個人のエゴイズムと国家エゴイズム 野村邦男

 個人のエゴイズムと国家エゴイズム
野 村 邦 男
皆さん、遠くからおいで頂きましてありがとうございま
す。野村邦男と申します。群馬県の赤城山の中腹に住んで
います。畑とか田んぼなど有機農法をやりながら「自覚と
平和の研究会」というものをやっております。
深刻化する地球規模の問題
今回のテーマは「個人のエゴイズムと国家エゴイズムの
関係について」という、大変堅苦しいタイトルになってお
りますけれども、現在、世界、そして日本はいろいろな意
味で行き詰まっています。行き詰まりの最も大きいもの
は、地球環境問題、原発、戦争や紛争やテロの問題、そう
いう地球規模の問題が大変深刻になっています。
一方日本においては、それらの問題の他に、憲法改正に
関する問題があります。これは日本の将来を左右する本当
に一大問題です。それと共に、教育基本法、共謀罪の問題
など、戦前の日本を思わせるような、後ろ向きの動きが大
変顕著になってきております。
そういう中で、今日皆さんと一緒に考えてみたいのは、
なぜそういう問題が起こってきたのか、その根源的な原因
は何か、ということです。そして、それが自分たち一人一
人の個人とどういう関係があるのか、具体的に私たちに何
ができるのか、ということを、社会評論としてではなく、
お話しできればいいなと思っております。
今回私が講師を引き受けた理由には、今私自身がある本
を執筆しているということがあります。タイトルはまだ仮
ですが「今こそ国家エゴイズムを超えて」という本です。
和田重正先生は今から四十数年前に「みんなで国に理想
を」という小冊子を書かれました。その小冊子は後にあら
ためて「国家エゴイズムを超えて」というタイトルで出版
されました。和田先生がその本で提唱されたことを、今の
時代にこそ、もう一度世の中の人々に問い直してみたいと
いう意図で、私なりに構想を練り直して、書き進めて参り
ました。そういうことを大塚君に話しましたら、是非、今
度の宏南会で話しをして欲しいと言われたのです。私の方
もそういうチャンスがあればということで、お引き受けし
たというしだいです。
自覚について
考えてみますと、私が和田重正先生に初めてお会いした
のがちょうど四十年前です。今日も会場においでくださっ
ていますが、はじめ塾の玄関をサッと開けて、最初に拝見
したのが純子先生のお顔です。世の中に「こんな方がいら
っしゃるんだな」と驚きました。本当に輝いたお顔でし
た。そのお顔が私の一生を変えてしまいました。それで四
十年後の今ここで、こんなお話をさせて頂いているという
ことなのです。
和田重正先生にお会いしまして、何より感銘を受けまし
たのが人格的なことです。先生のお言葉もそうなんですけ
れども、その人格・人柄に本当に感銘を受けました。それ
以後、先生にいろいろ教えて頂いたわけなんですが、先生
がお書きになった本の中で、特に影響を受けた本が二冊あ
ります。一冊目は皆さんもご承知だと思いますけれども
「葦かびの萌えいずるごとく」という本です、これは「心
の自覚」ということがテーマだと思います。もう一冊が
「国家エゴイズムを超えて」という本です。これは「世界
の平和」ということをテーマにされた本です。今考えて見
ますと、この二冊の本が私に最も影響を与えています。
「自覚と平和」がちょうど車の両輪みたいに、あるいは二
本の柱みたいに自分の一生を支え、貫いてきたんだなとい
うことを、今感じています。
この自覚ということなんですけれども、これが一番表現
しづらいことでもあります。自覚については、私は先生の
お話を何回も聞きました。そして「葦かびの萌えいずるご
とく」という本も繰り返し、繰り返し、それこそ一字一句
を何度も繰り返し読んで考えに考えました。それでも分か
らなかったんです。それで七転八倒しまして、結局もうど
うにもならないとなったぎりぎりの時に、ひょっとしたこ
とから、アタマの働きがちょっとどこかに跳んでしまった
ような状況になりました。
そこで「あ、そうか」と、何か安心感というか、そのこ
とについて説明しようとすると言葉に詰まってしまうんで
すけれども、「今まで考えていたこととは全然違うんだ」
ということがはっきり分かったのです。その時に心から安
心できて、その日以来、浮き立つような気持ちで、見違え
るほど自分自身が行動的になっていきました。
その時の実感としては、自分がこれからどういう生き方
をするかも分からないし、どういう運命が待っているとし
ても、それはそれで自分にとっては
一〇〇パーセントの充実した、「完ぺき」というと語弊が
あるかもしれませんが、少なくとも自分にとっては完ぺき
な人生であるという安心感を得ることができました。
もちろん、それで全て解決したわけではないんですが、
自分の生き方については、そこで方向性がしっかりと決ま
りました。それまでどっちに行ったらいいか分からない、
いくら考えても分からなかったのが、「これでいいんだ」
とはっきり思えるようになりました。自分自身のアタマで
あれこれ考えて、どうこうするという生き方ではなくて、
「自分の中からすっと出てくるものに沿っていけば、それ
でいいんだ」と、そういう一歩を二十六歳のときに踏み出
すことができました。
平和について
一方、世の中の平和ということに関しては、その当時は
アメリカとソ連が何万発という核兵器を擁して互いににら
み合っていて、全面核戦争の危機は単なる物語ではなく、
現実にありうるという時代でした。ただ、日常の実感とし
ては、人々がそんなことをいちいち考えて生きているとい
うことではありませんでした。多分、多くの人々はその後
NHKテレビの特集などによって、その時代がもし核戦争
が起きれば、人類が滅びても決して不思議でもないそうい
う状況だったんだな、ということをあらためて確認したの
ではないでしょうか。
その当時「みんなで国に理想を」という本を読みまし
た。一晩であっという間に読んで、大変興奮しました。こ
れは大変な状況だ。そして、ここに提唱されている「国家
エゴイズムを放棄して、国際福祉国家の理想を掲げるこ
と」誰も今まで言ったことがないけれども、これこそ私た
ちの進んでいく道であり、やるべきことではないかと、本
当に感動しました。こうして、それが自分の人生を左右し
てしまう本になりました。
それ以来、何とかこの考え方を世の中に伝えていきたい
ものだなと思ってきました。ただ、人に話してみるのです
けれども、一時間や二時間ぐらいでは「考え方としては非
常によいけ れども……」
と言われるだけで思うようには人々に伝わっていきません
でした。それでも「自覚と平和のセミナー」という形で、
二泊三日という時間をかけて話し合うことをずっと続けて
きました。それで少しずつ理解者ができてきました。
今こそ「みんなで国に理想を」
あらためて私自身で本を書こうと思ったのは、二〇〇一
年の九月十一日のニューヨークのテロ事件の後です。とい
うのは、そのあたりから日本の人たちも「平和ぼけ」とい
うところからようやく少し目が覚めて、世界ではとんでも
ないことが起こりうるんだということを感じるようにな
り、危機感を持つようになってきたからです。世界で一番
強い国であるアメリカの中枢部が、テロ攻撃を受けている
あの衝撃的な映像というのは、やはり新しく歴史が動いた
瞬間だと思います。それで、私たち一般の日本人もこうい
うことが現実にあり得るんだ、ということを実感的に受け
取れるようになったということです。もう一つは、その後
のいろんな国の動きを見て、国家というものが、その国家
の利益、国益、あるいは国家のエゴイズムで動いていると
いうことが非常に認識されやすくなったということです。
戦後の日本人は、国家というものをあまり意識して生き
てこなかったのです。というか戦後は、国家を意識しなく
てもやってこられた大変幸せな時代であったと思うので
す。前回純子先生が講演されたのは、第二次世界大戦のと
きの弟さんのお話でしたけれども、つねに国家というもの
を意識して生きていかなくてはいけないというのは、大変
な時代だったんだなということを改めて思いました。
戦後、国家を意識してこなかった日本人というのは、も
しかしたら世界で一番幸せな国民かもしれないと思うぐら
い、ただひたすら経済的な繁栄を求めて生きてきました。
中には、経済的に豊かになれば心も豊かにすると思いなが
ら生きてきた人もいるかもしれません。しかしながら結果
としては、その経済的繁栄、物質的な繁栄を追い求めるこ
とによってずいぶん失ったものが大きかったと思います。
それが9・11以来、国際社会というものは国家を単位と
して動いているんだということを、普通の人に話しても簡
単に理解して頂けるようになったんです。
もう一方では、いよいよ憲法改正への勢いが、あるいは
企みと申しますか、非常に露骨になってきました。
また地球環境問題が深刻化しているという事実が、大分
人々に認識されるようになり、このままではどうなってい
くのだろうと、社会的な危機感や不安感が増大してきたこ
ともあり、今こそ日本や世界の今までの歴史、どういう経
過をたどってここまで来たのか、ということも踏まえた上
で、「日本人が何を世界に向かってやるべきか」というこ
とを書いておくべきである。そういうことをやらずにこの
まま憲法改悪の方向に向かわせてしまうこと、そして、人
類の多くの人々が苦しむのはあまりにも残念だという思い
で本を書き始めました。
諸問題の原因はエゴイズム
もう一度最初に戻りますけれども、世界、そして日本の
社会的な諸問題の根本原因は何でしょうか。今度の本を書
くに際して、改めて何回も自分に問い直してきました。和
田重正先生は諸問題の根本原因は、一言でいえば国家エゴ
イズムにあるのだと言っておられるように思います。でも
よくよく先生の本を読み直してみると、結局人間の個人、
あるいは集団のエゴイズムが問題なのだと言っておられた
ことがだんだん判ってきました。
和田重正先生は、エゴイズムという言葉を個人について
はあまり使われなかったのですけれども、別の言葉で、つ
まり「ケチな根性はいけない」ということを、先ず何につ
けても言っておられました。考えてみますと、この「ケチ
な根性」ということがエゴイズムということだったので
す。
エゴイズムはどこから?
