第303回平成27年9月月例会 ① 宗祇と百人一首 津久井 勤 一.はじめに 小倉百人一首は、古今伝授の継承と共に伝わってきた経緯がある。この古今伝授の先鞭をつけたの が東常縁から連歌師飯尾宗祇への古今伝授であり、同時に百人一首の講義を受け「宗祇抄」 (百人一 首の注釈書)となる。 ここでは、まず宗祇の百人一首の伝来に果たした役割について述べる。 次いで、 宗祇の生涯を概説し、 その足取りを辿ってみる。最後に、宗祇が箱根湯本で亡くなるときの宗長による「宗祇終焉記」をお 話しして締めくくりとする。 二.宗祇と百人一首 二.一 宗祇と古今伝授 宗祇は元々連歌の道を志したのであったが、四十を半ばにして二条派(後述するが、定家の子為家 の後三家に分かれ、その一つの二条家が主流になっていたが、その後断絶する。これが弟子により、 二条流として繋がって行く)の流れをくむ東常縁との交流が、和歌との関わりを深く持つようになっ ていく。 記録では、文明元(一四六九)年十月十六日、東常縁に書状「春は江戸辺(春には江戸にいること を告げた書状)」を送り、和歌についての意見を問うたのに対して、常縁から閏十月四日付の「東野 州消息」が送られてくる。これら一連の交流を通して、古今伝授へと繋がって行く。即ち、文明三 (一四七一)年正月二十八日三島で初度の古今伝授を受ける(この場所が鎌倉古道沿いの願成寺と推 定されており、宗祇三五〇遠忌(一八九三年)時の掛軸が所蔵されている)とともに、その後、郡上 八幡に草庵を持って長期滞在し、後度の古今伝授(三島説もある)を受け、この年の七月十五日受講 を終了している。これにより、八月十五日「相伝説伝授」の奥書を受け翌年五月三日「門弟之随一」 の加証奥書などをこの郡上で受けている。最終的には、翌々年四月十八日、常縁から郡上で「古今伝 授終了」の証明を受けて、古今伝授の最後になっている。その間に、常縁から「百人一首」や「伊勢 物語」の講釈を受けている。 宗祇は、京の種玉庵を拠点として、越後、山口を始めとした旅に明け暮れる。その間、連歌をその 主題におきながらも、 「古今伝授」や「伊勢物語」 、 「源氏物語」などの古典の講義を通して公家や有 力大名との繋がりを持っていたようである。 二.二 百人一首の伝来 常縁から引き継いだ「宗祇抄」が、 「古今伝授」と共に三條西実隆から細川幽斎へ、更には「御所 伝授」を通して宮廷へと引き継がれ、更には公家や連歌師へと引き継がれる中で普及していくことに なる。この意味からも宗祇の役割はその後の普及に極めて大きな貢献をしたことになる。 百人一首に関して「小倉色紙」が伝わっている。こちらは、 茶席の掛け軸として珍重されたようで、 この伝来についても常縁と宗祇が関わってくるようである。これらの小倉色紙は、十六世紀中頃から 茶会に珍重され、これを最初に用いたのが武野紹鴎と云われている。その後、種々の茶会記に小倉百 首が登場する。この小倉色紙であるが、当初は七枚程度しか知られていなかったが、十七世紀中期の 小堀遠州による「玩貨名物記」の拾遺部では二十八枚紹介されており、寛政の改革で知られる松平定 信編による図録集である「集古十種」 (寛政期後期)の中の書画編では三十三枚に増えている。現在 では五十枚が知られている。 問題は、これら色紙の真贋について未だにはっきりしていなくて、茶会に取り入れられていく中で 珍重され、贋作も増えてきた経緯がある。