物質の色と構造について( ) ― 振動電子遷移 ― - J

日本画像学会誌 第 44巻 第6号(2005)
514
教育講座
物質の色と構造について( )
― 振動電子遷移 ―
水口
仁
Correlation between color and constitution as viewed from molecular spectroscopy (Ⅲ)
―Vibronic transition―
Jin MIZUGUCHI
既に学んだ .
1. は じ め に
=
これまでに「電子遷移」(第 1回) と「振動遷移と回転遷
移」(第 2回) を取り扱い,今回の「振動電子遷移(vibronic
transition)」は 3回シリーズの最終回である. 子の全エネル
ギーは電子エネルギー,振動エネルギー,回転エネルギーの和
として表わされ,それぞれの遷移が紫外・可視域,赤外域,マ
イクロ波領域に現れることを学んだ.さらに,電子遷移,振動
+
に,2原子
+
(1)
子では
,
は近似的に以下のように書か
れることも述べた .
= ν +1 2
:振動の量子数
(2)
ν:振動数
1
ν=
2π
遷移,回転遷移の間にはカップリング(coupling:結合)が存
( :ばね定数, :質量)
在し,電子遷移が起こるときには振動遷移や回転遷移も伴うこ
=
とを説明した.今回の「振動電子遷移(vibrational-electronic
」では電子遷移
transition,あるいは単に vibronic transition)
と振動遷移のカップリングを基礎に,実際の溶液スペクトル
(
子スペクトル)や固体スペクトルの電子構造を理解するこ
とを目的とする.
2.
8π
+1
:回転の量子数
(3)
:慣性モーメント
Fig. 1は基底状態ならびに第 1励起状態における電子エネル
ギー,振動エネルギー,回転エネルギーを示す.図の左側は電
子状態を電子の量子数 =1と =2で区別し,各々の電子準
位の上にのる振動準位(量子数 )ならびに回転準位(量子数
)を右側に拡大して示した.基底状態から第 1励起状態への
子のエネルギー準位
子スペクトルは帯スペクトル(バンドスペクトル)と呼ば
れ,可視域にいくつかのピーク,あるいは単に 1本のブロード
な吸収帯として出現することが多い.これらのスペクトルの形
電 子 の 遷 移 エ ネ ル ギ ー は 室 温 の 熱 エ ネ ル ギ ー(
eV)を単位とすると,約 100
ネルギーは 5
=0.025
程度である.さらに,振動エ
,また回転エネルギーは 1 100
程度であ
状やバンドの数を説明するには電子遷移,振動遷移,回転遷移
の間のカップリング(coupling)について理解する必要があ
る.電子遷移は可視域で起こることから,エネルギー的に離れ
た赤外線領域の振動遷移やマイクロ波領域の回転遷移とは関係
しないように思われる.しかし,電子遷移が起こるときに振動
遷移や回転遷移が同時に起ることが多い.これがカップリング
現象である.まず,電子遷移,振動遷移,回転遷移のエネルギ
ー図を描いて見よう.
子の全エネルギーを
動遷移のエネルギーを
わすと,
,電子の遷移エネルギーを
,回転遷移のエネルギーを
,振
で表
子の全エネルギーはこれらの和で表わされることを
横浜国立大学大学院工学研究院
〒 240-8501 横浜市保土ヶ谷区常盤台 79-5
Department of Applied Physics, Yokohama National University
79-5 Tokiwadai, Hodogaya-ku, 240-8501 Yokohama, Japan
mizu-j@ynu.ac.jp
(108)
Fig. 1 基底状態ならびに第 1励起状態における電子エネルギ
ー,振動エネルギー,回転エネルギー.
は室温の熱
エネルギーで約 0.025eV. , , はそれぞれ電子,
振動,回転の量子数である.
水口:物質の色と構造について(Ⅲ)―振動電子遷移―
る.これらのエネルギー値の大枠を頭に入れておくことは重要
エネルギー(
である.振動ならびに回転エネルギーは原子の運動に起因する
が基底状態と
ものであるから,式(2),(3)からも
かるように振動エネル
515
=0.025eV)に比べて大きいので =1, =0
えてよい.
