第1回セミナー - 建設技術研究所

平成 23 年度
第 1 回国土文化研究所セミナー
「大災害時の復興について-神戸市の復興事例を中心に-」
講 演 報 告
(2)神戸市の概要
講演概要
幅 38km、奥行き 20kmの市域のうち、大半は六
日時: 平成23 年4 月26 日(火) 9 時30 分~12 時
甲山系が占めており、六甲山系と瀬戸内海に挟まれた
演題: 大災害時の復興について
全体の2割程度の区域に約100万人が暮らしている
(全
-神戸市の復興事例を中心に-
市 153 万人)
。 神戸市は、これまで昭和 13 年の阪神
講師: 宮崎辰夫先生
(神戸市都市計画総局参与(市街地整備担当)
)
大水害や昭和20年の神戸大空襲により市街地の6割以
場所: F タワー13 階会議室 A(テレビ会議)
上の焼失等を経験してきた街で、古くから「区画整理
挨拶: 原田邦彦(国土文化研究所所長)
により形作られてきたまち」という背景がある。
司会: 木村達司(国土文化研究所次長)
(3) 阪神・淡路大震災の時は一体何が起こったか
地震の直後から、市職員は自宅近くの区役所に出勤
講演内容
して地区の避難所に向かい、
「行政主導型」で避難所の
(1) はじめに
平成 7 年の阪神・淡路大震災から 16 年 2 ヵ月が経
運営を始めたが、住民からの要請が強すぎると対応不
過し、最後の区画整理事業地区の復興が今年3月に終
能となった。その後、
「地域リーダー型」
「学校教職員
わった。これを節目として、これまでの復興の経緯を
リーダー型」
「ボランティアリーダー型」等、それぞれ
伝えていかなければと考えている。当時、私自身は交
の地域や人材の特色に応じて避難所が運営されるよう
通局で地下鉄関連に従事しており、構造物の復旧や耐
になったが、一番うまく運営されたのは「地域リーダ
震化等をやっていたが、後に復興まちづくりに携わる
ー型」であった。現在、災害時の協定に基づき、神戸
ようになった。入庁してからの半分は復興に奉職して
市からは仙台市に毎週 50 人程派遣し、
地域リーダーの
きたことになる。復興の分野は広く福祉、医療、産業
育成支援などを行っている。
支援物資を送る場合は、需要と供給のマッチングが
など総てが分かるわけではありませんが、今回の東日
本大震災の復興に向けて知っている範囲でお話したい。
難しい。仕分けする人、配る人がいないため、被災者
に渡すところまで行う必要がある。神戸市では、ニー
ズによって自由に使えるお金を、被災地の自治体に直
接手渡すようにしている。
仮設住宅を建てる場所がない点では阪神・淡路と今
回の被災地は共通している。阪神・淡路の時は、まず
市街地内に建設を進めたが、3 万戸はムリなので、内
陸部のニュータウン開発用地や海の埋立地に大規模団
地を設置した。ただし、このためにコミュニティがな
くなってしまったとの批判も受けた。
災害廃棄物は、元々は個人の財産なので個人による
処理が大原則だが、ひとまず道路上のものを両側に移
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す作業を公共で実施した。しかし、個人の土地にある
衛隊を当てにするのではなく、自助(自分で助かる又
瓦礫については処分の目処が立たなかったため、最終
は被災しない)と共助(ご近所で助け合う)が極めて
的に 100%公費で処理する制度が出来たが、結局撤去
重要である。
を終了するまでに3年を要した。地の利を活かした処
津波の場合には避難の仕方も地震とは全く異なる。
理方法としては、港湾計画で櫛の歯状の埠頭を埋める
和歌山では大きな揺れを感じたら、自分の判断で 20
計画をしていた箇所に埋め立てたり、船で外へ持ち出
分以内に、事前に決めておいた高台へ逃げるように指
したりした。今回の災害では津波で瓦礫が他人の土地
導をしているところもある。また、東京都のある区で
に移動しているので、財産権の問題が課題になるだろ
事前訓練を行ったところ、仮設住宅の設置場所や避難
う。
場所がないなど防災上の根本にかかわる課題に気づく
インフラ関係では、阪神・淡路の時は道路の渋滞が
という効果があったということも聞いた。
ひどい状況だったが、今回の災害では比較的整然と交
通が機能していた印象を受ける。阪神・淡路では鉄道
などが驚異的な速さで復旧した。当時は団塊の世代が
まだ現役で、自らが作ったものを自らで直すといった
