復帰30年特集シリーズ 4 - 一般社団法人 沖縄しまたて協会

4.
技術者たちの声
沖縄勤務の550日
建設サービス、
地元コンサルタント等への外注方式を多用
した。
さて、前任の高野次長の時代に経験したあの「326日
高篠 香
に及ぶ記録的長期給水制限」から水資源開発の必要
性、
緊急性が一段と強く認識され北部、
中部のダム事業
に拍車が掛けられた。当時の北部ダム事務所の担当事
沖縄が本土復帰10周年を迎えた1ヶ月後の昭和57年
業は工事中の安波ダム及び普久川ダム(国頭村)のほか
6月15日付で総合事務局次長を拝命し、
1年半後の58年
北部五ダムの最後となった辺野喜ダム(国頭村)、
羽地ダ
12月お役御免となり退官した。この沖縄勤務の550日が
ム(名護市)、漢那ダム
(宜野座村)
に加え調査中の瑞慶
私の公務員生活30年の記念すべき最終章となったがこ
山ダム
(沖縄市・石川市)
も担当するという過密・過重の
の間の業務の一端を思い起し報告したいと思う。
状況であった。幾ら沖縄のダムが小規模で水没物件も少
沖縄開発庁20年史によると、
この頃の直轄事業記録と
ないとは言っても僅か70名の定員でこれらの業務を担当
して道路事業では①58号宜名真トンネル開通(昭58.3)
した職員の努力には敬服脱帽の外ない。
②331号、
332号山下垣花立体一部供用開始(昭58.12)
沖縄のダム事業促進には、
直接の用地関係者との交
③58号明治橋架替工事着手(昭59.2)④329号漫湖局
渉以前に当該市町村当局特に首長との折衝が、
本土の
改着手(昭59.9)⑤58号名護バイパス供用開始(昭
ダム事業の場合以上に重要かつ決定的であった。羽地
60.1)
が挙げられており、
ダム事業では①辺野喜ダム起工
ダムの場合、
当時の市長の政治的立場もありダム建設へ
(昭58.9)②安波ダム及び普久川ダム竣工(昭58.10)
が
の交渉は一向に進展せず、
折角の予算も繰越を重ね遂
記されている。
には不要額として返納の止むなきに到った苦い経験を思
い出す。以降もこのダムの進捗は難航し本体着工はなん
と13年後、
市長も何代か交代した平成8年3月となってい
る。
総合事務局と県の努力だけでは促進が難しいと思わ
れたので、
辺野喜ダムの場合は本土並にダムの受益者、
つまり南部市町村にも関心を持って貰いその代表として
那覇市に交渉の席について貰った記憶があるが、恐らく
これは沖縄では初めての事だったと思う。
さて、辺野喜ダム建設に関する国頭村の公共補償要
開通式の様子
求には、
その項目の多さ内容の多彩さに面喰った記憶が
ある。本土でのダム交渉の経験からこの種の要求には慣
新しく発足した第二次沖縄振興開発計画により国の
れていた積りであるが此処では些か勝手が違った。曰く。
予算配分も順調で、
特に道路事業については元々用地
国頭空港を設置せよ。奥漁港を一般商港にせよ。村振
ストックが少ない為用地の取得から工事施工まで同年度
興センターを設置せよ。村内タクシーを増車免許せよ。
内に実施といったケースもしばしばで、
予算消化に忙殺さ
等々。本土の建設省所管ダムの場合なら
「他省庁所管
れていた印象がある。因みに当時の開発建設部職員一
事項で回答する立場にないがご要望の趣旨は各省庁に
人当りの年間事業費は(約620億/420人)約1.5億円
伝えましょう」
という外ない要求であるが、
総合官庁を自認
で、
本土各地建の2∼3倍に達すると驚いた記憶がある。
し担当部局も持っている総合事務局長、沖縄県知事当
そのため、
発注単位を大きくして工事件数を少なくする
ての要求となれば、本土並みの回答では済まされない。
一方、
現場技術管理については産業開発青年隊、
沖縄
事務局内は勿論県庁各部の協力を頂き可能な限りの積
62
〈 No.22〉
特集シリーズ
極的対応により、村の協力体制を得て比較的早期に着
ついて、
しっかりした方針・計画を求められ、対策室を中
工に漕ぎ着けることが出来たと思う。
心に計画の修正等練り直しが行われていた。特にモノ
また、漢那ダムについてはその位置が在日米軍のキャ
レール運行によるバス事業への影響に対する具体的な
ンプハンセン基地内にあるという沖縄特有の事情から、
ダ
損失補償額等の提示、沖縄公庫出・融資の担保として
ム及び貯水池部分につき基地の返還を求める必要があ
の赤字補填の県・那覇市の対応策がモノレール事業を
り、
その交渉窓口である那覇防衛施設局と度々交渉を
動かせるかどうかの関門であった。一連の手続きをクリア
持ったが在任中には実現せず、
返還合意の成立は結局
してモノレール事業は軌道に乗り、
来年開業を迎える。担
第582回日米合同委員会(昭61.12)を待たなくてはなら
当者の労を多としたい。多くの人が赤字運営になることを
ず、
漢那ダムの本体着工は更に一年後の昭和62年末と
心配した。杞憂となることを祈る。
なっている。
新石垣空港建設については、
1979年に白保地先に建
予定の紙数も尽きましたのでこの辺りで擱筆しますが
設位置が決定され、
1991年に完成する計画であった。
し
公共事業バッシングの嵐の中、
これからの沖縄振興開発
かし、
新空港の完成を祝す記念すべきこの年が、
建設位
をどう進めるか甚だ気掛りながら、
沖縄の皆様の英知とご
置を選定し直す、振り出しに戻る再スタートの年になると
努力により明るい未来が切り開かれるよう期待する次第
は、
何とも皮肉で、
残念なことであった。早期着工、
行政の
です。
継続性からすれば、
保守県政が決定したカラ岳東側案で
当時:沖縄総合事務局次長
作業を進めることが常道であったろう。
しかし、
カラ岳案
は、
断念した「白保海上案」
と同一海域にあり、
強行すれ
ば白保の轍を踏む虞れがあった。建設位置は、
事業者が
県政の交代期に巡り
合わせて
澤村 宏明
適地を調査選定し、
その後関係者等に説明し、
決定する
のが一般的な手法である。
しかし、
建設位置をめぐって拗
れてしまった八重山では、
どこに決定しても同意を得るこ
とは難しい状況にあった。
大方の予想を覆して、
1990年11月の県知事選で学者
出身の大田氏が当選し、
3期12年続いた保守県政から革
新県政へと交代した。
当時、
私は県庁舎建設局長であったが、
大田知事に呼
ばれ、
自らの公約の実現に協力するということで土木建
築部長への就任を打診された。思いがけないことであっ
た。革新県政に移行しても土木建築行政の基本が変わ
ることはないと考え、引き受けた。1991年1月に都市モノ
当初の新石垣空港予定地
レール対策室長を兼ねて部長に就任した。
発想の転換が必要であった。いっそ事業者主体では
土木建築部は、公共事業を所管する最大の組織とし
なく、八重山住民の主導で決定させる。新空港を渇望し
て、
次々と様々な事業を企画構想し、
期限を切られた
(海
ているのであれば、
合意形成できるとの確信に基づくもの
洋博、国体等の)複雑高度な事業さえ、職員の知識、技
であった。全郡民に5候補地の資料を配布し、
郡民説明
術力と熱意そしてチームワークで成し遂げてきた。
しかし
会、郡民大討論会等を開催し、建設位置の一本化を求
事業着手から10年余を経過して、
なお足踏み状態を続け
めたが、
意見は別れ集約できなかった。県は、
また学識経
る二大プロジェクトがあり、部への重圧となっていた。
験者、地元有志等による「位置検討委員会」を設置し、
モノレールと新石垣空港である。打解策を見つけ、
少し
望ましい建設位置の提案を求めたが、
一箇所に絞り込め
でも前進させることが、私の使命であった。
なかった。地元に建設位置の決定責任を持たせた委員
都市モノレール建設については、
軌道法特許、
国の補
構成にすべきだったとの反省がある。結局、地元の合意
助、沖縄公庫の出・融資、バス企業者の同意等を得るた
形成がないまま、従来同様、1992年11月に事業者である
めに、1982年に国から提起された5項目、①収支の見通
県が宮良案に決定したことにより、
反対が激化し、
三度停
し、
②資金調達、
③赤字補填方法、
④バス路線再編等に
滞する事態となった。建設位置決定について、
かつてな
63
〈 No.22〉
い新手法を試みながら、苦労が報われず残念であった。
る事業を体系的に開始しました。その事業実施の陰に
1998年再び保守県政となり、後がないとの八重山住
は、
沖縄の先生方の大きな力添えが有ったことは言うまで
民の危機意識をバックに、
建設位置の決定を委ねられた
もありません。そればかりか、
それらの先生方との有益で
地元を中心とした「位置選定委員会」が設置され2000年
かつ創造的な議論、
そしてそれら議論を通し、
北部ダム事
4月に「カラ岳陸上案」が決定されている。誠に喜ばしく、
務所職員の自然環境保護・保全の重要性に対する認識
担当者の労をねぎらい、
新石垣空港の早期着工を願うも
の高まりという成果を得ました。
リュウキュウアユのダム湖
のである。
への陸封化やノグチゲラの営巣木設置実験、
マングロ−
土木建築部の足踏みする二大プロジェクトが動き出し、
ブの植樹、
貴重動物手帳の作成等精力的に試みました。
重圧から解放された。万歳!