4. 振動電子遷移スペクトルの形状
ギーでは質量の平方根に反比例し,回転エネルギーでは質量に
反比例する小さな量である.通常の振動遷移や回転遷移は電子
スペクトルの形状は基底状態と励起状態のポテンシャルの相
の基底状態( =1)の上にのっているエネルギー準位の間で
対的な位置関係に大きく依存する.Fig. 3に基底状態と励起状
おこる(Fig.1)
.赤外線吸収スペクトルやマイクロ波スペク
態のポテンシャル図を示す.縦軸は 子エネルギーで,横軸は
トルはこのようなエネルギー配置を持つ
子が電磁波を吸収す
原子間距離である.各々のポテンシャル曲線の上に振動準位と
子内では電子遷移に基づき電子は donor 的な場所
振動波動関数を描いてある.振動電子遷移が起こるか否かは基
から, acceptor 的な場所に移動する.さらに,電子遷移ば
底状態と励起状態の振動波動関数の重なりが重要である.振動
かりでなく 子振動や
電子遷移の遷移確率を
ると,
子回転も誘起される.従って, 子は
電磁波により,大きな擾乱を受けるので,「
状態になる」ことを意味する.
子内が騒然たる
子にとって静かな状態から,
突如として 子内で“地震”が起こるわけだから,
子にとっ
てはかなり不幸な状態であると言えよう.
電子の波動関数
とし,基底状態の全波動関数
と振動の波動関数
す.同様に励起状態の全波動関数
振動の波動関数 ′の積
の積
=
を
で表
を電子の波動関数 ′と
= ′′で表すと双極子遷移の遷移
確率は以下の式で表される.ここに
は双極子モーメントで
ある.
3. 振動電子遷移
=
子がマイクロ波を吸収して自由に回転出来るのは気体状態
に限られるので,通常の溶液状態や固体状態では回転遷移が起
=
=
′′
′
′
(4)
こらず電子遷移と振動遷移がカップリングした振動電子遷移
(4)式より,振動電子遷移の遷移確率は(振動遷移を伴わな
(vibronic transition)のみが観測される.また,電子遷移が
い)純粋な電子の遷移確率と基底状態と励起状態の振動波動関
どのような振動遷移と結合(coupling)するかについての制約
(選択律)はないから,何本もの結合状態が出現し,
数の「重なり積 」の積で与えられる.この「重なり積
」の
子スペ
程度が振動電子遷移の強度を決めることになる.難しい言い方
クトルは宿命的にブロードとなる.簡略のために,Fig.1から
をすれば,基底状態と励起状態の振動波動関数の既約表現の直
回転準位を省いた Fig. 2で振動電子遷移の実際を見てみよう.
積が全対称表現を含めば許容遷移となる.
0-0 transition(0-0遷移)は =1, =0の基底状態から =
電子遷移は通常「Franck-Condon 原理」として知られる断
2, ′
=0への遷移であり,振動の量子数は共にゼロである.
熱ポテンシャル近似で記述される.この近似は電子の遷移は原
このように電子の基底状態における振動の量子数が“0”の状
子の振動(回転)に比べて十 に速く,原子は固定された状態
態から,励起状態の振動量子数が“0”である遷移を 0-0遷移
で電子遷移が起こるという原理である.Fig.3の左に示した基
と記述する.この遷移は振動遷移を伴わない純粋な電子遷移で
底状態と励起状態のポテンシャル曲線の極小点は一致してい
ある.これに対し,0-1 transition(0-1遷移)は =1, =0
る.このことは 子が電磁波を吸収した励起状態でも
子構造
から =2, ′
=1への遷移を意味し,電子遷移ばかりでなく
振動遷移も同時に起こっている.0-2,0-3遷移も同様である.
温度が高い場合には =1, =1から遷移が起こることもある
が,Fig.1に示した振動遷移のエネルギー(∼5
)は室温の
Fig. 2 基底状態ならびに第 1励起状態における電子エネルギ
ーと振動エネルギー. , はそれぞれ電子ならびに振
動の量子数を示す.
Fig. 3 基底状態と励起状態のポテンシャル曲線とスペクトル
形状.
(109 )
日本画像学会誌 第 44巻 第6号(2005)
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(b)
(a)
Fig. 4 溶液スペクトルとプログレッション(溶媒:DMSO):(a)ペリレン(b)アザペリレン.
(b)
(a)
Fig. 5 様々なスペクトル形状:(a)DPP,M M -DPP,DM-DPP の構造と(b)溶液スペクトル(溶媒:DMSO).
の変化が小さいことを意味している.つまり,剛直な
子であ
構造が見えてくることが多い.
