『藤樹先生年譜』

『藤樹先生年譜』
尾崎正英 校注(日本思想大系29『中江藤樹』 岩波書店刊行)
* 1
あざな
*2 これなが
*3 かめい
* 4
先生、諱ハ原、 字 ハ 惟 命、性ハ中江氏、仮名ハ与右衛門、江西高嶋群小川村ノ人也。
* 5
* 6
* 7
めとりて
* 8
孝、諱某、字ハ吉次、同郡北川氏ノ女ヲ 娶 、先生ヲ藤樹ノ下ニ生ズ。先生、少ヨリ出
* 9
のち
*10 ちし
テ予州ニ仕、后、致仕シテ、藤樹ノ下ニ学ヲ講ズ。門人、従テ藤樹先生ト称ス。
いみな
げん
あざな
これ なが
先生、 諱 は原、 字 は惟命、性は中江氏、通称は与右衛門、近江国の西部の高嶋郡小川
あ ど が わ
村(現・滋賀県高島郡安曇川町上小川)の生まれである。亡き父の諱は某、字は吉次で
、同郡の北川氏の女(母)を娶って、先生を藤の木の下でお生みになられた。先生、幼
くして家を出て予州(伊予国の大洲藩)に仕え、後に辞職し、藤の木の下に学問を講じ
た。門人は皆藤樹先生と称した。
*1:原…訓み方は「げん」か。藤樹書院の祭壇中央に祀られている先生の神主〔仏教で
いう位牌〕の陥中(かんちゅう)に、小さな文字で「与右衞門公、姓中江、諱原(げん)、字惟
命(これなが)、大宗神主」と墨書。これによって『中江与右衞門惟命』が、先生の元服以
後における武士としての正式な名前。
*2:惟命…『藤夫人行状聞伝』
(志村仲昌)に「字ハコレナガ」
。
*3:仮名…通称
あ ど が わ
*4:江西…近江国の西部。小川村は現在の滋賀県高島郡安曇川町上小川。
*5:孝…亡父。
*6:吉次…通称徳右衛門。天正2年(1574 年)-寛永2年(1625 年)
*7:北川氏ノ女…藤樹の母。名は市(
「藤夫人行状聞伝」)1578 年-1665 年
*8:藤樹…邸内に藤の木があったことをいう。
*9:予州…伊予国の大洲藩を指す。
*10:致仕…辞職。
*11
うまる
慶長十有三年戊申三月七日。先生 生 。
*12
元和元年乙卯。先生八歳。在二小川一。
*13 へきじょう
*14
ならい
先生、 僻 壌 ニ生長ストイヘドモ、野鄙ノ 習 ニ染ムコトナシ。タマタマ隣家ノ児童ト
つね
*15
馴アソブトイヘドモ、毎ニ静ニシテ、カレニ相移ルコトナシ。
慶長十三年(1608 年)三月七日、先生生まれる。
元和元年(1615 年)、先生八歳。小川に在る。
先生、片田舎に生まれ育ったとはいえ、田舎の卑俗な風習に染まることはなかった。た
またま隣の家の児童とよく遊んでいても、常に静かにして、児童と同化してしまうこと
1
は無かった。
*11:慶長十有三年…1608 年
*12:元和元年…1615 年
*13:僻壌…僻地。片田舎。
*14:野鄙ノ習…田舎の卑俗な風習。
*15:相移ルコトナシ…同化してしまうことがない。
*16
二年丙辰。先生九歳。在二伯耆一。
*17
*18
是年、祖父吉長公ニ養 ル。此春、祖父、小川村ニ来テ、先生ヲ養ンコトヲ欲ス。父母
うべなわ
やむことを
、其一男ナルヲ以テ不レ 肯 。祖父、固クコレヲ強フ。故ニ不レ得 レ 已 シテ遠ク伯州
ニ遺ス。先生、性、頴敏・豪邁ニシテ、幼ヨリ物ニ愛著セズ。故ニ父母ヲ離テ遠ク行
かなし
よく
トイヘドモ、一毫モ 哀 ムコトナク、能祖父母ニ孝アリ。今年、始テ文字ヲ習ヒ書ス。
つたな
みずか
く
期年ニシテ殆ド能ス。祖父、モト文字ニ 拙 シ。毎ニ 自 ラコレヲ悔ユ。故ニ先生ヲシテ
みな
ひと
ツトメテ文字ヲ学バシム。遠近ノ書翰皆先生ヲシテ書セシム。人 皆、其幼ニシテ文字
ヲ能スルコトヲ驚歎ス。
元和二年(1616 年)、先生九歳。伯耆国(現・鳥取県)の米子で生活していた。
この年、祖父の吉長公の養子となった。この年の春、祖父が小川村に来て、先生を養子
にしたいという。父母は、ただ一人の男子だから、その願いは受け入れられないといっ
た。しかしながら、祖父は強く養子にすることを説いたので、養子を拒むことは叶わな
いと諦め、先生を遠くの伯州に遣わした。先生は、頭が良く、積極的で、幼い時から物
に執着しなかった。このため、父母から離れて遠くに行っても、全く悲しむことはなく
、よく祖父母を敬った。この年から文字の読み書きを習い始めた。一年間で文字の読み
書きが殆どできた。祖父は、もともと文字に拙かったので、常に自らを後悔していた。
このため、先生によく文字を学ばせた。祖父の手紙は全て先生が代筆した。人は皆、幼
いのに上手に読み書きできることを驚嘆した。
*16:伯耆…伯耆国(現・鳥取県)の米子。祖父吉長が米子藩主加藤貞泰に仕えていた
。
*17:吉長…藤樹書院祠堂神主陥中に「故徳左衛門公、諱松、字吉長、中江氏大宗始祖
」と記される。通称徳左衛門。名を松とするは、幼名を徳松といったのであろう
(
『湖学紀聞』
)
。1548 年-1622 年
*18:養ル…養子となった。
三年丁巳。先生十歳。在二予州一。
*19
*20 さこん
お お ず
*21
今年、伯州ノ大守左 近 公、予州大洲[へ]転任セラル。故ニ先生、祖父ニ従テ大洲ニ
*22 かざはや
往。冬、吉長公、 風 早 郡ノ宰トナル。先生、又従テ風早ニ往ク。
2
はげみならわ
まなぶ
*23 ていきん
祖父、先生ノタメニ師ヲ求テ、益々文字ヲ 励 習 シム。字ヲ 学 ノ間ニヲイテ、 庭 訓
*24 しきもく
*25 きとく
はなはだすみやか
・ 式 目 等ヲ学ブ。先生、コレヲ 記 得スルコト 甚 速 ニシテ、一字トシテ忘ルコトナ
おも えら
かくの ごとき
シ。祖父、悦デ以為ク、「 如 レ 斯 ハ壮年ノ人トイフトモ及ブベカラズ」ト。常ニ人ニ逢
ゴトニ、其敏ナルコトヲ称誉ス。先生、ヒソカニオモヘラク、「吾コレノミニ止ルベカ
ラズ」ト。
元和三年(1617 年)、先生十歳。予州(伊予国の大洲藩)で生活する。
この年、伯州の大臣である左近公(加藤左近大夫貞泰)が予州の大洲へ転封された。こ
のため先生は、祖父に従って大洲に往かれた。冬、吉長公は、大洲藩領内の早風郡内の
農村の民政を司る役人となり、先生もまた風早に往かれた。
祖父は、先生のために師を探し、益々文字の習得に力を入れた。文字を学ぶ間、『庭訓
往来』や貞永(御成敗)式目なども学んだ。先生は、これらを極めて早くに暗誦された
。祖父は、とても悦んで、「このようなことは、成人でもできるものではない」と言わ
れた。常に人に逢う毎に、先生の頭の良いことを褒め称えた。先生は、「私はこれでよ
しと思ってはいけない」と心の中で誓っていた。
*19:大守…中国における郡(または府)の長官。ここでは大名の意。
*20:左近公…加藤左近大夫貞泰。慶長十五年(1610 年)より米子城主(六万石)。元和
三年(1617 年)に大洲へ転封。同九年五月に没し、子の出羽守泰興が十三歳で藩主
の地位に相続した。
*21:ヘ…内閣本により補入。
*22:風早郡ノ宰…大洲藩領は伊予国の内、喜多・浮名・風早・伊予の四郡にわたって
こおり
いた。郡宰は 郡 奉行で、郡内農村の民政を司る役人。
*23:庭訓…『庭訓往来』。村町時代に編著された書簡文の範例集。日常用語を網羅し
、習字用の教科書として広く用いられた。
*24:式目…貞永(御成敗)式目。鎌倉幕府の法令集。近世にも教科書として用いられ
た。
*25:記得ス…記憶する。
五年己未。先生十二歳。
これ
一日、食スル時ニツラツラオモヘラク、「此食ハ此誰ガ恩ゾや。一ニハ父母ノ恩。二ツ
いま より
ちかうらく
ニハ祖父ノ恩。三ニハ君ノ恩。自レ今以降、 誓 ハ、常ニコノ恩ヲ思テ忘ルベカラズ」
ト。
元和五年(1619 年)、先生十二歳。
ある日、藤樹先生は食事をしている時にふと思った。「この食事は誰の恩によるものか
。一つには父母の恩。二つには祖父の恩、三つは君子の恩。今から、この恩を決して忘
れてはいけないと誓う。
」と。
六年庚申。先生十三歳。
3
是年、夏五月、大ニ雨フリ、五穀不レ実。百姓饑餓ニ及ントス。コレニ因テ、風早ノ民
*26
おお
、去テ他ニ行ント欲スルモノ衆 シ。吉長公、コレヲ聞テ、カタクコレヲトドム。郡ニ
*27 ろうにん
*28
*29
いう
ひそ
牢 人 アリ。其名ヲ須卜ト云。コノ者、クルシマト云大賊ノ徒党ニシテ、形ヲ潜メ久シ
まず
すで
また
クココニ住居ス。今ノ時ニ及デ先退ントス。彼已ニ他ニ行バ、百姓モ亦 従テ逃ントス
*30
ルモノ多シ。コレニ因テ、吉長公、僕三人ヲ遣シテカレヲトドム。僕等、帰ルコト遅
かつ
*31
シ。吉長公怪ンデ、ミヅカラ行テカレヲ止メ、且、法 ヲ破ルコトヲ罵ル。須卜、イツ
ようたい
おり
ワリ謝シテ吉長公ニ近ク。其様体ツネナラズ。コレニ因テ、吉長公、馬ヨリ下 ントス
うつ
うしろ
。須卜、刀ヲ抜テ走リカカリ、吉長公ノ笠ヲ撃。吉長公ノ僕、コレヲ見テ、 後 ヨリ須
きる
きず
こうむ
卜ヲ切。須卜、疵ヲ 蒙 ルトイヘドモ、勇猛強力ノモノナレバ事トモセズ、後ヲ顧テ僕
やり
つき
ヲ逐フ。コノ間ニ吉長公、鑓ヲ執テ向フ。須卜、亦回リ向フ。吉長公、須卜ガ腹ヲ突
とお
みずから
透ス。須卜、ツカレナガラ鑓ヲタグリ来テ、吉長公ノ太刀ノ柄ヲトル。吉長公モ亦 自
*32
*33 いまし しす
ノ柄をトラヘテ、互ニクム。須卜、痛手ナルニ因テ、倒テ 乃 死。須卜ガ妻、吉長公
すで
みずから
ノ足ヲトラヘテ倒サントス。吉長公、怒テ亦コレヲ切。已にシテ 自 其妻ヲ殺スコトヲ
のち
悔ユ。后、須卜ガ子、其父母ヲ殺セルヲ以テ、甚ダコレヲ恨ミ、常ニ怨ヲ報ントシテ
*34
おどろき
、シバシバ吉長公ノ家ニ火箭ヲ射入ル。其意オモヘラク、「家ヤケバ吉長公 驚 出ん。
出バ則コレヲ殺ン」ト。吉長公、其意ヲウカガヒ知ル。故ニヒソカニ火箭ノ防ヲナス
かえっ
。然レドモ其意、乃シ尽ク賊党等ヲ入テ、アマネク此ヲ殺ント欲ス。故ニ 却 テ門戸ヲ
*35
なん
バ開シム。乃シ先生ニ謂テ曰、「今、天下平ニシテ無二軍旅之事一。爾ヂ、功ヲナシ名ヲ
あぐ
おそいいらん
うた
揚ベキ道ナシ。今、幸ニ賊徒 襲 入 トス。我、賊徒ヲ伐バ、爾、彼ガ首ヲトレ、又、家
ひとり
*36
辺ヲ巡テ、賊徒ノ入ヲウカガヘ」
。先生、ココニオイテ毎夜 独 家辺ヲ巡ルコト三次ニシ
おそい
テ不レ怠。時ニ九月下旬、須卜ガ子、数人ヲイザナヒ、夜半ニ 襲 入ントス。吉長公、ア
いまし
ラカジメ此ヲ知ル。 乃 僕等ニ謂テ曰、「今夜、賊徒襲入ントスルコトヲ聞ク。イヨイヨ
*37
うた
かく
門戸ヲ開キ、コトゴトク内ニ入シメヨ。我父子マサニ彼ヲ伐 ン。爾ヂ等ハ門ノ傍ニ陰
レ居テ、鉄炮ヲ持、モシ賊逃出バ、コレヲウテ。必ズ入時ニアタツテコレヲウツコト
まず
ナカレ」ト。夜半、賊徒マサニ入ントス。僕、アハテ、先鉄炮ヲ放ツ。賊、驚テ逃グ
およぶ
。吉長公、此ヲ逐コト数町、遂ニ追 及 コトアタワズシテ返ル。於レ是、先生ヲシテ刀ヲ
4
おもて
帯セシメ、共ニ賊ヲ待ツ。先生、少モ恐ルル色ナク、賊来ラバ伐ント欲スル志、 面 ニ
アラワル。吉長公、先生ノ幼ニシテ恐ルルコトナキコトヲ喜ブ。
冬、祖父ニ従テ風早郡ヨリ大洲ニ帰ル。