経験とマンパワーがあったが、現在は建設業者も数が
少なくなっており、当時よりも大変な状況にあると思
われる。阪神・淡路の際には山陽新幹線が大きく被災
したが、今回、東北新幹線では 40 両の車両が無事故で
停止した。阪神・淡路の経験を教訓に耐震補強が進み
地震予知システムが機能した結果だったと思う。
また、神戸の場合、港湾の空間が物資や救援者の受
け入れ、瓦礫の処分、ヘリポートや臨時航路の開設な
(4) 復興まちづくりの進め方とその検証
ど、多用途に有効に機能した。長期にわたり苦労した
地震の直後、被害の全体像を早急に把握する必要性
のは学校の耐震化で、数も多く、供用しながらの工事
から、出勤可能な市職員が全市に散らばって調査し、3
であったが、23 年度末に全市立学校の耐震化の完了を
日後の 20 日までに激震被害状況図を作成することが
目標としている。
できた。戦争で焼失を免れたがゆえに木造住宅が密集
主なインフラの復旧は約 3 年で終了することが出来
しており、区画整理を実施していく必要があると考え
たが、市民生活や経済活動は簡単に戻っていない。バ
ていた地区に大規模な火災が発生した。当時は「災害
ブル崩壊や高齢化等の要因も重なり、経済的ダメージ
復旧」は現況に戻すという制度しかなかったが、密集
はボディブローのように現在も影響が続いている。
地区が再生することを防止するため「復興」という考
住宅の被災状況を見ると、木造家屋の被害が 90%を
え方で対応した。
占め、死者も 90%近くが木造家屋の倒壊・焼失による
建築基準法に基づく建築制限区域の指定が可能な 2
ものであった。
建築基準法が改正された昭和 56 年以降
ヶ月以内に都市計画決定をしなければならないという
に作られた建物は被害が少なかった。
状況から、2 週間後の 1 月 31 日には復興まちづくりの
救出された人のうち、8 割は自力で脱出した人で、
残り 2 割の人のうち 8 割は近所の人が救出し、自衛隊
方針を示して建築制限区域を指定したが、住民やマス
コミからは拙速であると猛反発を受けた。
や警察に救出された人は全体の 4~5%に過ぎない。救
市としては、住民主体のまちづくりをめざしていた
出者の生存率は、救出日が 2 日目 3 日目となると大幅
が、家を失った住民の早期生活再建のためには、建築
に低下するため、いつ到着するか分からない警察や自
制限の解除までに都市計画決定を行う必要があったた
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め、
第 1 段階で行政が区域や最低限の都市施設を定め、
住民主体のまちづくり(神戸方式)を推進し、コミュ
第 2 段階において住民が主体となって詳細を決めると
ニティーの再生が実現している。しかし、にぎわいに
いう2段階の都市計画決定手法を提案した。
あわせて、
ついては一部で現在も厳しい状況が続いている。
昭和 56 年策定のまちづくり条例(神戸市)に基づく協
(5) 東日本大震災の復興に向けて
働のまちづくりの実績を踏まえ、これを2段階目の都
復興計画を早期に策定して目標を示すこと、自助・
市計画の検討作業に適用することとした。
協働のまちづくりの中では、地域ごとにまちづくり
共助の大切さを再認識すること、産業の復興をはかる
協議会を結成し、ほぼ全員の合意がない限りまちづく
こと、コミュニティの維持をはかることなどが大切と
り提案を受付ないこととなっている。このため、住民
なる。また、最後は住民が責任をもって決めることが
は徹底的に議論を行った。また、専門家アドバイザー
重要だが、自治体の技術系職員の不足もあるため、ま
としてコンサルタントを協議会に派遣し、地元は、自
ちづくりコンサルのサポートが期待される。
分たちが選んだコンサルタントと議論、作業を行い、
まちづくり計画を作成した。
まちづくり協議会の役員は事前に行政に成り代わ
って住民に説明する必要性から、かなり勉強をしても
らったが、そのことによって住民のまちづくりへの理
解がより一層深まった。
まちづくり協議会は区画整理事業区域内で 44 を数
え、117 のまちづくり提案が行われた。いくつか事例
を紹介する。
①焼失の激しかった松本地区では、延焼防止のために
17m道路を計画したが、通過交通対策として歩道を
主な質疑応答
広げ、非常時の水源を兼ねたせせらぎ水路設置の提
(質問)協議会での、反対派や反社会的な人への対応
はどうしたらよいか?