そのほか、多くの実験や試みを行いましたが、
それらの中
当時:沖縄県土木建築部長
現在:株式会社大米建設
には成功したものも失敗したものもたくさんあります。なれ
ない職員は、
初めてのことにマスコミの批判にさらされるこ
ともあり、つらく苦しいことも多かったことと思います。よく
うちなんちゅう
チバリヨー沖縄人!
松隈 宣明
頑張ってくれたと思っています。
次に、水資源開発施設を付加価値の高い物にするこ
とを考えました。
一般的に、
ダムで水没する水源地域の人々は、
その地
域の多くが過疎化にさらされている山深い地域にあること
から、
構築されるダム施設等を使って、
いかにその地域を
私は、国の仕事をするようになって、三度直接沖縄県
活性化させるかに腐心されています。
このことは、
沖縄県
に係わる仕事をさせて戴きました。一回目は、
第一次沖縄
においても例外ではありませんでした。
振興開発計画のちょうど中頃でした。
730
(ななさんまる)
そこで、
水資源開発施設を少しでも付加価値の高い物
の頃です。安波ダムと普久川ダムの建設に携わっていま
にしよう。それが水源地域の活性化のお役に立つと考え
した。二度目は、第二次沖縄振興開発計画の前半の時
ました。その一つが、
前述のリュウキュウアユの陸封化実
期、
沖縄開発庁振興局の専門官でした。三度目は、
第二
験です。絶滅のおそれのある種を安全にダム湖に隔離で
次沖縄振興開発計画の後半、
北部ダム事務所の八代目
きると考えたのです。現在では、
これはほぼ成功したと言
の所長として赴任しました。昭和63年から平成元年にか
えると思います。ダム湖が、
リュウキュウアユのみならずメ
けての渇水が終わる頃でした。沖縄県が本土に復帰後、
ダカやゲンゴロウなどの絶滅の危機に瀕している種の安
十数年を経過しているにもかかわらず未だ渇水騒ぎが解
全な住処(すみか)
になることもわかってきました。いま一
消されていないことに、
自分の任務の重さを思いました。
つは、景観設計により琉球文化をイメージできるようにす
当時、
「いかに円滑に沖縄県の水需給の安定化を図
るとともに、
ダム構造物等に親しみを持ってもらう工夫でし
るか」
と言うことをまず考えました。そのために三つのこと
た。漢那ダムの堤体は、
沖縄の優れた石積みの技術を連
を実施しようと考えました。
想できる景観としました。
また、
その他のダムも含め、
ゲート
一つは、
東洋のガラパゴスと言われるほど豊かな『やん
ハウスや管理庁舎などに赤瓦屋根を使うなど沖縄独特の
ばる』の自然と事業とをいかに調和させ、環境の保全を
景観を意識した物にしました。
図るかと言うことでした。
赴任した当時は、長良川河口堰事業がマスコミに取り
上げられ、社会的な大問題となろうとしていた時期でし
た。その中心は環境問題でした。我々が事業を行う
『や
んばる』は、長良川に比しても自然環境が豊かで貴重種
も多い地域です。
このため、
自然環境の保全と水資源開
発との調和をいかに図るかと言うことが、在任中の最大
の課題となりました。私の二代前の所長時代に、沖縄県
内の著名な生物学者を中心に、
『やんばる』の自然環境
の調査を実施する仕組みが出来上がっていました。
これ
を発展的に改組しながら、
自然環境の保全・保護に係わ
64
リュウキュウアユ
〈 No.22〉
特集シリーズ
三つ目に考えたことは、
北部ダム事務所の仕事を理解
びに、親切にいろいろアドバイスをしていただきました。こ
していただくことです。
れからも更に、
いろいろとお教えを請いたいと思っていた
多くの沖縄県民に、各ダムを「これは私のダムだ」と
矢先のことで、残念で残念でなりません。
ここに心からご
言ってもらえるような仕組みを作ろうと考えました。そのた
冥福をお祈りし筆をおきます。
当時:北部ダム事務所長
現在:国土交通省港湾局環境・技術課
めに、
その人の名前を書いた石をダムの堤体工事に使っ
たり、
水の中に沈む部分の堤体に思い出となることを書き
記してもらったりもしました。これらは、工事中の漢那ダム
フェスティバルや瑞慶山ダム工事施工体験会、
マングロー
ブ植樹祭などを行うことを通じて試みました。
困難を乗り越えて
一方で、
漢那ダムと瑞慶山ダムの本体工事は進んでい
∼福地ダム再開発事業∼
ましたし、
3∼5年内には二個のダムが完成することも意識
伊藝 誠一
していました。従って、私の役割は、
10年以上これと言っ
た進展が見えていなかった羽地ダムと北西部河川総合
開発事業を立ち上げることでした。
福地ダムは沖縄本島ダムの中核的ダムである。北部ダ
羽地ダムも、
ダム対策委員会や地主協議会等地元の
ム5群からの導水分を合わせて県内に都市用水の供給
人たちの協力で、
何とか補償基準提示まで持ち込めまし
を行っているが、
これは沖縄県企業局の全取水量の大
たが、私の在任中には妥結までには行き着きませんでし
半をなすものである。
た。
また、
北西部河川総合開発事業は、
地元大宜味村の
沖縄県の取水の源ともいうべき福地ダムの建設および
協力もあり、
建設事業に格上げすることができました。
この
施工の歴史は波乱万丈に満ちている。福地ダムは米国
他、
座津武ダムの実施計画調査採択、
休止されていた億
陸軍工兵隊によって復帰前に施工がスタートし、
1972年5
首ダムの再開などを行いました。
これらについても、
いくつ
月本土復帰の時、
工事中のまま日本政府に引き継がれた
か面白いエピソードがありますが、紙面の関係上別の機
ものである。完成したのは1974年12月のことである。
ところ
会に譲りたいと思います。
が、
その後、
日米のダムの安全性について技術基準の違
沖縄県が本土復帰して、
すでに30年が経過しました。
いから、
いくつかの問題点が指摘されることになった。当
事あるごとに沖縄の発展を願わずにはおれませんが、沖
時の技術者たちはこれらを福地ダム再開発事業としてひ
縄県の自立的発展は、
いまだ必ずしも十分ではありませ
とつずつ知恵をしぼりながら改良、
克服していったのであ
ん。
る。
沖縄出身の人で尊敬する人が二人います。お二人と
もお会いしたことはありません。一人は蔡温です。河川技
術者であり、海岸技術者であり、橋梁技術者、農林学者
でもあった人です。その残された業績には目を見張る物
があり、
尊敬して止みません。今一人は、
具志堅宗精と言
う人です。草柳大蔵氏の『実力者の条件』
という本の中
に出てくる人物で、
オリオンビールの会長などを務めた実
在の方です。
この方は、徹底して県産品使用を主張し、
行動された人だそうです。
このような発想と行動力を持っ
た人は今の沖縄にはいらっしゃらないのでしょうか。
新取水設備概要図
沖縄県には、
気候的にも、
サンゴの海や『やんばる』等
自然環境的にも、島唄や琉球舞踊等文化的にも宝物が
この再開発事業の主な工事内容と技術者たちの奮闘
沢山あります。沖縄が自立的発展を遂げるには、
うちなん
談を少し述べてみたい。
ちゅう沖縄人が頑張ることだけが、
その実現の力になれる
さて、
技術基準の問題となった改善すべきいくつかの
ものと思います。県産品に徹することによって。是非そう
点から2点ほどを挙げてみると、
いう人物が現れることに期待をしています。
この筆を執っている途中で、
北部ダムの初代の所長山
住有巧先輩が不帰の客となられました。沖縄と関わるた
・立坑および仮排水トンネルのプラグ部分から相
当量の漏水があること
・各取水口の貯水池側に制水ゲートがなくバタフ
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〈 No.22〉
ライバルブの保守、管理ができないこと
関係者一同、
これまでの施工方法および管理態勢に気
があった。
これらの問題点を解決するには取水設備など
を強くしたものである。
の抜本的な改造を必要とした。改造に加えていくつかの
さらに貯水池に近い位置での工事であることから湧水
制約条件を強いられたのは工事をさらに困難にした。
対策が必要であった。そこでグラウト注入により遮水ゾー
沖縄百万県民の水ガメである生活用水を一滴たりとも
ンを形成し、
なお、取水口については鋼管矢板締切によ
無駄にできない状況のなかで改造工事を進めなければ