さらに厄介なことに、定家様の書き方で右筆や家司によっ て定家関係の文章を写したり、清書していたこともあって、人気が出ると定家様の真似をすることが 増えてきたことも背景にはある。 三.連歌師としての宗祇 宗祇は三十歳にして相国寺を離れ、最初七賢の一人宗砌に師事して連歌の道に入る。その後、専順 に師事(一四五五年)する。宗祇はこれら七賢の連歌師の人々との連歌の会を通して有力大名との出 入りが許されるようになっていく。 その後、京は「応仁の乱」 (一四六七年)の兆しもあって、 その前年に四十六歳にして京を離れ、 関東・ 東国の旅に出る。駿河の今川氏、武蔵の太田氏、白河の結城氏等と連歌の会を催している。この期間 に、常縁や宗長との出会いがあり、心敬に師事する機会を作っている。中でも、常縁との出会いが和 歌にも通じるようになるとともに「古今伝授」されることで、その後、これを武器にして「古今伝授」 することで三條西家や近衛家に出入りするようになる。 「古今伝授」ばかりでなく、 「伊勢物語」や「源 氏物語」などの講釈も行っている。本業の連歌では、摂政関白家の一条兼良邸に早くから出入りが許 され(一四六九年)ており、 室町幕府の北野連歌会所奉行にも就任し、 宗匠と呼ばれる(一四八八年)。 しかし、この地位も翌年には猪苗代兼載に譲っている。その後、兼載と共に准勅撰の「新撰菟玖波集」 を編纂(一四九五年)している。その間に、京の種玉庵を本拠として、越後に七回、山口・九州など に二回等、各地を訪れては連歌や和歌の会を催している。八十歳(一五〇〇年)にして種玉庵を離れ、 最後の住処にと越後の旅に出る。 四.宗祇終焉記 「宗祇終焉記」は宗祇の弟子宗長が書いたもので、 「宗祇臨終記(内閣文庫本) 」始めいろいろの諸 本に収録されている。定輪寺にも「駿州駿東郡桃園山定輪禅寺什宝」と書かれた定輪寺本がかつて存 在したようだが、残念ながら現在は見当たらないとのことである。 ところで、 「宗祇終焉記」は、①宗長、宗祇を越後に問う、②越後の滞在、③草津・伊香保入湯、 ④武蔵野を行く、⑤箱根湯本の終焉、⑥定輪寺に埋葬、⑦今川氏親の追悼、⑧宗長草庵の月忌、⑨兼 載箱根湯本を弔う、から成り立っている。 宗祇は当初、越後に向けて京の連歌の拠点であった種玉庵を旅立つ折(一五〇〇年)には、越後を 最後の住処と考えていたようであったが、越後の上杉家の内紛の兆しを感じ取ってこの地を離れる決 心をしていた。丁度その折に、宗長が駿河から関東を経由して越後を訪れている(一五〇一年九月初 め)。宗長は、当初宗祇に逢ってすぐ京に上ることを考えていたが、越後で病になったり、冬を迎え て大雪や地震に遭ったりしている。そうしているうちに、翌年三月中旬にいよいよ宗祇が越後を離れ て美濃に住処を替えることを思い立ち、宗長も草津に逗留した後、駿河に帰りたくその旨申し入れて、 宗祇に同行することになる。 越後を出発してから、草津・伊香保から武蔵野に入り、駿河に向け出発の途中、国府津に来たとこ ろで、寸虫(虫氣)の激しい発作のため宿を取って一夜を明かすことになる。翌日、駿河から迎えの 馬・人・輿が到着し、駿河に向けて出発する。後の所を原文で示す。 あくれば箱根山の麓、湯本と云う所に着きしに、道のほどより少し心よげにて、湯づけなどくひ、 物語うちし、まどろまれぬ。 各々心をのどめて、明日は此の山を越すべき用意をせさせて、うち休みしに、夜半過ぐるほどに、 いたく苦しげなれば、おし動かし侍れば、ただいまの夢に定家卿にあひ奉りしといひて、 「玉の緒よ 絶えねば絶えね」と云ふ歌を吟ぜられしを、聞く人、これは、式子内親王の御歌にこそと思へるに、 またこの度の千句の中に在りし前句にや、 眺むる月に立ちぞうかるゝ といふ句を沈吟して、我は付けがたし、皆々付け侍れなど、たはぶれにいひつゝ。