序章 汚染とリスクを制御する … 岸本充生・大沼あゆみ 環境汚染制御

目 次
刊行にあたって
序章 汚染とリスクを制御する … 岸本充生・大沼あゆみ
1
第 1 章 環境汚染制御における
リスク・アプローチの展開
13
14
1.1 リスク・アプローチ導入の背景
19
1.2 安全を確保すること
22
1.3 リスク・アプローチの展開
1.4 統合する視点
…………… 岸本充生
28
第 2 章 健康影響の定量化と汚染対策の
費用便益評価
…………………………………… 柘植隆宏
36
2.1 汚染対策の費用便益分析
2.2 統計的生命価値(VSL)
38
42
2.3 微小な死亡リスクの削減に対する WTP の推計
2.4 費用効果分析
35
47
第 3 章 環境汚染と被害者救済 …………………… 除本理史
3.1 戦後日本の公害経験と被害者救済の原則
58
3.2 責任と費用負担ИЙ大気汚染公害を事例として
3.3 原発事故における被害者救済
63
70
第 4 章 汚染制御とインセンティブ政策 …… 松 本 茂
4.1 インセンティブ政策とは
57
79
80
4.2 どの様に政策を機能させるのかИЙ理論的考察
4.3 成功している政策はИЙ活用事例
82
90
vii
95
4.4 政策導入に際しての課題
第 5 章 越境汚染制御の理論と政策 …………… 藤田敏之
102
5.1 越境汚染の代表的事例
105
5.2 ゲーム理論で解く問題の原因
109
5.3 国際環境協定の有効性
115
5.4 新しい解決策の提案
第 6 章 環境政策の推進と訴訟 ………………… 大久保規子
121
122
6.1 公害環境訴訟の機能と類型
126
6.2 訴訟の歴史的展開
6.3 新たな訴訟展開
101
128
第 7 章 大震災と原発事故による汚染と
新たな課題 …………………………………………
7.1 各種の災害や事故に誘発された汚染
7.2 東日本大震災にみる実情
8.1 化学物質のリスクとその制御
166
8.2 公害問題への対処と法規制の導入
リーディング・リスト
索 引
viii
191
184
187
165
160
第 8 章 化学物質管理政策の発展と展望 ……
8.4 将来に向けて
信一
144
153
7.4 防災・安全対策と環境政策の統合へ
176
143
147
7.3 福島原発事故に伴う放射能汚染
8.3 現在の課題と取組み
寺西俊一
167
序章 汚染とリスクを制御する
岸本充生・大沼あゆみ
公害から環境問題へ
日本は戦後の高度経済成長時代に激烈な公害を経験した.健康被害が発生し
てからの対応を迫られたことから,汚染の被害をいかに減らすか,汚染の責任
は誰にあるのか,被害者をいかに救済・補償するか,という点が当初の課題で
あった.1967 年に公害対策基本法が制定され,1970 年のいわゆる「公害国会」
前後に,大気汚染防止法や水質汚濁防止法など各種環境法が整備されたことも
あり,その後の汚染対策は被害の未然防止に向かうことになった.1973 年施
行の「化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律 (化審法)の成立は未然
防止に舵が切られた象徴的な立法であった.
今日の環境経済・政策学は環境汚染問題への取り組みを通じて生み出された
といっても過言ではない.初期の環境経済学では,環境汚染対策として,排出
基準値の策定と執行といった,いわゆる直接規制に対して,市場メカニズムを
利用した環境税や課徴金制度の有効性を探るアプローチから始まった.その後,
排出権取引といったアプローチも提案されるようになった.また,事前の対策
費用と事後の汚染費用の合計が最も小さくなる「最適汚染レベル」という概念
も提案された.
しかし,これまでの歴史を振り返ってみると,経済学的な提案はあまり採用
されていないことが分かる.また,汚染とリスクを制御するための政策の根拠
となるエビデンス,すなわちリスク評価や経済評価,あるいは社会経済分析に
対する政治家,行政機関,国民それぞれの関心は低いままであった.1 つは,
激甚な公害とその対応に追われたために,ある意味悠長な評価などしている余
1
裕がなかったことが挙げられるだろう.もう 1 つは 1970 年の公害国会におい
て当時の公害対策基本法から経済調和条項が削除されて以来,環境や安全の議
論を行う際に,費用の話をすることがタブー視されてきたことも挙げられるだ
ろう.