り対処した。
これらの対処法が効果的に働いたことにより
ならなかったのである。
湧水量も少なく済み工事は順調に運んだ。
また、沖縄の水事情を考えるとこれまでダムに貯まった
しかし工事はより深部にいたることから湧水の問題は
水を工事のために無効放流で貯水位を下げることは許さ
予断を許さず、施工箇所も既設重要構造物に接近して
れず、
現状を維持しながら工事を行う必要があった。断水
いくことから、
計測工を初めとする十分な監視態勢を維持
が許されないということから、
当初はまったく新しい取水設
し慎重に工事を継続した。
さらなるチェック機能強化のた
備を設け現在の設備は埋め殺しにするという方法も提案
めに検討委員会も引き続き設置し万全を期した。
された。貯水面下50mに取水口を新設する方法として
福地ダムは希有な運命をたどった重要構造物であり、
は、貯水地のわきに立坑を掘り、
この立坑と貯水地の間
また問題点も多く指摘されたダムであったように今さらなが
を大口径ボーリングで開削する方法と立坑側から大口径
ら思う。福地ダム再開発計画は主として以上述べた取水
ボーリングで貫通する方法が検討された。前者の場合は
設備改造工事の完了によって本当の意味での完成に
工事費が大きくなることや岩盤が軟質であり開削の法面
至ったように思う。
維持が困難であること、
また後者の場合は今回のような
米国から託されたダムという異例の条件下の困難を乗
規模の工事実績がなく貫通後の処理など技術的に保証
り越え見事に再開発事業をなし得たのは、
現場の技術者
できないことで採用には至らなかった。
たちが問題点の重大さを十分に認識し先送りすることな
結局、現有の設備を極力活用し改造を加えようという
く最後まで粘り強く工事を進めたからである。
まさに使命
方向で検討を進めることになり最終的には新設立坑と新
感に燃えた技術者たちの勝利である。
設取水口からなる整備計画を採用することになった。
私は数多くの関係者たちが当時奮闘したことを忘れな
新たな整備計画では、
まず水深の浅い最上段取水口
いだろう。
当時:北部ダム統合管理事務所長
だけは新設することにした。
これにより維持管理の容易な
取水経路を少なくとも1系列は確保することになった。次
に第2段、第3段の取水路については、
新設立坑を経由
させ、
そこに制水門としてメンテナンスの容易なローラー
ゲートを設けたのである。既設のバタフライバルブは全開
状態で埋め殺しにした。
河川等の整備と公物
管理
大城 義勝
漏水に対しては現在のバルブ地点より下流に新規プ
ラグ地点を設け対処した。鉄管および新設バルブ類のう
ち交換できない部分についてはステンレス鋼を使用する
昭和47年5月15日「新生沖縄県」誕生の日は前夜から
ことで将来的な腐食に備えた。
大雨が降り続いていました。従前の行政機構が大幅に
本工事は、
その施工対象物が社会的に極めて重要な
変わり新設の河川課の補佐に任ぜられた私の初仕事
構造物であるうえ、施工条件も特殊であったことから、計
は、
この大雨により各地で発生した河川の氾濫による被
画当初より学識経験者らを中心とした検討委員会を設け
害調査と復旧対策でした。一次から二次振計にかけて
検討を行った。委員会は施工に際し、次のような特別の
河川課に8年間在勤したのでその頃のことを振り返って
配慮を促した。
みたいと思います。
まず既設の重要設備に対して至近距離での工事とな
本土復帰以前から政府の援助資金により河川改修、
ることから掘削工法もこれら構造物への影響を計算した
海岸保全など事業としては行われていたのですが、
法律
うえで行われた。場所によっては制限発破工法やアブレ
に基づく行政ということでは殆ど空白の状態からのスター
イシブジェット工法などを採用した。
トといっても過言でなく、
当初の頃は法令制度に馴染むこ
また、
工事中における既設構造物の安全性を確保する
とから始まり各事業の5ヵ年計画、
全体計画の作成、
補助
ため変位や振動値などを計測し万全を期した。おかげで
金の交付申請等これまでに経験したことのない業務に加
66
〈 No.22〉
特集シリーズ
えて、
予算の激増と石油危機の追い討ちもあって事業執
になって大雨が降りだし、
大会参加者には申し訳ないこと
行も大変厳しい状況にあり、
みんな体力の限界のところ
でしたが異常渇水にあえぐ県民にとっては干天の慈雨と
で頑張っていたように思います。
さらに、河川や海岸など
なりました。
この日を境に断続的に災害が出るほどの大雨
公共の用に供されるいわゆる自然公物の管理も国の委
が降り、
6月に入って間もなく前年の夏から326日も続いた
任事務として担当することになったので、
これら公共用財
史上最長の給水制限が解除されたのでした。
産の許認可事務や不法占用、
不法埋立ての処理も困難
2次振計の頃までの河川、
海岸等の整備は機能主義
を伴うものでした。ひとたび既成事実は発生するとその処
的なところがありましたが、
近年、
時代の要請に応えて「環
理に多くの労力と時間を要し不法行為を未然に防ぐこと
境」
という視点を踏まえた法律の改正が行われ、地域の
が如何に大切なことかを強く思い知らされたものです。
意見を反映した整備方針のもとに事業が進められるよう
になったようです。関係各位の一層のご健闘を祈念致し
まして結びとします。
当時:沖縄県土木建築部 次長
現在:株式会社沖縄設計センター
河川の氾濫
利用者は、沖縄の公共事業を
牽引すべし
駒田 敬一
復帰前から各地で河川の氾濫による浸水被害が頻発
していました。なかでも被害の大きかった国場川水系の
水害の原因のひとつは、奥武山公園と壺川の間に架け
昭和62年1月から63年6月まで、
沖縄総合事務局の技
られていた米軍施設のPOL橋(那覇軍港から嘉手納基
術担当次長を努めた。就任にさいし、
小林悦夫事務次官
地に到るパイプライン。矢板と捨石により流水が堰上げら
から沖縄の公共事業は行き詰まりつつあるので、何とか
れていた)
にあったので、先ず取り組んだのが捨石等の
新たな事業を興して貰いたい、
との強い要請を受けた。
除去と橋梁の架け替えでした。現在ではその橋梁もPOL
沖縄の自動車道から分岐し、那覇空港に至る那覇空港
の用途廃止に伴って撤去され河岸の整備も着々と進ん
自動車道がその候補であったので、
当時これの早期事業
で良好な水辺環境が創出されつつあることは喜ばしいこ
化を図ることが最優先課題ではあった。そのために、
事業
とです。
が採択される前に総合事務局としては、
当該道路事業を
一方、
那覇市の市街地を貫流している安里川水系の
円滑に進捗させるための現地の実施環境を整備するこ
治水対策も緊要な課題でした。河道の拡幅、
橋梁の架け
とこそが、最も緊急と考えたのである。
替えなど局部的な整備と並行して洪水を調節する目的で
しかしながら、沖縄では国の事業は、国が黙って好意
建設した金城ダムや真嘉比遊水池は首里城や周辺の環
的に実施するのが当然であるとの考え方が支配的であ
境に配慮して様々な工夫がなされており、
市民の憩いの
り、
那覇空港自動車道の関係者や受益者においても、
当
場、
やすらぎの空間として大いに利用されることでありま
該道路整備に対する関心は極めて薄く、事業実施のた
しょう。
また、平成4年に完成した座間味ダムは事業採択
めの地域の準備は全く整っていないように思われた。そ
当時は全国で最も小さなダムと言われましたが、離島地
のために、
最初に着手したのが、
県と関係地域に対する、
域の生活用水確保の手段として小規模ダム事業の走り
那覇空港自動車道整備促進既成同盟会の設立慫慂で
となって現在工事中の我喜屋ダムにつながっています。
あった。なぜそのような迂遠なことをするのか、
との非難が
最も印象深い思い出は、本土復帰10周年を記念して
あったかと思われるが、
これこそが、沖縄における社会基
昭和57年5月28日に全国治水大会が開催されたことであ
盤整備のための公共事業実施の基本でなければならな
ります。全国各地から千五百余名の関係者が沖縄市民
い、
と考えたのである。
会館に参集して行われたのですが、
これほどの規模の全
当時沖縄では本土復帰後既に15年を経過し、
公共事
国大会は土建部としては初めての経験であり、
大会事務
