れ き し 歴史遺産 い さ ん 琵琶湖疏水 ~暮らしを支え、人々を魅了し続ける歴史遺産~ 京都市公営企業管理者上下水道局長 水田雅博 ■はじめに 平安の古から栄えた日本人の心のふるさと…京 都は、豊かな自然や文化、景観など奥深い魅力を 発信し続けてまいりましたが、近代化として蘇っ た象徴、それが「琵琶湖疏水」です。 京都市民の皆様に安全・安心な水道水を安定的 にお届けする水道事業は本年で 103 周年、快適で 衛生的な生活の維持と良好な水環境を保全する下 ■1.第一琵琶湖疏水 水道事業は 85 周年を迎えました。 ○ 第一疏水の竣工 この貴重なライフラインである上下水道は、明 明治2年の東京遷都後、かつての「都」である 治維新後の東京遷都により都市存亡の危機にあっ 京都が衰退の一途をたどる中、明治14年に就任し た京都のまちを復興させるために、明治の先人達 た北垣国道京都府知事は、京都復興策として琵琶 が総力を結集して築き上げた「琵琶湖疏水」を原 湖疏水建設の計画を打ち出し、工事担当に当時 21 点に、歴史を刻んで参りました。 歳の田邉朔郎技師を抜擢します。莫大な建設費用 本年、竣工から 125 周年を迎え、今なお現役で を捻出するため、市民に巨額の負担金が課せられ 活躍する琵琶湖疏水を歴史遺産としての意義も含 たことから、反対意見も根強かったのですが、北 めご紹介いたします。 垣知事は粘り強く市民に呼びかけ、自ら説得に当 たりました。明治 18 年に着工した第一疏水は、4 年8か月にわたる困難な工事を経て、明治 23 年、 滋賀県大津市三保ヶ崎から京都市左京区川端夷川 の鴨川合流点まで(11.1㎞)の水路として竣工い たしました。この第一疏水は、水車を使用した機 械工業や精米、舟運、かんがい、文化財の防火用 水など、様々な用途に利用されました。さらに明 治 24 年、疏水の水を利用して発電する、日本最初 の営業用水力発電所として蹴上発電所が建設され ました。その電力で日本初の営業用電気鉄道(京 都電気鉄道)が京都のまちを走ったのです。 岡崎界隈疏水 41 伊藤博文扁額 殉職者碑 北垣知事 田邉朔朗像 インクライン 京都市営電気軌道(明治 45 年) ○ 現存する竪坑・インクライン 第一疏水の建設で最も困難を極めたのが、当時 日本最長のトンネルだった第一トンネル(2436m) の工事でした。今なお、工事のために造られた第 インクラインの三十石舟 一竪坑(47m)と第二竪坑(20m)が現存してい ます。また、各トンネルの出口には伊藤博文・山 県有朋・松方正義ら明治の有力な政治家が揮毫さ れた扁額が残り、疏水工事が全国的に注目を集め た大事業だったことが伺えます。沿線には北垣知 事や田邉技師の銅像、疏水建設中の殉職者の慰霊 碑など、疏水の建設を推し進めた先人を顕彰する 「隧道掘削 中背打 三井寺山下」田村宗立 筆 モニュメントが多数建立されています。 第三トンネルの西口の蹴上船溜から南禅寺船溜 ○ 疏水分線と鴨川運河 までの区間では、舟が急な坂を上り下りできるよ 第一疏水と同時に、蹴上から分岐して市の北部 うに、インクライン(傾斜鉄道)が明治 24 年から に至る水路として、疏水分線(建設当時8.4km、現 稼働していましたが、鉄道などの交通機関の影響 在3.3km)が建設されました。南禅寺境内では、塔 で舟運の利用は大きく衰退し、昭和23年に運行を 頭南禅院や御陵がありトンネルを掘れないため、 休止しました。その後、電気設備やレールも撤去 古代ローマの水路橋を思わせる堂々としたレンガ されましたが、産業遺産として保存するために昭 造りの「水路閣」が造られました。疏水分線は、 和52年に復元されました。また、平成22年には京 主にかんがい・防火用水として利用されており、 都滋賀県人会の皆様から2隻の三十石船が寄贈さ 現在は観光名所としても知られています。 れ、現在、船架台に設置されています。現在のイ また、明治 27 年には京都~伏見間を結び、淀川 ンクラインは、舟運が盛んだった往時を偲ばせる を通って大阪まで舟運で連絡するための水路とし 史跡となっています。 て、第一疏水を延伸する形で鴨川運河(8.9km)が 42 竣工されました。これにより、大津から大阪まで 利用した発電が行われています。 を舟で行き来することが可能となり、明治から大 この三大事業によって、京都市は、近代都市へ 正時代にかけて、多くの舟が疏水を行き交うよう と生まれ変わりました。 になりました。 蹴上浄水場 明治 45 年 水路閣 ■2.第二琵琶湖疏水 明治 30 年代、京都の近代化が進むにつれて、電 疏水略図 ■3.