下腿浮腫を契機に診断された幽門輪温存胃亜全摘術

仙台医療センター医学雑誌 Vol 5, 2015
症例報告
下腿浮腫を契機に診断された幽門輪温存胃亜全摘術、空
腸間置再建術後のビタミン B1 欠乏症の 1 例
森俊一 1)、高橋広喜 1)、高野由美 1)、小高尚子 1)、横山寿行 2)、田所慶一 1)
1) 国立病院機構仙台医療センタ- 総合診療科
2) 同 血液内科
≪抄録≫
症例は 61 歳男性。2008 年に早期胃癌に対して幽門輪温存胃亜全摘術ならびに空腸間置術を施行された。
2013 年 9 月中旬より倦怠感、易疲労感、両側下腿の浮腫が出現したため当科を受診した。精査でビタミン
B12 欠乏による大球性貧血を認めたため、ビタミン B12 製剤を投与した。4 週間後、貧血は改善を認めた
が下腿浮腫は悪化したため、ループ利尿薬の投与を開始した。しかし、症状はさらに悪化し、歩行や正座が
困難となった。10 月下旬の再診時には初診時より 8kg の体重増加を認めた。膝蓋腱反射の減弱などは認め
なかったが、ビタミン B1 低値を呈していたため、ビタミン B1 製剤を静注投与した。翌日には下腿の浮腫
は速やかに改善を認め、2 週間後にはほぼ消失し、体重は症状出現以前に回復した。胃切除術後、特に空腸
嚢間置術後は間置空腸内でビタミン B1 の分解や吸収不全が起こりやすく、ビタミン B1 欠乏症を合併する
ことがある。今回、下腿浮腫を契機に診断された胃亜全摘術・空腸間置再建術後ビタミン B1 欠乏症の 1 例
を経験したので文献的考察を加え報告する。
Key words:胃切除術、空腸間置再建術、下腿浮腫、ビタミン B1 欠乏
(2015 年 2 月 13 日受領、2015 年 3 月 12 日採用)
1
はじめに
ので報告する。
胃切除のビタミン欠乏症としては、ビタミン B12
2 症例
欠乏による大球性貧血は広く知られているが、ビタ
ミン B1 欠乏による脚気や Wernicke 脳症の発症に
症例:61 歳 男性
ついての報告も散見されるようになった。また、胃
主訴:倦怠感、易疲労感、両側下腿浮腫
切除術における再建術式がビタミン B1 欠乏に影響
家族歴:特記すべきものなし。
している可能性についての報告もある
既往歴:56 歳 早期胃癌(0‐Ⅱc+Ⅲs, tub2, sm)
1)。今回、
我々は幽門輪温存胃亜全摘術、空腸間置再建術後ビ
幽門輪温存胃亜全摘術、空腸間置術を施行。緑内障
タミン B12 欠乏による大球性貧血ならびにビタミ
(時期不明)
。
ン B1 欠乏による下腿浮腫を呈した 1 例を経験した
生活歴:喫煙歴なし 飲酒 日本酒 1 合/日
57
胃切除後のビタミン B1 欠乏症
現病歴:2013 年 9 月中旬より倦怠感、易疲労感、
時より 8 kg 増加した。この時点でビタミン B1 が
両側下腿の浮腫、舌の違和感が出現したため 9 月下
17 ng/ml と低値であることが判明したため、同日、
旬に当科を受診した。
ビタミン B1 製剤(チアミンジスルフィド混合剤 50
初診時現症:身長 165cm、体重 54 kg(2 週間で
mg)を静注投与し、その後複合ビタミン B 製剤(チ
約 4 kg 増加)
、血圧 113/76 mmHg、脈拍 83 回/分、
アミン塩化物塩酸塩 75 mg を含む)内服を開始し
体温 36.5 ℃。眼瞼結膜は軽度貧血あり、眼球結膜
た。投与翌日より約 1.6 kg の体重減少を認め、下
は黄染なし。舌乳頭に萎縮あり。頸部リンパ節腫大
腿浮腫は速やかに改善傾向を示した。ビタミン B1
なし。心音・呼吸音に異常なし。腹部は平坦・軟で
製剤投与約 2 週間後には下腿浮腫はほぼ消失し、体
上腹部に手術痕あり。両側下腿に圧痕性浮腫あり。
重も症状出現前の値に回復した。
膝蓋腱反射の減弱は明らかではなかった。
血液検査所見:Hb 10.3 g/dl、MCV 119 fl と大球
性貧血を認め、ビタミン B12 は 147 ng/ml と低値
を呈していた。CEA, CA19-9 などの腫瘍マーカー
および甲状腺ホルモンは正常範囲内であった(表
1)
。
図1
術後空腹時 CT 検査