業は見かけ上順調に推移していたが、国と県の『造って
局を努める私達の苦労は並大抵のものではありませんで
あげましょう』式の親切な優しい執行方法が一般的で、
全
した。大会が終わり福地ダム等の現地視察に出発する頃
国各地の既成同盟会の活動にみられるような、
地域が必
67
〈 No.22〉
要とする社会基盤整備を、
地域が求めるという住民参加
齢期の娘をもつ親が、
『うちの娘はどうなるのですか』
と人
の運動はほとんどなかったのである。そのような指導が行
に聞くのと、全く同じであるように思われたのである。自ら
われたということも寡分にして聞かない。
受益する社会基盤に対するこのような無関心さは、
いま
実際に復帰後の沖縄の公共事業は、昭和50年の沖
ではもう過去の遺物であることを祈るものである。沖縄復
縄国際海洋博覧会と62年の国民体育大会という大イ
帰関連事業としてスタートしたモノレールは、復帰30周年
ヴェントを強力な牽引車にし、
国と県の主導で実施されて
を過ぎた平成15年に供用されると聞く。心からお慶び申
きた。
しかしながら、
国体のあとには、
公共事業を主導する
し上げたいが、
それにしても、
本当はもう少し迅速であって
錦の御旗としてのイヴェントはもはやなく、
社会基盤を求め
ほしいと思った。沖縄県は長寿県として著名であるが、
如
る地域住民の理解と協力に基づく、住民参加に期待せ
何に長寿でもこんなに長くかかったのでは、
役にたたない
ざるを得なくなったのである。那覇空港自動車整備促進
のではないか。
既成同盟会は、
ちょうどそのような背景のもとに設立され
厳しい話の後に、
最近のよい話をご紹介する。住民参
たのであった。これには、県の川井優技監の全面的・献
加の最近の事例では、県は新石垣空港の設置位置迷
身的なご協力があった。全国津々浦々に存在すると同様
走の反省に立ち、
宮古郡島の伊良部架橋は計画策定に
の既成同盟が、
沖縄にもあってしかるべきである、
というの
当たり、平成11年度に地域各界の関係者・住民参加の
が両者に共通意識としてあったと思う。
手法を活用し、
事業の実施とルート等に関する基本の合
意を首尾よくとりつけた。
これは公共事業実施の大切な
第一歩であり、
わが国公共事業のあり方としても極めて
進取的であり、
珠玉の成功例である。その新石垣空港計
画も同じ手法で地元住民の合意を得たと聞いている。
住民参加による公共事業実施に関しては、最後進県
であった沖縄がいまや最先進県に踊りでた感があり、
嬉し
い限りである。
なお、那覇空港自動車道は、平成12年の沖縄サミット
開催時に一部区間の供用が行われた。随分長い年月を
那覇空港自動車道(南風原自動車道)
要し、
余り褒められた結果とはいえないが、
既成同盟会の
支援がなければ更に多くの年月を要したのは事実である
既成同盟の設立総会は、昭和63年6月30日に西銘順
と確信する。
次知事を会長に頂き、
開催された。何故知事(のような大
漢那ダムについても2,
3記したい。漢那ダムは、昭和62
物)
を既成同盟会のごとき
(沖縄では実績の乏しい怪し
年12月に補償基準が妥結し、
63年5月に起工式が挙行さ
げな)組織の会長にするのか、
との議論がそのとき県庁
れたが、
その前段の用地交渉、
ダム周辺整備条件の交渉
内にあったと聞いたが、
沖縄の道路網の背骨を構成する
で相当に難航していた。
これらの担当は北部ダム工事事
那覇空港自動車道の建設が、県知事の仕事でなくて一
務所であり、
所長以下精力的に取り組んでいたと思うが、
体なんであろうか、
と仰天したことを思い出す。
問題解決のために県の宮城副知事に格別の協力方を
那覇空港自動車道に関し、
在職中、
63年5月の県議会
求めた。実際に総合事務局側は、運輸省から出向の廣
議員の選挙時に、
候補者の選挙公約を全部調べてみた
本文泰開発建設部長が日参し、
これに県の金城企画部
が、
ただ一人の候補者も那覇空港自動車道整備に言及
長が同行・協力して下さったのは効果的であった。筆者
せず、多くは沖縄振興開発計画の完全達成といった総
も、漢那・松田線の県道昇格にさいしては、道路局路政
花的・抽象的な総論ばかりが目立っていたように記憶す
課に働きかけを行った。
る。
さて、
ダムの起工、
定礎及び竣工にさいして、
必ず式典
ついでにいえば、
そのとき大懸案であったはずの、
モノ
が行われるが、
このときの主催者、来賓等の挨拶に大い
レールの建設促進を訴えた候補者も、
ただの一人に過ぎ
に不満を抱いていた。
というのは、
ほとんどすべての挨拶
なかったのである。
こんなことでよいのか、
というのが怒り
者は、
ダムの竣工に伴い沖縄の水事情は大幅に改善さ
にも似た気持ちであった。更にこれに関連して、在職中
れ、
目出度し、
で締めくくる傾向があったからである。実際
パーティーの席などでよく聞かれたことに、
『沖縄のモノ
に、
開発建設部ではいくつかの水資源開発計画を抱え、
レールはどうなるのですか』というのがあった。
これは、適
事業化に向けて職員が一丸となって努力中であるにかか
68
〈 No.22〉
特集シリーズ
わらず、
である。挨拶者は、
引き続き水資源開発のための
首里城正殿の石龍を模したものを置いているが、
この竜
ダム建設の協力をお願いします、
と国の方針に沿う着地
頭をどの向きにするか委員会で議論があったと聞いてい
の文言を述べるべきであったのである。
ここまで言及した
る。
人は、
著者の知る限り元県副知事を勤めた国会議員ただ
一人であった。
高規格道路にしても水資源開発にしても、
沖縄の公共
事業は生活に根ざした現実のものでなければならず、
そ
のために必要な公共事業は、利用者たる地域住民の理
解と意思に基づき、
国と県に対し具体的に大いに働きか
けて貰いたいと思うのである。
もちろん、
国と県は地域住
民の事業の必要性をよく説明することは当然である。
当時:沖縄総合事務局 次長
現在:(財)海洋架橋調査会
終戦直後の仮設明治橋
在勤中に給水制限を全く経験しなかったのは第一次
振興計画の成果のあらわれであったと思うが、道路にお
明治橋と雨と
矢部 正宏
いては水にかかわる問題があった。その一つは58号宜野
湾市伊佐地区の浸水補償である。58号の横断管きょの
断面不足のため、
雨水が道路にせき止められて排水でき
ず家屋が浸水被害を受けたとのことで、被災後かなり時
間が経過していた。市ともいろいろ話し合ったが事情は
昭和58(1983)年7月から61年5月まで企画調整官とし
理解できたものの結局地元の要望には応えられなかっ
て勤務した。振興計画も第二次に入っていて多くのこと
た。 もう一つは331号豊見城村名嘉地の路面冠水であ
が軌道に乗っていたことと、
第一線で関与した事態が少
る。
これも道路横断水路の断面不足などのために降雨時
なかったので特別に強い印象のある出来事は少ないが、
に路面に水がたまることがあり、
通行規制区間となってい
いくつかのことに沖縄らしい事情を思い出す。
た個所である。昭和59年の梅雨どきであったと思うが、
沖
着任後しばらくして331号・332号山下垣花立体交差
縄訪問中の皇太子殿下がここを通って南部へ行かれる
が完成したが、
これに続くように59年2月に始まった58号
ことになっていた日に雨が降り続き、路面冠水の懸念が
明治橋の架け替えは思い出としては大きい。それは、現
出てきた。331号を通れないときに迂回路を利用すること
場からわずか200mほど離れたところに住んでいたため、
になっていたが、
警備の都合上どのルートをとるかの決定
仮橋の架設から旧橋撤去、
下部工、上部工とほとんどの
は3時間前にする必要があるといわれていた。当時の南
工事を朝夕ながめていたという個人的な事情によるもの
部国道事務所長が雨の降りぐあいを見ながら大変気をも
だが、
沖縄ならではの話題もいくつかあった。 一つは基
んでいたが、
何とか通行の支障にはならなかった。
この全
礎工事中に不発弾が見つかったことである。着工前に調
国でも珍しい路面冠水を理由とした直轄国道の通行規
査をしていたのだが見落とされていたのであろう。杭の打
制はその後も在任中には実施されたことはなかった。 こ
設を予定していたので大事故になるおそれもあったが、
幸