エゴイズムはどこから出てくるのか。二つあると思うん
です。一つは、全ての存在は、本来不可分一体である。に
もかかわらず、アタマの大脳を通してみると、それがバラ
バラに見える。そのバラバラ観に基づいて、自己保存の欲
求から出てくるものがエゴイズムである。和田先生はそう
いう内容のことを言われております。つまりバラバラ観か
らエゴイズムが出てくるということです。
もう一点は、自分の実感から言わせていただければ、エ
ゴイズムは何か自分の母なるもの、あるいは本来自分を包
みこんでくれている大きな存在から切り離されているとい
う、これは実際は錯覚なのですが、この錯覚から生まれる
不安感から出てくるのだと思います。その不安感が元にな
って、「自分自身とか自分のモノ」その中には自分の財
産、自分の体、自分の考え価値観、身分や階級、あるいは
神様も入るかもしれない、これは自分の作り出した神様な
んでしょうけれども、あるいは自分の属する集団、そうい
う「自分自身、あるいは自分のモノ(と錯覚して思ってい
るもの)」に固執することがエゴイズムだと思います。エ
ゴイズムを成り立たせる要素としては、まずこの二つがあ
ると思います。
バラバラ観というのは、簡単に言えば、本来一体のもの
がバラバラに見える。自分と他人。自と他は違う。ただ違
うということだけでなくて、「他というのは自分(た
ち)、あるいは自分の家族以外は、利害を異にする別の存
在である」という観方です。根底に不安感とかさいぎ心が
あるのです。それがエゴイズムの根源であり、そこからエ
ゴイズムが出て来るのです。
別の角度からいえば、本来、大いなる存在、大自然、大
宇宙といってもいいし、神といってもよいと思いますけれ
ども、大いなる存在と日々一体感を抱きながら生きている
人々には大きな安らぎがあります。現代人のようなエゴイ
ズムは、ほとんどないのではないかと思います。
アボリジニとかイヌイットという人たち、あるいは、ネ
イティブアメリカンの長老の言葉などを聞いていると、本
当に何か大きなものと一体であることを感じながら生きて
いるということが分かります。それらの人たちには根源的
な不安というものがないのです。これは単なる原始的なア
ニミズムという意味ではありません。
ところが現代の私たちはいつも根底に不安があります。
いつも「こうしたらどうなるのか?」という不安がありま
す。常に不安を感じながら、こっちの方がいいか? あっ
ちがいいか?とキョロキョロしながら、不安な生き方をし
ています。
昔「どっちに転んでも、天地一杯の我がいのち」という
ことを言われたお坊さんがいらっしゃいますけれども、
「どっちに転んでも、天地一杯の我がいのち」このように
実感しながら生きていれば、そこから不安感は出るはずも
ないし、自分自身の生命や自分のモノに執着する心もなく
なるのです。
エゴイズムから生じるもの
そういうものを見失ったところから、エゴイズムが出て
きていると、私は体験的に思っております。エゴイズムの
出てくるところは、「自分と他人は利害を異にする存在で
ある」つまり、「すべての存在はバラバラである」という
観方ですから、結局は、自分さえよければ、まず自分が大
切だ、というふうになります。他との関わりにおいては対
立・競争・優劣というようなことが出てきます。さらに、
他の人よりも、あるいは他の集団よりもより多くのモノを
所有する、あるいは相手をやっつけるそれによってより大
きな安心感を得られると思うのです(本当は錯覚です
が…)。また当然、物質的欲望、豊かさを「もっともっ
と」と求める気持ちにもつながっていきます。
企業としては他との競争に打ち勝とうとしますので、競
争社会がますます激化していきますし、大量生産、大量消
費になっていきます。また他はどうなってもいいわけです
から、大量廃棄をします。人々の飽くなき物質的欲望と企
業の競争と対立、自然と自分とは別物という観方が環境問
題の原因ですが、結局環境破壊の一番の元にあるのはエゴ
イズムということになります。
その他に、宗派宗教などは、一番人々に正しい人生観と
世界観を指し示して、人々に安心と世の中に平和をもたら
すべきであるものなのに、なぜか本家本元争いをしている
ところが多いようです。自分の正当性を主張して、他を圧
倒しなければならないというような動きが、ほとんど必然
的に出てくるというのも、根源的にエゴイズムがあるのだ
と思います。つまり、自他一体の真実というものが、確か
なものになっていないところから出てくるのだと思いま
す。一つの宗教であっても、必ずその中に派が分かれてく
る。そして分裂していくというのは、どうしたことでしょ
うか。もちろん、正しい宗教というものはあるとは思いま
すが‥‥。
限界あるアタマの働き
統合していく姿が本来であるはずなのに、なぜか人間ど
うしはバラバラになっていく傾向があるようです。しか
し、私はそれを本能だとは思わないのです。ただ人間の大
脳という判断・処理能力を持った一種のコンピューター
は、物事を相対的にしか判断・処理できないと思うので
す。ところがこの世界の存在は、大脳の相対的な思考方法
あるいは言葉ではもともと捕らえ、表現することができな
いのだと思います。これは仏教などを深く研究されている
方でしたら、おそらく同じようなことを言われると思うの
です。
大脳は、白といえば黒、せいぜい真ん中の灰色と、その
程度しか表現できないのです。個と全体、あるいは、その
中間という表現はできても、たとえば、存在の事実の一面
である「個の中の全体」あるいは「全体イコール個」「個
イコール全体」という事実を、人間のアタマは的確に表す
ことができません。
そういう限界のある大脳によって物ごとを判断・処理し
ようとしていますので、そのために本来すべての存在は不
可分で一体のものが、バラバラに見えてしまうのだと思い
ます。そして、バラバラであるという錯覚からエゴイズム
が生まれてくるのです。
このような人間のアタマの処理能力の限界ということに
ついて、みなさんにも具体的に考えて頂きたいのです。ど
ういう限界を持っているのか。
例えば、「優劣」という言葉があります。これは私たち
が日常に使っている言葉です。技能が優れているとか劣っ
ているとか、いろいろな面で優劣という言葉を使います。
優越感・劣等感、そういう使い方もあります。
けれども本当に、この世の中に「優劣」というのはある
のでしょうか? 道徳的に「優劣」をつけてはいけない、
というような意味ではなく、本当に「優劣」は存在の真実
なのかどうかということです。いかがでしょうか?