間置空腸嚢内に食物の貯留と拡張を認める。
3 考察
ビタミン B1 欠乏による症状(脚気)は古典的に
は多発性神経炎が主体の dry beriberi と高拍出性心
表1
不全・浮腫が主体の wet beriberi に分類される。長
入院時血液検査所見
期に欠乏が続くと Wernicke 脳症、さらに作話・記
画像所見:胸部 X 線:肺野に異常なし。心胸郭比
憶障害を伴った Wernicke-Korsakoff 症候群を合併
57.9%。腹部 CT:空腹時 CT 検査において、間置
することがある 2)。欠乏の原因は、①摂取不足、②
空腸内に食物の貯留を認めた(図1)。
吸収障害、③運動・発熱・妊娠などによる代謝亢進
臨床経過:初診時、ビタミン B12 欠乏による大
や、高カロリー輸液・アルコール摂取によるビタミ
球性貧血を認めたためビタミン B12 製剤を筋注投
ン B1 の消費増大、④内分泌疾患・悪性腫瘍などで
与した。3 週間後には倦怠感、易疲労感は消失し、
ある 3, 4)。しかし上記のような原因がないにも関わ
Hb は 11.4 g/dl に改善した。しかし、両側下腿浮腫
らず胃切除後にビタミン B1 欠乏による Wernicke
は改善がないため、利尿薬(フロセミド 20 mg/日)
脳症を発症しうることも報告されている 5, 6)。
Koike らは、胃切除術においては再建術式の違い
の内服投与を開始した。1週間後、両側下腿浮腫は
さらに悪化し、歩行や正座が困難になり体重は初診
58
仙台医療センター医学雑誌 Vol 5, 2015
表2
胃切除術、空腸(嚢)間置再建術後ビタミン B1 欠乏症を呈した本邦報告例
がビタミン B1 欠乏に影響していることを示唆し、
の拡張を認めた 6 例においては 2.9 年であった。ビ
胃切除後に脚気ニューロパチーを発症した 17 例
タミン B1 の体内貯蔵量は約 30 mg と他のビタミン
(アルコール常習者を除く)において空腸(嚢)間
に比べて少なく
置術は 3 例、Roux-en-Y 法は 5 例、BillrothⅠ法は
平均 7.6 年で欠乏症に至ると報告されており 3)、空
4 例、BillrothⅡ法は 4 例、その他 1 例であった 1)。
腸(嚢)間置術、特に空腸嚢の拡張が見られる症例
胃切除および胃全摘出術において空腸(嚢)間置術
では、より早期にビタミン B1 欠乏が起こる可能性
が行われる頻度が低いことを考慮すると空腸(嚢)
がある。その機序としては、間置空腸は食物の貯留
間置術は他の術式と比較してビタミン B1 欠乏を起
能が高く術後の栄養管理に優れているが 8)、胃切除
こしやすいことが述べられている 1)。
による無酸状態と、食貯留のためアルカリ環境とな
医中誌で「胃切除」
「胃全摘」
「ビタミン B1 欠乏」
をキーワードに検索(1983-2014
7)、胃切除後(再建式は問わない)
りビタミン B1 が分解されやすくなると考えられて
会議録は除く)
いる 9)。さらに間置空腸内で長時間食物貯留が認め
したところ、再建術式に空腸(嚢)間置術を選択し
られる場合、チアミン分解酵素産生菌の増殖による
た症例では、ビタミン B1 欠乏症の報告例は自験例
ビタミン B1 の分解・吸収不全が起こりやすいと言
を含めて 14 例であった(表2)
。術後、症状出現ま
われている
での期間は平均で 3.9 年、特に自験例を含め空腸嚢
でのビタミン B1 分解・吸収不全、食物貯留と無酸
59
10, 11)。自験例は、拡張した間置空腸内
胃切除後のビタミン B1 欠乏症
によるアルカリ環境が wet beriberi の1症状とし
Neural 1998;55:1242-1245
て下腿浮腫を起こしたと考えられる。ループ利尿薬
6) Koike H, Iijima M, Mori K et al. Postgas-
はビタミン B1 の尿中排泄を促進するとされている
trectomy polyneuropathy with thiamin defi-
12)
。本症例では 7 日間のループ利尿薬投与によって
ciency is identical to beriberi neuropathy.
