このお話は三原城を築城した小早川 たか かげ ぼくこうしょう べ こうふく わ ぼく ゆる たかかげ か べ い よ し もう り へん へん さいゆうせん ほんのう じ け そんぞく いんきょ べ もとちか もとはる ひでよし ひでよし かんらく わ ぼく たかかげ たかかげ かんらく ひでよし もとはる ついげき つい ひでよし せい は たかかげ もう り もう り しま づ こうたい し 三原のひとをつなぐ 架け橋となる 現状打破 ∼三原のまちと ともに成長 三原に 新しい風を HPでは皆様のご意見を募集しております。 びっちゅうたかまつじょう お だ のぶなが もう り もう り あけ ち みつひで しば た かついえ たかかげ そんぞく か ひでよし こうせき かんらく ひ ぜん 一般社団法人 三原青年会議所 公式ホームページはこちらをクリック↓↓↓ もう り もう り ちょうそ そうしつ たかかげ ひでよし ちく ご こば お問合せ時間/平日 (月∼金)10:00∼15:00 とよとみひでよし こ ばやかわたかかげこう てんしょう たかかげ ひでよし ぶつでんじょう さ なか もう りりょうせん しま づ ひでよし てるもと てるもと !! は しばひでよし さ なか ほんのう じ 時は戦国時代、羽柴秀吉︵後の豊臣秀吉︶ に毛利軍の重要拠点であった備中高松城︵岡山 らくじょうすんぜん もう り は しばひでよし わ 県岡山市北区高松︶を攻め込まれ落城寸前まで追い詰められた毛利軍は、羽柴秀吉と和 は しばひでよし 睦交渉を決意し話し合いをしていた。その最中、本能寺の変が起こり織田信長の死を知っ ひでよしついげき た羽柴秀吉は和睦を急いで成立させ引き返した。後で本能寺の変を知った毛利軍の中で ゆる ついげき ひでよし 秀吉追撃との声が上がるが、小早川隆景公は毛利家存続を最優先に考え毛利軍の追撃を たかかげ 許さない決断をした。 ひでよしついげき 隆景が追撃を許さなかった決断は吉と出る。秀吉は明智光秀、柴田勝家とライバルたち ばんじゃく のぶなが こうけいしゃ せんごく は しゃ を次々と破り信長の後継者としての地位を確立してゆき、後の戦国覇者としてより盤石 げき な地位を確立させてゆく。秀吉追撃を主張していた隆景の兄元春は、隆景の決断により追 せい は 撃を断念せざるおえなくなったことがきっかけで両者の間で亀裂が深まる。 そして秀吉の し ちくぜん い よ とう ち 検索 三原JC こ ばや かわ ちくじょう 三原城城主 小早川隆景公の歴史 全国制覇が予測されるようになった天正十年暮れに隠居したため、毛利家での隆景の地 てんしょう 位は一段と重みを増していった。。隆景は毛利家存続のため秀吉の傘下に入り徐々に協力 たかかげ するようになる。 そして天正十三年、秀吉は長宗我部元親が支配していた四国を制覇する か しゅよう ために軍隊を送り込んだ。 この時、隆景は初めて秀吉と一緒に戦うこととなる。隆景は毛利 ちょうそ 軍を他の武将とともに率いて次々と主要な城を攻めてゆき陥落させていった。そしてつい ちょうそ には長宗我部がいる城に一番近い仏殿城︵現 愛媛県四国中央市︶を陥落させた。どんどん もう り たかかげ ひでよし 攻めてくる毛利軍に長宗我部は戦意を喪失してしまい秀吉に和睦を申し込むことで毛利 こうせき 軍は兵を引き上げた。 ひでよし この功 績により 隆 景は秀 吉から 伊 予︵ 愛媛 県 ︶三 十五 万 石を 与 えられることと なった たかかげ ちょくせつゆず ひでよし もう りりょうせん いちよく てるもと が、毛利両川の一翼として父の教えを守る隆景は直接譲り受けるのを拒み、秀吉から輝元 ひでよし に与えその後に私に与えて欲しいと頼み、秀吉は功績を上げた隆景の望むとおりにした。 きんみつ ひでよし この頃より秀吉は隆景をとても信頼し、隆景が大阪城へ行くたびに秀吉から歓迎され、 ひでよし ひでよし たかかげ たかかげ 秀吉主催のお茶会に隆景を招いたり、隆景が泊っている宿に秀吉が訪問したりするなど さつ ま し両者の中が緊密になっていった。 