よくよく検討してみますと、「優劣」というのは人間が
考え出したもので、この世界の中、あるいは、存在の事実
の中には「優劣」というものはないということが分かりま
す。
例えば、百メートルを十秒で走る人と十四秒かかる人が
いるとします。オリンピックなどの徒競走の場合であれ
ば、十秒の方が十四秒よりも「優れている」、十四秒の方
が十秒より「劣っている」というように「優劣」という言
葉が使われます。けれども、よくよく検討してみますと、
ある人(たち)がある目的を設定して、その目的に適した
ものを「優れている」、そうでないものを「劣っている」
と言っているだけです。仮に人間がある都合によって、勝
手に速いものを「優れている」とすれば、速いものが「優
れた」ものとされるということです。事実としては「速い
遅い」があるだけです。場合によっては、遅い方が目的に
適するという場合もあるのです。その場合には、「遅い」
ほうが「優れている」とされることになります。このよう
に「速い、遅い」というもともとの事実そのものの中に
は、どちらが「優れている、劣っている」というものがあ
るというわけではありません。
「所有」ということについても同じです。この世界の中の
すべてのものは、もともとは、太陽や、空気、水のよう
に、「誰のものでもない」のです。そもそも大自然の中に
「誰々のもの」というものはあるでしょうか?「誰々のも
の」というのも、結局は人間が勝手に作り出した観念、あ
るいは仮の約束事でしかありません。ですから同じもの
が、時代や社会体制、あるいは状況によって「私のもの」
になったり、「他の人のもの」になったり、「社会のも
の」になったり、「国家のもの」になったり、というふう
に変わるのです。真理は一つであり、時代や社会体制や状
況によって変わるものではありません。ということは、本
当は、すべてのものは「誰のものでもない」ということな
のです。
このように、「優劣」にしても「所有」にしても、人間
が考え出した便宜的な観念にしかすぎません。そして、も
ともと事実の中には存在しないという意味では、間違った
観念だということになります。
優劣観念と所有観念
「優劣」という間違った観念や言葉によって、どれだけ人
間は他人を苦しめ、そしてまた自分を苦しめているでしょ
うか?「優劣」という間違った観念を持たなければ、優越
感も劣等感も持ちようがありません。また差別も起きるは
ずもないのです。「誰々のもの」という間違った所有観念
がなければ、「富める者と富まざる者」という差別や格差
も、本来あるはずもないのです。前に述べたイヌイットや
アボリジニ、あるいはアマゾンの奥地の部族の人たちに
は、優越感、劣等感、差別、「富める者と富まざる者」な
どはないようです。
これらの観念は、限界のある大脳の働きによって作り出
されています。例えば大自然の中には「所有」というもの
は、もともと一切ないのに、所有観念を持っているため
に、「自分のもの」、「他人のもの」、「他人のものであ
るから、自分は使えない」、「自分のものだから、他人に
は使わせない」、あるいは、「他の人が使うには、私の許
可が必要だ」とこだわっています。これがエゴイズムであ
り、「ケチな根性」です。ようするに、モノは、そのモノ
の持ち味を活かして、必要な人が、必要な時に使えるのが
本当ではないでしょうか?
このようにエゴイズムというのは、一つはバラバラ観、
もう一つは、根源的に何か大いなる存在から切り離されて
いるという不安感、そして限界ある大脳の判断・処理、こ
の三つが絡み合って出てきているのだと思います。
いろいろな個人的な人間関係や社会的対立関係、例え
ば、いじめや争い、世の中自体が競争社会であるといっ
た、もろもろの問題はエゴイズムから出てきているので
す。では、それをどう解決していくかということが問題で
す。個人あるいは人間集団のエゴイズムによって、人類社
会はここまで行き詰まってきています。
「それを超えるにはどうしたらよいのか」と和田先生が提
案されたのが、「みんなで国に理想を」つまり「国家エゴ
イズムを超えて」ということなのです。
人類の歴史
人類社会は、最初の狩猟採集時代から、個人個人でバラ
バラに生活するのではなく、集団として生きてきました。
最初の集団というのは数家族からなる小集団だったと思わ
れます。その方が動物の攻撃などから身を守りやすいとい
うことと、生活の中でいろいろな協力体制が取りやすいと
ころから、集団を作っていったと思うのです。狩猟採集時
代というのは、比較的食べ物が豊かな地方では、それぞれ
のグループが食べ物を求めて移動を繰り返していました。
他の集団と出会っても、ちょっとあいさつをする程度で、
ほとんど摩擦もなかったと思われます。
けれども、より安定した食料を確保するために、定住し
て農耕を始めるようになった農耕時代から、富の蓄積が進
み、分業体制が進み、また、集団の規模が大きくなってい
き、その中で権力者とそうでない人など、身分や階級がで
きてきます。あるいは食料が乏しくなったら、他の集団を
襲って食料を奪うというようことが頻繁に起こるようにな
ります。こうしてグループ同士の対立が強くなっていった
のです。
このように人間は集団を作って、集団を一つの単位とし
て生きてきました。その集団の根本方針は、一言で言えば
エゴイズムでした。つまり「他の集団は生存上のライバル
である」として、「自分の集団の繁栄と生き残り」のため
に生きてきました、そして、それは、しばしば他の集団と
の命がけの戦いとなったのです。
そういう歴史を何千年と繰り返してきて、集団の規模が
大きいほうが他の集団による攻撃から守りやすい、また、
より安定した生活を維持することができるということか
ら、最初は小部族から、部族になって、部族から小国家、
小国家から国家というように集団の規模がだんだん大きく
なっていきました。
その集団の一貫した基本方針は「自分の属する集団の繁
栄と生き残り」ということです。これが集団自体、そし
て、集団の権力者と構成員にとっての至上価値となってい
たのです。
国家エゴイズム
そして今現在、その集団の単位というのは国家というこ
とです。この国際社会では主権を持つ国家を単位としてい
ます。そして全ての国家の憲法以前の基本政策が「自国の
繁栄と危急存亡の時の生き残りを最優先とする」という国
家エゴイズムなのです。もちろん、民族とか宗教とか企業
とか個人も国際社会を構成する要素です。けれども、その
中で一番影響力を持っているのが主権を持つ国家という単
位だと言えます。
国際社会において最も影響力を持つ単位であるそれぞれ
の国家はエゴイズムを基本方針にしており、基本的には互
いに対立関係にあります。それが国際社会、そして実は国
内においても最大の問題であるのです。この世界には企業
の活動、個人の生活、あるいは、民族や宗教もあります。
前にも述べましたように、エゴイズムから民族の対立、宗
教の対立、企業同士の激しい競争、あるいは個人同士のい
さかいなど、いろいろな問題が出てきます。けれども国家
エゴイズムは、国際社会における国家間の対立の原因にな
っているだけでなく、実は国内社会の枠として、政治やい
ろいろな制度、経済、教育など、私たちの生活全般を規定
しているのです。
個人やいろいろな集団でのエゴイズムは、絡み合って複
雑なものになっています。そして、国家そのものの基本政
策が強力なエゴイズムであるために、それらのエゴイズム
が何十倍何百倍に増幅され、地球環境問題、途上国の貧
困、飢餓問題、あるいは国内の原発、福祉、教育問題など
種々の深刻な社会問題を生み出しているのです。そういう
ことから、和田先生は、この現代社会の危機を乗り越えて
いくポイントは、「国家エゴイズムを超える」ことである
と喝破されたのです。
行き詰まりを越える道
エゴイズムの克服はおそらくお釈迦様の時代以前からの
人間の根源的な問題だと思います。しかし、人類がこの歴
史上かつてない危機を乗り越え、新たな未来を切り開いて
いくためには、どうしてもいろいろなエゴイズムを解消す
ることが必要だと思うのです。エゴイズムを解消するため
に、個人、あるいは集団レベルでそれぞれ心がけることは