浮腫の悪化を認め、水溶性のビタミン B1 の排泄を
Nutrition 2004;20;961-966
7) 春田英律、細谷好則、倉科憲太郎、他:噴門側
促進しさらに浮腫を進行させたと考えられる。ビタ
ミン B1 剤投与後、速やかに浮腫は改善しており、
胃切除後 6 年目に発症した脚気ニューロパチー、
欠乏の原因は胃切除再建術後のビタミン吸収障害
衝心脚気の1例 外科と代謝・栄養
であったと考えられる。
99-103
2013;47:
8) 永石彰子、田邊洋、上野正克、他:胃切除後に
4
生じた非アルコール性ペラグラの 1 例
結語
胃切除後のビタミン B1 欠乏による下腿浮腫の 1
臨床神
経学 2008;48:202-204
例を経験した。胃全摘に限らず、胃切除後は潜在的
9) 小篠洋之、石橋生哉、今泉拓也、他:胃全摘後
なビタミン B1 欠乏を念頭に置いて経過観察するこ
患者への末梢静脈栄養により顕在化した乳酸ア
とが重要であり、更に胃全摘および胃亜全摘術に空
シドーシスの 1 例
腸間置再建術を施行した症例、特に空腸嚢の拡張し
2008;69:761-766
日本臨床外科学会雑誌
た症例において下腿浮腫や末梢神経炎、Wernicke
10) 岩瀬和裕、桧垣淳、尹亨彦、他:胃切除後早期
脳症を疑う所見を認めた場合には、ビタミン B1 欠
に発症したビタミン B1 欠乏性代謝性アシドー
乏症を鑑別疾患として考えるべきである。
シスの 1 例
(本論文の要旨は、2014 年 2 月
61:2347-2351
第 196 回日本消
日本臨床外科学会雑誌
2000;
11) 原尾美智子、稲田高男、高山伸、他:脚気ニュ
化器病学会東北支部例会で発表した。)
ーパチーを契機に診断された胃全摘後ビタミン
5
B1 欠乏症の 2 例
文献
1) Koike H, Misu K, Hattori N et al. Postgas-
日本臨床外科学会雑誌
2004;65:2904-2907
trectomy polyneuropathy with thiamine defi-
12) 吉野鉄大、中尾英一、西川健一郎、他:極端な
ciency. J Neurosurg Psychiatry 2001;71:
偏食により湿生脚気、大球性貧血、壊血病を呈
357-462
した1症例 綜合臨牀
2) 下窪徹、吉田悦男、森田信二、他:両側足背の
浮腫を主訴に受診した脚気の 1 例
2009;58:2189-2191
13) 藤村隆、三輪晃一、木南伸一、他:胃切除後長
期経過後に発症したビタミン B1 欠乏症の 2 例
臨牀と研究
外科と代謝・栄養 1996;30:405-412
2011;88:101-103
3) 岩瀬和裕、桧垣淳、三方彰喜、他:幽門輪保存
14) 荒井元美、奈良健司、粟津望:胃全摘の数年後
胃亜全摘術後 6 カ月目に発症したビタミン B1
に亜急性発症した Wernicke 脳症の 2 例 臨床
欠乏による脚気ニューロパチーの 1 例
神経学 1997;37:1027-1029
日本消
化器外科学会誌 2000;33:191-195
15) 菊池昭夫、千田圭三、三須建郎、他:サイアミ
4) Russell RM, Suter PM:ビタミンと微量ミネラ
ン 静注 直後 に劇 的に 覚醒 レベル が改 善し た
ルの欠乏症と過剰症:ハリソン内科学 第 3 版
Wernicke-Korsakoff 症候群の 1 例
東京 メディカル・サイエンス・インターナシ
2000;52:59-63
脳神経
16) 有村公一、村井弘之、菊池仁志、他:胃切除後
ョナル pp458-459
に再発を繰り返した Wernicke 脳症の 1 例 日
5) Simomura T, Mori E, Hirono N et al. Devel-
本内科学会雑誌 2005;94:1606-1608
opment of Wernicke-Korsakoff syndrome af-
17) Sekiyama S, Takagi S, Kondo Y ;Peripheral
ter long intervals following gastrectomy. Arch
60
仙台医療センター医学雑誌 Vol 5, 2015
Neuropathy due to Thiamine Deficiency after
Inappropriate Diet and Total Gastrectomy.
Tokai J Exp Clin Med 2005;30:137-140
18) 淀井景子、高谷具史、畑勝也、他:神経疾患と
して加療中、特異な心電図変化を伴った高拍出
性心不全を発症し、確定診断に至った脚気の一
例
呼吸と循環 2010;58:331-335
19) Simada Y, Noda K, Hirayama T, et al. Wernicke Encephalopathy Developed Long After
Gastric Surgery: Report of Two Cases and
Review of the Literature Juntendo Medical
Journal 2013;59:194 -198
61