元和六年(1620 年)、先生十三歳。
この年、夏五月、雨が降り続き、五穀が実らず、百姓は饑餓に苦しんでいた。このため
、風早の民は、逃散しよう考えるものが多くいた。吉長公は、このことを聞いて、逃散
を固く禁じた。一方、風早郡に須卜という浪人がいた。この須卜は、今治地方の来島海
峡に臨む島(来島)の大賊の徒党で、長いこと風早郡に潜んでいた。須卜は、この時に
先ず逃散しようとした。須卜が逃散すると、百姓も合わせて逃げようとするものが続出
した。このため、吉長公は、家来三人を須卜のところへ遣わして、風早に留まるように
説いた。家来の帰りが遅く、吉長公が不審に思って、自分自身で出向いて逃散を止める
と共に、法を破って逃散することを罵った。須卜は偽って謝り、吉長公に近付いた。そ
の様子が普通でなかったので、吉長公は馬を降りようとした。須卜は、刀を抜いて走り
掛かり、吉長公ノ笠を撃った。吉長公の家来はこれを見て、後方から須卜を切った。須
卜は傷を受けたが、勇猛強力な者で傷をものともせず、後を振り返って家来を追い払っ
た。この間に吉長公は、鑓を取って向かった。須卜もまた回り向いた。吉長公は、須卜
の腹を突き通した。須卜は、苦しみながら鑓をたぐって、吉長公の太刀の柄を取った。
吉長公も自らの柄を取って、互いに組み合った。須卜は痛手によって倒れてその場で死
んだ。須卜の妻が吉長公の足を取って倒そうとしたが、吉長公は怒って切り捨てた。吉
長公は、須卜の妻を殺してしまったことを悔いた。その後、須卜の子が父母を殺された
ことを知って甚だ恨み、復讐しようとして、時々吉長公の家に火矢を放った。須卜の子
は、「家を焼けば、吉長公が驚いて飛び出したところを殺してやろう」と思っていた。
吉長公は、その意図を思い当たり、内々に火矢の防御をした。吉長公は、火矢の防御を
したが、実のところ残党を入れて一網打尽にしてやろうと考えていた。このため、門戸
を開け広げておき、吉長公は藤樹先生に、「今は天下平定で軍隊もいないので、爾が功
を奏する機会がない。今、幸いにして賊徒が押し入ろうとしているので、私が賊徒を伐
ったら、爾は賊徒ノ首を取れ。また、家の周囲を巡って、賊徒が入ろうとするのを伺っ
ていなさい。」と言った。先生は、毎夜、一人で家の周囲を三度巡ることを怠らなかっ
た。そして九月の下旬、須卜の子が数人を従えて夜半に襲い入ろうとした。吉長公は、
予めこのことを知って、すぐに家来に「今夜、賊徒が襲い入ろうとしていると聞いた。
いよいよ門戸を開いて、賊徒全てを入らせよ。我ら親子が伐ってやる。爾らは門の傍ら
に鉄炮を持って隠れ、もし賊が逃げ出したら撃ち殺せ。賊徒が入る時に撃つなよ。」と
言った。夜半に賊徒が入ろうとした時、家来が慌てて鉄炮を放ってしまった。賊は驚い
て逃げ出してしまった。吉長公は、これを追いかけたが追い付かず、戻ってきた。そし
て、先生に刀を持たせて共に賊を待った。先生は、少しもおびえることなく、賊徒が来
たら撃ってやるという意気込みが顔に表れていた。吉長公は、幼い先生がおびえていな
いことを喜んでいた。
冬に、祖父に従って風早郡より大洲に帰った。
ちょうさん
*26:去テ他ニ行…逃 散 する。
*27:牢人…牢籠人の略称で、主家を離れた武士。のち「浪人」と書く。
*28:須卜…不明。
*29:クルシマ…来島。来島は今治地方の来島海峡に臨む小島の名で、中世以来ここを
根拠とした水軍(海賊)の将が来島氏と称せられ、豊臣秀吉のとき文禄四年(
1595 年)に来島通総が風早郡のうち一万四千石の領地を与えられたが、子の長
5
親の代の慶長六年に豊後国森に転封になった。右の須卜はその旧臣で早風郡の地
侍であろう。
*30:僕…下僕。家来。
*31:法…逃散を禁止した藩法。
*32:クム…組む。組打ちをする。
*33:乃…すなわち。すぐに。
*34:火箭…火矢。
*35:軍旅之事…軍事。戦争。
「旅」は軍隊の意。『翁問答』
(98 頁参照。
)
*36:三次…三度
*37:底本「サマニ」
。内閣本により訂正。
七年辛酉。先生十四歳。在二大洲一。
*38
おも え
或時、家老大橋氏、諸士四五人相伴テ、吉長公ノ家ニ来リ、終夜対話ス。先生以為 ラ
*39
かく
ク、「家老大身ナル人ノ物語、常人ニ異ナルベシ」と。因テ壁ヲ隔テ陰レ居テ、終夜コ
*40
レヲ聞ニ、何ノ取用ユベキコトナシ。先生、ツイニ心ニ疑テコレヲ怪ム。○嘗テ寺ニ
*41 しゅせき
*42
*43
入テ 手 跡 ヲ学ビ、其暇ニ詩・聯句ヲ学ブ。ママ佳作アリ。
*44
秋八月七日。祖母卒。歳六十三。
元和七年(1621 年)、先生十四歳。大洲で生活する。
ある時、家老の大橋氏が諸士4,5人を連れて、吉長公の家に来て、終夜話し込んだ。
藤樹先生は、「地位が高い家老の話は、常人とは異なる」と思った。よって、壁を隔て
て隠れながら、終夜対談を聞いたが、何も得るところがなかった。藤樹先生は、不思議
に思って、和尚に就いて、習字や漢詩、聯句を学んだ。いくつか良い作品もあった。
秋 8 月 7 日、祖母が 63 歳で亡くなった。
*38:家老大橋氏…大橋作右衛門重之か。重之は家老の中でも最も地位が高く、はじめ
千八百石、のち二千石。晩年に法名を栄忠と号し、寛永十六年(1639 年)に没した
。
*39:大身ナル人…身分が高く、大禄を食む人。
*40:嘗テ寺ニ入テ…底本には、この文の右に傍書して「イニ、於曹渓院天梁和尚ニ就
テ」とあり、
「イニ」とは異本に、の意であろう。
*41:手跡…習字。
*42:詩・聯句…「詩」は漢詩。「聯句」は漢詩を作るのに幾人かが一句ずつを作って
一遍にまとめること。
*43:佳作アリ…このあとに底本には「イニ、或人和尚ニ謂テ曰、中江原キワメテ聡明
、ナンゾ話則ヲ参セシメザル、其未悟ルベカラザルヲ以テカ、和尚曰、不レ然、我
コレヲ示サバ速ニ会得スベシ、然リトイヘドモ却テ満心ヲ生ゼンカ、コノ故ニツ
イニ示サズ」とある。
「話則」は、禅宗の公案。
*44:祖母…小島氏(
『湖学紀聞』
)
、諱は市(藤樹書院祠堂甫東夫人神主陥中)
。
八年壬戊。先生十五歳。在二大洲一。
6
秋九月二十二日。祖父吉長公、卒ス。歳七十五。
*45
はじ
みずからくゆ
先生、平居、僚友相応接ノ間、一ノ過失アレバ他ヲ恥、 自 悔。月ヲ越レドモ忘ルルコ
*46 しゅう お
ふかさ
*47 いじゅ
はなはだ
ト不レ能。其 羞 悪ノ 深 如レ此。故ニ嘗テ一物ノ 遺 受モ 甚 謹メリ。
元和八年(1622 年)、先生十五歳。大洲で生活する。
9 月 22 日の秋、祖父の吉長公が 75 歳で亡くなった。
先生は、日常より、一緒に仕事をしている仲間との間で、少しの失敗があれば恥じて、
翌月になっても忘れることなく、自らを悔いた。その悪事を恥じ憎む深さは尋常ではな
かった。故に、贈答の受渡についても、非常に謹んだ。
*45:平居…平常。日常。
*46:羞悪…悪事を恥じ憎む。
『孟子』公孫丑上に「羞悪の心は義の端なり」。
*47:遺受…贈ることと受けること。
寛永元年甲子。先生十七歳。
まねき
*48
夏、医師ノ 招 ニヨツテ、京都ヨリ禅師来テ、『論語』ヲ講ズ。此時、大洲ノ風俗、武ヲ
*49
ゆえに
専ラニシ、文学ヲ以テ弱也トス。 故 士人コレヲ聞モノナシ。唯先生独リ、往テコレヲ
けだし
この ゆえ
おさめ
ととの
聞ク。 蓋 先生、幼シテ祖父母ニ離レ、家ヲ継、君ニ事フ。是故ニ、身ヲ 修 、家ヲ 斉
*50
ヘント欲スレドモ、其道ヲシラズ。嘗テ『大学』ノ句読ヲ習ニ、「正心」「修身」「斉家
」等ノ語アルニヨツテ、儒学ニ身ヲ修メ家ヲ斉ル道アルコトヲ知ル。然ドモ教ルモノナ
も だ し
*52
フシテ黙止ヌ。今、禅師来テ講ズルヲ幸トシテ、潜ニ往テ是ヲ聞。『論』ノ上篇ノ講終
うれい
*53
テ、禅師京ニ帰ル。先生、又師トスヘベキ者ナキコトヲ 愁 テ、
『四書大全』ヲ求ム。然
レドモ人ノ誹謗を憚テ、昼ハ終日諸士ト応接シ、毎夜深更ニ及デ、業トシテ二十枚ヲ見
む
び
終テ寝ヌ。其通ゼザル所アレバ、思テ忘レズ。夢寐ノ間、人アリテ示ガゴトクニシテ、
まず
暁得スルコト多シ。先『大学大全』ヲ読コトホトンド百遍ニ及デ、始テ暁得ス。『大学
*54
』通ジテ後、
『語』
『孟』ヲ読ニ皆通ズ。
寛永元年(1624 年)。先生十七歳。
夏、医師の招きで京都から禅僧が来て、『論語』を講じた。この時、大洲の風潮は、武
を重んじて学問に力を入れていなかった。このため、論語の講話を聞く者はいなかった
。先生ただ一人、往って聞いた。ただし、先生は幼くして祖父母と離れ、家を継いで、
君子に仕えた。このため、身を修めて、家を立て直そうと欲してはいたものの、その方
法が分からなかった。以前、『大学』の読みを習うことで、「正心」「修身」「斉家」等の
言葉があり、儒学に、修身し、家を建て直す方法があることを知った。しかしながら、
教えてくれる人がおらず、そのままにしていた。今、禅僧が来て講話していることを幸
いに、密かに行って講話を聞いた。『論語』の上篇の講話が終わって、禅僧は京に帰っ
7
てしまった。先生は、また師とすべき人がいなくなったことを愁い、『四書大全』を入
手した。しかしながら、他人の誹謗を憚って、日中は終日諸士と応対し、毎夜遅くまで
、二十頁を見終えてから寝た。そして、分からないところがあった時は、忘れずにおい
て、人が来た時に示して、沢山教わった。先ず『大学大全』を 100 回ほど読み込み、始
めて理解した。
『大学』が理解できたら、
『論語』『孟子』を読んだがみな理解できた。
*48:禅師…禅僧。
*49:文学…学問の総称。儒学。
*50:句読…文章の切れ目。ここでは読み方を習うの意。
*51:正心修身…『大学』に、「其の家を斉へんと欲する者は、先づ其の身を修む。其
の身を修めんと欲する者は、先づ其の心を正しくす」云々とあり、格物・致知・
誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下を、朱子学では八条目という。
*52:論ノ上篇…『論語』二十篇の前半の十篇(学而篇より郷党篇まで)を上論とよぶ
。
*53:四書大全…四十二巻。明の成祖の永楽十二年(1414 年)に胡広らが勅を奉じて編纂
した書で、朱子の注を基本とし、その系統の学者の説を集成したもの。明代には
科挙の標準として尊ばれ、日本でも寛永三年頃から各種の復刻本が出版されたこ
とが知られている。藤樹が入手したのは無点の輸入本であろうか。
*54:語孟点『論語』と『孟子』
(の大全)
。
二年乙丑。先生十八歳。在二大洲一。
*55
春正月四日。本生ノ父吉次公、死ス。享年五十二。
寛永二年(1625 年)。先生十八歳。大洲で生活する。
正月四日の春、生みの父、吉次公、享年 52 歳で亡くなる。
*55:本生ノ父…生父。養父に対して言う。
四年丁卯。先生二十歳。
*56
*57 かく とう
もって*58 じゅようす
*59