歴史遺産としての琵琶湖疏水 力需要が高まります。また、これまで生活用水の ○「哲学の道」と近代化産業遺産 主であった井戸水の水質悪化や、干ばつ時の渇水 琵琶湖疏水は人工の水路ですが、四季折々の風 の問題が深刻となり、水道事業創設が喫緊の重要 情を醸し出す景観などは、時の流れとともに、市 課題でありました。そして、電力の確保と安定し 民の憩いの場としての役割を担うようになってき た飲料水の供給を目的に、新たに第二疏水が建設 されることになりました。 ました。昭和 47 年には疏水分線の若王子付近が 「哲学の道」として整備され、現在では桜の名所と 明治 41 年、京都市長であった西郷菊次郎は、① して全国的に知られるようになりました。また、 第二疏水の建設、②上水道の創設、③道路拡築と その周辺では水質が改善されたことでゲンジボタ 電気軌道の敷設、を「三大事業」と位置付け、京 ルが初夏に飛来するようになり、昭和59年には京 都市の都市改造に着手します。第二疏水は、大津 都市の登録天然記念物に指定されています。 から蹴上までほぼ全線トンネルの水路(7.4km)と して明治 45 年に竣工しました。そして、時を同じ くして建設された、日本初の急速濾過方式を採用 した蹴上浄水場から給水を開始したことが、京都 市水道事業の始まりです。以来 100 年以上にわた り、京都市民の皆様の暮らしに潤いを届け続けて います。また、蹴上浄水場は、建設当時の面影を 残した形で現在も稼働しています。さらに、電力 需要を満たすため、第二期蹴上発電所を建設する とともに、夷川、伏見(現・墨染)の二つの水力 発電所が新たに建設され、現在もなお疏水の水を 哲学の道 43 平成8年には琵琶湖疏水関連施設 12 箇所が国の じていただくことができました。そして、琵琶湖 史跡に指定され、平成 19 年には琵琶湖疏水・琵琶 疏水が京都市民の皆様の暮らし、産業や文化を支 湖疏水記念館所蔵物・南禅寺水路閣・蹴上インク えてきたことを改めて認識いただく絶好の機会と ライン・蹴上浄水場・蹴上発電所が経済産業省に なったと実感しています。 より近代化産業遺産として認定されました。 琵琶湖 疏水とその関連施設は、 「京都における産業の近代 化の歩みを物語る」遺産として評価されています。 ■おわりに まだ、 「観光」という言葉が存在しなかった明治 ○ 琵琶湖疏水通船復活 の時代に、先人達が遙か未来を見据え、たゆまぬ 本年3月から5月の連休にかけて、大津・蹴上 努力と鋼のような意志と実行力により建設された 間で琵琶湖疏水の通船を復活させる試行事業を行 琵琶湖疏水は、今も市民の皆様の暮らしを支える いました。琵琶湖疏水の通船は、昭和26年に舟下 一方で、「山紫水明のまち」京都の彩りを豊かに りが途絶えてから、これまでに様々な機会に復活 し、人々を魅了し続けています。そして、未来の の提案が行われてきました。28年前の昭和62年に まちに託した志、先人達の偉業、琵琶湖疏水の建 は、当時の京都府知事と京都市長、滋賀県知事と 設は、今に生きる京都市民の心に脈々と流れる熱 大津市長が舟下りを体験し、前向きに検討されま い遺伝子を喚起させるのです。 したが、実現には至りませんでした。 この貴重な歴史遺産であり、ライフラインの源 今回、64年ぶりに試行事業として復活しました でもある琵琶湖疏水を活かし、未来の京都へ受け のは、 「節水型社会」が定着し、水需要が減少する 継ぐことが、京都のまちの上下水道事業発展に邁 厳しい状況の中で、京都市民の皆様に水道事業の 進する私たちの大きな使命であります。 源である琵琶湖疏水に対し、関心を高めて頂くた 今回ご紹介した疏水の歩みは、京都市左京区の めに上下水道局が一歩踏み込んだ決断をしたもの 琵琶湖疏水記念館において、貴重な所蔵物の常設 であります。 展示や様々な特別展の開催により、その稀有な先 昨年12月には、京阪電鉄・JR西日本、京都及び 駆性をうかがえるものとなっておりますので、京 大津の商工会議所・観光協会、そして、京都市、 都にお立ち寄りの際には、是非足を運んでいただ 大津市の行政が連携を図り、 「琵琶湖疏水船下り実 ければ幸いです。 行委員会」を発足させ、具体的な通船復活の準備 に入りました。試行事業には39都道府県の方から 応募があり、平均倍率が 16.5 倍と、全国的にも非 常に大きな注目を浴びました。乗船された方々に は、明治の先人達の知恵と努力を目の当たりに感 琵琶湖疏水通船復活 44 琵琶湖疏水記念館
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