もちろん大切です。けれども私が和田先生の提唱で最も感
銘したのは、次の三点です。
第一点は、いろいろなレベルのエゴイズムを解消するポ
イントは「国家エゴイズムを越えることである」というこ
とです。
第二点は、「国家エゴイズムが世界の戦争の原因・対立
の原因になっているので、国家を廃止して世界連邦にしま
しょう」と言っても、現実には直ぐにはできません。国家
エゴイズムによる国家の対立を解消する唯一の道は、先ず
自らが率先して自国の国家エゴイズムを放棄すること、具
体的に言えば、日本が「国際福祉国家」に生まれ変わるこ
とであるということです。
第三点は、「国際福祉国家」を直ぐに実現するというこ
とではなく、その実現は少し遠い将来の目標として、当面
の目標として、まず日本という国に
「国際福祉国家を目指そう」という理想を掲げようという
ことです。
その機運が大きくなるにつれて、国の内外に徐々に新し
い流れが生じ、それがだんだん大きくなっていく。国内的
には新しい機運の下で、種々の活動が活発になるに連れて
人々が夢と生きがいのある生き方にかわっていく。国際的
には国家間の対立・緊張関係が緩み、国際社会はこのかつ
てない人類の危機打開に向かって大きく協調体制が取られ
るようになるだろうということです。
人類の危機
私はこのダイナミックで立体的な思考体系に大きな感銘
を受けたのです。その考え方の骨格について、今日までず
っとその通りだなと思ってきました。
とはいっても、四十年前と現代とでは社会状況がかなり
違ってきています。和田先生があの本で提唱された時は、
米ソが大量の核兵器を擁して対峙し、まかり間違えば全面
核戦争の危機が現実にあったのです。けれども冷戦が終わ
って、全面核戦争の危機は現実的には少し遠のいていま
す。ただそれに変わって確率的にはもっと確実に、人類の
多くが大変な被害を受ける可能性のある様々な深刻な地球
的規模の問題が生じてきました。
その代表的なものが、地球環境問題と原発問題、途上国
の貧困と食糧問題、感染症を代表とする疾病などです。地
球環境問題についてはいろいろな報告がありますが、調べ
れば調べるほど想像以上に深刻な状態となっています。数
十年以内には何十億という人が大変苦しむことになるかも
しれない、と国連関係のいろいろな組織からも報告されて
います。
日本自身については、確かに企業の省エネという面では
大変優れており、世界のトップクラスですけれども、一方
では京都議定書への対応の仕方などを見ても、環境問題に
対する法的な整備など、政府の取り組み方がまったく及び
腰と言ってよいでしょう。また一般の人々の環境問題に対
する認識も、ヨーロッパの人々に比べると相当遅れている
と言われています。多分、多くの人々が日本人特有の「お
上信仰」によって、そういう問題は自分たち庶民の関わる
問題ではないと思っているのかもしれません。これはとん
でもない間違いです。ヨーロッパの環境先進国のように、
市民がリードして国家を動かすぐらいに市民意識が高ま
り、成熟することが大切なのです。
国際環境平和国家
ですから、環境面でも、日本が高度の技術を生かして、
世界の環境先進国、環境モデル国家を国家目標として、そ
こで培われた技術や知識をもって、世界の環境問題に全面
的に協力・支援することが大変望ましいと思います。一方
では、今後ますます飢餓や食糧問題が大きな問題となって
いきます。その面でも現在日本は食料自給率が四〇パーセ
ントくらいですから、非常に弱いのです。食料の自給自足
にもっと本腰を入れて、これからの世界のあるべき姿、モ
デルになる方向を目指すべきです。
エネルギーについても同じです。このように平和的な手
段によって、国力を挙げて世界に貢献する国に生まれ変わ
り、世界になくてはならない国、尊敬される国になること
によって、国の存立を図ること、平和を守ることこそ日本
の唯一の進むべき道であると思います。
そういう意味で、私自身は今の段階として「今こそ国家
エゴイズムを超えて」を本のタイトルとして、副タイトル
を「国際環境平和国家への道」としたいと思っています。
事実を知ることが大切
「国際環境平和国家」という表現で、「環境」を入れまし
たのは、環境問題が現代で最も深刻な問題であるからで、
その面で世界に貢献する国になるということです。原発や
食糧問題、エネルギー問題なども含めて、広い意味で「環
境」と言っております。原発については、いろいろなこと
が言われています。とにかく危険だということは皆さん何
となく思いながら、「それほど危険ではない」と説明され
ると、そうなのかな、と思ったりして「本当はどうなんだ
ろう?」というのが多くの人の実感ではないかと思いま
す。
しかしここではっきり申し上げておきたいことは、調べ
れば調べるほど、「原発は超危険だ」ということが事実だ
ということです。
また「経済的なメリットは全くない」ということがはっ
きりとしています。そして、実は原発がなくてもちゃんと
やっていけるのです。例えば、クーラーを沢山つける夏の
電力使用ピーク時に電力が不足しているということが口実
とされて、原発が必要だと言われたりしていますが、法的
な整備をきちんとすれば原発なしでも充分やっていけるの
です。例えば、夏の電力ピーク時には電気代を高くしてお
けば、みんな意識的に使用時間をずらして調整するので、
ピーク時の電力不足はなくなってしまうのです。「石油が
不足してきたらどうするのか? やはり原発は必要ではな
いか」と言われるかもしれませんが、これもよく調べると
「原発は大量に石油を消費する」という事実が浮かび上が
ってくるのです。このようにいろいろな面から調べてみて
も、本当は原発はなくて済むのです。
それからエネルギー効率というのでしょうか、エネルギ
ー収支バランス、投入したエネルギーと取り出せるエネル
ギーの割合を厳密に計算してみますと、原発は他の発電方
式に比べても特にメリットはありません。むしろ、廃棄物
の処理まで含めた長期的な目で見れば、エネルギー収支は
一以下、つまり投入したエネルギーより取り出せるエネル
ギーの方がずっと少なくなってしまうことが、本当ははっ
きりしているのです。にもかかわらず一部の関係企業とか
政治家の人たちが、今の豊かさをある程度維持していくた
めには原発は必要だ、あるいは今後石油がなくなってきた
らやっぱり原発がなくてはならないなどと、言葉巧みに世
論を誘導しようとしています。多くの人が「原発は危なそ
うだから、止めたほうがいいのではないか」と思いながら
も、そう言われると「それでも、もしかしたら必要なのか
な?」と心が揺らいでしまうようです。それだけに、事実
をお互いにきちんと調べること、知らせ合っていくことが
大切だと思います。
提案の要点
もう一点、和田先生は日本の目指す国は「国際福祉国
家」とされていますが、私は「福祉」を含めたもっと広範
囲の平和活動という意味で、「平和」という言葉を使って
います。それと、特に現代の最大の問題である環境保全活
動に国力を捧げるという意味で、日本が目指すべき国は
「国際環境平和国家」だとしています。
あらためて、この提案の趣旨を要約してみましょう。
世界の行き詰まりと日本の深刻な諸問題を解決するため
には、その根本の要因であり、ポイントとも言うべき、国
家エゴイズムによる各国の対立関係を緩和し、これまでの
歴史の流れを変えることが必要です。そのためにはまず、
日本が率先して国家エゴイズムを放棄して、自ら、平和的
手段によって世界に貢献する国「国際環境平和国家」に生
まれ変わることです。しかしそれを直ぐ実現しようという
のではなく、その前段階としてまず日本という国に「国際
環境平和国家を目指すという理想を掲げよう」というので
す。そして、その機運を活発にすることによって国家間の
対立を緩和し、国の内外に変革をもたらし、世界平和と日
本新生の道筋をつけようというものです。
日本国憲法の意味
以上述べてきた提案の趣旨から、「今、私たちが何をす
べきか」と考えた時に、現実的には、今も最も緊急な課題
は「改憲か護憲か」という問題に正しい判断をすることで
す。それがまさに日本の未来を決定するからです。そのた