先生、専ラ朱学ヲ崇デ、 格 套ヲ 以 受 用 。是年、始テ中川貞良ノ輩、学ニ志シ、同
いまし * 6 0
志二三輩会合シテ、
『大学』ヲ講明ス。 乃 聖学ヲ以テ己ガ任トス。
*61
夏、儒法ヲ以テ祖父ヲ祭ル。
寛永四年(1627 年)。先生二十歳。
藤樹先生は、ひたすら朱子学を崇めて、形にはまって教えを理解し実践した。この年、
始めて中川貞良の仲間が学びに志して、同志二、三人と会って『大学』を講じた。そこ
でやっと、儒学が我がつとめであるとした。
夏、儒学の礼法に則り、祖父を祀った。
*56:朱学…朱子学。
*57:格套…格法。形にはまったこと。
*58:受用…(教えを)理解し実践する。
8
*59:中川貞良…大洲藩士中川治良の長子。通称喜兵衛。1604-1670。寛永十五年(1638
年)に藤樹を慕い近江に来て学んだ。生保三年(1646 年)に帰国し、家を継ぐ。
*60:聖学…聖人の道を明らかにする学問。儒学。
*61:儒法ヲ以テ…儒学の礼法により。
五年戊辰。先生二十一歳。
是ノ年、初学同志ノタメニ、『大学啓蒙』ヲ著ス。其書モツパラ『四書大全』ニ従フ。
*62 くわし
后、コレヲ見テ、イマダ 精 カラズトシテ破レ之。
寛永五年(1628 年)。先生二十一歳。
この年、学び始めた同志のために『大学啓蒙』を著した。この書は、大半を『四書大全
』にしたがった。後に、
『大学啓蒙』を見て、未だ精密ではないとして破り捨てた。
*62:精カラズ…精密でない。
六年己巳。先生二十二歳。
*63
*64
いたる
春、児玉氏ニ行。荒木氏、坐ニアリ。先生ノ 到 ヲ見テ曰、「孔子殿、キタリタマフ」と
なす
云。其意、ヒソカニ先生ノ学ヲ為 コトヲソシル。先生曰「汝ヂ、酒ニクラヒ酔カ」。
こたえて
すで
しゅっし
対 曰「コレ何ノ言ゾヤ」。先生ノ曰、「孔子ハ已ニ二千年前ニ 卒 タマフ。今、我ヲ以
め しい
もって
テ孔子トスルハ、汝、酒ニ酔ズンバ、汝、目盲タルナラン。思フニ、我ヲ 以 孔子トス
*65
ルハ、文学アルヲ以テカ。文ヲ学ブハ、士ノ道也。汝ガゴトキノ文盲ナルハ、是奴僕
のがれ
*66
たわむ
こふ
*67 し
*68
ナリ」。荒木氏 遁 テ曰、「我、コレヲ 戯 ル。請、 子 コレヲユルセ」ト云。イマダ圭角
*69 こうらい
すすむ
まったく
おわる
アルコト如レ此。 后 来 、徳、日に 進 ニシタガイ、 全 融和シ 了 。
*70
是年、イトマヲ請テ、母ヲ江西ニ帰省ス。
寛永六年(1629 年)。先生二十二歳。
春、児玉氏のところへ行った。荒木氏が席に着いていた。藤樹先生が到着したのを見て
、先生が講師をすることをそしって、「孔子殿が来た」と言った。先生が「汝は酒を飲
んで酔っているのか」と言うと、
「何を言うか」と答えた。先生は、「孔子は既に二千年
前にお亡くなりになっている。今、私を孔子と言うのは、汝が酒によっていなければ、
盲目者だ。思うに、私を孔子というのは、君たちよりは学があるからであろう。文を学
ぶことは、武士の道である。汝如き学に疎いものは、下男と同じだ。」と言った。荒木
氏は、「私は、冗談いったのだ。許して下され。」と言い逃れをした。当分、言語・挙動
のかど立って、円満ではない状態であったが、後になって、徳が日に日に進むにつれて
、仲直りして終わった。
この年、休暇をもらって、母を江西に帰省させた。
9
*63:児玉氏…未詳。同僚であろう。
*64:荒木氏…未詳。同僚であろう。
*65:奴僕…身分の低い召使い。下男。
*66:コレヲ戯ル…冗談に言ったのだ。
*67:子…男子の敬称。あなた。
*68:圭角…言語・挙動のかど立って、円満でないさま。
*69:后来…後にいたり。
*70:イトマ…暇。休暇の意。
九年壬申。先生二十五歳。
*71 いざない
*72
*73 ていせい
春、暇を乞テ、江州ニ帰省ス。其意、母ヲ 倡 テ予陽ニ帰リ、 定 省 ノ孝ヲ尽サンコ
ふるさと
トヲ欲ス。然レドモ、母老テ、古郷を離レ遠途ニ趨クコトヲ欲セザルヲ以、独リ予州
*74 こうぜん
わずらう
ニカヘル。帰路、船中ニシテ始テ 哮 喘 ヲ 患 、キワメテ甚シ。
*75 おりべのしょう
*76
今歳、改テ 織 部 正 ニ仕フ。織部正ハ太守出羽守ノ弟也。出羽守、諸士ヲ織部正ニ分
ぶ ん ぶ
チ与フ。先生モ亦分付ノ中ニ属ス。
寛永九年(1632 年)。先生二十五歳。
春、休暇をもらって、江州に帰省する。これは、母を誘って、予州に帰り、朝夕よく親
に仕えて親孝行しようとの考えである。しかしながら、母は老いて、故郷を離れて遠く
に行きたくないとのことで、独り予州に帰った。帰路の船の中でひどい喘息に罹った。
この歳に、大洲藩主の加藤泰興の弟の加藤直泰に改めて仕えた。加藤泰興は、加藤直泰
に領土の一部を分封し、先生もこの領土内に属した。
*71:倡テ…いざなって。さそって。
*72:予陽…予州に同じ。伊予国(現在の愛媛県の全域)。
*73:定省…夕には寝所を安らかに定め、朝には安否を省み問う。朝夕よく親に事える
すずし
さま。『礼記』曲礼上に「凡そ人の子たるの礼、冬は暖かくして夏は 凊 くし、昏
に定めて晨に省みる」
。
*74:哮喘…喘息。
*75:織部正…加藤直泰。泰興の弟。元和九年に貞泰が没し、泰興が大洲藩主の地位を
相続したとき、幕府の許可を得て、直泰に領内の一万石を分封した。これが支藩
に いや
の新谷藩であるが、実際に藩士の分属が定められたのは、この年であった。喜多
郡新谷は現・大洲市内。
*76:出羽守…加藤泰興。
十年癸酉。先生二十六歳。
*77
けだし
春正月朔且。老母ヲ思フノ詩アリ。 蓋 予州ニ来ラザルニ因テ、其定省ヲ得ザルコトヲ
たまたま
歎ク。 適 感アルニ依テ作ス。詩ハ草稿ニ見タリ。
10
寛永十年(1633 年)。先生二十六歳。
正月の始め、老母を思っての詩が綴られた。その詩は、予州に老母が来られず、朝夕よ
く親孝行することができないことを歎いたもので、たまたま感じ入るところがあって、
書き留められたものである。
*77:老母ヲ思フノ詩…文集に収められる。「癸酉之歳旦」と題し、「羇旅逢レ春遠耐レ哀
、緡蛮黄鳥止二斯梅一、樹欲レ静兮風不レ止、来者可レ追帰去来」
。
十一年甲戌。先生二十七歳。
*78 し
いた
*79 つくだ
冬十月、 仕 ヲ致シテ江州ニ帰ル。此ヨリ前、毎々家老 佃 氏ニ謂テ曰、「母、老テ故
いざな
よく
郷ニアリ。此地ニ 倡 ヒ来ラント欲スレドモ肯ハズ。願ハ能君ニ奏シテ、仕ヲ致コトヲ
よく
モ
ユルサレンコトヲ」。佃氏曰、「諾。我、必能君ニ告フサン」。然レドモ年ヲ経レドモ果
サズ。蓋シ其意、先生ノ多才ナルヲ惜ミ、且又、他ニ仕テ厚禄ヲ得ント欲スルノ志ナ
*80
ランヤト疑フ故也。是ニヲイテ先生、疏ヲ作テ佃氏ニ捧げ、天ニ誓フノ詞ヲ以テ、他
つかうる
あらわ
ニ 仕 ノ志ナキコトヲ 顕 ス。其文ニ曰ク、
*81 おいとま
*82 ごんじょう
たのみ
つ い て
今度、私、 御 暇 之義、 言 上 被レ成被レ下候へと奉レ 頼 候付而、伝佐殿・助右殿、御
*86
かたじけなく
*87 このじゅう
同心被レ成、種々御異見之段、 忝 奉レ存候。 此 中 も如二申上候一、一つには何れ
びょうしゃ
まかりなり
も如二御存知一、二三年以前より 病 者 に 罷 成 候而、次第に人なみの御奉公相つとめ
てい
*88
ふるさと
つかまつり
がたき体、迷 惑に奉 レ 存候。一つには古郷の母、十年以来ひとり住を 仕 罷有候。
*89
*90
たのみ
ぞんず
私の外に別に母をはごくみ可 レ申子も無 二御座一、又はよすがに 頼 可 レ 存 ほどの親類
ゆえ
ようよう
あいだ
も無 二御座 一候故、四五年以前より漸々飢寒に及ぶ体に御座候 間 、此地へつれこし
*91 おことわり
ところ
まかりより
可レ申と存たてまつり、去々年 御 理 申上、むかひに参候 処 に、もはやとし罷 寄 、
*92
又は病者に御座候而、里の内をも自由にありき申事不二罷成一体に御座候。其上、女
おんごく
ま じ き
之義に御座候へば、古郷をはなれ遠国へ参候事、たというゑ死仕候とも成申間敷旨
ぜ ひ に
おき
やしないおや
*93
申候故、不レ及二是非一、すて置罷帰候。私義は、 養 親共に四人迄御座候へども、三
人には幼少にてはなれ申、今、母一人残り申候。母一人子一人の事に御座候。其上
*94 ぞんしょう
じょう
うけ
、母 存 生 之内も今八九年の体に御座候 条 、御暇申請、古郷へ罷帰、母存命之間は
い か よ う
なり
つかまつり
*95 きさま
たのみにぞんじ
*96
如何様のわざを成とも 仕 、義申し、母相果候はゞ罷帰、貴 様 を 頼 存 、め しか
つかまつりたき
ほか
いささか*97 ぞんずる し さ い
へされ被レ下候はゞ、御奉公 仕 度覚悟に御座候。此外、 聊
11
存 子細も無二御座
*98
一
おぼしめす
え ども
もし
*99
候。私之義に御座候条、左様には 思 召 間敷候得共、若右申上処、当座之かりごと
*100 しんじょう
にて、真実は 身 上 をもかせぎ可レ申望にて申上かと、御推量被レ成事も御座候はん
たちどころ
*101
と存、此中も度々如二申上一、左様之所存少にても御座候はゞ、立 所 に天道の冥罰を
まかりこうむり
よう
*102
ききとどけ
*103 ふびん
罷 蒙 、母に二度あひ申間敷候。か様になげき申所、御聞 届 被レ成候而、 不 便 に思
よき
*105
ごんじょう
*106
召候はゞ、能様に御取つくろひ被 レ成、か りごとに 言 上 仕かなどゞ、き こしめしあ
ほか
た
じ
やまりの無二御座一様に被二仰上一、御暇被レ下候様に奉レ頼外、無二他事一候。恐懼謹言
。
*107
三月七日
なお
やむ
ひそか
*108
*109
然ドモ猶イマダ許サズ。是ニ於テ已コトヲ得ズシテ、 潜 ニ逃テ江陽ニ帰ル。是年ノ禄
*110 かたい
米、尽ク倉ニ積置、朋友ニ 仮 貸 スルノ米穀アルヲバ、器物ヲ遺シテコレヲ償フ。江陽
わずか
*111
せん
*113 よる
ニ致ル時、銀 纔 ニ三百銭アリ。祖父ノ時ヨリ使フ所ノ若党一人アリ。先生、其ノ 帰
あわれみ
もち
あきない
トコロナカランコトヲ 憫 テ、銀二百銭ヲ与ヘテ曰、「是ヲ持、予州ニ帰リ、 商 ヲナ
よわたり
シテ世渡セヨ」。若党、固辞シテ曰、「君ノ銀、纔ニ三百銭。然ヲ我ニ過半ヲ賜フ。我
や ま ず
、元ヨリ一銭ヲ受ンノ志ナシ。タヾ君ニ従テ艱難ヲナサン」ト云。先生、強テ不レ已。
是ニ於テ涕泣シテ銀ヲ受テ帰ル。
*114
*115 ふせが
冬十一月、京ニ在リ。先生逃去ルヲ以テ、君ノ悪ミアリテ、江陽ニアルコトヲ 防 レ
おもんばかり
*116
とが
ンコトヲ 慮 テ、京都故友ノ家ニ寓シテ、命ヲ待ツコト百日余。其尤メナキヲ以テ、
*117 そく
江陽ニ帰ル。百銭ノ銀ヲ以テ酒ヲ買ヒ、又、農家エ売テ、其 息 ニ依テ母ヲ養フ。其
後、刀ヲ売テ銀十枚ヲ得タリ。是ヲ以テ米ヲ買ヒ、農家ニ借ス。息ヲ取ルコト、世人
はなはだ
ここを
