科学の社会史 第 10 回参考資料 - site

科学の社会史 第 10 回参考資料
古川安『科学の社会史』第9章・第 10 章(2000 年)
【解説】以下の文章は,イギリス産業革命における技術革新と科学の関係,科学の研究
成果による新工業の誕生,企業内研究所における純粋科学研究の始まり,科学の産業化
などを解説したもの。古川安『科学の社会史』増訂版(南窓社,2000 年)の第 9 章(145-146,
148-150 頁),第 10 章(162-163, 165-168, 172 頁)からの抜粋。段落番号([1]など)
および「……」による省略は引用者・田中による(以下同じ)。注(一部の文中カッコ
内の注を含む)は省略した。
[1] おおよそ 1760 年代から 1830 年代にかけてイギリスに起きた産業革命
(Industrial Revolution)は,織機・紡績機・化学工業・製鉄・動力機関・交通
運輸手段など多くの分野の目覚ましい技術革新を伴った。その革新がどれだけ
科学の内容とかかわっていたかについては,さまざまな論議がある。科学とは
関係がなかったという説がある一方,科学こそがその原動力になったという対
照的な見解もある。イギリス産業革命の技術革新の担い手のほとんどが伝統的
職人層たちであったことは事実であり,それが「無関係説」の1つの論拠にな
っている。だがこうした出身階層による議論も問題がなくはない。当時のイギ
リス職人には月光協会や文学・哲学協会などの地方学会に出入りし,企業家や
科学者と交流していた者が少なくなかった。実用的蒸気機関の製作者ウォット
(James Watt, 1736-1819)は,伝統的なギルドから締め出され,グラスゴー大
学の科学器具製造者として雇われていた。彼は月光協会に参加し自然探究者と
交わっていたし,スミートンも同協会に顔を出していた。新技術の担い手たち
の中には中世的な徒弟職人とはこうした背景の違いが見られるし,科学知識を
そなえた職人がいたのである。だがそれをもってしても,産業革命の技術が科
学の応用から生まれたということにはならない。いずれにせよ,「科学」を当
時の自然探究者の理論や知識体系に限定するならば,化学工業のような分野を
除き,それは個々の新技術の「誕生」には決定的役割を果たさなかったとはい
える。ウォットの有名な分離凝縮器付き蒸気機関の発明にしても当時の熱理論
の応用から生まれたという通説は疑問視されているし,繊維産業の機械化,鉄
道の発展,ガス灯の普及なども純粋科学の成果に直接負うところはほとんどな
かった。それらは,むしろ伝統技術の改良・応用,経験上の創意工夫で目覚ま
しい成果をあげたというべきである。当時の産業技術が科学と「無関係」だっ
たとするのは極論としても,新技術誕生の直接的な「原因」を科学の内的発展
1
に求めるのも困難である。産業革命期の科学の技術への影響に関しては,むし
ろ「新しいもろもろの機械や工程が発明されるにつれて,確立された科学知識
の有用性がますます明らかになっていった」と見るのが妥当と思われる。
[2]
翻って,産業革命時代の新技術が 19 世紀科学のいくつかの分野の研究を
刺激したことは事実であろう。しばしば指摘されているように,蒸気機関の登
場は熱力学の研究を促し,またこの時代の化学工業の進展は有機化合物の合成
や組成研究の発展に影響を与えた。……
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産業界への科学者の進出は,イギリスで産業革命が達成された後の 19 世
紀後半に始まる。最初に化学工業の分野,とりわけ合成染料工業の領域でその
現象が顕著に見られる。これは科学研究の成果によって,従来全く存在しなか
った工業が生まれたという点で,科学と産業のかかわりに新時代の幕開けを告
げる事件であった。この工業の発端をつくったのはイギリスの化学者パーキン
(William Henry Perkin, 1838-1907)によるアニリン染料の発見である。当時,
彼はロンドンの王立化学カレッジ(Royal College of Chemistry)の助手を勤め
ていた。同校は,ドイツのリービッヒのギーセン校の影響を受けて,1845 年
に創設された私立学校である。それは社会的要求からというよりも,ギーセン
の留学経験をもつイギリス化学者たちの側からの強い訴えから,同国の化学者
養成のために,企業家や地主の財政援助を受けて創立した。そこに初代教授と
してドイツから招聘されたリービッヒの高弟ホフマン(August Wilhelm von
Hofmann, 1818-92)は,実験と独立研究を化学教育の柱としたギーセン式教育
制度をイギリスに移植することに努めた。「ホフマン化学校」の異名をもつ同
校で彼はギーセン以来のコールタールの成分分析に関する研究を続けた。パー
キンの発見もこの路線の研究から生まれたものである。1856 年彼は,コール
タールから医薬品キニーネの合成実験中に,紫色のアニリン色素を偶然に発見
した。時に 18 歳であった。それは当時ヨーロッパがインドから輸入していた
高価な天然染料「インド藍」にも匹敵する価値をもった色素であることが判明
した。ホフマンの反対にもかかわらず,彼はただちに学校を辞め,父と兄の協
力を得て,後に「モーヴ」(mauve)と命名されるその合成染料の製造工場を設