れら二つのケースはすべて道路側の問題とはいえず、
し
い注意深い施工の中で発見され、
自衛隊で処理しても
たがって解決も容易ではなかったのであろうが、
沖縄の降
らった。沖縄の人にはそれほど珍しくなかったかもしれな
雨特性をどうとらえるかという技術的な問題と、
地域の排
いが、
信管の除去に小規模とはいえ火薬を使うのは驚き
水問題について道路としてもう少し配慮すべきではな
であった。仮設の仮締め切り矢板について設計時の調
かったかとの感じを持った。
査が不十分であることを会計検査で指摘されたのも沖縄
なお、
在任中に沖縄建設弘済会が発足したが、
これが
特有の資材事情のためであった。一方で橋面舗装や高
総合事務局のよき協力者となって、
組織体制の面ででき
欄、
親柱などのデザイン面で沖縄色を出すことは多くの人
なかった技術上の課題の解決に貢献しているところは大
から期待されていた。外部の方々にお願いした委員会で
きいと思う。
の意見を入れてできあがった現在の姿は、
那覇市の玄関
としてふさわしいものになっていると思う。親柱の上には
当時:沖縄総合事務局 企画調整官
現在:日鉄鉱コンサルタント株式会社
69
〈 No.22〉
困難であり、より正確な調査手法の確立が要求され
コンクリート橋の塩
害対策
野里 耕正
ていた。そこで、塩害の早期発見が可能であるとさ
れる分極抵抗法に着目し、その調査手法の確立を目
指して調査・研究に着手した。本調査・研究は、琉
球大学の大城武教授の指導の下、(社)沖縄建設弘
済会の協力により、平成元年度から同3年度まで引
橋梁の大きな課題、それは「耐久性の向上」であ
き続き実施した。内容は、分極抵抗法を用いての実
る。沖縄県内の橋梁の特徴は、コンクリート橋が大
橋調査と供試体による促進試験であった。塩害の早
半を占めているということである。海岸線の近くに
期発見は、初期段階の鉄筋腐食状況を的確に把握す
建設された橋、離島架橋等極めて厳しい環境下にあ
ることが必要である。分極抵抗法は、自然電位法で
る。したがって、沖縄においてコンクリート橋の
は判断できない軽微な腐食状況を把握するため、コ
「耐久性の向上」を考える場合、塩害対策は不可欠
ンクリート中の鉄筋表面の分極抵抗値を電気化学的
な課題である。
に測定する手法である。実橋調査は、塩害の損傷が
10年前をふりかえり、当時の塩害対策の取り込み
まだ現れていない14橋について実施した。また分極
状況について、主に維持管理の観点から述べてみた
抵抗法の検証のため、実橋のコンクリートをはつり
い。平成元年度から同3年度、私は沖縄総合事務局
鉄筋を露出させ腐食調査も行った。供試体による促
開発建設部道路管理課長の任にあった。コンクリー
進試験は「分極抵抗法の評価基準値」を設定するた
ト橋の塩害対策について中・長期的な補修計画を立
め、供試体に塩水を噴霧し、塩害を促進させ分極抵
案する必要があった。当時、塩害を受けた橋梁の点
抗値の変化を観測した。実橋調査と促進試験の結果
検は目視による外観調査で行われており、損傷度の
から、鉄筋コンクリートの塩害進行状況を「健全
正確な評価は困難であった。その結果、橋梁の補修
域」、「遷移域」、「活性域」の3領域に明確に分
は、コンクリートのひび割れ発生後に行われること
類できることが判明した。すなわち、分極抵抗法は
が多かった。そのため、補修時期が遅れ、十分な補
初期段階の塩害進行状況を把握するための有効な調
修効果が期待できないこと、また多額な費用を要す
査手法であることが確認できた。これらの調査成果
ること等の問題があった。そこで、この様な重度の
等を踏まえて、平成8年4月に「コンクリート橋塩害
損傷に至る前に、早期に補修を行うため適切な塩害
調査マニュアル」(案)が作成され、分極抵抗法も
調査を実施する必要があった。
塩害調査の一手法として位置づけされた。
最近、コンクリート橋の診断や補修・補強に関し
て様々な新技術、新工法が開発されているところで
あるが、更なる技術革新と日常の点検業務等に従事
する人材の育成が必要であると考える。沖縄県内の
主要なコンクリート橋は、そのほとんどが復帰後に
建設されたものである。まだ30年程度しか供用され
ていないが、劣化の兆候を示しているものが多数見
受けられる。塩害の早期発見と適切な補修等によ
り、橋梁の長寿命化を目指して地道な努力が必要で
ある。
当時:沖縄総合事務局開発建設部 道路管理課長
現在:(株)朝日建設コンサルタント
沖縄に多いコンクリート橋
供用中の橋梁に対する塩害調査は、橋梁を損傷す
ることなく、いわゆる非破壊的手法が要求されてい
た。当時、自然電位法が一般的な手法として実施さ
れていたが、自然電位法だけでは塩害の早期発見は
70
〈 No.22〉
特集シリーズ
計画されそのうちの4.5kmが昭和62年度に事業化さ
中南部地域の国道整備
計画について
青板 武
れている。那覇市側については嘉手納飛行場クリア
−ゾ−ンに掛かり航空機の離発着時に道路照明によ
る幻惑、大規模構造物による心理的恐怖感をパイ
ロットに与える懸念があると指摘された。その対策
としてクリア−ゾ−ンに掛かる区間の道路構造は半
本文を書き出すにあたり自分と沖縄の関わりが遙
地下・半盛土(人工島)としボックスを通しトンネ
か昔にあったことを思い出した。
ル型式とした。
昭和30年代中頃、群馬県北部にあった建設省の国
平成2年6月1日嘉手納バイパス関係の米軍
道事務所に勤務していたころの事である。沖縄返還
(陸・海・空・海兵)四軍司令官との協議調整の場
について國全体の盛り上がりも少なく私共もその内
がセットされた。長い間の調整結果の合意の場でも
容について詳細な事は分らずにいたが、地区の方々
あった、前所長と米軍との調整も進んでいたことも
から沖縄返還について、北海道から沖縄まで歩いて
あり,スタックポル四軍調整官の議事進行もスム−
皆さんに訴えていく運動があるのでぜひ参加してほ
スに進み基本的事項ついて了解が得られた。会議終
しいとの要望があり参加したところ先頭の横断幕を
了時四軍調整官から国道整備に当たっては沖縄県民
持たされ「沖縄返すまで あ−るけ あるけ」の大
のため、地域住民のためと我々米軍のためより良い
合唱をしながら行進したことをおもいだした。
道路整備をしていただきたいとの言葉を残し退席さ
昭和47年5月15日本土復帰にともない本島の中南
れたとが印象深く残っている。 部地域における直轄国道の改築、修繕、維持管理を
ここでとよみ大橋について述べてみたい。一般国
担当するため設置されたのが「南部国道」である。
道329号那覇東バイパスの国場川と饒波川の合流地
点は県内最大の渡り鳥の中継地で国際鳥獣保護区域
となっており自然環境保護団体は代替案を提出しル
−トの変更を求めたが国、県側の検討結果、現在
ルートが決定された。
橋種決定については、「橋種決定委員会」を設け
地域性を充分考慮し長径間で桁下高の確保可能な斜
張橋が決定された。(このとき橋名は公募の方向で
との合意あり)構造諸元は3径間連続鋼斜張橋.橋
長300m.支間割149,250m+79,000m+70,250 幅員
W=24.5m∼26,800m 主桁は捩じり剛性の確保と
台風安定性を考慮し、巾25.3m桁高2.5mの扁平な
逆台形鋼床版3室箱桁とし鋼床版板厚12mm、下フ
ランジは最大板厚18mmを確保、主塔は開放感のあ
る河川空間に架かる橋であり視認性も高いことから
嘉手納バイパス計画図
逆Y脚独立柱(65,500m)としケ−ブルとバランス
のとれたデザインとなっている、ケ−ブルはマルチ
私の在任期間は平成2年4月∼平成4年3月までの
ファン形1面ケ−ブルを採用ケ−ブルには有害な振
2年間であった。
動の発現がないよう制振装置を設置している、PC
「南部国道」の主な事業として以下のとおり述べ
鋼線7φ×241本、7φ×283本の2種類を使用、
る。
鋼線は亜鉛メッキをしてポリエステル管で補覆して
嘉手納バイパスについては、嘉手納町の85%を占
いる、主要鋼材=SM58.53.58Y.SS41 鋼重=
める嘉手納飛行場のため比謝川よりの狭隘な地域に
3614t塔部基礎構造は鋼管矢板井筒、深さ9,500m と
市街地が形成されその中心に嘉手納ロ−タリ−と交