ヨリ 甚 減ズ。 是 以テニヤ、其債ヲ責ズシテ来テコレヲ還納ス。
寛永十一年(1634 年)。先生二十七歳。
冬の十月、辞職して江州に帰る。これより前に、家臣の佃氏に、「母が老いて故郷にい
ます。この地に来ないかと誘ったのですが、来てくれませんでした。辞職をお許し頂け
るように主君にお願いして下さい。」と、ことある毎に言っていた。佃氏は、「分かった
。必ずや主君に伝えておく。」と言った。しかしながら、佃氏は、年が経っても先生の
辞職について、主君へ伝えていなかった。これは、藤樹先生が多才であることを惜しむ
とともに、他に仕えてより多くの報酬を貰おうと企んでいるのではないかと疑っていた
ためである。このため、藤樹先生は、物事を書き分けて述べ、天に誓って、他に仕える
事はないことを綴った書面を佃氏に送って、辞職の意を説明した。その書面には、以下
のことが綴られていた。
12
『この度、私は、辞職のお願いについて主君に申し上げて頂きたく、お願いするも
のです。伝佐殿、助右殿も同じ考えで、種々の御意見を頂戴し、有り難く存じます
。この前にも申し上げましたように、一つにはご存じの通り、二、三年前より病に
罹り、次第に人並みの公務が努められない体となって、困っておりました。もう一
つには、故郷の母が十年以来一人住まいをしております。私以外に母の面倒を見る
子もおらず、また生活の面倒を頼める親類もおらず、四、五年前よりいよいよ生活
が大変な体となり、この地に連れてこようと一昨年より事情を申し上げて迎えに行
きましたが、もはや年を取り、また病気となって、里の中も自由に歩くことができ
ない体となっておりました。そして、女のみであり、故郷を離れて遠いところに参
ることは、たとえ飢え死にしようとも仕方ないと言って、この地に来ることを認め
てくれず、そのままにして帰ってきました。私としては、養父母と生みの父母がお
りますが、そのうちの三人は幼少の時に亡くなり、今、母一人を残すのみとなりま
した。母一人、子一人となり、母の存命も八、九年の体となり、ここで辞職をお願
いし、故郷に帰って、母が生きている間は全てのことをしてあげたいと願っており
ます。そして、母が亡くなった際には戻ってきて、再度召し抱えて頂けるように、
主君へ取次をお願いし、再び奉仕する覚悟でございます。これ以外に考えているこ
とは少しもありません。私事ですから、佃様には分かって頂けないかもしれません
が、もし今申し上げましたことが、当座をしのぐためのつくりごとで、真実は他藩
に出仕して、もっと多くの俸禄を取ろうと考えているのでは、とご推察されるかも
しれません。これまで度々申し上げましたように、佃様のご懸念されていることが
少しでもあれば、たちどころに天罰を蒙り、母には二度と会えないでしょう。この
ような嘆願をあわれと思ってお聞き届け頂き、主君にお取りなして下さって、表面
の理由として主君がお聞き誤りのなきように申し上げていただき、辞職を許して頂
けるようにお願いすること以外にありません。恐れながら申し上げます。
三月七日』
しかしながら、まだ許しがなかった。このため、やむを得ず密かに逃げて近江国に帰っ
た。この年の禄米は、倉に積んでおき、朋友に米穀を借りて、家具などで償った。近江
国に着く時には、銀がわずかに三百銭(約六両)ほどであった。祖父の時から使ってい
た使用人が一人いた。藤樹先生は、その使用人の帰るところがないことをあわれんで、
銀を二百銭与えて、「これを持って、予州に帰り、商いをしなさい」と言った。使用人
は固く辞退し、「あなた様の銀はわずかに三百銭。にもかかわらず私に半分以上を賜る
とおっしゃる。私はもとより一銭も受け取るつもりはありません。ただあなた様に従っ
て艱難をともにしたい」と言った。先生は強いてこれを認めず、使用人は泣きながら銀
を受け取って帰って行った。
冬の十一月、京に居る。先生は逃げ去ったので、主君が憎んで近江国にいることを防ぐ
であろうと思い、京都の旧友の家に仮住まいして、100日間余り勅命を待った。逃避
のとがめがないと分かって、近江国に帰った。百銭の銀で酒を買い、また農家へ売って
、その利益により母を養った。その後、刀を売って銀十枚(約八・六両)を得た。これ
で米を買い、農家に貸した。利息は一般より甚だ少なかった。借金の返済を催促するこ
とはなく、持ってくることで還納としていた。
*78:仕ヲ致シテ…辞職して。
*79:佃氏…佃小左衛門一永。新谷藩の家老。四百石。寛永十四年没、六十歳。その子
の佃(のち徳田)彦六秀一は藤樹を学問上の師とし、「佃叔」の宛名で藤樹の送
った書簡が多数残されている。
*80:疏…物事を書き分けて述べた書面。説明書。
*81:御暇…退職の許可。
*82:言上…主君に申し上げる。
13
*83:伝佐殿…加藤伝左衛門か。同人は寛永三年の成野村免状(『藤樹先生全集』第五
巻 129 頁)の筆頭に署名しており、おそらく郡奉行として、藤樹の直接の上司で
あったと考えられる。五百五十石。寛永十三年没。
*84:助右殿…平田助右衛門か。新谷藩に分属された二十七人の中に「二百五拾石、平
田助右衛門」の名がある(
『温故集』
)。
*85:御同心…と同じ考えにて。
*86:異見…忠告。
*87:此中も…此の間も。さきにも。
*88:迷惑…当惑する。困る。
*89:はごくみ…はぐくむ。扶養する。
*90:よすがに…生活を依存する相手として。
*91:御理申上…事情を申し上げて。断って。
*92:ありき申事…歩くこと。
*93:四人…養父母と生みの父母。
*94:存生…存命。生きながらえること。
*95:貴様を頼存…あなたを頼りにして。帰参の際に主君への取次を依頼するの意。
*96:めしかへされ…召し返され。再度召し抱えられること。帰参を許すこと。
*97:存子細…考えていること。
*98:私之義…この私のことですから。
*99:当座之かりごと…当座をしのぐためのつくりごと。
*100:身上をもかせぎ……身上は、身分・俸禄。他藩に出仕して、もっと多くの俸禄
を取ろうとの希望。
*101:天道の冥罰…天から下される目に見えない力による罰。正義の裁き。
*102:なげき申…嘆願して言う。
*103:不便…あわれ。
*104:御取つくろひ被成…主君に取りなして下さって。
*105:かりごとに…表面の理由として。
*106:きこしめしあやまり…(主君の)お聞き誤り。
*107:三月七日…藤樹直筆と伝えられる書状では、このあとに「佃小左様、中江与右
衛門」とある。
*108:江陽…江州に同じ。近江国。
*109:禄米…俸禄として支給された米穀。
*110:仮貸スル…借りる。
「仮」も「貸」も「借」の意。
もんめ
*111:三百銭…銀は 匁 の唐名。三百目(金貨にして約六両)。
*112:若党…従者。家来。
*113:帰…底本では、この時にのみ振り仮名が附せられている。依帰する、頼りにす
る、の意。
*114:逃去ルヲ…家臣が主君の許可なく退去することは罪とされ、追手をかけて斬り
殺すのが一般の慣例だった。
*115:防レン…禁止するであろう。
*116:故友…旧友。
*117:息…利息。ここでは利益の意。
*118:銀十枚:銀一枚は四十三匁。十枚は四百三十匁で、約八・六両に相当する。
*119:債ヲ責ズ…借金の返済を催促しない。
十有二年乙亥。先生二十八歳。
14
*120 ぜい ぎ
*121 えき
*122
今歳、始テ 筮 儀ニ通ズ。先生曰、「我、 易 ノ理ニ於テハ、心ヲ尽サバ或ハ其万一ヲ
*123 ぜいき
*124 でん
よく
得ン。 筮 蓍 ニ於ハ、其 伝 ヲ得ズンバ能セジ」ト。是ニ於テ、京師ニ行テ易ノ講師ヲ
もと
求ム。一人ヲ得タリ。曰、「講ジ終テ后、銀数枚ヲ出サバ講ン」ト云。先生、元ヨリ家
清貧ナルヲ以テ、止ム。又、一人ヲ得タリ。曰、「講、終ルマデ、一日モ他ニ行コトナ
さき
クンバ、講ズルコトヲ得ン」。先生曰、「何ノ故ゾ。」曰、「此ヨリ先、イマダ講ノ半ニ
*125 ぜひ
こり
ニ いう しか
及ズシテ逃去、却テ是非ヲ議スルモノアリ。我、此ニ懲タリ。故云レ爾」。先生以為ラク
ほう へん
、「是非ヲ褒貶セザルコトハ云ニ及ズトイヘドモ、一日モ他ニ往ザルコト約シ難シ」ト
*126
*127
これを
シテ、又止ヌ。是ニ於テ易書ヲ求ルニ、始テ『啓蒙』ヲ得タリ。江陽ニ帰テ後、 此 熟
さんこう
読筭考シテ其筮儀ニ通ズ。
すこし
*128 かんか
先生、嘗曰、「予、予州ヨリ帰テ后、 少 ノ 間 暇 アレバ眠リ臥テ、ヨク寝ルコト一年余
*129 けいねん
つね
*130
*131
*132 はろう
。此 頃 年 、心常ニ人間世ニ放在シテ、精神ヲ 播 弄 スルガ故ナリ。予州ニ在シトキ、
よ
*133 あしおと
夜ル寝テ後、人ノ呼コト一声ニシテ醒、或ハ 跫 音 ヲ聞テモ覚ム。故ニ以為ク、心明ニ
*134 いね
し
せず
ちかし
*135 しとう*136 きょうじ
*137 こうれん
シテ、ホトンド「 寝 テ不レ尸 」者ニ 近 、ト。今コレヲ思フニ、 支 撑 矜 持 ニ 拘 攣
スルガ故ナリ」
。
寛永十二年(1635 年)。先生二十八歳。
この年、占い術に精通した。先生は、「私は易の理法については、一生懸命に習得しよ
うとすれば、万分の一でも習得できる。占い術においては、伝授が得るのが一番である
。」と言われた。そして、京へ易の講師を探しに行った。一人目の易の講師に出会った
。その講師は、「易の講義が終わった後、銀数枚を出せば講義しよう。」と言った。藤樹
先生は、元来より貧しく慎ましい生活をさせていたので、諦めた。また別の講師に出会
った。その講師は、「講義が終わるまで、一日も他に行かなければ、講義しよう。」と行
った。藤樹先生は、「どうしてか?」と尋ねると、その講師は、「以前に、講義が途中で
あったにも関わらず逃げ出して、講義の内容について善し悪しを批評した。私はこれに
懲りて、貴方に言ったのだ。」先生は、「ほめたりけなしたりの批評を言うはずもないが
、一日も他に行かないことを約束するのは難しい。」と考え、また止めた。このため、
易書を探し、朱熹の著『易学啓蒙』三巻を入手した。近江国に帰った後、易書を熟読し
参考して、易の理法を理解した。
先生はかつて言われた。「私は、予州(伊予国)から帰った後、少しのひまがあれば寝
ていた。よく寝ることは一年余りあった。ここ数年間は、心が常に世間に向かっていて
、無用の雑事に心を労していた。予州にいる時、夜に寝た後、人の呼ぶ声に目が覚め、
あるいは足音を聞いて目が覚めていた。このため、ほとんど「心の緊張を失わない」者
のようであった。今これを思うと、自己を強いて制御しつつしみ、摂生し続けることで
ある。
」
*120:筮儀…占筮の法。うらないの術。筮は蓍(めどき)に同じ。
15
*121:易ノ理…『易経』
(周易)に説かれている理法。
*122:万一…万分の一。
*123:筮蓍…筮儀に同じ。
*124:伝…伝授
*125:是非ヲ議スル…よしあしを議論する。講義の内容を批判するの意。