本巻のタイトルである「汚染とリスクを制御する」には,事後対策,すなわ
ちすでに起こってしまった汚染をどう制御し,被害を算定し補償するか,と同
時に,事前対策,すなわちまだ起こっていない段階でリスクをどのように評価
し管理するか,の双方の意味が込められている.歴史的に見れば,被害が出て
から対策が行われた時代から,被害を未然に防止する予防的なアプローチへと
大きく変わってきた.ただし,今日においても,過去の汚染の被害は継続して
おり,東日本大震災といった新たな被害も生じ,アスベスト被害のように将来
にわたってこれから生じるであろう被害も抱えている.そのため,事前の評価
とそれに基づく管理,そして事後的な管理のすべてが同時並行で求められてい
るのが今日の状況であるといえる.以下に,大気,水質,土壌についてのこれ
までの取り組みを整理したのち,事前評価,事前管理,そして事後対応に分け
て概観しよう.
大気・水質・土壌汚染対策の展開
大気汚染防止法」は,1962 年に制定された「ばい煙の排出の規制等に関す
る法律」を改正する形で,1968 年に制定された.1960 年代には,四日市市の
石油コンビナートによる硫黄酸化物汚染が顕在化した.1970 年の改正では都
道府県による上乗せ規制が認められ,1972 年には無過失責任に基づく損害賠
償の規定が導入された.日本全国に道路網が整備され,自動車交通が増えると,
自動車排出ガスに含まれる窒素酸化物や粒子状物質による大気汚染,またこれ
らを原因として大気中で二次生成するオキシダント(オゾン)による光化学スモ
ッグが多発した.自動車の排出ガス規制は,自動車走行量が増加し続けるなか
で,単体対策だけでは十分な効果が見込めなかったために 1981 年には総量規
制が導入された.伝統的な汚染物質に加えて,1996 年の改正では大気中に微
量に存在する有害大気汚染物質,続いて 2004 年の改正では揮発性有機化合物
(VOC)への取り組みが始まった.
2
序章 汚染とリスクを制御する
水質汚濁は,明治時代の足尾銅山から排出された鉱毒水による渡良瀬川の汚
染,富山県の神通川下流域で発生したイタイイタイ病や,熊本県の水俣湾の魚
介類経由で発生した水俣病といった形で早くから顕在化した.これらは公害の
原点ともいえる.「水質汚濁防止法」は,「公共用水域の水質の保全に関する法
律」と「工場排水等の規制に関する法律」を改正する形で,1970 年に制定さ
れ翌年施行された.地方自治体が条例による上乗せ排水基準を設定することも
盛り込まれた.1972 年の改正では,無過失責任が規定された.1978 年には水
質汚濁防止法及び「瀬戸内海環境保全特別措置法」の改正により,広域的な閉
鎖性海域である東京湾,伊勢湾,瀬戸内海の 3 海域を対象に,化学的酸素要求
量(COD)を指標とした水質総量削減制度が導入された.その後,窒素及びりん
が指標に追加された.環境基準値は人の健康の保護の観点からのものと,生活
環境の保全の観点からのものが設定されている.前者については多くは水道水
質基準がそのまま適用されている.1997 年には地下水の汚染に係る環境基準
が,2003 年には水生生物保全に係る環境基準が設定された.
土壌汚染対策は「農用地の土壌の汚染防止等に関する法律」が 1970 年に制
定されたのを皮切りに始まった.法律が指定する特定有害物質は,カドミウム,
銅,ヒ素である.その後,都市部における土壌汚染が問題になり,2003 年に
は「土壌汚染対策法」が施行された.ただし,土壌汚染対策法は,土壌汚染の
未然防止を目指すものではなく,すでに発生した土壌汚染に対処するためのも
のである.法律では 25 種類の「特定有害物質」に対して,すべての物質に地
下水環境基準と同じ値の土壌溶出量基準(mg/L)が,地表付近に存在し直接摂
取の可能性がある重金属等には土壌含有量基準(mg/kg)も設定されている.同
法の第 3∼5 条による土壌汚染状況調査の結果,基準値を超過している場合は
要措置区域に指定され,汚染の除去が義務付けられることになった.土壌汚染
対策法は 2010 年に改正され,基準値を超過した場合でも,健康被害のおそれ
が無い場合は,要措置区域ではなく形質変更時要届出区域とされ,形質を変更
するまでは現状のままで土地を管理できることになった.リスク・アプローチ
の導入である.健康被害シナリオは,地下水等を経由して摂取するケースと,
経口や経皮により直接摂取するケースが想定されている.