めには「日本国憲法というのが何を言っているのか」とい
うことを正しく理解することからはじめなければなりませ
ん。そしてさらに、日本国憲法の歴史的な意義を深く理解
することが肝要です。
前文をよく読むと
まず日本国憲法の前文を読んでみましょう。最初の部分
は省略します。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支
配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛す
る諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を
保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と
隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐ
る国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免
かれ平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して
他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則
は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の
主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務
であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高
な理想と目的を達成することを誓ふ。
この前文は、多くの人にとって、ちょっと読んだだけで
は分かったようで分からないところがあるようです。その
結果、私たちはこの前文を漠然と文字の羅列だと受け取
り、その活気みなぎる能動性と積極性を見落とし勝ちにな
るのではないかと思うのです。そこで、少し言葉を補った
りしながら、その意味をよく考えてみましょう。カッコで
いくつかのことばを挿入し、同時に文の順序を少し入れ換
えたりまとめたりすると、この前文の意味は非常に明快に
なります。それは次のようになります。
日本国民は、(一時的な仮の平和ではなく)恒久の平和
(つまり、ずっと永続する本当の平和)を念願します。 私たちは、人間相互の関係を支配する崇高な理想(つま
り、人間は皆兄弟のような存在であり、お互いに自由であ
り、平等であるという人間相互の本来のあり方)を深く自
覚しています。
私たちは、平和を愛する諸国民の正義と誠意(つまり、
こちらが正義と誠意を持って接すれば、相手も、正義と誠
意で答えてくれるということ)を信頼します。 そして、
(武力で私たちの安全や生存を守ろうとするのでなく) 平和を愛する諸国民の正義と誠意を信頼することによっ
て、私たちの安全と生存を守ろうと決意しました。
私たちは、平和を維持し、圧制と隷従、抑圧と不寛容を
地上から永遠になくし、また、全世界のすべての国民が、
恐怖と貧乏からまぬがれ、平和に生きることができるよう
に(自分たち自らが、先頭に立って、そのために全力で努
力し、貢献することによって)国際社会において、名誉あ
る地位を占めたい(つまり、尊敬される存在になりたい) と思います。
いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視
しては ならないのであつて(つまり、どんな国家でも、
「自分の国さえよければ」というエゴイズム国家であって
はならないのであって)、(以上のような)政治道徳の法
則は、(本来すべての国が守るべき)普遍的なものであ り、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と
対等関係に立とうとする各国の責務であると信じます。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげて、これら
の崇高な理想と目的を達成することを誓います。
(自分たち自らが先頭に立って、そのために全力で努力
し、貢献することによって)名誉ある地位を占めたい‥‥
という部分に関しては、カッコ内に挿入した(自分たち自
らが‥‥)という文が恣意的だと思われるかもしれませ
ん。しかし、「平和が維持され、圧制と隷従、抑圧と不寛
容が地上から永遠になくなること」をただ単に、心の中で
願っているだけでは、とうてい「国際社会において名誉あ
る地位を占める」ことはできないはずです。そのために
は、どうしても国家レベルでの積極的な実行による大きな
国際貢献がなされなければならないはずです。また全体の
文脈から言っても、カッコ内に挿入した文章を補って読む
方が前文の意味がはっきりすると思います。
このように丁寧に前文を読んでみると、この前文全体か
ら見えてくることは、日本国憲法の活気みなぎる能動性と
積極性です。
九条をよく読むと
次に、第九条を見てみましょう。
日本国憲法第九条
一 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実
に希求 し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は
武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に
これを放棄する。
二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
ここで、第一項の「国際紛争」には、前文の意味から当
然「相手国からの自国への侵略」も含まれます。つまり
「自衛のための戦い」も「国際紛争を解決する手段」に含
まれるのです。したがって、第二項の「前項の目的を達成
するために」という中には「自衛のための戦い」も含まれ
るということになります。
さらに、第二項の「交戦権」については、そもそも国際
法上では、「戦争」といえば「自衛のための戦争」しか認
められていません。つまり、そもそも「他国を侵略する権
利」は認められていないのです。ということは第二項の
「交戦権」というのは「自衛のために戦争する権利」とい
うことです。したがって、第二項の「国の交戦権を認めな
い」というのは「国の自衛のための戦争を認めない」とい
うことなのです。
このように解釈してこそ、第一項と第二項がぴったりと
整合し、さらに第九条と前文もぴったりと整合するので
す。この部分は何回も繰り返して読むと、よく意味が分か
ってきます。
自衛権について
もちろん、国際法では「自衛権」が認められています。
しかし「自衛権」はそのままイコール「武力により自衛す
る権利」ではありません。というのは、「自衛権」には
「武力によって自衛する権利」も「武力以外の手段で自衛
する権利」も含まれるからです。
九条で言っているのは、本来は(国際法から言っても)
「自衛権」も、そしてその中の「武力により自衛する権
利」もあるけれども、日本はあえて「武力により自衛する
権利」は放棄するということです。つまり九条は、本来
「自衛権」はあるけれども、「自衛のための戦争」を含む
すべての戦争を放棄しているのです。
逆に言えば、九条は「武力によらないで自衛する権利、
すなわち平和的手段によって自衛する権利」は放棄してい
ないのです。ちなみに社会の中には、権利はあってもそれ
を放棄するという例はいくつもあります。たとえば財産の
相続権などの場合を考えると、分かりやすいのではないで
しょうか。
このように、固定観念を持たずに、素直に九条を読め
ば、九条が「例え、自衛のためであっても、武力は持たな
い」という決意の表明であることは疑う余地はありませ
ん。「不幸にして外国から侵略を受けることがあっても、
武力をもって立ち向かうことはせず、武力以外の手段で自
衛しよう」という捨て身の構えを表明したものと受け取る
べきです。九条には「国の交戦権は認めない」と書いてあ
るだけで、「自衛の必要がある場合は、この限りにあら
ず」というような例外規定は何もついていないことが、何
