱用・依存の症例検討.ペインクリニック 35:37-48, 2014. 6)山代亜紀子,細川豊史,深澤圭太,大西佳子,権 哲:緩和医療を受け持つペインクリニック診療に おける課題と展望.ペインクリニック 34:760-770, 2013. 7)細川豊史:“がん”および“非がん性”慢性[疼]痛治療におけるオピオイド鎮痛薬の乱用・依存の諸問 題によせて.ペインクリニック 35:5-6, 2014. 8)Kanbayashi Y, Hosokawa T:Oxycodone:Abuse Prevention Especially in Cancer Patients. Substance Abuse - Prevalence, Genetic & Environmental Risk Factors & Prevention-. Edit Jeffrey Raines, Nova Science Publishers Inc, New York, 2014, p147-158.
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