3
リスク評価の確立
戦後すぐの時期,毒物や劇物による他殺や自殺が相次いだことから,1950
年に「毒物及び劇物取締法」が施行された.この法律では,LD50(ラットなど
を使った毒性試験で半数が死亡する濃度)の大きさ,すなわち急性毒性の強さによ
って物質が規制された.しかし当時はまだ慢性毒性,すなわち微量であるが長
期間摂取することによって健康被害が出る,また摂取から被害の発生までに時
間がかかるような長期毒性の存在はあまり知られていなかった.1968 年に発
生したカネミ油症事件などを契機に,ポリ塩化ビフェニル(PCB)などがこれま
でとは違った毒性,すなわち難分解性,高蓄積性,長期毒性を併せ持つことが
明らかになり,1973 年に化審法が成立した.化審法では,当初は PCB に似た
性質を持つ化学物質のみを規制の対象としていた.汚染物質の有害性,すなわ
ち発がん性や生殖毒性といった特徴は「ハザード」と呼ばれる.1 単位あたり
の毒性の強さ,すなわちハザードの大きさは,LD50 の大きさで比較されるこ
とが多いがこれは急性毒性の指標である.
1980 年代以降,汚染制御技術や微量化学物質の分析技術が発達するにつれ
て,どこまで汚染を減らせば「安全」とみなせるのか,という問題が生じてき
た.つまり,やろうと思えば膨大な費用をかけて汚染は限りなくゼロに近づけ
ることができる.しかし,それでは通常の企業活動や日常生活は困難になるし,
他のより深刻な汚染を放置することにもつながる.そこで,リスク概念を用い
た新しいアプローチが導入されることになった.化学物質管理においては,リ
スクの大きさはその物質の持つ有害性の大きさ(ハザード)とその物質への曝露
量(摂取量)の 2 つの要素から決まる.リスク概念を用いるというのは,すなわ
ち,ハザードだけではなく,曝露量や摂取量を加味したリスクの大きさに応じ
て対策や規制を変えるというアプローチである.ハザードが大きな化学物質で
も,その摂取量がごくわずかであればリスクは小さいと判断される.逆に,ハ
ザードが小さくても,大量に曝露すればリスクは大きいと判断される.リスク
概念は,安全と危険の間を連続的なものとみなすことにその特徴がある.リス
ク評価の主要な要素技術は有害性評価と曝露評価である.有害性評価は,動物
試験やヒト疫学調査などの結果を用いて,発がん性や生殖毒性といった有害性
4
序章 汚染とリスクを制御する
の種類を特定する部分と,摂取量とそれらハザードによる発症確率の間の関係,
すなわち用量反応関係を推定する部分からなる.曝露評価は,個人や集団がど
れくらい当該物質を摂取しているかを見積もるプロセスであり,排出量をベー
スにシミュレーションにより推計するやり方と,環境中濃度や各種バイオマー
カー(血中濃度や毛髪中濃度)の実測値から予測するやり方がある.両者を合わせ
て,リスクの懸念の程度を判断する部分はリスク・キャラクタリゼーションと
呼ばれる.
環境基準値と遵守費用
リスク評価の結果を受けて,リスク管理が行われる.前者は科学的なプロセ
スであり,後者は政策判断であるため,両者は連携しつつも,機能的にはっき
り区別されなければならない.リスク管理の 1 つの方法は基準値を策定し,そ
5 (直径
れを遵守させることである (村上他,2014) .日本では 2009 年には PM2▆
2▆
5 マイクロメートル以下の微小粒子状物質)の大気環境基準値が設定された.大気
環境基準値は 1970 年前後に,二酸化硫黄,一酸化炭素,浮遊粒子状物質
(SPM),二酸化窒素,光化学オキシダントの 5 物質について設定されてから,
1970 年代に 2 回改訂された以外は一度も変わっていない.新設あるいは改訂
のための標準化された手続きが策定されなかったために,PM2▆
5 の基準値の
設定には 10 年の歳月を要した.米国の大気清浄法では,伝統的大気汚染物質
について,5 年ごとに最新の科学的知見を収集・分析し,現行の基準値の妥当
性を評価することが義務付けられている.しばしばスケジュールに遅れて,環
境保護団体から訴えられ裁判所から期限を命じられることがあるものの,定期