*126:易書…易に関する書籍。
*127:啓蒙…朱熹の著『易学啓蒙』三巻。
*128:間暇…ひま。余暇。
*129:頃年…(この)数年間。数年来。
*130:人間世…人の世。世間。
*131:放在…放置されている。心が常に世間に向かっていて、の意。
*132:播弄…散らし、もてあそぶ。無用の雑事に心を労する。
*133:跫音…足音。
*134:寝テ不尸…『論語』郷党に、講師の生活態度を記して「寝ねて尸せず」とあり
、寝ていても死人のようではないの意。朱注では、「惰慢之気、不 レ説二於身体一、
雖レ舒二布其四体一而亦未二嘗肆一耳」とし、心の緊張を失わない意味に解している
。
*135:支撑…強いて支える。
「支」も「撐」も、支えるの意。
*136:矜持…自己を制御しつつしむ。謹慎。
*137:拘攣…拘泥し束縛される。
十有三年丙子。先生二十九歳。在二江州一。
*138
*139
秋、先生、京ニ行。先生、池田某ト元ヨリ友タリ。此時、池田氏、筑州ヨリ洛 ニ来ル
*140
*141
けみし
。先生モ亦行テ会ス。又、始テ嶋川子ニ逢フ。是ニ於テ易ヲ談論ス。月ヲ 閲 テ帰ル。
*142
*143
此ヨリ后、終レ身マデ洛ニ不レ行。○是年、小川覚、予州ヨリ来テ学ヲ問フ。先生、送行
ノ詩アリ。
寛永十三年(1636 年)。先生二十九歳。
秋、藤樹先生は、京に行かれた。藤樹先生は、池田某と昔からの友である。この時、池
田氏は、筑州より京に来ていた。先生もまた京に行って会った。また、嶋川殿に始めて
逢い、易について談論した。一ヶ月を経て帰ってきた。これより後、お亡くなりになる
まで京には行っていない。○この年、小川覚が予州より来て学について問われた。先生
は、詩を送った。
*138:池田某…名は与兵(衛)
。藤樹の書簡から大洲藩士と推測される。
*139:洛…京洛。京都。
*140:嶋川子…「子」は敬称。藤樹の文集に収められた時に、「送 二藤田嶋川両生 一、
丙子之夏」があり、一本の頭注に「嶋川藤右衛門、黒田甲斐守家士」の記される
のを信ずれば、筑前国福岡藩黒田家の家来で、九州から池田某と同行して来たの
であろう。
*141:月ヲ閲テ…一ヶ月を経て。右の詩の序にも「譚レ易、惟日不レ足」とする。
*142:小川覚…大洲藩士またはその子弟。
*143:送行ノ詩…文集に「送二信古一、丙子之春」と題する詩か。序中に「別後三年」
また「滞留数日」とある。
16
十有四年丁丑。先生三十歳。
*144
*145
なず
*146
にして
しつ
是年、高橋氏ノ女ヲ娶ル。蓋シ此時、先生イマダ格法ニ泥ム。故ニ「三十 而 有レ室」ノ
と
*147 ようぼうはなはだ
いださ
法ヲ執レリ。其女、 容 皃 甚 醜シ。先生ノ母、コレヲ憂ヘテ、 出 ント欲スルコトア
マタヽビ。然レドモ先生、固ク辞ス。容色醜シトイヘドモ、性質甚聡明ニシテ、心ヲ
ただ
*148
用ユルコト貞シ。先生、常ニ諸門人ニ会シテ、夜半ニ過、或ハ五 更ニ及デ後、閨ニ入
さきだつ
いね
レドモ、十年ノ間、終ニ先生ニ 先 テ寝ズ。居常、小事トイヘドモ、先生ノ命ヲ不 レ受
*149
バ不レ行。○是年、池田氏、来テ学ヲ問。送行ノ詩アリ。
寛永十四年(1637 年)。先生三十歳。
この年、高橋氏の娘を娶った。この時、藤樹先生は形式上の規範にこだわっていたので
、「三十歳にして妻を得る。」の格法にしたがったものと思われる。娶った妻は、容貌が
甚だ醜かった。藤樹先生の母は、このことを憂いて、たびたび追い出そうとしていた。
しかしながら、藤樹先生は、妻との離縁を強く断った。容貌は醜いけれども、性格は極
めて聡明で、徳道に沿った正しい心持ちであった。藤樹先生は、常に各門人と会合し、
夜半過ぎ、或いは午前四時前後になって寝室に入ったが、十年の間、亡くなるまで先生
より先に寝ることはなかった。常に居て、小事であっても、藤樹先生のご命に従って実
施された。○この年、池田氏が来て学について問われ、詩を送られた。
*144:高橋氏ノ女…藤樹書院祠堂神主陥中に「名久」。
*145:格法…形式上の規範。格套に同じ。
*146:三十而有室…「室」は妻の意。『礼記』内則にある。
*147:容皃…容貌に同じ。
*148:五更…一夜を五分した第五の時刻。午前四時前後。
*149:池田氏…文集に「送二池田子一、丁丑之巻」の詩があり、一本の頭注に「池田子
者摂州人也」
。与兵とは別人か。
十有五年戊寅。先生三十一歳。
*150
*151
*152
りょうさ
かれの
今年、始テ谷川寅・落合左兄弟、来テ業ヲ門ニウク。又、大野了佐ト云者アリ。 彼 父
りんしつ
つぐ
、先生ト親ク友タリ。了佐、嫡子ナリトイヘドモ、稟質極テ愚魯鈍昧ニシテ、士業継
*153
はかる
ニ足ザルヲ以、父嘗テ賤業ヲ営シメンコトヲ 計 。了佐コレヲ憂テ、先生ニ来テ曰、「我
く と う
*154
、医トナラント欲ス。願ハ医書ノ句読ヲ教ヨ」。先生、ソノ志ヲ憫テ、授テ『大成論』
まず
*155 み
さる
き
さが
ヲヨマシム。先二三句ヲ教ルコト二百遍バカリ、 巳 ヨリ申ニ及デ漸ク記ス。食ニ退ツ
わすれ
はじめて き と く
テ后、コレヲ読ニ皆 忘 了ル。又来テコレヲ習コト百余遍ニシテ、 始 記得ス。コレヨ
リ以后、日ニ来テ習フコト年ヲフ。先生江陽ニ帰ニ依テ、今年来テ医ヲ学ブ。先生、
17
*157
ソノ医術ヲ暁得シガタキヲ以テ、『医筌』ヲ作テコレニ授けケ、又コレヲ講ジテ、其ノ
*158
*159
義ニ通ゼシム。后、医ヲ以テ渡リ、数口ヲ養フニ足レリ。先生嘗テ曰、「我、了佐ニ於
テ幾ド精根ヲ尽ス」。坐ニ在ルモノ皆、ヨク教ルコトヲ嘆ズ。先生ノ曰、「我、カレニ
教フトイフトモ、彼、勉メズンバアタハジ。カレ甚ダ愚昧ナリトイヘドモ、其ノ励勉
いわん
ノ力ハ甚奇ナリ。 況 ヤ了佐ガ如クナラザル者ハ、其勉ムル所ヲ知ルベシ」
。
*160
*161
*162
春、中川貞良、与州ヨリ来テ学ヲ問フ。秋、吉田氏、来教ヲ受ク。先生、ミナ送 行ノ
詩アリ。
*163
ならび
*164
夏、
『持敬図説』 幷 ニ『原人』ヲ著ス。此ヨリ前、専ラ四書ヲ読テ、堅ク格法ヲ守ル。
*165
*166
まま *167 とき
其意、専ラ聖人ノ典要格式等、逐一ニ受 持セント欲ス。然レドモ間 時 ニ合ハズシテ
たいがい
おこない
、滞碍、 行 ガタキヲ以テ、疑テ以為ラク、「聖人ノ道、カクノゴトクナラバ、今ノ世
ニ在テ、吾輩ノ及ブ処ニアラズ」ト。是ニ於テ、五経ヲ取テ熟読スルニ、触発感得ア
リ。故ニ『持敬図説』幷ニ『原人』ヲ作為シテ、同志ニ示ス。此ヲ行フコト数年。然
おおく
もど
やむ
レドモ行ハレザル処 多 シテ、甚ダ人情ニ戻リ物理ニ逆フ。故ニ疑止コトアタワズ。
寛永十五年(1638 年)。先生三十一歳。
この年、始めて小川村の小川惟直、落合左兄弟が来て、仕事について問われた。また、
大野了佐という者がいた。彼の父は、藤樹先生と親しい友であった。了佐は、嫡子であ
ったけれども、品性はとても愚かで鈍くさく、士業を継げるほどの能力がなかったので
、父親はかつて農商の仕事をさせようと企んでいた。了佐はこれが嫌で、藤樹先生の所
に来て、
「医者になりたい。医学書の読みを教えて欲しい。」と言われた。藤樹先生は、
その志を不憫と思い、『医方大成論』を読み聞かせた。まず二三の句を教えるのに二百
回程繰り返され、午前十時頃から午後四時頃まで掛かってやっと覚える状態であった。
そして、食事に下がった後に、また読み返すと全て忘れていた。次に先生の所に来て、
同じ所を習うのに百回繰り返して始めて覚えた。これから以降、毎日先生の所に来て習
うこと一年を過ぎた。藤樹先生が江陽の帰りによって、この年になって医を学んだ。藤
樹先生は医術を習得することは困難であると思い、『捷径医筌』六巻を作って了佐に授
け、さらに講義して、その意味に通じた。後に医術で生活し、数人の家族を養えるほど
になった。藤樹先生はかつて、「私は、了佐に幾度となく精根を尽くした」と言ってお
られた。その場にいた者はみんな、よく教えられたとため息をついた。藤樹先生は、「
私は、彼に教えると言っても、彼は一生懸命に勉強した。彼は、とても愚昧だが、その
熱心に勉強する能力はとても普通にできることではない。了佐のような愚妹でないもの
なら、その熱心な勤勉姿勢を見習いなさい。
」と言われた。
春に、中川貞良が予州より来て学について問われた。秋に、大洲藩士の吉田氏が来て、
教えを受けた。藤樹先生は、皆に詩を送った。
夏に、『持敬図説』と『原人』とを著した。これより前では、ひたすら四書を読んで、
厳格に形式上の規範を守っておられた。それは、ただただ聖人の定まった規則などを逐
一守って実施したいとお考えであった。しかしながら、時々、時世に合致せず、滞って
実施されなくなり、疑い思うに、「聖人の道がこのようなものであるのならば、この世
において、私が及ぶところではない」とおっしゃられた。これによって、五経を熟読す
るに、触発されて感じ得るところがあったことから、『持敬図説』と『原人』とを作成
18
し、同志に示す事を数年続けた。しかしながら、実施されないことが多く、ただただ人
の情に流されて自然の法則に逆らってばかりであり、疑問が解決することはなかった。
*150:谷川寅…小川村の人。本姓は小川、字は惟直、通称儀左衛門また玄朴。谷川重
久の養子となり、医師として岡山藩に仕えた。
*151:落合左…未詳。谷川玄朴の養嗣子となった左助(本姓堀田)と同人か。
*152:大野了佐…新谷藩士大野勝介久次の二男。母の実家尾関家の養子となり、尾関
友庵と号した。
*153:賤業…農商の業の意であろう。
*154:大成論…『医方大成論』
。元の孫允賢著。
*155:巳ヨリ申…午前十時頃から午後四時頃まで。
*156:記ス…記憶した。
*157:医筌…『捷径医筌』六巻。明暦元年(1655 年)の版本がある。(あんず鍼灸整
骨院『江戸期の医学書』http://www.kyorindo.biz/edo/page/5/参照)
*158:義…意味。
*159:数口…数人の家族。
*160:与州…「予州」の宛て字。
*161:吉田氏…大洲藩士。名は守正。通称新兵衛。
*162:送行ノ詩…文集に「送二中川子一」と「送二吉田子一」の詩がある。前者の序には
「講二論大学之心法一」
、後者の序には「為講二論語一及二郷党篇一而帰」とある。
*163:持敬図説…「敬」の意味と持敬の修養法とを、図解して説明したもの。
たず
*164:原人…人の人たる所以を原ねて、天意に従い道徳を実践する所にある、と主張
した論文。
*165:典要…定まった規則。「典」は常、「要」は約の意。『易』繫辞下伝に「上下常
なく、剛柔相易はり、」
*166:受持…受用に同じ。守る、実践する。
*167:時ニ合ハズ…時世に合致しない。
*168:物理…事物の理法。自然の法則。
十有六年己卯。先生三十二歳。
*169
*170
*171
春、