案があり、行政も水源として下水道の高度処理水を
(回答)まちづくり協議会は、その地区に土地などを
提供して実現させた。
②菅原東地区は、天皇皇后両陛下が御行幸された際に
持っている人だけでなく、その地区に興味を持ってい
「すいせんの花」が手向けられたことで有名になっ
る人(コンサルタントや大学の先生でも可)などに広
た。震災後に他へ移り住んだ人が多く、一旦はコミ
く間口を開けていて、基本的に拒否はしない。また、
ュニティが崩壊しかかったが、
「すいせん」の球根
多数決ではなく意見の一致を原則としている。六甲地
を全ての世帯に配るなどの活動を行うことで、地域
区では、区画整理に反対するために結成された「行政
の一体化やコミュニティの再生を図っている。
にモノ申す会」が協議会となってうまくいったが、森
③六甲北地区では、地域センターを公園内につくり、
南地区のように、話がまとまらずに協議会が分裂した
自主運営により地域活動を盛り上げている。
所もある。住民主体のまちづくりを目指す場合は、行
神戸の復興を総括すると、①防災に強いまちになっ
政としては、住民が自分たちに最も良い選択をするこ
た②「地元で再建を図りたい人」
、
「自力では家を再建
とを期待し、必ずしも協議会でうまく話がまとまるこ
できない人」
、
「他の地域に出て再建を図りたい人」な
とをだけを期待すべきでない。
ど、家を失った様々な人たちの早期の生活再建の要求
(質問)避難所や市外にまで分散している住民が多い
に答えるため「2 ヶ月間での都市計画決定」
、
「減価補
地域では協議会をどのように運営したのか?
償買取」
、
「共同化住宅」等の方策が成果を上げた。③
(回答)協議会の運営主体は住民となる。多くの方は
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近くの避難所だが、他の地区に避難していたり、震災
(質問)協議会の中でどのようなリーダーが活躍され
前から不在地主の方もいたため、近所への張り紙、各
たか?
避難所への案内、郵便を通して転居先へ連絡(引越し
(回答)
まちづくり協議会をうまく運営できるかは
「強
の届けをしていた場合)等、出来る限りの手立てで開
いリーダー」
の存在がポイントある。
自治会と異なり、
催の連絡は試みたと聞いている。場所は現地相談所の
協議会の場合には強いリーダーシップを発揮するタイ
スペースを使った。
プの人が向いていると感じる。非常事態になると、不
思議と各地区でふさわしい人が出てきた。業種は、自
分の都合で時間を確保できる自由業や、会社を引退し
た人が多かった。
(質問)
復旧段階の時間スケールやスピードについて、
関連法令との兼ね合い等を確認したい
(回答)第一段階は、建築基準法の関係で 2 ヶ月以内
に都市計画決定する必要があったため、範囲だけを先
に決めた。これにより条件付だが建築物の許可を出せ
る。第二段階は、地区により様々で、半年で話がまと
まった地区もあれば、1年以上かかった地区もある。
(質問)津波で所有者が分からなくなった瓦礫の扱い
(質問)都市計画決定や復興の方針の発案は市、国、
について何かご存知のことは?
有識者のいずれであったか?
(回答)
神戸の場合は各家屋がその場で倒壊したため、
(回答)方針は、市の案に基づき県・国との話し合い
所有者の特定が出来た。残念ながら今回のようなケー
で決まっていった。
スの扱いがどうなるかは分からない。
神戸市は水害や戦災の復興等で、古くから区画整理
でまちを形作っており、今回の復興まちづくり地区に
ついては、課題地区として対応を模索していた背景が
ある。当時の市長も、戦災復興に携わって区画整理を
担当した方だった。
(質問)復興で家が建つだけでなく、産業・雇用の復
興や活力の再生に向けて今から配慮できる制度等はな
いか?
(回答)今回は産業の再生(雇用)が生活再建として
必須であると思う。
東北の場合は、都市計画を立てていない地域も多く、
技術者も少ない。また、まちづくりとあわせて、産業
の再生や防災の方針を固める必要があり、現在、神戸
市の OB 等が仙台市や名取市に行ってアドバイスを行
っているが、なかなか進まない。
しかし、神戸市でも産業の育成やにぎわいについて
は、今も課題となっていて悩んでいる。バブル崩壊や
高齢化等の要因もあるとはいえ、神戸港はアジアの他
地域にシェアを奪われ、ケミカルシューズの工場はシ
ューズプラザのような拠点を作っても周辺市町村から
(質問)神戸市の復興地区については、震災前から何
工場が戻ってこない。工場が減り、周辺住民が減り、
か計画や地区選定の基準を準備していたのか?
商業がなくなって、単なる住宅地区になってにぎわい
(回答)住民からもどさくさに紛れて、準備していた
がないという構造的な問題が生じた。時代の流れの面
プランを進めようとしているのではないかとの指摘が
もあり、元の姿に戻すだけではない方向、例えば医療
あったが、計画を準備していたわけではない。地区選
産業都市、ファッションの街といった新しい面で全体
定は、建物の被害状況や火事の発生率や連担面積等の
の魅力を高める試み等の方向も必要と考えられる。
状況を積み上げて決めたものである。財政的な議論も
あったかも知れない。
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(以上)