よりもこの解釈を裏付けています。
要するに一口で言えば、「これからはもう戦争はしませ
ん。戦争はしないということを保障するために、陸海空軍
という武力は持ちません」と言っているのです。そこには
何の条件も付けてはいません。「こういう場合はやりま
す」とか「こういう場合はやりません」とか一切条件を付
けてはいません。俗な言い方をすれば「売られてもケンカ
は買いません」ということです。
史上初の脱国家エゴイズム憲法
以上のように、日本国憲法の前文と九条に見られる平和
に関する根本姿勢は、ただ単に平和声明を出したり、言葉
だけで国際協調を唱えたりという類ではなく、「武力は放
棄して、捨て身の決意で、平和的手段によって、世界の平
和と繁栄に貢献する努力をしよう。それによって国の存立
を図ろう」ということです。憲法は国の内外に向かっての
基本的政治姿勢の宣言であり、誓約です。このような国家
エゴイズムを超えた立国の根本方針を堂々と成文法の形で
言明した国が、それまで歴史上一つでもあったでしょう
か。その意味で、日本国憲法は人類史上初の脱国家エゴイ
ズム平和憲法なのです。
しかしながら、その後アメリカの要請に従って、日本政
府は九条の制約を「自衛」と「武力による自衛」とを巧み
にすり替えることによって突破しました。そして、警察予
備隊から保安隊、さらに自衛隊へと発展させてきました。
歴代内閣は詭弁と憲法の拡大解釈を繰り返し、ついに自衛
隊は世界第三位の軍事力を有し、さらには事実上海外に派
兵するまでになったのです。このように巧みに既成事実を
積み上げることによって、外堀と内堀をほとんど埋め終わ
った今、いよいよ本丸を落とすべく、最後の仕上げとし
て、今まさに肝心要(かなめ)の憲法改正そのものを現実
のものとしようとしているのです。しかしこれまでのこと
はこれまでのこととして、今このように憲法改正論議が盛
んになることによって、もしこの憲法の持つ真意とその人
類史的意味が私たち日本国民によって本当に理解されるな
らば、それは新しい日本の再出発のための絶好のチャンス
となるでしょう。
今、まさに私たちは岐路に立っています。その意味で、
今あらためてポイントとなる問題点は、この平和憲法が
「現実的か、非現実的か」ということです。言い換えれば
「平和的手段による平和への努力をするのか? それと
も、戦力のバランスによる戦争抑止をねらって軍備の拡充
を図るのか? そして、集団的自衛権を行使して、積極的
に他国の戦争に参加するのか?」ということです。
九条と前文はワンセット
九条を解釈する場合に、重要なポイントがあります。そ
れは、九条は前文によって支えられて、初めて本当の意味
を持つということです。つまり九条だけであれば、ただ単
に自衛の戦いを含めたすべての戦争を放棄するということ
と、そのために一切の戦力を保持しないということになり
ます。つまり、九条は非武装と戦争放棄ということを言っ
ています。それだけであれば「これで果たして、国は守れ
るか? 少し心もとないのではないか? それこそ、どこ
かの国が攻めて来るかもしれない。もし、万一攻めてきた
ら、どうやって国や国民を守るのか? だから、万一に備
えて、あるいは、攻めて来られないように、ちゃんと軍隊
を持ったほうがいい」というような意見が出てくる可能性
があります。
それらの意見に対して、どのように答えても、納得して
もらうことは難しいかもしれません。もちろん、逆に(抑
止のためも含めて)戦争ができるような軍隊を持つことに
よって、かえって戦争に巻き込まれる可能性が大きくなる
という意見もあります。それに対する反論もあるでしょう
が、反論することによって相手を説得するのは難しいかも
しれません。要するに、どっちの意見であっても結局は、
見解の相違だということで平行線をたどる可能性が大で
す。 九条は前文とセットになって初めて本当の意味と現実的
効果を持っているということは、平和憲法を解釈する上で
非常に大切なポイントです。つまり前文と九条で言ってい
るのは「私たちは、自分の国さえよければ、という国家エ
ゴイズムを捨てて、世界の諸国民の飢餓や貧困疾病などの
解決と途上国の繁栄のために、国家を挙げて全力で貢献
し、世界の国々にとって『なくてはならない存在』となる
ことによって、国の平和と存立を図ります。つまり、武力
でなく、平和的な手段によって世界の平和と繁栄に国を挙
げて貢献することによって、国の平和を守ります。したが
って、一切の武力は必要ありません。また、自衛のための
戦争を含めて一切戦争はしません」ということです。
北朝鮮・中国脅威論
北朝鮮や中国の脅威がよく言われます。アメリカとソ連
の冷戦が終わった時に、日本の再軍備を望む人たちはパニ
ック状態になりました。それまで日本は専守防衛、つまり
もっぱら防衛ということでやってきたのです。ところが冷
戦が終わって、仮想敵国であったソ連がなくなってしまっ
たのです。それとともに、中国も共産主義国ではあって
も、それほどの脅威ではなくなりました。
ということは、自衛隊自体(そして日米安保条約自体)
の存在意義がなくなったということです。自衛隊や日米安
保条約がなくなると、関係する人々や組織や企業などは、
それまでの既得の権利や利益を守ることができなくなりま
す。そこで、何とかしなければならないと考えました。そ
れで、自衛隊や日米安保条約を存続させるために、突然北
朝鮮脅威論が盛んになってきました。
それから、中国が経済的に力を付けてくるにつれて、ま
た少しずつ中国の軍事力が伸びてくると、中国のミサイル
が日本に向けられているというように、中国の軍事的脅威
が非常に強調されるようになりました。仮想敵国がなくな
れば、自衛隊など必要ないわけですから、そこで急きょ、
阪神大震災に対する緊急救助活動や国連平和維持活動(P
KO)などによって、自衛隊の存在意義を保とうとしてき
たのです。
その後、もはや専守防衛だけではだめだということにな
りました。北朝鮮も国力があそこまで疲弊した状態では、
日本を攻める力もありません。仮に攻めてきたとしたら、
二、三日の内に、いろいろな国から、北朝鮮自体が経済制
裁どころではなく、軍事的制裁を受けて、今の体制そのも
のが崩れてなくなってしまいます。
中国にしても、今、日中間の貿易額は日米間の貿易額と
ほとんど同じか、それ以上になってきています。ですから
日本と中国は、国の政治的体制はお互いに異なっていて、
政治的には多少ギクシャクしていますが、経済的には、お
互いがなくてはならないパートナーになっているのです。
日本と韓国もそうです。北朝鮮は、特に日本からの経済援
助を当てにしています。こういう状態の中で、日本を攻め
てくる国があれば、それは即その国の自滅につながりま
す。本当は経済の方から見れば、そういうことは明らかな
のです。
したがって、北朝鮮や中国の脅威が言われますが、それ
はありえないと言ってよいのです。それでも、もしかした
ら「北朝鮮が暴走することがあるかもしれない」と言う人
もいます。もし万一起こったとすれば、それはまさに「個
人的な狂気」によるものであり、「日本に軍隊があるかど
うか」にはまったく関係のないことです。
アメリカの世界戦略と日本
このように、一方では北朝鮮や中国の脅威を盛んに喧伝
しながら、もう一方では、日本だけの自衛、あるいは極東
の軍事的不安ということだけでは、自衛隊やアメリカ軍の
存在意義がなくなるので、今度はインド洋から中東まで伸
ばしたアメリカの世界戦略に日本を組み入れていこうとし
ているのです。このように、日本の再軍備を願う人々は、
日本を専守防衛から、日米同盟を基にした新しい世界戦略
に組み込まれるように変えようと、いろいろ画策している
のです。それが新ガイドラインや有事法制、あるいは周辺
事態法などです。このように、憲法の外堀から埋めていっ
て、次に内堀を埋めて、憲法をなし崩しにしてきたので
す。そして、最後の本丸を落とすべく、憲法を改悪して、
軍隊を正式にもち、集団的自衛権を行使し、海外に出かけ
て、堂々とアメリカと一緒に戦争のできる国にしようとし
ているというわけです。
平和憲法の能動的理解を