『藤樹䂓』幷ニ『学舎座右銘』ヲ作テ、諸生ニ示ス。
*172
三月、山田権、与州ヨリ来テ医ヲ学ブ。
*173
夏四月、中川熊、与州ヨリ来テ業ヲ受ク。
*174
夏、
『小学』ヲ講ズ。明年ノ冬ニ至テ終ル。諸生、専ラ格套ヲ守ル。
ちくぶしま
*175
*176
夏、諸生トモニ竹生嶋ニ遊ブ。興[ニ]乗ジテ詩ヲ賦ス。
*177
秋、『論語』ヲ講ズ。「郷党」ノ篇ニ至テ、大ニ感得触発アリ。是ニ於テ『論語』ノ解
まず
*178
ヲ作ント欲ス。先「郷党」ノ篇ヨリ起テ、「先進」ノ二三章ニ至ル。病苦ニサヘラレテ
果サズ。后、コノ解ヲ以テ心ニ合ザル処多シトス。
19
寛永十六年(1639 年)。先生三十二歳。
春、
『藤樹䂓』並びに『学舎座右銘』を作って、諸生に示した。
三月、伊予の山田権が来て、医学を学んだ。
夏の四月、中川熊が与州より来て、業についてアドバイスを受けた。
夏、『小学』を講じられ、明年の冬まで続いた。諸生は、ひたすら形式上の規範を守っ
た。
夏、諸生と共に竹生嶋(琵琶湖北部に浮かぶ小島)へ遊びに行った。座興に乗じて詩を
授けられた。
秋、『論語』を講じられ、「郷党」の篇にきて、大いに触発されて感じ得るものがあり、
『論語』の注解を作ろうと考えられた。まずは、「郷党」の篇から始まり、「先進」の二
三章に至ったところ、病苦にさいなまれ、注解の作成が果たせなかった。後にこの注解
を見たところ、心に思っていることと合わないところが多い、とのことである。
*169:春…文集収録の藤樹規には四月二十一日とあり、
「夏」の誤記か。
*170:藤樹䂓…朱子の「白鹿洞学規」に倣い、学問の主眼を示したもの。
*171:学舎座右銘…文集には「学舎坐右戒」と題する。
*172:山田権…伊予の人。通称九右衛門。
*173:中川熊…貞良の弟。「熊」は幼名。名は謙叔(兼叔)。のち岡山藩に仕えた。万
治元年(1658 年)没、三十五歳。
*174:小学…朱熹編。六巻。古来の嘉言善行を類輯して道徳の模範を示した書。
*175:ニ…内閣本により補入。
*176:詩…「題二竹生嶋一、己卯之春」
。
*177:郷党ノ篇…『論語』の第十の篇。この時に作られた注解が「論語郷党啓蒙翼伝
」の著である。
*178:先進…『論語』の第十一の篇。この篇の藤樹による注解は残されていない。
十有七年庚辰。先生三十三歳。
あじわい
*179
夏、
『孝経』ヲ読テ、愈 味 深長ナルコトヲ覚フ。コレヨリ毎朝拝誦ス。○今歳、『性理
*180
*181 たいいつしん
*182 いにしえ
会通』ヲ読ミ、発明ニ感ジテ、毎月一日、斎戒シ 太 乙 神 ヲ祭ル。蓋シ 古 、天子ハ
天ヲ祭、士庶人は天ヲ祭ルノ礼ナシ。此祭ヲ以テ士庶人天ヲ祭ルノ事トス。是ヲ以テ
此ヲ祭テ怠ラズ。後チ、妻ノ喪ニ依テ止ム。喪終テモ亦病気ニ妨アルヲ以テ又祭ズ。
*183
なかば
夏、
『太乙神経』を撰ラバントシテ、稿 半 ニ及ブ。病ヲ以テ終ニ成レ書ニ及ズ。
すで
秋、予陽ノ同志ノ求ニ依テ『翁問答』ヲ著ス。已にシテ後、其書、心ニカナワザル処
*184 きび
多シ。故ニコレヲ改メント欲シテ、同志トイヘドモ博クコレヲ示サズ。然レドモ癸未
*185 しじん
ノ春、 梓 人 、此ヲ盗ミ取テ板行ス。先生、此ヲ聞テ、梓人ヲシテコレヲ破ラシム。此
*186
たださ
ヨリ後、改メ 正 ント欲ス。曰、
「上巻ハ『孝経』ニ触発シテ、其意ヲ写シ書ス。故ニ其
いきどお
た
*187 よくよう
論穏当ナリ。下巻ハ世ヲ 憤 リ弊ヲ矯ム。是ヲ以テ其説 抑 揚 大過アルコトヲ免レズ。
なら
故ニ先ズ下巻ヲ改ント欲ス」ト。是ニ於テ数条ヲ改ム。疾ヲ以テ終ニ成ズ。
20
*188 りゅうけい
はじめ
冬、『王 竜 渓 語録』ヲ得タリ。 始 コレヲ読トキ、其触発スルコトノ多キコトヲ悦ブ。
*189 ぶつご
*190
*191
然レドモ其 仏 語 ヲ間雑シ、禅学ニ近コトヲ恐ル。後、『陽明全集』ヲ得テ、コレヲ読ニ
至テ、竜渓ノ禅学ニ近カラザルコトヲ知ル。且、仏語ヲ間雑スルノ、世ヲ憫ムノ深コ
*193
もと *194
*195
みな *196
トヲ見ル。如何トナレバ、聖人一貫ノ学、本太 虚ヲ以テ準則トス。老仏ノ学、皆一 貫
ちゅう
ただ
*197
9 8
ノ 中 ヲ離ズ。唯精粗大小アルノミ。達人、何ゾ其言語ヲ忌ンヤ。且、当時、仏ヲ学ノ
*199
徒多シ。是ヲ以テ其語ヲ間雑シテ、其外ニセザルコトヲ示シ、皆、太虚・一貫ノ道ヲ
悟ラシメンコトヲ欲スルモノナリ。
寛永十七年(1640 年)。先生三十三歳。
夏、『孝経』を読んで、ますます味わい深くなることを感じた。これにより毎朝つつし
んで読むことをされた。○この歳、『性理会通』を読み、道理を明らかにすることの大
切さを感じ、毎月一日、祭祀を前に心身を清め、太乙神を祭った。いにしえに、天子は
天を祭り、士庶民は天を祭るの礼はないとされている。この祭りにより、士庶民が天を
祭った事とし、この祭りを怠らなかった。後に、妻の喪によって中断したが、喪が終わ
っても病気によって祭りが滞ることがあった。
夏、『太乙神経』について書物をまとめていたが、原稿の半ばに至って、病気によって
完成しなかった。
秋、予州の同志に求められて、『翁問答』を著した。完成した後、思いに合わないとこ
ろが多く、改訂しようと思い、同志といっても、ひろく『翁問答』を示さなかった。し
かしながら、寛永二十年の春、出版業者がこれを盗み取って発行してしまった。先生は
、このことを聞いて、出版業者に破棄させた。この後、改めて『翁問答』を書き直した
いと思われた。藤樹先生は、「上巻は『孝経』に触発されてその意を著しので、穏やか
で道理に当てはまっている。下巻は世の中を憤り、自己を偽っているので、その価値判
断は大きく間違っていることを免れない。このため、先ず下巻を改訂したい」と、おっ
しゃられた。そして、下巻の数条を改訂したが、病によって改訂は終わらなかった。
冬、『王竜渓語録』を入手した。始めこれを読む時、その触発されることが多く悦ばれ
ていた。しかしながら、仏語が雑然と混じっており、禅宗の学問に近いのではと懸念さ
れた。後に、『陽明全集』を入手して読んでみると、竜渓の禅宗の学問には近くないこ
とがわかった。さらに、仏語が雑然と混ざっていることは、世の中の人の心に仏教が深
く浸潤されていたのだと分かった。その理由は、聖人の道に関する学問は、元々天をよ
りどころとすべき規則であるとするものだからである。道教と仏教の学問は、みな聖人
の中庸の道と全く別のものであるわけではない。ただ、詳しいとこや、大ざっぱなとこ
があるだけである。道に通達した人は、道教や仏教の用語をいやなこととして避けるこ
とはない。さらに、当時、仏教の学問の徒が多かった。このため、道教や仏教の用語が
雑然と混ざっているからといって、仏教を排斥しないことを示され、皆、天をよりどこ
ろとすべき規則であると悟られることを望まれた。
*179:性理会通…明の鍾人傑編。正編七十巻、続編四十二巻。
*180:発明…道理を明らかにすること。
*181:太乙神…「太乙」は太一に同じく、万物の原初の意味。天帝。
*182:古天子ハ…『礼記』曲礼下に「天子祭二天地一、祭二四方一、…士祭二其先一」、ま
た『春秋公羊伝』僖公三十一年夏に「天子祭レ天、諸侯祭レ士」
。
*183:太乙神経…太乙神の霊徳を述べた書。本文は伝わらないが、文集に「大上天尊
21
大乙神経序」が収められている。
*184:癸未…寛永二十年。
*185:梓人…出版業者。
*186:改メ正ン…『翁問答』の改訂篇を指す。
*187:抑揚…褒貶是非。価値判断。
*188:王竜渓語録…王畿(おうき)(竜渓は号)(明代の学者。王陽明の高弟。14981583)の語録。現在の『王竜渓先生全集』二十巻(1588 年)の始め八巻が「語
録」である。おそらくこの全集以前に『王竜渓語録』という単行本があったので
あろう。あるいは上記二十巻本を、「語録」と称したのかも知れない。⇒解説(
山下)
*189:仏語ヲ…仏教用語をまじえる。
*190:禅学…禅宗の学問。
*191:陽明全集…王陽明の全集。『陽明先生集要』十五巻、年譜一巻十二冊。崇禎年
間(1628-1644)刊行。施邦曜編か。『王文成公全書』三十八巻(1572 年)か。
あるいは別本か、不明。
*192:世ヲ憫ム…世人に同情する。世人の心が仏教に浸潤されていることを理解し、
その状況に対応する、の意。
*193:一貫ノ学…聖人の道に関する学問。『論語』里仁に「吾道、一以貫レ之」
。
*194:太虚…天。
*195:老仏…老子と釈迦。道教と仏教。
*196:一貫ノ中ヲ離ズ…聖人の中庸の道と全く別のものであるわけではない。
*197:達人…道に通達した人。
*198:言語…(道教や仏教の)用語。
*199:其外ニセザル…仏教を排斥しないの意。
十有八年辛巳。先生三十四歳。
*200
*201
*202
夏、二三子ト[ト]モニ勢州大神宮ニ参詣ス。此ヨリ前、曾テ以為ク、「神明ハ無上ノ
*203
いわん
至尊也。賤士ニシテ貴人ニ近クスラ、訓瀆ノ恐レアリ。 況 ヤ神明ヲヤ」
。是ヲ以テ終ニ
*204
神ニ詣拝セズ。其后、学日々ニ精微ニ入。故ニ以為ク「士庶人モ亦神ヲ祭ルノ礼アリ
*205
。然ラバ則チ神ニ詣スルコトモナクンバアルベカラズ。且、大神宮ハ吾朝開闢ノ元祖
ナリ。日本ニ生ルヽ者、一タビ拝セズンバアルベカラズ」ト。是ニ於テ詣ス。
*206
秋、『孝経啓蒙』ヲ著ント欲ス。疾ニ依テ又成ズ。明年、終ニ『啓蒙』ヲナス。後、其
説、経旨ニカナワズトシテ、改メ正ント欲ス。然レドモ終ニ果ズ。
もっぱら
おぼゆ
是年、始テ 専 格套ヲ守ルノ非ナルコトヲ 覚 。此ヨリ前、専ラ朱註ヲ尊信シテ、日ニ
*208 らくざい
こうれん
講二明之一、
『小学』ノ法ヲ以テ門人ニ示ス。是故ニ、門人格套ニ 落 在 シ、拘攣日ニ長
*209 きしょう
ジテ、 気 象 漸ク迫レリ。或ハ圭角アリテ同志ノ際、ナヲ融通セズ。一日、門人ニ謂テ
じゅよう
おぼ
曰、「吾、久シク格套ヲ受用シ来ル。近来、漸其ノ非ヲ覚フ。格套ヲ受用スルノ志ハ、
*210 めいり
*211 しんせい
たい
名 利 ヲ求ルノ志ト、日ヲ同シテモ語ルベカラズトイヘドモ、 真 性 活潑ノ体ヲ失フコ
22
ひと
ただ
*212
あと
なず
トハ均シ。只吾人、拘攣ノ意ヲ放去シ、ミヅカラ本 心ヲ信ジテ、其跡ニ泥 ムコトナカ
レ」。門人、大ニ触発興起ス。○一日、門人ニ語テ曰、「昨夜、夢ニ人アリテ、吾ニ
*214 こうもくけん
ごう
*215
すぎ
ただ
みずから
光 嘿 軒 ト云号ヲ授ク。光嘿ノ号、吾ニ過タリ。只嘿軒可ナリ」ト云テ、此ヨリ 自 嘿
*216
ほうゆう
軒ト称ス。今日ニシテ此ヲ思ニ、徳光アリテ下位ニ嘿シタマヘリ。天、何ゾ此ヲ保佑
シタマハザルヤ。
*217
*218
*219
えつ
冬、熊沢伯継来テ業ヲ受ク。秋、始テ来テ、人ヲシテ謁 ヲ請フ。先生、其志ノ真偽ヲ
*220
やま
*221
知ズ。故ニ固クコレヲ辞ス。左、請テ已ズ。先生、書ヲ以テコレヲ辞ス。其 詞曰〔以