なっている。 斜張橋については、関東地建に在職
通機能が著しく低下し交通障害となっている。これ
中利根川に架かる「水郷大橋」の調査設計を担当し
らの問題解決に向け延長12kmの嘉手納バイパスが
たこともあり懐かしい思いがした。
71
〈 No.22〉
沖縄で始めての斜張橋でもあり地域のシンボルやラ
ンドマ−クとしての役割も大きいことから皆さんの関
心も高いため新聞に応募要領を掲載し学校を始め関係
南伸道について
機関の協力を得て橋名を公募することになった(合意
三輪 瑛之祐
事項もあり)。そのため学識経験者、地元行政代表者
等からなる「橋名検討委員会」を設置広い視野に基づ
いて決定した。応募総数は1459点、第1回委員会では
私は昭和61年2月に日本道路公団沖縄建設所に赴
事業の経緯周辺環境等々の説明後8点に絞り込みを行
任した。その頃は、南伸道建設の真っ最中で、沖縄
い、第2回委員会で各委員全員からの発言を受け消去
県が国体開催県として全国一巡目の最後として、昭
法で審議「しらさぎ大橋」と「とよみ大橋」の2点が
和62年10月25日から沖縄国体(海邦国体)が開催
最後に残り「とよみ」とは古語の「響」の意味であ
されるについて、南伸道がそれまでに開通すべき任
り、「おもろそうし」では「鳴り響く」(とよむ)と
務であった。そこで、南伸道の計画から開通までの
使われており名高い橋、美しい橋、有名な橋を意味す
思い出を述べて見たい。
ることまた橋の姿がハ−プに似ていることからいかに
沖縄自動車道[南伸道(石川市∼那覇市間)]
も美しい音色の響きがイメ−ジ出来ることから「とよ
31.4㎞は、昭和54年3月に第8次施工命令を受け、
み大橋」と決定した。
本島の中南部都市圏と北部の名護市とを結ぶ自動車
空港線拡幅について言えば、一般国道332号那覇
専用道路として計画され、北部区間(名護市∼石川
空港への唯一のアクセス道路としてまた来沖する
市)25.9㎞と合わせて全長57.3㎞の高速道路として
人々にとってのアプロ−チになる最重要な路線と
計画された。調査路線選定、用地買収、と問題も多
思っていたが時間的に特殊な利用形態になるため整
かったが、県・市町村及び地元の協力により進ん
備が遅れていたように思われる。
だ。環境アセスメントの一環として、文化財分布調
観光時期に本土に帰る要人が交通渋滞に巻き込ま
査の結果南伸道の建設区間内には、古我地原貝塚・
れ苦情が飛び込んでくることもあり乗り遅れた人た
知花遺跡・竹下遺跡・ヒニグスク・石嶺坂石敷道・
ちも多くいたのではないかと思われ早期整備の必要
イシグスク・拝山遺跡の7カ所の調査が行われた。
性を強く感じた。平成5年度に全国植樹祭が沖縄で
開催されることになり、それからは急げ急げと追い
まくられた、しかし那覇軍港と自衛隊基地に挟まれ
県の下水処理場等簡単には片づかない事が多く用地
課長を先頭に県の協力を得ながら必死になって頑
張って工事に着手する事が出来た。道路植栽につい
ては沖縄の玄関口として周辺景観に調和した道路緑
化を目指し亜熱帯性の特性を生かした緑化植栽の配
植を計画した。
中南部地域の道路整備については主要な道路もま
だまだその質については不十分でありこれからの社
会生活活動を考えるとき快適性、安全性、とゆとり
石川橋(RC13径間連続充腹アーチ橋)
を持った道路造りが出来るよう関係者の方々の配慮
南伸道の31.4㎞のうち21%の6.6㎞は4ケ所の米軍基
が望まれるところである。
地(嘉手納弾薬庫、キャンプシールズ、嘉手納飛行
当時:沖縄総合事務局 南部国道事務所 所長
現在:日本道路株式会社
場、キャンプズケラン)を通過しており、100戸以
上の米軍軍人家族住宅と諸施設及び約30基の弾薬庫
が支障となり、これら施設の補償や移転の必要が生
じた。
工事の特色として島尻泥岩という新第三紀層の泥
岩処理がある。この泥岩は乱さなければN値50∼70
を示すが、乾燥繰り返しにより、直ちにスレーキン
72
〈 No.22〉
特集シリーズ
グを起こして粘土化し著しく強度が低下することか
ら、沖縄では「クチャ」と呼ばれ、大規模工事の実
績がないことから種々の試験を実施しながら工事を
海邦沖縄の玄関づくり
進めた。沖縄地区は、硬岩(コーラル)で当初発破
施工で計画していたが、家屋・墓地など周囲に発破
での影響があることと、硬岩掘削には有効でないこ
とから掘削工法を検討した結果、基本的に大型ブ
歴代の開発建設部長同様、私も殆どの時間を、港
レーカーにて施工をおこなった。橋梁形式につい
湾、空港よりもダムや道路、公園などの仕事のために
て、北部区間は工期短縮、現場工事の省略化、等に
さいていたように思う。2年半の在任中にかかわった
より全て鋼橋を採用されたが、南伸道については比
ものの中で、特に印象に残っているのは、一つは、漢
較的緩やかな地形を通過し、橋梁延長としても約1
那ダムの地元同意にかけずり廻って、なんとか着工ま
割程度で、スパンも30m以下がほとんどであること
でもっていけたこと、もうひとつは、首里城復元のた
から標準的なRC又はPCの中空床版桁・箱桁橋が適
めに知恵をしぼったことである。沖縄の恒常的水不足
した。又沖縄は亜熱帯海洋性気候に属し、年間を通
解消と沖縄県民の心のよりどころの再建という、大変
じて高温多湿であること及び台風などの気象条件に
やりがいのあるものであり、そのことに関与できたこ
より、コンクリート構造物や鋼構造物の塩害が顕著
とは、幸せだったと感じている。
である、その対策も種々の配慮を行っている。喜舎
場トンネルは文化財「ヒニグシク城趾」がある標高
120mの丘陵地を貫く唯一のトンネルで上下線中心
間隔が11.5mのメガネ構造となった。沖縄市字山里
∼山内間約1.5㎞は住居専用地域及び県道・市道・
軍道を横断する為半地下構造で通過している。石川
橋はRC13径間連続充腹式アーチ橋(土砂充填式)
で、支承、伸縮装置が不要で維持管理が容易な新し
い工法で、昭和62年度の土木学会「田中賞」を受賞
した。
又 いまだに地中に不発弾が多数残存しており、
沈埋トンネルの計画図
工事中に発見された、5,000発にのぼる不発弾対策
さて、港湾、空港についてであるが、復帰から10
も挙げられる。
年間における諸先輩のご尽力により、本島及び先島
以上走尾って述べたが、此の施工区間に全国建設
での整備が着々と進められた。私たちはそれを基本
技術協会「全建賞」を受賞した。昭和62年10月8日
的に継承し、次の飛躍への準備をした10年間であっ
に無事開通したが、この日は又、我が国の高速道路
たように思う。那覇港管理組合の発足と浦添地区へ
の供用延長が4,000㎞を越える記念すべき日でもあ
の展開、中城湾港の開発、那覇空港の新ターミナル
り、日本列島を象形した高速道路4,000㎞達成の記
などは過去20年近く前にその基礎がつくられたもの
念碑は、最南端のパーキングエリア、中城PAに建
であった。関係者の話も伺いながらその辺をいくつ
てられている。
かにしぼってまとめてみた。
南伸道と呼ばれている那覇∼石川間が完成して既
那覇港の新計画と管理者問題について言えば、天然
供用区間の北部区間と連結すると全長57㎞となり、
の良港那覇港は、二つの大きな問題を抱えていた。一
文字通り沖縄本島における交通の大動脈を形成する
つは、台風常襲地帯の波浪対策である。大水深、高波
こととなる。交通、物流の大きな動脈となり輸送時
浪に対処するための防波堤工事は、設計から施工に至
間の短縮、一般国道58号を始めとして現道の交通混
るまで多くの困難を伴った。防波堤に使用した消波ブ
雑の緩和、さらに広域生活圏の形成と地域経済の発
ロックは、30トンを超えるかみ合わせの良い鉄筋入り
展などに大きく寄与すると見られている。
のものを使った。工事そのものは大変ではあったが、
当時:日本道路公団 沖縄建設所 工務課長
現在:株式会社 吉田組
その防波堤のブロックやケーソンに様々なサンゴが自
生し始め、今日では遊覧船が見に来るまでになってい
73
〈 No.22〉
る。ブロックに凹凸をつけるなど工夫し、そこに生え
那覇空港構想が遠のくとの反対意見もあった。しか
るサンゴの生態に関する調査も、十年以上継続してお
し、当時の状況は受忍の限度を超えようとしており、
り貴重な記録となっている。
