ひでよし もう り たかかげ は しば ひでよし もう り ひでよし おんしょう とよとみ ひでよし もう り えさ たくら のぶなが びっちゅうたかまつじょう し みず むねはる くろ だ かん べ え ひで よし ひでよし き さく ひでよし もとはる もとはる はい か み き じょう ありおか もう たかかげひき のぶなが ひでよし ひでよし たかかげ けいかい えん ご もう り きゅうてんかい かん べ みずうみ てい はんにゅう てるもと たかまつじょう たかまつじょう そんぞく ひでよし もう り け らい わ ぼく もとはる ひるがえ ひでよし たか ひでよし 挿絵 平成七年発行﹁小早川隆景﹂より引用 ※ お問合せ時間/平日 (月∼金)10:00∼15:00 のぶなが とっとりじょう もう り もう り じゅうようきょてん ゆうのう しゅつじん り はん のぶなが もう り のぶなが あんさつ のぶなが あんさつ ついげき あんたい もう り はん き HPでは皆様のご意見を募集しております。 全国制覇を目指す信長は、家来の羽柴秀吉︵豊臣秀吉︶を中国地方制 ひるがえ もう り りょう はん き 圧の総司令官に任命しており、反旗を翻した毛利領への攻撃を強めてきま じょう めいしょう はんにゅう む ぼう てるもと もう り わ ぼくこうしょう もう り もう り せいやくしょ ひでよし ついげき 検索 し た。秀 吉は 毛 利 家 領 地の 支 配 下で 現 在の 兵 庫 県 にあった 三 木 城・有 岡 かんらく 城、そして山陰地方の鳥取城などを攻め、毛利家の拠点であった城が次々 ひでよし と陥落してゆきます。 そのころ隆景は、敵対している九州の勢力が西側︵北 ちしょう 九州・山口県付近︶ を秀吉との戦いの隙に攻め込もうと企んでおり、思うよ り うに動けません。そして、智将であった秀吉は毛利家の領地だけでなく毛 ど ぎも 利家内部も攻めてきます。毛利方の味方に付いていた武将たちや、隆景率 さくりゃく おんしょう いる村上水軍さえも度肝を抜くような恩賞を餌に信長の味方になるよう ひでよし 誘い始めました。各地の武将や村上水軍の一部はその恩賞につられ信長の もう り 味方になります。秀吉の策略で毛利家は徐々に内外から追い詰められてゆ たかまつじょう きます。そして、毛利領の重要拠点である備中高松城︵岡山県︶が攻め込ま ひでよし れます。高松城は名将であった清水宗治が守っており、さすがの秀吉も苦 ていぼう 戦している中、秀吉の有能な家来であった黒田官兵衛が奇策を打ち出しま さんどう ひでよし へん したが だ とうひでよし ふ TEL(0848)63-3515 / FAX(0848)62-1141 やっさもっさ6月号について誤った内容を記載しておりましたのでお詫び申し上げます。 三原JC 各関係者の方々には大変ご迷惑をおかけして申し訳ございません。今後このようなこと がないように精進して参りますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。 〒723-0052 三原市皆実4丁目8番1号 三原商工会議所内 一般社団法人三原青年会議所 事務局 宛 一般社団法人 やっさもっさ6月号について【お詫び】 す。それは城と民家の周りに巨大な堤防を築き、川から水を引き入れ城を え 孤立させ食料の搬入を断つ水攻めです。攻め込む手立ての無い秀吉は官兵 ぼう 衛の策に賛同します。無謀にも思われた作戦でしたが秀吉軍は短期間で堤 たかまつじょう 防を作り上げて城の周りに水を張ることに成功します。水で囲まれ湖の真 らくじょうすんぜん ん中に浮かぶ城のような姿になった高松城は陸地で孤立し、食料の搬入を たかまつじょう 断たれついに落城寸前になります。 その危機を知った元春・隆景・輝元は急 たかかげ いで高松城を助けるために出陣します。しかし、元春軍は山陰地方で戦っ もう り ており、また隆景・輝元も武将の離反や九州勢の攻撃を警戒し、高松城を ひでよし 助けるのに十分な兵を確保することが出来ません。毛利家が高松城に送 れっせい ることが出来た兵は一万人と言われており、対する秀吉軍は三万人と言わ れております。数で劣勢なあげく信長本軍の大部隊が援護にくるという情 わ ぼく ほんのう じ おりました。秀吉は和睦交渉に応じ話し合いを続けていましたが、そのさ のぶなが なか、本能寺の変が起こり信長暗殺を秀吉は知ります。秀吉は急いで引き ひでよし 返すため、信長の死を毛利家に知られる前に急展開で和睦を成立させま ひでよし す。秀吉が引き返している途中で信長暗殺を知った毛利家では、元春を中 かげ 心に今なら秀吉を倒せると考え、追撃するべきとの声が上がりますが、隆 もとはる 景は父の教えに従い毛利家の安泰を最優先に考え決断を下します。 そうし わ ぼく て、元春をはじめ打倒秀吉の声を上げる毛利家の家来たちに﹁先ほど秀吉 と と和睦をしたばかり、 その誓約書の墨も乾かないうちに反旗を翻すとは武 士の恥であるぞ﹂ と説き伏せ、秀吉追撃を許しませんでした。 次 号 予 告 毛利家を守るための賭けとその決断から生まれる亀裂。 それは正しい決断だったのか。名将としての成果に贈られる莫大な恩 賞を前に隆景は … 次回 昨日の敵は 第40回三原やっさ祭りに伴う交通規制 しょうがい 生涯を書いています。 第6回 戦国の世を生きぬく者! 8/2 8/1 7/27 7/28 7/29 7/30 7/31 7:00 9:15 11:15 12:00 14:15 18:15 19:00 20:00 21:15 7日(金)・8日(土)・9日(日) 8月 三原や 三原やっ っさ祭り さ祭り 一般社団法人 三原青年会議所 公式ホームページはこちらをクリック↓↓↓ 四面:(誤) 小早川隆景公の歴史 第六回 (正) 小早川隆景公の歴史 第五回 一面:(誤)鯉の城下構想 (正) 鯉の城下町構想 開催日程 第40回 第40回 づ がわ のぶ なが き だ のぶ なが 報もあり、助けに来た毛利本軍になすすべはなく、毛利家存続のため秀吉 くる織田信長と敵対することを決意して木津川の河口にて信長水軍と交戦し見事勝利を収めた お 城した小早川隆景公の こ ばや かわ たか かげ じょう 小早川隆景公の歴史 1578年∼1582年 こ ばや かわ たか かげ こう もう り てる もと もう り りょうせん もう り もと なり ちく 三原城城主 との和睦を決意します。 それは毛利家が秀吉の配下になることを意味して 時は戦国時代、父親である毛利元就の死後、毛利両川の一翼として毛利輝元を支えてゆく覚悟を決めた小早川隆景公は、東から攻めて 前回までのあらすじ このお話は三原城を築 備中高松城 ※岡山市より
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