ることが示唆される.これに対し,右のポテンシャル曲線では
同じような化合物でもスペクトル形状が変化していく様子を
励起状態のポテンシャル曲線が右方向にずれている.つまり,
ピロロピロール化合物で見てみよう .Fig. 5(a)に赤色顔料
子の構造が励起状態で多少変化していることがわかる.前者
として知られるピロロピロール(DPP)とそのモノメチル誘
の場合には基底状態と励起状態の振動波動関数の重なりが最も
導体(MM -DPP),ならびにジメチル誘導体(DM -DPP)の
大きく,0-0遷移が最長波長の遷移となり最大の強度を与え
子構造を示す.これらの化合物のクロモフォールは上のフェ
る.
に短波長に向かって 0-1,0-2のように一定のエネルギ
ニル環から下方のフェニル環に至る共役系から構成されるオク
ー間隔で遷移が短波長側に連続して現れる.これをプログレッ
タテトラエンである.また,助色団は窒素原子のローンペア
ション(progression of absorption bands)と言う.この典型
(電子供与体)とカルボニル基(電子受容体)である.従って,
的な例を Fig. 4(a)のペリレン溶液スペクトル に 示 す .一
π電子システムから
方,励起ポテンシャルがずれた Fig.3の右側の例では,0-2遷
程の差は無いように思われる.しかし,溶液スペクトルの形状
移が最大の吸収バンドを与え,スペクトルは左右対称となって
は Fig.5(b)に示すように様々に変化する.DPP では綺麗な
いる.このような例として(ペリレンと同じような骨格を持
プログレッションが見えるが,M M -DPP ではややブロードに
つ)アザペリレンをあげることが出来る(Fig.4(b)) .Fig.
なり,DM -DPP では完全にブロードな一本の吸収バンドとな
4(a),(b)に示したようにスペクトルに振動構造がはっきり
っている.このようにスペクトルの形状は様々であり,スペク
見える場合は稀で,一般にはこれらの包路線となり,極めてブ
トルの形状を理論的に予測することは難しい.
ロードなスペクトルとなることが多い.先に述べたように,ど
の電子遷移がどの振動遷移とカップリングするかについては選
択律が存在しないので,振動電子遷移は様々な形をとる.特に
えると 3つの誘導体の電子構造にはそれ
5. プログレッションを示す一連の吸収帯が同一の電
子遷移に属することの証明
電子遷移とカップリングする振動モードがいくつもあるときに
プログレッションを示す吸収帯に関与している電子遷移は一
は,スペクトルは必然的にブロードとなる.一般に低温状態で
種類である.しかし,可視域にいくつかの吸収帯が出現し,こ
は遷移エネルギーの小さな振動モードは凍結されるので,振動
れらが基底状態から第 1励起状態への同一の電子遷移に帰属さ
(110)
水口:物質の色と構造について(Ⅲ)―振動電子遷移―
517
れるのか,基底状態から第 2励起状態への遷移に基づくかの判
道計算 から決められたもので,後に述べる実験結果とも一致
定はそれ程易しくない.予め
子軌道計算等で可視域に 1本の
する.Fig.6(b)は DTQ の結晶構造を示したもので, 軸に
吸収帯しか存在しないことが
かっている場合は比較的帰属し
やすい.
って NH…S の
子間水素結合が存在する.1 子あたりに
4本の水素結合があり,どの水素結合も異なる
スペクトルの帰属には遷移モーメントの方向に関する情報が
い る.こ の
子と結合して
子 配 列 は 通 常「狩 人 の 栅」
(ド イ ツ 語:Jager-
有効であることが多い.遷移モーメントは大雑把な言い方をす
zaun;英語:hunters fence)と呼ばれるもので,3次元水素
れば
子が電磁波を吸収したときに電子が
子内で移動する方
結 合 ネ ッ ト ワ ー ク を 形 成 し て い る.Fig. 7(a)は DTQ の
向と
えてよい.この方向は当然のことながら,基底状態から
DMSO(dimethylsulfoxide)溶液スペクトルと蒸着膜スペク
第 1励起状態への遷移や第 2励起状態への遷移では異なってい
トルを示す.溶液スペクトには綺麗なプログレションが認めら
る.遷移モーメントの方向を
れ,蒸着膜の固体スペクトルは溶液スペクトルが 80nm ほど
子軌道計算によって決めること
ができるが,実験的には単結晶を
よらなければならない.
子の遷移モーメントに
った偏光反射スペクトルに
子が規則正しく配列した単結晶に
った偏光を照射すれば,大きな反射が
長波長にシフトしたものと解釈できる.Fig.7(b)は単結晶の
(100)面で測定した偏向反射スペクトルである. 軸に垂直
(ほぼ
軸に平行)な偏光で励起すると可視域に大きな反射が
得られ,逆に遷移モーメントに垂直な偏光では 子を励起でき
見られるが, 軸に平行な偏光では 550nm よりも長波長側の
ないので,反射は得られない.