なお
あずか
下空白〕。左、尚請テ曰、「タトヒ教ニ 与 ラズトイフトモ、如何ゾ一タビ拝謁スルコト
じょう
たるる
ヲ許サヾル」ト。其 情 甚ダ愁テ涙ヲ 滴 ニ至ル。先生、其情状ヲ聞知シテ、コレヲ憐ミ
、謁スルコトヲ許ス。尚、業ヲ受ルコトヲ許サズ。強テ帰シム。冬、又来テ、固ク請
テ已ズ。是ニ於テ終ニ業ヲ授ク。
寛永十八年(1641 年)。先生三十四歳。
夏、二、三人の男とともに伊勢神宮に参詣された。これより前に、「神様はこの上なく
尊いものである。身分のいやしい者が身分の貴い人に近づくことすら、なれなれしく相
手を汚すものと恐れられる。ましてや神様であれば、なおのことである。」と思われた
。このため、結局は神様に参拝しなかった。その後、学びは日に日に精通されて、「武
士、庶民も神様を祭る礼がある。だから、神様を参拝しないということはあってはなら
ない。さらに、大神宮は皇祖神たる天照大神を祀っているのだから、日本に生まれた者
は、一度参拝しないわけにはいかない」と思われて、この度の参詣となった。
秋、『孝経啓蒙』を著そうと考えられたが、病によってできなかった。あくる年、つい
に『啓蒙』を著した。後になって、経の注解にそぐわないから改正したいと考えたが、
ついに果たせなかった。
この年、ひたすら踏み行うべき形式が守られていないと自覚される。これより以前に、
朱子の注釈を尊び、毎日講義され、『小学』に記された戒めを門人に示していた。この
ため、門人は踏み行うべき形式に縛られ、心の状態が悪くなる者や、性格や言動にかど
があって円満でなくなり、同志で融通しあわなくなる者が生じた。ある日、門人に、「
私は、長らく格套を用いてきたが、ここのところ、それは誤りではないかと思うように
なった。格套を用いるという意図は、名誉と利益を求める思いと同じではないといえど
も、人の心の本性の真実なる姿、すなわち生々活動のかたちを失うことと同じである。
ただ、私は縛り付けることは止める。自己の本心を信じて、後々悩み苦しむことがない
ように。
」と言われた。門人は、大いに触発されて奮起した。○ある日、門人に、「昨夜
、夢に現れた人が私に光嘿軒と言う雅号を授けた。光嘿の雅号は、私には過ぎた雅号だ
。ただ嘿軒ならいいだろう」と言われ、こりからは自分を嘿軒と称した。今にして思う
に、藤樹先生は、徳光を示して下の者には黙していた。天は有徳の君子をたすけて、そ
の徳に相応した地位につけるべきはずであるのに、どうして藤樹先生には実現しなかっ
たのか、誠に残念だ。
冬、熊沢伯継(蕃山)が来て業(仕事)について教えを受けた。秋に来て、ある人の紹
介により藤樹先生に謁見を願い出た。藤樹先生は、謁見の目的が分からなかったので、
固くお断りしたが、熊沢伯継(蕃山)は謁見をお願いし続けた。藤樹先生は、手紙で謁
見を断った。その手紙の詞では、[以下空白]。熊沢伯継(蕃山)はなおも、「たとえ教
23
えを頂けなくても、何卒ひと目拝謁させて下さい。」と、涙を浮かべて謁見をお願いし
た。先生は、その嘆願を聞いて憐れに思い、謁見を許した。尚、業についての教えにつ
いては授けることなく、強いて帰らせた。熊沢伯継(蕃山)は冬にまた来て、強くお願
いし続け、ついに業について教えを授けられた。
*200:ト…内閣本により補入。
*201:勢州大神宮…伊勢神宮。
*202:神明…神。儒教でいう天の神霊と、日本神話にいう神々との、両義を含む。
*203:訓瀆…内閣本「馴致瀆」
。
「馴瀆」の誤記か。なれなれしくして瀆(けが)す。
*204:精微…精密微妙の境地。
*205:吾朝開闢ノ元祖…日本の皇室の祖先。皇祖神たる天照大神を祀る、の意。
*206:孝経啓蒙…『孝経』の注解書。本巻(中江藤樹 岩波)に収録したものは晩年
に改正されたものである。
*207:朱註…朱子(朱熹)の注釈。
*208:落在…陥る。
*209:気象…気性。心の状態。
*210:名利…名誉と利益。
*211:真性活潑ノ体…人の心の本性の真実なる姿、すなわち生々活動のかたち。
*212:本心…人が本来もっている心。『孟子』告子上「此之謂三失二其本心一」
。
*213:跡…形跡。
「心」
(主観的動機)に対し、行為の客観的形態を指す。
*214:光嘿軒…『六韜』の文韜、文師に「嘿嘿昧昧、其光必遠、微哉聖人之徳」とあ
るのに依るか。
*215:吾ニ過タリ…「光嘿」といえば、光輝く徳がありながら黙し隠れている、の意
となるからであろう。
*216:天何ゾ此ヲ保佑…『中庸』第十七章に「詩曰、嘉楽君子、憲憲令徳…受二禄于
天一、保佑命レ之」とあり、天は有徳の君子をたすけて、その徳に相応した地位に
つけるべきはずであるのに、藤樹の場合には実現しなかった、の意。
*217:熊沢伯継…蕃山。1619-1691。伯継はその名。当時は牢人として湖東の蒲生郡桐原
村に住み、貧困の中で勉学に志していた。
*218:秋…内閣本「去秋」
。底本にももと「去」字があって抹消されている。蕃山の入門は
『集義外書』
*219:人ヲシテ…ある人の紹介により。
*220:左…左七郎。蕃山の通称。
*221:其詞曰…このあと底本では白紙半葉の空白あり。この書簡の伝存は不明。
十有九年壬午。先生三十五歳。
*222
*223
春、中村叔貫、来テ始テ業ヲウク。先生、近時専ラ『孝経』ヲ講明シテ、常ニ「愛 敬
*224
もと これ *225
なお
」ノ二字ヲ掲ゲ出シテ、心体ヲ体認セシム。曰、「心ノ本体、原是愛敬的。猶水ノ湿ニ
*226
シタガイ、火ノ燥ニツクガ如シ。只吾人、種々ノ習心・習気ニ凝滞セラレテ、心体ノ
めい おおわ
明 蔽 ル。然レドモ、親ヲ愛シ兄ヲ敬スルノ心、且赤子ヲ見テ慈愛スルノ心ノゴトキハ
*227 はつげん
*228
すなわち
、イマダ滅セズ。時アツテ 発 見 ス。此心ヲ認テ、存養シテ失ザルトキハ、 則 聖人ノ
心也。
」
24
*229 とら
冬十一月、嗣子 虎 生ル。此ヨリ前、二男一女ヲ生メリ。皆、月ヲ踰ズシテ夭ス。
寛永十九年(1642 年)。先生三十五歳。
春、中村叔貫が来て業(仕事)について教えを受けた。藤樹先生は、この頃は専ら『孝経』
を講義され、常に「愛敬」の二字を掲げて、心の本体について、自分のものとして体験的に
会得することをされていた。藤樹先生がおっしゃられるには、「心の本体の根底は、愛敬で
ある。水は湿りに従い、火は乾燥によるものと同じことである。私は、種々の 外物にとら
われた心や気質によって、物事の流れがとどこおって先に進まない状態となって、心体
の光が覆われている。しかしながら、親を愛し、兄を敬う心、赤子を見て慈愛の心が生
じる心は、まだ滅んでいない。時間を経て発現するものである。この心の持ちようを認
めて、保ち養ってなくならないようにすることで、聖人の心持ちとなる。
」
冬十一月、嗣子の虎が生まれた。これより前に、二男一女を生んでいたが、皆、月を跨ぐ
ことなく若死にした。
*222:中村叔貫…内閣本「去秋」
。底本にももと「去」字があって抹消されている。蕃山の
入門は『集義外書』
*223:愛敬ノ二字…『翁問答』上巻之本 24 頁参照。
『孝経』天子章に「親を愛する者はあ
にく
あなど
へて人を悪まず。親を敬する者はあへて人を 慢 らず。愛敬親につかふるに尽して、
のっと
徳教百姓に加はり、四海に 刑 る」
。
*224:心体…心の本体。子心の本来のあり方。
*225:愛敬的…「的」は「底」と同義の助詞。愛敬なるもの。
*226:習心・習気…外物にとらわれた心や気質。
*227:発見…発現。現われ出る。
*228:存養…保ち養う。
*229:虎…幼名虎之助、字は宜伯、通称太右衛門。藤樹の没後、岡山藩に仕え、寛文
四年(1664 年)に没した。
二十年癸未。先生三十六歳。
*230
是年、山田氏・森村氏ノタメニ、
『小医南針』ヲ撰ブ。
*231
*232
秋、中 西常慶、来テ学ヲ問フ。此冬、『詩経』ヲ講ズ。二 南終テ已ム。中西氏モ亦、
あずかり
さき
与 聞。退テ曰、「嘗テ予、洛ニ於テ俗儒ノ講ヲ聞コト久シ。向ニ、先生ノ学、世儒ニ
とく
おおいに
異ナルコトヲ聞テ、疑テ以為ク「何事ヲカ説」ト。今、講ヲ聞テ、 大 驚テ感服ス。」
ト。是ニ於テ、終ニ弟子トナル。
*233
冬、清水氏、来テ業ヲ受ク。
寛永二十年(1643 年)。先生三十六歳。
この年、山田氏と森村氏とのために、『小医南針』を撰んだ。
秋、中西常慶が来て、学について問われた。この冬、『詩経』の国風の周南と召南とを
講じた。中西氏も講義を受けた。中西氏は、講義の後、「今まで、京にて、見識が狭く
25
つまらない学者の講義を聞いてきました。先程の先生の講義は、世俗的で見識のない儒
者とは異なり、「何事を説いているのやら」と疑っていましたが、今こうして講義を聴
いて、大いに驚き、感服しています。」と、言っていた。そして、中西氏は弟子となっ
た。
冬、清水氏が来て、業(仕事)について教わった。
*230:森村氏…名は伯仁。伝記未詳。もと大洲藩士の森村太兵衛と同人か。
*231:中西常慶…通称孫右衛門。伊勢外宮の御師。元禄八年(1695 年)没。
*232:二南…『詩経』国風の周南と召南。
*233:清水氏…名は季格。通称十兵衛。もと大洲藩士。のち西川と改姓。後年『集義
和書顕非』二巻を著して蕃山の学風を批難した。
*234
正保元年甲申。先生三十七歳。
*235
春、森村氏・山田氏ノタメニ『神方奇術』ヲ撰ブ。
*236
夏四月、加世五、来テ業ヲ受ク。
*237
*191
秋八月、岩田長、来テ業ヲ受ク。○是年、始テ『陽 明全集』ヲ求得タリ。コレヲ読デ
いよいよ
、甚ダ触発印証スルコトノ多キコトヲ悦ブ。其学 弥 進ム。○先生、門人ニ語テ曰、「
おくる
*238
かい
もって
*239 こと
予嘗テ、山田氏ニ 送 ニ、三綱領ノ解ヲ 以 ス。其「至善」ノ解ニ曰、「 事 、善ニシテ
こころ
、 心 、善ナラザル者ハ、至善ニアラズ。心、善ニシテ、事、善ナラザル者モ、亦至善
*240 しり
ニ非ズ」ト。此時、予、イマダ支離ノ病ヲ免レズ。故ニ誤テ如レ此解ス」。門人問テ曰、
*241 てきとう
*242
「此解、甚ダ親切 的 当 ナルコトヲ覚フ。如何ゾ以テ支離トス」。先生曰、「心・事、元
これ
是一也。故ニ、事、善ニシテ、心、善ナラザル者ハ、イマダコレアラズ。心、善ニシ
*243
もと
テ、事、善ナラザル者モ、亦イマダコレアラズ」。門人曰、「狂者ノ如キハ、心、元 無
*244
こと
まぬがれ
*245 きょうげん
欲清浄、光明正大也トイヘドモ、其事ハ破綻アルコトヲ 免 ズ。 郷 原 ノ如キハ、其
*246 ちゅうこう
ぶんめい
これ
事ハ 中 行 ノ君子ニ似タリトイヘドモ、其心ハ則チ汚レタリ。分明ニ是、心ト事ト二
し ん り
*247 じい
ツナルニアラズヤ」。先生曰、「然ラバ狂者ノ如キハ、心裏光明ナル時ハ、事為 モ亦光
*248 さし
がいぞう
*249 せこ