的に最新の知見を反映する仕組みが機能している.例えばオゾン(光化学オキシ
ダント)の場合,最初は 1971 年に総光化学オキシダントとして 0▆
08 ppm(1 時間
平
値,1 年に 1 回以下) が定められた.1977 年の大気清浄法改正により 5 年ご
との見直しが義務付けられてからは,1979 年に対象がオゾンとなるとともに
基準値が 0▆
12 ppm(1 時間平 値,超過は 1 年に 1 回以下)となった.1993 年には
見直し作業を行ったうえで,改訂の必要はないとの結論になった.1997 年に
は平
化時間が 1 時間値から 8 時間値に変更になり,レベルも 0▆
08 ppm(4 番
目に高い値の 3 年間平
がこれを超えない)となった.2008 年には有効数字が 1 桁
5
下がり,レベルが 0▆
075 ppm (4 番目に高い値の 3 年間平 がこれを超えない) に強
化された.また,米国では 1981 年以来,規制の策定の際には,規制影響評価
の実施が義務付けられているため,環境基準値の新設や改訂の際には必ず,複
数の代替案を対象とした費用と便益の推計が公表される.上記のオゾンの基準
値の例でも毎回複数の基準値案について詳細な費用便益分析が公表される.と
ころが,大気清浄法の中の「十分な安全マージン(adequate margin of safety)を
とって」という文言が,健康リスクのみに基づき,技術的可能性や対策費用を
考慮してはならないと裁判所によって解釈されたため,環境基準値を決定する
際には,規制影響評価において推計された遵守費用に関する情報を無視しなけ
ればならないことになっている.しかし近年,大規模集団を対象とした疫学調
査において,コホート追跡期間が延びるに従い,PM2▆
5 やオゾンの大気中濃
度と健康影響の間の相関関係が,現行の環境基準値を大きく下回る値でも統計
, 2012).裁判所の解釈に従うな
的有意差を示すようになってきた(Lepeule et al▆
らば,環境基準値はどんどん厳しく改訂されなければならないことになるが,
それは人為的発生源からの排出をゼロにしても達成が困難なレベルであるとい
うジレンマに直面している.
日本における環境基準値は,環境基本法第 16 条において,「政府は,……人
の健康を保護し,及び生活環境を保全する上で維持されることが望ましい基準
を定めるものとする」と書かれているように,あくまでも「維持されることが
望ましい基準」であり,規制値ではないため,規制影響評価の対象外である.
そのため,10 年がかりで PM2▆
5 の基準値が提案された際にも,その達成に必
要な遵守費用は推計されなかったし,複数の代替案の比較検討がなされること
もなかった.また,光化学スモッグの原因であるオキシダント(計測の実態はオ
ゾンである)の環境基準値の達成割合は日本全国で近年ほぼゼロパーセントであ
る.その理由の 1 つに,例外をまったく認めていない基準値であることが挙げ
られる.欧米ではオゾンの環境基準値は年に数度の超過を許容した形になって
いる.日本の実際の環境行政では環境基準値の 2 倍の値である「注意報レベ
ル」を目標に運用されている.このような制度と実態の間のギャップが存在し
ているにもかかわらず,光化学オキシダント(オゾン)の大気環境基準値は 1973
年に 0▆
06 ppm(1 時間平 値)という値が設定されて以来,一度も見直されてい
6
序章 汚染とリスクを制御する
ない.
事前管理の手法
環境汚染の制御の方法の多くは,「コマンド&コントロール」と呼ばれる,
法規制を通した命令と監視による.これは,化審法のような製造・輸入の禁止
や数量の届出といったものから,先に挙げた各種基準値の設定まで様々な方法
がある.これらのような「第一の方法」に対して,経済学者からは,環境税,
課徴金,補助金,デポジットリファンド制度,排出権取引制度といった経済的
インセンティブを利用した方法が提案されてきた.また,法と経済学の分野で
は,権利の初期配分や責任ルールの設定の重要性が指摘された.しかし,これ
らの「第二の方法」が実際の政策に適用された例はまだ少ない.