燈火の消ゆるやう にして息も絶えぬ。干時文亀第二夷則晦日(一五〇二年七月三十日) 、八十二歳。 その後、「宗祇終焉記」には、宗祇の亡骸を定輪寺へ埋葬する様子が描かれている。箱根湯本(北 条早雲縁の早雲寺には宗祇の供養塔と句碑がある)から宗祇の遺骸を輿に入れて普通の人の様に繕っ てあしがら山を越えて定輪寺に運ばれる。八月三日の未明に門前から少し引っ込んだ所の水の流れが 清らかで、杉・梅・桜のあるところに埋葬し、宗祇の遺志に従って、一本の松を植え、垣を巡らして 七日籠っている。なお、宗祇の墓は、元々寺の北の山裾にあったが、東名高速道路が出来たがため、 一九六八年に寺の庭内に移され、今日に至っている。 五.おわりに 宗祇は連歌師として八十歳を超えて、なお旅に出ている。当時の平均年齢からみても遥かな長寿で あり、交通機関のない状況で苦難の連続であったと思う。一生を通じて戦乱の中にあり、連歌師とし て乱世の世から逃げたところで生き延びるために旅をしたのではないかと思われる。そのためには、 連歌に加え和歌や古典に通じ、 特に「古今伝授」は最も有効な武器になっていたと思われる。当初は、 これらを取得するためと、連歌宗匠への道に向かっての地固めを行い、これが達成されると、八十歳 を超えて京を離れることを決意するなど、宗祇にして思うようにならない人生の厳しさを感じずには いられない気持ちになる。 これらのことはともあれ、 「百人一首」伝来にとって、宗祇の役割が極めて大きく、 「競技かるた」 に使用している我々にとっても感謝しなければならないと思っている。 (以上) 参考文献 ①島津忠夫「連歌師宗祇」岩波書店 ( 一九九一 ) ②藤原正義「宗祇序説」風間書房 ( 一九八四 ) ③吉海直人「小倉色紙の成立と流転」歴史読本 ( 二〇〇一―五 ) ④井上宗雄・島津忠夫編「東常縁」和泉書院 ( 一九九四 ) ⑤横井金男「古今伝授沿革史論」穂積出版 ( 一九四二 ) ⑥吉田幸一編「影印本百人一首抄 ( 宗祇抄 )」笠間書院 ( 一九八五 ) ⑦吉海直人「百人一首への招待」ちくま新書、筑摩書房 ( 一九九八 ) ⑧吉田幸一「百人一首 為家本・尊円親王本考」笠間書院 ( 一九九九 ) ⑨金子金治郎「連歌師宗祇の実像」角川書店 ( 一九九九 ) ⑩吉備町ホームページ「宗祇」 ⑪裾野市宗祇法師遺跡保存会「宗祇保百年祭記念事業案内」( 二〇〇〇 ) ⑫駿河古文書会原点シリーズ「宗祇終焉記 ( 戸田本 )」 、 「宗祇終焉記 ( 内閣文庫本 )」駿河古文書会 ( 一九七五 ) ⑬金子金治郎「宗祇と箱根」神奈川新聞社 ( 一九九三 ) ⑭裾野市宗祇法師遺跡保存会「会報 宗祇桜 第二号」( 一九九九 ) ⑮木島泉「宗祇桜のこと」郡上史談第六十七号 ( 一九八九 ) ほか ⑯金子徳彦「宗祇屋敷」 、 「宗祇柿」等の私信 ( 二〇〇一 ) ⑰京都大学付属図書館ホームページ「公開展示会 連歌の世界」( 二〇〇〇 ) ⑱井上宗雄「中世歌壇史の研究 室町前記」風間書房 ( 一九八四 ) ⑲和歌文学会編「和歌研究史」和歌文学講座十二、桜楓社 ( 一九八四 ) ⑳犬養廉・井上宗雄ほか編「和歌大辞典」明治書院 ( 一九八五 )
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