かつ
明ニシテ、些子ノ蓋蔵 ナシ。其世故ヲ軽蔑シ、且 尽ク人情ニ合ザルハ、又其心イマダ
精微中庸ノ道ニ入ザルガ故也。其心精微ニシテ、事為ノ破綻アル者ハ、イマダコレア
これ
こ
*250
ラズ。郷原ノ孝弟・忠信・廉潔・無欲ノ如キハ、尽ク是、世ニ媚ビ許 容ヲ求ルノ穢腸
ヨリアラワル、所ノ事也。然ラバ則、其事モ亦善トスベカラズ。其事ノ中行ノ跡ニ似
しかる
あるひと
おおいなるかな
*251
タルヲ以テ善トスル者ハ、功利ノ意也。 然 ニ 或 ノ曰、「此道 大 哉 。盗人モ亦コ レ
26
*252
さきだ
いず
ヲ得ザレバ、巧ヲナスコトアタワズ。入ルコト 先 ツ、勇也。出ルトキ後ルヽハ、義也
わかつ
ひとしき
。 分 トキ 均 ハ、仁也。此三ノ者ヲ得ザレバ、大盗ヲ成スコトアタワズ。是ヲ以テ道
*253
*254
ノ離ルベカラザルコトヲ見ツベシ」ト。此説、笑ヘ悲ムベキ者也」。○一日、門人ニ謂
*255
ようやくつむ
*256 あきらか
テ曰、
「予、曾テ『持敬図説』『原人』ヲ著ス。当時、工夫 寖 積ニ至テ、其説ノ 瑩
ナラザルコトヲ知ル」
。
正保元年(1644 年)。先生三十七歳。
春、森村氏・山田氏のために、
『神方奇術』を撰ばれて講義された。
夏四月、加世五氏が来て、業について教わった。
秋八月、岩田長氏が来て、業について教わった。○この年、『陽明全集』を入手された
。これを読んで、とても触発されてチェックすることが多く悦ばれ、さらに陽明学を修
学された。○藤樹先生は、門人に次のように語られた。「私はかつて、山田氏を送り出
す際、三綱領について説いて贈った。そのとき、「至善」について、「行為のあり方は善
で、心持ちが善でないものは、至善ではない。心持ちが善で、行為のあり方が善でない
者も、至善ではない。」と説いた。この時の私はまだ、事と心とを一体不可分とみるこ
とができない偏向があり、誤って解釈していた。」と。門人は、「その解釈は、とても親
切で的確と思いますが。」と問われ、藤樹先生は次のように言われた。「心と事とは、元
は一つである。したがって、行為のあり方が善で、心持ちが善でない者は、いない。心
持ちが善で、行為のあり方が善でない者も、いない。」と。門人は、さらに次のように
問われた。「論語でいう狂者のような者は、心持ちは元々清く明らかで正しくとも、行
為のあり方はうまく行っていないといいます。また、論語でいう郷原のような世俗に迎
合する偽善者では、行為のあり方は中庸の道をふみ行う君子のようですが、その心持ち
は賊の如くに汚れています。これらから明らかなように、心と行いと、二つあると思う
のですが。」と。藤樹先生は、次のように答えた。「狂者のような者は、心持ちが明らか
であるときは、行為も明らかで、いささかも蓋い隠すところはない。世間のことがらを
軽蔑し、かつことごとく人情に合わないのは、心持ちがいまだ、詳しく緻密に中庸の道
に入っていないためである。だから、心持ちが広く奥深いが行為がうまく行っていない
者はいない。また、郷原のような孝弟・忠信・廉潔・無欲というものは、ことごとく、
世間に媚びて受け容れられようと欲するけがれた心から現れたことである。だから、そ
の行為も善ではない。その行為の中庸の道をふみ行ったような行為をして善とする者は
、行為の結果として得られる名誉や利益のためである。或人が言っていたが、「(聖人の
)道はなんと偉大なことか。盗人もこの道を自分のものにしなくては、成功できない。
入る時はまず勇である。出た後は義である。等しく分かつのは仁である。この三つを習
得すれば、大きな盗みも成功する。このことかも、道から離れないようにすべきである
。」と。この説は笑えるが、悲しむべき者である。」と。○ある日、門人に言われて、藤
樹先生は「私は『持敬図説』『原人』を書く。当時、修養がようやく積めるようになり
、その説を透徹していないからである。
」と言われた。
*234:正保元年…1644 年
*235:神方奇術…医書。写本で伝わる。
*236:加世五…名は次春、字は季弘、号は黙軒。通称八兵衛(「五」は未詳)。大洲藩
士加世七右衛門の子。のち岡山藩に仕え、町奉行を勤めた。二百石。貞享元年(
1684 年)没、六十歳。
*237:岩田長…熊沢蕃山の弟。平戸藩主松浦家に仕え、岩田氏の養子となったが、致
27
仕して藤樹のもとで学ぶ。慶安三年(1650 年)から岡山藩に仕え、姓を泉と改
め名を仲愛、通称を八右衛門といい、禄五百石、学校奉行を勤め、元禄十五年(
1702 年)没、八十歳。
*238:三綱領ノ解…三綱領は、『大学』の最初に記された「明 二明徳一、親レ民、止二於
至善一」を指す。文集収録の漢文の書簡「送二山田子一」の中に見える。
*239:事…事跡。行為のあり方。
*240:支離ノ病…事と心とを一体不可分とみることができない偏向。
「支離」は、ばら
ばらの意で、陽明学の立場から朱子学を批判する場合の常套語。
*241:的当…的確に妥当する。ぴったり。
*242:心・事…心と事とは。
*243:狂者…『論語』子路「子曰く、中行を得て之に与せずんば、必ずや狂狷か」の
朱注に、
「狂者、志極高而行不レ掩」
*244:清浄光明…清く明らか。
*245:郷原…世俗に迎合する偽善者。『論語』陽貨に「郷原は徳の賊なり」。
*246:中行…中庸の道をふみ行う。
*247:事為…行為。
*248:些子ノ…いささかも蓋いかくすところはない。
*249:世故…世間のことがら。風俗習慣。
*250:許容ヲ求ル…世間に容れられんとする。
*251:コレヲ得ザレバ…(聖人の)道を自分のものにしなくては。
*252:巧ヲナス…成功する。
*253:離ルベカラザル…『中庸』第一章「道なる者は須臾も離るべからざるなり」
。
*254:笑ヘ…内閣本「笑ヘシ」
。
*255:工夫…修養。またそのための心のはたらかせ方。
*256:瑩ナラザル…透徹していない。
二年乙酉。先生三十八歳。
*257
今年ノ冬、経書切要ナル語ヲヱラビ挙テ、解ヲナシ、同志ノ益ヲトル便トセント欲シ
わずか
ばかり
テ、十一月ヨリ稿ヲ始、 纔 ニ一葉 計 ニシテ、終ニ成ズ。
正保二年(1645 年)。先生三十八歳。
この年の冬、経書のきわめて重要な言葉を選び挙げて、解説し、同志の修養上に有益と
なることを望まれて、十一月より原稿を書き始めたが、わずか一頁ばかりで、書き上が
ることはなかった。
*257:益ヲトル…修養上の利益を得る。
三年丙戌。先生三十九歳。
*258 なべ
*259
*260 わけべ
*261 まみ
春正月二十五日、二男 鐺 生ル。春、仲条太、来学レ医。○是年、郡主 分 部 伊賀守ヲ見
*262
しゆ
ユ。先生ノ徳アルコトヲ聞、見ンコトヲ乞フ。邑宰、先生ニ強 。先生、固ク辞ス。后
たい
、已ムコトヲ不レ得シテ見ユ。先生ヲ待スルコト頗ル礼アリ。然レドモ終ニ道ヲ問コト
28
ナシ。
夏四月三十日。夫人高橋氏死。年二十六。
正保三年(1646 年)。先生三十九歳。
正月二十五日、二男の鐺が生まれた。春、仲条太が来て、医学を学ばれた。○この年、
郡主の分部伊賀守が会見した。藤樹先生には徳があることを聞いて、会見を請われた。
村の庄屋は先生に強く勧めたが、先生は固く辞退した。後になって、やっと会見でき、
先生を待っている間、たいそう礼があったが、ついに道について問うことはなかった。
夏の四月三十日、夫人の高橋氏が亡くなられた。年は二十六であった。
*258:鐺…「鐺」は「鍋」と同義。幼名鍋之助、名は仲樹、通称藤之丞。岡山藩に仕
え、近習として百五十石を与えられたが、寛文五年(1665 年)京都で病死、二
十歳。
*259:仲条太…未詳。
*260:分部伊賀守…大溝藩主分部嘉治。近江国高嶋・野洲両郡のうち二万石を領し、
万治元年(1658 年)没、三十二歳。
*261:ヲ見ユ…内閣本「ヲ見ル」。或いは「ニ見ユ」の誤記か。
*262:邑宰…村の庄屋。
*263
私ニ記
四年丁亥。先生四十歳。
*264
*265
秋九月、継室別所氏ノ女ヲ娶ル。
*266
*267
***一行墨消*** 戊子七月四日、三男弥生ル。
*268
*269
*270
〔秋、『鑑草』刊行。先生、嘗テ『翁問答』両部ヲ著ス。然レドモ学日ニ進ニ至テ、此
問答、愈其心ニ叶ハズ、改正ノ志有ケレバ、博ク門人ニダニ授ケ玉ワズ。然ルニ癸未
*271 し
*272 はんや
ノ年、梓人ノ手ニモレテ既ニ 梓 ニチリバメシヲ、幸ニ早ク知テ、是ヲ破ル。 板 屋 、
*273 じょちゅうがた
*274
迷惑ナルヨシヲ再三歎クニ依テ、損ノツグノヒニトテ、 女 中 方 ノ勧戒ノ為ニ、嘗テ
著シ置玉フ書ヲ『鑑草』ト題シ、彼ニ授ク。
〕
編者による追記
正保四年(1647 年)。先生四十歳。
秋九月に、大溝藩士別所友武の娘を後妻に娶った。
***一行墨消***慶安元年(1648 年)七月四日、三男の弥が生まれた。
〔秋、『鑑草』を刊行した。藤樹先生は、かつて『翁問答』上下二巻を著したが、学び
が進むにしたがって、この問答について、ますます考えていることと違い、改正を考え
ており、門人には授けて居なかった。しかしながら、寛永二十年、出版業者の手に渡っ
て既に板刻されていたが、幸い早く知って、これを破棄した。出版業者はひどく迷惑が
って歎いたので、損の償いとして、婦人用に戒めを勧めるためにかつて著しておいた書
を、
『鑑草』と題して、出版業者に授けた。〕
*263:私ニ記…編者による追記、の意であろう。この前に、底本では白紙一葉を置い
29
ている。
*264:秋九月…「娶ル」まで墨筆で抹消されており、小川喜代蔵・加藤盛一両氏によ
って判読されたものである。ただし「女」字の右傍に「?」が附せられている。
*265:継室…後妻。大溝藩士別所友武の娘。
*266:戊子…慶安元年(1648 年)
*267:弥…通称弥三郎、字は季重、常省と号した。母は大溝藩士別所の娘。九歳の時
から岡山藩に仕え、兄仲樹の家督を継いで学校奉行などを勤めたが、中年に至っ
て致仕し、郷里ならびに京都で学問を講じ、のち対馬藩に客分として迎えられ、
子の藤助に二百石を給せられた。宝永六年(1709 年)没。子孫は対馬藩に仕え
、藤樹の家系を伝えた。
*268:秋鑑草~…以下の記事は内閣本により補う。
*269:鑑草…六巻。女子のための和文の教訓書。孝行・貞節などの徳目に関する応報
の例話が中心をなし、大部分は明の顔茂猷著『廸吉録』による。
*270:両部…上下二巻。
*271:梓ニチリバメシ…板刻した。
*272:板屋…出版業者。正保四年版『鑑草』の奥書には「風月宗知刊行」とする。
*273:女中…婦人。女性。
*274:嘗テ…著作年次は不明。
慶安元年戊子。先生四十一歳。
*275
秋八月二十有五日、朝卯時、先生、藤樹ノ下ニ卒。
慶安元年(1648 年)
。先生四十一歳。
秋八月二十五日、朝の六時頃、先生は、藤樹の下でお亡くなりになられた。
*275:卯時…午前六時頃。
30