今こそあらためて日本国憲法の世界史的な意義を認識
し、それを訴えるときだと思います。日本国憲法はただ受
け身で、単なる非武装の平和政策を唱えているのではあり
ません。実際には、今の世界情勢では日本を攻めてくる国
などありそうにもありませんが、それでも単なる「丸腰」
では、万一ということを考えると少し心もとない。最低で
も、戸締まりはしておいたほうがいいと考える人もいるか
もしれません。しかしながら、平和憲法の前文で宣言して
いるのは、日本が平和的手段によって、全面的に、国力を
挙げて、世界の貧困や飢餓問題や疾病の支援・解決を図
り、国際貢献をすることによって世界にとってなくてはな
らない存在になる。つまり「武力でなく平和的な手段で、
世界に貢献することによって、国の存立を図っていく」と
いうことです。だからこそ、九条において「一切の武力は
放棄し、自衛の戦いも含めて一切の戦争はしません」とい
うことを宣言したのです。
もちろん、憲法改正に賛成する一般の多くの人々は「好
んで戦争する国」にするために、改正に賛成しているので
はなく、「日本を外国の脅威から守るために、軍隊を正式
に持ったほうがよい」という考えだと思います。しかし、
政府をはじめ積極的に憲法を変えようとしている人々の意
図は、もっと別のところにあることを理解する必要があり
ます。その人々の意図するように憲法が変えられてしまっ
たならば、日本はもはや取り返しのつかない、大変危険な
方向に向かうことは間違いありません。それは文字通り、
人類の宝を、その真価も分からずにドブの中に捨ててしま
おうとしていることなのです。日本にとっても世界にとっ
ても、これ以上の損失はありません。
和田先生は「国家エゴイズムを超えて、国際福祉国家へ
の道」を提唱されるとともに、「平和憲法の精神をもっと
能動的に理解し、実際に実行しよう」ということを提唱さ
れました。この二つの提唱はまったく同じ意味でもありま
す。しかしながら、戦後「平和憲法を守ろう」という動き
はあったと思うのですが、政府も日本国民も、平和憲法の
精神に沿って、あるいはそれをもっと能動的に理解して、
本当にエゴイズムから脱した国づくりを目指そう、という
動きはほとんどしてきませんでした。
人類社会がここまで行き詰まっており、日本社会自体が
閉塞感に包まれ、停滞している今こそ、私たちはあらため
て、日本国憲法の精神を深く、さらに能動的に理解して、
日本が率先して国家エゴイズムを放棄して、「国際環境平
和国家」の理想を掲げ、世界平和の道筋をつける先駆けと
なり、世界をモラルの面でリードする国になるべきだと思
います。
憲法問題に関して、今が一番の正念場だと思います。
和田先生はいつも「一人から一人に」とおっしゃってい
られました。「一人から一人に」伝えていく力は、最初は
小さいようですけれど、結局それがもっとも大きな力にな
ると思います。一緒に皆さんとやって行きたいと思いま
す。
質疑応答
【司会】 ありがとうございました。では、引き続き質疑
応答に入ります。
【横山】 質問ではないんですが、一つの方向性として化
石燃料について訴えたいと思います。地球温暖化で百年後
にはアマゾンは消えるというくらいになっています。百年
経たたなくても、既にどこかの小国は石油が絶えてしまい
ます。ですから、日本は海に囲まれていますので、大々的
に自然エネルギーを使えるようにすることが、国際的な福
祉国家的な国家プロジェクトとしてできれば、世界的にも
ものすごく素晴らしい国になると思うんです。
【野村】 先ほど詳しく述べなかったのですが、そういう
ことも含めて、今度の本にもいくつかの提案させていただ
いています。デンマークや北欧の例もありますように、日
本でもずいぶん研究されている方がいて、実は私たちの必
要とするエネルギーの七割くらいが自然エネルギーでまか
なえるという調査報告があります。その他に小型の水力発
電機で、一メートルくらいの落差があれば、かなりの発電
能力があるマイクロ発電機もできてきています。そういう
ことを含めて、世界をリードできる技術が日本にはあるの
です。やろうと思えばできると思うんです。それと今、原
発に相当お金をつぎ込んでいますから、それを新しいエネ
ルギーの開発費に回すだけで、もうすぐできてしまいま
す。日本は石油や石炭などの資源は少なくても、自然エネ
ルギーを中心にした新エネルギーの開拓を国力を挙げて進
め、世界をリードし貢献することが、日本にとっても世界
にとっても大変望ましいと思います。
【菊川】 今、憲法の精神を活かして、武力は一切製造し
ないということにして欲しいです。武力を持たないのだか
ら、武器はいらない訳です。武器の元になるものを製造す
る会社があるので、それがもうかっていることを公にする
べきでしょうね。
【野村】 大企業でそういうことに関わっているところが
いくつもあります。それを調べて、なるべくそういうとこ
ろの製品は買わないようにしよう、という不買運動を提案
している人がいます。そういう企業の実態を公表した方が
いいと思います。
【横山】 そういう企業が、もっと製品を売りたいために
戦争を起こしたいのでしょうね。
【野村】 先ほど言わなかったことでもう一つ。日本には
平和憲法があったから、六十年間戦争に巻き込まれなかっ
たのだという考えと、日米安保があったから日本は戦争に
巻き込まれなかったという二つ考え方があります。ところ
が日米安保があったからというのであったら、お隣の韓国
などは、韓米安保というのがあります。にもかかわらず、
ベトナムにも多く出兵して、一万人以上が亡くなっていま
す。アフガニスタンにも出兵しています。イラクにも多数
出兵しています。アメリカとイギリスについで、第三番目
の勢力です。ですから日本が戦後、戦争に巻き込まれなか
ったのは、何といっても平和憲法があったお陰なのです。
今度の本では、憲法問題だけでなく、環境問題や原発問題
などについても、そういう事実をいろいろと上げて、それ
を知れば、自然に何が正しいか判断できような形で説明し
ました。
【横山】 「日米安保条約によって、アメリカが日本を守
ってくれている」と思っているのは日本人だけであって、
「アメリカは日本を奴隷にしている」と台湾や外国の人た
ちなどは皆そう思っています。
【野村】 日本が自民党案のように本当に憲法を改正して
しまったら、アジアの人々の日本に対する雰囲気は非常に
悪くなるでしょうね。そうなれば、日本がアジアの人たち
に何を言っても通らなくなりますね。それを知っていなが
ら、どうして改正をやろうとするのでしょうか。
【横山】 本来、平和憲法がアジアの人たちに対する一種
の謝罪ですものね。
【村木】 終戦直後、昭和二十年代の本に割と関心があり
ます。その時代の本というのは紙質が悪いですよね。紙質
が悪くて、物のない時代に出版するというのは、相当のも
のしか出版されていないということですよね。南原繁の講
演集の中に、新憲法の発表に関して書いてあって、「この
憲法は人間が決めたのだから、変わらないということはな
いだろう。今までの過去、つまり昭和二十年までの歴史、
そのマイナスの歴史だけはいつもアタマに置いてもらいた
い」と書いてありました。そういう意味では、和田先生と
は少し共通する面があるなと思いました。
【大塚】 今日、甘蔗珠恵子さんがわざわざ九州の方から
おいでくださっています。甘蔗さんは反原発の立場から、
地湧社より「まだ まにあうなら‥‥私の書いた一番長い
手紙」という本を出版されています。私も読ませていただ
いて、本当に感動しました。
野村さんの本の原稿を読ませて頂きました。原発につい
てただ感情的に「危険だ。必要ない」と言うのではなく
て、経済的、その他のデータをあげて緻密に、しかも分か
りやすく説明してあります。今の野村さんの話もそうだっ
たのですが、データを出して、「あなたはどう思います
か」という感じです。すごく納得がいくな、と私は思って
いるんです。ですから一刻も早く出版して欲しいと願って
おります。
ところで、全く話は違うのですけれども、今、問題にな
っている共謀罪について詳しくご存じでしょうか? 今ど
のように審議され、どうなるかということも知っています
か?