立し商業化を始めた。パーキンの発見を契機として,1860 年代までにさまざ
まな研究者によりアニリン赤やアニリン青などのアニリン系染料が次々と発
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見・開発され,合成が天然を駆逐する時代の到来を告げる。合成染料の探究活
動は,ケークレ(August Kekulé, 1829-96)らがその頃提起したばかりの有機化
学構造論(染料のような有機化合物の分子内の原子の幾何学的配置を説明する
理論)に基づく科学的研究と歩みをともにしていた。
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[4]
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……アメリカでは世紀転換期に,アメリカ電話電信会社(略称 AT&T),
ジェネラル・エレックトリック(略称 GE),イース卜マン・コダック社など一連
の巨大企業が相次いで誕生する。その背後には 1890 年代の不況があった。
1900 年までには,国内にあった 1,200 社もの企業が統合・合併して大企業を
形成している。新編成されたこれらの巨大企業は,激烈化しつつある特許競争
に打ち勝ち技術的優位を維持するためにも,社内に研究体制を確立する機運が
高まっていた。この時期までにアメリカ国内の諸大学では, こうした研究ポ
ストに見合うドクターを供給できる態勢にあり,またドイツ留学組も続々と帰
国していた。大企業は,自前の実験・研究設備を整え,相次いでこれら学卒者
を採用するようになった。かくしてアメリカ産業研究者の数は急増し,企業内
研究所の数も 1890 年の 4 から,1900 年には約 50,以後 10 年おきに約 180,
500,1,000 と増加の一途をたどる。初期のアメリカの企業内研究所はドイツ
の場合と同様,化学と電気の業界に集中している。いずれも国際競争の激しい
業界であり,かつ科学の研究成果と技術開発との連関が比較的早期から認識さ
れていた分野である。これらの研究所の大部分は,その企業の既存の製品や製
造工程の改善を行う応用研究を目的としていた。しかしこの中にあった,ごく
一部の巨大企業が,応用研究から切り離された,純粋科学の探究を主眼とした
基礎研究の試行に踏み切ったのである。それは,アメリカ産業研究の拡大期に
生じた企業研究所の量から質への移行としても位置づけることができるし,加
えてアメリカというフロンティア精神の文化的素地から生まれた実験的試み
の所産でもあった。当初,企業内で基礎科学の研究を行うことを疑問視する者
も少なくなかったが,いくつかの成功例がその有効性を認めさせることになる。
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[5]
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GE の研究所やドイツの既存の企業研究室をモデルとしながらも,純粋科
学の研究をさらに徹底させることによって,大きな実利的成功を収めたのはア
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メリカ最大の化学会社となるデュポン社であった。同社は,ラヴワジエの弟子
であり,フランス革命直後にアメリカに亡命した化学技師デュポン(Éleuthère
lrénée du Pont de Nemours, 1771-1834)が,1802 年に米国東部のデラウェ
ア州ウィルミントンの川縁に建設した黒色火薬工場に起源をもつ。第一次世界
大戦までには,従来の火薬製造業から総合化学会社への脱皮を図り,応用研究
を行う研究所をもっていた。そして 1927 年に,化学部長のスタイン(Charles
Milton Altland Stine, 1882-1954)の提案により基礎研究プログラムを設立し
た。同プログラムの当初の目的が,即座の実用化には関知せず,ひたすら「新
しい科学的事実を確立・発見すること」であったのは注目に値する。基礎研究
とはいえ新電球の開発という応用研究が絶えず隣り合わせになっていた GE 研
の場合とは対照的である。スタインはデュポン入社以前にジョンズ・ホプキン
ス大学の研究員を務めていた。そこのレムゼンをアメリカには稀な「真の科学
者」と仰ぐレムゼン崇拝者であったことを考える合わせると,産業界における
彼の基礎科学研究の構想も驚くべきことではない。スタインは, この種の研
究がやがては新製品や新工程の開発という結実をもたらし会社に還元するで
あろうと漠然と信じてはいたが,それ以上に当面重要なことは,基礎研究プロ
グラムをもつことによって会社の対外的なイメージ・アップにつながり,学卒
ドクターを引き抜く目玉になること,またこの研究組織を通して大学と対等に
科学・技術上の情報交換ができることであると主張した。企業内で大学と同レ
ベル,あるいはそれ以上に資金を注ぎ込んだアカデミック科学を行うというス
タインのこの構想は当時の産業人の常識を越えたものであり,重役会で一部の
幹部から強く反対された。しかし,時の社長ラモー・デュポン(Lammot du Pont,
1880-1952) の同意を得てようやく実施されることになった。……