バンドは完全に消滅している.つまり,プログレッションを示
チオキナクリドン(DTQ)の単結晶 を
った偏光反射ス
ペクトルの例を示そう.Fig. 6(a)に DTQ の
していたバンド群は消滅している.このことは 550nm よりも
子構造と遷移
長波長側に存在する 3つのバンドは同一の電子遷移に属し,基
モーメントの方向を点線で示す.この遷移モーメントは 子軌
底状態から第 1励起状態への純粋な電子遷移(
(0-0)
)に振動
(b)
(a)
Fig. 6 (a)チオキナクリドン(DTQ)の 子構造と遷移モーメントの方向(点線)(b)DTQ の結晶構造. 2 (単
斜晶系), =10.657, =5.120, =14.813Å,β=109.06°
. 軸に って NH…S の 子間結合が存在する.
(b)
(a)
Fig. 7 (a)DTQ の溶液スペクトル(溶媒:DMSO)と蒸着膜スペクトル(b)単結晶の(100)面で測定した偏光反射スペクトル.
(111)
日本画像学会誌 第 44巻 第6号(2005)
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遷移が 1つ結合した 0-1遷移,2つ結合した 0-2振動電子遷移
であることが
かる.また,450nm 近傍のバンドで偏光挙動
が異なり,基底状態から第 2励起状態への振動電子遷移の一部
が現れていると
えられる.
6. お わ り に
物質の色と構造につき
子
光学の立場から 3回にわたり解
説を行った.ここで扱ったのは孤立
現実的には色材は
子の電子構造であるが,
子の集合体として
合体や固体状態では,
われることが多い.会
子の構造ばかりでなく 子の配列(結
晶構造)や 子間相互作用が顕在化してくる.色材系で最も重
要な
子間相互作用は「遷移モーメント間の相互作用」
(励起
子相互作用) で,この相互作用は色材のように
子の吸収係
4) J. M izuguchi: Structural and optical properties of 5, 15diaza-6, 16-dihydroxy-tetrabenzo[b,e,kn]perylene,Dyes
and Pigments, 35, 347-360(1997).
5) J. M izuguchi: Solution and solid state properties of 1,4[3,4-c]-pyrrole on
diketo-3,6-bis-(4 -pyridyl)-pyrroloprotonation and deprotonation, Ber. Bunsenges. Phys.
Chem. 97, 684-693(1993).
6) J.M izuguchi and Grety Rihs: Structure of 5,7,12,14-tetra[2,3-b]-acridine-7,14-dithione, Acta
hydroquinolinoCryst. C48, 1553-1555(1992).
7) J.Mizuguchi,A.C.Rochat and G.Rihs: Electronic spectra
[2,3of 7,14-dithioketo-5,7,12,14-tetrahydroquinolinob]-acridine in solution and in the solid state, Ber.Bunsenges. Phys. Chem. 98, 19-28(1994).
8) 水口 仁, 今永俊治:有機顔料における励起子相互作用, 日本
画像学会誌, 43, 10-24(2004).
数が大きな系では顕著であり,電子構造(色調)の解明に不可
欠なものである.励起子相互作用に関しては文献 8を御参照頂
水口
仁
きたい.3回にわたった本解説が色材を扱う技術者のお役に立
1970年上智大学理工学部化学科卒業.1970-
てれば望外の喜びである.
参
文
献
1) 水口 仁:物質の色と構造について(Ⅰ)―電子遷移―, 日本画
像学会誌, 44, 271-279(2005).
2) 水口 仁:物質の色と構造について(Ⅱ)―振動遷移と回転遷
移―, 日本画像学会誌, 44, 88-395(2005).
3) J.M izuguchi: Electronic characterization of N,N -bis (2phenylethyl)perylene-3,4: 9,10-bis (dicarboxyimide)and
its application to optical disks,J.Appl.Phys.84, 4479-4486
(1998).
(112)
1985年 ソ ニ ー(株)中 央 研 究 所 研 究 員.
1985-1995年 Ciba-Geigy AG フリブ ー ル 研
究所主幹研究員.1994-1995年ベルン大学理
学部 Privatdozent.1995年横浜国立大学教
授.1982年 理 学 博 士(東 京 大 学).1994年
Venia Docendi(大 学 教 授 資 格,ベ ル ン 大
学)
.日本画像学会理事.日本化学会有機結
晶 部 会 副 会 長.ア メ リ カ 画 像 学 会(IS &
T)フェロー,副会長.日本画像学会誌論文
賞(2001& 2005)
.