仮に、空港計画が整ったとしても、着工して竣工する
他の一つは、南側を空港と軍港にさえぎられ発展の
までには、相当の年月を要する訳だから、ターミナル
余地が乏しいことである。そのため空港から浦添に至
ビルの新設は、当時の沖縄県内外の方々の英断だった
る一帯を縦に道路軸を通し、埋め立て地に港湾や緑地
と言える。また、沖縄サミットに役立って良かったと
などを展開する新しい計画を立案した。また、行政が
思っている。今後は、一日も早く滑走路二本の大那覇
2市にまたがることから、那覇、浦添両市および県か
空港が実現することを願っている。
らなる、一部事務組合方式による港湾管理への移行に
最後に、私たちのように、沖縄総合事務局に派遣
も着手した。今春管理組合が発足し、また、空港にも
され、勤務した者の多くは、沖縄の人々のために役
つながる沈埋トンネルも難工事ではあるが、着々と進
に立つ仕事ができたことを大変うれしく思ってい
んでいる。今後は那覇軍港の移転や浦添地区開発が焦
る。沖縄を離れて長い年月が経っているが、今も最
点となるが、対話を重ねて対立の構図ではない解決を
近のことのように当時を思い出す。そして、離れて
してほしいと願っている。
いても常に沖縄のことが気にかかり、報道されるな
次に中城湾港と泡瀬地区について述べる。沖縄の
どするたびに、沖縄に思いを馳せている。
自立的発展を図るためには、農業を基礎にしつつ、
観光や工業を興し、基地や公共事業に依存しないも
・本稿は廣本様はじめ1990年頃まで開発建設部長勤務を
された数名の方々に執筆して頂きました。
のに変えて行くことが必要とされた。その工業の主
役を担うのが、中城湾港であった。私の二代後に同
港の一部竣工、第一船入港が実現し、また中核企業
中城湾港は、沖縄東海岸南部特有の軟弱でシルト
南北大東港の港湾整備
について
質の多い粘性土のため、浚渫土による埋立工事は大
大浜 方育
として、県内有力企業である拓南製鉄が拡張移転し
て立地した。
変な困難を極めた。浚渫土のままでは、陸上機械で
の工事が不可能であり、シートを敷設した上で、地
先日沖縄建設弘済会編集事務局より会誌「しまた
盤改良がなされた。
てぃ」に復帰30周年を記念して投稿依頼を受け、特
しかし、一方では、きれいなサンゴ礁からなる西海
に表題についての注文で、当時携わったことを思い
岸と異なり、シルトを含む干潟には、様々な生物が生
出し記述してみたい。
息し、多様で独特な場を形成しているようである。そ
両島は沖縄本島の東方約360kmの太平洋上にあ
のことが、その後に予定している泡瀬のプロジェクト
り、周囲は断崖絶壁の地形で入江、砂浜はなく、海
などの進捗を、難しくしているという状況になってい
岸線から100mも離れると急激に深くなり2000mを
る。何とか解決の糸口を見つけて、本島東側地区発展
越す深海につながり、隆起環礁の島となっている。
のモデルになってほしいと思っている。
かかる突出した地形から台風の波浪で島が横巾れす
次に那覇空港旅客ターミナルについて述べたい。
ることもあるようだ。港はそれぞれ3港(北・西・
那覇空港は今、滑走路2本、沖合展開の可能性へ向
南側)あり、だいとう丸(699G/t)が就航してい
けて調査、計画が練られている。しかし、10∼20年
るが接岸には時間を要する。接岸の方法は、直接接
前の時点では、3000メートル滑走路への延長が実現
岸はできなく、常に岸壁から10∼15m離し、沖合に
したばかりで、どう見ても21世紀初頭に2本目の滑
設置したけい船ブイと陸のけい船柱に4本のロープ
走路はできる状況にはなかった。一方、ターミナル
でけい留し平衡を保って碇泊し荷役作業を行ってい
ビルは、狭隘で旅行客などでごった返しており、
る。荷役作業は岸壁上のクレーン車を使って下ろさ
サービスの悪い空港として有名であった。
れる。乗客はクレーンに吊ったゴンドラを使っての
そこで、自衛隊が使っている土地を一部譲っても
陸揚げである。
らって、南側へターミナルビルを移し、新設すること
両大東島の港湾施設の整備は、戦前東洋製糖社の
を計画した。この計画に対して、当時滑走路二本の大
時代から始まり各西港に艀揚場と突堤(EL+13.0)
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〈 No.22〉
特集シリーズ
に起重機を設置した簡易な施設としての機能を備え
望まれる。県の努力に期待したい。
たもので、荷役は艀によるものであった。琉球政府
おわりに復帰から30年を経過した今日では、3次
は昭和33年、村管理の地方港湾として指定し、さら
にわたる振興計画に基づき港湾整備が促進され事業
に復帰時の昭和47年に沖縄県管理の地方港湾として
費が約8,000億円投資されインフラが改善された。
両島に各3港を指定している。村管理時代の港湾整
今後とも、沖縄の港湾の望ましい方向へ発展してい
備としては、USCAR資金により亀池港の施設とし
くために、国・県・港湾関係者の一層主導的な役割
て、物揚場(−2.0m)、泊地浚渫、小規模防波堤
を果たされるようお願いする次第であります。
などでその他には西港の固定式簡易クレーンの設置
最後に申し伝えたいことがあります。沖縄の港湾
のみである。復帰語は第1次沖縄振興開発計画の最
指導についてご高承の方も多いと思うが、鮫島泰佑
終年次まで継続整備されている状況である。南大東
氏(元運輸省港湾局長)は、昭和39年日本政府の派
島では西港、亀池港で、2,000トン対応バース、北
遣技術者として来島され、沖縄の港湾事情をつぶさ
大東島では、江崎港、西港で、2,000トン対応バー
に調査され詳細な報告書をまとめられた。また安謝
ス、それぞれ港湾施設用地、泊地浚渫、道路工事等
地先の那覇新港整備構想(昭和42年策定)は昭和44
が完成し、定期船の直接けい留による荷役作業が行
年度より日本政府援助事業として着工された。当時
われており港湾の果たす役割は大きいものがある。
の琉球新報に新港建設スタート・バース難解消へ、
両島の港湾は急峻な海底地形のため防波堤の設置が
5万トン船舶も寄港可能等の大きな見出しで報道さ
困難で、岸壁と泊地の施設整備が主体となってい
れ、県民に大きな期待と感銘を与えたものである。
る。また両島とも島の北西南側に3港が指定されて
復帰後も沖縄の港湾整備の発展に寄与され、私も長
おり、風向きによって使い分けすることが可能で、
いお付き合いをさせて頂いたが、沖縄をこよなく愛
船舶んの安全性、荷役の効率化を図っている。尚台
され、また古酒通で度々ご高説、ご指導を受け賜っ
風常襲地帯の大東島では、港湾施設の災害も多く、
たことが忘れられない。同氏は昨年10月4日ご逝去
既設構造物の管理や工事施工には大変苦労している
されましたが、これまでのご功績に対し、深謝し、
状況である。
ご冥福をお祈り申し上げます。
当時:沖縄県土木建築部 次長
現在:石川島播磨重工業株式会社
都市モノレール建設の初期
の頃の思い出
高良 尚光
新生沖縄県が誕生してから今年で30年になった。
南大東港
この30年間は、本県の社会資本の整備にとっては、
両北港の既設岸壁等は築後22年経過し、防波堤が
有史以来の高度成長を遂げた極めて画期的な時代で
なく特に直接波浪の影響を受けるなど老朽化が烈し
あったと思う。
いことから、平成13年度より新規事業として陸地側
同時に、この時期の数多くのプロジェクトに多少
より道路、埠頭用地が工事に着手しているが、岸壁
なりとも関与することが出来たことを大変幸せに
(2,000トン級)については、台風に強い構造とす
思っている次第である。この30年間を今、改めて振
るため所管の南部土木事務所において、技術検討委
り返ってみると、色々なことが、まるで走馬灯のよ
員会を設置し、昨年、岸壁構造断面を決定してい
うに思い浮かんで来るところであるが、今回は復帰
る。私も委員として参画させてい頂いた。
特集の二弾目として、第二次振計の期間にしぼると
将来、南北大東港の整備については船舶の定時
のことであるので小生の思い出としては、来年暮の
性、安全性、荷役作業の効率化を図るためには新た
開業を目指して目下建設中の都市モノレール事業の
なけい留施設として防波堤スタイルの岸壁の設置が