法規制や経済的インセンティブはそれらが政策として導入されるためには,
しっかりした根拠が必要となる.公害時代のような激甚な汚染や,特定の化学
物質による顕著なリスクはほとんど制御され,近年の汚染問題の特徴は,1 つ
1 つについては,リスクはそれほど大きくない,あるいは,リスクの大きさが
よく分かっていない数多くの化学物質にどう対応するか,また,それらの複合
影響や未知の健康リスクの可能性といった,不確実性を特徴とする.こうした
場合には,法規制や経済的インセンティブを導入するほどの根拠が示せないこ
とから,事業者や消費者による自主的な取り組みに期待することになる.自主
的な取り組みを機能させるには,人々や事業者の行動変容をどのように促すか
という課題に直面する.これは地球温暖化の主要な原因物質である二酸化炭素
の排出抑制についても当てはまる.近年,このような課題への「第三の方法」
として,行動経済学的手法(「ナッジ」とも呼ばれる)の適用の検討が,環境,安
全,健康の分野においても始まっている(Thaler and Sunstein, 2008).サンステ
ィーンは 10 種類のナッジの方法を挙げている(Sunstein, 2014).「汚染やリスク
を制御する」ために利用可能な仕組みもいくつかある.実際,過去の取り組み
もナッジの一種であったと解釈できなくはない.例えば,2000 年前後に二期
にわたって実施された有害大気汚染物質の自主管理計画は,そのうちの「社会
的規範の利用 (uses of social norms) と「事前約束戦略 (precommitment strategies) を組み合わせたものと言える.有害大気汚染物質の自主管理計画は,12
7
の発がん性物質について,5 年間の排出削減量を事業者団体ごとに事前に宣言
して,目標達成に向け毎年進
状況を経済産業省と環境省の審議会がチェック
&レビューするという枠組みであった.事業者団体の排出削減目標値は通常,
参加事業者ごとの目標値を積み上げる形で決められた.その際に,例えば同
業者の間で 30⑫ 削減といった規範が暗黙に形成されていた.これらに,「開
示 (disclosure) が組み合わされると排出削減圧力はより強力になる.「特定化
学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律 (化管法)
の 1 つの柱は PRTR 制度である.PRTR 制度では,事業者は,個別事業所ご
とに 354 種類(2010 年度からは 462 種類)の化学物質の環境への排出量・移動量を
把握し,都道府県経由で国(事業所管大臣)に届け出ることになっている.情報
開示されることがプレッシャーとなり,制度開始当初は排出削減が急速に進ん
だ.これらは,行動経済学的アプローチが提唱される以前の制度であるので,
「第三の方法」として意識的に導入されたものではなかった.イギリスでは
2010 年にキャメロン首相が内閣府に通称「ナッジ・ユニット」を設置した
(Halpern, 2015).ここでは公衆衛生分野を始めとして様々なテーマを対象に社
会実験が行われている.今後,環境リスク分野においても適用事例が出てくる
だろう.
事後対応の手法
日本の環境政策は公害裁判が後押ししてきた.例えば大気汚染裁判では行政
判断よりも早く,「悪玉」対象物質が,二酸化硫黄から二酸化窒素,そして浮
遊粒子状物質に代わった.近年,ディーゼル排気や PM2▆
5 が注目されるよう
になったが,2007 年に和解が成立した東京大気汚染公害訴訟の和解条項の中
5 対策について 環境基準の設定も含めて対応について検討す
に「 環境省は PM2▆
る」との文言が入ったことも影響力を持った.環境汚染の被害推定や被害救済
は,正義や弱者救済という価値観が先行するために学問的な検討は比較的少な
かった.司法的な解決は,過失の有無や因果関係の有無,すなわちその責任の
所在を明らかにすることが焦点になるため,事故・事件の真の原因を探り再発
防止につなげるという観点がかならずしも前面には出てこない.これは,航空
機事故,産業事故,消費者事故等においてしばしば,重要な証拠を警察が捜査
8
序章 汚染とリスクを制御する
のために押さえてしまい,事故調査委員会による原因調査と再発防止策の検討
の妨げになるのと同様である.東日本大震災でも,人々やマスメディアの関心
はもっぱら「誰が悪いか」であり,「再発を防止するためにどうすればよいか」
といった視点への関心は低くなりがちである.東京電力福島第一原発の国会事
故調の報告書では,事故を人災であるととらえるとともに,事故発生の背景要
因として「規制の虜 (regulatory capture)の存在が指摘された(国会事故調,2012).
規制機関が規制を受ける側の「虜」になってしまうことを防止するために,原
子力発電所の規制権限が経済産業省原子力安全・保安院から,新設の独立性の
高い原子力規制委員会に移された.しかし,原子力発電以外の分野については,
「規制の虜」の有無や程度などの調査が実施されることはなかった.