[6]
デュポン社も,やはり優秀な担当者の人選に苦慮している。名声の確立さ
れた教授クラスの引き抜きに何度か失敗した後,ようやくハーヴァード大学の
化学講師で 32 歳のカローザース(Wallace Hume Carothers, 1896-1937) を
有機化学グループの長として招聘することができたのは 1928 年のことであっ
た。デュポンからの招きに迷い抜いていた彼は,会社側から,共同研究者と十
分な実験器材・薬品を与えられ,さらに研究テーマの選定の自由,その成果を
逐次,論文に発表できるという,破格の条件を与えられ,ようやく入社の決意
に踏み切った。スタインやカローザース(イリノイ大学大学院卒)をはじめ,そ
の後デュポンに採用された主要な研究員の多くが,もはや GE 所員のようなド
イツ留学組ではなく,第一次大戦前後のアメリカの大学院で養成された「ヤン
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キー・ドクター」で占められていたことは特徴的である。
[7]
カローザースが入社とともに選んだ研究テーマは,高分子の基礎研究であ
っ た 。 高 分 子 と は , ド イ ツ の 有 機 化 学 者 シ ュ タ ウ デ ィ ン ガ ー (Hermann
Staudinger, 1881-1965) により 1920 年代初頭に提唱された概念である。シ
ュタウディンガーは,ゴム・セルロース・デンプン・タンパク質・プラスチッ
クなどが数千から数百万もの原子でつながった「巨大分子(高分子)」
(Makromolekül)からなる化合物であると主張していた。当時の分子の大きさ
の常識を超えていたこの高分子説は,科学者たちの猛反対に合い,ドイツの学
界では高分子の実在をめぐって 15 年間にわたる論争が続いた。
[8]
ドイツのこの論争に深い関心を示したカローザースは,高分子説の検証を
デュポン社の基礎研究プログラムのテーマとした。しかし,主に既存物質を分
析することによって高分子説を立証しようと試みたシュタウディンガーとは
対照的に,彼は小さな分子どうしを既知の化学反応によって逐次つなげていく
ことにより大きな分子を人工的に合成し,最終的に高分子なるものの存在可能
性を確かめようと企てた。彼の予想通り,この研究はシュタウディンガー説を
支持する結果を導いた。1930 年には,彼の合成した多種の人工高分子の1つ
からたまたま繊維としての特性をもったものがあることが発見された。これを
契機に,彼のグループは商品価値の高い合成繊維をつくる研究に向かうことに
なる。デュポン社はこの研究から 1935 年につくられた繊維用高分子の工業化
を決定した。以後の開発研究(紡糸・紡織・染色・工場生産化などの実用研究)
はカローザース・グループの手を離れ,延べ 230 人の化学者・技術者を動員し
て行われた。1938 年,副社長に昇進していたスタインはデュポン社を代表し
て「ナイロン」 (nylon)という名でこの史上初の完全合成繊維の誕生を世に発
表した。その時スタインが基礎研究の勝利を高らかに宣言することを忘れなか
ったことはいうまでもない。企業内の純粋科学研究体制の確立というリスクを
背負った彼の賭けは,結果的にナイロンという,デュポンの会社の事業規模を
倍にしたといわれるほどの大きな実益をもたらした発明につながったのであ
る。
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[9]
1920 年頃から科学者は急速に「産業の奴卑」になった,というアメリカ
の経営史家ノーブル(David Noble)の指摘は誇張はあるものの,ポイントを突
いている。時期のずれこそあれ,こうした傾向はどの科学技術の先進国にも共
通したものとなった。産業科学の興隆とともに,良きにつけ悪しきにつけ,科
学そのものが質的にもスタイルにおいても産業化・商業化されてきたという。
科学が産業の性格を変えたように,産業もまた科学の性格を変えたのである。
科学研究はもはや人間の知識の拡大にどれだけ貢献したか,「真理の探究」に
どれだけ寄与したかという古典的な価値基準よりも,産業にどれだけ奉仕した
か,企業にどれだけ利潤をもたらしたか,どれだけ「儲け」につながるか,と
いう価値基準から評価される傾向すら生まれるようになった。基礎科学と産業
技術の組織的・系統的な結合, 研究開発(Research and Development, R&D)
は,初期の産業研究が暗中模索しながら確立していった道であった。そして,
科学は技術的発明という目的達成のために,産業内で意図的に管理される時代
に入ったのである。こうした初期の先例を踏まえつつ,科学は民間のレベルを
起えて,ますます国家的規模で巨大化し,膨大な投資と大量の研究者を注ぎ込
んだビッグサイエンス(big science)の時代に突入していく。内容的にも制度的
にも,19 世紀前半までには見られなかった科学の相貌がそこにある。そのこ
とはまた,一見,没価値的で普通的に見える現代科学も,20 世紀という時代
状況に規定された特異な「産業化科学」 (industrialized science)の本性を備え
ていることを,われわれに語りかけている。
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