しんぐん そうした中、九州の薩摩︵鹿児島県西部︶ で秀吉を無視して勝手に戦いを続ける島津氏 せんじん たかかげ たかかげ もう り にんめい しま づ し という武将がいて、島津氏を倒す先陣として隆景が任命される。隆景は毛利軍を九州へ向 たかかげ け進軍させた。 その最中、毛利両川の一翼として活躍していた兄の元春が急死してしまう。 せんじん しかし、隆景は悲しむ暇もなく島津氏と戦い次々と敵の城を陥落させてゆき、後退させる しま づ ことで先陣としての役目を果たした。最後は秀吉本軍兵二十万を連れ九州へ向け出陣し い よ 島津氏は降伏した。 その九州出兵の際に秀吉は三原城へ立ち寄り宿泊をしている。 たかかげ てるもと たかかげ TEL(0848)63-3515 / FAX(0848)62-1141 編 げ か で R ふ ついて P の ち ま に 践 実 の り まちづく こうせき たかかげ この九州戦の功績で隆景は伊予を返し、 筑前 ︵福岡県西部︶ ・筑後 ︵福岡県南部︶ ・肥前 ︵佐賀 たかかげ 県と長崎県の大半︶ の三十万七千三百石︵出典 小早川家文書︶が与えられるが、それは隆景 ひでよし が九州へゆくことを意味していた。隆景は当初、輝元を置いて九州にゆくことを拒んだ。 それ たかかげ を聞いた秀吉は隆景の思いを聞き入れ伊予を貰った時と同様に、輝元より譲り受けても良い もう り というが、隆景は輝元が中国地方も満足に統治出来ていないのにこれ以上領地が増えれば負 もとなり 〒723-0052 三原市皆実4丁目8番1号 三原商工会議所内 一般社団法人三原青年会議所 事務局 宛 一般社団法人 8/24 8/25 8/26 8/27 8/28 8/29 8/30 7:00 9:15 11:15 12:00 14:15 18:15 19:00 20:00 21:15 予告 号 月 ■9 公認プログラムとしてJCIに認定を受けて以来、28 回の国際アカデミーを日本JC主催のもと日本全国で 開催し、約3000名のグローバルネットワーカー(国 際アカデミー卒業者)を輩出しています。その時々の日 本JCのテーマと開催地青年会議所のテーマを取り入 れながら、世界各国から集まる若者たち同士の相互理 解を深め、明日のグローバルリーダーを育て、恒久的 かつ永久の世界平和確立に貢献すべく開催されてきま した。今年の国際アカデミーは東京都で開催され、約 70ヶ国の各国から一人のJCIメンバーと全国の青年 会議所から90名の約150名が参加しました。日本全 国を含め、世界中のひとたちとの交流できるとともに [先駆者]としてのリーダーシップ、さらに恒久的な世界 平和に向けて行動できる人材として自己成長できま す。今年は三原JCからも1名参加しています。 ■ JCに入会するとこんな経験も! 第28回国際アカデミー やす みち ひろ ゆき ます や あき のり かつ むら すすむ !! !! 氏 名:保道 宏征 君 勤務先:保道建設株式会社 年 齢:35歳 氏 名:舛谷 明倫 君 勤務先:有限会社東亜和不動産 年 齢:32歳 氏 名:勝村 晋 君 勤務先:三原共同生コン株式会社 年 齢:35歳 2015年度 一般社団法人三原青年会議所 新入会員紹介 これからの三原のために! しょうがい 隆景公の生涯を書いています。 担に耐えられなくなると考えて毛利家を守るために九州へ行くことを決意しました。 ひでよし 次回 賢将・小早川隆景公! … 次号予告 秀吉との間で父元就の教えを守り駆け引きを続ける隆景。それは全 もう り たかかげ て毛利家存続のため。その隆景がまさかの海外へ そして誰もが知る超大物た ちと肩を並べる時が !? 第7回 昨日の敵は
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