被害者を救済すべきという総論については反対する人はいないだろう.しか
し何をもって「被害」とみなし,どういう条件が
うと「被害者」であるのか,
といった各論になると必ず意見が分かれる.1 つは特異的疾患と非特異的疾患
の問題がある.特異的疾患とは,原因となる汚染物質と当該疾患の間に 1 対 1
の因果関係があり,その物質への曝露がなければその疾患が起こりえない疾患
を指す.逆に,非特異的疾患は,ある汚染物質への曝露によって発症する可能
性はあるものの,他の要因によっても発症するような疾患である.前者の場合
は,その症状が見られれば,特定の汚染物質が原因であることが容易に想定さ
れるのに対して,後者の場合は,原因は確定されない.アスベストへの曝露の
場合でいうと,悪性中皮腫は特異的疾患とみなすことができるのに対して,肺
がんは非特異的疾患ということになる.非特異的疾患の場合,それが汚染物質
曝露の「被害」であるのかどうかの判断は格段に難しくなる.また,精神的被
害も被害に含めるべきかどうかという問題がある.身体的被害が出るかどうか
分からないが汚染物質に曝露してしまったことでその不安が生じたことは被害
とみなすことができるだろうか.さらには,曝露してしまったかもしれないが
それが確実ではない場合はどうだろうか.
このように,特定の汚染物質に対する曝露でさえ,発生する被害との因果関
係に対して正確な判断を直ちに下すことができない側面を抱えている.その意
味で,あらゆる汚染被害に対して被害の原因とその大きさを判断できるような
基準を構築することはきわめて困難であり,多くの事後対応において救済に時
9
間を要する理由となっている.したがって,起こってしまった被害に対して,
迅速に救済を実現する合意できる枠組みを工夫し確立していくことが今後の課
題である.
本書の範囲と課題
本書は環境汚染問題について事前評価,事前対策,事後対策に分けて,経済
学的な側面と法律的な側面の両面からアプローチした.
第 1 章では,環境汚染対策にリスク・アプローチが導入された背景と,その
具体的なテーマとして,自主的取り組みの活用,リスク・トレードオフ解析,
規制影響評価制度,社会経済分析,リスク・ガバナンスの考え方,レギュラト
リー・サイエンス概念を解説している.
第 2 章では,環境汚染対策の効率性を評価するための分析手法として,費用
便益分析及び費用効果分析の方法を解説するとともに,死亡や疾病の削減便益
の定量化手法としての統計的生命価値や質調整生存年数を説明している.
第 3 章では,事後対策,すなわち被害補償や原状回復など,被害発生後にと
られる対策に焦点をあわせて,公害訴訟の解決を通じて形成されてきた被害者
救済の原則や救済制度を紹介しつつ,東日本大震災後にも生じた残された課題
を明らかにしている.
第 4 章では,環境規制が意図した効果を生むためには人々のインセンティブ
を考慮して制度設計しなければならないことを,様々な事例を紹介しながら解
説するとともに,インセンティブを利用する際の課題や研究展望もあわせてま
とめている.
第 5 章では,国家を超える汚染,すなわち越境汚染問題を対象に,欧州やア
ジアでの事例を紹介し,越境汚染が生じるメカニズムと対策をゲーム理論の枠
組みで解説し,いくつかの解決策の有効性や,現実の政策への示唆について明
らかにしている.
第 6 章では,公害環境訴訟の機能と類型を整理し,日本における到達点と課
題を明らかにしたのち,自己の権利利益の侵害以外に,環境そのものの保護や
不特定多数の人の環境利益の保護を目的とする環境公益訴訟の必要性について
論じている.
10
序章 汚染とリスクを制御する
第 7 章では,東日本大震災による津波の大気,水,土壌,廃棄物への影響,
及び福島第一原子力発電所事故による放射能の人々の健康,生活,産業,自然
生態系への影響を概説し,今,防災と環境政策の統合が求められていることを
指摘している.
第 8 章では,化学物質管理政策について,国際的な動向を概観しつつ,日本
における政策の経緯を振り返るとともに,市民参加や産業界との協働の動きな
どを紹介しながら今後の化学物質管理のあり方について考察している.
こうした包括的な議論を通じて,汚染とリスクの制御において,個々の問題
の出発点を振り返るとともに,その到達点と課題を明らかにすることで,今後
の汚染・リスク制御政策をどのように発展させていけばよいのか,より効果的
に議論することができるだろう.
文献
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原子力発電所事故調査委員会調査報告書』徳間書店.
村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生(2014) 基準値のからくりИЙ安全はこうして
数字になった』講談社ブルーバックス.
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Difference, London▂WH Allen.
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, F. Laden, D. Dockery, and J. Schwartz (2012), Chronic exposure to
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Thaler, R. H. and C. R. Sunstein (2008), Nudge: Improving Decisions about Health,
Wealth, and Happiness, New Haven▂Yale University Press(遠藤真美訳『実践行動経
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11