初期の頃の問題等を思い起こしてみたい。
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〈 No.22〉
さて、小生は昭和54年に道路課長から都市計画課
長に配置換えになったが、その当時の都市モノレー
ルに対する一般的な認識は概ね次のようなもので
あったと記憶している。
①戦前の軽便鉄道(約70km)は今次大戦によって
消失したのでこれに類する施設の復活についても何
らかの形で国が責任を持つべきであるという意見が
多かった。
②中南部地域の幹線道路の交通事情は年を追って悪
化していたので、その緩和策と併せてこの地域の都
市機能の向上を図る必要があった。
モノレール完成イメージ図
③全国総合開発計画や第一次振興開発計画にも、軌
お検討すべき課題が残っているので事業化に踏み出
道系交通システムを導入するための検討を行う旨の
すには、まだ時期尚早であるとのことであった。
規定があった。
しかし、昭和54年6月5日西銘知事と平良那覇市
このようなことから、都市モノレールを導入するこ
長との会談が知事公舎で行われ、その結果として、
との必要性についてはどこからも否定の声は出てこな
「沖縄県と那覇市は都市モノレール事業を共同で推
かった。ところが、都市モノレールの導入を誰が決定
進することに合意した」旨を那覇市長が大々的に発
して、誰がこれの事業主体になるかと言うことになる
表したのである。
と、軽々に決断出来るものではなかった。それは何故
このように、沖縄都市モノレールを導入すること
かと言うと、都市モノレールの運営は、第三セクター
の決断は、お二人の会談の結果としてトップダウン
方式の企業になるとは言っても、収益法人である以
の形になって済んだが、このことを今振り返ってみ
上、開業後の企業運営の見通しについても把握してお
ると、お二人は都市モノレール事業のように公共性
く必要があったからである。その時点の調査、検討
は高いが、反面、収益性の面では不安も抱えている
は、沖縄総合事務局や那覇市が主体になって、数多く
という事業を導入するか否かの判断を事務方に求め
の項目に亘って実施されてはいたが、技術的なものが
ることに無理があったことをその時点で認識されて
主体であり、経営上の問題については、踏込んだ検討
いたので、このようなトップダウンの形式を取られ
はなされていなかったと思う。
たのではないかと思われる。
一方、政府サイドのスタンスも建設省都市局は、
この決断によって、本県の都市モノレール事業は
早期の予算要求を指示するほどの推進派であるのに
長い間の迷路状態から抜け出すことができたが、都
対し、同省道路局や開発庁振興局は、依然として慎
市モノレールの今日の姿を眺めていると、あの時点
重な姿勢を崩していなかった。そのような状況に
で極めて重要な英断を下されたお二人こそ、真に偉
あったので事務段階としては、どのような方途を選
大な為政者であったことを今頃になってつくづく
ぶべきか、相当苦慮したものである。従って、都市
思っている次第である。
モノレール事業を進めるか否かの判断は運営会社の
この日を境にして、県としても、都市モノレール
経営見通しの有無に左右される状況に追い込まれて
事業を積極的に推進していかなかればならなくなっ
来たが、運営会社の経営は利用客数の如何によって
た。都市計画課としては、取急ぎ、準備室を設置す
変化していくものであるので、的確な利用客数を予
ることとしたが、室の名称については他の交通シス
測することが極めて重要な事項になって来た。しか
テムとの比較検討や機種選定の選択肢を残すため
し、利用客数の予測と言うものは、どんなに理論的
に、苦肉の策として、都市軌道建設準備室とした。
に計算したところで、その前提条件の如何によって
沖縄県と那覇市の職員からなる混成チームが準備
は、大幅に変化していくものであるので、経営上の
室として発足したのは、昭和54年10月のことであ
不安要素については、依然として払拭することは出
る。準備室は、過去の調査結果を整理したうえで事
来ない状況にあった。
業計画としてオーソライズすると共に、国庫補助事
それで、昭和54年に入っても、城間部長と我々事
業の採択に向けての作業を開始した。その結果、昭
務段階の打合せでは、経営上の問題については、な
和56年度からは国庫補助事業にも採択されて、予備
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特集シリーズ
設計の実施、会社設立、特許申請と順調に作業を進
那覇市第一次総合計画(昭和51年)でその方針を
めてきたが、工事着手を目前にして沖縄開発庁から
打ち出し、久茂地一丁目地区の構想調査や基本計画
5箇条の難問をつきつけられて長い足踏み状態に
(昭和58年)が策定された。計画当時は、その地区
入ったのは御案内の通りである。
に保健所や病院、法務局、専売公社などが一体を占
難産の子ほど良く育つと言われるが、この施設が、
めていた。また、そこにクワーデーサーの大木が
本県の都市基盤として十分に機能を果たし、市民か
あって、木製のベンチの日除けや、雨をしのぐバス
らも末永く愛されることを願ってやまない。
停上屋の役割を果たしているのどかな風景があっ
当時:都市計画課長∼都市モノレール建設室長
現在:株式会社大城組
た。しかし、仕事帰りがちょっと遅くなるとその周
辺は、官庁街独特の風景に変わり、人気はなくな
り、実に寂しい街となって、道向かいの国際通りと
久茂地一丁目地区第一種市街地
再開発事業に寄せて
高嶺 晃
は別世界場所であった。
新しい那覇の顔をどうつくるか、すでに古くなっ
た建物を含め、地区の更新をいかにするか、地区の
関係者の気運は高まっていったが、公共機関や公社
の組織体内部の意思決定は容易なものではなかっ
た。また、事業を成立させるに重要な保留床は再開
去る大戦後、戦災復興土地区画整理事業(昭和29
発の重要なポイントであった。またそれに伴う隣接
年)によって、いち早く事業着手がなされ、県都と
の商業者の猛反対は、都市計画決定(昭和59年)後
しての先導的役割を果たすべき地区として、琉球政
も続いた。同時に、周辺地区に地区計画をかぶせ、
府及び米国民政府の移転の契機により、久茂地一丁
シンボル道路事業や、モノレール駅との連携、道路
目地区は、県都の中核機能を集積し、行政や経済の
の拡幅など、再開発地区をきっかけとして、新たな
中心地となった。本土復帰後、琉球政府から日本政
基盤づくりの取組みも積極的に進められた。県庁交
府の法体系において、都市計画行政をはじめ、あら
通広場や地下駐車場もその一環であった。
ゆる行政手法の変化に伴い、本土との格差是正に
建物の配置やデザインなども幾度となく変更がな
よって、都市の基盤整備は著しく進展していった。
された。沖縄らしさという命題と、商業施設という
中でも道路や交通関連施設はめざましいものがあ
機能が常にぶつかりあっていた。正面はどこだとい
り、軌道交通としての都市モノレールは、那覇市に
う素朴な疑問などもあって、県内初の再開発事業
とって大きな目玉であった。さらに、それと関連し
は、県外からも注目を集め、完成後も経営の保全性
た沿線開発として、新都心などの土地区画整理事
は、全国的にも優良な再開発の事例としてあげられ
業、そして拠点開発としての都市再開発事業がセッ
ている。当再開発事業は低迷する那覇市の中心市街
トで取り組まれた。
地の商業力を上げたと同時に、都市の活力の活性化
に大いに貢献したことは否めない。また、再開発事
業の実績として、今後の都再生に対する国の動きに
対応した新たな事業の展開にもその信頼性は大き
い。
公共事業削減の時代の流れの中で、民活による再
開発事業がより容易な制度が示されてきている。久
茂地一丁目地区再開発事業は、公共施行としての第
一号であった。
今後は民間施行等の展開が活発化するものと思わ
れるが、そのプロセスは変わるものではない。沖縄
型の再開発事業がひとつびとつ完成していくことを
期待するものである。
交通広場
当時:那覇市都市計画部長
現在:那覇市水道局水道事業管理者
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