【増田】 この間は、審議は延期ということになりまし
た。採決を止めましたが、でも、まだあることはありま
す。
【大塚】 国会の会期が延びれば、また出てくるかもしれ
ません。やはり強行採決をすると思います。こういうこと
を国民があまりにも知らなくて、私はあ然としているので
すけれども、共謀罪法案はまさに治安維持法と内容は同じ
です。それを国民が知らないうちに決められようとしてい
ます。与党が圧倒的に多いので、あっという間に国会を通
ってしまいます。そうしたら、もう逆戻りはほとんどでき
ません。なぜかというと、国旗国歌法案が通った時も、
「これは心の自由を奪うものではありません」とはっきり
言ったけれども、今、東京都の教育委員会はひどいもので
す。卒業式に行って、先生と生徒一人ずつ観察して、誰が
座っていたかをチェックして、座っていた教師に対しては
即呼び出して処分します。非常勤講師などは全部首を切ら
れています。実際に、そこまで政治が教育に介入している
わけです。なぜ教育委員会の者がいちいち学校現場に出向
いて、チェックをするのかということ、これも全く不可解
なことです。けれども現実にそのようなことが行われてい
るんです。
それから、例えばあまりにもマスコミが偏りすぎてしま
っていると思うのは、原発よりよっぽど怖い青森県六ヶ所
村の再処理工場が試運転をスタートさせました。試運転と
いっても稼働させたのと同じです。そしてもうすでに事故
を起こしているのですが、それはほとんど報道されていな
くて、みんな知らないんです。ネット上などでないと分か
らないのです。
もう一つ言わせてください。あの再処理工場からは、原
子力発電所が一年間に出す放射能を一日で出しています。
つまり再処理工場は、一日で三百六十五基の原発から出す
量の放射能を空中に出しているわけです。そして海も汚染
しています。放射能を含んだ排水は、三陸沖まで引っ張っ
て、そこから出しています。岩手県を通って千葉まで来て
います。そうすると、あの海流に乗っている魚介類や海草
はもう毎日汚染されているんです。知っていますか? 皆
さん。あまりにも知らな過ぎると思うんです。海は広いか
ら薄められる、と説明されています。そして魚が汚染され
たら、三陸の魚は誰も買わなくなります。イギリスの再処
理工場のある回りは白血病患者が異常に多いようです。そ
れなのに、六ヶ所はへき地だから、人口が少ないから、補
助金をもらいたいから、買収してやっているわけです。そ
の事実に知らん顔している私たち一人ひとりは、本当にお
かしいです。
【林】 青森ではテレビのPRを二十分に一回くらいやっ
ています。「安全です、大丈夫です」とすごいです。だか
ら、現地の人はよっぽどの意識のある人でなければ、そう
だなと思ってしまうことになるでしょう。
【村木】 原発は本当は東京に作ればいいのです。東京が
一番電力を使うのですから。もう一点は青森県はお金がな
い貧乏県です。沖縄、島根、鳥取などもそうです。ですか
ら県知事も県民も所得増加が最大の願いです。そうする
と、取りあえずは原発を誘致することになります。六ヶ所
村の一人当たりの所得は県内で最高です。その次が青森市
です。原発に関する交付金というのは、とても多額で魅力
があるという状態です。
【泉田】 今、実際には六ヶ所村に二兆円投入されて、今
後十兆円投入されることになると言われています。そのこ
とで反対することができない状況になっているのが実情で
す。
【村木】 今は「核融合の設備を誘致しましょう」と言っ
ています。これは青森だけの問題ではなく、日本全体の問
題ですから、もっと真剣に考えて欲しいです。
【野村】 私が読んだ本の一つには、六ヶ所に限らず再処
理工場をあれだけの規模でやると、「もし全面稼動してい
る時に爆 発が起こったら、地球の半分 くらいの全生命
がやられる」と書いてありました。少し大げさではないか
とも思うのですけれども、要するに想像を絶する被害がも
たらされることだけは確かです。ですから、なぜそんなよ
うなことをしなければならないのか、ということです。
【大塚】 なぜ、再処理工場を稼動させなければいけない
かというと、プルサーマルとかいろいろ言っていますけれ
ども、最終的には核開発が目的ではないか、としか考えよ
うがないわけです。ある人たちは、憲法を改正して、核を
持たなければいけないと本気で考えていると思います。前
回の衆議院の総選挙期間中におこなった毎日新聞社のアン
ケートでは、日本が核武装を検討すべきだと答えた議員
が、なんと民主党も入れて三十六パーセントもいたので
す。驚きですが、これが現実なのです。
【横山】 政治家などはテレビで気楽に核武装をするべき
だと言っています。
【司会】 少し野村さんの言っていることから外れてしま
ったようですので、「私たちのすべきことはこういうこと
ではないか」という話に戻したいと思います。
【野村】 結局、諸悪の根源がエゴイズムにあるとすれ
ば、それを解きほぐすポイントは何かということです。も
ちろん個人やいろいろな集団レベルでやっていく作業も必
要でしょう。いろいろな形でやっていくことが大切です。
様々な国際NGOの活動や国内の教育問題も大切です。た
だ教育を変えようと思っても、なかなか思うようには変わ
りません。それは、国家という一番のポイントがエゴイズ
ムの方向に向いているからです。その方向を、つまり新幹
線でいえば、本当は大阪へ行くべきところがなぜか東京に
向かっているということなのです。そしてその東京行きの
中で、大阪に行こうといろいろと努力をしているというわ
けです、
それぞれができるところから努力をしなければいけない
けれども、全体の方向性を変えること、そのためにはアタ
マの向きを変えることがポイントだと思います。「すぐ国
家の政策を変えよう」と言っても無理です。そこで「ま
ず、日本という国の方向性を変えよう」ということなので
す。単なる「それぞれ頑張りましょう」ということではな
く、そのツボは「この日本という国の向きを変える」こと
であり、さらに、発想として優れていると思うところは、
まずはポンと「国に理想を掲げましょう」という機運を高
めていくことだということです。
現在まで、多くの心ある人々の努力によって、いろいろ
な活動が行われています。それぞれが貴重な成果を挙げて
います。それらの活動によって、一つの新しい流れができ
つつあるということはできるでしょう。しかしながら、破
滅に向かう力の大きさに比べれば、まだまだ力不足である
と言わざるを得ません。もし「日本に国際環境平和国家の
理想を掲げよう」という思想が、それらの団体や組織のバ
ックボーン的思想あるいは旗印となれば、それぞれの活動
が活発化すると同時に、力強い一大ネットワークができ、
人類の新しい歴史を創る大きな流れが形成されていくでし
ょう。それは、組織や団体だけではありません。私たち一
人一人が、それぞれの立場で志と夢を持って理想実現に向
かって仕事や勉学、生活にいそしむようになるでしょう。
そしてそれが、組織や団体の活動を支え、一大潮流とな
り、日本を先駆けとして、人類の危機回避のために、全世
界で力強い協力体制が取られるようになると思います。
今までの環境問題とか、いろいろ活動されている方の話
を聞きますと、もちろん「希望を持ってやっている」とい
う方もいます。けれども「大変だ、大変だ」と暗い気持ち
に陥り「でも、頑張らなければ」と頑張っている方も多い
ようです。それに対して、この「国に理想を掲げましょ
う」という提案は、希望そのものです。この提案について
若い人に時間をかけてじっくりと話しますと、
「日本がこんな国になれば、本当 に素晴らしい、ワクワ
クして、 嬉しくなってくる。」
と目を輝かしています。
「そして、これなら自分たちにも できる。」
と言うのです。そのような体験から、私は「国に理想を掲
げましょう」という提案を、今こそ世に問う時機が到来し
たのだと考えているのです。
【司会】 時間がいっぱいになりました。それではこれで
今回の講演会を終わります。
長時間どうもありがとうございました。
・話し言葉を読み易く修正すると同時に、不必要だと思わ
れる部分は削除し、重要だと思うことをいくつか加筆しま
した。 文責・野村 ・敬称を略させていただきました。 編集担当